「どじょう」の悟り?

2011.08.31.18:31

 8月29日の正午数分前、昼のニュースを見ようとテレビをつけると、野田佳彦氏の民主党代表立候補演説の最中でした。そういうのはもう終わっていて、投票の結果が出ているのかなと思ったのですが、まだだったのです。

 その個人的な苦労話と人情話の合体みたいな長たらしい話にヘキエキして、「こりゃ駄目だな…」と僕は思ってしまいました。これで一位は小沢グループが推す海江田万里、二位が前原誠司で、決選投票では「反小沢」が結集して前原勝利になる。そうすると、僕には何がそんなに問題なのだかよくわからない外国人違法献金問題(焼肉屋を経営している韓国人のおばちゃんや、その知人たちからの少額の献金にすぎないのでしょう?)とやらで、自民党が大騒ぎして、また国民不在のドタバタ劇が繰り広げられることになるだろう…。

 そう思って見ていたら、意外や二位は野田だった。前原とは票数にかなり差があったので、政治家諸氏はああいうセンチメンタルな話が好きなのか、それとも、人望が野田氏の方がずっとあるということなのか…。

 何にせよ、この時点で勝ちは野田と決まった。例の「泣き崩れる」姿で有名になった海江田氏は、元々組織票がなければ見込みはなかった候補者です。その後は小沢におべっかをつかって主張も変わるなど、いっそう頼りなさを印象づけていたので、総理になる前からこれではどうしようもありません。役不足だから、決選投票になると勝てる見込みはまずないと、小沢・鳩山陣営でも見ていて、だからグループは一発で決めねばと強引な他候補の切り崩し工作に出て、人情の自然としてそれが他陣営の反発を買ったので、決選投票までもつれ込めば、その時点でもう勝ちはなくなっていたのです。
 決選投票前の五分間の野田の演説は一転して無駄がなく、気合が入っていた。海江田氏は大いに見劣りがしたので、流れがどちらに傾いているかは誰の眼にも明らかでした。

 僕は前に「小沢一郎にいっぺん総理をやらせてみたらどうか」という意味のことを書いたことがあります。裏であれこれ画策するのではなく、正面から、自分が政権の顔となってやってみたら、その「剛腕」がたんなる周囲が作り上げた幻想にすぎないのかどうかがわかる。あちこち、全部顔を立てるなんてことをやっていたのでは、こういう難局を乗り切ることは難しいだろうと僕は思っています。少し強引なくらいでないと勤まらない。

 大震災と原発事故の後、あのマニフェストを実行することは無理だと思いますが(僕はあの衆院選で民主党に投票しましたが、元々大盤振る舞いの子供手当てなんて愚策だと思っていました。腐りきった自民党を政権の座から引き摺り下ろす必要があると思ったからそうしたので、同じような有権者は他にもたくさんいたことでしょう)、小沢氏は「マニフェスト堅持」の立場らしいので、そこをどう“解決”するのか、見てみたいというところもあります。それができたら彼は政治の天才です。

 意味のよくわからない裁判の被告になっていて、「党員資格停止」中の身では、むろんそれはできないわけですが、今回の騒動を見ていると、何でもいいから「反小沢」の候補者は潰すといった思惑ばかりのようで、その「強引さ」が「国政より自己保身と権力」の方面にばかり発揮されているのにはいささかウンザリでした。元々彼は自民党直伝の裏技、寝技専門で、表芸はない人なのかも知れません。だとすれば、彼の時代はもう終わっているということでしょう。

 話を新総理の野田氏に戻します。民主党代表戦での彼の演説の、「とじょうはどじょうらしく。金魚の真似はしなくていい」という趣旨の発言はニュースになりました。インテリなら言及することを恥と心得る相田みつお氏(現代版武者小路実篤?)の詩の引用だという話でしたが、僕も聞いていてあの箇所には驚きました。僕はルックスには言及しないことにしていますが、ご本人がルックスのことを言っていたので言わせてもらうと、彼の場合には「どじょう」というより、野ダヌキか招き猫です。大型のドラ猫にあんなのがいたな、という感じです。ドラ猫はドラ猫でいい、エレガントなイケメンのシャムの真似はしなくていい。

 しかし、ここは「どじょう」でいくことにして、その相田みつおの詩というのは何なんだろうとネットで検索してみると、「佛教名言」というサイトに次のようなものが見つかりました。

 【どじょうがさ金魚のまねすることねんだよな】
<お釈迦さまは悟りを開かれた時に、この世に存在しているものは、すべて真理そのもの(一切衆生悉有仏性)としてあるのだ、と説かれております。山も川も、草も木も、河原の石ころ一ツそれぞれにほんもの(諸法実相)としてあるのだ、といわれているのです。つまり、仏さまの眼から見ると、にせものなしということです。 どじょうはどじょうとしてほんもの、金魚は金魚としてほんもの。どじょうが金魚のまねをした時、にせものになるんです。 あなたがあなたであるかぎりほんもの、わたしがわたしであるかぎりほんもの。ほんものより、にせもののほうがカッコいい、と錯覚して、一生をダメにしてしまう人間が多いのではないか、と私は思います。>

 これが相田みつお氏の文そのままの引用なのかどうか知りませんが(【 】のところだけそれ?)、なかなかに“深遠”なお言葉です。人間は自分の能力以上に見せたがって無理をし、かえって顰蹙を買ったり恥をかいたりするものですが、それで自分の中味のなさ、無能さを思い知ってよけいなことはやめるのかと思いきや、逆に汚名を挽回しようと焦ってさらによけいなことを企て、墓穴を掘ってしまうことが少なくありません。若者ならいざ知らず、いい年こいたオヤジにそういう人が少なくないので、これはそういうアホな見苦しいことはやめましょう、ということだと理解されます。

 「ボクが、ボクが…」の菅前総理などには、その気味合いが相当あったようなので、野田氏はその轍は踏むまい、と固く決意しているのかも知れません。どじょうらしく、泥をかぶることを恐れず、人の手柄を横取りして、自分の功績にしようとはかったり、不評になると自分のしたことでも部下に責任をなすりつけるような卑劣な真似はするまいと。重要なのは自分の虚栄心やメンツではない。国のため、人々のため、どれだけ益になること、現実的な前進ができるかどうかなのだと。

 だとすれば、「その言やよし」です。僕は彼の「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」発言には同意しかねますが(無責任そのものの彼らの「指導」体制の下、戦場に送り込まれた兵士たちとその家族がどんな目に遭わされたかを少しは考えてみるがいいのです)、ここはそれは別として、彼のお手並を拝見したいと思います。たしかに、今の状況は自分の見栄が大事な「金魚」には不向きな局面です。「泥をかぶる」ことをいとわない「どじょう」でないとできないことばかりでしょう。彼は浅沼稲次郎とJFKの暗殺をきっかけに政治に志したという話なので、それが口先だけでないのなら、相応の覚悟もあるのでしょう。

 日本という国は、その社会風土からして、「調整型」の指導者でないとうまくいかないようです。人の話をよく聞くのはいいと思いますが、つまらない人のメンツだの何だのを立てることだけになると、戦前から繰り返されてきた「共同無責任」になってしまって、主体的な決断は何も行われないまま、現状追認に走って、二進も三進も行かない泥沼にはまり込んでしまうことになる。意見を吸い上げた後、明確な自分の決断を下して、周囲を説得できるかどうかが鍵でしょう。派閥の論理でゴチャゴチャ言うような連中は、マスコミがまともな報道をするなら国民はちゃんと判断がつけられ、「何を言ってやがるんだ」ということになるので、国民の方を向いてきちんと政治をすれば、リーダーが支持を失うことはないでしょう(民主党への信頼低下にもかかわらず、自民党支持が増えないのは、この「何言ってやがるんだ」のシラケ感情があるからです)。

 民法には「事情変更の原則」というのがあって、今見てみるとウィキペディアにもその記載が出ていて、「契約締結時に前提とされた事情がその後変化し、元の契約どおりに履行させることが当事者間の公平に反する結果となる場合に、当事者は契約解除や契約内容の修正を請求しうるとする法原理をいう」とあります。

 国会議員には法学部の出身者がたくさんいるだろうに、民主党側の代議士すらこの「法理」を援用しないのは僕には奇怪に思われるので、大震災と福島原発のあのひどい事故でその対策に膨大な予算が必要となった今、それは無視してマニフェスト(震災前でもいくらか調子がよすぎると大半の人は思っていた)に固執するのは、むしろその方が異常です。

 国民の方は状況が大きく変わったのはわかっている。だから、各種の世論調査でも「増税やむなし」の意見は増えているわけですが、ここで親の所得の上限なし、子供一人当たり月額2万6千円支給のマニフェストをそのまま実行するなんて言われたら、そんな税金のばら撒きをするのなら増税には応じないということに自然なるでしょう(僕が元々これに反対なのは、親は自分が働いて自力で子育てができてこそ誇りがもてるので、なすべきはそちらの環境づくりの方であって、お上からの“お恵み”ではないと思うからです。あれは元の児童手当でたくさんです。そんなものを出さなくても選挙には勝てたので、そこを読み誤っていた。そんなことより、早く保育園の待機児童を減らせ)。

 野田氏は「増税やむなし」派ですが、「削るべき無駄はきっちり削りながら、その上でタイミングを見て時限立法で増税を行う」ということらしいので、それには僕は賛成です。他に方法がない。今の経済情勢では、それは当分難しそうだし、説得力のある「無駄の削減」は必ずやってもらわねばなりませんが。

 自公との連立も、それがスムーズな政策実行に不可欠なら、僕は自公は嫌いですが、好きにやって下さい。
 要は、「無私などじょう(しかし、決断力と主体性、実行力のある)」に野田氏がなれるかどうかです。元々政治というのは地道な仕事だと思うので、これを機に小泉純一郎以後の空虚なパフォーマンスだけの“劇場政治”から離脱してくれればと思います。

 ちなみに、さっき引用させてもらった「佛教名言」の同じページに、次のような言葉もあって、僕は読んで思わずニンマリしてしまいました。最後にそれも引用しておきます。

 【ひとの批判は かんたんだがなあ】
< 「一億総評論家」なんていうことがよくいわれます。だれでも自由に意見をいえること、それ自体はいいことですが、批判するだけなららくなんですねえ……。 人の批判をする時は、自分はいつでも傍観者。具体的には少しも動かない。自分では手を汚さず、何一つしない。要するに、自分のことは棚上げなんですね。 いま、ここを、この自分が、具体的に、どう動くか――無責任な傍観者になってはいけない。>

 仰せ、ご尤もです。
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