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映画『アバター』からの連想

2010.05.14.01:35

 「先生、アバターってどういう意味ですか?」
 「おまえ、そんなことも知らないの。“分身”だよ」
 後ろのセリフは僕のではなく、他の生徒が引き取って言ったものですが、たぶんその子は映画のAVATARのことで、気になったからたずねたのでしょう。このアバターというのは、最近はパソコンなどで、「アバターを作る」などと言われていて、自分の身代わりキャラクターをえらぶときなどに使われるようです。あらためて辞書で調べてみると、これはサンスクリット語のavatãraに由来する言葉で、ヒンズー教の神話では「神の化身」のことらしいので、元はかなり重々しい響きをもつ言葉なのです。英英辞典のCODを見ると、orとして、released soul to earth in bodily formという説明も出ています。意味は、「地上に肉体をまとって降り立った(解き放たれた)魂」です。

 カッコいい!と今の若い子たちは言うかも知れません。しかし、この映画の監督ジェームズ・キャメロンもその元の意味は十分よく踏まえた上でこの作品を作ったのだろうと、僕自身、さっきDVDを見ながら思いました。あの映画の舞台はパンドラと呼ばれる星です(これもギリシャ神話の「パンドラの箱」から借用されたものでしょう)。地球を破壊し尽くして、宇宙にまで触手を伸ばした人類は、その星に貴重な鉱物があるのを発見、これで大儲けできると考えたある企業がそれを採掘したいと思うが、その星には昔の地球に似た大自然と動植物が豊かに繁茂していて、人間に相当するナヴィという生物もいて、その鉱脈の上の土地は彼らの「聖地」と重なっている。そこで、そのヒト類似の生物に人間のDNAを組み込んだ“合いの子”を人工的に作って、そのDNAの持主はそれに意識を同化させて、自分のからだとして使うことができるので(実際そんなことができるかどうかはともかく、そういう設定なのです)、それをスパイとして送り込み、情報を集め、「立ち退き」を交渉させて、その稀少鉱物を奪おうと計画するのです。相手が要求に応じない場合は、力づくで相手を追い出すなり、殺すなりする。昔、文明人が新しい土地に侵入して、そこのネイティブの人たちにやったことを“宇宙規模で”やろうというわけです。げんにナヴィの感性は、昔のアメリカインディアンや、世界各地の少数民族たちとそっくりです。彼らは自然を敬い、何よりも自然との調和を重視して暮らしていたのですから。
 主人公の、負傷して下半身不随になった元海軍海兵隊員は、研究者だった亡くなった双子の兄の身代わりにアバターに意識を移してその任務を遂行する役回りになるのですが、そこの族長の娘と恋に落ち、かつ、ナヴィの生活ぶりにすっかり感化されて、ついには利己的で強欲な人間たちに反逆して仲間を率いて軍と戦い、最後には勝利するという筋書きです。これだけでは、何やら馬鹿馬鹿しいだけの話に見えますが、ディティールがよく出来ていて、僕も「面白いから」と人に勧められていたので見たのですが、たしかに面白かった。あの怪鳥に乗って飛び回るシーンなどは、爽快そのものです。ポスターなどで見る「猫人間」みたいな姿がどうも感心できなかったのですが、「見てれば慣れるわよ」と言われて、たしかに見ているうちに慣れて、その表情の豊かさには感心させられました。アバターの体格も、あれこれナヴィとして一人前になるための訓練を受けるうちにだんだんたくましくなっていくのですが、そのあたりもちゃんと変化がわかるように描かれているのです。恋人役の「猫娘」も、そのうち大変な美人に思えてきたから不思議です(CG技術の進歩には全く驚かされます)。

 見ながら僕に自然に連想されたのは、現実の僕らそのものがこのアバターと同じではないかということです。別の、宇宙のどこかから地球を見ていたとしましょう。そうして、女性の体内に胎児が宿ると、「おまえ、あそこに行って、あの子の中に入り込め」と言われるのです。「わかりました」と言って、意識=魂は宇宙を光速で飛行し、胎内に飛び込む。そのとたんに、人は意識をもつようになるのです。
 それが「アバター」の元々の意味でもあるので、おそらく、監督のキャメロンはそこらへんの「逆連想」から、この話を考えついたのでしょう。「そんな、馬鹿馬鹿しい」と言う人もいるでしょうが、実は誕生前の「星間旅行」を記憶している子供というのはかなりいるのです。それで母親が、夜空を見上げて、「きれいなお星さまねえ」なんて感傷にひたっていると、傍らの五、六歳のわが子が、「あれはほんとは大きくて丸いんだよ」と“解説”し始めたりする。光っているのも、反射光によるのだと言う。母親はビックリして、「何であんたはそんなこと知ってるの?」ときくと、「来るとき見たから」とそっけなく答える。別にテレビの教育番組のおかげではないのです。そういう子供は、実際はかなりいます。
 だから、おなかの中の赤ん坊は、意識をもっているのです。そうやって宇宙を旅してきて、「気づいたら、お母さんのおなかの中にポーンと入っていた」なんて言うのです。母親が気味悪がって、父親に「あの子はこんなヘンなこと言うんだけど…」と相談して、父親が好奇心半分、「それで、おなかの中の感じはどんな具合だった?」と聞くと、「うす暗い」なんて、無愛想にボソッと答えるのです。母親のおなかを通して外の光は少し入るから、「うす暗い」というのはかなり正確な表現だと言えるでしょう。
 そういう子供は、他にもおかしな質問をしたりします。「転んだら、何で倒れる?」なんて真顔で質問するのです。こういうとき、理系音痴の母親などは、「この子は頭がおかしくなったのではないか?」と心配するようですが、「それは地球には重力があるからで、だから転ぶと倒れるんだよ」と説明してあげるとナットクするのです。無重力の記憶が残っていれば、それが不思議に思えても不思議ではない。他にも、草地で一緒に遊んでいると、父親の周りを回転しながら弧を描いて回って、「ボクが地球で、こんなふうに動く」と説明してくれたりもするのですが、これは要するに、理科で習う公転と自転の動きを示しているのです。父親が立っている位置は太陽を示している。小学一年生がそういうことを知っているというのは、学校ではまだ習っていないから、何らかの記憶が残っていて、それでそんなことを言うのだろうと解する他ありません。他にも、「無限」という言葉を使って、宇宙の広大さについてあれこれ語ったりするのです。

 こういうのは別に作り話ではないので、げんに以上の話は全部うちの息子が昔言っていたことです。今ではすっかり悪ガキになってしまって、“退化”し、そういう「知恵」は完全に忘れてしまったようですが、親の方は妙なことを言う子供だなと思ったから記憶しているのです。
 僕はそれ以前に、外国のある精神科医が書いた本を読んで、そういう子供がいるということは知っていました。だから「あの話は本当だったんだな」といくらか驚きはしても、異常だとか病気だとかは全く思わなかったので、不安がる母親には別に心配しなくていいと言ったのですが、そういう知識が全くない人は困惑して、精神科医のところに相談に行ったりしかねない。そうすると、これは重大な精神病の初期症状かも知れない、なんてことになりかねないのです。だから、いずれ母親や父親になる生徒たちは、そういうこともあるのだということを憶えておいて下さい。稀だからといって別に病気だというわけではないのです。
 「魂が解き放たれて、地上に肉体の形をとって出現する」という辞書の説明を見てもわかるとおり、昔のインド人なんかは、そういうことをよく知っていたということです。昔の人は世界中ほとんどどこでも、肉体と魂を別に見て、魂は肉体を介して天上と地上を行き来していると考えていました。これはたんなる迷信というより、子供がそういう記憶を示すことが多かったのと、原始部族ではシャーマン的な能力をもつ人が指導者になることが多いので、宗教的な瞑想体験などから、そういうヴィジョンを人々に教え、それでそのように信じられるようになったというのが一番妥当な解釈でしょう。先にも言ったように、げんに今でもそういうことを言う子供は一定数いるわけです。
 それで、宇宙のどこかにある意識が、地球に誕生した胎児に自己を投射して、子供の肉体の中で「目覚めた」とすれば、これはあの映画とほんとによく似た話だということになるのです。わざわざ作り話をするには及ばない、僕らの誰もが実はこの肉体を「アバター」とした生を生きているのだと、そう考えて悪い理由はないのです。死ぬというのはだから、宇宙の向こうでの「再度の目覚め」を意味しているのかも知れないのです。

 それで目覚めると、傍らにある「存在」が立っていて、こう言うのです。
 「君はせっかく自分のアバターがもらえたのに、何でああいうお粗末な使い方しかできなかったのかね?」
 「えっ。すみません。ボクはあれがそういうものだとは知らなくて、ここから行ったこともすっかり忘れていたんです。あそこはとにかくメチャメチャな世界で、ボクもそこでもみくちゃにされているうちに、何が何だかわからなくなって、何のために肉体をもらっているのかなんて考えもしなくなり、下らないことばかりして、反面つまらないことを深刻に悩むようになってしまって、それで結局ああいうことに…」
 「全く…。ワシは何度も合図を送ったのに、きれいさっぱり全部無視しおって、腹立たしいことこの上なしだよ」
 「合図なんて、ボクは全然知りませんけど…」
 「馬鹿もん! 自覚を忘れて、下らない騒ぎにわれを忘れておるからそうなるんで、あれだけ出来事で知らせもし、人のかたちで助けも寄越したのに、おまえという奴は、まるっきりそれに気づきもせず、アホなことばかりしてからに、情けないの一語に尽きる」
 「すみません。でも、ボクが忘れないようにしてくれなかったのが悪いんじゃありませんか? ボクだってそれがわかってたら、ああいうふうにはしなかったはずですから」
 「向こうで、何でも人のせいにする悪い癖をつけてきたと見えるな。いいか、アバターの中に入り込むと、途中でいったんは誰でも全部忘れてしまう。なまなかなことでは適応できんので、それに必死になるうちに忘れるんじゃが、少しまともな奴は、何か大事なことを忘れたような気がして、『自分は何のためにここにいるんだろう?』ということを考えるようになる。そうするとこちらから送るシグナルも自然にキャッチできるようになって、『ああ、このからだは借り物で、これを使って大事なことを経験して、そこから学ぶことがほんとの生きる意味なんだな』ということがだんだんわかってくる。そしたらつまらない執着だの不安だのから自由になって、強く元気に生きられるようになって、適切なアバターの使い方もできるようになってくる。おまえの場合は、意識がほんとは寝てるからそうなるので、それが人のせいにできるようなことか?」
 「すみません。今はほんとに反省しています。それで、今度はちゃんとやりますから、もう一回またチャンスを下さい」
 「そうは言っても、君は行き先のランクを今回で大幅に下げてしまったからね。だから、地球でなく、他の星になるが、それでもいいか?」
 「もちろんです。ぜいたくは言いません。ぜひお願いします」
 「ふうむ(と大きな帳簿を開く)。そうだな、空きがまだあって、ランクもちょうどいい星がアンドロメダ星雲に一つある。ホントにここのアバターがほしいか?」
 「よかった! どこでもかまいません。今度こそ、汚名を挽回してきます。ボクにはちょっと厳しいぐらいがちょうどいいんです」
 「じゃあ、事務に言っとくから―。おおい、君、ここの彼をあそこのゴキブリ星に送っておいて」
 「ちょっと待ってください。今、“ゴキブリ”という言葉が聞えたような気がするんですが…」
 「ああ、そこは大型のゴキブリが支配している星で、だからそういう名前なんだよ。全体に昆虫ばかりの星で、君のアバターは、イナゴかカマキリあたりに落ち着くと思う」
 「それは…。他にもう少し違うのはないんでしょうか? ゴキブリは苦手ですし、自分がイナゴやカマキリになるというのもちょっと…」
 「ついさっき、ぜいたくは言わんと言ったばかりだろ? 君はすぐに前のことを忘れる。昆虫の心理を体験するのも非常に勉強になるので、これはもう決定だ。今から予備のアバターの中に入って、触角を動かす練習でもしておくといい」

 …てなことに、死んでからならないともかぎらないわけです。後悔先に立たず。
 「いや、科学的な自分はそんな馬鹿げた話は絶対に信じません」と言う人も少なくないでしょう。僕としても、これは冗談半分で言っていることなので、人を信じさせようなんて気はこれっぽっちもないのですが、こういう「アバター思考」には大きな取柄があるということだけは、わかっておいてもらいたいと思うのです。
 どうしてかというと、人間は自分の肉体を自分と同一視して、やれ美人だのブスだの、頭がいいの悪いの、背が高いの低いの、太ってるのやせてるの、自分の所属している学校が、会社がどうのと、そういうことを何か絶対的に重大なことみたいに思い込む傾向があるからです。この肉体がアバターで、「仮の宿」だと思えば、そういうことをそんなに大げさに考えることはなくなるでしょう。僕ら自身は忘れているが、それぞれの肉体は、「これが今のこの魂の修練には一番よさそうだ」というのでえらばれたのかも知れないのです。

 (元の文では、ここで「脱線しますが…」と前置きして、「美貌のアバター」の持主である、最近話題の「エリカ様」についての話にしばらくなるのですが、話の本筋とは大して関係がないのと、つまらないことで騒ぎになってこのブログが「炎上」すると困るので、この電子版ではカットします)
 
 話を元に戻して、肉体を「貸与されたアバター」と考えてごらんなさい。そうすると、大事なのはアバターそのものではなくて、このアバターをどう育て、どう活用し、そのプロセスでそこから何を学ぶか、というのが一番大事なことだ、ということになるわけです。今の人間世界はあれこれの出来合いの価値観(こういうのは全部、心理学でいう「条件づけconditioning」の産物ですが)に基づいてアバターの優劣を比較し合い、それでいい気になったり逆に傷ついたりしているわけですが、そういうのがほとんどナンセンスに近いことが理解されるでしょう。重要なのはアバターそれ自体ではなく、「その中に入っているもの(魂)」なのです。
 与えられた肉体をうまく、賢く、立派に使いこなす人が偉いのであって、そこで“魂の技量”が問われるのです。100馬力しかない車が、200馬力のふつうの車より高い性能を発揮したとすれば、それはドライバーの技能がすぐれているのです。また、同じ程度の能力があっても、それをどんなことに使うかで、価値は全然違ってくるでしょう。たとえば、学校のお勉強はよくできるというので、東大を出て、官僚になるなり、大企業の社員や政治家になるなりして、大出世しても、アバターが自分だと思い込んでいい気になり、つまらない我欲や虚栄心を満たすことにしか能力を使わず、社会の公正さを歪め、多くの人を苦しめたのでは、社会のダニと同じなのです。それでは元々のアバターはよくても、それを使う魂は堕落の底に沈むことになります。反対に、いくつものハンデを負いながらも、世の中をうらむこともひがむこともなく、可能なせいいっぱいの努力を重ね、それでささやかな生計の道を見つけ、思いやり深いので、折に触れて他の人たちも励まして手助けするような人だと、魂の強さと気高さという点で、並外れて立派な人だということになるでしょう。そういう人は死んで肉体を離れ、魂の故郷に戻って再び目覚めたとき、先の話でご登場願った「ある存在」に、Mission completed!(使命完遂)と賞賛されること疑いなしです。そういう人はアバターとしての肉体の不完全さ、不自由さにもかかわらず、魂の完全性に対する自覚を失うことなく、真に「よく生きた」と言えるからです。
 以上のことがよく理解されれば、同じ「較べっこ」をするのでも、だいぶ性質が違ってくるでしょう。それだと、次の会話のようになる。

 「君はいいアバターをもってるね。うらやましいよ」
 「あんたのアバターだって、ずいぶん変わっていて、面白いじゃない」
 「そうなんだけど、これはなかなか思うように動いてくれなくて、君のみたいにスムーズに行けばほんとにいいと思うんだけど…」
 「何言ってるの。それだけパワーや技術が要求されるんだから、そっちの方が鍛えられていいじゃない。それに、あんたのアバターには、あんたが知らないだけで、ふつうにはない機能もついてるんじゃないの? 私も前に、『使いにくいなあ』と思って、色々やってたら、隠れたスイッチがあるのがわかって、それからうまく行くようになったのよ」
 「ふうん」

 そういう会話がふつうに行なわれるようになると、なかなか面白いでしょう。見たところさえないアバターを与えられた人というのは、それを使いこなすことが難しいから、それだけ「魂の潜在能力」への期待が高いのだということにもなるのです。
 「そうよ、あんた。あんたが勉強がまるでできないのは、あんたの魂がパワフルで、ふつうの人にはこういうアバターは使いこなせないって、神様が考えたからなのよ。だから使い古しの座布団かスーパーのレジ袋みたいにボサッとしていないで、もっとシャキッとしなさい、シャキッと。気合を入れて“魂の実力”を示すのよ!」
 お母さんたちがわが子を叱咤激励する場合でも、そういうふうに言い方が変わってくるかも知れません。
 「そんなことを言っても、お母さん、これはたんなる遺伝だよ。そういうのは関係ないんじゃない?」
 「何を言ってるんですか! 魂と肉体は別で、あんたの魂がこれをえらんだからには、そこにはちゃんとした理由があるのに決まっているのよ。それを自覚しなさい!」
 子供の屁理屈にも、そう言い返せるわけです。尤も、お母さん自身がわが子を有名大学に入れたい一心だけでそんなこと言ってるとすれば、それは“悪用”になりますが。
 何にせよ、こうした「アバター思考」は、肉体を自分と同一視するのよりははるかに生産的です。だいいち、つまらないことで落ち込んだり、逆にいい気になったりすることは格段に少なくなるでしょう。それは「一時貸与されたアバターの差」にすぎないからです。

 最後に、話はいくらか難しくなりますが、もう一つ大事なことを付け加えておくと、肉体というアバターを使う魂=意識というものが別に存在するとして、厳密に言えばそれも絶対的なものではないということです。そこをよく理解しておかないと、今度は「アバターをうまく使いこなせる自分の魂」というものに対する無用な自惚れが生まれるので、何にもならなくなるのです。
 魂とは何かについては色々な説がありますが、ここは僕の考えた結論だけ書いておくとして、自然は生物を保護するために意識というものを与えました。これがないと危険を察知できず、身が守れないからです。だから生あるものはすべて意識をもつのですが、発達した脳をもつ人間は言葉を発明し、その言語の使用により、複雑な思考が展開できるようになりました。そうしてその結果、他から区別された「自分」という観念ももつにいたった。意識の存在を土台に、思考の働きによってそういう観念をつくり出したのです。この観念は心の中で磁石のように働いて、そこに生物個体として経験した思いやら、出来事の記憶、感情といったものをとり集めるので、そこに具体的な「自己」が目に見えるかたちで出現するのです。それで意識が「自意識」へと狭まるのですが、そういうわけで「自分」というのは「過去の経験とその記憶の集合体」にすぎません。磁石としての自己観念がなければ、そのようなものは形成されないのです。
 しかし、人間はその「実在」を信じて疑わないのがふつうなので、肉体の死後もその「集合体」は残ります。仏教などで言う「輪廻」(生まれ変わり)の担い手はこの「記憶の集合体」なのです。だからそれは何千年、何万年もの記憶を潜在的にもっていることになりますが、一般には、この「個別の記憶をもつ意識」が「魂」と呼ばれるのです。
 今現在、科学者たちがどう考えているかは知りませんが、自我を含め、人間の思考や感情というのはすべて脳の神経化学的な反応によって生み出されるものにすぎず、それは当然肉体の死と共に消滅する、というのが近代科学の立場です。それならどんなにスッキリすることかと、僕などは思いますが、色々なことを考え合わせると、事はどうもそう単純ではなさそうで、大部分は作り話やたんなる妄想にすぎないとしても、稀に事実の記憶としか思えないような過去世記憶をもっている人もいるので、大方の人はそれが思い出せないだけなのだと考えた方がよさそうです。
 そういう「生まれる前の過去の記憶」まで備えたものが「魂」です。しかし、元はといえば、先にも言ったように、それは自然が、宇宙がと言ってもいいが、生物に保護のために与えた意識を土台として発生したものです。だから現象的なもので、究極的な存在ではない。

 つまり、こうも考えられるということです。僕らのこの肉体は、魂がそこに意識を投射してそれを動かすようにしているのだとすれば、魂にとって肉体はアバターですが、その魂それ自体、大元の意識が生物を保護するために、その働きを貸与したことが元になって形成されたものにすぎないのだとすれば、魂それ自体が全体的な、本来それ自体で一つである意識のアバターだと、そういう解釈もできるということです。アバターは、だから、二重構造になっている。
 今の若い人たちには「自分探し」をする人が多いという話ですが、自分というものを探していくと、まずそれまで自分だと思っていたこの肉体が自分ではないということになり、その内部の自我も、その奥には魂というもっと「長生き」しているものがいるということに気づき、さらに、それがどこからどうして発生したものかとずーっと辿っていけば、最後にはこの不思議な、自然そのものが宿しているとしか思えないある働きにまで行き着くのです。「母をたずねて三千里」ではないが、「自分をたずねて三千里」の旅をすると、そもそもの初めからそんなものはいなかったというのが最後にわかるのです。強いて言うなら、「宇宙のエッセンスそのものが私」なのです。「私」という言葉は自他の分離を前提とした言葉なので、そういう言い方をするのは危険だし、不適切なのですが…。

 うちの息子があれこれ不可解なことを言っていた頃、彼は「なぞなぞ」好きの子供でもあったので、「この世界で一番大きな生きものは何か?」となぞかけをしてきました。僕は「さあ、たぶんクジラだろうね」と答えました。彼は違うと言いました。じゃあ、何なの、とたずねると、それは「山」だという返事が返ってきました。どうしてかというと、「山は大きくて、たくさんの生きものを住まわせているから」だというのです。これはいわゆる「アニミズム思考」です。山それ自体は個別の生物ではないが、全体としては一つの生きものだと、彼は考えたのです。「個体」思考にとらわれていなければ、たしかにそういう見方は成り立つ。
 それと同じように、宇宙がそれ自体として一つの意識をもっていると考えることはできるのです。自然をよく観察するなら、この世界がどれほど精妙に構成されているか、誰でも驚かずにはいられないでしょう。それは信じられないほどの知恵とパワーをもっているのです。その同じものが生物に、人間に意識を分け与えているのです。人間はその意識を狭い、小さなものに変えてしまった。だから本当の知恵やパワーがもてなくなってしまったのです。

 だから僕が言いたいのは、「複眼思考をもて」ということです。僕らは肉体をもって、何十年間かその中で生活します。それで名前をつけられて、その外見、能力をとやかく言われるうちにだんだんとそれが自分自身であるかのように思い込み、自由さを失ってしまいます。だからそれはアバターにすぎないのだと考えて、今度はそれを使っている魂、意識というものが別にあると考えれば少しはマシになるのですが、さらにその魂=意識も、大きな意識の一部にすぎないのだと思えれば、きゅうくつな感じはさらに減るでしょう。いわば、心に「三段ギア」をもっておくのです。あるときはアバターとして、あるときは魂として、そして最後には、個別の自己という観念が全くない状態で、ものを見、考えることができれば、この世界は相当違ったところに思えてくるでしょう。
 幼い子供は皆この最後の意識レベルで生きています。だから彼らはおおらかで幸福なのですが、人間が成長するというのは、自我が発達してきて、アバターとの自己同一化が生じ、知能は発達するが、意識は逆に狭まって、ある意味でどんどん不自由になり、愚かになっていくことを意味します。だからどこかの時点で、そのことに気づいて、前とはまた違ったかたちで、今度は自覚的に元の状態を取り戻さなければならないのです。そうしてこそ、この肉体というアバターも賢く使いこなせるようになる。
 うちの息子なども、小さい頃はあれほど「知恵に満ち」ていたのに、最近では母親と次元の低い喧嘩ばかりしています(「次元が低い」などと言うと、「人の苦労も知らないで、あんたは私を何だと思っているわけ!」と母親にまた叱られそうですが)。こういうのはある程度避けられないことなので、アバターと自分を同一視して、あちこち頭をぶつけているうちに、「どうもこれは何か違うようだな」と本人が自分で気づくのを待つしかないのです。
 これを読んでいる人たちも、「発想の転換」のヒントにしてもらえれば、書いた甲斐があったというものなので、あらためて「自分とは何か?」、少し考えてみてください。
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