今回は元の真面目モードに戻って、前に書きかけて放置していたものに少し手を加えてアップしておきます。
先月、月刊誌『世界』の10月号が「覇権国家アメリカの凋落」という特集を組んでいました。今年の九月でアメリカの9.11テロからちょうど10年になるので、そのような特集になったようです。表紙にはその下に、前福島県知事、佐藤栄佐久氏の「敵を間違えるな――うつくしま、福島をあきらめない」というインタビュー記事の紹介があって、氏の『福島原発の真実』(平凡社新書)は、僕が買った原発関連のものの中では最も感銘を受けた本の一つです(おかしな汚職の濡れ衣を着せられて失脚させられたわけですが、ほんとは偉い知事さんだったわけです)。それで目次を見て、こんなに読みたい記事がたくさんあるようならと思って、買った次第です。
読んでみたらそれ以外にも面白い記事がいくつもあったのですが(それらについては長くなるので割愛します)、その一つが「運動、世界、言語(下)」と題されたアルンダティ・ロイさんのインタビューでした。インタビュアーは『帝国を壊すために』(岩波新書)の訳者でもある本橋哲也さん。あの訳本もこなれたよい訳でしたが、このインタビューも読みやすい。(下)となっているからには(上)もあるはずで、そちらは後で図書館に当たるしかないなと思っているのですが、ともかく、それを読んで浮かんだ感想を書いてみたくなりました。
ロイさんは1997年に小説『小さきものたちの神』でイギリスの有名なブッカー賞を受賞し、それで一躍有名になったという人です。僕はまだその小説を読んでいませんが、上記の『帝国を壊すために』と『誇りと抵抗』(集英社新書)からすると、深い感受性と直観力、類稀なレトリックの駆使能力をもった素晴らしい女性作家です。そのアイロニーとユーモアに彩られた強烈な批判精神は、しかし、よく言えば「草食系」、悪く言えば精神的腺病質の日本人読者にはoverloadになってしまうことが珍しくないようで、「罵詈雑言」としか受け取れない人もいるようです。僕のように、前大統領、ジョージ・ブッシュ・ジュニアの相次ぐ愚行暴行にカンカンに腹を立てていた人間には、「よくぞ言ってくれました!」と快哉を叫びたくなるような言葉の連続だったのですが、人によってそこらが全く違うのは面白いことです。
それはともかく、そろそろ本題に入ることにして、このインタビューを読みながら、僕があらためて考えさせられたことは、「民主主義とは一体何を指すのだ?」ということです。これはインドだけの問題ではない、世界全体を覆う、むろん日本もその中に含まれる、大問題です。
僕は前にこのブログのどこかに、選挙に行くといっても、それは与えられた候補者から選ぶほかなく、事実上選択の余地がないに等しいのが困る、という意味のことを書いた記憶がありますが、その嘆きは今の日本の有権者の多くが共有しているものでしょう。だからこそこんなに投票率が低くなったり、「無党派層」が半分以上を占めるような事態になるのです。
インドではそれがさらに甚だしく、選挙で当選した連中のほとんどが「大金持ち」であるという。金を使ってメディアを操り、票をカネで買うことも辞さない。その候補者や政党は大企業のヒモつきで、要するにグルになっているのです。そうして「前回の選挙では国民会議派が主導したUPA(進歩連合)が過半数を獲得したといわれましたが、実際の獲得票数は全投票数の10%以下なのです。たったこれだけの票数で、いったい誰を代表していると言えるのでしょうか?」ということになってしまう。
要するに、ごく一部の“持てる(カネと権力を)者”たちが国政を牛耳り、タテマエだけの「民主主義ごっこ」をしているにすぎないというわけです。
本橋「ロイさん自身は選挙で投票所に行かれますか?」
ロイ「いいえ! 誰に投票するの?(笑)」
このやりとりには笑ってしまいましたが、投票所に足を運ぶことが意味をもつのは、自分に当選させたい候補者がいて、かつ、自分の投票行動によってその人が当選する可能性をもつ場合にかぎります。
わが国の場合も、ほんとは似たようなものです。僕は共産主義者でもないのに、しばしば共産党の候補者に投票します。一番まともな公約を掲げているように見えることが多いからです。しかし、大方の場合、当選する可能性はないに等しい。死票になるのを承知で投票することぐらい虚しいものはありません。
だから、前の総選挙のときなどは自公連立政権を“退場”させるために、今度は勝てそうだからと民主党に投票したので、それは積極的な支持とは違うわけです。共産党にしたところで、相対的にマシに見えるからというだけで、共産党に政権担当能力があるとははなから思っていないし、社会改革の力があるなどとは、共産党には失礼ながら、全く思っていないわけです。最悪の中での選択――そんな感じなのです。
今の選挙で当選するのは、強力な後援会組織をもつ候補者と、名前が売れているタレント候補(元オリンピック選手なんか、人を馬鹿にするのもいい加減にしろと言いたくなりますが、恐ろしいことに当選してしまう)、後はそのときどきで“旋風”とやらを吹かした政党の候補者です。古くは社会党の“マドンナ旋風”があり、次は“小泉チルドレン”、“小沢チルドレン”と続くのです。人々の欲求不満を燃料にした一時の幻想を背景として、そのような“旋風”は吹く。しかし、何も変わりばえしそうにないのは、冷静な観察者には初めからわかっていることです。こういうの、「民主主義ごっこ」以外の何だというのでしょうか?
昔、「この程度の国民なら、この程度の政治」と言って物議をかもした法務大臣がいましたが、これはそういうことなのでしょうか? 少なくとも横峰さくらのお父っつぁんや谷亮子なんかにほいほい投票するのは「この程度の国民」と言われても仕方のないアホだけだと思いますが、しかし、そういうのを除けば大部分は組織票を固めた候補者なのです。
そしてその「組織」とは、企業や労組の団体、地縁血縁の地域組織、宗教団体などです。日本人はいまだに妙に義理堅いところが残っているので、所属する会社・組合などの組織や団体、日頃世話になっている人に言われれば、そのとおりに投票する。僕なんかは、「おお、任しとけ!」なんてその都度電話で上機嫌に答えておいて、約束を守ったためしは一度もないのですが(それがバレてしまったのか、近頃は創価学会関係者すら電話を寄越さなくなりました)、それは“誠実の美徳”に欠けるからで、多くの人はそうではないのでしょう。それでも、自分の意思でどうしても当選させたいなんて思う候補者にめぐり合うことは、めったにないのです。
「選択の自由のない選択」――実質的に、僕にとって選挙とはそのようなものです。どの政党もヒモつきで、そしてそのヒモ(組織・団体)が、その政党の活動の方向性と施策を決定するのです。大口客だけ大事にするのは何も証券会社や銀行にかぎった話ではないのです。タレント候補も、政党にとっては実に好都合な駒です。どうせ政治のことなんかわかりゃしないんだから、何かの委員にでもして「先生」なんて持ち上げてやれば、喜んで言いなりになる。比例代表名簿なんかに乗っけとくと、さっき言った「アホ」たちが率先して票を入れてくれて、余分にあと一人か二人、当選者を増やせるというメリットもある。実に、国民をナメきった話ですが、そういうことに怒るのはごく一部の有権者でしかないのです。
無党派層が五割を超えたと言っても、受け皿は結局そうしたヒモつき政党とその候補者でしかないのだから、これは茶番です。
そして例の、あの「省益大事」の官僚群です。国家行政においてしばしば政治家よりも大きな力を持つ彼らは、選挙で選ばれるのではなく、国家公務員上級試験をパスした元学校秀才たちで、中に骨のあるいい人がいるかと思うと、冷や飯食わして辞職に追い込み、官僚ギルドから“追放”するのです(この前のベストセラーになった『日本中枢の崩壊』の著者、古賀茂明氏などはそのいい例です)。お粗末な内幕をバラすとか、省益を危険にさらすなどということは、官僚的見地からすれば“人格異常”であり、許しがたいわけで、「国民全体の奉仕者」なんて言葉はとうの昔に空文化している。そして官庁からすれば、いくら本が売れても、追い出してしまえば勝ちなのです。
そういうことをあれこれ考え併せると、ロイさんのインドと較べてどの程度マシなのか、僕にはだんだん疑わしくなってきたのです。世論の形成に大きな力をもつのはテレビ、新聞などの大手マスコミですが、それは大方の場合、たんなる「記者会見発表垂れ流しメディア」と化していて、福島原発事故をめぐる(さらにはそこに至る)一連の報道を見てもわかるとおり、「真実報道」と「権力の監視」などという役割はまるで果たしていないので、こちらも“飼われて”いるのです。まともな人はインターネットの瓦礫(失礼!)の山の中から、真実を伝える情報を探すほかなくなっている。まあ、そういうalternativeができただけ、前よりマシになったとは言えますが。
こういう事態を、一体どうすればいいのでしょう? 選挙でもう少しマシな候補者が出てきてくれることを神に祈るとか…。組織票を禁止したり、無考えにタレント候補に投票したりする馬鹿には選挙権を与えない(AKB48の「投票」だけしてなさい)とか、そんなことはできるはずもないので、そのあたりは“民意の成熟”にまつ他ないのですが、元来がアナーキーな性格の僕などは、「選挙権は返上するから、その代わりおまえらの決めたことには一切従わない」権利をもらいたいと思うほどです。従わせたいのなら、論争して、こちらを言い負かしてからにしろ、そう言いたくなるのです。結果として、多くの場合、僕は従わなくてすむと思いますが。
今はよくaccountability(政策の説明責任)と言いますが、今の政治にそんなものがカケラもないのは、福島原発事故の後始末に如実に表われています。勝手に国民の被曝限度量を上げたり、他の肝腎なことはほっといて逸早く“東電救済スキーム”とやらを決めたり、一体誰の付託と支持があってそんなことをしているというのでしょう? 最近議論がやかましい例のTPPにしたところで、この前NHKのニュースを見ていて呆れたのは、参加推進派と反対派の集会・デモの映像を写して、実はTPPの中味はよくわからないのだ、などとのたまう。それをわかるように解説するのがテレビ局の仕事だろうが! 私らは両方の動きを“中立”に紹介しています。だけどかんじんのその中味は謎ですなんて、報道の体をなしていないのです。勉強して何がどうなるという詳しい一覧表を示して、賛成・反対両方の代表的論客を呼び、ディスカッションさせる二時間番組ぐらい作らんかい。そうして相手の嘘や盲点を互いに暴かせるのです。それなら国民の理解の足しになるわけで(中味を知らされていない国民相手に賛否の世論調査なんかしてどうするのだ!)、それをするのが視聴料を強制徴収している“皆様のNHK”の仕事です。「何や、あれこれ騒いではりますわ。私ら、中身のことはよう知りまへんけど…」みたいな無責任なニュースを垂れ流すな。【末尾「追記」参照】
それで僕は仕方なくインターネットで調べることにしましたが、素人の個人がこういうことをするのは大骨です。いちいちこんなことしてたら、時間がどれほどあっても足りない。何たる役立たずのメディアなんでしょう。
結局僕は、あれはやめといた方がよそさうだという感触を得ました。個別の何がどうのというより、今の日本の政治家や官僚には、先の現実を見通して、国際舞台でしたたかな交渉ができるような人(tough negotiator)はいなさそうな気がするからです。結果としてこういうとんでもないことになりましたが、あの時点ではそんなことは想像できなかったんです、なんて澄まして言いかねない。原発事故の「想定不適当」みたいなもので、それが僕には一番恐ろしいのです。どうせ誰も責任は取らないのです(ちなみにこの前紹介した映画『インサイド・ジョブ』の冒頭で、アイスランドが経済的に壊滅的な打撃を受けた原因が、金融自由化にあったことが触れられていましたが、TPPにもこの「金融自由化」の項目は含まれています)。
国際・社会システムはいよいよ複雑化し、為政者はいよいよ無責任化・無能化し、民心は離れて、無力感と無関心を募らせる。混迷が深まる中、全体の福祉のことなど考えない団体が利己的な綱引きを重ねて、いずれ行き着くところまで行き着くのです。ちなみに、この「利権団体」には人口の多い高齢者層も含まれます。政治家にとってはそれは巨大な票田だからで、「全体の福祉」と言っても、見かけほど単純ではないのです(「後期高齢者医療制度」なんかは別に一時マスコミがさかんに言ったような「老人迫害」の制度ではなく、リーズナブルなものに思われると、僕は他でもない高齢者の両親から聞いています)。
さて、現実がこのようなものだとしたら、僕らは一体どうすればいいのでしょうか?
『世界』のインタビューで触れられていたロイさんのListening to Grasshoppersという本を僕は取り寄せてみました。あれこれ読むものが増えるばかりで、まだ読んでいないのですが、冒頭の序文をパラパラめくっていたら、“demon-crazy”という文字が目に飛び込んできて、思わず笑ってしまいました。もちろんこれはdemocracyのもじりで、カシミールの抗議運動のプラカードに使われた言葉だそうです。事実として行われているのはデモクラシー(民主政治)ではなくて、デモンクレイジー(悪魔の狂気)だという諷刺です。
うまいなと思いましたが、真のデモクラシーをもたらす手立ての一つは、現実に行われているデモンクレイジーの実態を白日のもとにさらすことでしょう。そうすれば、人はもう少し考えるようになる。やはりそこから始めるしかないだろうと思います。
志のあるジャーナリストの皆さん、頑張ってください。ジャーナリズムとは無縁の僕みたいな人間でも、生活の合間を縫って、それなりにあれこれ考えて書いているのですから。そして、多くの人たちが真実に関心をもつことです。無知なままでは、どこに連れてゆかれるかわからない。一般国民が賢くなれば、お粗末な政治家たちは生き残れなくなるはずです。選挙の際は候補者の“ヒモつき度”をよく確認して、そういうのには投票しないことです。何、会社や組合の関係でそうは行かないって? だから、僕みたいにやればいいんですよ。候補者が手を振ってきたときは、にこやかにこちらも手を振ってあげ、握手を求められたときは機嫌よく握手に応じる。演説会の動員にも応じてあげる。しかし、投票するときはしがらみだの何だのは完全無視して、断固として自分個人の判断でそれを行うのです。
先にも書いたように、これもロクな候補者がいないのでは仕方ありませんが、国民の投票行動が変わってくれば、そのあたりもきっと変化するでしょう。そして、考えることは人任せにして、党の決定だから…というようなええ加減なことやってたら、次の選挙で確実に落とされると思えば、最低でも議員歳費に見合った働きはしないと、と考えるようになるでしょう。
僕に思いつくのは、そんなことぐらいです。今さら革命家ぶる年でもありませんしね。
【追記】
…と書いたら、これを僕は明け方書いたのですが、その「皆様のNHK」で、同日午前9時から「徹底討論! どうするTPP」という一時間番組をやっていました。「徹底」とはほど遠い内容で、TPPがどういうものであるかという基本的な内容の説明は何もなしに、賛成・反対の論者各三人を呼んで議論させるというもので、甚だ要領を得ないものでしたが、そのやりとりは何やら原発の安全性をめぐるやりとりにも似て、賛成派は「大丈夫です。日本の農業が壊滅することはありません」と言い、税金による保護を約束(これは大田弘子氏)し、一方で、「これに加入しないと日本はアジアの孤児となり、企業はみんな海外に出てしまって、雇用が失われる」と脅す。原発は安全で事故なんて起きないし、大体、資源のないわが国は原子力なしでは電力をまかなえないのだ、という昔聞いた原発推進派の議論とどこか似ています。しかし、企業の海外移転を加速させると言われる今の超円高は別に貿易協定とは関係なさそうだし、巨大利権団体JAがその妨げとなっている「農業の構造改革」は必要でしょうが、それはこれとは別問題で、TPPに加入したからといって、それが自動的に消滅するというわけでもないでしょう(逆に「保護」を名目に無駄な補助金が増えることにもなりかねないが、そんなカネがどこにあるのか?)。
釈然としないまま、僕はこの不要領な、一般の理解促進には何の役にも立ちそうもない番組を見終えました。どうせ最後には加入することになるのでしょうが、推進派は、原発事故と同じで、「最悪の場合、こういうシナリオがありうる」ということを、考えうる現実の制度運用に照らして、もっときちんと説明すべきでしょう。「大丈夫です、何の心配もいりません」なんて「プラス思考本」の信者みたいな一方的な話ばかり聞かせられると、こういう調子のいい人たちに任せておいてほんとに大丈夫なのか、という疑念がかえって募ります。番組が人選を誤ったのか、こういう人たちばかりなのか、それは知りませんが…。
先月、月刊誌『世界』の10月号が「覇権国家アメリカの凋落」という特集を組んでいました。今年の九月でアメリカの9.11テロからちょうど10年になるので、そのような特集になったようです。表紙にはその下に、前福島県知事、佐藤栄佐久氏の「敵を間違えるな――うつくしま、福島をあきらめない」というインタビュー記事の紹介があって、氏の『福島原発の真実』(平凡社新書)は、僕が買った原発関連のものの中では最も感銘を受けた本の一つです(おかしな汚職の濡れ衣を着せられて失脚させられたわけですが、ほんとは偉い知事さんだったわけです)。それで目次を見て、こんなに読みたい記事がたくさんあるようならと思って、買った次第です。
読んでみたらそれ以外にも面白い記事がいくつもあったのですが(それらについては長くなるので割愛します)、その一つが「運動、世界、言語(下)」と題されたアルンダティ・ロイさんのインタビューでした。インタビュアーは『帝国を壊すために』(岩波新書)の訳者でもある本橋哲也さん。あの訳本もこなれたよい訳でしたが、このインタビューも読みやすい。(下)となっているからには(上)もあるはずで、そちらは後で図書館に当たるしかないなと思っているのですが、ともかく、それを読んで浮かんだ感想を書いてみたくなりました。
ロイさんは1997年に小説『小さきものたちの神』でイギリスの有名なブッカー賞を受賞し、それで一躍有名になったという人です。僕はまだその小説を読んでいませんが、上記の『帝国を壊すために』と『誇りと抵抗』(集英社新書)からすると、深い感受性と直観力、類稀なレトリックの駆使能力をもった素晴らしい女性作家です。そのアイロニーとユーモアに彩られた強烈な批判精神は、しかし、よく言えば「草食系」、悪く言えば精神的腺病質の日本人読者にはoverloadになってしまうことが珍しくないようで、「罵詈雑言」としか受け取れない人もいるようです。僕のように、前大統領、ジョージ・ブッシュ・ジュニアの相次ぐ愚行暴行にカンカンに腹を立てていた人間には、「よくぞ言ってくれました!」と快哉を叫びたくなるような言葉の連続だったのですが、人によってそこらが全く違うのは面白いことです。
それはともかく、そろそろ本題に入ることにして、このインタビューを読みながら、僕があらためて考えさせられたことは、「民主主義とは一体何を指すのだ?」ということです。これはインドだけの問題ではない、世界全体を覆う、むろん日本もその中に含まれる、大問題です。
僕は前にこのブログのどこかに、選挙に行くといっても、それは与えられた候補者から選ぶほかなく、事実上選択の余地がないに等しいのが困る、という意味のことを書いた記憶がありますが、その嘆きは今の日本の有権者の多くが共有しているものでしょう。だからこそこんなに投票率が低くなったり、「無党派層」が半分以上を占めるような事態になるのです。
インドではそれがさらに甚だしく、選挙で当選した連中のほとんどが「大金持ち」であるという。金を使ってメディアを操り、票をカネで買うことも辞さない。その候補者や政党は大企業のヒモつきで、要するにグルになっているのです。そうして「前回の選挙では国民会議派が主導したUPA(進歩連合)が過半数を獲得したといわれましたが、実際の獲得票数は全投票数の10%以下なのです。たったこれだけの票数で、いったい誰を代表していると言えるのでしょうか?」ということになってしまう。
要するに、ごく一部の“持てる(カネと権力を)者”たちが国政を牛耳り、タテマエだけの「民主主義ごっこ」をしているにすぎないというわけです。
本橋「ロイさん自身は選挙で投票所に行かれますか?」
ロイ「いいえ! 誰に投票するの?(笑)」
このやりとりには笑ってしまいましたが、投票所に足を運ぶことが意味をもつのは、自分に当選させたい候補者がいて、かつ、自分の投票行動によってその人が当選する可能性をもつ場合にかぎります。
わが国の場合も、ほんとは似たようなものです。僕は共産主義者でもないのに、しばしば共産党の候補者に投票します。一番まともな公約を掲げているように見えることが多いからです。しかし、大方の場合、当選する可能性はないに等しい。死票になるのを承知で投票することぐらい虚しいものはありません。
だから、前の総選挙のときなどは自公連立政権を“退場”させるために、今度は勝てそうだからと民主党に投票したので、それは積極的な支持とは違うわけです。共産党にしたところで、相対的にマシに見えるからというだけで、共産党に政権担当能力があるとははなから思っていないし、社会改革の力があるなどとは、共産党には失礼ながら、全く思っていないわけです。最悪の中での選択――そんな感じなのです。
今の選挙で当選するのは、強力な後援会組織をもつ候補者と、名前が売れているタレント候補(元オリンピック選手なんか、人を馬鹿にするのもいい加減にしろと言いたくなりますが、恐ろしいことに当選してしまう)、後はそのときどきで“旋風”とやらを吹かした政党の候補者です。古くは社会党の“マドンナ旋風”があり、次は“小泉チルドレン”、“小沢チルドレン”と続くのです。人々の欲求不満を燃料にした一時の幻想を背景として、そのような“旋風”は吹く。しかし、何も変わりばえしそうにないのは、冷静な観察者には初めからわかっていることです。こういうの、「民主主義ごっこ」以外の何だというのでしょうか?
昔、「この程度の国民なら、この程度の政治」と言って物議をかもした法務大臣がいましたが、これはそういうことなのでしょうか? 少なくとも横峰さくらのお父っつぁんや谷亮子なんかにほいほい投票するのは「この程度の国民」と言われても仕方のないアホだけだと思いますが、しかし、そういうのを除けば大部分は組織票を固めた候補者なのです。
そしてその「組織」とは、企業や労組の団体、地縁血縁の地域組織、宗教団体などです。日本人はいまだに妙に義理堅いところが残っているので、所属する会社・組合などの組織や団体、日頃世話になっている人に言われれば、そのとおりに投票する。僕なんかは、「おお、任しとけ!」なんてその都度電話で上機嫌に答えておいて、約束を守ったためしは一度もないのですが(それがバレてしまったのか、近頃は創価学会関係者すら電話を寄越さなくなりました)、それは“誠実の美徳”に欠けるからで、多くの人はそうではないのでしょう。それでも、自分の意思でどうしても当選させたいなんて思う候補者にめぐり合うことは、めったにないのです。
「選択の自由のない選択」――実質的に、僕にとって選挙とはそのようなものです。どの政党もヒモつきで、そしてそのヒモ(組織・団体)が、その政党の活動の方向性と施策を決定するのです。大口客だけ大事にするのは何も証券会社や銀行にかぎった話ではないのです。タレント候補も、政党にとっては実に好都合な駒です。どうせ政治のことなんかわかりゃしないんだから、何かの委員にでもして「先生」なんて持ち上げてやれば、喜んで言いなりになる。比例代表名簿なんかに乗っけとくと、さっき言った「アホ」たちが率先して票を入れてくれて、余分にあと一人か二人、当選者を増やせるというメリットもある。実に、国民をナメきった話ですが、そういうことに怒るのはごく一部の有権者でしかないのです。
無党派層が五割を超えたと言っても、受け皿は結局そうしたヒモつき政党とその候補者でしかないのだから、これは茶番です。
そして例の、あの「省益大事」の官僚群です。国家行政においてしばしば政治家よりも大きな力を持つ彼らは、選挙で選ばれるのではなく、国家公務員上級試験をパスした元学校秀才たちで、中に骨のあるいい人がいるかと思うと、冷や飯食わして辞職に追い込み、官僚ギルドから“追放”するのです(この前のベストセラーになった『日本中枢の崩壊』の著者、古賀茂明氏などはそのいい例です)。お粗末な内幕をバラすとか、省益を危険にさらすなどということは、官僚的見地からすれば“人格異常”であり、許しがたいわけで、「国民全体の奉仕者」なんて言葉はとうの昔に空文化している。そして官庁からすれば、いくら本が売れても、追い出してしまえば勝ちなのです。
そういうことをあれこれ考え併せると、ロイさんのインドと較べてどの程度マシなのか、僕にはだんだん疑わしくなってきたのです。世論の形成に大きな力をもつのはテレビ、新聞などの大手マスコミですが、それは大方の場合、たんなる「記者会見発表垂れ流しメディア」と化していて、福島原発事故をめぐる(さらにはそこに至る)一連の報道を見てもわかるとおり、「真実報道」と「権力の監視」などという役割はまるで果たしていないので、こちらも“飼われて”いるのです。まともな人はインターネットの瓦礫(失礼!)の山の中から、真実を伝える情報を探すほかなくなっている。まあ、そういうalternativeができただけ、前よりマシになったとは言えますが。
こういう事態を、一体どうすればいいのでしょう? 選挙でもう少しマシな候補者が出てきてくれることを神に祈るとか…。組織票を禁止したり、無考えにタレント候補に投票したりする馬鹿には選挙権を与えない(AKB48の「投票」だけしてなさい)とか、そんなことはできるはずもないので、そのあたりは“民意の成熟”にまつ他ないのですが、元来がアナーキーな性格の僕などは、「選挙権は返上するから、その代わりおまえらの決めたことには一切従わない」権利をもらいたいと思うほどです。従わせたいのなら、論争して、こちらを言い負かしてからにしろ、そう言いたくなるのです。結果として、多くの場合、僕は従わなくてすむと思いますが。
今はよくaccountability(政策の説明責任)と言いますが、今の政治にそんなものがカケラもないのは、福島原発事故の後始末に如実に表われています。勝手に国民の被曝限度量を上げたり、他の肝腎なことはほっといて逸早く“東電救済スキーム”とやらを決めたり、一体誰の付託と支持があってそんなことをしているというのでしょう? 最近議論がやかましい例のTPPにしたところで、この前NHKのニュースを見ていて呆れたのは、参加推進派と反対派の集会・デモの映像を写して、実はTPPの中味はよくわからないのだ、などとのたまう。それをわかるように解説するのがテレビ局の仕事だろうが! 私らは両方の動きを“中立”に紹介しています。だけどかんじんのその中味は謎ですなんて、報道の体をなしていないのです。勉強して何がどうなるという詳しい一覧表を示して、賛成・反対両方の代表的論客を呼び、ディスカッションさせる二時間番組ぐらい作らんかい。そうして相手の嘘や盲点を互いに暴かせるのです。それなら国民の理解の足しになるわけで(中味を知らされていない国民相手に賛否の世論調査なんかしてどうするのだ!)、それをするのが視聴料を強制徴収している“皆様のNHK”の仕事です。「何や、あれこれ騒いではりますわ。私ら、中身のことはよう知りまへんけど…」みたいな無責任なニュースを垂れ流すな。【末尾「追記」参照】
それで僕は仕方なくインターネットで調べることにしましたが、素人の個人がこういうことをするのは大骨です。いちいちこんなことしてたら、時間がどれほどあっても足りない。何たる役立たずのメディアなんでしょう。
結局僕は、あれはやめといた方がよそさうだという感触を得ました。個別の何がどうのというより、今の日本の政治家や官僚には、先の現実を見通して、国際舞台でしたたかな交渉ができるような人(tough negotiator)はいなさそうな気がするからです。結果としてこういうとんでもないことになりましたが、あの時点ではそんなことは想像できなかったんです、なんて澄まして言いかねない。原発事故の「想定不適当」みたいなもので、それが僕には一番恐ろしいのです。どうせ誰も責任は取らないのです(ちなみにこの前紹介した映画『インサイド・ジョブ』の冒頭で、アイスランドが経済的に壊滅的な打撃を受けた原因が、金融自由化にあったことが触れられていましたが、TPPにもこの「金融自由化」の項目は含まれています)。
国際・社会システムはいよいよ複雑化し、為政者はいよいよ無責任化・無能化し、民心は離れて、無力感と無関心を募らせる。混迷が深まる中、全体の福祉のことなど考えない団体が利己的な綱引きを重ねて、いずれ行き着くところまで行き着くのです。ちなみに、この「利権団体」には人口の多い高齢者層も含まれます。政治家にとってはそれは巨大な票田だからで、「全体の福祉」と言っても、見かけほど単純ではないのです(「後期高齢者医療制度」なんかは別に一時マスコミがさかんに言ったような「老人迫害」の制度ではなく、リーズナブルなものに思われると、僕は他でもない高齢者の両親から聞いています)。
さて、現実がこのようなものだとしたら、僕らは一体どうすればいいのでしょうか?
『世界』のインタビューで触れられていたロイさんのListening to Grasshoppersという本を僕は取り寄せてみました。あれこれ読むものが増えるばかりで、まだ読んでいないのですが、冒頭の序文をパラパラめくっていたら、“demon-crazy”という文字が目に飛び込んできて、思わず笑ってしまいました。もちろんこれはdemocracyのもじりで、カシミールの抗議運動のプラカードに使われた言葉だそうです。事実として行われているのはデモクラシー(民主政治)ではなくて、デモンクレイジー(悪魔の狂気)だという諷刺です。
うまいなと思いましたが、真のデモクラシーをもたらす手立ての一つは、現実に行われているデモンクレイジーの実態を白日のもとにさらすことでしょう。そうすれば、人はもう少し考えるようになる。やはりそこから始めるしかないだろうと思います。
志のあるジャーナリストの皆さん、頑張ってください。ジャーナリズムとは無縁の僕みたいな人間でも、生活の合間を縫って、それなりにあれこれ考えて書いているのですから。そして、多くの人たちが真実に関心をもつことです。無知なままでは、どこに連れてゆかれるかわからない。一般国民が賢くなれば、お粗末な政治家たちは生き残れなくなるはずです。選挙の際は候補者の“ヒモつき度”をよく確認して、そういうのには投票しないことです。何、会社や組合の関係でそうは行かないって? だから、僕みたいにやればいいんですよ。候補者が手を振ってきたときは、にこやかにこちらも手を振ってあげ、握手を求められたときは機嫌よく握手に応じる。演説会の動員にも応じてあげる。しかし、投票するときはしがらみだの何だのは完全無視して、断固として自分個人の判断でそれを行うのです。
先にも書いたように、これもロクな候補者がいないのでは仕方ありませんが、国民の投票行動が変わってくれば、そのあたりもきっと変化するでしょう。そして、考えることは人任せにして、党の決定だから…というようなええ加減なことやってたら、次の選挙で確実に落とされると思えば、最低でも議員歳費に見合った働きはしないと、と考えるようになるでしょう。
僕に思いつくのは、そんなことぐらいです。今さら革命家ぶる年でもありませんしね。
【追記】
…と書いたら、これを僕は明け方書いたのですが、その「皆様のNHK」で、同日午前9時から「徹底討論! どうするTPP」という一時間番組をやっていました。「徹底」とはほど遠い内容で、TPPがどういうものであるかという基本的な内容の説明は何もなしに、賛成・反対の論者各三人を呼んで議論させるというもので、甚だ要領を得ないものでしたが、そのやりとりは何やら原発の安全性をめぐるやりとりにも似て、賛成派は「大丈夫です。日本の農業が壊滅することはありません」と言い、税金による保護を約束(これは大田弘子氏)し、一方で、「これに加入しないと日本はアジアの孤児となり、企業はみんな海外に出てしまって、雇用が失われる」と脅す。原発は安全で事故なんて起きないし、大体、資源のないわが国は原子力なしでは電力をまかなえないのだ、という昔聞いた原発推進派の議論とどこか似ています。しかし、企業の海外移転を加速させると言われる今の超円高は別に貿易協定とは関係なさそうだし、巨大利権団体JAがその妨げとなっている「農業の構造改革」は必要でしょうが、それはこれとは別問題で、TPPに加入したからといって、それが自動的に消滅するというわけでもないでしょう(逆に「保護」を名目に無駄な補助金が増えることにもなりかねないが、そんなカネがどこにあるのか?)。
釈然としないまま、僕はこの不要領な、一般の理解促進には何の役にも立ちそうもない番組を見終えました。どうせ最後には加入することになるのでしょうが、推進派は、原発事故と同じで、「最悪の場合、こういうシナリオがありうる」ということを、考えうる現実の制度運用に照らして、もっときちんと説明すべきでしょう。「大丈夫です、何の心配もいりません」なんて「プラス思考本」の信者みたいな一方的な話ばかり聞かせられると、こういう調子のいい人たちに任せておいてほんとに大丈夫なのか、という疑念がかえって募ります。番組が人選を誤ったのか、こういう人たちばかりなのか、それは知りませんが…。
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