今週は、一・二年生の期末テストと、受験生の国立前期入試(多くは25日)が重なった関係で、塾の休みが増え、これを書く時間もたっぷりあるので、続けてこれについても書いておきたいと思います。
あまり長いものではないので、サンケイのその記事を全文引用しておきます。
早大入試で偏向的出題 国旗国歌「教育にふさわしくない」(2012.2.21)
【早稲田大学法学部が15日に実施した入学試験で、学校行事での国旗国歌をめぐる教員の不起立訴訟を取り上げ、国歌斉唱時の起立強制はふさわしくないとする問題文を出題していたことが20日、分かった。最高裁判例では起立しない教員への職務命令は合憲とされており、識者は「偏向的で不適切だ」と指摘している。
出題されたのは選択科目の「政治・経済」で、問題文は「日の丸・君が代が戦前の日本の軍国主義下でのシンボルと考える人々にとっては、君が代に敬意を払えという命令は自己の思想に反すると感じられる」と指摘。「教育には強制はふさわしくないのではなかろうか」と結論づけた。
また「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」と記述し、入学・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱の指導を義務付けた文部科学省の学習指導要領に明確に反する主張を展開した。
不起立訴訟をめぐっては、東京都教育委員会の懲戒処分取り消しを求めた訴訟で、1月16日に最高裁が「戒告までは処分権者の裁量の範囲内」と、初の処分基準を示したばかりだ。
早大法学部の出題を受け、都教委は今月17日、都立進学校36校に、受験した人数の報告を依頼した。都教委は過去問題の分析集作成などに必要と判断したほか、「受験生や保護者が不安になったり、問い合わせがあったりする可能性があり、把握すべきだと考えた」と説明している。
早大広報室は「入試問題の内容についてはコメントしない」としている。
教育評論家の石井昌浩氏は「最高裁判例をはみ出した偏向的な問題文だ。入試問題を通した洗脳教育とも解釈でき、極めて不適切だ」と指摘している。】
ふむふむ。産経新聞がご立腹されるのは尤もです。これだけではその文章の細かいところまではわかりませんが、この入試出題文の筆者の考えは僕の考えとよく似ているようで、それはサンケイ的な“愛国”の見地からすればけしからんものであろうことは、よくわかるからです。
この記事で僕が何より驚いたのは、東京都教委の異常な反応です。「都立進学校36校に、受験した人数の報告を依頼した」とは何事か。教員の「日の丸・君が代」起立問題訴訟を多く抱えている都教委としては、自分たちが行なった教員の大量処分に正面から異を唱えるものと映って、ほうってはおけないということなのでしょうが、それにしても「受験生や保護者が不安になったり、問い合わせがあったりする可能性があ」るとは、どういうことなのでしょう?「最高裁判例では起立しない教員への職務命令は合憲とされ」たのに、またそもそも「入学・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱の指導」は「文部科学省の学習指導要領」によって「義務付け」されてもいるのに、そうした国策を批判するような文章を平然と入試問題に用いるとは言語道断で、大学には決して許されないことだ、とでも言うつもりなのでしょうか。
でもねえ、早稲田大学というのは、そうでない卒業生の方が実際は多いかも知れませんが、元々が「反権力」のイメージで売ってきた大学なのですよ。今はどうか知りませんが、少なくとも昔は、それでアナーキーで反抗的な若者を多く吸引してきたので、上京に当たって父親から「人に逆らうな!」という訓戒を垂れられた田舎の不良文学少年だった僕など、「自分が行くところはあそこしかない」と勝手に思い込んでいたくらいです。実際に入ってみると、東大文Ⅰ落ちの元秀才お坊ちゃんがやたらと多かったりして(最近は落ち目で、滑り止めの座も慶応に奪われてしまったという話ですが)、そのあたりいくらか拍子抜けしたのですが、自由気ままな雰囲気は濃厚にあって、たいそう居心地はよかった。貧乏学生の僕は生活費稼ぎのアルバイトに多忙だったのと、怠惰なせいで講義にはほとんど出席しなかったので、どんな授業が行なわれていたのかはあまりよく知らないのですが、学生の間では遠慮会釈のない議論が交わせる雰囲気があって、それが面白かった。法学部なのに、法律論ではなく、テツガクや思想をめぐる談義の方が、少なくとも僕の周囲では多かったのですが。
話を戻して、だからそういう大学の入試に「反国家主義的」な文章が出題されたからといって、何も目くじら立てるには及ばないし、そもそも大学には「学問の自由」というものがあったはずでしょう? 最高裁の判決がどうだろうと、そんなものが何だと言うのですか? 最高裁が真理の最終判定者だというのならまた話は別でしょうが、最高裁の判決は政治や行政に関わる事案ではその時々の国策に沿った保守的・体制的な「偏向」を見せるのがむしろふつうで、条理にかなったまともな判決は下級審の方が多かったりするのです。これは、少なくとも法律学を学んだことのある人間には常識に類したことだろうと思います。
従って、「教育評論家の石井昌浩氏は『最高裁判例をはみ出した偏向的な問題文だ。入試問題を通した洗脳教育とも解釈でき、極めて不適切だ』と指摘している」とありますが、「最高裁判決をはみ出し」ているから「偏向的」だというのは、たんなる体制的思想統制論者の言いがかりでしかないし、「入試問題を通した洗脳教育」にいたっては、よくもそこまで大げさな決めつけができるなと呆れる他ありません。サンケイのこの記事だって「新聞という公器を利用した国家主義的洗脳教育」だと言えなくはないだろうからです。まあ、サンケイは右翼の新聞だと思われていて、大方の読者はそれを承知して読むから、そこまでの害はないと思いますが。
それでも、「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」という記述などは、それなら「国家への敬愛の念を抱」くのは悪いのか、という論難を招くかも知れません。それが「教育には似つかわしくない」というのは、露骨な「愛国心教育」への反対で、それはやはり「亡国」的な言論ではないのかと。
この点に関しても、「いいこと言ってるな」と僕は思います。僕は「国家」と「国民」は別だと考えています。「国家」は本来「国民」を守るためにある機構のはずですが、しばしば逆になって、イデオロギー、権力構造体である「国家」を守るために、「国民」が奉仕し、犠牲にされるというパターンが、これまで繰り返されてきたからです。僕自身はそのような身勝手な「国家」に対する「敬愛心」などは持ち合わせていません。教育でそんなおかしなものを子供たちに吹き込むのも間違いだと思っています。意図的な「愛国心」教育というものは、「国家」と「国民」のその区別を曖昧にしたまま、現実にはそのときの権力構造体でしかない「国家」への忠誠を強いるものです。「おまえには同胞に対する愛や自己犠牲の覚悟はないのか!」という道徳的脅しを散らつかせながら。それはペテンに類した非常に卑劣で醜悪な論理です。
前にもそれについてはちょっと書いたことがありますが、人類はそろそろそういう偏頗な「国家」観念から離脱すべきときではありませんか。ボーダーレスの時代になって、実際に多くの異人種異国民が個人レベルで行き来するようになり、人々が互いに親しみや共感を抱けるようになった今、硬直した旧式の国家観念をふりかざして、わざわざ排他的・自閉的な「愛国心」を強化してそれを分断しようとすることには害しかありません。今の政治的経済的システムからして「国家」をすぐに消すことはできませんが、それは仮の「線引き」でしかないのだと承知してつきあうのが、一番建設的で健康な行き方ではありませんか。僕はそう思うのです。
この入試問題文は何も非難されるようなものではない、むしろワセダらしくていい、久々に元気なところを見せてくれたなと、僕個人はOBの一人として好感をもってこれを受け止めました。暗記物が苦手で、年号や細かい固有名詞が憶えられなかった僕は、入試の選択科目を「政治・経済」にしていました。だから、自分が今受験生なら、その問題を試験場でこの目で見ることになったわけです。同じように政経を選択してこの問題に遭遇し、「こんな文章を出すとはけしからん!」と憤慨した“愛国”的受験生がどれだけいたのか、それを知りたい気がちょっとします。
あまり長いものではないので、サンケイのその記事を全文引用しておきます。
早大入試で偏向的出題 国旗国歌「教育にふさわしくない」(2012.2.21)
【早稲田大学法学部が15日に実施した入学試験で、学校行事での国旗国歌をめぐる教員の不起立訴訟を取り上げ、国歌斉唱時の起立強制はふさわしくないとする問題文を出題していたことが20日、分かった。最高裁判例では起立しない教員への職務命令は合憲とされており、識者は「偏向的で不適切だ」と指摘している。
出題されたのは選択科目の「政治・経済」で、問題文は「日の丸・君が代が戦前の日本の軍国主義下でのシンボルと考える人々にとっては、君が代に敬意を払えという命令は自己の思想に反すると感じられる」と指摘。「教育には強制はふさわしくないのではなかろうか」と結論づけた。
また「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」と記述し、入学・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱の指導を義務付けた文部科学省の学習指導要領に明確に反する主張を展開した。
不起立訴訟をめぐっては、東京都教育委員会の懲戒処分取り消しを求めた訴訟で、1月16日に最高裁が「戒告までは処分権者の裁量の範囲内」と、初の処分基準を示したばかりだ。
早大法学部の出題を受け、都教委は今月17日、都立進学校36校に、受験した人数の報告を依頼した。都教委は過去問題の分析集作成などに必要と判断したほか、「受験生や保護者が不安になったり、問い合わせがあったりする可能性があり、把握すべきだと考えた」と説明している。
早大広報室は「入試問題の内容についてはコメントしない」としている。
教育評論家の石井昌浩氏は「最高裁判例をはみ出した偏向的な問題文だ。入試問題を通した洗脳教育とも解釈でき、極めて不適切だ」と指摘している。】
ふむふむ。産経新聞がご立腹されるのは尤もです。これだけではその文章の細かいところまではわかりませんが、この入試出題文の筆者の考えは僕の考えとよく似ているようで、それはサンケイ的な“愛国”の見地からすればけしからんものであろうことは、よくわかるからです。
この記事で僕が何より驚いたのは、東京都教委の異常な反応です。「都立進学校36校に、受験した人数の報告を依頼した」とは何事か。教員の「日の丸・君が代」起立問題訴訟を多く抱えている都教委としては、自分たちが行なった教員の大量処分に正面から異を唱えるものと映って、ほうってはおけないということなのでしょうが、それにしても「受験生や保護者が不安になったり、問い合わせがあったりする可能性があ」るとは、どういうことなのでしょう?「最高裁判例では起立しない教員への職務命令は合憲とされ」たのに、またそもそも「入学・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱の指導」は「文部科学省の学習指導要領」によって「義務付け」されてもいるのに、そうした国策を批判するような文章を平然と入試問題に用いるとは言語道断で、大学には決して許されないことだ、とでも言うつもりなのでしょうか。
でもねえ、早稲田大学というのは、そうでない卒業生の方が実際は多いかも知れませんが、元々が「反権力」のイメージで売ってきた大学なのですよ。今はどうか知りませんが、少なくとも昔は、それでアナーキーで反抗的な若者を多く吸引してきたので、上京に当たって父親から「人に逆らうな!」という訓戒を垂れられた田舎の不良文学少年だった僕など、「自分が行くところはあそこしかない」と勝手に思い込んでいたくらいです。実際に入ってみると、東大文Ⅰ落ちの元秀才お坊ちゃんがやたらと多かったりして(最近は落ち目で、滑り止めの座も慶応に奪われてしまったという話ですが)、そのあたりいくらか拍子抜けしたのですが、自由気ままな雰囲気は濃厚にあって、たいそう居心地はよかった。貧乏学生の僕は生活費稼ぎのアルバイトに多忙だったのと、怠惰なせいで講義にはほとんど出席しなかったので、どんな授業が行なわれていたのかはあまりよく知らないのですが、学生の間では遠慮会釈のない議論が交わせる雰囲気があって、それが面白かった。法学部なのに、法律論ではなく、テツガクや思想をめぐる談義の方が、少なくとも僕の周囲では多かったのですが。
話を戻して、だからそういう大学の入試に「反国家主義的」な文章が出題されたからといって、何も目くじら立てるには及ばないし、そもそも大学には「学問の自由」というものがあったはずでしょう? 最高裁の判決がどうだろうと、そんなものが何だと言うのですか? 最高裁が真理の最終判定者だというのならまた話は別でしょうが、最高裁の判決は政治や行政に関わる事案ではその時々の国策に沿った保守的・体制的な「偏向」を見せるのがむしろふつうで、条理にかなったまともな判決は下級審の方が多かったりするのです。これは、少なくとも法律学を学んだことのある人間には常識に類したことだろうと思います。
従って、「教育評論家の石井昌浩氏は『最高裁判例をはみ出した偏向的な問題文だ。入試問題を通した洗脳教育とも解釈でき、極めて不適切だ』と指摘している」とありますが、「最高裁判決をはみ出し」ているから「偏向的」だというのは、たんなる体制的思想統制論者の言いがかりでしかないし、「入試問題を通した洗脳教育」にいたっては、よくもそこまで大げさな決めつけができるなと呆れる他ありません。サンケイのこの記事だって「新聞という公器を利用した国家主義的洗脳教育」だと言えなくはないだろうからです。まあ、サンケイは右翼の新聞だと思われていて、大方の読者はそれを承知して読むから、そこまでの害はないと思いますが。
それでも、「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」という記述などは、それなら「国家への敬愛の念を抱」くのは悪いのか、という論難を招くかも知れません。それが「教育には似つかわしくない」というのは、露骨な「愛国心教育」への反対で、それはやはり「亡国」的な言論ではないのかと。
この点に関しても、「いいこと言ってるな」と僕は思います。僕は「国家」と「国民」は別だと考えています。「国家」は本来「国民」を守るためにある機構のはずですが、しばしば逆になって、イデオロギー、権力構造体である「国家」を守るために、「国民」が奉仕し、犠牲にされるというパターンが、これまで繰り返されてきたからです。僕自身はそのような身勝手な「国家」に対する「敬愛心」などは持ち合わせていません。教育でそんなおかしなものを子供たちに吹き込むのも間違いだと思っています。意図的な「愛国心」教育というものは、「国家」と「国民」のその区別を曖昧にしたまま、現実にはそのときの権力構造体でしかない「国家」への忠誠を強いるものです。「おまえには同胞に対する愛や自己犠牲の覚悟はないのか!」という道徳的脅しを散らつかせながら。それはペテンに類した非常に卑劣で醜悪な論理です。
前にもそれについてはちょっと書いたことがありますが、人類はそろそろそういう偏頗な「国家」観念から離脱すべきときではありませんか。ボーダーレスの時代になって、実際に多くの異人種異国民が個人レベルで行き来するようになり、人々が互いに親しみや共感を抱けるようになった今、硬直した旧式の国家観念をふりかざして、わざわざ排他的・自閉的な「愛国心」を強化してそれを分断しようとすることには害しかありません。今の政治的経済的システムからして「国家」をすぐに消すことはできませんが、それは仮の「線引き」でしかないのだと承知してつきあうのが、一番建設的で健康な行き方ではありませんか。僕はそう思うのです。
この入試問題文は何も非難されるようなものではない、むしろワセダらしくていい、久々に元気なところを見せてくれたなと、僕個人はOBの一人として好感をもってこれを受け止めました。暗記物が苦手で、年号や細かい固有名詞が憶えられなかった僕は、入試の選択科目を「政治・経済」にしていました。だから、自分が今受験生なら、その問題を試験場でこの目で見ることになったわけです。同じように政経を選択してこの問題に遭遇し、「こんな文章を出すとはけしからん!」と憤慨した“愛国”的受験生がどれだけいたのか、それを知りたい気がちょっとします。
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