低線量放射線の恐ろしさ他

2011.04.29.17:55

 人間が思いつくことは似ているようで、前回「過疎と原発」の問題について書きましたが、一昨日、仕事の帰りに『週刊現代』(実に五週連続して買うことになった)を買って読むと、モノクロのグラビアページに「なぜ福島だったのか」と題して、同じ問題が取り上げられていました。同誌は83年、「原発が来た町」と題した38回の連載記事を掲載したそうで、筆者は内橋克人氏だったとのこと(内橋さんは、最近あまり著書を見かけませんが、僕が信頼する数少ない良心的なジャーナリストの一人です)。その記事も引用して書かれたそうですが、あらためて「なるほど」と思いました。具体的な誘致の経緯についてはそちらを直接お読みいただくといいのですが、やはり「やることが汚いな」という感じで、町が賑わったのは初めの頃だけ、「東電の100%出資子会社『東双不動産』という会社ができて、原発施設への物品の納入はすべて入札制になり、地元業者は排除された。また同社が『東電クラブ』と呼ばれる飲み屋を経営し、東電の社員はすべてそこで飲むようになった。釣った魚に餌はやらない、ということだったんでしょう。地元の商店や飲食店はバタバタ倒れました」とあります。

 これを見て、僕はあることを思い出しました。前に僕の郷里の和歌山県の知事が公共工事をめぐる汚職で逮捕されたことがあって、新聞を見るとそれに関連するプロジェクトの中に自分が生まれ育った町内のものも含まれていたので、母に電話でそれがどういうものなのかを聞きました。「あんなもの、いらん」と彼女は即座に言いました。「でも、地元の土建屋さんたちはだいぶ助かるんじゃないの?」ときくと、全部大手ゼネコンが仕切っていて、彼らにとっても恩恵はゼロに等しいのだという。だからこそ、大金が動いたのです。尤もらしいきれいごとを並べるクソ知事は、大手ゼネコンのたんなる使い走りと化していたのです。
 こういうのと、それは似ています。現代の記事はこう続いています。

 「結局、潤ったのは最初の十年で数十億(現在の貨幣価値で数百億)の交付金を受けた町政だけだった。それも、町役場やコミュニティセンターなどの箱モノに消えた。広く整備された道路に立ち並ぶパチンコ屋とコンビニ。貧しくても住民同士支え合っていたかつてのコミュニティーは、完全に失われた。」

 しかし、原発はそこにどっかと腰を据えて、動かなくなったわけです。甘言を弄して、貧しい過疎の町に擦り寄り、地域共同体を破壊して終わりというわけです(事故が起きた今は、生命まで直接的な危険にさらされている)。記事の最後には「大熊町の住民」だという人の嘆きが引用されています。

 「誘致が決まったときは皆で大喜びしたんだから、東電ばっかりを責める気持ちにはなれねえ。ただ、騙されたな、とは思う。事故はもちろんだけど、廃炉にするにも莫大な時間とカネがかかるなんて、そんな厄介なシロモノだなんて、俺ら住民は一人も知らなかったんだ」

 その無力感がよく伝わってくる言葉です。これを「無知なおまえらが悪い」とわらうことはできない。医療分野にインフォームド・コンセント(情報を与えられた上での同意)というのがありますが、電力会社は必要な情報を与えないどころか、意図的に虚偽の情報を流布して、地元民のみならず、国民全体を欺いてきたのです。これは明白な犯罪と言わねばならないでしょう。そんな悪辣な企業を救済・存続させるために、政府や関係団体が裏であれこれ画策するようなら、国民はこれに徹底抗戦しなければなりません。

 ところで、一つ明るいニュースがありました。27日、大阪府の橋下徹知事は「節電や代替エネルギーを導入する政策を進めることで、関西で使う電力を供給する原子力発電所の新規建設や、(老朽化した原発の)延長計画を止めにかかると表明した」(朝日新聞)とのこと。本当なら、大きな一歩です。「28日に7府県の知事らが出席して開かれる関西広域連合委員会の場で、他の府県にも賛同を呼びかける」と続いていましたが、さっきそれに関連するニュースを見てみると、知事たちにはかなりの「温度差」があるようです。ほとんど全員がこれまで「原発推進」で来たのだから、それぞれのメンツや地元財界の思惑もあって、それは「想定内」の反応でしょう。そのあたりの囲みを“突破”できるかどうかですが、それには一般の人々の支持が大きな助けになるだろうから、積極的な意思表明を僕らは進んで行った方がいいだろうと思います。

 よけいな前置きは以上として、そろそろ本題に入りますが、最近僕に一番ショックだったのはこの「低線量放射線」の問題です。今回の原発事故で引っぱりだこになった京大原子炉実験所の小出裕章先生はよく「これ以下なら安全というような放射能の値はないんです」と仰っていますが、前回【付記】で触れた『死にいたる虚構~国家による低線量放射線の隠蔽~』(ジェイ・M・グールド&ベンジャミン・A・ゴルドマン著/肥田舜太郎・斎藤紀 共訳)という冊子を読んで、初めてそれがどういう意味なのか、素人なりにわかりました。

 この本の記述は、2003年に始まった「原爆症認定却下の取り消しを求めた原爆症認定集団訴訟」の裁判で、原告勝訴の判決理由にも引用されたものだそうで(国が「理由がない」として最高裁への抗告を断念したために2008年6月高裁判決が確定)、それによって「『低線量放射線による内部被曝の影響』を(国も)事実として認め」る結果になったとのことです。

 そうなら、当然の論理的帰結として、国の「原発推進」政策も根本的な見直しが行われてしかるべきでしたが、そうはならなかった。原爆と原発は別だろうと思われるかもしれませんが、次のような理由によって、そうはならないはずなのです。それというのも、大阪高裁の判決理由にもあるように、「フォールアウト(放射性降下物)や原子力施設の放射能漏れによる低線量の[放射能の]危険は、極端に過小評価され、無視することができるほど小さいと信じられてきた」が、それは間違いで、「原爆爆発のような高線量瞬間被曝の影響は、細胞中のDNAに向けられ、その障害は効果的に修復されるが、極低線量での障害におけるフリーラジカル(遊離基)の間接的、免疫障害的な機序とは全く異なっている【後段に注意!】」ことが、そこで認められたはずだからです。

 フリーラジカル? ネットでその説明を見ると、「不対電子をもっているために、他の分子から電子を奪い取る力が高まっている原子や分子」などと説明されていますが、僕みたいな文系人間にはよくわからない。要するに、原子や分子はふつうペアになった電子をもっているが、その片割れが存在しないために、「他の分子から電子を奪い取る力が高まっ」たものなのだろうと、間違っているかもしれませんが、解釈しておくことにします。

 低線量被曝では、そのフリーラジカルが悪さをする。この本の「付録(1)方法論の補遺」から、僕ら素人にも何とか意味がつかめそうな箇所を引用させてもらうと、

 「低線量放射線への慢性的な被曝は、同時には、ほんの僅かなフリーラジカルがつくられるだけである。これらのフリーラジカルは血液細胞の細胞膜に非常に効率よく到達し、透過する。そして非常に少量の放射線の吸収にもかかわらず、免疫系全体の統合性に障害を与える。それと対照的に、医療用X線のような瞬間的で強い放射線被曝は、大量のフリーラジカルを生成し、そのため互いにぶつかり合って、無害なふつうの酸素分子になってしまう。こうして短時間の被曝は、同じ線量でも、ゆっくり、何日、何ヶ月、何年もかけた被曝よりも、細胞膜への障害は少ないのである。
 ごく最近、チャールス・ワルドレンと共同研究者たちは、ハイブリッド細胞の中に置かれたヒト染色体が、雑種細胞の中にあって被曝すると、イオン化放射線は細胞膜を障害する時と同じように、高線量の場合よりも低線量のときに、より効果的に突然変異を生じさせることを見出した。彼らは極めて低い線量の放射線の場合、高線量を用いた通常の場合よりも、200倍も効果的に突然変異が生じることを発見している。…」

 「高線量放射線と低線量放射線では機序(=作用のメカニズム)が違う」というのは、そういうことのようです。この説明の前に、著者は「かんたんな比喩」を用いて、なぜ高線量の場合の「大量のフリーラジカル」より低線量の「少ないフリーラジカル」の方が有害でありうるのかを、以下のように説明してくれています。

 「フリーラジカルを一人の人間と考え、満員の室内にいたとしよう。火事が起こり、みんなが一斉に逃げ出そうとする。その結果、お互いがぶつかり合って、少ししか逃げられない(上の説明に当てはめると「互いにぶつかり合って、無害なふつうの酸素分子になってしまう」)。しかし、もし火が出たとき、室内に数人しかいなかったら、みんなが容易に出られる。逃げ出せる率は高く、効率がよい」

 それと同じだと言うのです。そうしてその「逃げ出した」フリーラジカルが、人体の細胞に様々な破壊的影響を及ぼすのです。

 よく「体外被曝と体内被曝は違う」と言われます。「外から放射線を受ける場合は、放射能の被曝量は距離の二乗に反比例する。わかりやすく言えば、近づくほど被曝量が大きくなる」が、体内被曝の場合、それがからだの内部の器官なり細胞なりに付着してしまうので、「距離が一ミクロン単位にな」り、「二乗すれば(同じ量でも)一メートルの距離にあったときに比べて被曝量は一兆倍にもなる」(広瀬隆『原子炉時限爆弾』)という話は、何度も読んだり聞いたりしていましたが、上記の話は、問題はたんなる被曝量ではない、ということを言っているのだと思われます。あるいは、放射能が障害を惹き起すそのメカニズムには、複数あるということです。

 ある意味で、これは非常に恐ろしい話です。ごく僅かな線量の放射線でも、「慢性的」に作用し続けると破壊的な結果を及ぼす、ということだからです。

 げんにこの本では、「チェルノブイリのフォールアウト」や、冷戦時代の「大気圏核実験」時代の影響が取り上げられています。

 まず前者については、「『チェルノブイリのフォールアウトはこれまで公に承認されていた以上に致命的である』ことの証拠は、単に統計学だけでなく、多くの学問分野、即ち、生物学、医学、放射線物理学、疫学、鳥類学からも引き出されている」として、はるか遠方のアメリカにおいてさえ、その影響が深刻なものであったことが述べられているのです。それは全体でも「有意の死亡率の増加」を示したが、最も顕著だったのは「太平洋岸南部諸州の1986年6月の乳幼児死亡率が1985年6月と比べ28%も一気に増加したこと」です(チェルノブイリの原発事故は、1986年4月26日)。繰り返しますが、これは地理的には遠く離れたアメリカで起きた話です。ミルクを介して、内部被曝が生じたと解されているようです。

 「1986年の夏にきわだって増加したのは、乳幼児、感染性疾患をもつ若年成人、高齢者の死亡であった。これらの人たちには免疫系が相対的に脆弱であるという共通点がある。そこに免疫障害を起こす原因が加われば、病気やストレスに対しての抵抗を妨害することになる。免疫機能が低下している高齢者はそれまですでに病気の状態といえるので、チェルノブイリの放射能は免疫系の抵抗力を一層、弱体化させたであろう」

 詳しくはその本に譲るとして、次は「大気圏核実験」の話です。

 「自然資源保護協会は最近、地震記録の詳細な分析を基礎にして、1945年から62年にかけてのアメリカは、137000キロトンの核実験を行ったと計算した。ソ連は1961年から62年にかけて、402000キロトンの、数回の大規模水爆実験を行った。これは総計585000キロトンの[核実験の]四分の三に当たる。この数字を広島型原爆の計算値で割ると、これら超大国は十七年間に世界の人々に対して、広島型原爆4000個に相当するフォールアウトを浴びせたことになる」

 気が滅入るような話ですが、「だけど、そんなに人は死ななかったし、世界人口はげんにその後も増え続けたじゃないか?」と言う人がいるかもしれません。しかし、環境衛生等の改善によって減り続けてきた死亡率の予測値に照らしてどんな変化が起きていたかをつぶさに検討すると、実際は「過剰死」と呼べる現象がその間はっきりとわかるかたちで起きていた、というのです。おそらく、本来なら死ななくていいはずの人たちが、そのせいで数百万という規模で亡くなった。ここでも最大の被害を受けたのは小さな子供たちで、「1915~50年の平均4%という乳幼児死亡率の下降[註:毎年その割合で減り続けていた、の意味]は、大量のフォールアウトが生じた[核実験の]時期に横ばいになり、核実験中止が調印された後にようやく元に戻った。そして1950年以降、低体重出生児比率の脅威的な上昇が、こんにちまで続いている」(米国の数値でしょうが)というのです。

 これにはむろん、1964年以降の中国の核実験なども加わるのですが、日本も当然影響を受けていたのであり、乳幼児死亡率のデータを見れば、それはわかるだろうと思います。僕は1955年の生まれですが、未熟児ではなかったものの「低体重児」には含まれただろうし、生まれつきある障害があって、それは六歳の頃、手術を受けて完治したのですが、そのため何度か死にかけたことがあったという話を聞いているので、「あれは核実験のせいだったのではないか?」と疑いたくなるほどです。

 この問題では、前に「週刊新潮の奇妙な記事」と題して、「核実験の時代も放射能は高かったが、平気だった」という新潮の記事に疑義を呈しましたが、あれは僕が批判の仕方を間違えたというべきで、当時も影響は明白にあったのであり、そこを衝かねばならなかったわけです。百人に一人というような超高率で原因不明の突然死が出たりすればパニックですが、そうではなかったからといって、問題がなかったとは言えないのです。いい加減な「俗論」に騙されないようにしましょう。

 もうこれぐらいにしますが、大きな事故を起こさなくても、何かあるたびに放射能漏れを起こす原発は、危険きわまりない存在だということです。微量の放射能漏れは日常的に起きているのであり、そこで働く人たちは日常的に被曝しているわけです。それで癌や白血病になって補償を求めると、「因果関係が明白ではない」と裁判で斥けられるというのでは、泣くに泣けないでしょう。

 繰り返しになりますが、「電気需要をまかなうためだ、我慢しろ」とは、そういう人たちに道徳的に言えるはずがないし、そもそも、「電力需要をまかなうため」に原発が必要だという理屈自体、明白な嘘だというのだから、反社会的な電力会社の企業エゴがそのような犠牲を強いているのだとしか言えないのです。

 僕らはそれを容認し続けるのでしょうか? これは戦後最大のスキャンダルだと言って差し支えのないものです。今の電力行政を根本から見直し、大手電力会社の解体も視野に入れて、その体質・システムを根本から変える以外、解決の道筋はありえないのではないでしょうか。

 ちなみに、この本、「PKO法『雑則』を広める会」というところから発行されているのですが、今ならかなりの部数が見込めると思うので、正規の出版物として誰でも入手できるようにしてもらえないかな、と思います。著作権等の権利関係がどうなっているのか、よくわからないのですが、僕も手元に置いておきたい本なので、そのあたり、ぜひ一般に入手できるようとりはからっていただきたいと思います。

 電力会社は、いつものやり口で妨害しないようにね。 
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