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「学習された無力感」の話(1)

2010.06.28.01:45

 僕がこれに関する記事を読んだのは、ジュリアス・シーガル著『生きぬく力』(小此木啓吾訳 フォーユー 1987)という本の中でした。その実験の詳細を忘れてしまい、その実験が何と呼ばれるものだったかも忘れていたので、知人のところに渡っていたその本を返してもらって確認したところ、それは「学習された無力感」と呼ばれるものでした。この言葉をグーグルで検索すると、読みやすくわかりやすい説明が出ていたので、少し長くなりますが、まずはそれをそのまま(二箇所、註をつけておきましたが)ここに引用させてもらいます。これは「gooヘルスケア」というサイトのものです。


【学習性無力感 learned helplessness

 米国の心理学者であるセリグマンが、1967年に提唱した心理学理論。長期間、回避不能な嫌悪刺激にさらされ続けると、その刺激から逃れようとする自発的な行動が起こらなくなること。

 セリグマンとマイヤーは、犬を用いた実験を行い、無力感が学習されるものであることを発見した。セリグマンらが行った実験の概要は次のようなものである。電気ショックの流れる部屋[註:むろん流れっぱなしではなく、予測できない不規則な間隔で電流が数秒間流される]の中に犬を入れ、一方の犬はボタンを押すと電気ショックが止められる装置のついた場所、他方の犬は何をやっても電気ショックを止めることのできない場所に入れる。前者の犬は、ボタンを押すと電気ショックを回避できることを学習し、自発的にボタンを押すようになったが、後者の犬は何をやっても回避できないため、ついには何も行動しなくなり、甘んじて電気ショックを受け続けるようになった。
 その後、電気ショックを回避できる部屋に犬を移動させて実験を続けたところ、前者の犬は回避行動を自発的に行ったのに対し、後者の犬は行動しようとはしなかった[註:今度は五十秒間、電流が流れ続けるが、そうしようと思えばハードルを飛び越えて安全な別の区画に移れる構造になっていた。尚、この場合、部屋の中が暗くなると、その数秒後に電流が流れる仕組みになっていたので、学習によって電気ショックの到来を予測することもできた]。
 これら一連の実験結果からセリグマンは、無気力状態とは学習されるものであることを発見し、この現象を“学習性無力感”と呼んだ。

 その後セリグマンは、この理論を人間の行動に当てはめて解説をし、現在では抑うつとの関連を検討する研究も盛んに行われている。“学習性無力感”を抱いた状態とはつまり、「自分が何をしても、状況は変わらない」という思いを抱く状態のことといえる。こういった思いを抱いている人や、抱かざるを得ない状況は、身近に存在するものである。

 “学習性無力感”の結果引き起こされる問題として、以下の点が指摘されている。
1.環境に対する積極的・自発的な働きかけが起こらなくなる
2.成功体験を学習することが困難になる
3.無力感や苛立ちなどの情緒的混乱が起こる

 セリグマンの犬の実験では、嫌悪刺激として電気ショックが採用されたが、人間の場合には様々な刺激が嫌悪刺激となり得る。身体への嫌悪刺激のみならず、精神的な嫌悪刺激が無気力状態を引き起こすことも、容易に想像できる。あからさまな嫌悪刺激(ネガティブな言葉や態度)だけではなく、周囲からの反応がないことなども嫌悪刺激となる。この状態に陥っている状況下では、「今度は成功するかもしれない」という期待を持ったり、意欲がわいたりする可能性は低くなると考えられている。】


 どうですか、なかなかに興味深い話でしょう? 先に僕は延岡の二つの公立普通科高校のありようを指して“高校版「蟹工船」”みたいなものではないかと言いましたが、それがこれまで変えられずに来たのは、他のありようを知らないので、「これがふつう」と思い込んでいる生徒や親が少なくないということの他に、この「学習された無力感」も関係しているのではないかと感じたのです。
 何を言っても変わらない、ならばひたすら我慢して、三年間をやり過ごすしかない。そう考えるようになってしまうのです。そのような思いを抱く人が支配的になると、そうでない生徒や親、あるいはこれではまずいと考える先生がたまにいて、行動を起こそうとしても、誰も協力してくれず、孤立させられてしまう。そうなると今度はその人も、「やっぱり駄目なんだ」と「無力」を“学習”してしまうのです。
 これは伝統的に独裁者や、地域・集団・家庭の小暴君が用いてきた支配のテクニックでもあります。反抗者が出てくると、これを徹底的に弾圧し、「オレに逆らうとこういう目に遭うぞ」という見せしめにする。その人が痛い目に遭わされるだけで、決して何も変わらないことが示されるのです。そういうことが繰り返されると、やがて誰もが「やっぱり無駄なんだ」と無力感による服従を学習し、抵抗する人間はいなくなってしまうのです。

 そういうことはどこでも起きる可能性がありますが、とりわけ日本社会ではこれは起きやすいことです。理由は、日本人の特性として、「世間」というものが大きな力をもっているからです。そのため大勢順応志向が強く、よかろうと悪かろうと、「他と違う」ことをするのを恐れるようになる。この「世間」は、誰か特定の人間が支配しているものではありません。一種の「共同幻想」みたいなものですが、日本人は何よりそれを恐れるのです。
 だから、ある子供が、家に帰って、「もうこういう学校には耐えられない」と親に訴えたとします。すると親はこうたずねるのです。「他の子たちはどうしているのか?」と。
 「わからないけど、みんな我慢してるんじゃない」
 「だったら、おまえにだけそれができないというのはおかしいんじゃないのか? 今まで何年も、何十年もそれが行なわれてきて、みんながそれを受け入れて、耐えてきたというからには、そこには正当な理由があるはずで、おまえだけそれはイヤだというのは、おまえが弱すぎるか、わがまますぎるからではないのか? おまえは人並のことがどうしてできないんだ?」

 全く不合理な、愚劣なことが何年も、何十年も続けられるというのは、神ならぬ人間がつくるこの世界では別に珍しくないことですが、多くの日本人にとっては「世間並(皆がすること)」は正義かそれに類したものなので、そのように言われると反論が難しいのです。そうしてそう言われると、その子は「人並のことすらできない」自分に劣等感を覚え、それがおかしいと感じる自分の感受性それ自体を疑い始めます。そのように仕向けるのは、人から自信を奪って服従させるのには最も効果的な心理テクニックなのですが、親は意図せずわが子に対してそれをやってしまうのです。
 その影響はかなり深刻です。自分の感受性に対する信頼感を失った人間は必然的に神経症的になり、強い不安から、自分がすがるべき権威を、従うべき判断基準をたえず外部に探し求めるようになるからです。彼または彼女はつねにより強力な権威を、より多数の支持を求めて右顧左眄(うこさべん)するようになり、そうした混乱の中で、自分が何を感じているのかということさえ、しまいにはわからなくなってしまうのです。

 これも昔何かで読んだのですが、終戦後の混乱期に、あるジャーナリストが仕事がなくて食えないので、行商人になり、東北地方の農村を回って商品を売り歩きました。そのとき彼は奇妙なことに気づきました。農閑期でその必要もないのに、どの農家もやたらと早起きし、寝不足で一様に疲れ果てて、「ほんとはこんなに早く起きる必要はないのだが…」と愚痴をこぼしているのです。奇怪に思ったその人はこう言いました。「だったら、もっとゆっくり寝てればいいじゃないですか?」
 「いや、起きて雨戸を開けていないと、あそこは怠け者だと言われる」
 「それなら、いったん雨戸だけ開けて、また寝たらどうですか?」
 「それは駄目だ。煙突から煙が出ていないと、すぐバレてしまう。だから起きてかまどに火をつけねばならない」

 そういうわけで、用もないのに皆揃って早起きして、くたびれ果てているという話で、それは全部「世間体」というものを恐れてのことですが、それで得をしている人はどこにもいないのです。そうしろと命令した人がいるわけでもない。正体不明の「世間」というものに怯えて、互いに牽制しあって、誰もが疲労困憊の極に達しているのです。中に、「そんなものはクソ食らえだ」という人がいて、ゆっくり寝ていると、ほんとは自分たちもそうしていたいのに、「あそこの家はなっとらん!」などと陰口を叩き出すのでしょう。それも、仮にその農家がすぐれた作物をつくるというので全国的に有名になり、その「怠け者」が有名人になったりすると、途中で対応はガラリと変わって、「農閑期にはゆっくり寝てればいいんだ」というのが“主流派”になるかも知れません。つまり、「世間」の価値基準が変わったのです。そうなると、今度は皆がそちらの方向になだれをうって、「用もないのに早起きする」人間は嘲笑の的にされる。

 これは必ずしも笑いごとではありません。日本の社会というのは今でもそうなのです。技術者やタレントなど、海外、とりわけ西洋で評価され、有名になると、とたんに国内の評価まで変わってしまうのです。以前は無視していたり、ボロクソ言っていた人たちが、いつの間にか「素晴らしい」と賞賛するようになっている。誰も、「あんた、この前まで言っていたことと全然違うじゃないか」と咎め立てたりはしない。自分も同じだからです。

 政治家や実業家、文化人なんかも、途中まで絶賛されていたのが、何かの容疑で警察の捜索を受けたとか、スキャンダルで週刊誌沙汰になったりすると、マスコミは今度は手の平を返したみたいに一斉に攻撃するようになりますが、それも同じです。中には記者がわざわざテレビに出て、「ずいぶん前からおかしいという情報はあって、私たちもそれはすでに把握していました」なんて自慢げに言うのですが、だったら何でそのとき取材して報道しなかったのかとは、誰も言わないのです。「堕ちた権力」ならいくら叩いても安心だが、「世間」を味方につけているときにそんなことをするのは危険だと、いかにも日本人らしくそう思うのでしょうか。実に頼りになる人たちです。

 だから、「皆がそうしている」とか、それに従っているというのは、別にそれが正当だとか立派だとかいうことの証拠には全然ならないのですが、早くから見えない「世間の目」というものの圧力にさらされてきた日本人には、どんなことであれ多数が従っていることを変えるというのは大変なのです。大人たちが会社や職場についてあれこれ愚痴をこぼしているときも、聞いているといかにも馬鹿馬鹿しいことが行なわれているようなので、「そんなもの、さっさと変えてしまえばいいじゃありませんか?」と言うと、「いや、事はそうかんたんじゃないんです」と、変えられない理由を滔々と述べ出したりするので、「この人は一体何を言いたいのだ?」と不思議に思うことがあります。だって、それがイヤで、不快で、会社なり組織なりの機能がそれで深刻に害されていることもわかっているのでしょう? そして、多くの場合は、どういうふうに変えてゆけばいいのかという、その方向性もわかっているわけです。だったら愚痴ばかり並べて、いつまでも我慢してストレスを募らせていないで、さっさと行動すればいいわけです。その際、多少の摩擦や対立が起き、波風が立つのはやむを得ない。

 これはいたってロジカルな話ですが、そう言うと、「いや、それはわかっているんですが…」とまた言うのです。あたかも「情念」がそれに抵抗するとでも言うみたいに。

 実際に、この場合は「情念」が抵抗しているのです。それは子供時代から受けてきたマイナスの条件づけが無意識にしみわたっていて、恐怖感情がそこに「対立」や「孤立」のにおいをかぎつけ、からだも頭も動かなくなってしまうからです。そうなると思いつくのは「何もしない」ことを正当化する理屈ばかりになってしまう。「学習された無力感」がその背後にあるわけです。

(2に続く)
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