軍備無用論~普天間基地移設問題に寄せて

2010.05.28.16:45

 「性急な、過度の期待を寄せては失望する」いつものパターンと言ってしまえばそれまでですが、この前の衆院選で圧勝した民主党政権が早くもピンチです。当初は八割近い内閣支持率を誇っていたものが、最近の世論調査では二割台、メディアによっては一割台の支持率にまで落ち込んでいるからです。

 これは鳩山総理その人がおばあちゃん(母親)から多額の「おこづかい」をもらっていたというような話や、小沢幹事長の政治資金規正法違反容疑での捜査騒ぎ(いったん不起訴になったものの、検察審査会が「起訴相当」の議決をしたというので再度検討され、法律的に十分な根拠をもたないので、またも不起訴になった)なども影響するのでしょうが、僕から見ると、例の「事業仕分け」など、民主党はなかなかよく頑張っているなという印象なので、一番大きかったのはやはりあの「普天間基地移設」騒動でしょう。そのもたつきが、不況下でイライラを募らせる国民の感情を悪く刺激した。新聞・テレビなどのマスコミも、これでもかというほど、連日それを煽りました(それがどんなに難しい問題かということは棚上げして)。
 あの件は結局、自民党政権時代の日米合意に近い線で決着しそうですが、なまじ「海外、最低でも県外」の約束などしていたものだから、「話が違う」ということで大失点する羽目になったのです。アメリカもオバマに政権が変わったから、話に乗ってくれるだろうと、鳩山さんは甘い期待をしていたのかも知れません。その可能性がゼロだったとは言えないが、彼が仮に米軍の意向に逆らって鳩山氏の味方をしたとすれば、新たな火種を呼び込むことになって、対処しなければならない課題を山と抱えているのに、「何でこんなことで…」ということになりかねないわけです。アメリカ大統領にとって、こわいのは他国のテロリストより自国の軍産複合体です。「戦争は儲かる商売」なので、軍隊には強大な軍事産業が寄生していて、彼らを下手に刺激するといつ暗殺されるかわからない(かつてのケネディ大統領の暗殺なども、いい加減な調査で終止符が打たれたものの、軍やCIAの濃厚な関与が疑われたままです)。
 とにかく、アメリカにとってそれは重大な問題ではない。だから「現状維持」が一番無難な対応だということになるのでしょう。そしてもう一つ、それは沖縄県民以外の大多数の日本人にとっても「重要な問題ではない」ということです。米軍基地の大半は沖縄に集中しています。世論調査の類では「日本に米軍の駐留は必要」と考える人が多数派です。それで、どこにそれを駐留させるのがいいかというと、自分の住んでいる地域やその近くには来てほしくないので、「今のままでいい」という結論になってしまうのです。「沖縄の人たちの気持ちはわかりますが…」と言いつつ、面倒なことには関わりたくないので、ホンネはそのままでいいということなのです。中には、「沖縄は米軍基地のおかげで潤っている」なんてことまで言う人もいる始末で、なるほど「基地利権」と呼んでいいものはあって、補償金や関連事業で潤っている人もいるかも知れませんが、大半の沖縄県民はそのおかげで神経の休まらない日々を送らされ、あれがどんと居座っている以上、自立的な観光地としての大きな発展も、他の産業の振興も見込めないわけです。失業率も、沖縄は一番高い。受験にからめて言うと、国立大学の中で琉球大学の入試難易度はつねに最低ランクですが、「基地の島・沖縄」のイメージがなければ、本来環境に恵まれた土地なので、そうはなっていないだろうと僕は思います。

 僕自身は、「日本にそもそも米軍基地はいらない」と考えているので、全部お引き取りいただければそれで解決ということになるのですが、大半の日本人はそうは考えません。「危険な北朝鮮」の存在や、中国の軍備拡大の状況からも、「抑止力」としての米軍駐留は必要だと、多くの人は考えるのです。僕みたいなのはひどい「政治音痴」の理想主義者でしかないと笑われてしまう。
 僕とは全く違った立場から、「米軍不要論」を説く人たちもいます。憲法を「改正」して自衛隊に正式な地位を与え、予算も増額して、高度な戦争遂行能力をもつ「一人前の国軍」にすべきだとする人たちです。ついでに徴兵制を導入して、たるんだ若者を鍛え直し、「愛国心」を身につけさせる…。しかし、これも「何となく」思考の、事なかれ主義者が多い今の日本では不人気です。それが不人気なのは幸いですが、理由を考えると、「沖縄基地容認」と同じいい加減さによるので、別に今の日本人が「しっかりしている」からではないのです。

 ゴミ処理場の設立などでも、よく似た対立は起きますが、ゴミ処理場は、人間がゴミを出し続ける以上不可欠なのに対して、軍事基地は必ずしもそうではありません。不可欠だと思い込むのは、古来、人間は戦争を繰り返してきたからです。だからどこの国も軍隊をもつのは当然だということになっていて、非殺生の仏教を国是として、その指導者ダライ・ラマを頂点に戴いていたチベットなどは、軍隊と呼べるほどの組織化された大きな兵力は保持していなかったために、中国にあっさり侵略され、ダライ・ラマは余儀なく亡命、国家は解体されてしまいました(中国の言い分では、チベットは元々自国の領土で、それを取り返したにすぎない、ということになるのですが、歴史的経緯から言っても、それは根拠薄弱な主張であるようです)。

 わが国の場合、戦後GHQが作った憲法によって、軍隊の保持は禁止されました。色々こじつけがなされて、「自衛戦争まで禁じたものではない」という解釈になっていますが、ふつうに読むなら、あれは「戦争自体を禁止」するものです。わが国は「諸国民の公正と信義に信頼して」戦争を放棄したのです。実際は「諸国民の公正と信義」はすこぶる疑わしいもので、げんにその後すぐに米ソの冷戦が始まり、戦時中日本軍が占領していた朝鮮半島を舞台に、北をソ連が、南をアメリカが支援する「朝鮮戦争」が始まりました。その戦争の「特需」のおかげでわが国は経済的に潤い、その後の高度経済成長の礎を築くことができたのですが、こういう事態になって、アメリカは日本を完全な丸腰にしておくのはかえって危険だと考えるようになりました。独立性はもたないように、しかし、ほどほどの軍事力はもたせて、自分たちの陣営にとどめ置き、米軍を駐留させることによってそれを間接コントロールするのがいい。そこで「警察予備隊」という紛らわしい名前の組織が設立され、それがのちの自衛隊に発展したのです。

 一体、今の自衛隊は軍隊なのか、そうではないのか? その紛らわしさは、日本国憲法の解釈の紛らわしさそのもので、米軍の駐留もこの紛らわしさと関係しています。自衛隊は「軍隊もどき」ではあるが、独立した軍隊ではない。だから「米軍のプレゼンス(presence:これはふつうには「存在・出席」の意味ですが「駐留」の意味にも使われます)」によってそれが補われて初めて、日本の国としての安全は保持されると、そういうことになるのでしょう。多くの日本人は今でも「何となく」そう考えているはずです。アメリカとしても、日本が憲法改正して、自衛隊を正式に軍隊として認め、それを今の戦争が十分戦えるだけの兵力にして、自分たちの軍隊が追い出されるより、「協力費」の名目で自国の軍隊の駐留費を肩代わりさせられる今の状態の方が都合がいい。「世界の警察官」のおかしなプライドをあの国は依然手放さないので(イラク戦争などでは「押し込み強盗」役も演じてくれましたが)、極東での存在感を示す上でも沖縄基地はキープしておく必要がある、とも考えているのでしょう。他の東南アジア諸国や中国なども、かつて日本軍に侵略された苦い記憶を残し、それはトラウマのようなものになっているので、日本が独立した軍備をもつ国になることには大反対するでしょう。それでなし崩しに軍事大国化すると、あの悪夢がまた蘇るのではないかと心配するのです。「まさか…」と僕ら日本人は笑いますが、この「なし崩し」はわが国の得意技と言ってよいので、個人としての主体性に乏しく、情報操作によって一定方向になだれをうちやすい「集団志向」の国民性は、今も全然変わってはいないのです。

 話をいくらか戻して、仮にわが国が軍隊をもたなかったら、どうなるのか? チベットの二の舞になるのがオチだと、多くの人は言うでしょう。大体、あの断末魔的状況に陥った北朝鮮が狂気に駆られて核ミサイルを撃ち込んできたら、どうするのか? そのときは大量の死者が出るでしょうが、どこかの元幕僚長や某宗教団体が主張するような「先制攻撃」は許されないので、それは今の体制なら大丈夫というような話ではありません。だいいち、そんなことをすればあの国は世界からの軍事攻撃を正当化してしまうことになり、韓国軍相手にもまず勝ち目はないと言われているのに、政府当局にとっては完全な自殺行為です。不用意にそんなことをするとは思えないので、しばらく前の日本海への「ミサイル発射実験」も、今回の「韓国哨戒艦魚雷攻撃」も、後者はちとやり過ぎではないかという気がしますが、相手が本気で怒り出さない程度にセーブした、譲歩と経済援助目当てのいつもの「恫喝外交」の一環なのでしょう。外に向かっては「脅威」ぶりをアピールすることによって譲歩を引き出し、国内向けには「危機」を強調することによって必死に求心力を維持しようとする。しかし、国民の半分を慢性的な飢餓にさらすような国家運営しかできない為政者に、いくら洗脳教育を施していたところで、国民の支持をつなぎとめることなどできるはずがありません。戦争に打って出ても自滅しかないのが明白だとすれば、外部に向かって「開く」方向転換しかないということに、結局はならざるを得ないでしょう。元はといえば、あれも東西冷戦(わが国による侵略がそれに先立つ)が生み落とした奇形国家の一つなので、そこは周辺諸国も「脅威」戦略に煽られていたずらに憎悪を募らせるのではなく、忍耐をもって「逆譲歩」を求めていくという、今の対応を続けるしかないのではないかと思います。
 その北朝鮮を、体制が一気に崩壊して自国に大量の難民が流れ込んできては大変と、中国は擁護しているわけですが、その中国の軍備拡大の脅威を説く人もいます。たしかに中国の軍事力の増大は著しいようですが、あれは半ば以上、自国民の暴動を恐れてのものではないかと思われます。経済だけ自由化しながら、政治は共産党の一党独裁なんて、どう見ても無理のあることなので、その無理を自覚している中国共産党幹部は軍事パレードや式典で「国威の発揚」をはかり、国家=共産党への忠誠心を強めると共に、国民に「よけいな考え」を起こさせないよう牽制しているのです。背後に「復活したロシア」の脅威を感じ、前には軍事大国アメリカの脅威があって、それに対抗する意図もあってのことでしょうが、一番心理的に大きいのは支配者層の自国民への恐怖ではないかということです(ミサイルなんか暴動の鎮圧には必要ないから無理な説明だと専門家たちは笑うでしょうが、恐怖心というのは合理的な説明がつくものではないので、それが見えないかたちで関係しているのではないか、ということです)。

 本質的なことを言えば、最も望ましいのは各国が核兵器の類のみならず、軍隊というものをもたなくなることです。仮にそうなれば、国家間の戦争はしたくてもできないということになるので、よけいな心配をしなくてすむ。経済問題などで話がこじれて喧嘩になったときは、どちらが正当かということを国連のような舞台で言葉と論理で世界にアピールし合って、国際世論の趨勢を背景に決着をつけることになるでしょう。それでこそ「文明」というものだと僕は思いますが、「強きが弱きを侵略する」のを当然視した帝国主義の時代は幸い過去のものとなったとはいえ、人類はまだそこまで成熟・進歩していないわけです。前アメリカ大統領ブッシュなど、西部劇のヒーローを気取りたがる幼稚なところが濃厚にあったようですが、「裁きにかける」だの何だの、勇ましい言葉を連発しながら、自分の身は危険にさらすことなく、戦場にただ兵士を送り込むだけなのだから、いい気なものです。今の戦争は、大昔の「やあやあ、われこそは」と名乗りを上げて、大将同士が槍か剣を片手に一騎打ちして決着をつけるような牧歌的なものとは違います。「男らしさ」もヘチマもない、たんなる組織化された機械力による大量殺人です。そして死ぬのは名もない兵士と無関係な一般市民です。お偉いさんたちは背後でふんぞり返って、組織内部での出世競争にうつつを抜かしている。それは先の大戦のとき、わが国でも見られたウンザリするような無責任な光景です。「愛国心」の名のもと、行なわれているのは要はそういうことなので、政治家や職業軍人、高級官僚たちが自分のプライドを賭けるのは勝手ですが、それならまっ先に自分の命を賭ければいいので、それはせずに多数の権力をもたない人々の命を戦争ゲームでもてあそぶ権利はどこにあるのでしょう。今の戦争とは、しかし、そういうものでしかないのです。
 そのことをよく理解すれば、軍隊に入る若者や、わが子をそこに入れようとする親はいなくなって、世界中の軍隊は自己消滅します。疑いもなく、それが一番望ましいことです。そうならないのは、多くの国々では軍事部門が社会の重要な一角を占め、軍隊が有力な「就職先」の一つになっていて、下手をするとそれが「政治家への登竜門」になっていたりするからです。

 そうしてどの国も、「別に自分は好戦的ではない。イザというときに備えて軍事力を蓄えているだけだ」と言います。「抑止力としての軍隊」にすぎないというわけですが、思えばこの「抑止力」というのは奇怪な概念です。これは個人にたとえるなら、街を歩いていていつ危険なチンピラに遭遇して、脅されたり襲われたりするかも知れないので、腰にナイフをぶら下げ、肩を怒らせ、「寄らば斬るぞ」というところを見せながら出歩くことにする、というようなものです。それでどうなるかと言うと、喧嘩自慢の危ない連中が自然に向こうから寄ってくる。それでその若者が、「やはりこの世界は危険だ」と思ったとすれば、彼は一つ重要なことを見落としているのです。それはその構えたポーズそのものが、敵を呼び込む無意識の刺激になっているということです。
 暴力に対する抑止力として暴力装置を用意するというのは、これと同じです。それはかえって「抑止」するはずの暴力を誘発する。国家の場合も似たようなもので、それがかえって軍拡競争を引き起こすのです。背後には子供じみたオスの性(さが)と、それに引きずられた浅知恵があるのです。そのようなものを美化しても意味はないので、われわれ男性はそのような心理は二十代で卒業したいものです。
 軍人たちのあのしゃちほこばった規律好きなども、この幼児性の表われです。部下たちを整列敬礼させ、何でも言うことを聞かせて、強くなった、偉くなったように錯覚する。前に塾の生徒たちから、教師が教室に入ると皆一斉に起立し、「よろしくお願いします!」と大声で言わないと、不機嫌になって怒り狂う英語教師がいるという話を聞いて驚いたことがありますが、今どきそんな低級軍曹の生まれ変わりみたいな下劣な奴を公費で雇っているというのは馬鹿げきったことです。僕なら、頼むからそんな薄気味の悪い真似はやめてくれと生徒たちに言うでしょう。教育に名を借りて、生徒たちに機械の歯車として服従する訓練を行なうとは、許しがたい話です。一体誰がそんなよけいなことを頼んだのか。

 現実には、しかし、軍隊はどこの国にも存在し、オバマは「核兵器のない世界」を演説で謳い上げたそうですが、率先垂範して自国の核兵器を廃絶するならともかく、「お互いに少しずつ備蓄を減らしていきましょうね」では、永遠に実現することはないでしょう。イランの核開発に対する非難にしても、「ボクらはもうすでに持っているからいいけど、君んちは駄目だよ」ということでしかないのだから、そういう論理で説得できるはずがない。インドやパキスタンも、それで言うことを聞かず、核保有国の仲間入りを果たしたのです。
 いったん使ったら、今度こそハルマゲドンに発展しかねないという理由で「実際は使えない兵器」と言われる核兵器ですらそうなのだとすれば、軍隊そのものをなくすなんて、夢のまた夢だということにならざるを得ないでしょう。
 だから現実政治家としては、いくら「友愛」をモットーとする鳩山総理といえども、「そもそも米軍なんていらないんじゃありませんかね?」とは言い出せず、「緊迫した今の東アジア情勢からしても『抑止力』としての米軍は不可欠」なんて、古色蒼然たる「抑止力」理論に舞い戻ってしまうわけです。

 そういった事情は重々承知で、僕は「丸腰国家」が一番いいとなおも主張します。米軍には全面撤去していただき、自衛隊はしかるべき時間をかけて「災害救援隊」に再編する。そうして率先垂範すれば、世界に向かって説得力のある平和の訴えもできるわけです。「何のかんのと言って、結局はアメリカというボス犬の暴力に頼っているだけではないか?」とはもう言わせない。争いが生じた場合も、武力に訴えることなく、理性と論理で堂々の弁論を張るのです。
 しかし、丸腰国家が災いして、他国に侵略され、植民地にされるようなことになったらどうするのか? 幸い自分が生き延びた場合ですが、僕は自由と独立を求めてゲリラになるでしょう。「レジスタンスの闘士」というのはいっぺんやってみたかったことなので、とうとう憧れの身分になれたかと、それを喜ぶかも知れません。これでも若い頃は、「君は将来立派な極道になれる」とその筋の人からお墨付き(?)をいただいたくらいなので、ふだん穏和な人間でも、「君子ハ豹変ス」で、イザとなれば結構頼りになるかも知れないのです。

 冗談はともかく、強力な軍隊を備えていたからといって、平和が保障されるわけでは全くないのです。なまじ軍事力があるばかりに、経済的な行き詰まりを打破しようと進んで侵略に打って出て(他国から仕掛けられた戦争ではないことに注意)、やがて自ら強敵を呼び込んで勝ち目のない戦争の泥沼にはまり、国民に塗炭の苦しみを味合わせる羽目になったというのが、この前の大戦の重要な教訓です。強力な軍隊を持ち、その軍部の暴走を押しとどめることができなくなったからこそ、ああいうことになった。それに、何度でも言いますが、今の時代の戦争というのは「組織化された機械力による大量殺人」以外の何物でもありません。戦争した場合の損失としなかった場合の損失をシュミレーションすれば、どちらが大きいか、それもまた明白です。
 軍事力が長続きのする平和をもたらしたためしはありません。それはさっきの個人のたとえと同じで、逆の効果をもたらすのです。かつての巨大な二大軍事パワー、アメリカとソ連は、その「抑止力」によって世界に平和をもたらしたでしょうか? 軍拡競争と、米ソの「代理戦争」の連続だったと言ってよいのではありませんか。アメリカの巨大な軍事力が近年何をしでかしたかは、誰もが知るとおりです。ブッシュのような、心理学のコンプレックス理論の見本のような病的で未熟な男の手に、巨大な軍事力というオモチャが委ねられ、「無理が通れば道理引っ込む」このような事態になってしまったのは返すがえすも残念ですが、アフガンやイラクで何の罪もない家族を殺された若者は、テロリストになって復讐を誓うでしょう。「ブッシュの戦争」には何の大義もないが、人情の自然からして、後者の怒りはしごく尤もです。「テロとの戦い」が聞いて呆れるので、自分の方からテロリストを拡大再生産しているのです。

 だから、わが国は丸腰国家で行くのです。どんな争いも話し合いで解決しようとする平和な国を武力で攻撃する国に、戦争の大義などあるはずもなく、兵士たちは何を根拠に人殺しをしているのかわからなくなるでしょう。そういう戦争に喜んでいく兵士というのはサイコパスじみた異常者以外にはないはずです。まともな兵士は意気阻喪して、戦闘意欲を失う。中国のチベット侵略の場合はそうでなかったではないかと言われるかも知れませんが(一応あれは共産主義イデオロギーによる「解放」の名目が付けられていたようです)、その呪いは今の中国に重くのしかかっています。チベット問題に対するあの国の病的なまでに敏感な、ヒステリックな反応それ自体、やましさをどれほど抱えているかをよく物語っています。中国が経済的にあれほど成長しながらも、世界からつねに疑惑の目で見られているのは、そうしたことも大きいので、鉱物資源という侵略のメリットよりも人道的な犯罪というデメリットの方がずっと大きかったということが、時間と共にはっきりしてくるのです。武力をもたない民を武力をもって攻撃するのは、古来、武人の最大の恥とみなされてきました。その恥を雪(そそ)ぐのは並大抵のことではない。

 そこを逆手にとって、丸腰で行くのです。武力を持っても持たなくても、どちらも危険なら、名誉ある方を選択した方がずっと賢明です。中途半端に「アメリカの核の傘」に頼って、及び腰の「平和の訴え」などするから説得力をもたないので、丸腰でそうするのなら、世界の見る目は全く違ってくるでしょう。「そうだ、あの行き方が正しい」と、追随する国も続々出てくるかも知れません。
 人類が本当に「進歩」したと言えるのは、そのときだけです。そういう大転換が起きないかぎり、人類は「核戦争の恐怖」に怯え続け、いずれそれが現実のものとなって自滅するなり、不可思議なある種のシンクロニシティ(synchronicity:共時性)の法則に従って、巨大彗星の衝突でも招いて、地上から消えうせることになるでしょう。個人の命が百年を待たずに終わるのと同じく、どのみち人類は死滅する運命ですが、それを早めるか遅くするかは、人間のやり方にもよるのであって、そのことに僕ら今の人間は責任があるのではないかということです。

 以上、「空想的」と見られるのは百も承知で書きました。“現実的に”よく吟味して下さい。
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