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お困りネットレビュアーの精神分析

2010.11.13.02:11

※ この御仁はその後しばらくおとなしくなりましたが、しばらくして「ドラゴン・ボルト」と“改名”して、またのさばり始めました。正体はここの「エヴァンジル」なので、皆さんそれはよく承知して彼のレビューは見られるとよいでしょう。

 年末に大掃除をして、新たな気分で新年を迎えるというのは、わが国の“淳風美俗”の一つです。塾商売などしていると、年明け三週目の土日にセンター試験があって、そこから大学入試戦線が本格的に始まることになるので、正月気分などというものとは無縁に近い感じで、かえってせわしないのですが、今年は秋に自分なりに“大掃除”をしといて、片付けられるものはみんな片付けてしまおうと思い立ち、ここにもそのつもりで書いた原稿が何本かあります。しかし、まだ後一つ、“ドブ掃除”が残っていて、十二月は忙しくなりそうなので、今のうちにそれも済ませておこうと思います。

 それは「『クリシュナムルティ病』について」で予告しておいた、アマゾンという電脳ジャングルに棲息する“エヴァンジル”と名乗るグロテスクな変態動物のことです。“珍獣ハンター”のイモト(僕は彼女のファンの一人ですが)でもこういうのには顔をそむけてしまうだろうと思われるので、“妖怪ハンター”の僕が代わって“退治”しておくことにします。聞けば、アマゾンのハンドルネームというのは、その気になればいくつでも取得できるそうなので、また別の名前で出てくるかも知れませんが、読者は下記に示すこの気持ちの悪い文章の特徴をよく把握しておけば、すぐに「これは奴だな」と正体が見抜けるでしょう(一番望ましいのは“改心”して善良な生物に脱皮変身を遂げることですが、僕はそれほど甘い人間ではないので、こういう性根の腐った奴はどうかな…と懐疑的です)。

 クリシュナムルティ関係の読者の間では、このエヴァンジルというのは割と有名人物で、僕はこれまで複数回、「新刊が出て、レビューが出ているなと思って見ると、『またこいつか…』とウンザリさせられるので、何とかしてもらえませんか?」と人に言われたことがあります(こういうヘンな依頼が来るというのも、『人生をどう生きますか?』という本の訳者あとがきが災いしているのです)。それは同一の人ではなく、違った人からです。彼のレビューの特徴は、それ自体ほとんど内容のないコメントか、そうでなければ中傷・悪口の類で、何のために書いているのかというその心情を忖度すると、自己顕示欲と個人的な欲求不満の暴露以外には何もなさそうだということです。それに付き合わされる方は迷惑でしかない。そういう意味での“有名さ”なのですが、ご本人にはその自覚がとんとないようで、得意満面のご様子です。この前も書いたように、事実無根の嘘を平気で書いたりもしているので、今はしかるべき手順を踏めば法廷に引っ張り出すこともでき、また僕は法学部の出身なので、弁護士に相談しなくてもそのやり方は心得ていますが、そんなまだるっこいことをするより、こちらの方が手っ取り早いので、そうした“読者の声”にもお応えして、これを書くことにしたのです。

 僕が前に、「こいつ、いっぺんボコボコにしたろか…」と思ったのは、実はクリシュナムルティではなく、グルジェフの本についての次のようなレビューを見たときです。僕はそのとき、自分の名前で表示されるアマゾンの広告サイトを見ていました。訳本の売れ行きを見ようとしてです。すると、同じコスモス・ライブラリーから出たばかりの『グルジェフ・ワークの実際―性格に対するスピリチュアル・アプローチ』(セリム・エセル著/小林真行訳)という本が一緒に出てきました。レビューの星の数は何とたったの一つ! 誰がどういうことを書いているのだろうと思って見たら、それが例のエヴァンジルのしわざで、内容はこうだったのです。

●「本書の主張は、タイプ論からはいっていき、独自の世界観を述べていきます。しかし、本書で、実際に何かよい方向に、変化を起こすための実践的な何かがあるかというと疑問に思わざるを得ません。単に読書の楽しみとしてとらえるのが無難でしょう。/グルジェフの思想、ワーク、エクササイズについては直接の著作、講話の記録で知ることができます。「実際」とはかけ離れた記述に満ちています。/特に危険なテクニックが書いてあることもきにかかります。グルジェフはけっして教えなかったテクニックです。なぜそのようなものが書いてあるのでしょうか。なにかあったら、どのように対処すればいいのでしょうか。/どこか相談窓口でもあるのでしょうか。疑問に感じざるを得ません。/著者名が「セリム・エセル」と表記されていますが、「エセル」の元のつづりからするとフランス語の発音はアイセルです。(iのうえにトレマがあります。)フランスで活動している人の名をあえて英語発音にする必要は無いでしょう。本書はフランス語版を英語に訳したものを元にして、日本語に翻訳しているという重訳の背景がありそうです。/また漢字にカタカナのルビが振ってあるのですが、日本語の読みではなく、英語のような言葉です。たとえば「必要」に「ニーズ」とか。特にそういった専門用語があるわけではないし、必要も無いはずですし、しかも原語は英語ではないでしょう。こういったところは再考してほしいです」

 これを読むと、何か“犯罪的”な本であるかのようです。「特に危険なテクニックが書いてあるのもきにかかる」(木に掛かるのではないのでしょうから、この程度のことぐらい漢字を使いましょうね)そうで、「なにかあったら、どのように対処すればいいのでしょうか」「どこか相談窓口でもあるのでしょうか」とまで言い重ねているので、危険きわまりない本であるようです。エヴァンジル様はそれを案じて下さる!(しかし、その前に「単に読書の楽しみとしてとらえるのが無難でしょう」と書いているのは、あれは何なのですか?)
 そうして、彼はそのレビューをざっと見ても、語学書や辞書についての無内容なコメントも多く、相当な“語学おたく”のようですが、これが英語からの「重訳」であることに小躍りしたらしく、フランス語の発音を親切に教えて下さり、「あえて英語発音にする必要はない」のだと責め立てます。エヴァンジルの得意や思うべし、です。見たか! ボクだからこそ、こんなことも指摘できるんだい!
 そうして、「必要」に「ニーズ」のルビを振っているのがけしからんと息巻き、よくも下らん難癖を重ねるもんだと感心していると、急転直下「こういったところは再考してほしいです」と来る。おまえなあ…。全体として言ってることは、「こんな下らん本、オレは気に食わんから出すな!」ということだけだろ。何を「再考」するわけ? 「再考」が必要なのは、おまえの下劣な心性と頭の構造、この糞レビューそのものだろうが。
 僕はグルジェフも過去にはかなり読んだものの、この本は読んでいないので内容はわかりませんが、どこがどう悪いのかという具体的な記述がゼロなのは注目に値します。だから、これは悪意に満ちたエヴァンジルの勝手な決めつけにすぎないということも大いにありそうな話なのです。この前も書いたように、この男は僕の『既知からの自由』のレビューに「翻訳はまだ途中段階のようで、英語の単語のままになっているところが、あちこちに見受けられます」などと、とんでもない大嘘を平気で書いているのです。日本語すらロクに読めなくて、原語を付加しているのをそう思い込むほど頭が悪いのでないとすれば(別の意味で頭が悪いのははっきりしていますが)、こいつはどんな出鱈目でも恥じることなく並べ立てる奴なのです。
 だから、これは逆にいい本で、彼は自分もクリシュナムルティかグルジェフかを翻訳したくてならないのに、全くお呼びがかからないのを憎んで、その腹いせにこんなことを書いているだけなのかも知れません。しかし、そうは思われたくないので、「自分は親切で言ってやっているのだ」というところを示そうと、突然「こういったところは再考してほしいです」と付け足すのです。
 もう一本、やはり同じグルジェフ、同じコスモス・ライブラリーの本についての彼の“難癖”をご紹介しておきましょう。それは『回想のグルジェフ―ある弟子の手記』(C・S・ノット著/古川順弘訳)についてのレビューで、こうなっています。

●「内容の評価以前に、気になるところがいくつもあります。/ひとつ指摘すると、本書は翻訳権についてのパーミッションの表示がなにもありません。まだまだ著者の権利は守られなければならないのはあきらかです。/出版するという行為の、基本的なところを、しっかりしなければならないのではないでしょうか」

 「内容の評価以前に」という言い方からして、「内容」も取るに足りないと言いたげですが、「気になることがいくつもあ」るそうなので、「いくつ」あるのかと聞きたいところですが、お偉いエヴァンジル様は「ひとつ指摘する」にとどめるのです。それが「パーミッションの表示がなにも」ないということなので、この訳書はつまり、版権を無視した“違法な海賊版”であると言いたいのです。“良心の鑑”“ご意見番”であるエヴァンジル様は、「出版するという行為の、基本的なところを、しっかりしなければならないのではないでしょうか」と、グサリと痛いところをついた…つもりなのです。
 しかし、「クリシュナムルティの翻訳をやめたわけ」でもちょっと触れましたが、これは例のベルヌ条約によって版権取得なしで訳書が出せる本の一つだったのでしょう。つまり、「基本的なところ」をわきまえず、あらぬ中傷を加えているのは、エヴァンジルの方なのだということです。素人が知らないのは仕方がないが、人にエラそうなお説教を垂れるなら、それぐらい調べてから言ったらどうですかね。何も知らない読者は、こういうレビューを読まされると、「全く信用の置けない」本だと受け取ってしまうでしょう。最近は読者も賢くなって、アマゾンのレビューにはいい加減なものが少なくないことを知っているので、そのレビュアーがどんな人間なのかを確認して「参考」にするかどうかを判断するようになっているようですが、この種の虚偽は事実であるかのような印象を与えるので、非常に悪質なものだと言えます。読者はむろん、安心して買っていいのです。僕はこの本は持っていますが、訳も読みやすい、ちゃんとしたものだからです。

 先を続けましょう。この御仁、どういうわけだか「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりの熱狂的なファンでもあるらしく、彼の本に対する“絶賛レビュー”がいくつもあるのですが(クリシュナムルティと小林よしのりの関係がどうなっているのかはご本人に聞いて下さい)、とにかく「よい」「悪い」の決めつけ方が激しくて、神智学や自己啓発本(成功本)の類でも、独自の、たぶん当人にしかわからない“エヴァンジル基準”というものがあるらしく、絶賛と陰湿な悪口・冷笑の間を忙しく揺れ動いているのです。禅などでも、彼は“大家”をもって任じているらしく、お勧め本(その割には入門書的なものが多いが)をしばしば教示してくれます。比較的新しいレビューから一例を挙げると、『禅に生きる―行雲流水のごとくに』(原田雪渓著 ペンハウス)という本について、「平常是道(無門関第十九則)の話が興味深いです。他の本にも、よく書かれている『平常心是道」ですが、禅の要諦をわかりやすく言葉でしめしてくれています。よく勘違いされる単なる平常心という意味ではなく、時々刻々のその心そのものが道であることを南泉禅師と趙州禅師の話から、原田老師が解説しています。収録されている対談も、仏教の要の悟りについて、非常に明快に書かれています。禅を知るための良書です」などと書き、“悟った”エヴァンジル様から見れば、「仏教の要の悟りについて、非常に明快に書かれてい」る(例によってその部分の説明は皆無)ことが明らかなので、「おまえたち未熟な者は心して読むがよい」と親切に教えて下さっているのです。
 かと思えば、『真我の実現―「信心銘」の秘境的解釈』(真屋晶著 ブイツーソリューション)という本などは、「世界教師は私という迷妄からの離脱、覚醒を説きました。まったく逆の操作をするテクニックをおしえるなど言語道断です。そして禅の至宝『信心銘』を汚さないでいただきたい。自分で認識できていないで、未消化のまま、言葉のみをつづるということは、一体いかなる行為でしょうか。使われる言葉、文法はおなじでも伝わるものはまったく別物です。よろしく頼みます」などと、激しい弾劾を受けているのです(「文法はおなじでも」のあたり意味不明だし、最後の「よろしく頼みます」というのは、誰に何を頼んでいるのか、よくわからないのですが…)。
 さながら、“エヴァンジル、怒りの鉄拳”といったところですが、彼の素晴らしいところは、絶版になって入手不可能なものまで鵜の目鷹の目で探し出して罵倒し、「読者が危険な道に落ち込まないよう」配慮して下さるところです。実に、“慈悲のかたまり”と評すべきです。次のものなどはその例の一つでしょう。対象とされているのは、ベンジャミン・クレーム著『人類の目覚め』(石川道子訳 シェア・ジャパン出版部 尚、この本、さっき見たら再刊されているようです。エヴァンジル氏の“憂慮”にもかかわらず、しっかり再販されてしまったわけです)。

●「目覚めについては目覚めた人でなければ語れません。自分を認めてもらいたいという気持ちはわかりますが、別の霊的な『権威』に頼らないで、もっとしっかりとした地に足がついた自分自身の思想を述べるべきだと思います。認めてもらえなければ、姿も見せれないような、いじけた姿勢ではいけません。しっかりこの世界を実際的に生きて、自信をはぐくんでください」

 うーむ。エヴァンジル様は、「自分を認めてもらいたいという気持ちで」下らないレビューをあれこれ書き散らし、クリシュナムルティをはじめとする「霊的な『権威』に頼」って血の通わないエラそうな能書きを垂れ、まずいことを書きすぎているので本名は隠して、「姿も見せれないような、いじけた姿勢」に終始しているのではないかと思っていましたが、ひょっとして、違うつもりでいたのですか? やはり、“悟った”人はそのあたり、常人には窺い知れない神経をおもちのようです。
 悪いことは言わないから、一度精神科を受診しなさい。「参考資料」として、自分が書き散らした大量のレビューを持参して。鋭い精神科医なら、次のような一見何の変哲もないレビューにも、目を止めるでしょう。

●「日本では20世紀後半から、思想、理念から発想することがなくなっているのが現状ではないでしょうか。本書は、物事の本質を今一度、見直す心を刺激してくれます。でも、いまの日本で本書が良く売れているのは心強いですね。日本人全体の心が貧困になってしまう前に、この本を読んで問題意識が目覚めさせることが必要ではないでしょうか。/いかにあるべきかを突き詰めるなかから、現在の状況をどう変えていくかを考える原動力になると思います。」

 これは最近ベストセラーになっている『これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学 』(マイケル・サンデル著/鬼澤忍訳 早川書房)についてのレビューです。何が問題なのかって? 無意味に言葉が並んでいるだけで、内容が全くないでしょう。たぶん彼はこの本を読んでいないのです(他にもそうだろうと思われる彼のレビューはいくつもあります)。しかし、ベストセラーのところにレビューを載せれば、読者にはどんな人もいるから、「参考になった」をクリックしてくれる人もいる。それでポイントが稼げると考えたのです(しかし、哀れと言うべきか、内容のある評価の高いレビューは500もポイントを与えられているのに、われらがエヴァンジル様はまだたったの3ポイント〔「参考にならなかった」も同数〕で、増える気配もないのです)。
 彼は自分のプロフィールのところに「オヤジ」と書いています。職場では上司にも部下にも疎んじられるオヤジ、気取った無用なお説教屋として若者には毛嫌いされるタイプのオヤジであることは、こうした胸糞の悪い文章の性質からしても疑いありませんが、いい年したオヤジが、夜な夜なこういう無内容なレビューを書いて、それを自尊心の拠りどころとしようとしているというのはそれ自体異常だと、まともな精神科医ならすぐに見抜くはずです。たぶん、複数の病名と処方薬がもらえるでしょう。

 こういう“エヴァンジル様”なのですが、何と言っても彼の本領はクリシュナムルティの本に関するレビューで、最近の新刊についてのレビューは彼のものばかりです。こういうレビュアーだとわかっている人には、ほめ言葉だろうと中傷だろうと、書かれて有難いことは一つもなく、読者にしても、冒頭にも触れたように、「またこいつか…」と腹を立てる人がたくさんいるわけなので、傍迷惑以外の何ものでもないのですが、そのあたり、“気づき”というものは絶無のようです。
 しかし、そうした中でも最近の次のようなレビューは“力作”と評すべきです。

●「クリシュナムルティの最晩年の講話集です。/講話集として集大成となる本といえるのではないでしょうか。/本書は高い志を持った訳者による素晴らしい翻訳です。クリシュナムルティの言っている真意を見出すことにかけている翻訳者の姿勢が素晴らしいです。/ラディカ・ハーツバーガーによる前書きは晩年のクリシュナムルティの活動、そして色々な機会にクリシュナムルティが語ったことについての貴重な記録になっています。/仏教徒との対話のなかでは、時間の中にない正覚、完全な洞察についてなどの話は、仏教の枠を超えた普遍的な真理の追究になっています。/世界で今起きている問題、人間の思考、記憶、いかに制限された思考で人間は生きているか、それをクリシュナムルティは講話を聴いている人とともに、友人として、グルではなくて、探究していきます。/ロスアラモスでおこなわれた講話の記録は小さなパンフレットとして出されていましたが、そこで提起された問題は今につながる内容であり、この形で、本書に収録されたのはとてもよろこばしいです。/訳注、索引あとがきも充実していて、とても参考になる内容です。/あとがきにもありますが、今回の翻訳、出版には多くの人の協力あったそうです。同じ志の人々は協力し合えるということの現われですね」(『明日が変わるとき―クリシュナムルティ最後の講話』 (小早川詔・藤仲孝司訳 UNIO)

 実は、これをいち早く僕に教えてくれたのは知人のクリシュナムルティ読者です。「この最後の一文、大野さんへのあてこすりのつもりではありませんか?(笑)」という文面にくっつけて、これがメールで送られてきたのです。「大野さんはこのエヴァンジルに相当憎まれているから、この先も何が書かれるかわかりませんよ」と、彼は楽しげ(?)でした。
 たしかに、そう読めなくもない。それでは何があったのか、そろそろ全部バラしてやることにするか…と僕が思って、あの二つの文(『「クリシュナムルティ病』について」と「僕がクリシュナムルティの翻訳をやめたわけ」)を書いたとすれば、あれで困った人が出たとしても、僕の責任ではなく、“エヴァンジルがまいた種”で、エヴァンジル自身がここでこうしてまな板にのせられているのも、彼自身が仕向けたことだということになるでしょう。
 財団におかしなことを吹き込んだのも、エヴァンジル、おまえではあるまいね? いや、彼にそんな語学の実力はないと僕は見ているので、たぶんそれは別にいたのでしょう。
 それにしても、このレビューの絶賛ぶりはどうでしょう。エヴァンジル様はクリシュナムルティの訳書について書くとき、「原文の参照」を同時に読者に求めるのをつねとしていますが、どういうわけだか、この藤仲グループの訳書についてだけはそうではないようです。それほど訳が「素晴らしい」のでしょう。

 しかし、この際だから書いておきますが、僕は前に『花のように生きる―生の完全性』(横山・藤仲訳 UNIO)を買って読んだとき、著作集の第一巻が出たというので、何も知らずに大喜びで取り寄せたのですが、その訳文とおかしな「訳註」には閉口させられたのです。
 訳は冒頭の二行目で、早くもつまづいてしまった。

 「たとえば、誰かがあなたにここの景色について話していたとするなら、あなたはその叙述により、精神を用意してやってくるでしょう。そのときおそらく、真実によって失望するでしょう。」

 何とまあ…。これでも日本語のつもりなのかと呆れて、僕はそれ以上読む気が失せてしまったのです。こういうおかしな文章を読まされるくらいなら、僕は原書を読みます。訳註も、「そんなこといちいち…」と思わされるものが少なくなくて、他者の訳語を嫌味な感じであげつらいながらするその妙にネチこい細かさには、偏執狂的な不気味ささえ感じたほどでした(これが誇張だと思う人は、たとえばp.509のactuallyについての註や、p.511~2のnothingnessについての註をご覧になるといいのです)。笑ったのは、Lord Maitreyaを高橋重敏さんの伝記の訳等では「ロード・マイトレーヤ」とそのままカタカナ表記にしてあるのは「日本語読者にとっては本来的な意味は何も無い上に、『道路road』などとの誤解さえありうるから、『主マイトレーヤ』とすべきである」などと大真面目に書かれていることで、ここまで来れば病気みたいなものだなと思わざるを得なかったのです。どうでもいいだろうが、そんなことは…。人気ファンタジー映画の『ロード・オブ・ザ・リング』を『指輪の道路』とカン違いしたとすれば、それは笑い話で終わるでしょう。そんなことをネチネチ書いているヒマがあったら、「その叙述により、精神を用意してやってくるでしょう」なんて、意味不明の日本語の方を先に何とかしてもらいたいんだけど。
 実は、高橋さんが「彼は頑固でねえ…」と苦笑しておられたのは、この藤仲氏のことなので、あれはこういうことだったのかと、そのとき初めて思い当たった僕は、以後藤仲その他訳はご免こうむることにしたのです。当然この本も買っていないのですが、エヴァンジル様とはそのあたり、気質的に波長が合うところがあって、それでこういう絶賛を浴びることになるのかなとも思われるのです(藤仲氏の名誉のために付け加えておけば、彼は虚偽をそれと知りつつ言い立てるエヴァンジルみたいな卑劣な真似はしないでしょうが)。
 そのあたり、今回の訳ではどうなっているのか。「訳注、索引あとがきも充実していて、とても参考になる内容です」というのは、そうした偏執狂的なネチネチぶりがまた発揮されているのではないかと、僕などは逆に心配になるのです。エヴァンジルではなくて、他のもっとまともな読者に書いてもらいたいものです。それを見て、ほんとによさそうだと思ったら、僕も買うことにするでしょう。

 エヴァンジル様のレビューには、この他にも面白い特徴が色々あって、大野純一氏などは、あるところでは「この翻訳にはニュアンスというよりも意味のレベルで、同様のぶれがあるように感じます。かなり恣意的な訳が多いという指摘は、以前からさまざまなひとから、されています。そういったことを認識した上で、本当に書かれていることに興味がある人、理解したい人は、この翻訳書を購入したうえでさらに、原本を取り寄せて、原文をもとに要点をはあくしながら読むのがお勧めです」(『生と覚醒のコメンタリー』のレビュー)と、「他の人たちもそう言ってるんだから」と「さまざまなひと」を味方につけながら非難されているかと思えば、別のところでは「日本のクリシュナムルティ解説の第一人者、大野純一先生」と“先生”付で言及されているという始末(織田淳太郎著『ルポ 現代のスピリチュアリズム』宝島社新書)で、一体おまえは何を言いたいのだと、両方読まされた読者は思うでしょうが、「訳は問題があるが、解説はよいのだ」と言いたいのかも知れません。
 ほんとにそうかも知れないので、絶版になっている『真理の種子』のレビューなどでは「よくまとまった訳者あとがきが参考になります。クリシュナムルティと本書の背景について真剣な論述がされています」と賞賛されているのです。
 ところが、皮肉なのは、この「参考になる」と言われている訳者あとがきの中に、この前僕が「有害無益なたわごと」でしかないとして『「クリシュナムルティ病』について」で酷評した、あのウッドハウスの引用が全体の約三分の一を占めるものとして入っていることです(その本では「ウォードハウス」と表記されていますが)。大野純一氏はまさかこのエヴァンジルのレビューを見て喜び、それを“復活”させたのではないでしょうが、こんな奴の言うことを真に受けるとロクなことにはならないという証明みたいなものです。

 ついでだから、いずれもエヴァンジルがレビューを書いている最近の二つの訳書、『英知へのターニングポイント―思考のネットワークを超えて』(渡辺充訳 彩雲出版)と、『クリシュナムルティのノートブック』(中野多一郎訳 たま出版)についても言及しておくと、前者は『思考のネットワーク』の再刊らしいので、僕は前のをもっているから、これが明快な読みやすい訳文なのは、請け合えます。訳者の渡辺さんはボームとの対談集、The Ending of Timeを読み込んでいて、その翻訳を計画しておられると、ずいぶん前に噂で聞いたことがあるので、僕はずっとそれが出るのを楽しみにしているのです。この本は「訳書が出ていない重要著作」の一つなので、ぜひおやり下さい。渡辺さんの訳なら読みやすいものになるはずだと期待しています。
 『クリシュナムルティのノートブック』については、エヴァンジルはいつもの鬼の首でも取ったような勢いで“誤訳”を指摘していますが、僕はこれを買ったという知人の一人から、「文体がちょっと…」というメールをもらいました。あれは翻訳の難しい本の一つであるのは間違いないので、訳者に同情して、これだけにとどめます。

 さて、すでに長くなりすぎたので、今回の“エヴァンジル叩き”はこれまでにします。余った材料はストックしておいて、彼がまた懲りずにあることないこと、有害無益なレビューを書き散らし続けるときに第二弾、第三弾として書くことにしましょう(あっと驚く“隠し玉”も、僕はまだもっているのだということをエヴァンジルは覚えておくとよいでしょう)。何にせよ、彼のレビューは、僕がここにこうして書くまでもなく、その反応の悪さからして「もうおまえは書くなよ」と言われているのと同じことになっているのだから、それを自覚して、さっさと引っ込めばいいのです。無益な時間潰しにうつつを抜かさず、「しっかりこの世界を実際的に生きて、自信をはぐく」むよう、努めることです。クリシュナムルティを読んで、このような腐った人間になるとは、何たることかと、Kもあの世で憂い顔をしているでしょう。その程度の“気づき”はもつがいいのです。

 これで、僕のクリシュナムルティ関係の“年末大掃除”は終わりです。ずいぶんスッキリしたので、たぶん僕は何かの外的必要性にでも迫られないかぎり、彼について直接書くことはもうないでしょう。後は皆さんでよろしくおやり下さい。一連の文で問題提起はいくつかさせてもらったつもりなので、それが活かされることを、僕は希望しています。全然そうならなくても、それは僕の与り知らないことなので、とやかく言う気はありませんが、多少はクリシュナムルティ紹介の環境改善に役立つことも書かれているだろうと、自分では思っているので、それを活かしていただきたいのです。

 それでは(ちょっと早めですが)、クリシュナムルティ読者・研究者の皆さん、よい新年をお迎え下さい。

※ 後註 このエヴァンジル様は、この記事のせいで悪評が立ったせいか、その後「ドラゴン・ボルト」と改名なさったようです。♪ 違う名前で出ています(今の人は知らないでしょうが、これは大昔ヒットした小林旭の歌の歌詞のもじりです)。
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