【この本(『死都ゴモラ――世界の裏側を支配する暗黒帝国 』ロベルト・サヴィアーノ著、大久保昭男訳 河出文庫)は、内容の重さと文章の読みにくさに手間取って、読むのに思いのほか時間がとられてしまった本です。しかし、あれこれ考えさせられることが多かったので、その読後感もまじえて少し前に書いたのが以下の一文です(こういうのは書いたときにさっさとアップしてしまうのが一番なようで、加筆しているうちに長くなってしまいました)。】
どこの国にも経済には表経済と裏経済があるようですが、単純に言えば、これは裏が表を乗っ取ってしまって、市民がそれに従属させられてしまった都市のお話です。世は「グローバル経済」の時代なので、それはむろん海外進出していて、多くの国の経済と社会を侵食しつつある。しかも、フィクションではなく、実話だというから恐ろしい。
僕が考えているうちにだんだん気が滅入ってきたのは、よくよく考えてみれば、何もこの本に出てくるイタリアの巨大マフィア・カモーラ(カモッラ)だけでなく、アメリカのウォール街なんかも、公然と殺人は犯さないまでも、本質は同じではないかと思ったからです(映画『インサイド・ジョブ』の感想「現代の悪魔」10/17をご参照下さい)。モラル無用の、合法を装った犯罪組織。それが国家権力を完全に抱き込んでいる点では、後者の方が“上”です。
わが国でも、この前の福島原発の事故後、「東電マフィア」という言葉がよく使われるようになりましたが、あれも同類ではないかと思い当たるのです。カネで組織や個人を囲い込み、公然と不都合な情報は隠蔽して(内部告発されたものまでもみ消しをはかろうとする)、真実を伝えようとする個人や報道機関は恫喝し、逆らうといやがらせをしたり、学者なら村八分にして出世を妨げようとし、邪魔な政治家なら収賄スキャンダルをでっちあげ、力づく排除しようとする。法規まで、役人と結託して好都合なものを作る(改変する)のです。これはマフィアのやり口以外の何ものでもありません。ヒットマンを雇って撃ち殺すことまではしなくても、ほんとにヤバイ情報を握られたら、交通事故を装って殺すぐらいはやりかねないのではないかと思います。「おお、こわ…」と笑ってすませるわけにはいかない。最後の話はともかく、それ以外は全部「東電マフィア」がやってきたことで、あの事故のために、報道機関は雪崩を打って東電を批判し始めたにすぎないのですから…。
僕が「暴力団排除」に白けた視線を向けるのもこういうことがあるからで、東電みたいなのを“財界の中枢”にしておいて、しかもああいう大事故の後でもまだ解体ではなく残存・復活させようと官政財一致協力してあれこれ策謀しながら、「不正な暴力団は許しません」なんて、オツムの配線はどうなっているのだと、立ち入っておたずねしたくなるほどです。少なくとも僕は、子供たちに「東電と山口組と、どっちが悪どいの?」と聞かれたら、返答に窮します。むろん、彼らはそんなことは聞きません。東電の方が悪質だと、オトナに聞くまでもなく承知しているからです(東電は「冷温停止」したと発表し、政府は「事故収束宣言」を出したそうですが、大本営発表か北朝鮮のニュースみたいなもので、小学生でもその無意味さはわかります。今頃は海外のいい笑いものになっているでしょう。これも一々ニュースをチェックしなくてもわかる)。
だから「マフィア支配」の国は、何もイタリアにはかぎらないわけですが、そう言えば話が終わってしまうので、ここは「マフィア」を一応狭義に解釈して、話を進めることにします。ギャングやマフィアが公然と経済システムを支配する、このイタリア・ナポリのような状況になれば、それでなくとも「長いものには巻かれろ」メンタリティが強い日本などでは、どうなってしまうでしょう? 告発したり抵抗したりすれば日干しにされて経済的に困窮するとか、社会のまともな職業・地位からパージされてしまうというだけでなく、命さえ狙われ、奪われるのです。それも意図的にでっち上げられたスキャンダルなどによって不名誉な汚名を着せられ、「私生活上のお粗末なトラブルが原因で殺されました」ということにされて、二重の恥辱にさらされる(げんに著者自身がそうした例に言及しています。こちらの親切なサイトの訳「作家がマフィアと戦う方法」参照)。
いい目が見られるのは「組織」(そういう言葉がこの本でも使われていますが)にうまく取り入った者だけで、下々の人は貧困の中に据え置かれる。これを変えようと目立ったアクションを起こした者は殺されるのだから、日本人の好きな「仕方がない」の言葉に従って、利口な人の大半は犯罪経済の中でうまく立ち回る方を選択する、なんてことになりかねない。それがまた、マフィア組織には好都合に働くわけです。
今はまだそこまでは行っていないから心配はいらない、とは僕は思いません。「暴力団排除条例」でそれが防げるとは思わない。すでに見たように、今は表の経済が“裏化”しつつあるように見えるからです。東電の偉いさんたちにその自覚はなかったのでしょうが、彼らがやってきたことはまともな人間のやることではなかったのですから。それに協力してきた御用学者たちは、この本に出てくる、有害産業廃棄物を悪知恵を働かせて不法投棄するプランを提示して「組織」に取り入り、金儲けをする大卒エリートたちとさほど変わりません。気前のよい広告主である東電に黙らされていたマスコミも、同じく恩恵をこうむっていた各種企業も、下請け業者も、このマフィアに逆らえなかったのです(経団連は今でも東電の味方です)。役人たちは…こちらは初めからグルだった。それぞれにそれぞれの言い訳はあっても、事実としてはそうなのです。繰り返しますが、これがふつうの「暴力団」よりマシだと言えるのでしょうか? 優良企業、「半公共機関」を装っているだけなおさら始末が悪い、と僕は思います。儒教の「正名」の教えによれば、外観・形式(名)と内容(実)が一致しなくなることは道徳的腐敗、世の乱れを惹き起す元凶です。紳士を装ったゴロツキほど有害なものはなく、そういうのが大きな顔をする社会は、時間の問題でゴロツキどもの跋扈・支配する社会へと転落するのです。
この本の後ろの方(p.409~412)に一つのエピソードが紹介されています。マフィア組織同士の抗争事件(それは日常茶飯と化している)の中で、一人の関係者が自動小銃で射殺される。白昼堂々のこの犯行には複数の目撃者がいたが、そのうちの一人の女性が裁判で証言し、おかげで犯人は特定され、終身刑を宣告された。これは例外的なことで、ふつうは顔を伏せて、見なかったことにし、証言せずにすむようにするのがあたりまえのようですが、この三十五歳の幼稚園教師はそうはしなかった。大方の人がそのようにするのは、「恐れ、脅迫への恐怖、…とりわけ徒労感と犯人を逮捕させることへの無力感」があるからですが、「この女教師は、沈黙を許す数々の弁解をしりぞける唯一の動機を見つけた」のだと著者は言います。それは何か?――「真実」であると。
この女性の勇気ある態度は裁判官にも「砂漠に咲いた薔薇」のようなものだと賞賛されたそうです。しかし、それは彼女を困難に陥れた。そこの箇所を(このあたりは例外的?に読みやすい文章になっているので)引用します。
【だが、彼女の証言はその生活を困難なものにした。生活の糸がもつれ、勇気ある証言の結果、日々の暮らしが崩れるかに見えた。彼女は結婚を控えていた。しかし、相手の男は破談を申し入れた。彼女は仕事を失い、転居を余儀なくされた。警察の保護を受け、国から支給されるわずかの金で暮らす身となった。親戚の一部は距離を置くようになり、彼女は深海の孤独の中へ突き落とされた。日々の生活の中に入り込む孤独。ダンスをしようにも相手がなくなった。電話は虚空の中で空しく鳴った。友人は次第に減り、最後には一人もいなくなった。問題なのは警察に話したということではなかった。物議をかもすのは殺人犯を告発したということではなかった。沈黙の掟(オメルタ)の論理はそれほどに月並みなものではない。この若い女教師の行動を非常識な振舞だとしたのは、自然で本能的な、生命にも関わることとして証言できる力をそこに見たためである。つまりは、世間の常識に反したということである。そのように自分の生活を生きることは、真実が存在すると信じることを意味する。真実のみが価値をもち、欺瞞には何の価値もないということ。だから、世間の人々は、自分たちが全面的に受け入れている共同体のルールを拒んだ者を前にして困惑しないではいられない。なぜなら結局のところ、すべてはそのように行われてきたし、いつもそのように行われるはずであり、自分だけの力ですべてを変えることはできず、したがって慎ましく暮らし、生きられる流儀で生きなければならないのだから。】
正直、途中の「自然で本能的な、生命にも関わることとして証言できる力」というのは、文脈からしても重要な箇所ですが、僕には今一つ意味がよく呑み込めません(この訳書が読みにくいのは、体言止めを多用していることの他に、この種の??という箇所がいくらか目立ちすぎて、その都度足止めを食らってしまうからです。そのあたり、もう少し考えていただきたかったと思います。訳すのが大変な本だろうとは内容からして察しがつくのですが)。
が、そういう話は置いといて、内容の話に入ると、この著者の洞察は普遍的な意味をもつもので、とりわけ事なかれ主義者の多い今の日本人には、耳に痛い言葉ではないでしょうか。最後の「世間の人々は、自分たちが全面的に受け入れている共同体のルールを拒んだ者を前にして困惑しないではいられない。なぜなら結局のところ、すべてはそのように行われてきたし、いつもそのように行われるはずであり、自分だけの力ですべてを変えることはできず、したがって慎ましく暮らし、生きられる流儀で生きなければならないのだから」というところです(ちなみにこの本では、特に一章を設けて、正面から「組織」の権力に立ち向かい、三十六歳の若さで五発の銃弾を受けて暗殺された一人の勇気ある神父の話も語られています)。
わが国の場合には、別にギャングによる殺人事件の証言ではなく、会社の違法行為の告発程度にしても、それを行う人は当該組織からの攻撃にさらされるだけでなく、会社の同僚や世間からもしばしば非難中傷されるのです。いわく、「あいつがあんなことを暴露するのは昇進できなかった腹いせだ」とか、「性格的な問題からではないか」とか、よほどうまくやらないと、すっかり孤立させられるだけではなく、いわれのない中傷を受けて人間的にも貶められてしまう。組織や権力と個人が対決するのはそれでなくても大変なのに、その上にこれでは、大方の人は参ってしまうでしょう。しかし、それを覚悟しないといけないのです(例の清武氏とナベツネのバトルにしても、さすがにナベツネはやることが汚いなと思って、僕は見ています。子分を総動員して一緒に悪口を言わせ、読売新聞そのものまで私的な道具に使う卑怯なやり口で、はからずもナベツネはそれによってグループ内での恐怖政治の実態を自ら世間に暴露してしまったのです。ナベツネは清武氏の「無能さ」〔「育成選手重視」の方針などは結果が出始めているので、自分は清武氏を評価すると、ジャイアンツファンの知人は言っています〕をあげつらいますが、そういうおかしな独裁体制だからこそ、球団幹部からスカウトまで、いい人材も集まらないのだということがおわかりでない。貧乏球団のヤクルトを見なさい。スカウト陣は一流でっせ。それで連れてきた外人を、巨人は片っ端からかっぱらってるけれど、そういう札束で人の顔を張り飛ばして、他球団のエースや四番をかっさらってくることだけが、ナベツネ流の“球団強化”法なのです。今後も同じやり方を続けるつもりのようですが、少しは恥を知るがいいので、いつまでも老醜をさらさず、さっさと引っ込むがいいのです。誰のせいでプロ野球が面白くなくなっているのか、この独善の極致みたいなジイさんはまるでわかっていないのです)。
つい野球のことでエキサイトしてしまったので、( )内のことは忘れて、話をつなぎましょう。「わが国には社会などない、あるのは昔ながらの『世間』だけだ」と言ったのは阿部謹也氏ですが、日本人の、日本的世間の、必要以上に波乱や対立を恐れ、それ自体を「悪」とみなすそういう性質は今も“健在”で、最近は少し風通しがよくなってきたかなと思わせる面もありますが、なおも強力であることには変わりがありません。
しかし、どうしてそういう反応は起こるのか? そうした「勇気ある行動」は世間を恐れ、できるだけ波風を立てないように心がけて生きている「勇気のない」自分たちへの非難だと感じる人が少なくないからでしょう。あるいは、「掟破り」に対する本能的な恐怖心があって、それが嫌悪感としてその人に投影されるのです。ほとんどの場合、その心理反応のプロセスは自覚されていない。むろん、なかには嫉妬や私怨でしかないものをさも「公正な批判」であるかのように装って、あるいはそこで目立ちたい、権力をもちたいからというので殊更な中傷をして見せたりする手合いも実際にいるから話はややこしくなるのですが、何でもかんでもそういうものに還元して事柄を矮小化してしまおうとする背後には、そうする人自身の自己正当化、合理化心理が作用していることが多い、ということです。
引用文に話を戻して、この女性は「見たものは見た」と言っただけです。組織に殺されかねないことは十分承知の上で。しかし、難を恐れたフィアンセには見捨てられ、親戚や友人も遠ざかって、しまいには誰もいなくなり、「深海の孤独の中へ突き落とされ」る羽目になる。組織に命を狙われることと、恋人を含む世間の人たちのこの冷たい仕打ちと、どちらが本人には恐ろしいかというと、それは明らかに後者でしょう。この種の「恐怖」は、日本人なら誰でもよく知っているはずです。
「世間というのはそういうものだ」と言ってしまえばそれまでで、ここからしばらく話は脱線しますが、僕は何ヶ月か前、会社のひどい勤務状態のことで「もうやめたい」と苦悩のメールを送ってきた元教え子のことを書いたことがあります(その後状況は大幅に改善されたそうで、帰宅時間も早まり、休日もちゃんと休めるようになりました、という喜ばしいメールが届きました)。このとき、親自身がロクに話も聞かないまま「おまえが甘いのではないか」「世間とはそういうものだ」と子供に言って、彼女はそのことに二重に打ちのめされていたのです。非常識で異常なのは会社の方であって、彼女ではなかった。話を聞いてあげればそれはすぐわかるはずが、おそらく親はどうすればいいかわからないまま、恐怖心理に支配されて、無意識に「世間」の側に立ってしまったのです。僕はと言えば、彼女のメールを読んですっかり腹を立ててしまいました。そんな馬鹿な話があるかと思ったからです。相談してきた本人以上に僕の方が怒ってしまうというのはこういう場合、よくあるパターンなのですが、何が彼女の助けになったかというと、たぶんそれは僕がそのときした具体的ないくつかのアドバイスよりも、自分のために本気で怒ってくれる人がいる、最悪の場合には直接行動に出て手立てを講じる(電話だけでもかなりのことはできるので)と言ってくれる人がいるという、まさにそのことだったでしょう。僕はむろん、計算して怒ってみせたのではありませんが、それが彼女の孤立感を和らげたのです。
もう一つ、こちらは二十年以上も昔の、関東にいた頃の話になりますが、やはり塾の元生徒が高校入学後一週間で不登校になってしまったというので、母親が相談に見えたことがあります。そのお母さんはかなり憔悴していました。不登校なんてよそのことで、まさか自分の娘が不登校になってしまうなんて、夢にも思いませんでしたと前置きした後で、その母親はこう言いました。
「自分で言うのも何ですが、私はかなりお友達は多いほうだと思っていました。それがこのことを話すと、皆さん、自分の子供にも悪い病気が移ってしまうとでもいうみたいで、潮が引くようにさーっと引いてしまったんです。娘の不登校に加えてそれなので、私にはほんとに応えました」
そのお母さんはたいへん感じのいい人で、「お友達が多い」というのは当然なのですが、それでもこうなのです。娘の方も賢く善良なよい子でしたが、いくらか内気でした。そもそもその学校は、その子の成績からすれば学力レベル的にも低すぎる学校でしたが、超がつくほど安全志向の学校の先生が強くそこの専願受験を勧めたというので、僕は自分の意見は言いましたが、親子もそれでいいと言うので、そういう選択になったものでした。
母子は私立女子高の再受験を希望していました。脱線が長くなりすぎると思われるかも知れませんが、まあ聞いて下さい。「世間」のおぞましさは別のところにも出ていたからです。僕はそれで候補になりそうな私立女子高校の入試で再受験がどういう扱いになっているかを調べました。直接学校に電話もした。こういう場合、少なくとも私立高校の塾に対する応対はていねいです。規模が小さくないとなればなおさら。それは塾が受験動向にどれほど大きな影響力をもっているかをよく知っているからです。しかし、その質問に対する返答は全部同じでした。「受験は自由です。但し、これまでそれで合格した生徒は一人もいません」というものです。当時は第二次ベビーブームの最中で、私立も生徒集めにはさほど苦労しなかったから、今とはそのあたり事情が全く違うので、今はそんなことはないかも知れませんが、そのときはこうだったのです。要するに、他校を中退するとか不登校になるとかというのは、その生徒が何か「面倒な問題」をもっている可能性が高い。募集要項に載せると人権問題として叩かれるので書かないが、成績はどうでも、そういう生徒を抱え込むのは面倒だから落としてしまう、ということです。
それが教育機関のやることかと憤っても問題の解決にはならない。いじめ問題への対応などを見てもわかるとおり、今の学校なんて大方はその程度のものだからです。僕は本部に電話をして(そこには集団部門と個別指導部門があって、当時の僕の役職は個別部門の総責任者で、二つの教室を管理していました)、塾長に何か“裏技”はあるかと聞きました。多額の寄付金でも約束するか、あるいは関係者、理事でも押さえれば何とかなるかも知れないというので、なるほどと思い、連絡を取り合っていたそのお母さんに、こうたずねました。「親戚か知人の中に、ここならという私立女子高の理事をやっている人はいませんか? 僕もこれからそれを探してみますが、やってみて下さい」
すると、ほどなくお母さんから連絡が入りました。「いました!」学校もちょうどいいレベルで、実力を発揮すれば合格点は確実にとれそうなところでした。「じゃあ、その人に一度ご主人と一緒に直接お会いになって、詳しく事情を話し、おかしな妨害をされないように頼んでおいて下さい」どういう意味かと言えば、点数が足りないのに不正に合格させてくれという依頼ではない、足りているのに再受験の生徒だから落とすという不正な行為をさせないように頼む、ということです。入試時に念押しの電話を怠らないようにということも申し添えました。
この作戦は成功し、その子は精神安定剤の代用もかねて塾にまた一年通い、翌年その高校に合格し、今度は不登校になることもなく、元気に通学しました。明るさが戻った母子のその表情は、僕には何よりの報酬でした(菓子折り程度のものは受け取っても、僕がそれで塾の月謝以外のものを受け取ったということはありません)。
何を言いたくてこんなことを書いたのかというと、日本にある「世間」というのはこういうものだということの傍証にです(長くなるからから書かないだけで、僕が直接関与したことだけでも類似の例はたくさんあります)。場合によっては一番近いはずの家族ですら、しばしばその「世間」の一部なのです。僕はそれを非難しているのではありません。「面倒なことは見たくもないし、聞きたくもない」という心理が、それは世間を恐れる心理の裏返しなのですが、苦境に陥った人に二重のダメージを与えることがあるということです。自分から何か敵対とみなされるような行動を取ったわけではまるでなく、世間おきまりのルートをちょっと外れかけたというだけで、これですよ。日本社会の、「世間」の真の恐ろしさは、こういうところにあるのです。
考えてみれば、これは実に馬鹿げたことです。社会は個人によって構成されているのであり、個人の集まりだからです。そして神ならぬ人間の集まりであれば、そこには不都合なことやトラブル・対立も発生する。その都度誠実にそれに対応して、解決をはかればいいだけです。昔あったアメリカ製テレビアニメの主題歌のセリフを借りれば、「♪トムとジェリー、仲良くケンカしな」でいいわけです。波風が立たない方がどうかしている。
ところが、日本人はここに「世間」という実体のない幻影を持ち込む。「みんな」がどう思っているかということが重要になるのです。「みんな」は「みんな」違うだろうとは思わない。「みんな」は一緒で、自分がそれから外れたら大変だと思うのです。だから動きが取りにくく、そこから外れた、外れそうになった人が出るとあわててその人に距離をとろうとする。それはほとんど反射的、本能的なもので、合理的な理由はないのです。
僕自身は「世間的なもの」にあまり頓着しない、明確な「個」の輪郭をもつ合理主義的な考えをする父親(親戚にも他に似た人はいなかったので、それは突然変異みたいなものですが)に育てられたので、その点いくらか幸運でしたが、大方の場合には、「世間」は家庭にも侵入し、そこに君臨し、支配しているのです。
だから、物心ついて以来、ずっとそれに怯え、かつそれに自己同一化しながら生きることになるのですが、「世間」とは一個の“共同幻想”であり、実体ではありません。それはそこに暮らす人たちの心理的な投影によって栄養を与えられ、維持されているものにすぎないからです。それは幽霊もしくは妖怪です。ある意味、そちらの側に立てば責任をもたなくてすむので気楽なのですが、たいていはそれによって苦しめられることの方がずっと多いのです。
こうした「世間恐怖」心理のために、多くの人は「社会は個人の集まりに過ぎないのだから、個人が動けばおかしなことは変えられる」という正常な感覚をもてなくなってしまう。この点、日本には社会と呼べるようなものはない、という阿部先生の指摘はご尤もなのです。
こういう擬似社会(いわば“空気”が支配する)における組織や集団は、たやすく没論理の“仲良しクラブ”に陥ってしまい、たやすく公私を混同し、そこにとくに権力的なボスがいたりなどすると、たやすく独裁体制ができてしまいます。そのボスは、人々の日本的なこの「世間恐怖」心理をうまく利用するのです。僕は12/7の記事(「個人宗教」のすすめ)に、「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の言葉は弊害の方が多かったのではないかと書きましたが、この世間恐怖と不可分一体になった“道徳もどき”と、「ボスに逆らうとひどい目に遭う」という心理を組み合わせれば、鬼に金棒なのです。
先頃、大王製紙の三代目御曹司が特別背任の疑いで逮捕されましたが、あれなんかも創業家が大株主だったから、というような話で説明がつくようなものでは本来ないでしょう。彼は子会社から自分の遊び(バクチと女)の借金を埋め合わせる資金を吸い上げていたそうですが、どんな大株主・権力者であっても、会社(直接には経理担当者)がそんな公私混同の不正な要請に応じなければならない理由はありません。「お断りします」「何だと! クビにされたいのか?」「勝手にクビにすればいいでしょう。私はそのような不正解雇に対しては訴訟を起こして断固戦います」そう言われれば、相手はまずいことは承知で、だからこそそんな脅しもちらつかせるわけだから、ほんとにそんなことされて事が暴露されたら困ると思うでしょう。暴力団の類を使って脅しにかかれば、自分や家族に万が一のことがあれば、マスコミとインターネットに同時に情報が流れるようにしておいて、「このとおりなので、それを承知の上でおやり下さい」と言ってやればいい。それぐらいの勇気があれば、薄汚い奴は根性なしなのが通り相場なので、たいていは手も足も出なくなるのです。東大を出てるんだか何だか知らないが、苦労知らずの甘タレ小僧になんぞナメられてたまるか、という矜持(きょうじ)をもつのです。ほんとなら直接会ってボコボコにしてやるところだが、それで傷害罪に問われるのは馬鹿らしいので、控えめにしてやってるだけだ、有難く思え、というようなものです。
しかし、そんな骨のある社員は、そんな会社には残っていない、とっくの昔に辞めているという話なのでしょう。それでああいうことがまかり通るわけです。
東電をはじめとする電力会社の問題でも、今は「世間の風向き」が変わったから、公然と批判が行われるようになっただけです。批判それ自体は正当でも、この場合、殊更勇気は必要ではない。だから僕なども、気楽に東電の悪口を書いていられるわけです。
しかし、前にここに何度か書いた延岡の県立普通科高校の問題などでは、そう「気楽に」とはいきません。個人的には「よくぞ書いてくれました」と言う人はたくさんいても、仮に僕が当該高校や県教委から名誉毀損の類で訴えられたとして、その人たちが助けてくれるかどうかは疑わしいのです。少なくとも僕自身はそんな甘い見通しはもっていない。大方の人はそのときそのときの「世間の風向き」次第だからです。僕は怪しげな一介の塾教師であり、相手は「公共機関」(学校も県教委も)で、かつ何十年も“伝統”として僕が理不尽で合理性がないと主張することを続けてきたのです。そんなにおかしなことなら、何故そんなに長くそれが続き、かつ、それに反対する動きが起きなかったのか? 僕がもし正しいとするなら、学校のみならず、地域住民は長年そのおかしなことを黙認または支持してきたのだということになります(親自身も多くはそこの卒業生です)。
僕自身にはそんなつもりは毛頭なくても、これは間接的に自分たちを非難しているのだという面白くない感情をもたれても不思議はない。中には単純な愛校心から、自分の母校が攻撃されていると解して腹を立てる人もいるでしょう。幸いに塾の生徒の親たちには、そんなおかしな人はいません。生徒たちも僕が敵だとは、むろん思っていない。
これもしかし、問題は「世間」なので、理不尽だと憤る子供や親はこれまでもたくさんいたが、それで何か言っても自分がワリを食うだけで、何も変わらないだろう、自分に協力して助けてくれる人は誰もいないと考えて、沈黙してしまったのです。自分が、わが子が卒業するまでの辛抱だと。だから何も大きな動きらしきものは起きなかった、それだけの話なのです。わが国の色々なところに巣食う理不尽は、たいていこのようにして維持されています。そしてそれは、マスコミ沙汰になるような事故や不幸な自殺などの事件が起きて、初めて問題視されるようになるのです。が、それは急に出現したのではない、元からそこにあったのです。
脱線の脱線になりますが、この問題に関して、僕はつい先日、自分より何歳か下の、高校生の子供がいる地元の友人から面白い話を聞きました。「考えてみれば」と彼は言いました。「私の頃は朝課外(ゼロ時限の授業)なんてなかったんですよね。宿題も今よりずっと少なかった。課外は3年生だけだったんです。部活も、進学校なので、やっていない奴の方が多かったと記憶しています。だからそんなにしんどくなかった」してみれば、昔は延岡の県立普通科高校もこんなことはなかったということです。僕と同い年ぐらいの生徒の父親からも、「私のとき(1・2年はなかったとすれば3年次)は、『こんなものやってられるか!』ってことで、全員で課外をボイコットして、その年は課外不成立になってしまったから、あんなものボイコットしてしまえばいいんですよ」と事もなげに言うのを聞いたことがあります。僕の世代の感覚なら、それはふつうのことです。大学生たちが暴れていたこともあって、当時は高校生も元気で、理不尽なことがあれば教師と正面からやりあって、授業ボイコットぐらいは朝飯前だったからです。
僕にもう一つわからないのは、あの休日も何も大方潰してしまう今どきの高校生の過度の部活です。高校時代、僕の一番の親友はサッカー部でした。運動神経が抜群(怪力の持主でもあって、砲丸投げの飛距離は「おまえはそれでも人間か?」と体育教師を呆れさせたほどでした)だったので、一年のときからレギュラーになり、いいときは県でベストフォーに入ることもあったから、強いサッカー部だったのですが、彼と僕は一年生のときバイクの免許を取りに一緒に教習所に通い、その後彼は中古のバイクを買ってもらったので、二人乗りでよく遊びに出かけ、土曜の夜なんかは徹夜で文学論を戦わせたりもしていたので、今考えると、部活にもずいぶん“ゆとり”があったのです。僕は生徒たちに、「オリンピックの強化選手ではあるまいし、何でそんなに休みまで潰して部活をやってるわけ?」と聞くのですが、そちらもいくらか常軌を逸しているように見えるのです。あんなものは、健康増進のため、楽しむためにやるものです。
これを要するに、延岡で今行われている生徒の健康を破壊しかねないような“超管理教育”も、少なくとも三十何年前までは存在しなかったということです。僕が電話で県教委に聞いたところでは、課外をやれとそこから指令が出ているわけでもない(山のような宿題についてはなおさら)。それは各学校で“自発的に”行われているのです。生徒はむろん、そんなものを“自発的に”求めてはいない(ストックホルム症候群にかかっているのではないかと疑われるようなマゾ的な生徒や親がごく一部いるとしても)。むしろ彼らはそれを嫌悪しているので、教師たちが押しつけで勝手にやっているだけなのです。
その頭の固さは、延岡高校には愚にもつかない「冬場のマフラー禁止(詳細は前にも書いたので省きます)」の校則があって、生徒たちの再三の要望にもかかわらずまだそれを撤廃しないほどで、恐るべきものがあるのですが、僕が主張している「朝課外の廃止」などは、生徒を慢性的なひどい睡眠不足から救い、教師たちから早朝出勤の負担を免除し、わざわざそのために早起きして子供の弁当を作らねばならない母親たちの負担を減らすという点で、誰にとってもよいことずくめです。それでこどもの学力低下が起こるというのなら、ふだんの授業の質を高めればすむ話なので、寝不足の子供相手にいくら長時間、ダラダラ授業をやったところで、学力なんてつくはずはないのです。
実にシンプル明白そのものの論理でしょう? 誰もそれで困る人はおらず、かつ、新たに何か負担になることをやれと言っているのではない。無駄な、弊害ばかり目立つことをやめれば、と言っているだけなのです。面倒なことは一つもない。なのにそのかんたんなことをなぜやらないのか? そこには「今までそうだったから」という以外に、確たる理由は何もないはずです。木っ端役人特有の「先例踏襲」「思考停止」があるだけだと言えば、先生たちは怒るでしょうが、そうでないとすれば、「方針を改めると生徒にナメられる」という愚にもつかないプライドからする警戒心でしかないのです。中には何かと言えばすぐ怒鳴り散らして、恐怖で生徒を服従させようとする、「おまえは戦前戦中の姑息な軍曹の生まれ変わりか?」と言いたくなるような教師までいるそうですが、そんなやり方で生徒に“尊敬”されたいと思っても、それは土台無理な相談なのです(僕も高1のとき、怒った教師に殴りかかられたことがありますが、“神の恩寵”でその動きがスローモーションで見えたので、難なくそれをかわし、彼は勢い余って派手に転倒して、笑いものになっただけでした。僕は当時150センチしかないやせたチビだったので、ゴリラみたいな体格のその担任教師〔地学担当だった〕の襲撃をまともに食らっていたら、大怪我させられていたでしょう。その教師は自分の怒りと愚行を「教育的配慮」に基づくものだと言い訳しましたが、何のことはない、自分の明白な非を強弁して頑なに認めようとしない、その卑劣さに生徒の僕が腹を立ててにらみつけたことに“逆ギレ”したにすぎなかったのです。以後、彼が生徒たちの信頼を完全に失ってしまったことは言うまでもありません)。
うがった見方を好む人は、僕が学校に対して好意的な見方をしないのは、そうした個人的な経験のトラウマによるのではないかと言う人もいるかも知れません。しかし、それは、自業自得とはいえ恥をかく結果になったその教師の側のトラウマになることはあっても、僕自身のトラウマにはならないのです。他にも2年次には二度ばかり生徒をなめすぎた腹の立つ教師をやり込めたことがあるし、3年次には過度に熱心な風紀係(今は生活指導係というそうですが)の教師二人がブラックリストを作成し、違法な手段でその生徒たちの「非行」の証拠を集めようとして(下宿のおばさんの信頼も厚く、品行方正を自認していた僕は、自分がそのリストの上位にランクされる光栄に浴していたことを知って仰天しました)、墓穴を掘るという事件(新聞沙汰になった)がありましたが、僕はそれらによっていかなる処分も受けたことはないし、全体としては先生たちとの関係も良好で、よいクラスメートたちに恵まれたし、楽しい学校生活を送ったからです。個人的に学校憎悪に傾く理由は何もない。むしろ、昔自分たちが享受できた自由があまりになさすぎるがゆえに、今の延岡の子供たちの境遇に同情するのです。何でもっとのびのびさせてやらないのかと。
いい加減、話を元に戻しましょう。他県の人たちはそんな地方のマイナーな問題には興味がないと言われるかも知れません。しかし、一事が万事で、似たようなことは周辺にいくらも転がっているのではないでしょうか。それが今の日本社会の風通しの悪さの原因なので、国内的には「戦争のない平和な時代」が六十六年も続いたのはめでたいが、多くの組織ではイエスマンや小利口な世渡り上手ばかりが出世して、一部のボス的な人間が組織を壟断(ろうだん)することも多くなり、両者相まって組織をおかしなものにしてしまった。かつ、一人一人の人間はやけに臆病で保守的になってしまったので、強化された日本的な“事なかれ主義”による「臭いものにはフタ」式の態度の蔓延が、そうしたことをさらに助長する方向に働いたのです。
だから社会が全体にこれほどまでに欠しい問題解決能力しかもたなくなったので、今の日本社会の真の危機は、そこにあると僕は考えています。ひとことで言えば、それは「個の自立の欠落」です。「日本人の劣化」が言われ、今は老いも若きもジコチューな人が増えたとはいえ、それは「個の強化」の結果ではないので、個としての未熟がもたらす幼児化現象でしかないのです。明確な個がなければ、社会や公の観念もない。幼児的な自己愛と、それに貼りついた自意識しかもてない人に、社会的公正や客観的な自己観察など、期待できる道理がありません。そのような人の意識は「主客未分離」で、それは宗教的な覚醒のように、意識が主客を超えた地平に達したのではない、たんなる「主」しかない世界に落ち込んだのです。それは「客」が認識できず、したがって自分しかないのです(こうした人間精神の未熟化は世界的な傾向のように思われますが、それは娯楽や物質的な利便の拡大と無縁ではないでしょう。エネルギーが外部的・末梢的なものに奪われすぎて、それが内的な人間的成熟を妨げているのです)。
今の日本は「ムラ社会」で、昔よりそれはいっそう甚だしくなっています。原子力村だけではない、教育村、官庁村、労働組合村、宗教村、農協村と様々なムラがあって、是も非もなくそれにしがみつくだけの利己的にして貧弱な自己しかもちえない人が増えすぎてしまったからこそ、これほどまでにどうしようもない状態になってしまったのではないでしょうか(年金制度なんて、僕が二十代の頃から破綻は必至だと言われていたのに何もしなかったわけで、今さら小手先の“改革”でそれが救える道理がないでしょう)。必要なのは自分が所属するそのタコツボ組織を超えて社会の全体を鳥瞰し、そこから翻って組織の異常を正してゆける個人が出てくることですが、その認識には明確な「個」が必要だし、その際はいやでもそこにはびこる既得権益の類とだけでなく、見てきたような「世間的なもの」とも戦わねばならなくなるので、足腰が強くなければならないでしょう。「がんばろう、日本!」のかけ声や、「今年の言葉」にえらばれたという「絆」が、いたずらに集団的なものを強化するものにならなければいいがと、僕は案じています。
最後に、カモーラみたいなのが日本に“上陸”してくれば(中国マフィアなどはすでに来ていると聞きますが)、誰がそれを阻止するのでしょう? 「あの国は駄目だ。役人も警察もえらくしっかりしてやがって、賄賂もビタ一文受け取らないし、自分の命を失うことも恐れず、きっちり規制をかけてブロックされる」なんて、カモーラの幹部が嘆くことになればめでたいことですが、それはあまりありそうもない話に思われます。逆に報復を恐れて及び腰になり、「暴排条例」でヤクザに組の看板を下ろさせて、表向き解散させたまではよかったが、彼らが地下に潜って、そうした外部勢力と結託して、もう「仁義、礼節」なんてタテマエは何も気にしなくてよくなっているわけだから、やりたい放題やってやれ、ということにもなりかねないわけです。かくて日本社会は、おやじギャグで恐縮ですが、カモーラのいいカモにされるのです。
それを防ぐには何が必要かというと、やはり「個に基づく勇気」でしょう。平凡すぎると笑われるかもしれませんが、それが僕の結論です。
来年は今年にも増して多事多難な年になりそうなので、取り組み方がどうのという以前に、社会が「全面崩壊」に陥らねばいいがと思いますが、そうなればなったで、社会のありようを根本から変えるにはいいチャンスかも知れません。どのみち、安易な馴れ合いで通る時代はもう終わったということです。
長々まとまりのない話になってしまって恐縮ですが、今年の記事はこれで最後になると思うので、皆さん、元気によいお年をお迎え下さい。
どこの国にも経済には表経済と裏経済があるようですが、単純に言えば、これは裏が表を乗っ取ってしまって、市民がそれに従属させられてしまった都市のお話です。世は「グローバル経済」の時代なので、それはむろん海外進出していて、多くの国の経済と社会を侵食しつつある。しかも、フィクションではなく、実話だというから恐ろしい。
僕が考えているうちにだんだん気が滅入ってきたのは、よくよく考えてみれば、何もこの本に出てくるイタリアの巨大マフィア・カモーラ(カモッラ)だけでなく、アメリカのウォール街なんかも、公然と殺人は犯さないまでも、本質は同じではないかと思ったからです(映画『インサイド・ジョブ』の感想「現代の悪魔」10/17をご参照下さい)。モラル無用の、合法を装った犯罪組織。それが国家権力を完全に抱き込んでいる点では、後者の方が“上”です。
わが国でも、この前の福島原発の事故後、「東電マフィア」という言葉がよく使われるようになりましたが、あれも同類ではないかと思い当たるのです。カネで組織や個人を囲い込み、公然と不都合な情報は隠蔽して(内部告発されたものまでもみ消しをはかろうとする)、真実を伝えようとする個人や報道機関は恫喝し、逆らうといやがらせをしたり、学者なら村八分にして出世を妨げようとし、邪魔な政治家なら収賄スキャンダルをでっちあげ、力づく排除しようとする。法規まで、役人と結託して好都合なものを作る(改変する)のです。これはマフィアのやり口以外の何ものでもありません。ヒットマンを雇って撃ち殺すことまではしなくても、ほんとにヤバイ情報を握られたら、交通事故を装って殺すぐらいはやりかねないのではないかと思います。「おお、こわ…」と笑ってすませるわけにはいかない。最後の話はともかく、それ以外は全部「東電マフィア」がやってきたことで、あの事故のために、報道機関は雪崩を打って東電を批判し始めたにすぎないのですから…。
僕が「暴力団排除」に白けた視線を向けるのもこういうことがあるからで、東電みたいなのを“財界の中枢”にしておいて、しかもああいう大事故の後でもまだ解体ではなく残存・復活させようと官政財一致協力してあれこれ策謀しながら、「不正な暴力団は許しません」なんて、オツムの配線はどうなっているのだと、立ち入っておたずねしたくなるほどです。少なくとも僕は、子供たちに「東電と山口組と、どっちが悪どいの?」と聞かれたら、返答に窮します。むろん、彼らはそんなことは聞きません。東電の方が悪質だと、オトナに聞くまでもなく承知しているからです(東電は「冷温停止」したと発表し、政府は「事故収束宣言」を出したそうですが、大本営発表か北朝鮮のニュースみたいなもので、小学生でもその無意味さはわかります。今頃は海外のいい笑いものになっているでしょう。これも一々ニュースをチェックしなくてもわかる)。
だから「マフィア支配」の国は、何もイタリアにはかぎらないわけですが、そう言えば話が終わってしまうので、ここは「マフィア」を一応狭義に解釈して、話を進めることにします。ギャングやマフィアが公然と経済システムを支配する、このイタリア・ナポリのような状況になれば、それでなくとも「長いものには巻かれろ」メンタリティが強い日本などでは、どうなってしまうでしょう? 告発したり抵抗したりすれば日干しにされて経済的に困窮するとか、社会のまともな職業・地位からパージされてしまうというだけでなく、命さえ狙われ、奪われるのです。それも意図的にでっち上げられたスキャンダルなどによって不名誉な汚名を着せられ、「私生活上のお粗末なトラブルが原因で殺されました」ということにされて、二重の恥辱にさらされる(げんに著者自身がそうした例に言及しています。こちらの親切なサイトの訳「作家がマフィアと戦う方法」参照)。
いい目が見られるのは「組織」(そういう言葉がこの本でも使われていますが)にうまく取り入った者だけで、下々の人は貧困の中に据え置かれる。これを変えようと目立ったアクションを起こした者は殺されるのだから、日本人の好きな「仕方がない」の言葉に従って、利口な人の大半は犯罪経済の中でうまく立ち回る方を選択する、なんてことになりかねない。それがまた、マフィア組織には好都合に働くわけです。
今はまだそこまでは行っていないから心配はいらない、とは僕は思いません。「暴力団排除条例」でそれが防げるとは思わない。すでに見たように、今は表の経済が“裏化”しつつあるように見えるからです。東電の偉いさんたちにその自覚はなかったのでしょうが、彼らがやってきたことはまともな人間のやることではなかったのですから。それに協力してきた御用学者たちは、この本に出てくる、有害産業廃棄物を悪知恵を働かせて不法投棄するプランを提示して「組織」に取り入り、金儲けをする大卒エリートたちとさほど変わりません。気前のよい広告主である東電に黙らされていたマスコミも、同じく恩恵をこうむっていた各種企業も、下請け業者も、このマフィアに逆らえなかったのです(経団連は今でも東電の味方です)。役人たちは…こちらは初めからグルだった。それぞれにそれぞれの言い訳はあっても、事実としてはそうなのです。繰り返しますが、これがふつうの「暴力団」よりマシだと言えるのでしょうか? 優良企業、「半公共機関」を装っているだけなおさら始末が悪い、と僕は思います。儒教の「正名」の教えによれば、外観・形式(名)と内容(実)が一致しなくなることは道徳的腐敗、世の乱れを惹き起す元凶です。紳士を装ったゴロツキほど有害なものはなく、そういうのが大きな顔をする社会は、時間の問題でゴロツキどもの跋扈・支配する社会へと転落するのです。
この本の後ろの方(p.409~412)に一つのエピソードが紹介されています。マフィア組織同士の抗争事件(それは日常茶飯と化している)の中で、一人の関係者が自動小銃で射殺される。白昼堂々のこの犯行には複数の目撃者がいたが、そのうちの一人の女性が裁判で証言し、おかげで犯人は特定され、終身刑を宣告された。これは例外的なことで、ふつうは顔を伏せて、見なかったことにし、証言せずにすむようにするのがあたりまえのようですが、この三十五歳の幼稚園教師はそうはしなかった。大方の人がそのようにするのは、「恐れ、脅迫への恐怖、…とりわけ徒労感と犯人を逮捕させることへの無力感」があるからですが、「この女教師は、沈黙を許す数々の弁解をしりぞける唯一の動機を見つけた」のだと著者は言います。それは何か?――「真実」であると。
この女性の勇気ある態度は裁判官にも「砂漠に咲いた薔薇」のようなものだと賞賛されたそうです。しかし、それは彼女を困難に陥れた。そこの箇所を(このあたりは例外的?に読みやすい文章になっているので)引用します。
【だが、彼女の証言はその生活を困難なものにした。生活の糸がもつれ、勇気ある証言の結果、日々の暮らしが崩れるかに見えた。彼女は結婚を控えていた。しかし、相手の男は破談を申し入れた。彼女は仕事を失い、転居を余儀なくされた。警察の保護を受け、国から支給されるわずかの金で暮らす身となった。親戚の一部は距離を置くようになり、彼女は深海の孤独の中へ突き落とされた。日々の生活の中に入り込む孤独。ダンスをしようにも相手がなくなった。電話は虚空の中で空しく鳴った。友人は次第に減り、最後には一人もいなくなった。問題なのは警察に話したということではなかった。物議をかもすのは殺人犯を告発したということではなかった。沈黙の掟(オメルタ)の論理はそれほどに月並みなものではない。この若い女教師の行動を非常識な振舞だとしたのは、自然で本能的な、生命にも関わることとして証言できる力をそこに見たためである。つまりは、世間の常識に反したということである。そのように自分の生活を生きることは、真実が存在すると信じることを意味する。真実のみが価値をもち、欺瞞には何の価値もないということ。だから、世間の人々は、自分たちが全面的に受け入れている共同体のルールを拒んだ者を前にして困惑しないではいられない。なぜなら結局のところ、すべてはそのように行われてきたし、いつもそのように行われるはずであり、自分だけの力ですべてを変えることはできず、したがって慎ましく暮らし、生きられる流儀で生きなければならないのだから。】
正直、途中の「自然で本能的な、生命にも関わることとして証言できる力」というのは、文脈からしても重要な箇所ですが、僕には今一つ意味がよく呑み込めません(この訳書が読みにくいのは、体言止めを多用していることの他に、この種の??という箇所がいくらか目立ちすぎて、その都度足止めを食らってしまうからです。そのあたり、もう少し考えていただきたかったと思います。訳すのが大変な本だろうとは内容からして察しがつくのですが)。
が、そういう話は置いといて、内容の話に入ると、この著者の洞察は普遍的な意味をもつもので、とりわけ事なかれ主義者の多い今の日本人には、耳に痛い言葉ではないでしょうか。最後の「世間の人々は、自分たちが全面的に受け入れている共同体のルールを拒んだ者を前にして困惑しないではいられない。なぜなら結局のところ、すべてはそのように行われてきたし、いつもそのように行われるはずであり、自分だけの力ですべてを変えることはできず、したがって慎ましく暮らし、生きられる流儀で生きなければならないのだから」というところです(ちなみにこの本では、特に一章を設けて、正面から「組織」の権力に立ち向かい、三十六歳の若さで五発の銃弾を受けて暗殺された一人の勇気ある神父の話も語られています)。
わが国の場合には、別にギャングによる殺人事件の証言ではなく、会社の違法行為の告発程度にしても、それを行う人は当該組織からの攻撃にさらされるだけでなく、会社の同僚や世間からもしばしば非難中傷されるのです。いわく、「あいつがあんなことを暴露するのは昇進できなかった腹いせだ」とか、「性格的な問題からではないか」とか、よほどうまくやらないと、すっかり孤立させられるだけではなく、いわれのない中傷を受けて人間的にも貶められてしまう。組織や権力と個人が対決するのはそれでなくても大変なのに、その上にこれでは、大方の人は参ってしまうでしょう。しかし、それを覚悟しないといけないのです(例の清武氏とナベツネのバトルにしても、さすがにナベツネはやることが汚いなと思って、僕は見ています。子分を総動員して一緒に悪口を言わせ、読売新聞そのものまで私的な道具に使う卑怯なやり口で、はからずもナベツネはそれによってグループ内での恐怖政治の実態を自ら世間に暴露してしまったのです。ナベツネは清武氏の「無能さ」〔「育成選手重視」の方針などは結果が出始めているので、自分は清武氏を評価すると、ジャイアンツファンの知人は言っています〕をあげつらいますが、そういうおかしな独裁体制だからこそ、球団幹部からスカウトまで、いい人材も集まらないのだということがおわかりでない。貧乏球団のヤクルトを見なさい。スカウト陣は一流でっせ。それで連れてきた外人を、巨人は片っ端からかっぱらってるけれど、そういう札束で人の顔を張り飛ばして、他球団のエースや四番をかっさらってくることだけが、ナベツネ流の“球団強化”法なのです。今後も同じやり方を続けるつもりのようですが、少しは恥を知るがいいので、いつまでも老醜をさらさず、さっさと引っ込むがいいのです。誰のせいでプロ野球が面白くなくなっているのか、この独善の極致みたいなジイさんはまるでわかっていないのです)。
つい野球のことでエキサイトしてしまったので、( )内のことは忘れて、話をつなぎましょう。「わが国には社会などない、あるのは昔ながらの『世間』だけだ」と言ったのは阿部謹也氏ですが、日本人の、日本的世間の、必要以上に波乱や対立を恐れ、それ自体を「悪」とみなすそういう性質は今も“健在”で、最近は少し風通しがよくなってきたかなと思わせる面もありますが、なおも強力であることには変わりがありません。
しかし、どうしてそういう反応は起こるのか? そうした「勇気ある行動」は世間を恐れ、できるだけ波風を立てないように心がけて生きている「勇気のない」自分たちへの非難だと感じる人が少なくないからでしょう。あるいは、「掟破り」に対する本能的な恐怖心があって、それが嫌悪感としてその人に投影されるのです。ほとんどの場合、その心理反応のプロセスは自覚されていない。むろん、なかには嫉妬や私怨でしかないものをさも「公正な批判」であるかのように装って、あるいはそこで目立ちたい、権力をもちたいからというので殊更な中傷をして見せたりする手合いも実際にいるから話はややこしくなるのですが、何でもかんでもそういうものに還元して事柄を矮小化してしまおうとする背後には、そうする人自身の自己正当化、合理化心理が作用していることが多い、ということです。
引用文に話を戻して、この女性は「見たものは見た」と言っただけです。組織に殺されかねないことは十分承知の上で。しかし、難を恐れたフィアンセには見捨てられ、親戚や友人も遠ざかって、しまいには誰もいなくなり、「深海の孤独の中へ突き落とされ」る羽目になる。組織に命を狙われることと、恋人を含む世間の人たちのこの冷たい仕打ちと、どちらが本人には恐ろしいかというと、それは明らかに後者でしょう。この種の「恐怖」は、日本人なら誰でもよく知っているはずです。
「世間というのはそういうものだ」と言ってしまえばそれまでで、ここからしばらく話は脱線しますが、僕は何ヶ月か前、会社のひどい勤務状態のことで「もうやめたい」と苦悩のメールを送ってきた元教え子のことを書いたことがあります(その後状況は大幅に改善されたそうで、帰宅時間も早まり、休日もちゃんと休めるようになりました、という喜ばしいメールが届きました)。このとき、親自身がロクに話も聞かないまま「おまえが甘いのではないか」「世間とはそういうものだ」と子供に言って、彼女はそのことに二重に打ちのめされていたのです。非常識で異常なのは会社の方であって、彼女ではなかった。話を聞いてあげればそれはすぐわかるはずが、おそらく親はどうすればいいかわからないまま、恐怖心理に支配されて、無意識に「世間」の側に立ってしまったのです。僕はと言えば、彼女のメールを読んですっかり腹を立ててしまいました。そんな馬鹿な話があるかと思ったからです。相談してきた本人以上に僕の方が怒ってしまうというのはこういう場合、よくあるパターンなのですが、何が彼女の助けになったかというと、たぶんそれは僕がそのときした具体的ないくつかのアドバイスよりも、自分のために本気で怒ってくれる人がいる、最悪の場合には直接行動に出て手立てを講じる(電話だけでもかなりのことはできるので)と言ってくれる人がいるという、まさにそのことだったでしょう。僕はむろん、計算して怒ってみせたのではありませんが、それが彼女の孤立感を和らげたのです。
もう一つ、こちらは二十年以上も昔の、関東にいた頃の話になりますが、やはり塾の元生徒が高校入学後一週間で不登校になってしまったというので、母親が相談に見えたことがあります。そのお母さんはかなり憔悴していました。不登校なんてよそのことで、まさか自分の娘が不登校になってしまうなんて、夢にも思いませんでしたと前置きした後で、その母親はこう言いました。
「自分で言うのも何ですが、私はかなりお友達は多いほうだと思っていました。それがこのことを話すと、皆さん、自分の子供にも悪い病気が移ってしまうとでもいうみたいで、潮が引くようにさーっと引いてしまったんです。娘の不登校に加えてそれなので、私にはほんとに応えました」
そのお母さんはたいへん感じのいい人で、「お友達が多い」というのは当然なのですが、それでもこうなのです。娘の方も賢く善良なよい子でしたが、いくらか内気でした。そもそもその学校は、その子の成績からすれば学力レベル的にも低すぎる学校でしたが、超がつくほど安全志向の学校の先生が強くそこの専願受験を勧めたというので、僕は自分の意見は言いましたが、親子もそれでいいと言うので、そういう選択になったものでした。
母子は私立女子高の再受験を希望していました。脱線が長くなりすぎると思われるかも知れませんが、まあ聞いて下さい。「世間」のおぞましさは別のところにも出ていたからです。僕はそれで候補になりそうな私立女子高校の入試で再受験がどういう扱いになっているかを調べました。直接学校に電話もした。こういう場合、少なくとも私立高校の塾に対する応対はていねいです。規模が小さくないとなればなおさら。それは塾が受験動向にどれほど大きな影響力をもっているかをよく知っているからです。しかし、その質問に対する返答は全部同じでした。「受験は自由です。但し、これまでそれで合格した生徒は一人もいません」というものです。当時は第二次ベビーブームの最中で、私立も生徒集めにはさほど苦労しなかったから、今とはそのあたり事情が全く違うので、今はそんなことはないかも知れませんが、そのときはこうだったのです。要するに、他校を中退するとか不登校になるとかというのは、その生徒が何か「面倒な問題」をもっている可能性が高い。募集要項に載せると人権問題として叩かれるので書かないが、成績はどうでも、そういう生徒を抱え込むのは面倒だから落としてしまう、ということです。
それが教育機関のやることかと憤っても問題の解決にはならない。いじめ問題への対応などを見てもわかるとおり、今の学校なんて大方はその程度のものだからです。僕は本部に電話をして(そこには集団部門と個別指導部門があって、当時の僕の役職は個別部門の総責任者で、二つの教室を管理していました)、塾長に何か“裏技”はあるかと聞きました。多額の寄付金でも約束するか、あるいは関係者、理事でも押さえれば何とかなるかも知れないというので、なるほどと思い、連絡を取り合っていたそのお母さんに、こうたずねました。「親戚か知人の中に、ここならという私立女子高の理事をやっている人はいませんか? 僕もこれからそれを探してみますが、やってみて下さい」
すると、ほどなくお母さんから連絡が入りました。「いました!」学校もちょうどいいレベルで、実力を発揮すれば合格点は確実にとれそうなところでした。「じゃあ、その人に一度ご主人と一緒に直接お会いになって、詳しく事情を話し、おかしな妨害をされないように頼んでおいて下さい」どういう意味かと言えば、点数が足りないのに不正に合格させてくれという依頼ではない、足りているのに再受験の生徒だから落とすという不正な行為をさせないように頼む、ということです。入試時に念押しの電話を怠らないようにということも申し添えました。
この作戦は成功し、その子は精神安定剤の代用もかねて塾にまた一年通い、翌年その高校に合格し、今度は不登校になることもなく、元気に通学しました。明るさが戻った母子のその表情は、僕には何よりの報酬でした(菓子折り程度のものは受け取っても、僕がそれで塾の月謝以外のものを受け取ったということはありません)。
何を言いたくてこんなことを書いたのかというと、日本にある「世間」というのはこういうものだということの傍証にです(長くなるからから書かないだけで、僕が直接関与したことだけでも類似の例はたくさんあります)。場合によっては一番近いはずの家族ですら、しばしばその「世間」の一部なのです。僕はそれを非難しているのではありません。「面倒なことは見たくもないし、聞きたくもない」という心理が、それは世間を恐れる心理の裏返しなのですが、苦境に陥った人に二重のダメージを与えることがあるということです。自分から何か敵対とみなされるような行動を取ったわけではまるでなく、世間おきまりのルートをちょっと外れかけたというだけで、これですよ。日本社会の、「世間」の真の恐ろしさは、こういうところにあるのです。
考えてみれば、これは実に馬鹿げたことです。社会は個人によって構成されているのであり、個人の集まりだからです。そして神ならぬ人間の集まりであれば、そこには不都合なことやトラブル・対立も発生する。その都度誠実にそれに対応して、解決をはかればいいだけです。昔あったアメリカ製テレビアニメの主題歌のセリフを借りれば、「♪トムとジェリー、仲良くケンカしな」でいいわけです。波風が立たない方がどうかしている。
ところが、日本人はここに「世間」という実体のない幻影を持ち込む。「みんな」がどう思っているかということが重要になるのです。「みんな」は「みんな」違うだろうとは思わない。「みんな」は一緒で、自分がそれから外れたら大変だと思うのです。だから動きが取りにくく、そこから外れた、外れそうになった人が出るとあわててその人に距離をとろうとする。それはほとんど反射的、本能的なもので、合理的な理由はないのです。
僕自身は「世間的なもの」にあまり頓着しない、明確な「個」の輪郭をもつ合理主義的な考えをする父親(親戚にも他に似た人はいなかったので、それは突然変異みたいなものですが)に育てられたので、その点いくらか幸運でしたが、大方の場合には、「世間」は家庭にも侵入し、そこに君臨し、支配しているのです。
だから、物心ついて以来、ずっとそれに怯え、かつそれに自己同一化しながら生きることになるのですが、「世間」とは一個の“共同幻想”であり、実体ではありません。それはそこに暮らす人たちの心理的な投影によって栄養を与えられ、維持されているものにすぎないからです。それは幽霊もしくは妖怪です。ある意味、そちらの側に立てば責任をもたなくてすむので気楽なのですが、たいていはそれによって苦しめられることの方がずっと多いのです。
こうした「世間恐怖」心理のために、多くの人は「社会は個人の集まりに過ぎないのだから、個人が動けばおかしなことは変えられる」という正常な感覚をもてなくなってしまう。この点、日本には社会と呼べるようなものはない、という阿部先生の指摘はご尤もなのです。
こういう擬似社会(いわば“空気”が支配する)における組織や集団は、たやすく没論理の“仲良しクラブ”に陥ってしまい、たやすく公私を混同し、そこにとくに権力的なボスがいたりなどすると、たやすく独裁体制ができてしまいます。そのボスは、人々の日本的なこの「世間恐怖」心理をうまく利用するのです。僕は12/7の記事(「個人宗教」のすすめ)に、「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の言葉は弊害の方が多かったのではないかと書きましたが、この世間恐怖と不可分一体になった“道徳もどき”と、「ボスに逆らうとひどい目に遭う」という心理を組み合わせれば、鬼に金棒なのです。
先頃、大王製紙の三代目御曹司が特別背任の疑いで逮捕されましたが、あれなんかも創業家が大株主だったから、というような話で説明がつくようなものでは本来ないでしょう。彼は子会社から自分の遊び(バクチと女)の借金を埋め合わせる資金を吸い上げていたそうですが、どんな大株主・権力者であっても、会社(直接には経理担当者)がそんな公私混同の不正な要請に応じなければならない理由はありません。「お断りします」「何だと! クビにされたいのか?」「勝手にクビにすればいいでしょう。私はそのような不正解雇に対しては訴訟を起こして断固戦います」そう言われれば、相手はまずいことは承知で、だからこそそんな脅しもちらつかせるわけだから、ほんとにそんなことされて事が暴露されたら困ると思うでしょう。暴力団の類を使って脅しにかかれば、自分や家族に万が一のことがあれば、マスコミとインターネットに同時に情報が流れるようにしておいて、「このとおりなので、それを承知の上でおやり下さい」と言ってやればいい。それぐらいの勇気があれば、薄汚い奴は根性なしなのが通り相場なので、たいていは手も足も出なくなるのです。東大を出てるんだか何だか知らないが、苦労知らずの甘タレ小僧になんぞナメられてたまるか、という矜持(きょうじ)をもつのです。ほんとなら直接会ってボコボコにしてやるところだが、それで傷害罪に問われるのは馬鹿らしいので、控えめにしてやってるだけだ、有難く思え、というようなものです。
しかし、そんな骨のある社員は、そんな会社には残っていない、とっくの昔に辞めているという話なのでしょう。それでああいうことがまかり通るわけです。
東電をはじめとする電力会社の問題でも、今は「世間の風向き」が変わったから、公然と批判が行われるようになっただけです。批判それ自体は正当でも、この場合、殊更勇気は必要ではない。だから僕なども、気楽に東電の悪口を書いていられるわけです。
しかし、前にここに何度か書いた延岡の県立普通科高校の問題などでは、そう「気楽に」とはいきません。個人的には「よくぞ書いてくれました」と言う人はたくさんいても、仮に僕が当該高校や県教委から名誉毀損の類で訴えられたとして、その人たちが助けてくれるかどうかは疑わしいのです。少なくとも僕自身はそんな甘い見通しはもっていない。大方の人はそのときそのときの「世間の風向き」次第だからです。僕は怪しげな一介の塾教師であり、相手は「公共機関」(学校も県教委も)で、かつ何十年も“伝統”として僕が理不尽で合理性がないと主張することを続けてきたのです。そんなにおかしなことなら、何故そんなに長くそれが続き、かつ、それに反対する動きが起きなかったのか? 僕がもし正しいとするなら、学校のみならず、地域住民は長年そのおかしなことを黙認または支持してきたのだということになります(親自身も多くはそこの卒業生です)。
僕自身にはそんなつもりは毛頭なくても、これは間接的に自分たちを非難しているのだという面白くない感情をもたれても不思議はない。中には単純な愛校心から、自分の母校が攻撃されていると解して腹を立てる人もいるでしょう。幸いに塾の生徒の親たちには、そんなおかしな人はいません。生徒たちも僕が敵だとは、むろん思っていない。
これもしかし、問題は「世間」なので、理不尽だと憤る子供や親はこれまでもたくさんいたが、それで何か言っても自分がワリを食うだけで、何も変わらないだろう、自分に協力して助けてくれる人は誰もいないと考えて、沈黙してしまったのです。自分が、わが子が卒業するまでの辛抱だと。だから何も大きな動きらしきものは起きなかった、それだけの話なのです。わが国の色々なところに巣食う理不尽は、たいていこのようにして維持されています。そしてそれは、マスコミ沙汰になるような事故や不幸な自殺などの事件が起きて、初めて問題視されるようになるのです。が、それは急に出現したのではない、元からそこにあったのです。
脱線の脱線になりますが、この問題に関して、僕はつい先日、自分より何歳か下の、高校生の子供がいる地元の友人から面白い話を聞きました。「考えてみれば」と彼は言いました。「私の頃は朝課外(ゼロ時限の授業)なんてなかったんですよね。宿題も今よりずっと少なかった。課外は3年生だけだったんです。部活も、進学校なので、やっていない奴の方が多かったと記憶しています。だからそんなにしんどくなかった」してみれば、昔は延岡の県立普通科高校もこんなことはなかったということです。僕と同い年ぐらいの生徒の父親からも、「私のとき(1・2年はなかったとすれば3年次)は、『こんなものやってられるか!』ってことで、全員で課外をボイコットして、その年は課外不成立になってしまったから、あんなものボイコットしてしまえばいいんですよ」と事もなげに言うのを聞いたことがあります。僕の世代の感覚なら、それはふつうのことです。大学生たちが暴れていたこともあって、当時は高校生も元気で、理不尽なことがあれば教師と正面からやりあって、授業ボイコットぐらいは朝飯前だったからです。
僕にもう一つわからないのは、あの休日も何も大方潰してしまう今どきの高校生の過度の部活です。高校時代、僕の一番の親友はサッカー部でした。運動神経が抜群(怪力の持主でもあって、砲丸投げの飛距離は「おまえはそれでも人間か?」と体育教師を呆れさせたほどでした)だったので、一年のときからレギュラーになり、いいときは県でベストフォーに入ることもあったから、強いサッカー部だったのですが、彼と僕は一年生のときバイクの免許を取りに一緒に教習所に通い、その後彼は中古のバイクを買ってもらったので、二人乗りでよく遊びに出かけ、土曜の夜なんかは徹夜で文学論を戦わせたりもしていたので、今考えると、部活にもずいぶん“ゆとり”があったのです。僕は生徒たちに、「オリンピックの強化選手ではあるまいし、何でそんなに休みまで潰して部活をやってるわけ?」と聞くのですが、そちらもいくらか常軌を逸しているように見えるのです。あんなものは、健康増進のため、楽しむためにやるものです。
これを要するに、延岡で今行われている生徒の健康を破壊しかねないような“超管理教育”も、少なくとも三十何年前までは存在しなかったということです。僕が電話で県教委に聞いたところでは、課外をやれとそこから指令が出ているわけでもない(山のような宿題についてはなおさら)。それは各学校で“自発的に”行われているのです。生徒はむろん、そんなものを“自発的に”求めてはいない(ストックホルム症候群にかかっているのではないかと疑われるようなマゾ的な生徒や親がごく一部いるとしても)。むしろ彼らはそれを嫌悪しているので、教師たちが押しつけで勝手にやっているだけなのです。
その頭の固さは、延岡高校には愚にもつかない「冬場のマフラー禁止(詳細は前にも書いたので省きます)」の校則があって、生徒たちの再三の要望にもかかわらずまだそれを撤廃しないほどで、恐るべきものがあるのですが、僕が主張している「朝課外の廃止」などは、生徒を慢性的なひどい睡眠不足から救い、教師たちから早朝出勤の負担を免除し、わざわざそのために早起きして子供の弁当を作らねばならない母親たちの負担を減らすという点で、誰にとってもよいことずくめです。それでこどもの学力低下が起こるというのなら、ふだんの授業の質を高めればすむ話なので、寝不足の子供相手にいくら長時間、ダラダラ授業をやったところで、学力なんてつくはずはないのです。
実にシンプル明白そのものの論理でしょう? 誰もそれで困る人はおらず、かつ、新たに何か負担になることをやれと言っているのではない。無駄な、弊害ばかり目立つことをやめれば、と言っているだけなのです。面倒なことは一つもない。なのにそのかんたんなことをなぜやらないのか? そこには「今までそうだったから」という以外に、確たる理由は何もないはずです。木っ端役人特有の「先例踏襲」「思考停止」があるだけだと言えば、先生たちは怒るでしょうが、そうでないとすれば、「方針を改めると生徒にナメられる」という愚にもつかないプライドからする警戒心でしかないのです。中には何かと言えばすぐ怒鳴り散らして、恐怖で生徒を服従させようとする、「おまえは戦前戦中の姑息な軍曹の生まれ変わりか?」と言いたくなるような教師までいるそうですが、そんなやり方で生徒に“尊敬”されたいと思っても、それは土台無理な相談なのです(僕も高1のとき、怒った教師に殴りかかられたことがありますが、“神の恩寵”でその動きがスローモーションで見えたので、難なくそれをかわし、彼は勢い余って派手に転倒して、笑いものになっただけでした。僕は当時150センチしかないやせたチビだったので、ゴリラみたいな体格のその担任教師〔地学担当だった〕の襲撃をまともに食らっていたら、大怪我させられていたでしょう。その教師は自分の怒りと愚行を「教育的配慮」に基づくものだと言い訳しましたが、何のことはない、自分の明白な非を強弁して頑なに認めようとしない、その卑劣さに生徒の僕が腹を立ててにらみつけたことに“逆ギレ”したにすぎなかったのです。以後、彼が生徒たちの信頼を完全に失ってしまったことは言うまでもありません)。
うがった見方を好む人は、僕が学校に対して好意的な見方をしないのは、そうした個人的な経験のトラウマによるのではないかと言う人もいるかも知れません。しかし、それは、自業自得とはいえ恥をかく結果になったその教師の側のトラウマになることはあっても、僕自身のトラウマにはならないのです。他にも2年次には二度ばかり生徒をなめすぎた腹の立つ教師をやり込めたことがあるし、3年次には過度に熱心な風紀係(今は生活指導係というそうですが)の教師二人がブラックリストを作成し、違法な手段でその生徒たちの「非行」の証拠を集めようとして(下宿のおばさんの信頼も厚く、品行方正を自認していた僕は、自分がそのリストの上位にランクされる光栄に浴していたことを知って仰天しました)、墓穴を掘るという事件(新聞沙汰になった)がありましたが、僕はそれらによっていかなる処分も受けたことはないし、全体としては先生たちとの関係も良好で、よいクラスメートたちに恵まれたし、楽しい学校生活を送ったからです。個人的に学校憎悪に傾く理由は何もない。むしろ、昔自分たちが享受できた自由があまりになさすぎるがゆえに、今の延岡の子供たちの境遇に同情するのです。何でもっとのびのびさせてやらないのかと。
いい加減、話を元に戻しましょう。他県の人たちはそんな地方のマイナーな問題には興味がないと言われるかも知れません。しかし、一事が万事で、似たようなことは周辺にいくらも転がっているのではないでしょうか。それが今の日本社会の風通しの悪さの原因なので、国内的には「戦争のない平和な時代」が六十六年も続いたのはめでたいが、多くの組織ではイエスマンや小利口な世渡り上手ばかりが出世して、一部のボス的な人間が組織を壟断(ろうだん)することも多くなり、両者相まって組織をおかしなものにしてしまった。かつ、一人一人の人間はやけに臆病で保守的になってしまったので、強化された日本的な“事なかれ主義”による「臭いものにはフタ」式の態度の蔓延が、そうしたことをさらに助長する方向に働いたのです。
だから社会が全体にこれほどまでに欠しい問題解決能力しかもたなくなったので、今の日本社会の真の危機は、そこにあると僕は考えています。ひとことで言えば、それは「個の自立の欠落」です。「日本人の劣化」が言われ、今は老いも若きもジコチューな人が増えたとはいえ、それは「個の強化」の結果ではないので、個としての未熟がもたらす幼児化現象でしかないのです。明確な個がなければ、社会や公の観念もない。幼児的な自己愛と、それに貼りついた自意識しかもてない人に、社会的公正や客観的な自己観察など、期待できる道理がありません。そのような人の意識は「主客未分離」で、それは宗教的な覚醒のように、意識が主客を超えた地平に達したのではない、たんなる「主」しかない世界に落ち込んだのです。それは「客」が認識できず、したがって自分しかないのです(こうした人間精神の未熟化は世界的な傾向のように思われますが、それは娯楽や物質的な利便の拡大と無縁ではないでしょう。エネルギーが外部的・末梢的なものに奪われすぎて、それが内的な人間的成熟を妨げているのです)。
今の日本は「ムラ社会」で、昔よりそれはいっそう甚だしくなっています。原子力村だけではない、教育村、官庁村、労働組合村、宗教村、農協村と様々なムラがあって、是も非もなくそれにしがみつくだけの利己的にして貧弱な自己しかもちえない人が増えすぎてしまったからこそ、これほどまでにどうしようもない状態になってしまったのではないでしょうか(年金制度なんて、僕が二十代の頃から破綻は必至だと言われていたのに何もしなかったわけで、今さら小手先の“改革”でそれが救える道理がないでしょう)。必要なのは自分が所属するそのタコツボ組織を超えて社会の全体を鳥瞰し、そこから翻って組織の異常を正してゆける個人が出てくることですが、その認識には明確な「個」が必要だし、その際はいやでもそこにはびこる既得権益の類とだけでなく、見てきたような「世間的なもの」とも戦わねばならなくなるので、足腰が強くなければならないでしょう。「がんばろう、日本!」のかけ声や、「今年の言葉」にえらばれたという「絆」が、いたずらに集団的なものを強化するものにならなければいいがと、僕は案じています。
最後に、カモーラみたいなのが日本に“上陸”してくれば(中国マフィアなどはすでに来ていると聞きますが)、誰がそれを阻止するのでしょう? 「あの国は駄目だ。役人も警察もえらくしっかりしてやがって、賄賂もビタ一文受け取らないし、自分の命を失うことも恐れず、きっちり規制をかけてブロックされる」なんて、カモーラの幹部が嘆くことになればめでたいことですが、それはあまりありそうもない話に思われます。逆に報復を恐れて及び腰になり、「暴排条例」でヤクザに組の看板を下ろさせて、表向き解散させたまではよかったが、彼らが地下に潜って、そうした外部勢力と結託して、もう「仁義、礼節」なんてタテマエは何も気にしなくてよくなっているわけだから、やりたい放題やってやれ、ということにもなりかねないわけです。かくて日本社会は、おやじギャグで恐縮ですが、カモーラのいいカモにされるのです。
それを防ぐには何が必要かというと、やはり「個に基づく勇気」でしょう。平凡すぎると笑われるかもしれませんが、それが僕の結論です。
来年は今年にも増して多事多難な年になりそうなので、取り組み方がどうのという以前に、社会が「全面崩壊」に陥らねばいいがと思いますが、そうなればなったで、社会のありようを根本から変えるにはいいチャンスかも知れません。どのみち、安易な馴れ合いで通る時代はもう終わったということです。
長々まとまりのない話になってしまって恐縮ですが、今年の記事はこれで最後になると思うので、皆さん、元気によいお年をお迎え下さい。
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