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進学と大学生の就職クライシス

2010.11.22(15:38) 33

 親御さんたちは皆、わが子が就職もしないでニートになんぞなられたら大変、と思っていることでしょう。それがための塾通いであり、大学進学であるわけなので、次のような記事を読むと思わずのけぞってしまうかも知れません。
 まずはその記事そのものを見ておきましょう。以下は、11月16日付、時事通信電子版の記事です(ネット版ではグラフが消えてしまいました…)。

 大卒内定率、最低の57.6%=「就職氷河期」下回る-10月1日時点 

 文部科学、厚生労働両省は16日、来春卒業予定の大学生の就職内定率(10月1日時点)を発表した。内定率は前年より4.9ポイント低い57.6%で、「就職氷河期」と言われた2003年の60.2%を下回り、調査を開始した1996年以降で最悪の就職戦線となっている。急激な円高で景気の先行きに懸念が強まり、企業が採用を抑制しているためだ。
 中小を中心にこれから採用を進める企業もあり、内定率は例年、年度末に向け上昇する。ただ、企業の経営環境が厳しさを増す中、どこまで伸びるかは不透明だ。
 理系の内定率は前年比10.2ポイント低下の58.3%で、下げ幅は過去最大だった。文系は3.8ポイント低い57.4%。男女別では男子が59.5%、女子は55.3%で、それぞれ前年を3.8ポイント、6.3ポイント下回った。
 学校種別では、国公立が63.2%と8.1ポイントの大幅悪化。私立は3.8ポイント低い55.8%だった。【2010/11/16-21:08】

 こういうのはあくまで「途中経過」にすぎませんが、数値だけ見るとずいぶんひどいことになっているようです。しかし、これは大学院進学予定者も込みの、学生数全体に対する比率だろうと思うので、有名大学の理系学部の学生なんかは多くが大学院に進学する(その場合、修士課程修了時に就職するのがふつう)ので、仮にそういう大学・学部だった場合、最終的に五割を切っていても百パーセント近い就職率ということもありうるわけです。
 「なあんだ。だったら騒ぐほどのことはないじゃないか」ということには、しかし、ならないようです。それは全体からすればごく一部の話で、全体との比率で見ると大学院進学はせいぜい1割強のようだからです。「就職希望者のうちどれくらいのパーセントの学生が内定をもらっていないのか」という数値を出してもらわないことには正確な実態はつかめないとしても、57%ということなら、全体の30%が未定で、就職希望者の少なくとも三人に一人はまだOKが一つももらえていないと見ていいのだろうと思います。
 昔のように、四年の夏から就職活動を始めてというのならまだしも、今は三年の夏から就職戦線がスタートする(これはそれ自体どう見ても異常です)という話なので、一年以上かけて成果ゼロの学生がそんなにいるというのは、何とも気の毒です。同時期のデータで比較しても今年は「就職氷河期より悪い」というのは、当時就職しそびれた今の三十代の気の毒なその後の境遇が社会問題になっているほどなのだから、事態がこのまま推移すれば、大変なことになりかねないと案じられます。「就職できなかったから仕方なく大学院へ」という学生も今は少なくないという話ですが、文系の大学院なんかは“入院”と呼ばれているのだという話をしばらく前に聞いたことがあるので、問題を先送りしただけで、個人的なコネでもないかぎり、大学院修了時に就職口を見つけるのはなおさら困難になるでしょう。
 この記事を見て僕が驚いたことの一つは、“売り”になる技術的知識があって就職には強いと言われる理系学生が「前年比10.2ポイント低下の58.3%で、下げ幅は過去最大」と書かれていることです。比率的に大学院進学者がずっと少ないはずの文系が「57.4%」というのは、もとより悪い。
 最後の、「国公立が63.2%と8.1ポイントの大幅悪化。私立は3.8ポイント低い55.8%」というのも、宮崎県あたりは“国公立信仰”がやたらと強い土地柄なので、ショッキングかも知れません。そもそもが、私立は国公立に較べて圧倒的に学生数が多く、かつ、下の裾野が広くて、偏差値一覧にBFと表示される、実質的には受験すれば誰でも合格できるような多数の大学・学部を含んでいることも考え合わせると、国公立より悪いのはあたりまえで、なのに両者の差がこの程度でしかないというのは、どういうことなのでしょう。私立が嘘の数値を報告しているのか、それとも、少子化で倒産の危機を自覚している私立の方が就職支援態勢が整ってきているからなのか、どちらなのか、それとも両方なのか、判断が難しいところです(ちなみにいえば、地方のネームバリューのない国公立より、都会の有名私立の方が概して就職にも強いというのは、どちらかといえば常識なので、それは大手企業が公表している大学別の採用人数一覧を見てもわかります)。
 それなら、国公立と私立というより、大学ブランドで差がついているのか? 要するに、東大京大、早慶あたりなら安泰なのかといえば、それがそうでもないらしいので、あれこれ関連サイトを見てみると、そういう大学の学生は有名企業にこだわる者が多いということもあるのでしょうが、やはり苦労させられているようです。書類審査や筆記は通っても、面接で落とされてしまうことが少なくないとか。だからそういう大学に入っても、“安全を買った”ことには必ずしもならないわけです。
 それでは、どうすればいいのか? 同日の日経新聞の記事には、「採用を絞っている企業側からは『意欲が感じられない』『個性がない』と学生への不満も漏れてくる」とありますが、“買い手市場”で企業側が勝手な文句が言えるということは割り引いても、面白い学生が減ってきているということはあるのかも知れません。ある企業の採用担当者は「『安定した企業に入りたい』と言う学生が増えた」と嘆いているそうで、そういうのは今の学生としては正直な心理だろうと思いますが、「意欲のなさのあらわれ」だとみなされるのです。僕が採用担当者でも、「なら、親方日の丸の公務員になれば」と言い返したくなるかもしれません。そんなのばかり雇っていたら、今は会社が潰れてしまうからです(尤も、緊縮財政の中、公務員も今は楽ではないようですが)。
 だから僕はいつも塾の生徒たちに、真面目に授業には出ました、成績は「優」を揃えました、サークルも人間関係の構築能力とコミュニケーション能力を高めるために一応入りました、とくに取柄はありませんが、言われたことはきちんとやる方です、なんて、「だから何なの?」と言われたらおしまいになってしまうような無個性な学生になったら駄目だよとよく言うのですが、たぶん、そういうのは、就職活動なんかするときになれば意味がわかるのではないかと思います。

 しかし、企業の採用担当者が公正さと人間洞察力に満ちた神のような存在だというわけではもとよりないし、もう一つ深刻なのは、首尾よく入社にこぎつけても、今は新入社員の18%が一年以内に、38%が三年以内に辞めてしまう時代だということです。不況と無理な人減らしで、全体に職場の労働環境は悪化を続けているようで、労働組合は大方“御用組合”と化してしまって従業員を守れなくなっているようだし、悪評高い“サービス残業”もあたりまえになってしまっているようです。「今の若者は根性がない・考えが甘い」といった出来合いの批判だけでは、こうした高い離職率は説明がつかないだろうと思われるので(転職への心理的抵抗が減って、その機会も昔より増えたということはありそうですが)、げんに三十代の過労によるうつ自殺なども急増しているわけです。親や家族にしてみれば、それなら会社を辞められた方がまだずっとマシだったということにならざるを得ません。
 だから、大学入試、企業就職と、次々ハードルを越えていっても、「ここまで来ればまず大丈夫」ということにはならないわけで、それがわかっているからこそ、今の日本社会を覆うこの奇妙な息苦しさはあるのでしょう。

 だんだん暗い話になってきましたが、それなら、どうすればいいのでしょう?
 僕は生徒たちの受験プランの相談に応じるとき、よく「最悪の事態を想定してかかれ」と言います。それが“プラス思考”だと思い込んで、甘い希望的観測だけに基づいて受験を考える(そういうのにかぎってロクに二次の問題も見ていない)と失敗し、受かるはずのところまでしくじってしまうことが少なくないないからです。医学部受験の場合などは、私立は学費が高すぎるので、一般家庭では私立をスベリ止めにすることはできないので、背水の陣を余儀なくされますが、他の学部では押えをちゃんと考えた上でとりかかった方が、過度のプレッシャーにさらされなくてすみ、本番で実力も発揮されやすい。その方が第一志望に受かる確率も高くなるので、だからそう言うのです。「最悪から発想」するのが、実は最強のポジティブ・シンキングなのです。
 就職に関しても、似たようなことが言えるかも知れません。おかしな世間体にこだわりすぎて有名企業ばかり回り、全部断られて、傷心状態で二番手企業に回ったものの、それも全部駄目ということになると、プライドはズタズタで、「就職できなかったらどうしよう!」という恐怖ばかりが募る。そういう心理状態になったら、まず成功はおぼつかないでしょう。そういう人は思いつめたようなゆとりのない表情になり、意図せず不安をアピールするだけになってしまうからです。会社にとって、そういう若者が魅力的な応募者に見えることはない。
 だから、「仮に就職しそこねても、こういう手がある」というのが何か自分の中にあれば、妙に追い詰められたような心理で会社回りをしなくてもすみ、その方が結果として就職活動もうまくいくかも知れないのです。

 問題は、しかし、その「こういう手」というのが果たしてあるのか、ということです。
 昔は「就職なんかしなくても自分の生活ぐらい何とかなる」と安易に考えるアホな若者が一定数いて、僕などもその種のアホの一人だったのですが、今はフリーターや派遣社員の悲惨な境遇がしばしばマスコミにも取り上げられる関係で、親よりも子供の方がむしろそういうものへの警戒感、恐怖心は強くなっているようです。
 実際、年齢と共に条件が悪くなるばかりのアルバイト(面倒なことが嫌いな僕は肉体労働が主でしたが)を渡り歩くなどというのは大変です。生活費稼ぎのバイトに明け暮れていた学生時代も含めれば、僕は何十もの仕事を経験しましたが、そういう生活に疲れて、「畜生、こうなったら銀行強盗でもやってやるか…」と、二十代の頃、何度考えたことでしょう。当時の僕の道徳観からすれば、人殺しでもすればともかく、大銀行は“巨悪”の一つでしかなかったので、そこからカネを強奪するくらい、大した罪悪とは思われませんでした。しかし、つかまっては意味がないので、それは「完全犯罪」でなければならず、それが可能になりそうないいアイディアも思い浮かばなかったので、泣く泣く(?)断念したのです(自分の名誉のために付け加えておけば、気の毒なお年寄りから「オレオレ詐欺」で金を巻き上げよう、なんて卑劣なことだけは決して考えなかったはずですが)。それで三十歳を目前に、仕事も家もなく、知人の家に居候させてもらうまでになってしまったので、「もはやこれまで」と、第二次ベビーブームの子供たちが高校受験にさしかかろうとして、人手不足で相当怪しげな人間でも雇ってもらえそうだった塾業界に潜り込んだのが運の尽き、というか、僕がこの仕事を始めるきっかけだったのです。人材不足の折柄、首尾よくスピード出世を遂げて、給料は一年で三倍に増え、「長」と名のつく役職になりましたが、それは当時の塾業界がいかにいい加減な世界であったかの裏返しです。ついこの前まで、日払いの事務所引越しの荷物運びのアルバイトに駆けつけたり、工事現場で一輪車を押して土を運んでいたり、週払いの立ちんぼのガードマンをしていたのが、ネクタイ姿で、恐縮する親子に向かって、「うーん、このヘンサチでは難しいですね…」なんて澄まして言っていたのです。銀行強盗まで思案していたとんでもない奴だとは、神のみぞ知る。です。
 要するに、昔も今と同じく、新卒でおとなしく就職しないと、あたかも社会による当然の制裁であるかのごとく、若者は悲惨な状態に追い込まれたということなので、むしろ今の方が中途採用の門は広くなっているようなので、当時よりはマシかも知れません(一つ自慢話をさせてもらうと、僕は学生時代、「君はペンで食える」というお墨付きをプロからもらっていました。結局断ってしまったものの、ひょんなきっかけである有名雑誌の編集部から「内定」らしきものを出されて誘われたこともあった〔その口説き文句は「君のような毒々しい奴はウチ以外では勤まらない」でした〕。しかし、時すでに遅しで、まともな職歴は何もない、新卒で就職しなかったそんな風来坊を雇ってくれるところは、まずなかっただろうと思います。左翼過激派のなれの果てかと疑われることも少なくないとわかったので、「高卒」と学歴詐称してインチキの「職歴」で履歴書の穴を埋め、バイトに応募することも珍しくなかったほどです)。

 こういうのも、しかし、雇われて生きるしか方法はないと思い込んでいたからなので、僕にもう少し知恵があれば、自分で何か小さな商売でも始めることを考えたかもしれません。この不況下、地方ではことに、そこらじゅう空きテナントだらけです。遊ばせていれば一銭も入ってこないのだから、大家さんを口説いて、初めの半年か一年ぐらいはタダ同然で貸してもらって、軌道に乗り次第相応の賃貸料を払うからという条件で協力してもらい、そうやって就職にあぶれた若者が次々“起業”すれば、景気もかなりよくなってくるのではありませんかね。後になって、「当時の就職難のおかげで起業が増え、日本経済回復の牽引力になった」と言われるかも知れないのです。
 これは若者向けのアイディアではありませんが、たとえば「セブンティーズ 70's」という名前の喫茶店を開くとか。これは1970年代の和洋のロック、フォーク、ポップスを専門に流す店で、内部も、ひとたび足を踏み入れると、そこには70年代の空間がそのまま広がっている、というふうにするのです。見ると、おお、あの懐かしいジューク・ボックスまである!ということならさらによろしい。この場合、音楽は60年代後期と80年代初期のものは含めてもよい(ことに60年代後期には名曲が少なくないので)。
 僕が、これは成功するのではないかと思うのは、当時は喫茶店文化の時代で、その頃の若者は日に何度となく喫茶店に入って、そこで本を読んだり人と話をしていたりしたからです。あのやかましいインベーダー・ゲームというのがはやり出し、それがついたテーブルがあちこちの喫茶店に設置されるに及んで、僕は喫茶店から足が遠のいてしまったのですが、今の中高年にはそういう店があったら、懐かしい音楽を聴きながら、入ってゆっくりおいしいコーヒーか紅茶を飲みつつ、本や雑誌でも読んで過ごしたい、という人がいくらもいるでしょう。今の若者にも、その雰囲気がいいなと思う人は意外にたくさんいるかも知れません。僕は今でも大のコーヒー好きで、おいしい豆があったからと言って買ってきてくれる人がよくいて、それにはいつも大感謝なのですが、喫茶店に入らなくなってしまったのは、落ち着いた感じのぴったりする店がなかなか見つからないからなのです。客はそっちのけで、テレビの下らないワイドショーに見入っているような品性に欠ける店主がいたのでは、せっかくのコーヒーも台無しです。学生時代、僕は自分のアパートの近くの、住宅街の中にある喫茶店に、LPレコードを一枚預けていました。それは今でも覚えているのですが、ボブ・ディランの“DESIRE”で、行くとママさんが気を利かせてそれをかけてくれるのです。立ち入った事情までは聞きませんでしたが、その人は一人で子育てをしているという人で、ときどき中学生の利発そうな顔をした娘が手伝いに来ていたので、エラい子だなと感心して、勉強のわからないところがあったら教えてあげるよと言うと、あるときほんとに数学のテキストをもってきて質問されたことがあります。昔の記憶を手がかりに大汗かいて教えていると、頼みもしない特製ピラフがテーブルに届いて、おかげで夕食がそれですんでしまったこともあったのですが、小さいながらもそこは清潔な、感じのいい店でした。マンガの類は置かれていなくて、客層もよかったという記憶があるのです。ベタベタした関係はないが、適度な良質のコミュニケーションがあった。
 この僕のアイディア、どなたか実現してくれませんかね。そういう個性のある店なら、成功するのではないかと思うのです(いくら70年代だからといって、当時娘時代だったというオバサンを無理にウエイトレスに仕立てる必要はありませんので、念のため)。
 もう少し若向きのことを言うと、人付き合いが苦手な、パソコンおたくみたいな若者なら、その特技を活かして、パソコンの修理や、“パソコンよろず相談”みたいな窓口を設けて良心的な値段で応じるようにすれば、僕みたいな電子機器音痴の中高年はたくさんいるのだから、「口下手だが、人柄は誠実で、仕事もしっかりしている」ということで、口コミで客が増え、そのうち自分が食べていけるぐらいの収入は十分得られるようになるのではないでしょうか。こういうのは、個人でやった方が有利なのです。中間搾取がないから、客の支払ったお金がそのまま自分のふところに入り、同じ理由で、料金を安くすることもできるからです。そうすれば、お客さんも自分もどちらもハッピーです。わざわざ会社に雇われて同じような仕事をするよりずっと分がいい。
 さっきも言ったように、地方は空きテナントだらけなのだから、地方出身の若者は郷里に戻るなどして、アイディアを練り、小さな商売を始めてみるのはどうかと思うのです。今は円高だし、自分で一つ一つ品物を吟味して、個性的な輸入雑貨のお店を始めるなどというのも、面白いかもしれません。ラーメンがはやりだからと、まずいラーメンしか作れないのに、真似して始めるなどということをするから失敗するので、個性的で魅力的な店を作ればお客さんはやってくるはずです。大学で経営学を学んだ若者なら、自己流の“市場リサーチ”をまずやり、そこからヒントをつかむこともできるでしょう。まず動き出し、動きながら考えてみることです。おまじないに類した成功本など読むより、そっちの方がずっと早い。

 何だか“起業のすすめ”みたいになってしまいましたが、ものは考えようで、職場の人間関係が険悪な、毎日がサービス残業みたいなおかしな会社に入るより、実際そちらの方がずっとマシかも知れないので、そういう手もあるのだということも頭の隅に置いて、自分の将来を考え、就職活動もすればいいのだということです。そうすれば悲壮な気分で会社回りをしなくてすみ、その方がいい会社に出会って、相手に気に入られることも多くなるのではありませんか。
 別の見方をすれば、今の会社がほんとにほしいのも、“起業精神”をもつ若者でしょう。大きな会社は設備も資金力もある。だから大規模なプロジェクトも可能になるのですが、問題はそこでアイディアを立案する創造的な頭脳と、それを実行に移す行動力です。規模が大きいというだけで、その点は自営と変わらないので、利益を生む製品・サービスを考え、それに適したシステムが構築できなければ、大企業だって潰れるのです。そういう未知のものに挑む創造性や果敢な行動力は自分には全くないから、それは他の人にやってもらって、自分は命じられた仕事をこなし、安全とよい給料、ブランド企業社員の肩書き、年功序列による地位は手にしたい、というのは、そもそもが虫のよすぎる話ではありませんか。誰かそれをやる人がいなければならないので、企業がほしいのはそれに名乗りを上げるような人材でしょう。
 ところが、今の学校秀才というのは、概してそうした要素が最も乏しい人たちです。それも無理はない。学校や受験のための勉強というのは、要は与えられた範囲の知識をどれだけ正確に記憶するかにかかっています。多少の例外はありますが、今は国立大学を受験するなら、あの退屈きわまりないセンター試験を、一律5教科7科目受験しなければならず、そのための平面知識の暗記に励まねばなりません。それ自体半端な量ではありませんが、その上でまた、性質の違う二次用の対策勉強をしなければならず、全体として昔より受験生の負担は増えているのです。しかも、「一浪と書いて〈ひとなみ〉と読む」と言われた昔と違って、今は「現役合格」を第一に考える時代なので、「高校生活をエンジョイする」というような余裕はない。ことに(毎回書いて恐縮ですが)延岡の県立普通科高校などの場合、朝夕課外に、意図のよくわからない機械的作業を強いる大量の宿題、冬休みは三、四日、夏休みも平気で十日に削るというようなことをして、これに連日の部活が加わるというようなことになると、生徒はヘトヘトに疲れてしまい、三年間がほとんど戦場です。親や生徒たちを怒らせているのは、にもかかわらず、ロクな受験指導のノウハウはないということなので、だから「よけいなお節介はやめたら?」と僕はいつも言っているのですが、こういう教育を受けていて、自発性、創造性、独立独歩の覇気などというものを、一体いつどこで身につければいいのでしょう。前にそういうのですっかりうつ状態になってしまった生徒が精神科を受診したら、他県出身の精神科医が学校の様子を聞いて驚き、「うーん。君んとこみたいな学校の教育では、将来大物になる人間は育たないだろうね」と思わず呟いたという話ですが、他ではそれほどひどくないだろうとしても、四年制大学進学率が五割に達した今、全国的に、ケージに閉じ込めて受験用“飼料”を無理やり口に押し込むような“超”がつきそうな学校の管理教育の弊害はかなり甚だしいものになっているのではないかと思われるのです。そういうので人材は育たないので、もっと学校や受験の見地からすれば“無駄”なことをやるゆとりが子供たちには必要なのです(何で英語でcram school〔詰め込み学校〕と訳される塾の教師がこんなことまで言わねばならないのだ、と思いますが…)。
 この分では将来「落ちこぼれが日本を救う」ということになるかも知れず、それならそれでいいと僕は思っているのですが、問題は、落ちこぼれの若者が自信を失って、かつチャンスも彼らには与えられない、ということにならねばよいがということです。
 ですから、これは難しい要請であるのは承知して言うのですが、“受験ブロイラー”のような学生になってはならないということです。勉強もできるが、それだけではない、野性味も備えたいわば“ハイブリッド種”にならねばならない。
 今は過去の経験やノウハウというのがあまり役に立たない時代です。二十年、三十年前に起業し、その頃はほどほどに成功したが、今は赤字の累積に苦しんでいるというような経営者にアドバイスを仰いでも仕方がない。ふつうの会社でも、過去の成功体験や経験則に縛られた中高年社員が若手の創意工夫の芽を摘んでしまうということが少なくないのではないでしょうか。だから、お役人みたいな“前例踏襲”型の思考と発想しかできない学校秀才タイプは、そういう上司には使い勝手がよくても、その種の社員ばかりが出世するようだと、その会社の経営はいつのまにか傾いてしまうのです。僕は経済・経営の専門家ではないので、これはあくまで素人考えにすぎませんが、日本経済全体の斜陽化も、そうした組織構成員の無個性化、無能化と無関係ではないでしょう。アイディアに乏しいから、“内需の発掘”というものができないのです。やれユニクロのヒートテックが売れたと聞くと、一斉に二流のコピー商品を作って売り出すとか、発想があまりに安易で貧困です。それで食っているのなら、何で別のもっとオリジナリティのあるものを作って出さないのかと思いますが、それが出てこないのでしょう(出版などでも、カツマだモギだと、売れそうな“安全パイ”にばかり頼ろうとするのは同じことです。失礼ながら、ああいうのは編集者が「一丁あがり!」で作っているとしか思えず、書籍代を惜しまない玄人の本読みは見向きもしないので、そうした企画の貧困は文化事業に携わる人間には恥ではないのですか?)。
 そういうわけで、横並び志向ではない、独創性のある“異端児”が今ほど必要になった時代はないと思うのですが、進学率の上昇を背景に管理教育がすみずみにまで行き渡り、ためにそれを問題視する声さえ聞かれなくなった今は、自由な野生をもったそうした若者がかつてないほど減ってしまったのかも知れないので、それでは先行き見通しはさらに暗くなるのではないかと案じられるのです。ビジネスだけでなく、研究・学問の世界でも豊かな創造性を発揮するにはそれが必要なはずなので、こんな嘘くさいクソみたいな(失礼!)社会に歩調を合わせていられるかという、いい意味でのアウトロー気質をもつ人間もかなりいてくれないと、現状は打破できないでしょう。
 そのためにも、延岡に住む僕としては、まず延岡の公立普通科高校の五十年は遅れた教育システムを変えねばならないと、一生懸命毎回のようにこうして書いているわけですが、暖簾に腕押し、糠に釘とはまさにこのことで、僕は見かけほど無鉄砲な人間ではないので、論争の備えもなしに何か書くことはまずありませんが、あえなく黙殺の憂き目に遭って、建設的な丁々発止という方向には全く進まないのです。生徒たちが団結して強力な異議申し立てをするということも、今はほとんどないようです。僕は高校時代、二度ほど教師をやりこめたことがあります(個人的な問題をめぐってではなく)。その先生たちは職員室に戻って僕の担任に八つ当たりしたらしく、「おまえ、あんまり無茶苦茶言うなよ」と困り顔で言われましたが、それでその先生たちの対応は明らかに変化して、よくなりました。つまり、意味はあったのです。別に相談の上やったことではありませんでしたが、そのとき僕の背後には四十九人のクラスメートたちがいました。彼らの暗黙の支持があったおかげで、それは奏効したのですが、今は自分が孤立させられて、それでおしまいになってしまいそうだと、生徒たちは感じるようです。大人は仕事に追われ、子供は勉強と部活に追われて、それだけでヘトヘトになり、エネルギーは残っていないのでしょうか。何のためにそんなに疲れているのかというところを、僕はもっと考えてもらいたいのですが。

 例によって脱線したので、最後に話をまとめておきましょう。どんな大学に行こうと、今は安泰ではないということですが、仮にあぶれて就職できなくても、それで人生がジ・エンドになってしまうわけではないのだから、イザとなれば零細自営で何か始めてみるのも面白いかも知れないと、その程度の余裕はもって、あんまり悲壮になり過ぎないよう心がけた方がいいのではないかということです。出来合いのパターンの中で考えるから苦しくなる。企業という“軍隊”に入らず、“ゲリラ”として生きることだって、できないわけではないでしょう。
 たぶん、そのとき一番大きな障害になるのは、「大きく儲けたい」「有名になりたい」といった若者特有の見栄や野心でしょう。それが焦りとなって冷静な現実認識を妨げ、かつ自由で柔軟な発想の妨げとなる。失敗続きで、「ようし、どうせ何をやっても食えないのなら、好きなことをやってやる」と居直ったら、不思議とうまく行き出したというような話は割とよく聞く話ですが、それはおかしな欲や中途半端さが消えるからなのです。そうするとバラ色の成功の幻想からも自由になるので、足が地に着いたまともなことができ、自然にそれに見合った結果がついてくる。それは人生のパラドックスの一つです。
 これから大学に行く人たちは、そのあたりのことも考えて、学生の間に努めて自分の固定観念を打ち破り、見聞を広げて、柔軟で豊かな発想がもてる人間になるよう心がけるといいでしょう。そうすれば就職シーズンを迎えたときも、それは色々な意味で力になってくれるはずです。

 少々ほころびの目立ちすぎる、焼きが回ったシステムに後ろ向きに適応するのではなく、自分たちが新しいシステム・業態を作っていけばいいのだという気概をもつ若者が増えれば、会社も利益が出せる商品やサービスが生み出せるようになって元気になり、多種多様な自営も増えて、先行きは明るくなるのではないかと、僕は考えているということです。時代の変わり目には、「あるものを引き継ぐ」のではなく、「なかったものを作り出す」ことが必要になるので、今はそういう“生みの苦しみ”の時代なのだろうと思うのです。Company(会社)は元々「仲間」の意味なので、就職にあぶれた者同士がアイディアを出し合って起業する、なんてのも面白いのではありませんかね。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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