「クリシュナムルティ病」について(改)

2010.10.30.03:30

 古来、宗教やオカルティズムは、それに拠る少数の聖人、かなりの数のすぐれた宗教的指導者、多数の善良で誠実な人々と共に、他方に「虎の威を借りる狐」と評する他ないような権威主義的な偽善者、原理主義的な狂信者、疑惑と混乱を募らせる神経症的な人々を生み出してきた。こうしたネガティブな側面があるのは、それらが多く一般の人々にはわからないとされる高度な「悟り」とか「光明体験」とかいったものをまといつかせているからで、そのようなものが自分では得たいのに得られないというとき、正直な人は苦悩に陥り、自尊心が並外れて強い人は「わかったふり」をすることによって偽善者になるといったことがあるためである。むろん、その教団・組織、あるいは教えそのものを、自己の権力欲・虚栄心を満たす手段として利用する人もいる。

 クリシュナムルティは通常の意味での宗教を創設したわけではなかった。彼はむしろあらゆる制度、儀式、教義体系を否定したので、「寄りかかるものを何一つ与えない」という意味では過去のどの宗教とも似ていない。
 しかし、彼は「悟った人」の一人とみなされ、聖人の一人として崇拝されるようになった。そして「教えを伝える」ための財団組織を残し、多数の講話記録・著作を残した。
 自身はその役割を拒否したものの、彼は最初、神智学協会によって「ロード・マイトレーヤ(弥勒菩薩)」の化身、仏陀のような「世界教師」として押し立てられた。そして皮肉なことに(と彼なら言うだろう)、それを拒否して一人で活動を始め、多くの信奉者を集めたことから、かえってその名声は高くなり、「権威」視されるようになったのであった。

 ここで少しその人柄にも触れておくと、クリシュナムルティという人の性格には、顕著な二面性があった(他に非常に実際的な面もあったのだが、話がややこしくなるので、それについてはまた別の機会に書く)。子供のように無邪気で、ひどく内気で恥ずかしがり屋の側面と、率直・大胆で、潔癖で激しやすい側面である。後者について、わかりやすいエピソードを一つ挙げると、オルダス・ハクスレーの二番目の妻、ローラは、あるとき彼の罵倒に近い、激しい精神分析や心理療法への頭ごなしの否定(彼女はそのとき独自のセラピーを案出し、実践し始めていたところだった)に直面させられて驚き、彼女はもちろんクリシュナムルティの奥深い人格と柔軟な性格はよく理解していたが、「このような人は何と誤解されやすいことだろう」と思ったという話を、『この永遠の瞬間(とき)』というメモワールに書いている。伝記の類には他にも、他の「グル」たちが挨拶にやってきたときの無礼とも見えるそっけない対応(彼は“グル嫌い”で有名だった)や、敬虔なガンジーが寺院の前で礼拝したとき、「こんなものの中に神はいない」と傍らで言って彼を唖然とさせた話などが伝わっているが、それは彼の装うことを知らない正直さと、それと直接結びついた偽善や尤もらしさに対する強い嫌悪の自然な表われだったのだろう。内気さも彼の地であり、率直さも彼の地だったのである。
 彼のジョーク愛好にもこうした偽りを嫌う、率直な性格はよく表われている。彼はとくに宗教や政治の鹿爪らしい権威主義や偽善を笑い飛ばす痛烈なアイロニーを含むものを好んだ。当たり障りのない、人畜無害のいわゆる「ほのぼのユーモア」の類ではなく、権威を嘲笑するものや、人間の利己性や硬直を軽妙に皮肉ったジョークである。

 総じて言えば、彼の性格は、仏陀よりもむしろイエスに似ている。「私が平和をもたらしに来たと思うな」と言った、あのイエスである。彼は最初、徹底的な既成の権威と価値観の破壊者として現れたが、表現や話しぶりは人格的な円熟と共に変化したものの、そこは最後まで変わらなかった。彼は間違いなく「愛の伝道者」の一人である。しかし、彼のその「愛」は一切の伝統的価値観・権威の破壊のあとにやってくるものであって、そこに「折衷」だの「調停」だのの余地は全くないのであった。台風かハリケーンのように、彼はすべてをなぎ倒して、そのあとに晴朗な青空をもたらすていの人物である。「破壊」と「愛」は、彼の中で表裏一体をなしていた。
 
 しかし、そうした破壊にたえられる人はほとんどいない。彼の在世当時もそうであったし、今も同じである。彼はわれわれふつうの人間には通常無理と感じられるような注文をしているのであって、あらゆる信念、道徳的公式の類を捨てよ、権威に一切頼るな、すべての松葉杖を捨て去って、自分の足で立て、かといって「真の私とは何か?」といった愚劣な観念の遊戯にもふけるな、どのみちそんなものは虚構である、無nothingnessであれ、などと言われても、人は途方に暮れてしまうだけなのである。
 しかし、彼が言ったのはまさにそういうことであって、やれあなたの言うことはヴェーダーンタの何とかと同じではないか、シャンカラ、仏陀、龍樹のあの教えに似ているのではないかと言われても、彼は苛立たしげに手を振るだけであった。それは別に、彼が自分のオリジナリティを主張したかったからではないので、そんなものを「比較研究」したり、過去の偉人がこう言ったから、私がこう思うのも正しいのだろうというような、そうした依存的な精神的態度そのものを嫌ったのである。人がどう言ったというのは関係ない、あなたが自分で〈直接〉つかむことが大事なので、それができさえすれば、クリシュナムルティ自身のそれも含めて、一切の権威はゴミ箱に叩き込めるのである。そうしなさいと、彼は言ったのである。

 けれども、これはまた何というやっかいな要請だろう。ふつうの宗教のように、あれをするな、こうせよという戒律を与えられた方が、「努力目標」ができて容易である。しかし、クリシュナムルティによれば、これは最もよろしくないことの一つなのである。なぜなら、そうなると、「あるべき自分」と「現実にある自分」との間の齟齬が葛藤を生み出し、それでは最初にして最後の条件である、あの大切な「自由」が失われてしまうからである。
 葛藤の中で苦悩する人々に、平気で「私には葛藤が全くありません」などと言うこの人物は、ある意味で無神経な人である(彼がそう言っているインタビューの訳をこのブログにも一つ載せている)。それで何とか葛藤を解きほぐそう、せめて緩和したいと、分析家やセラピストのところに行こうとすると、そんなことは無駄だとにべもなく言う。それはあなたを決して自由にはしないのだと。
 では、どうすればいいのかと途方に暮れる人に、彼は何かの“為にする”ものではない「選択のない気づき」、「中心のない観察」を説く。「中心のない観察」とは、つまり、「観察者のいない観察」のことだが、そのためにはまず「観察する者と観察されるものが同一である」ということを理解しなければならない。たんに頭でそうした観念をもてあそぶのではなく、それを実際に「見る」、つまり観察することによってである。そうすればそれ―観察する者と観察されるものは同じである―が真実であることがわかる。そのときその中から、真に新しい何かがやってくるだろう、云々。
 しかし、どうやって「見る」のか、ときくと、「どうやって」という方法はないのだとまた言われる。よけいな理屈をこねず、何も求めることなく、ただ見ればいい、観察すればいいだけなのだと。このあたりの問答が始まると、それはたいてい堂々巡りになる。

 そうしてこのあたりから、クリシュナムルティの教えをめぐる誤解も本格的に始まる。
 そうした誤解の中で、ある意味最も単純でわかりやすい(?)ものは、次の大野純一氏の「解説」に見られるようなものだろう。

●(A)「科学的探究では、例えばウイルスを観察する場合、観察者は観察対象であるウイルスとは別個です。ところが、宗教的探求においては、探究者である私は自分自身について学ぶのであり、ですから観察者と観察されるものは同一です」
●(B)「そして自分の内面に秩序をもたらすために自分自身を観察するためには、他ならぬ観察者である自分が、観察を妨げている偏見、特定のものの見方、我欲、願望といったものにとらわれていることにまず気づかねばなりません。さもなければ、『観察者が観察を妨害してしまう』からです」(共に、イーブリン・ブロー著『回想のクリシュナムルティ・第一部』「いまなぜクリシュナムルティなのか?―訳者あとがきに代えて」p.314より)

 率直に言うなら、これは言葉が同じだというだけで、クリシュナムルティの教えとは何の関係もない。何十年もクリシュナムルティを「研究」してきたという人の言葉とは到底思えない甚だしい見当違いである。ある程度クリシュナムルティの本を読んだ人には説明する要もないほど明白なことだと思われるが、クリシュナムルティをこれから読もうとする人が、このようなおかしな「図式」を頭に入れてしまうと、実際に彼の著作を読んだとき、かなりの混乱に陥ってしまうだろう。その意味で、非常に有害な嘘である。
 だからそれを説明しておきたいと思うが、(A)については、クリシュナムルティはそもそもそんなことについてこの問題を云々したのではないし、(B)については、他でもないこういう考え方が間違いなのだということを、彼は一生懸命説明しているのである。
 たぶん氏のこうしたひどい勘違いが生じる根本の原因は、クリシュナムルティの度重なる指摘にもかかわらず、「自分という中心」が絶対的なものとしてあると頑固に思い込んでいるところにあるのだろう。ここ(B)で言われているのは、その「自分(呼称はどうあれ)」が「偏見、特定のものの見方、我欲、願望といったものにとらわれている」ことが多いので、それをいわば「浄化」して取り除かねばならないということである。そうして「純粋な自己」にして、それから「自分の心の内部を観察」するようにすれば、「観察者が観察を妨害してしまう」ことはもうなくなるのだと。
 裏返しにして言えば、そういうことである。しかし、それでは、クリシュナムルティがよく言う「無選択の気づき」「中心のない観察」といった言葉はどう解釈するのか。そこに、自己であれ、セルフであれ、「私」というものが観察主体としていれば、それは不可能なのである。神のごとき「純粋な自己」なら、それは可能だとでも言うのだろうか。クリシュナムルティは「観察者のいない観察」という言い方もしていて、それは同じことを指しているのだから、どのみちそうした説明は間違いなのである。
 時と場合によっていくらかニュアンスは違うが、クリシュナムルティが言っているのは、ここでの氏の議論に合わせて言えば、「自己」の周辺によからぬ「偏見、特定のものの見方、我欲、願望」やらがあって、それが「自己」にからみついている、あるいは「自己」がそれに「汚染」されているというのではなく、その「偏見、特定のものの見方、我欲、願望」がすなわち「自己」の中身なのだということなのである。その「自己」観念自体、「特定のものの見方」の産物なのだ。クリシュナムルティは「意識の中身が意識なので、中身とは別に意識があるわけではない」とも言っているが、これは同じことである。
 これは「見解の相違」だの「解釈のニュアンスの相違」だのといったレベルの話ではないので、素直に彼の言葉を読むなら他に受け取りようはない。氏が想定しているであろう、「不動の自己」「純粋な自己」は、氏の空想の中に観念として存在しているだけであって、実在ではない。禅坊主なら、「おまえのその“自己”なるものを端的に示せ」と詰め寄るところだろう。詰め寄られても、氏に満足な説明はできないにちがいない。それは文字どおりの「絵にかいたモチ」でしかないからである。
 尚、さっき(A)は関係ないと言ったが、実はこれも間違いなので、物理的に分離した外部の対象についても、物理的に分離しているから、すなわち「観察者は観察対象とは別個」だとは必ずしも言えない。げんにクリシュナムルティは『既知からの自由』の中で、こうも述べている。

●「古代の中国では、画家は何か―たとえば木―を描き始める前に、その対象の前に何日も、何ヶ月、何年も座り続けました。時間がどれほどかかろうとそれは問題ではなかったので、彼は自分が木になるまで待ったのです。彼は自分を木に同一化させたのではありません。彼が木なのです。この話が意味するのは、彼とその木の間には空間がなかった、観察者と観察されるものとの間に空間がない、その美しさを、動きを、影を、葉の厚みを、その色合いを体験する体験者は存在しなかった、ということです。彼は木そのものでした。そしてその状態でだけ、彼は描くことができたのです」(訳書.132~3 傍点は省略)

 これが彼の言う「観察者のいない観察」のもう一つの意味なので、誤解の余地はない(この場合、「空間がない」と言われているのは、物理的な空間のことではない。もしも外部から通常の意味で「観察」するなら、そこ、画家の肉体と木との間には、空間がある。しかし、意識が自由になっていわば場の全体に広がり〔あくまで比喩的な表現である!〕、その「拠点」となる自己をどこにももたないなら、そこには自他の別はなく、従って「観察者と観察されるものとの間に空間がない〔=両者の分離はない〕」ことになるのである)。
 だから、氏のこうした説明はどれも、明白な虚偽なのである。自社から出している出版物にもはっきりそう書かれているのだから、それぐらい目を通してからものを言ってもらいたいと思うが、それすらしないのである。

 もう一つ、ある意味でもっと悪質な氏の嘘を指摘しておく。これについては、もう三年も近く前、直接ご本人にメールして、問い質したことがあるが、「あれは忠実な紹介のつもりです」という返信が来たまま、以後は音沙汰なしである。僕はそのとき、これは真剣な読者が真面目に読んだとすれば、深刻な苦悩に陥ってしまうだろうと思ったので、「こういう問い合わせのメールが一読者から来たということにして、別にすぐでなくてもいいから、よく考えて釈明を、自社ホームページにコラムをおもちなのだから、そこにお書きになったらどうですか」と勧めた。しかし、いつまでたってもそれには答えないまま、上に見たような新たな「無責任解説」を書いているのである。「反省」というものがこの人にはないのだなとしか、思えない。
 僕の見るところ、これにも上に指摘した氏の「不変の自己」観念が悪く関係しているように思われるので、そういうものがいかにクリシュナムルティ理解の障害になるかを明らかにする意味でも、あらためてそれを取り上げておくだけの価値はあるだろう。

 問題のその文章とは、ルティエンスの『クリシュナムルティの生と死』の訳者あとがきの中に長々と引用されている、ウッドハウスの引用である。僕がさらに呆れたのは、それは二十何年も前の自分の別の訳書に載せられていたものの「再利用」でもあるという話で、氏はとにかく昔自分が書いたものを「再録」して読者に押しつけるのがやたらと好きな人だが(先のブローの『回想のクリシュナムルティ・第一部』など、多くが「再利用」のなくもがなの「訳者による補足」を慎みもなく入れ込みすぎて、本文の統一が台無しになってしまっている)、氏の“既知からの不自由”がここでも災いしているのである。
 結論から先に言えば、これはウッドハウスまたは大野純一氏の「思想」ではあっても、クリシュナムルティの「思想」ではない。ウッドハウスがその当時(1920年代末)そのような「解釈」をしたというにすぎないのである。それはクリシュナムルティがまだ活動を始めたばかりで、それ以後の六十年近い歳月の、そこからが本番と言える彼の言説は視野に入っていない。その時点ですらそれがクリシュナムルティの言説の正しい理解であったかどうか疑わしいのに、その後の変化をクリシュナムルティの言葉そのものを追いながらていねいに跡づけていく地道な努力が払われているのならまだしも、そのようなことは何もせず、伝記の最後に、あたかもそれが彼の思想の「核」としてあって、それは終生変わらなかったような書き方で載せられているのである。
 僕が当時としてもこれは適切な説明ではなかっただろうと思うのは、全体がひどく空想的・観念的なものだからである。引用文から判断しての話だが、これでは大野純一氏が言うように、ウッドハウスが「優れた哲学者でもあった」とは到底言いかねる。空虚な美辞麗句の羅列で、書いている自分に酔っているだけの気色の悪い駄文である。「愛のサーチライト」にいたっては、僕のような人間は勘弁してくれと言いたくなってしまう。
 これだけでは中傷と受け取られかねないので、次に引用の上、具体的な問題点を指摘する。たとえば、次のような文である。

●「そこでわれわれすべてがしなければならない重要なことは、われわれの「反応」を徐々に「行為」へと変えていくことである〔引用者註:ここの意味については後に述べる〕。われわれの内部の生のあらゆる運動は、自己発生的でなければならない。外部からの引力または斥力によって撹乱されることをやめ、それ自身の特質を自ら周囲の世界に授けるであろうような、そういう外向的な生をわれわれは樹立しなければならないのである。このように、エゴの反応を純粋な生の行為に置き換えることが、真の無執着である。なぜならそれは、その本性上、対象物に無頓着だからである。それはまた解放でもある。なぜなら、エゴの唯一の生―エゴはそれ自体が自由への唯一の障害物である―は、反応に存するからである。反応を放棄し、純粋な行為に置き換えよ。そうすればエゴは自動的に消滅するだろう。ゆえにこの「反応なき行為」を目指すことが解放への足がかりになる」(『クリシュナムルティの生と死』p.389)

 先に、ここの「反応」と「行為」について、前に書かれている説明から少し補足しておくと、「われわれがエゴを取り除くまでは、われわれの生の大部分は反応で出来ている」とあるように、エゴは「反応」することしか能がない。これに対して、氏の言う「純粋または普遍的な生」の場合、「愛」が「われわれ自身から流れ出る生命力にな」って、「それは、その光線(=愛のサーチライト)をたまたま注がれたすべてのものを愛らしくする」ために、「その対象物とは無関係」にそれを愛せるようになる。この「内なる中心から外へと働きかけ」る行為が、ここで言われている「行為」なのである。そうなると、もはや「行為」だけがあって「反応」はなくなる。「純粋または普遍的な生」の「特徴とは、それは行為はするが、しかしけっして反応はしないということである」と力強く保証されているからである。
 下品なたとえで恐縮だが、この「愛のサーチライト」に照らされると、下痢気味の犬のウンチですら「愛らしい」ものに見えるので、顔をそむけたりはしなくなるのだろう。そのようなことは戒めるべき「エゴの反応」なのである。
 冗談はさておき、生命体はすべて「反応」によって自己(これはむろん、抽象観念的な「自己」のことではない)を保護しているので、問題はそれが適切な反応であるかどうかだけである。心理的な反応にしても、全く反応しないのは馬鹿か死人だけである。病的な自我やコンプレックスの持主は、適切な反応ができない。だから色々な問題を派生させてしまうのである。いくら青年時代のこととはいえ、クリシュナムルティが「反応」それ自体を全否定するようなこんなおかしなことを言うはずがない。
 もう一つ、「エゴの唯一の生は、反応に存する」ので、「反応を放棄し、純粋な行為に置き換えよ。そうすればエゴは自動的に消滅するだろう」という論理の安易さ、奇怪さである。現実に即してものを考えない人間だけがこんなたわごとを言うので、「反応を放棄」すれば、「エゴは自動的に消滅する」などと、かんたんに言われては、われわれ「下々の者」は困り果てるのである。
 たとえば、大野純一氏が今これを読んでいるとすれば、彼は激しく「反応」しているだろう。人一倍世間の評価を気にする人なのだから、それも無理はないと思われるが、「反応を放棄せよ」と言ってもすでに「反応」してしまっているのだから、手遅れである。酒好きの人が夜の街でバーのネオンサインを見たとき、「一杯やりたいなあ」と思う。それは「反応」である。その反応を、どうやって彼に禁止できるのか。反応は自動的なものである。行為は止めたり、やめたりできるが、反応はそうはいかない。「放棄」できるのは、反応に続く行為だけである。これを、「いや、私が言うのは外的反応だけです」と言っても、それは弁明にならない。なぜなら、「エゴの反応」とはまず第一に「情動の反応」だからである。「エゴの唯一の生は、反応に存する」とは、情動が反応している以上、エゴはそこにあるということである。「抑圧」することはできるが、それが問題の解決にならないことは、いくらかでも心理学の知識があればおわかりだろう。彼が言っているのは、そのときその反応を回避せず、見守れ(重ねて言えば、そこで「観察者と観察されるもの」の分離をつくり出すことなく)、ということである―一足飛びにそのまま行動に飛び移ってしまうのではなくて。怒りや恐れ、嫉妬や不安、それに無意識に自己同一化しようとする心の働きを含めて、全体を見よ、ということである。これもずいぶんと困難なことだが、氏が言うような根本的な不可能事ではない。それはナンセンスではないのである。
 しかし、ここに書かれているのはたんなるナンセンスである。できるわけがないことを、どうして「解放への足がかりになる」などと、さも自分にはできているかのように人にお説教するのか。四ページ前には、「以前には『エゴ』があり、そして成長はその展開として起こった。今や、もはやエゴはない。それは解放と共に永久に消滅してしまったのである」などという凄いことも書かれているのだが、それは一体誰のことなのか。「いや、クリシュナムルティのような人のことです」と逃げを打つだろうが、あなたはクリシュナムルティではなく、自分にはそれは全くできないのだから、勝手な当て推量でそんなことを言っているだけにすぎないのである。クリシュナムルティがそうだという保証さえどこにもない。頭の中で屁理屈ばかりこね回して、自己の現実に照らしてものを考えることも、クリシュナムルティの話を真剣に聞こうともしていないから、涼しい顔でこんなことが言えるのである。自分にできもしないことの実際が、わかる道理がない。
 やに下がった自己陶酔が顔を覗かせているのも見過ごせない点である。「焦点」などという言葉も使って、氏は先に説明しているのだが、人間には「解放」後も「エゴ」ではない、「自己(セルフ)」があるそうで、それはどうやら「汚れなき自己」であるらしいが、それを「焦点」として、「純粋または普遍的な生」、つまり「愛」が、外部に放射されるのである。「私」は愛の流出口であり、周囲に惜しみなくその恵みを撒き散らすのである。なんて素晴らしい、カッコいい、偉大な私! 「外部からの引力または斥力によって撹乱される」ことは全くなく、ただ自ら主体的にする「行為」あるのみなのだから、その「私」はまさに「神」そのものなのである。

 このような話は、たわごと以外の何ものでもない。全体が空虚な空想の産物でしかないので、クリシュナムルティとは何の関係もないと断言して差し支えない。初期のことだからどうのといった話ではないのである(この後に、今回の訳書には“新しく”ウッドハウスによる解釈のその後の展開も紹介されているのだが、それについては「カバラ学説の焼き直し」にすぎないというのが、僕の受けた印象である。この人はどこからか理論を借りてきて、それを当てはめないと気がすまない人なのだろう)。

 そもそも、氏はどうしてこんなことを僕に書かれる羽目になったのか。そこにも実はあたかも克服したかのように言う氏の鈍重・卑小な「エゴ」が関係しているのである。かつて僕は氏とある本を「共訳」した。そのときの氏の杜撰な仕事ぶりには文字どおり度肝を抜かれたのであって、僕はその尻拭いに追われて疲労困憊した。これがこれまで数十冊に及ぶ本を翻訳してきた人の仕事なのかとしんから呆れたのである。委細は省くが僕のしたことの実際は、氏が「解題」に渋々(できるだけ目立たないように!)書き添えた「訳語と訳文の調整」どころの話ではなかったということである。
 唖然とさせられた僕は、しかし、これに懲りて氏はもう翻訳の仕事は引退するだろうと考えた。そのための「花道を飾る」手伝いだと思えば、それは我慢できるものである。ところが、氏はさらに仕事を続けた。氏の語学力・文章理解能力に「重大な懸念」をもつようになっていた僕は、読者がそれで被害を受けることを恐れた。それで、「チェックをやりますから」と伝えたが、『クリシュナムルティの教育論』などは印刷に回す直前にファイルで送ってこられたので、帯のおかしな日本語を直すことしかできなかった。中身には疑問符がつく箇所が少なからずあったが、それは見送ったのである。そうして今度はルティエンスの一巻本の伝記を訳すという。その原書は僕も以前から保持していたもので、かねて名著だと思っていたので、これはほうっておけないと思い、今度は早めに、紙に印刷したものを送るよう要請した。でないと、十分なチェックができないからである。そうしてそのとおりできたのだが、今度は相当気をつけてやったらしく、僕の予想よりはずっとよい出来で、僕は丸一週間、数十時間をかけて、気になるところはその都度原書と照らし合わせながらチェックをしたが、直しは二百箇所程度ですんだ(その数倍の直しを覚悟していたのだが)。むろん、例によって長たらしい彼のあとがきには、このことは一言も触れられていない。「むろん」というわけは、あえて説明には及ばないだろう。「自分の功績」を減じかねないような、そのようなことを氏が書くはずはないからで、僕にはそれは先刻承知であった。
 しかし、僕に原稿を送る際にはすでにあらかた完成していたであろう、この「訳者あとがき」はその中に含まれていなかったのである。もしも入っていれば、僕はその深刻な難点を指摘して、削除するよう要請していただろう。読者に新たな混乱材料を提供するだけの、有害無益な駄文でしかないのだから。そしてそれで終わりのはずだった。しかし、氏はおそらく僕に何か言われることを警戒してだろう、それは外していたのである。
 だからそれは掲載され、後でそれを読んだ僕を憤慨させる結果になった。そして問いかけに対する誠実な応答も何もしなかった。これ、すべて氏の「エゴ」のなせるわざである。一体こうした一連の出来事のどこに「いっさいのエゴイズムから浄化され」(これまたそこからの引用である)た「反応なき行為」だの、「愛」だのがあるのか。独りよがりの美辞麗句に酔うのもいい加減にしてもらいたいと思うのである。

 話を、氏が固執し続けている「自己」観念に戻す。先ほどの引用にもあったように、氏には「内なる中心」、すなわち「自己(「純粋な自己」と言いたいのだろう)」がどうしても手放せない前提なのである。今見た二つのお粗末すぎる誤解と、クリシュナムルティに対する根本的な無理解は、すべてこれが関係している。その「前提」を手放さず、そこから強引にクリシュナムルティを「解釈」しようとするから(そのせいだけではないが)、いつまでたっても誤解を増幅させるだけになるのである。
 ふつうの正直な人なら、そこで真剣に悩み、そのことを通じて突破口を見出すだろうが、僕の見るところ、氏はそうした真摯な取り組みはせず、自分の誤解を正当化したいという思いに駆られて、その拠りどころとなりそうなものをクリシュナムルティの講話の中から必死に探し回ったようである。
 そうした氏の拠りどころとするものの一つは、氏のお手盛り編訳書『白い炎』の中にある「消去の過程」という一文であるらしい。これまた初期の、1929年のものだが、この翻訳文に従えば、ここではクリシュナムルティは、二つの「私」について語っている。それは「真我」と「小我」と言い換えてもよさそうなもので、後者が前者に融合しようとする「前進」的な努力によって、古代インド哲学ふうにいえば、「アートマンがブラフマンである」的な覚醒がもたらされるという図式である。
 僕の見るところ、この時期のクリシュナムルティには、それに先立つ覚醒体験の感動の余波のようなものが、まだ色濃く残っていた。彼は自分が体験したその絶対的なものを「生」と呼んだり、「真の私」と呼んだりしているのである。「永遠の『私』は〈生〉と同じですか?」という質問に、イエスと答えていることからも、それはわかる。
 しかし、その後、彼はそのような表現はしなくなる。はっきり放棄したと言ってよいだろう。これは他でもない、大野純一氏のような(引用が正しいとすればウッドハウスもその一人だが)誤解をする人が少なくないのを見たからだろう。「真の自己」「永遠の私」などという言い方をすると、何か実体的なそのようなものが存在するのかと思い、頭の中に「神のごとき自己」の観念・イメージを作り上げてそれを投影する人が必ず出てくる。結果、自分はそれだというので病的な思い上がりが生じたり、現実の卑小で醜悪な自己を、「非自己」として排除しようとするようになり、排除できればいいが、それはできないので、結果はそうした自分の現実の姿は見ようとしない深刻な自己欺瞞に陥ってしまうのである。こういう人が困るのは、大野純一氏の言葉をもじっていえば、「超正常」(氏の『片隅からの自由』の帯に記された自作の迷文句)ならぬ「超鈍感」になり、自分が現実にはその愚かしい「非自己」に鼻づらを引き回されて行動しているのに、それが全く自覚できていないので、その行動に対する芳しくないリアクションが周囲から返ってきても、全部を相手のせいにしてしまい、ひとりよがりの理想の自己イメージにしがみついたまま、それに「反応」しないようにさえすればいいだけだと考えてすませてしまうことである(先の引用文にもあったように、「反応はエゴのすること」だからである)。それはたんなる無責任にすぎないのだが、それがわからない。

 大野純一氏のする「解説」を、仮にこういうふうに一つ一つ吟味にかけていくなら、どれほど多くの問題が出てくるかと思うが、もうこれで十分だろう。氏の功績の一つは、周辺的な伝記的事実を多く読者に紹介したことで、僕もそれを評価するのにやぶさかではないが、クリシュナムルティの教えそのものの理解についてはかくのごとき有様なので、それに関する彼の「お説教」が始まると、読者はそこは“またいで”先に進まれるとよろしいだろう。そうしないと、誤った前提で彼の言葉を読むことになり、かえって素直な理解が妨げられてしまうからである。
 かつて氏は『片隅からの自由』という本に関するアマゾンのブックレビューにいたく傷つき、僕に「援軍のお願い」と題した手紙を送って寄越したことがあった。たしかにその陰湿な書きぶりはひどいと思われたので、すぐ知人のクリシュナムルティ読者の一人に肯定的なレビューを依頼し(あそこまで持ち上げてくれと頼んだわけではないのだが…)、そのあとで『人生をどう生きますか?』という訳書のあとがきに、まとめて批判を書いたのであった。そのせいで僕は「クリシュナムルティ訳者にはふさわしからぬ乱暴な男」という有難くない評価を確立(?)することになってしまったらしいのだが、その後の大野純一氏のやることなすことを見るにつけ、よけいなフォローなどしなければよかったと今は後悔しているぐらいである。氏には僕が当然あるものと思っていた自省心(それは自制心でもある)がまるでないことが、その後判明したからである。
 僕に叩かれたそのレビュアーは、その後「追記」を書き加えて、「既存の概念からの解説であればわかりやすいのは当然です」などと書いているが、見てきたとおり、氏の「解説」は「わかりやすい」のではなく、虚偽だからこそ問題なのである。批判を書くなら、そこをはっきりと、わかるように書くべきなのである。ここにその一例を示したように。

 しかし、この種の誤解は、思うに、無責任なお説教を垂れて回るかどうかは別として、大野純一氏だけにかぎったことではないだろう。僕が何度かクリシュナムルティ読者でない人たちに話をさせてもらったときも、この「自己」観念が妨害になって理解が妨げられてしまうのだなと感じることが、何度もあった。“私”が見、“私”が理解し、そしてその方面に強い関心をもつ人たちは、“私”が悟ろうとするから、彼の本を読んでも、素直にその言葉に耳を傾けることが難しくなるのである。そこで正直な人たちは苦悩し、一方、不正直な虚栄心の強すぎる人たち、知らないことも知ったかぶりしないと気がすまない人たちは、大野純一氏に見られるようなこうした深刻な自己欺瞞に陥るのである。
 クリシュナムルティは小気味よくあらゆる権威を否定する。無意識にそれに自己同一化して、いい気分になるのはたやすいことである。自分が偉くなったように錯覚できるからである。彼の「思考」についての批判を文脈から勝手に切り離して、議論に負けそうになったり、自分の理解の及ばない込み入った論理に直面すると、「それは思考ではないか?」と言って否定することもできる。「成功は醜悪である」という彼の言葉を、本当は成功したくてならないのに成功できない自分の正当化に用いることもできる。どんな思想でも悪用は可能だが、クリシュナムルティはそうした材料の「宝庫」である。そうして、ろくすっぽ何もわかっていないのに、「頭のいい私にはよくわかっているが、このいわく言いがたい深さを皆さんが理解することは困難でしょう。わが国の翻訳にはロクなものがないので、やはり原文でその深さを味わい、コクを知らねばなりません」みたいな、それ自体何の内容もない、偉そうな御託を並べてひとり悦に入る馬鹿も出てくるのである(その代表例は「エヴァンジル」と名乗る、アマゾンに大量のレビューを垂れ流している自己顕示欲のかたまりみたいな腐れ男で、僕もその被害に遭ったことがある。彼は『既知からの自由』のところに、「翻訳はまだ途中段階のようで、英語の単語のままになっているところが、あちらこちらに見受けられます。英語での表現が日本語になりきれないで残しているのが、特徴的です。/クリシュナムルティの本の翻訳は一見、簡単なように見えて、その実、きわめて困難なところがあります。真意を読むために、できれば原書Freedom from the knownをあわせて読むこととお勧めします」などと出鱈目を書いているのである。その訳本を読んだことのある人なら誰でもわかると思うが、僕は読者の参考のためにときどき原語を付加することがあるので、翻訳が「途中段階」のものを本にするなんて無責任なことをする道理がない。この男、他にもあることないこと、無定見に色々愚劣なことをあちこちに書き散らして今やほとんど「公害」のレベルに達しているようなので、近いうちに「お困りネットレビュアーの精神分析」と題した一文を書いてコテンパンにしてやる予定なので、首を洗って待っているがいい)。
 ともあれ、こうした諸“症状”を全部ひっくるめて、僕は「クリシュナムルティ病」と名づけたいのだが、僕に唯一関心があるのは、ごまかしに逃げ込もうとしない真剣な彼の、いわば悩める読者である。そのような人たちの助けになりたいなどと、エラそうなことは毛頭思っていないが、僕がこれまで接したことのある人たちの中でも、この「自己」観念の問題は中心的な問題の一つといっていいようなので、最後にそれについてあらためて一言しておきたいと思う。

 「〈見る〉ことが変容である」とクリシュナムルティは言うが、この「〈見る〉こと」をわれわれ今の文明人は通例「私が見る」ことだと解釈する。何らかの「私という中心」(大野純一氏の場合だと、「純粋な自己」)がつねに内部にはあって、それが外部世界を、その「中心」から区別された内面世界を見るのだと、そう考える(=仮想する)のである。それが現代人特有の思考習慣の産物にすぎないのではないかと疑うことはほとんどない。しかし、クリシュナムルティの言葉を現実の自己の内面に引きつけ、押し当てながら辿るなら、「私」と「非私」は、「観察者と観察されるもの」の区別は、思考によってわれわれが自らに仕掛けたトリックにすぎないということがだんだんわかってくる。その理解それ自体が、この思考習慣を破壊する。それは何かある超越者がいて、それがこの、思考の働きによって自動的に束ねられた「過去の記憶の集積物」である心を超越して、その外に出るということではない。理解がその全構造を自壊させたとき、その観念的な「超越者」もまた消滅する。次にやってくるのは全く違った事態である。
 日本語には元々主語がない。英語その他の西洋語に訳すときは、その「不在の主語」を補わねばならないが、主語がなくて足りてきたということは、思えば不思議なことである。英語などでも、「鳥が飛んでいる」「雲が流れている」「花が咲いている」と言うときは、それを見ている私の情報は消えているが、そもそもの話、それらを「誰が」見ているのだろう。考えて、それは「私が見ている」のだと答えるだろうが、本当に「私が」見ているのか。ただ見ているというのが真実ではあるまいか。多くの心配事を抱えた、自己関心に凝り固まった状態では、「見えているはずが見ていない」ことが多いだろう。再び、見ることには「私」が不可欠なのか。むしろそれは妨害なので、「見る」のに、「見る中心」、「私」は不要なのではないか。それは特別なことではなく、むしろ「正常」なことである(これが別に特殊な思想ではないのは、このブログにも載せた「『エスの系譜』雑感」を参照していただきたい)。
 僕自身は自分の中に「不変の自己」「純粋な自己」なるもの、中心核となる自己を、どこにも発見できない。そうして、それに何の不都合も感じない。その都度その都度生じる特定の感情なり心の動きなりに同調する、それが強いエネルギーをもつときは一時的にそれに貼りつく、意識の働きが見えるだけである。そして、それを見ている「超越者」は存在しない。生命の働きの中に躍動する意識があって、その一なる生命の一部、一個の生命現象である僕はその中にいて、その意識の働きを感受している、とでも言えばいいのか(この場合も、「感受」があるだけで「感受者〔感受主体である中心〕」は別にいないのである)。そこに何を付け加える必要も、減じる必要も、僕は感じない。その中で、一応人間世界の約束事を守って(僕の場合はあんまり守っていないかも知れないが)暮らしている。
 僕がクリシュナムルティから学んだ最大のことは、そのことだったと言える。「高度な悟り」を求める人には、これはあまりに陳腐すぎる話だと思われるかも知れない。クリシュナムルティにはそんなことよりもはるかに重要な何かがあるのだと言う人もいるかも知れない。僕はそれにあえて反対はしない。クリシュナムルティの教えはこれだけに尽きるものではないからである。しかし、最も根本的なことは、まずこのことに「気づく」ことではないかと思う。僕にしても、たったそれだけのことを知るのに半生を費やしたのだが、それを理解することは他の何にもまして重要なことだったと感じられるのだから。そして僕にそれを教えてくれたのが、くどいばかりに同じことを語ってくれる、親切なクリシュナムルティだったのである。

 最後の最後に、もう一言。僕にクリシュナムルティ精読のきっかけを与え、こうしたことに気づくよう仕向けてくれたのは、誰あろう、僕にクリシュナムルティ翻訳の機会を与えてくれたコスモス・ライブラリー社主、大野純一氏その人である。僕はそのことには感謝しているので、これがその返礼なのだと言えば、氏もこれを読んだ人たちも、たんなる皮肉だと考えるだろうか。しかし、そういうつもりが、今の僕にはないわけではないのである。当初敬愛心を抱いて近づいた相手を、氏はどうしてこうまで幻滅させてしまったのか。それは氏のその名に反する人間的な“不純さ”と自他に対する不正直さにあるので、無益な名誉欲に駆られてそれを増幅させるのではなく、もう一度初心に返ってじかにクリシュナムルティの著作を読み、虚心にそこから学び直したらどうですかと、進言したいのである。そのためには一度脳天を叩き割られて、よけいなものが吹き飛ぶという体験も必要だろう。「覚醒」のきっかけというのは、往々そうしたものだからである。学ぶのに遅すぎるということはない。(12.20改)
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