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タテマエだけで教育を語るな(付:現実的高校「改革」私案)

2012.02.22.20:28

 巧言令色、鮮(すく)ナイカナ仁。

 あるいは、「巧言令色ハ、仁鮮ナシ」と読むのか、どちらだったのか、どちらでもいいのか忘れましたが、僕の頭にまっ先に浮かんだのは、昔『論語』で見たこの言葉です。「弁舌もさわやかに、優しげな表情で近づく者には、まごころがない」というような意味だったかと思うのですが、過日、宮崎県教育委員会が発表した「宮崎県立高等学校教育整備計画(案)」は、まさにその典型のように思われます。「魅力と活力ある宮崎の高等学校教育の創造」と銘打ってはいるものの、空疎な美辞麗句にのみ終始して、中味はまるでないからです。「よくもこんなものを…」といくらかの期待をもって読み始めた僕は、そのあまりの太平楽ぶりにすっかり呆れてしまいました。

 上記をクリックしてごらんになればわかるように、県教委は目下(1.30~2.27まで)、このA4版本文22ページに及ぶ作文に対する「県民の皆さんのご意見」を募集中なのです。笑えるのは、「(4)その他」として下にこう注記されていることです。

【1.いただいたご意見の内容について、電話、メールなどにより確認させていただく場合があります。
 2.記載していただいた個人情報は公表しません。また、今回の意見募集以外の目的で使用いたしません。
 3.いただいたご意見とそれらに対する県教育委員会の考え方を、募集期間終了後に、宮崎県ホームページでお知らせする予定です。
 ただし、意見募集の対象としている計画(案)に関係のないご意見などに対しましては、県教育委員会の考え方をお示しできない場合があります。】

 これ、どういう意味かおわかりですか? 1と2はあたりまえとして、問題は3の但し書きです。具体性はほとんどゼロに近いので,「ご意見」の書きようもないのですが、無理に関連付けて、たとえば僕がかねて主張している課外授業の見直しについて意見を書いたとしても、それは「意見募集の対象としている計画(案)に関係のないご意見」ということにされて、「県教育委員会の考え方をお示しできない場合」に該当してしまうのです。「お示しできない場合があります」というのは、それには答えないという意味です。いわゆる「お役所文書」の読み方というものがあって、「場合がある」というのは、この場合だと「答えない」という意味なのです(げんに僕は前に一度、このブログに書いた文――「延岡の高校」の項に分類――をメールで県教委に送ったことがあるのですが、何の音沙汰もなかったのです)。

 今から予言しておきますが、これはだから「やらせ」に等しい「県民の皆様の前向きのご意見」だけ集めて、それを県教委の優等生的な返答と一緒に発表して、「ご協力への感謝」を述べ、それで終わりということになってしまうでしょう。電力会社の原発説明会でのやらせ質問と、それを受けた返答と同じようなものになってしまうわけです。

 その空疎な美辞麗句ぶりの実例を少しご紹介しましょう。「計画」2ページ目には「目指す高校生像」(お役所が勝手にこんなものを作って押しつけるという発想自体がどうかと思うのですが)として、次のようなことが書かれています。

【○ 夢や希望を抱き、生涯にわたって自己実現を目指す高校生
 ○ ふるさとを愛し、地域や社会の発展に主体的に参画する高校生
 ○ グローバルな視野をもって考える高校生

 この「目指す高校生像」を実現するためには、
① 基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力である確かな学力
② 自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心などの豊かな人間性
③ たくましく生きるための健康や体力
 など、知・徳・体のバランスのとれた力である「生きる力」を育む教育をさらに推進することが必要です。中でも、生徒一人一人の社会的・職業的自立に向け、必要な基盤となる能力や態度を育てる「キャリア教育」の充実を図ることが一層重要になります。
 本計画では、「目指す高校生像」の実現に向けて、その方向及び取組を示します。】

 僕のような育ちの悪い関西人は、こういう空々しいタテマエだけのご立派な文章を読まされるとジンマシンが出そうになってしまうのですが、それは我慢するとして、「実現に向けて、その方向及び取組を示します」とあるので、その先に少しは具体的なことも書かれているのだろうと思ってしまいます。しかし、さにあらず、タマネギの皮をむくようなもので、どこまで行ってもそのような記述にはお目にかからないのです。抽象的な文言と共に「努めます」とか「推進します」とかいう言葉が連発されるだけで、具体的に何をどうするのか、さっぱりわからない。よく「机上の空論」と言いますが、ここまでそれに“徹底”した駄文も珍しいと思えるほどです。

 率直に言って、このような無内容な「計画」を「策定」するというのは、税金の無駄づかい以外の何ものでもありません。

 唯一僕に役立ったのは、「参考資料4」の「中学校卒業者数の推計」というデータで、これによれば宮崎県の中学卒業者数はこの四半世紀で半減したというのがわかります。要するに、子供の数が激減しているのです。延岡市の場合は、「東臼杵地区」に分類されるのですが、その地区の数値を見ると、平成元年には4557人だったそれが、平成23年には2337人に減っている。二十一年間でほぼ半減したわけですが、減少は今後も続き、「推計」によれば、それは平成34年には1915人にまで減るのです。

 今は多くの地方自治体が同じ悩みを抱えているのだろうと思いますが、こうしてあらためて見ると、それはショッキングな減り方です。「静かなる滅亡」が進行しているのだと言っても過言ではない。

 しかし、春うららのこの麗しい「宮崎県立高等学校教育整備計画(案)」には危機感もなければ、本気で「魅力と活力ある宮崎の高等学校教育の創造」を行おうという意欲もまるで感じられない。「巧言令色」と評する他はないのです。

 延岡(宮崎県全体がそうだと思いますが)は子育てには非常によい環境です。近くに海もあれば川も、山もある。自然環境が豊かで、温暖です。人情は温厚で、トゲトゲしいところがない。街の規模もちょうどいい大きさで、人の距離感は近すぎず遠すぎず、住んでいて不便を感じることもない。しかし、問題なのは高校――僕が言っているのは二つの普通科高校――で、どちらもお勧めできない。どうしてお勧めできないのかは「延岡の高校」に分類した記事のいくつかを読んでいただければわかりますが、本来なら「抜群の教育環境」が売りにできて、企業誘致の際などにも「社員の子弟によい教育が受けさせられる」というのは大きなセールスポイントになるはずですが、おかげで台無しになっているのです。その自覚がこの「計画案」なるものには完全に欠落している。

 もはや橋下徹の登場を待つほかないのでしょうか? 僕は橋下教育改革の内容にはかなりの疑問をもつ者ですが(このブログの「『君が代』起立は民主主義か?」2011.5.20をご参照下さい)、ああいう「壊し屋」でも出てきてくれないことには、これはもうどうしようもないのではないかと思ってしまうのです。

 「どうしようもない」のは承知で今一度書いておきたいと思うのですが、僕は半ば以上義務感のようなものからこうしているので、少しは聞く耳をもっていただきたいものです。この「計画」の3ページ目、「Ⅰ 魅力ある高等学校教育の推進」には、「基本的な考え方」として、「急速に変化する社会や生徒の多様化に適切に対応するためには、一人一人の学ぶ意欲や学力を向上させるとともに、豊かな心や健やかな体を育成し、主体的に未来を切り拓いていくための基盤を養う高等学校教育の一層の質の向上が必要です」とあります。

 そのこと自体には誰も異論がないでしょうが、問題は、延岡の県立普通科高校(他の商業・工業などの職業科高校はもっと伸び伸びしているのだろうと思うのですが)の実態を見るかぎり、「急速に変化する社会や生徒の多様化に適切に対応」しようとする学校側の姿勢など感じられないということです。「主体的に未来を切り拓いていくための基盤を養う」にいたっては、よく言うよと苦笑させられるのみです。なぜなら、延岡高校、延岡星雲高校の生徒たちは、「この学校には何を言っても無駄だ」と感じていて、「主体的に未来を切り拓いていく」意欲どころか、逆の「諦め」を植えつけられてしまうのではないかと懸念されるからです。

 僕には信じがたいことですが、延岡高校なんか、「冬場のマフラー禁止(女子はコート着用時、マフラーをコートの内側にたくし込む形でのみ使用可)」のナンセンスな校則ですら、生徒からの再三の要望にもかかわらず、譲れば「学校の権威が損なわれる」とでも思い込んでいるのか、いまだに撤廃しないのです。また、文科省や県教委からそんな通達が来ているからなのでしょうが、これらの学校は一応生徒にアンケート(しかし、記名です)を書かせますが、その内容に誠実な返答を返すことはゼロなのです。前に塾にいた生徒(延岡高校理数科の真面目な女生徒)は、毎回「朝課外を廃止してほしい」「宿題を減らしてほしい」と書いていたそうですが、何の応答もなかったそうで、そのまま卒業してしまいました。こういう経験を重ねると、「主体的に未来を切り拓いていく」なんてのは、全くの幻想だと思ってしまうでしょう。彼らはたんに「こういうことをやって生徒の意見収集にも“努めて”います」という学校側の「アリバイ工作」に利用されているだけなのです。これが、教育者のやることですか(念のために申し添えておきますが、僕は何でも生徒の言うとおりにしろと言っているのではありません。誠実な対応をしろと言っているのです。駄目なら、これはこういうわけで聞けない話なのだと、ちゃんと理由を説明して生徒側を納得させるのがまともな教師のやることです)。

 ついでだから、一つトンデモ話を披露させてもらうと、この「計画」は「道徳教育の充実」(p.5)も強調していて、「豊かな情操と寛容の心、道徳心や公共の精神などの豊かな心」の育成も目標の一つにしているらしいのですが、「道徳教育のエキスパート」を勝手に自認しているらしい延岡高校のある中年教師(生活指導担当?)は昨年、二度にわたって一年生の全体集会に出席し、愚にもつかない「道徳訓話」をぶちながら、「(彼が個人的にけしからんとみなす生徒たちを指して)こういう奴らは放射能だ!」と叫び、あっけにとられる生徒たちに向かって、「真面目(これまた彼独自の定義による)な生徒がビフィズス菌になって放射能を退治」するよう命じた(厳粛な顔つきで!)という話です。むろん、福島原発事故以後のことで、しかも二度も同じようなことを言っているのです(都会のいわゆる「荒れた底辺高校」などとは違って、延岡高校は地域の名門で、度外れの不良なんてものはそもそもいないのだということを、外部の読者には申し添えておかねばなりません)。これは授業でむやみやたらとキレて怒鳴り散らし、生徒を恫喝し、机を蹴飛ばし(それも理解しがたい些細な理由が多い)、職員室に帰って“職場放棄”することが多いというのでも有名な教師です。ある生徒は、「放射能を“腸に優しい”ビフィズス菌で退治する」という理屈の非科学性とその頭の悪さにも呆れたと言っていましたが、この教師の考える「道徳」には、「豊かな情操と寛容の心、道徳心や公共の精神などの豊かな心」など、到底あるようには見えないのです。ただただヒトラーみたいな自分に生徒がおとなしく服従するのが「道徳」だと思っているわけで、僕はこれまで生徒から「早くいなくなってほしい」という言葉を幾度聞いたかわからない(在任が長いので、たぶん百回は超えているでしょう)ほどですが、こういうトンデモ教師を公費で養っているというのは、いかがなものでしょう。宮崎県は選定基準のよくわからない「スーパーティチャー」制度というのを設け、それを自慢にしているのですが、これはその「スーパーティチャー」の一人なのですよ。呆れてものが言えません(わが子からこの話を聞いて仰天したという親は少なくないのですが、僕はずっと前からその教師の異常さには気づいていたので、彼ならその程度のことは十分ありうると別に驚きませんでした。ちなみにこの教師、親や第三者にはやたらと愛想がよくて、二枚舌でも有名なのです)。

 真剣に「改革」を考えるなら、現実を踏まえた上で議論しなければなりません。僕は前に県教委にメールを送ったとき、星雲高校の「指導」のひどさ(現三年生に対する)は目に余るので、一度生徒や親たちから直接聞き取り調査をしたらいかがですかと書き含めました。しかし、それをやったような形跡はまるでないのです。教育委員会と学校は馴れ合いの関係が成立しているので、そんなことはできないということなのでしょう。そういう組織体に、しかし、一時波風が立つのは避けられない「改革」などできるでしょうか。

 できるのは、たとえばこういうことだけです。この「計画」にも『「キャリア教育』等のより一層の充実・推進」がうたわれていますが、それはどこかの功成り名遂げた偉いさんを学校に招いて、その「有難いお話」を聴かせるとか、地元の宮崎大学にバスで連れて行って特別授業を受けさせるとか、病院その他でボランティア活動を経験させるとか、そういうのは年に一度ぐらいずつですが、させるのです。そうやって「社会的・職業的自立の基盤となる能力や態度を育成」しているつもりなのです。

 しかし、課外と部活、それに芸もなく量ばかり多い宿題に忙殺され、睡眠時間は4、5時間という生徒たちは、そうしたことを「儀式」のように受け取っているだけで、そこから「社会的・職業的自立」へのヒントを得た、なんてのは限りなくゼロに近いでしょう。今はインターネットの時代なので、面白い講演を聴きたければ、Youtubeでよいものがいくらでも見つかります。本や雑誌、新聞を読んでいれば、世の中の動きもわかって、そういうことの中から、「こういうことをやってみたい」というのが自然に出てくるでしょうが、宿題に忙殺される毎日では、満足にそんなゆとりはもてないのです(僕が生徒の小論文指導をしていていつも残念に思うのは、彼らの多くは教科書勉強以外のことに関しては小学生並の知識や理解しかもっていないということです。とくに「真面目な」生徒ほどそれが目立つ)。彼らはそのあまりのゆとりのなさから、仕事と人生に疲れた中年男みたいに、たまの空き時間はカラオケかゲーセンで憂さ晴らし、ということになってしまって、それは無理もないことなのですが、「心の栄養」を取るゆとりがなくなっているのです。

 「思春期」というぐらいで、本来高校生ぐらいの年齢は最も「もの思い」が多い頃です。たぶん「実存の不安」というものを本格的に感じ始めるのも、その頃からでしょう。だからあれこれ本を読んだり、物思いにふけったり、友達と突っ込んだ議論をしたくなったりもするので、それは人間の成長にとっては不可欠な、省略不可能なプロセスです。冒頭の引用文(この「計画」の!)にあった「自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」も、そうしたことを通じて育つのです。学校教科の暗記勉強でそんな力は身につかない。これは少なくとも世間では「常識」です。

 僕が言いたいのは、そうしたゆとりを生徒たちから奪うな、ということです。無駄な課外、無駄な宿題を減らして、授業の質を高めることに専心すればいい。そうすれば教科学力だって伸びるのです。今のような状態では、教師にも学科能力や指導能力を高めるための自己研鑽のゆとりはもてないはずです。だから、ロクな指導能力もないまま、物量作戦に頼って生徒の学力を上げようとあがく教師が増えてしまうので、そんなこといくらしても効果は上がらず、生徒たちはただ疲れるだけなのです。

 この点に関しては、今は親も馬鹿な人が多いのだろうと思います。ただただ授業時間が長く、宿題が多ければ学力がつくと錯覚している親が少なくないようだからです。つくわけがありません。ついでながら、今は「学力低下」論議がやかましいせいで、小中学校でも補習や宿題を増やすよう学校に要望する親が少なくないようです。この話をすると笑う人が多いのですが、僕はそういう親とは逆に、息子が小学生の頃、「宿題を減らしてやっていただけませんか?」と学校の先生にお願いに行ったことがあります。それぐらいの年齢の子供は外で遊ぶのが仕事で、それは学校のお勉強よりはるかに重要だと思われたからです。教育ママパパたちが何で減らすのだと抗議してきたときは、先生を擁護するために堂々の論陣を張りますからとたってお願いしたのですが、先生はそれに柔軟に対処してくださいました。要するに「勉強への集中力は30分が限度」(母親の話)というわが息子にも無理のないレベルにまで宿題が減ったのです。おかげで放課後は外で心おきなく遊べるようになり、その先生のクラスの子たちはハッピーだったようです(その子たちがその後学力面で見劣りするようになったというような事実はありません。むしろ逆だったように思われます)。

 むろん、小学生と高校生では違います。それでも時間が長ければいいというものではないので、優秀な生徒ほど集中して、できるだけ短時間で学校の勉強はすませようとするものなのです。それで空いた時間に本や雑誌を読んだり、好きなことをしたりする。それで視野が広がり、好きなことに頭を使うと知力も鍛えられるので、それがまた学力の伸びにつながるという好循環が生れるのです。しかし、拘束時間が長すぎ、宿題が多すぎると、優秀な生徒でもその余力が奪われる。受験勉強にしても、受ける大学は皆違うのだから、自分に必要な自主的な勉強をする時間と余力を与えなければ、受かるものも受からなくなってしまいます。それが、延岡の県立高校の先生たちはおわかりになっていないようです。だから、(県教委がどんなきれいごとを並べ立てようと)これら二つの学校は「進学実績の向上」しか眼中にないように見えるのですが、その大学受験でも元々の生徒の能力に見合った結果が出ないのです。学校自身がそれを妨害している。僕ははっきりそう思っています。「よけいなお世話」が過ぎるのです。

 これは第一義的にシステムの問題です。塾商売なんかしていると、生徒や親から情報はふんだんに入ってくるので、どの高校のどの教科に○○というすぐれた先生がいるといったことは、よくわかるのです。中にはよってたかって生徒にボロクソ言われている先生(理由を聞くと無理もないなと思うことが多い)もいますが、「あの先生の授業は面白い」とか「よくわかる」といった好意的な評価も多く耳にするので、僕から見ると生徒たちはなかなかに公平な判断をしているように見えます。そして、教える先生によって、生徒たちの学習意欲や学力も大きく変わってくるのです。
 問題は、今の延岡の普通科高校のシステムでは、そういう先生(お世辞にも多いとは言えませんが)の「よさ」が十分生かされないということです。無能な教師ほど、生徒の消化能力を考えずにむやみと多くの宿題を出したりするものですが、宿題の「総量規制」が行われていないために、生徒一人がこなさなければならない宿題の量がとんでもないものになったりする。だから、質の高い授業を心がけ、考えて宿題を出してくれる先生が少数いても、考えずにたくさん出す無能教師のせいで、その恩恵が失われてしまうのです。

 だから、宿題の量を“取り締まる”人がどこかにいないと困るわけです。僕は三十代の頃、関東で中学生対象の集団塾(一校舎あたりの生徒数二百人前後)の校長もやった経験があるのですが、風通しはよくしておいたので、生徒たちは気軽に僕のところに講師の授業の進め方や宿題に注文をつけにきました。「あの先生の授業、何言ってるのかわからない」とか、「理科の先生の宿題が多すぎる」とか、あれこれ言ってくるのです。なるほどと思えるクレームには、僕はすぐ対処しました。授業が下手で、意味がわからないという教師の授業(一応本部でトレーニングは受けてきたはずですが)には、自分もその授業を生徒と一緒に受けてみて、あとで改善すべき点を指示したし、宿題が多すぎるという講師には、他の教科の勉強にも差し支えるので、量を半分に減らし、その代わり授業のレベルアップを心がけるよう、注意するなどしたのです。塾の場合、校長はその校舎全体を総括する責任者です。大体、そういうことを放置していたのでは、評判が悪くなって生徒が入ってこなくなる。塾の激戦区と呼ばれるようなところではなおさらで、放置していたのでは潰れる他なくなってしまうのです。

 公立高校の場合、有力な私立が存在しない延岡などではとくに、生徒・保護者側に事実上選択の余地はありません。だからそうしたインセンティブ(刺激)が働かないし、今の学校システムでは校長も中間管理職のようなものでしかなく、個々の教師の授業や宿題の出し方にまで注文をつけるなんてことは到底できないのです。生徒が校長室に押しかけて、「あの先生、何とかして!」なんてことは言えないし、言われても校長は何もできないのです(大体、校長の職自体が今は定年前の“名誉職”に類したものになっているのでしょう)。また、塾なら評判の悪い講師にはクビを言い渡す(多くはそれ以前に、自分には勤まらないと感じてやめていく)が、公立の先生は公務員なので、破廉恥罪で警察に逮捕されるようなことにでもならないかぎり、どんなに無能でも、いくら人格的に問題があっても、自ら辞めないかぎり、地位は安泰なのです(「教師の研修制度」も形式倒れです。というのも、武士の情けで実名を挙げるのは差し控えますが、「そこまでひどいのか…」と、生徒の話を聞いて笑うしかないようなお粗末教師は、僕の知る範囲でもこの二つの高校だけで数人はいるからです)。
 それでも、こういうことは可能でしょう。学年の教科担の先生が話し合って、「総量規制」に関する合意をかわすのです。それぞれの教師は自分の教科のことしか考えていないように見えるのですが、そういう安易さで皆が競って宿題を出すから、結果としてとんでもない量になってしまうのです。全体でそれがどれほどのものになるか、一度連休の前など(そういうときには途方もない量の宿題が出ているので)、自分たちが出した宿題プリントを順に目の前に積み上げて、それが全部でどれほどのものになるか、確認してみるのです。「こんなになってしまうのか…」と驚くのではないでしょうか。僕なんかは、毎回生徒たちにそれを見せられてのけぞっているのです。

 その上で、「宿題の総量規制」について話し合うのです。宿題が多い先生の科目の成績がとくによくなっているわけではなく、むしろ逆に低いことが多いのも、生徒の模試の成績と照らし合わせればわかるでしょう。延岡の二つの高校の宿題量はしばしば「児童虐待」の域に達してしまうのですが、物量作戦に訴えるのは邪道で、授業と教材の質こそが重要なのだと、そうしたことを通じて教師自身が認識するのです。

 ついでにもう一つ、せっかくよい先生がいても、その先生が教材選定や授業に独自色が出せなくなってしまうのも問題です。これは定期試験の関係にもよるようですが、むやみやたらと「統一」したがるのです。そんなことをしないで、個々の先生が担当クラスの生徒の学力も見て、自由に教材を選定して授業がやれるような柔軟な方針に変えればよいのです。英語なんかはことにそうです。延岡高校など、僕が前に酷評したあの「ベーシック・グラマー」なる退屈・単調極まりないプリント授業をまだえんえんと続けています。全員が二年の途中まで、ほとんどそれしかやらないのだから、それで学力が伸びたら、その方がよっぽど不思議なのです。学力のある生徒は自分で他のことをやって力をつけているのだということに、学校側はなぜ気づかないのでしょう?

 無理に「統一」なんかするから、創意工夫のカケラもないそんな授業になってしまうわけで、先生個人のイニシアティブをもっと尊重するのです。そうしてその教材、授業進度に合わせて定期試験も作成すればいい(朝課外やよけいな雑用を減らせば、試験問題を別々に作る余力ぐらいは出てくるでしょう)。今の学校の成績評価は、昔みたいな相対評価ではなくて、絶対評価(80点以上なら、みんな5になるといった)です。他の生徒と比較する必要がないから、なおさらそれがしやすいはずです。

 どのみち、学校の定期試験なんてものは、学力の客観的な指標にはならないものです。そのときだけ丸暗記すればいいだけの定期試験の成績はいいが、模試の方はさっぱりという生徒は珍しくないからです(大学が一般入試で内申書の数値を無視するのは、先生個人の「裁量点」も大きく、それが学力指標として信頼できないものであることをよく知っているからです)。客観的な学力把握はそちら(=模試:但し、これも日曜を潰してやったりするため、生徒は休みが奪われる弊害が出ているので、平日の授業を潰してやることにする)で行えばいい。定期試験で足並み揃えて、順位が学年で何位、なんてデータを出すこと自体に意味がないのです。聞けば、今は定期試験の問題は大方テキストやプリントに出ているものそのままで、真面目な生徒が多い延岡高校など、平均点はいつも80点台、90点台です。それも僕には理解しがたいことで、ほんとに生徒が理解しているかどうかを見るなら、問題が同じでは不都合なはずです。自分なら必ず変えて出題します。それでほんとに理解しているかどうかを見るのです。そういう試験だと、たんなる丸暗記では駄目だということになって、生徒たちの勉強への姿勢も変わるでしょう。これも、しかし、そうはなっていないのです(僕は高校時代、パイロットのなりそこねだという面白い物理の先生に当たったことがあります。試験では第一問目から「鉄腕アトム」が登場して、教室にざわめきが起きたのですが、それがちゃんと物理の問題になっている。その他にも、ある気体を風船に入れて飛ばしたらその後どうなるか、考えて書け、というような自由記述の問題もあって、悪ガキの僕は「その一」「その二」として、物理とはほとんど無関係な、思いつくかぎりの出鱈目を書いて提出しました。そしたらそれに全部マルがついていたので仰天して、「何でですか?」と聞きに行くと、「まあ、おまえが書いたアレは、全部可能性としてはあるからねえ」と涼しい顔でした。僕が割と真面目に物理[受験とは無関係]の勉強をしたのは、その先生が型破りで面白かったからです。)。

 本気で「魅力と活力のある教育の創造」を考えるなら、そういうふうに現実から出発して考えなければ意味がありません。

 この「整備計画」なるものでは、僕がかねて問題視している「課外授業」については全く触れられていません。前に県教委に電話で問い合わせてみたところでは、それは各校が「自発的に」やっているということにタテマエ上なっているらしいので、「県教委の関知するところではない」ということになるのかも知れませんが、現実にはそれは重大な問題なのです。この文書では「健やかな体を育む教育の充実」(p.6)なる項も設けられ、「健康教育の推進」がうたわれているのですが、育ち盛りの子供を慢性的な睡眠不足に追い込んでおいて、「生徒の心身の健康課題に適切に対応」もヘチマもあるかと、皮肉の一つも言いたくなるのです。多すぎる宿題とあの朝課外が、その元凶なのです。涼しい顔して、きれいごとばかり並べられても生徒に恩恵は何一つないということです。

 そういうかんじんなことには触れないで、「整備」も「改革」も本来あるはずがない。繰り返しますが、この課外は教員の大きな負担にもなっているはずです。朝の「門番」も考え合わせると、先生たちは毎日朝の7時前には学校に来ているのでしょう。三年の夕課外や、生徒の部活の監督も考えると、帰りも7時、8時になる。こなしきれない採点や、受験生をもつと推薦試験用の書類書きなんて、手間ヒマかかる仕事も入ってくるので、そういうのは家に持ち帰ることになる。それでは過労状態に陥って、よい先生でも時間の問題でいずれ「燃え尽き症候群」みたいになってしまうでしょう。教師という仕事は、それでなくても教材の吟味選定や、授業の準備といったことで、授業以外にも時間が食われるものです。教師たるもの、幅広い視野や豊かな教養の持主であることが望ましいから、自分を高めるための余暇の勉強も欠かせない。また、大学受験の指導を行う場合には、入試問題の動向やレベルにも注意を払っていなければならないのですが、その使用教材のあまりの中味の古さに、「この先生は自分の大学受験のときから時計が動いていないのではないか?」と疑いたくなる場合もあるのです。おそらく多忙すぎてそういうことはロクにご存じないのでしょう。それで「効果的な指導」などできるはずもないのですが、こういうのも元をただせば教師のゆとりのなさに行き着くのです。

 くどいようですが、あの朝課外を廃止するだけで、生徒も教師も一時間、今よりゆとりがもてるのです。それは非常に大きい。「健康教育」を標榜するのなら、それはいの一番に考えるべきことなのです。

 最後にもう一つ、これは今の県教委でも十分できることですが、「教員の適正配置」という問題があります。これは「計画」p.13でも、「全県的・総合的な視野に立ち、教職員の適正な配置を工夫する」と明記されています。

 高校には大学進学を前提とした普通科高校と、就職前提の職業科高校があります。僕はその方面のことをよく知りませんが、高校の教員採用試験ではその区別なく、大学受験の指導能力があるかどうかは基準になっていないのでしょう。だから、人柄はよくて基本的なことはうまく教えられるが、大学受験レベルの指導は無理という先生もいるわけです。そういう先生が普通科高校に回され、受験科目を担当させられるということになると、ご本人が非常に苦しい。授業はさっぱりで、不評を打ち消そうと焦ってむやみやたらと宿題ばかり出すという、生徒にとっては二重の傍迷惑に落ち込むわけです。
 逆に、前に実際にそういう先生がいると聞いたことがあるのですが、商業科や工業科に、高度な教科指導能力をもっている先生が配属されることもある。その場合、難しいことは教える機会がないのだから、宝の持ち腐れということになるわけです。そのあたり、教師の適性を見て、もっと配置を工夫すればいいのです。そういうことは実際にある程度は考慮されているようではあって、僕は先日、ある生徒のお母さんから、星雲高校の現一年生の教科担には非常にすぐれたよい先生が複数いるという喜ばしい話を聞きました。僕は前に星雲高校のことをかなりボロクソ書きましたが、学校を憎んでそんなことを言っているわけではないので、そういう話を聞くと純粋に嬉しいのです。生徒というのは感心なもので、星雲高校三年生のある子はしばらく前、「自分たちの学年の指導の失敗に学んで、後輩たちにはもっと考えた、よい教育をしてくれると嬉しい」と語っていました。これはほんとの話です。先生たちはこれをどう思いますか? 延岡の子供たちには、そういう優しいよい子が多いのですよ。そういう子たち相手にひどい「虐待」教育をしやがって、と僕などはまだ腹立ちが収まらないのですが。

 何にせよ、これなどはまんざら「意見募集の対象としている計画(案)に関係のないご意見」ではないでしょうから、よくよくお考えいただきたいと思うのです。

 以上、延岡の普通科高校の問題に関しては、これで書くのは最後にしたいと思って書きました。常識で考えてもおわかりかと思いますが、塾の教師が学校や教育委員会の悪口を書いて、得をすることは何もありません。しかし、いくら考えても、僕には今の延岡の県立普通科高校のあり方はまともだとは思えないのです。

 変わってくれれば嬉しいが、変わらなければやむを得ない、僕は塾の生徒たちをその「弊害」から守ることに微力を尽くすのみです。

 尚、今は延岡にも高校生相手の塾はかなりたくさんできています。電話帳を見ただけでもそれはわかるので、中には僕の塾のように、看板も出ていなければ電話もない、人づての紹介オンリーで営業している怪しげな高校生専門の塾(人に説明できないので、名前ぐらい付けてください、と生徒に言われることがあるのですが)もあるわけで、かなり多くの生徒が今は塾に通っているから、学校が何から何まで面倒を見なければならない時代ではなくなっているのです。そのあたりももう少し柔軟に考えてはいかがですかと、申し添えておきたいと思います。今みたいに生徒が学校の課外と宿題だけで疲れ果てているようだと、塾としても“持てる力”の発揮が妨げられるので、それが延岡で塾をやっている人間には共通の悩みなのですが。

 こう言えば、「経済的事情で塾に行けない子はどうなるのだ?」と言う先生もいるでしょうが、それならそれで自分で工夫して勉強するすべを生徒は見つけるだろうから、心配は無用なのです。下手な押しつけで時間とエネルギーが奪われなければ、それもできやすい。僕自身は、塾生でなくても、勉強の仕方でアドバイスをもらいたいという子がいれば、いつでも無料で相談には乗ってきました。今後もそうするつもりです。応分の地域貢献はしたいと思っているので、何らそれを厭う気はないからです。臨床心理学も多少はかじっているので、心理的な問題で助けになることがあれば、そちらでもお手伝いはさせてもらうつもりです。

 勉強はどどのつまり、自分でやるものです。それは学校に通っていようと、塾に通っていようと同じです。教師の仕事はサポートにすぎないのであって、生徒が有名大学に合格したからといって、教師が手柄顔するのは筋違いなのです。何よりそれは生徒本人の資質・能力と努力によるものだからで、僕の実感としても、優秀な生徒は適当に相手をしているだけで勝手に伸びて、勝手に難しい大学に合格してゆくのです。ましてや学校や教育委員会が生徒の「自己実現」なるものを勝手に云々するなどというのは、思い上がりも甚だしいことだと、僕には感じられます。そういうことを軽々しく口にする人たちは、ご自分が「自己実現」しているのでしょうか? この言葉を世に広めたのは、心理学者のエイブラハム・マズローだったと思いますが、マズローの本を読んだことがあれば、それは孤独な自己格闘の末にもたらされるものだとわかるでしょう。それはたんなる世俗的成功を意味するものではないので、何かしらもっと厳粛な色彩を帯びたものなのです。外から他人がとやかく言うべき筋合いのものでは本来ない、ということです。

 話を元に戻して、塾に来ていても、勉強するのは生徒自身なので、言われたことをただ機械的にこなすのではなく、勉強のやり方を工夫して、自分の頭と個性に合った独自の勉強法を編み出せ、そうすればそれは社会人になっても役立つ、一生の財産になるのだからと、僕はいつも生徒たちに言っています。延岡の県立高校の度の過ぎた押しつけ管理教育は、生徒のそうした創意と自発性を育てる上でも障害なので、そのことも隠れた深刻な問題だと、僕は考えているのです。

 長い文章に最後までおつきあいいただき、有難うございました。
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

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