クリシュナムルティの説く「革命」

2016.12.15.16:13

 僕は寝るときナイト・キャップ、または催眠薬代わりに本を読むのをつねとしますが、先日候補の本を書棚から物色していたら、もう何年も読んだことのないクリシュナムルティのWhere Can Peace Be Found? という薄い本(本文109ページ)に目が留まり、この本はもっていた記憶自体がなくて、未読のように思われたので、ためしにこれを使ってみることにしました。亡くなる三年前、1983年の講話を集めた本です。

 久しぶりに読んでみると、まずその英文の平易さに驚かされる。こんなことを言うと、「いや、クリシュナムルティは見た目は平易でも、深遠きわまりないので、理解はとてつもなく困難なのだ!」なんて怒り出す人もいそうですが、高校生でも基本的な英語力さえあれば、十分理解できるレベルの英文なので、ほんとに読み易いのです。これは彼がインド人で、英語は元々外国語であるということと、彼は学者ではないので、引用の類がほとんどなく、使われる語彙も限定されていることから来るものでしょう(晩年のものだということもおそらく関係する)。複雑な構文も出てこないから、わかりやすいのです。

 内容は、いつもと同じ話です。私たちの脳は深く条件づけられている。その産物である記憶と思考は災いである。それが内外に分裂と対立を生み出し、世界は悲惨な状態になる。解決策はそうした条件づけから脳を解放し、脳細胞の変異(mutation)を生み出すことである。そのとき初めて真の叡知(intelligence)と慈愛(compassion)が生まれる。

 要約してしまえば、そういう話なのですが、今回あらためて彼の本を読んで驚いたのは、話に繰り返しがむやみと多く、なかなか議論が前に進まないことです。そしてこの議論自体、毎回のように蒸し返されている同じ話なので、正直、僕は途中で退屈してしまいました。

 こう言うと、「いや、おまえのそういう安易な態度こそが問題なのだ!」と、クリシュナムルティ読者には叱られてしまいそうですが、にしても、その話の回りくどさは半端ではないので、「インド人にはおしゃべりが多い」という養老孟司氏の話を思い出してしまったくらいで、かんじんなポイントの説明はほとんどないくせに、途中の反復が多すぎるのです。

 僕はかつてクリシュナムルティを「特別視」していました。だから気にならなかったが、そういう気持ちがなくなった今、こうしてあらためて読み返してみると、「むやみと話が長い」ところばかりが強く印象づけられて、それには辟易させられたのです。

 それで、じれったくなって要約してみたくなったので、それをここにお目にかけたいと思うのですが、それは僕に意味があると思われる点についてだけです。さらに、これを僕は自分の言葉で書き、説明が不足していると思うところは勝手に補うので、それは当然「解釈」の入ったものとなります。そのあたりは承知してお読みください。

 まず、彼は人間精神の自己中心的(egocentric, self-centered)な性質について述べます。これはエゴ、ミー、セルフ、呼び方はどうあれ、「自分」というものが何より大事だからで、その自分の体面と地位を守り、財産を増やし、権力を増大させることは何より重要なのです。自分の家族や、自分の会社、自分の国、民族を守ることも重要です。なぜなら、それらは自分に付属するもの、または自分がその一部だからです。中国や韓国が歴史問題で日本を非難するたび、僕ら日本人は傷つきます。先祖や国家も、「私」の一部だからです。

 こうした「私」は伸縮自在です。仮に宇宙人が攻めてきたら、人類は一時的に仲良くなり、大同団結するでしょう。その場合は、「私」が「地球人」に自己同一化するからで、それまでは国家間、民族間、または宗教の違いでいがみ合い、戦争してきたが、宇宙人という「共通の敵」が出現した今は、「身内」になるのです。

 収縮の場合は、たとえば自分の所属する会社や学校が批判されれば、それに対して一様に気を悪くするとはいえ、内部では同僚、級友相手に熾烈な競争が繰り広げられ、その場合の「私」は、会社でポストを争う、成績の優劣を競う「個人」意識になっているのです。

 要するに、「私」というのは無数の括(くく)りをもっていて、場面場面でその「括り」は変化する。人類→民族・国籍→所属する集団→個人というふうに、一人の人間の中にある記憶や知識はカテゴリー分けされて、その都度表面に現れ出たものに「私」は自己同一化するのです。

 いや、私は会社で、学校で、人を押しのけてなんて気はありませんという人も、同期入社組はみんな順調に出世したのに自分は平のままだったり、友達が上の学校に合格して自分だけ不合格になったりすると、みじめな感情になって落ち込むのです。

 これはいいとか悪いとかいう話ではないので、こういう型にはまった心理反応は人類に共通のもので、ディティールこそ違え、僕らは同じように条件づけられていて、同じように反応しているので、だからあなたの意識(=意識の中身)は他の人類のそれと同じなのだと、クリシュナムルティは言うのです。同じように陳腐で、混乱している。

 にしても、こうなってしまうそもそもの原因はどこにあるかというと、「私という観念」そのものにあると言わざるを得ないでしょう。それも脳のプログラミング、条件づけの一部なのですが、この「私という観念」が何をするにも僕らにはつきまとうのです。私の顔、私のからだ、私の性格、私の仕事、私の成績、私のパソコン、私の恋人・妻、私の家、私の車、私の学校・会社、私の国…というふうに、全部に「私」がつく。この世界にあるものは「私のもの」とそうでないものとに分かれ、人間同士、「私のもの」が全部一致することはありえないので、国家間、民族間、宗教宗派間、会社・学校間、家族間、さらにはそれらの内部でも無数の対立が発生するのです。

 要するに、諸悪の根源はこの「私という観念」にある。同じ個人の内部ですら、「私」は互いに対立して、戦争状態にあります。こうしたい私と、そうはすべきでないと思う私がいて、理想の私と、現実の私のありようもつねに一致しないからです。

 その対立、混乱が激しすぎると、人は神経症になったりうつになったりするのですが、多くの人は、それとは気づかないまま、自己虐待に励んでいます。これは家庭や学校、社会によって一面的な価値尺度を植えつけられ、いわゆるwhat I should be と what I amの齟齬(そご)が発生し、「かくあるべし」が「げんにある自分」を責め立て、虐待する結果になるからです。

 たとえば僕が、愚図でのろまな、ぼーっとした子供だったとします(げんにそうでしたが)。他の子供が10分ですませることにも、30分かかってしまうのです。学校の宿題も、母親か誰かが横にいて、「はい、やりなさい」と言わないとやらない。それ以前に、宿題が出ていることそれ自体をしばしば忘れているので、ランドセルを見て確認させないといけないのですが、始めても一問解き終えるたびにぼーっとしているので、「はい、次やって」と言わないと先に進まず、たった一枚のプリントをやり終えるのにも恐ろしく時間がかかってしまう。服のボタンをかけさせても、えらく時間がかかっているのに、いつも一列ずつずれていて、またやり直さないといけない。昔はよく物を包むのに風呂敷を使いましたが、一人だけ、いつまでたってもそれがちゃんと結べないのです。これは本物の馬鹿ではないかと、見ている人はたいてい思うので、僕の場合は、根拠なく「世界一の孫」だと思い込んでいる祖母がいてくれたおかげで自己肯定感を破壊されずにすんだのですが、「人並」「かくあるべし」の基準を大きく下回るこういう子供は、「ダメな自分」という思いをもたされやすいのです。

 子供の頃は親が自慢の優等生、「よい子」だった場合でも、油断はできない。突如として、何もかもがうまくできなくなってしまう日が訪れるのです。なぜこの子は突然駄目になってしまったのかと親も教師も訝りますが、本人にもそれはわからない。知らないうちに「かくあるべし」の重圧が強くなりすぎて、力尽き、混乱に陥ってしまったのです。

 こういうことは大人になってからも起きうるので、前は有能だった人が突然のように無能になってミスを連発する。自責の念が強ければ強いほど、それは加速する。そうしてついには立ち直れないほど自信を失ってしまうのです。

 こういうのも全部、「私という観念」が引き起こす病理です。そういう人の内面は「あるべき私」と「その要請が満たせない現実のダメな私」に引き裂かれている。二つの「私」の葛藤の中でエネルギーは浪費され、その混乱のなかで無能化するのです。

 そこでセラピストたちは、「あるがままの私の受容」を説きます。そうして、こう教える。その「あるべき私」というのは何なのか? それはあなたの親が、学校の教師が、社会が、あなたに植えつけた一面的な価値尺度にすぎない。あなたはそれを無意識のうちに内部に取り込んで、その価値尺度に自己同一化し、内部に自己分裂をつくり出すようになってしまったのだと。その結果、あなたの中には「あるべき私」と「その期待に応えられない現実のみじめな私」という「二つの私」ができてしまい、前者が後者を虐待するという不幸な結果が生まれてしまったのだと。

 しかし、さらに言うなら、「あるべき私」も「あるがままの私」も、「私という観念」に基づいて作られた区分けでしかないのです。それを理解することは重要です。「私」観念それ自体が、身体的個別性と脳の統括機能に準じて思考が作り出した虚構にすぎません。脳には統括機能が備わっています。記憶(知識や経験のそれ)が一つのまとまりを形成しなければ、僕らは一つの生命体として機能できません。その統括機能が思考作用と結びつくとき、「私」という虚構は生まれるので、それは「このユニット」と言い換えた方が適切なものです。しかし、僕らはどうしてもそこにパーソナルな感情をまといつかせてしまうので、だから「私」と強固な「私感情」が生じてしまうのです。

「私」という言葉を廃して、代わりに「このユニット」と呼ぶとしましょう。そうしてそれにいちいち自己同一化することなく、その中にある記憶や知識、感情と思考の動きを観察するとしてみましょう。いちいち評価したり、非難したりすることなく観察するのです(それが「私」だと思わなければ、これはそう難しくない)。そうすると、そこにはだんだん秩序が生まれてくる。おぞましい感情も崇高な感情も、そこにはあるでしょうが、いずれにせよそれは「このユニット」の中に観察されるもので、それらに「私」という観念をもっていちいち自己同一化しなければ、別に恥ずべき感情も、誇らしい感情も生じないのです。卑下も高慢もなく、それは目に映じてくる。そうすると内部の混乱もだんだん沈静化して、見るに堪えないようなものも減ってくる。責め立てる自分と、責められる自分の分裂が、グロテスクなものを生み出していたことがわかるのです。

 クリシュナムルティはよく、観察者と観察されるもの、分析者と分析されるもの、探求者と探求されるもの等々、それらは同一であると言いますが、それは「私」内部の自己分裂を言ったものです。それは「あるべき私」が「あってはならないダメな私」を非難、批判するのと同じで、そういうやり方では混乱を増幅させるだけで、本当の観察はできない。真の観察は「観察者のいない観察」だけだというのはそのことを言ったものです。ありもしない「高次の自己」が、「下位の自己」を観察するというのではない(クリシュナムルティ風に言うなら、そういうのは「同じ機械的な思考の運動」にすぎません)。そのとき、観察する主体、観察する「私」は存在しないのです。たんなる観察だけが、知覚だけがある。

 デカルトのコギト・エルゴ・スム、「私は考える、ゆえに私は存在する」は有名です。考えるためには、その前提として、「考える私」が存在しなければならない、というのですが、それは後からつけた理屈で、犬は別に「私は走る、ゆえに私は存在する」なんて考えながら走っているわけではないでしょう。そんな自意識過剰の犬は何かにけつまずいて転倒するのがオチです。考える場合も同じで、僕は今、一応考えながらこれを書いていますが、脳の思考機能を使っているのは確実ですが、何者が考えているかなど、僕の知ったことではありません。その背後に、ケチな私がいたとすれば、そこから紡ぎ出されるものもロクなものにはならないだろうから、そこから逆に「誰が考えているのか?」を推認することは可能になるとは言えますが。「高次の自己」が背後にいるわけでもない。そんな薄気味悪いものは見たことがないので、僕は今、ただ考えているのです。

 それは別に高尚なことでも何でもない。クリシュナムルティの「観察者のいない観察」というのも同じです。現代人は皆、自意識の病にかかっているからそれがわからないので、何をするにもいちいち「私」というものを持ち込まなければ気がすまないから、そのかんたんなことができなくなっているのです。高尚な私も、下等な私もない。全体として人間の意識の中身はおぞましいものですが、それは「私という観念」の肥大と、それに対する執着がもたらしたものです。そして(先に使った言葉を用いれば)、どのユニットの中身も似通っている。僕はあなたであり、あなたは人類なのです。そして等しく愚劣です。「私」観念による汚染が、そうした結果を招いたのです。「高尚な私」「素晴らしい私」などというものは、世界のどこにも存在しない。それを見切ることが正気をもたらすのです。

 クリシュナムルティが言っているのは、要するにそういうことです。今の世界は崩壊寸前です。来年になるとその兆しはさらにはっきりしてくるだろうと僕は見ていますが、個人のレベルから、国家社会レベル、世界のレベルに至るまで、「私という病気」がその分裂と破壊の元凶として作用しているのです。「私」という、文字どおり犬も食わない病的な観念にとりつかれた人類はいずれ自滅する。それはペストのような伝染病よりはるかに強力な破壊力をもつのです。

 僕は彼の「脳細胞の変異」説には懐疑的です。ほんとに彼にそんなものが生じていたという証拠はないし、それもまた人間特有の「自己神話化」の産物でしかないように思える。学習や年齢によって脳のシナプスの連結が変わることは知られています。その程度の話ではないかといえば、クリシュナムルティ信奉者には叱られるでしょうが、上に述べたことは重要性をもつと思われるので、書いてみたくなったのです。

 クリシュナムルティの執拗なまでの「思考の排撃」にも同意しかねる。「思考は記憶の反応である」と彼は言いますが、そういう機械的な反応でない思考も存在するはずで、でないと創造的な思想などは生まれません。知恵の伝達もできない。「観察者のいない観察」があるなら、「思考者のいない思考」もある道理です。しかし、それは限定されている。それは尤もですが、「無限の叡知」なるものは、観念上は存在するとしても、現実にそれを備えた人間はいません。人間の脳は、条件づけを外された脳は、その媒体として機能しうるでしょうが、それは個々の脳の個性に応じた限定的な表われをするしかないでしょう。仏陀はあらゆる超常的な能力を備えており、寿命ですら自在にコントロールできた、なんてのは、後世の人間の願望の投影から生まれた神話でしかありません。そういう幻想によりかかりたがるということ自体、人間の幼稚さ、未熟さを示すものでしょう。ソクラテスの「無知の知」ではないが、自分の考えることは限定されているという自覚をもたらすものがその無限定のもので、そういうかたちでしか僕らは無限には触れえないが、それは別に嘆くべきことではなく、嘆くべきはその自覚がないことです。

「絶対的自由を達成した超人的宗教家」というクリシュナムルティにまつわる神話も、おそらくはそうした人間共通の「超人願望」投影の結果でしょう(オウムの麻原ですら、信者たちにとっては空前絶後の「覚者」だったのです)。僕は前にここに、「クリシュナムルティと二重人格」と題した文を書いたことがあります。彼は仕事でも右腕と頼む親友の妻相手に間男を働き、口の堅い女性だったので、複数回の妊娠中絶などもあったにもかかわらず、長くバレなかったが、その女性がクリシュナムルティの「新愛人」に嫉妬したことから、夫に長年の秘められた関係を告白してしまい、夫の方は仰天して、何ともはやの泥沼に落ち込んでしまったという話(他に学校運営上の彼の無責任から、古くからの協力者が離れてしまったという話などもある)を、この夫婦の一人娘が暴露していて、その本を紹介したのですが、他を顧みない「絶対的自由」の結果、そのようなお粗末な事態を招来し、嘘と言い逃れに終始して、関係者をいっそう傷つける羽目になったのだとすれば、それはどう見ても上等とは言いかねるのです。「葛藤」なく、彼がそうした嘘と言い訳を並べていたのだとすれば、サイコパス的な意味での「超人」だということになり、なおさら感心できない。

 だから妙な言い方をすれば、葛藤も悩みも、ほどほどにはあった方が健康なのです。それがその人の人間性を担保してくれる。問題はその性質と度合いで、彼が言う「私」観念の呪縛に深く囚われたままでは、人は病気になり、無能化する他なくなる。日常生活においては、僕らは「私」としての責任を負わされ、人間世界における「私」の共同幻想の中に住まわざるを得ない。問題は、それを一つの「約束事」と見て、そこからの内面的自由をどの程度得られるかにかかっています。「私」の呪縛が内面においても、社会レベル、国家レベル、世界レベルでも深刻な破壊をもたらしているという彼の指摘は事実なのですから。

 そうした自覚を持てば、脳細胞に突然変異が生じるかどうかはともかく、人間はこの世界で平和に暮らすことができ、必要な問題解決能力を備えたものになるでしょう。それが極度に困難になってしまうのは、彼が言うように、人間が、人間の脳が「私」という狭い輪に囚われ、その閉鎖空間の中で思考が機械的な自動運動をするようになり、同時に、すでに見てきたように、その観念でしかない「私」が内外にたえず分離と対立を生み出す発生源になってしまっているからです。陳腐で機械的な思考と感情的混乱、それらが結果として生み出す知覚と感情の鈍麻しかないのだとすれば、その中でどうあがいたところでまともな世界、まともな社会は作れない。その「基本的事実」を見なければ何も始まらないというのは、たしかに聴くべき価値のある話なのです。
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ゴキブリを叩く~凶悪な偏執狂的妨害者の話

2011.12.11.12:59

 今、過去記事の整理をしているところなのですが、この記事はアクセス数が妙に多いものの一つで、たまに自分の名前で検索しても上位に来ていたりして、「こういう下品な(品性下劣な手合いを相手にするとこちらもそうならざるを得ない)のばかり目立つのも困るな…」と自分でも思っていたので、一応目的は達成されたかなということで、「停止」状態にしておきます。

 但し、ここでネットに巣食うゴキブリとみなされて叩かれた御仁は、また似たようなことを繰り返すようなら、僕は記事をヴァージョンアップさせて“復活”させるつもりなので、それだけはお忘れなく(2014.8.1)。

クリシュナムルティと二重人格

2011.06.13.16:30

 今回は久しぶりにクリシュナムルティについて書きます。これはクリシュナムルティに関心のない方にはどうでもいい話でしょうし、クリシュナムルティ読者には不快なものになるのは確実なので、どうしようかな、とちょっと迷いましたが、クリシュナムルティの翻訳に関係したことのある者としてはこれを紹介しておくのは一種の義務みたいなものかなと思ったので、書いておくことにした次第です。
 今月の2日に、“Lives in the Shadow With J. Krishnamurti”by Radha Rajagopal Slossという本が届きました(『クリシュナムルティとの隠された生活』とでも訳しましょうか)。前々からこの本のことは気になっていたのですが、人に聞いた話から「精神にいくらか変調をきたした古い友人の一人である一女性がクリシュナムルティにあらぬ非難を投げかけ、それを真に受けた娘がそれを本にまとめたもの」という程度の認識しかもっていなかったので、ほったらかしにしていたのです。しかし、読みもしないで勝手に決めつけるのも何だと思ったので、夏場の読書用にと和洋取り混ぜて数冊取り寄せることにした本の中に、これも含めておきました。そしたら、予想に反して早く届いて、えらくボリュームのある本なのにびっくりさせられた(大型の版型で、本文だけで323ページもある!)のですが、読み始めてまたびっくり、低レベルのつまらない暴露本ではないことがわかったからです。読みながら、自分でも表情が次第に険しくなっていくのがわかったのですが、途中からアンダーラインまで引き出すことになって、丸一週間かけて、ようやく読み終えました。

 正直、唖然、呆然とはこのことです。同時に、どうもわからないなとひそかに疑問に思っていたところに照明が当てられて腑に落ちたという感じもあって、心境は複雑なのですが、僕がもしもクリシュナムルティの熱烈な崇拝者だったなら、大変な精神的打撃を受けることになっていたでしょう。
 だから、そういう人はこの本を読むべきではないし、今僕が書いているこの文の先も読まない方が賢明かも知れません。「まさかそんな…」という話の連続になるからです。

 この本についての向こうのアマゾンのレビューなどには「バイアスがかかっている」という批判が書かれていますが、ルティエンスの伝記にも、別方向からのバイアスがかかっていたことは、両方を読んだ上で公平に判断するなら、等しく真実だということになるでしょう。
 僕がルティエンスの伝記を読んで釈然としなかった点の一つは、最も古くからの盟友で、クリシュナムルティの活動の実務面の礎石となっていたラージャゴパルとの確執でした。それは長期にわたる裁判沙汰にまで発展したのですが、何でそこまで関係がこじれてしまうことになったのか? ルティエンスの説明には何か不自然で不十分な印象を受けていました。ラージャの側からする、たんなる嫉妬と依存の入り混じった心理の産物だとするにはどこか無理がある。裏に本当は何かあったのではないか、という一抹の疑問が残ったのです。この点、この本の著者の説明の方がはるかに腑に落ちる。
 読みながら、包括的な論点整理をあとで試みようと思っていたのですが、アンダーラインの数が多くなりすぎてしまって、それはもはや不可能です。
 だから、とめどない書き方をすることにならざるをえないのですが、原書を読んでいない人でも、これがクリシュナムルティとロザリンドという女性(最初のあの有名な“プロセス”と呼ばれる現象は彼女がそばにいるときに起きた)の性的関係の暴露を含むものだということぐらいはご存じでしょう。それは言いがかりでも何でもなく、全くの真実であった――それだけはたしかだろうと、僕はこれを読んで確信しました。ロザリンドはラージャゴパルの奥さんだったので、クリシュナムルティは俗に言う「間男」、しかも親友のそれだったということになるのです。

 彼らは長く三人で同じ家を住居とし、のちにはこの本の著者であるラーダが生まれ、四人構成の奇妙な「家庭」を形成していました(子供時代の著者ラーダと子供好きのクリシュナムルティの交流の描写には微笑ましいエピソードが多く含まれていて、著者が一面的なものの見方しかできない人ではないことを示しています)。
 もしもクリシュナムルティの弟ニティヤが生きていれば、ロザリンドと彼とは相思相愛の仲だったので(性的な関係はなかった)、その後の展開は違っていたでしょうが、その後ラージャが彼女にプロポーズして、彼女はそれを受け入れ、結婚したのです(若いときの写真を見ればわかるとおり、彼女は性格がいいだけでなく、気品のある美人だったので、彼ら三人は一様に彼女に惹きつけられたのです)。しかし、ラージャは仕事の虫で、クリシュナムルティの活動が全面的にそのおかげをこうむっていたのは言うまでもありませんが、「君と結婚したら、仕事一途のこういう生活を改める」という約束を守ることができず、すれ違い生活が続いていたのです。
 そして、娘のラーダが生まれると、宗教的で生真面目なラージャゴパルは性的交渉は子供をつくるためのものだから、それはこれで終わりにしようと浮世離れのしたことをロザリンドに言い、それは彼女を驚かせましたが、その通りになってしまったのです。
 それでしばらくして、クリシュナムルティが彼女の性的パートナーを勤めるようになったのですが、クリシュナムルティの奇怪なところは、それがスタートする以前から、ロザリンドのベッドに入って、甘えて幼児みたいに抱かれることを求めたりしていたということです。すでに三十歳を過ぎていたのに、彼にはそうした「幼児返り」の奇癖と、相手にそれを受け入れさせる、女性の母性本能を掻き立てるような何かがあったのです。それがそのうち「大人の関係」に発展し、それは彼が三十七歳のときのことであったと明記されています。それが、この「世界教師」が“童貞”を捨てた年齢なのです(ルティエンスは伝記の中で、彼の教えの中で最も大きく変化したものの一つは性に対する考え方だったと述べていますが、その背後には彼自身のこうした体験があったわけです)。
 これだけでもかなりギョッとさせられる話ですが、問題はこれから先なのです。彼女はやがてクリシュナムルティの子供を宿す。誰の子であるかについては疑問の余地はありませんでした。クリシュナムルティ以外の男関係はなかったからです。しかし、最初の出産のときに、これ以上の出産は母体を危険にさらすことになると医師に警告されていた彼女は堕胎を決心します。真相を知っているクリシュナムルティはまめまめしく彼女を気遣い、今後は避妊に気をつける(コンドームを忘れず着用する?)と約束するのですが、しばらくたってまたしても妊娠、そして中絶を余儀なくされます。
 こうしたことは、不在がちの夫ラージャゴパルは全く知りませんでした。そうして、この秘密の関係は二十年以上にわたって維持されることになったのです。

 これが破局を迎えるのは、中絶事件のためではなく、彼が新たな“愛人”をつくったことによります。五十代になったクリシュナムルティは若い人妻である、絶世の美女に出会って、夢中になる(このとき、その問題についてはまた後で触れますが、不思議なことにまたあの“プロセス”が始まるのです)。それはナンディーニ・メータ(本になったLetters to a Young Friendは元々彼女宛の手紙)でした。
 それがロザリンドにばれたのは、うかつにも彼がロザリンドをナンディーニの名で呼んでしまったからです。本にはそこまで露骨に書かれていませんが、それはベッドでの睦言の合間のことだったのでしょう。男はそういう間抜けなことをしてしまうことがままあるので、それが一度ならず二度も繰り返されたとき、ロザリンドは「新しい女ができた」ことを確信して、「一体それは誰なのよ!」と彼に詰め寄ることになったのです。
 こういうのは、世間には珍しくないお粗末の一つですが、人の鑑たるべき「世界教師」と目される人物の行いとしてはかなり嘆かわしいことです。もっと嘆かわしいのは、彼が「君以外には誰もいない」と苦し紛れの陳腐な言い訳をし、その後もナンディーニ宛に書いたという手紙の写しを見せて、「自分には古くからの愛人がいて、彼女を裏切ることはできないから、空しい希望を抱かないように」と書かれたそれを、確実に相手に届く手立てを講じて出すと言いながら、そんなことは決してしなかったらしいことです(どうしてそれがロザリンドにバレたのかという委細は省略)。
 この後ろの虚偽行為にいたる以前に、しかし、長年の愛人の裏切りに傷ついたロザリンドは、夫に「ロンドンでのクリシュナムルティの愛人の噂」について相談します。肉体関係があるかどうかまでは知らないが、クリシュナが新たな愛人を見つけたのは確実だと。たしかにそれは事実とすれば喜べるような話ではないが、彼はそれまでもクリシュナムルティがしでかしたお粗末の尻拭いをするのも仕事の一つとしていたので、何で彼女がそんなにそのことを気に病むのかと不思議に思います。
 と、突然、彼女は思いあまって、これまでのクリシュナムルティとの自分の関係の一部始終を話してしまう。ラージャが途方もないショックを受けたのは言うまでもありません。いくら何でもそれはないだろう、自分の妻がクリシュナムルティの子を宿して、中絶するなどということを、それも一度ならず、していたとは!
 このことを、翌日パリに来たクリシュナムルティを散歩に誘って、ロザリンドは話します。クリシュナムルティはそれを聞いて震え上がり、怒ったものの、しばらくして彼はロザリンドに、ラージャと直接話をして謝罪し、関係を修復するようにすると約束します。しかし、あれこれ言い訳をして、それをいつまでも引き延ばすのです。
 こういうことがありながらも、彼はロザリンドとの肉体関係はまだ手放そうとしなかったらしく、読み進むと、「五十八歳で、クリシュナは二十年も前に始まったのと同じ肉体関係を求めた」といった記述が出てきます。その夫であり、長年の親友でもあったラージャゴパルに知られてしまった(しかも直接申し開きをすることは避け続けた)後でも、まだそんなことをしているのです。

 何とも情けない…。クリシュナムルティが愛人をもち、肉体関係をもっていたということそれ自体は、僕にとっては別にショッキングなことではありません。彼はしばしば「僧侶的禁欲」を偽善、抑圧として批判しているからです。彼は人がなぜ性行為に執着するのかについて述べています。それは「一時的な自己の完全な忘却」がもつ魅力のためなのだと。僕はそれを読み、訳しながら、これは彼の言う「代理体験」によって得た洞察なのか、それとも自分自身の体験から来たものなのか、どちらなのだろうと思いましたが、「代理体験」ではそこまではわからないだろうという気がしていたのです。
 彼はこうも述べています。ベッドを共にするかどうかは問題ではない、寝るか、やり過ごすかしなさい。問題はそれにまつわるゴタゴタ(人間関係や執着の)をいつまでも引きずることにあるのだと。
 僕はこれに完全に同意します。しかし、執着や葛藤、摩擦を伴わない、後腐れのない男女関係などというものは、現実にはほとんど不可能です。映画の007のジェームズ・ボンドみたいにスマートにはいかないのです。それは自分の感情だけでなく、相手や関係者たちの思いや反応にも十分配慮する必要があるからです。ましてやそれが自分のために長年尽くしてくれている親友の妻ともなれば、なおさらでしょう。人間関係の葛藤はさらに深刻、複雑なものとならざるを得ないからで、それは関係をもつ相手の選択としては最悪のものだと言えます。その程度の察しもつかないようでは、ただの馬鹿にすぎません。
 果たしてそれは露見して、彼は窮地に陥ったのですが、クリシュナムルティのような“人生の達人”ともなると、愛人をもち、それが親友の妻という困難なシチュエーションであっても、そこをうまく切り抜けられたのかといえば、上に見たとおり、嘘と言い逃れの連続で、相手をさらに傷つけ、事態を悪化させてしまうのみだったというのだから、何ともはや…です。それでいて、人間関係や葛藤についてわけ知り顔にあれこれ能書き垂れるとは、そこらの恥知らずのオッサン以下だと言わなければならず、ロザリンドやラージャに偽善者呼ばわりされるのも無理はないのです。

 まさか、そんなことはありえないと、クリシュナムルティ読者の多くは思いたいでしょう。これはとんでもないでっち上げに違いないと、そう考えるのです。僕だってできればそう思いたい。しかし、著者はそれを傍証する自分の母親宛のクリシュナムルティの大量の手紙を所有しているようなので、そう解釈するのは難しいのです。この本に彼の手紙の直接の引用が出てこないのは、著作権法が改正され、私信であっても書いた本人または著作権保持者(彼の場合は財団と思われる)の許可なくしてはそれはできなくなり、その許可が得られなかったので、事前のその計画は放棄せざるを得なかっただけなのです(インターネットで読むことができるこちらの著者インタビューも参照のこと)。

 こういう話は、「世界教師」への一般の信頼を揺るがすのに十分ですが、類似のことは、具合の悪いことに、その解釈は色々可能だとしても、他にもいくつもあったようなのです。読んでいて僕にショックだったことの一つは、彼の学校運営をめぐるひどい不手際です。校長の頭越しに勝手に人事を決めて現場を混乱させ、強い不信を抱いた校長が辞任したり、外から勝手な批判だけして、困難な立場に追い込まれた学校スタッフからの直接の話し合いの要請には応じず、事態をこじらせてしまったりする。こうした中で、古くから彼の活動を支えてきた人たちが、呆れて離れ去るというようなことが起きる。人間関係に対処する上での無能さ、無責任さがいかんなく示されている話で、これは新愛人騒動のときに見せたのと同じ反応です。自ら火種を作っておきながら、事がややこしくなると、現実への直面を避け、言を左右にしてそこから逃れようとする。
 「問題から逃避せず、じかに現実に直面せよ」というのは彼の教えの中で重要なものの一つですが、それはご本人にはまるで守られていなかったということになります。彼はあるべき学校の姿について「美しい理想」を語っています。しかし、現実はきれいごとではすまないので、そこには様々な困難な問題が存在します。僕は“神のごときクリシュナ”はそのへんのことはよく承知していて、その上でそういうことを言っていたのかと思いましたが、実際には面倒なことは全部人に押しつけ、その苦労も十分わきまえずに、勝手な御託を並べていただけなのだということになります。“いいとこどり”だけしたがる虚栄心オヤジ――ここから浮かび上がってくるのは、彼のそんな姿です。

 神智学協会からの離反についても、初期の彼への追随者はほとんどが神智学協会のメンバーだったので、うまくそれを利用したのだと見る著者の観点に殊更な悪意を見ることはできません。彼は女性の母性本能にアピールする自分の魅力をよく承知していたので、会員に絶大な影響力をもつベサント夫人がひどい苦悩と葛藤にさいなまれながらも自分への支持を撤回できないことを見抜いていたのでしょう。一方、リードビーター(レッドビーター)の方は、首尾よく「悪者」に見せることに成功した。クリシュナムルティの神智学的な教義への反発と嫌悪は彼自身から出たものですが、仮に神智学協会による「世界教師の乗物」という認定と、それが周囲に与えた漠とした大きな期待がなかったなら、彼は説教者として一人立ちすること自体できなかったでしょう。母体は切り捨てながらも、そのあたりの“恩恵”はこれをうまく利用したのです。

 名門ケンブリッジ大学に学び、大学教授にもなれたであろう、文学的・思想的な豊かな才知と、すぐれた財務・実務能力を併せもつラージャゴパルは、クリシュナムルティの独立段階での組織と運営の柱石となる役割を果たし、その後も頼れる右腕であり続けたのですが、すでに見たように、クリシュナはその後も彼に面倒な仕事は全部押しつけただけでなく、その妻を寝取り、ロザリンドとの約束にもかかわらず、直接話し合って関係を修復することはしないまま、やがては彼相手に裁判を起こして、追い落としにかかることになるのです。
 ルティエンスの伝記では、このあたりのニュアンスは全く逆で、「ラージャゴパルは独裁者になった」と書いていますが、元々組織運営の面倒なことはラージャに丸投げし、自分は理事になることさえ拒否していたのはクリシュナムルティの方だったのだし、ラージャ側の悪感情から、必要経費すら彼に渡さなくなっていたというのは虚偽で、クリシュナムルティの方で周りにそう思わせるように仕向けただけにすぎなかったのだとこの本の著者は主張し、その証拠も示されています。
 クリシュナムルティにとって好都合だったのは、彼の取り巻きはその頃、古くからの関係者が大幅に減り、“世代交代”していたことです。つまり、以前からの詳しい事情を知る者はほとんどいなかったし、ましてやロザリンドとの関係については、誰も知らなかった。これは怪しむに足りません。ロザリンドは誠実な、口の堅い人間だったし、誰も「世界教師」がそんな破廉恥なことをしているとは可能性としてすら思いつかないので、気づかなくても何ら不思議はないからです。
 訴訟沙汰に心を痛めたロザリンドは、何度もクリシュナムルティに、ラージャと直接会って話をするよう哀願します。しかし、そうすると約束しながら、クリシュナムルティは一度もそうしなかった。露見した間男である彼は、当然ながらラージャゴパルと一対一で会うことを極度に恐れていました。だから、代理人を送ったり、取り巻きと一緒の会見を用意したりするのですが、これにはラージャの方で応じませんでした。
 これはあたりまえの話です。別にラージャが意固地すぎるからではない。代理人相手では言いたいことは言えないし、取り巻きと同席の場合でもそれは同じです。もしもロザリンドとクリシュナムルティの二十年にわたる情事や彼女の複数回にわたる妊娠中絶の話が外部に漏れれば、どうなってしまうか、それは火を見るより明らかだからです。彼はロザリンドを心ない中傷と好奇の目から守らねばならなかった。実質的な夫婦関係はとうの昔になくなっていて、また彼は彼女の了解も得て、のちに別の女性と結婚することになるのですが、信頼関係は残っていたし、それとこれとは別問題です。
 周りの人間には、クリシュナムルティとラージャゴパルの関係がどうしてここまでこじれてしまったのか、わかりません。ルティエンスはラージャが憤懣やるかたない顔つきでクリシュナムルティのことを「偽善者だ!」と非難したというエピソードを書いていますが、クリシュナムルティが人の陰口を叩くのはしょっちゅうだったとはいえ、ラージャはめったにそんなことはしない謹厳実直な人物です。しかし、彼がそう言いたくなるのはわかります。けれども、ルティエンスはクリシュナムルティの情事の件と、それにまつわる彼の卑劣な対応の数々については何も知らない。だから、嫉妬と愛憎の入り混じった感情のせいだろうというような曖昧な仮定に頼らざるを得なくなるのです。
 この本の著者ラーダは、クリシュナムルティ側が起こした訴訟の背後には、クリシュナの「自分に不都合な文書を自分の支配下に置きたい」という思いが隠れていたのだろうと推測します。そこまではともかく、なぜ両者の関係がそんなにこじれてしまったのかという理由は、ルティエンスの説明よりも、こちらの説明にはるかに分があるように思われるのです。この本をじかに読んでいない人には、僕のこの説明だけでは不十分に感じられるでしょうが。

 こういう話は、世間的には珍しくないことです。宗教団体だけでなく、風雲児と呼ばれるような会社経営者と忠実なその配下との間の関係などにも、こうしたことはよく見られます。大方の場合、その教祖や経営者には不思議な魅力とカリスマ性がある。しかし同時に、しばしば性格破綻の強い一面をもっていて、彼を助けた幹部や協力者には誠実で能力的にもすぐれた人たちが何人もいて、御大の成功は彼らの働きに大きく依存するのですが、秘密を知られているだけに、自分の名誉名声が何より大事なものになってきた彼にはそのうち彼らが邪魔になってくるのです。そこで、何かの機会を捉えて、巧妙な手口でパージが行われる。多くの場合、世間の人は彼の側からアナウンスされる一方的な説明を信じて、真相は闇に葬られるのです。
 僕にとって、クリシュナムルティは最もそんなことがなさそうな人に思われました。僕は翻訳の仕事を通じて、関係者にウンザリさせられることはいくつもありましたが、クリシュナムルティその人は決してそんな裏表のある人ではなかっただろうと信じていたのです。彼も人間なのだから性格的な欠点はいくらもあっただろうが、誠実さ、正直さにおいては欠けるところのない人だと思っていたのです。しかし、この本を読んで、それもまた幻想にすぎなかったのではないかと思わざるを得ませんでした。著者の見方に全面的に賛成するとまでは行かなくとも、少なくともここに述べられた事実の摘示には大きな説得力があるからです(ルティエンスはこの本に対する反論を書いたそうですが、彼女も知らなかった事実がここには多く含まれているはずなので、そうしたものまで否定することはできなかったでしょう。事柄の性質からして、それを知らなかったのは伝記作者ルティエンスの落ち度ではありませんが)。

 例の有名な“プロセス”という現象についても、著者はかなりシニカルな見方をしているので、それにも触れておきましょう。言われて、僕も「たしかに…」と思ったのですが、それはなぜか美しい若い女性が同席しているときにかぎって始まるのです。最初はロザリンド、次はププルとナンディーニの姉妹が居合わせたときです。これはたんなる偶然なのでしょうか?
 そこに出現する“ある力”は、“純粋な乙女”の立会いを必要とする。しかし、心が美しいだけでは駄目なので、見た目も美人でなければならないのです。
 たしかにこれは少し不自然です。クリシュナムルティが美人好みであったことはたしかで(尤も、男はみんなそうですが)、彼が親しくしたのは初恋の女性へレン・ノーデから始まって、メアリー・ジンバリストや神智学協会のラーダ・バーニアにいたるまで、とびきりの美人ぞろいです。
 クリシュナムルティが女性に求めたものは、美貌や無垢さだけでなく、強い母性的資質でした。それはロザリンドとナンディーニの両方に当てはまる。そういう女性を前に、彼は“プロセス”現象を起こし、そのとき彼は全くの無力状態になるので、全面的な女性の看護を受けられるのです。彼はそれによって女性の大きな同情と献身をかちとる。
 著者は、それは一種のてんかん発作のようなものではなかったのかと示唆しています。最初のプロセスについての情報は全面的に弟ニティヤの報告に依拠します。この中でロザリンドが夢うつつで神聖なものを見ているかのように「彼が見えますか?」と言い、ニティヤはそれを崇高な存在が出現した証拠とみなしますが、ロザリンドは実際はそのとき眠ってしまっていたのであり、それは寝言で、ニティヤがそう解釈したに過ぎないのではないかと言うのです。実際、ロザリンドが目覚めたときそれについての何の記憶ももっていなかったというのは、ルティエンスの伝記でも触れられている事実です(ロザリンドその人は、それを特別神聖な出来事とみなしたわけではなかったようです。彼女は別して神秘好みの人間ではなかったのです)。
 そうすると、あのときオカルト的な“外科手術”に携わっていた複数の見えない存在とは何なのか? 彼らはそのとき、神智学教義の大きな影響下にあり、例の“マスターたち”の実在を信じていました。ことにニティヤはそうです。
 著者ラーダはここに、一種の幻覚作用の介在も示唆します。神聖な現象を病的な症状に貶めるのかと叱られるかもしれませんが、古来、てんかんは「神聖な病」とされてきました。マホメットが神のヴィジョンを見たのも、てんかん発作と関係しただろうと言われるし、小説家ドストエフスキーも、てんかん持ちでしたが、その発作のときに体験される深い神秘感覚について語っています。
 僕はこの本を読みながら、「解離性人格障害」のこともついでに思い出してしまったのですが、話がややこしくなりすぎるのでそこまでは広げないことにして、無意識の強い感情がそうした発作の発現に関係することはありそうなことです。

 その後の軽微な“プロセス”現象も、マイルドになったてんかん発作の断続的出現と見ることは可能かも知れません。彼の『ノートブック』のその描写は、専門家に見せれば、受け取り方はずいぶん違ったものになるでしょう(彼が十歳のときに亡くなった母親は、てんかんの持病をもっていたと、この本には書かれています。著者はおそらくそこから推測したのでしょう)。

 ミもフタもない話に思われるかもしれませんが、その可能性はある、と僕は考えるにいたりました。神秘体験においては、その人の思想や観念体系による期待(投影)だけでなく、体質が大きな働きをします。クリシュナムルティの「私にはエゴがない」という言葉を、もはや僕は信じませんが(尤も、それは元から僕にはさして重要なポイントではありませんでした。エゴの根絶ではなく、エゴからの自由を説くものと解さなければ、ふつうの人には意味のあるものとはならないからです)、彼には体質的に、一貫したものとしてパーソナリティが成長し、根をおろすということがなかったのではないかと思われるのです。それは霊媒体質の人には珍しくないことで、統一的な堅固なパーソナリティというものが欠落しているから、「媒体」として働くこともそれだけ容易になるのです。
 その意味で、クリシュナムルティにはたしかに「器・乗り物」としての素質があった。しかし、彼の幼児的なエゴ、パーソナリティは、未熟なものとしてそのままそこに残っていて、私生活であれこれ矛盾、混乱した行為を惹き起す原因となり、それが周囲の人を深刻に悩ませることになったのです。
 変わらぬ深い愛情をもって長く彼の母親役を勤めたエミリー夫人(彼の伝記作者ルティエンスの母親)は、死ぬ前にこう言ったそうです。「クリシュナは天性の嘘つきa congenital liarだが、それでも自分はつねに彼を愛するadore」と。

 人格、パーソナリティというものは、元々一貫したものではなく、通常の人の場合でも多面的なものです。それが相互の連絡のないバラバラなものになってしまうと、いわゆる「多重人格」となる。そうなると、A人格の記憶をB人格は知らない、というような奇妙なことが起きます。それぞれが独立したものとして出現するのです。
 この本の著者はクリシュナムルティに「交代人格」をいくらか疑っているようです。言うことも、様子も全く違ってびっくりさせられた、という経験をロザリンドは何度かしていたようだからです(それは彼女に限ったことではなさそうですが)。
 これに関連して、僕に想起されたのは、彼の子供時代の記憶の欠落(この本の著者はそれも彼お得意の自己演出の一つではないかと疑っているようですが)のことです。彼の子供時代はお世辞にも幸福なものとは言えませんでした。最愛の母親も十歳のときになくしている。そして彼には、先にも見たように成人してのちも「幼児返り」の奇妙なふるまいがあったのです。
 これを彼は「自我の欠落」によるものと説明していますが、むしろ真相は、そうした不幸な環境と彼自身の特異な体質のために、通常の健康な自我形成が阻害されて、幼児(十代になっても彼は幼児的だった)が彼の心のどこかに記憶もろとも分離したものとして置き去りにされてしまった、ということなのかも知れません。彼が子供時代の記憶をほとんど思い出せなかったのは、通常の順調な人格形成が行われずに、幼児人格がその記憶を抱えたまま、中心的なパーソナリティとは分離したかたちで存在し続けたからかも知れないのです。
 これは彼の“プロセス”からオカルト的な解釈をはぎとって見直すなら、必ずしも荒唐無稽な考えではありません。そこには幼児のそれを含む、別々の複数人格の出現を確認することができるからです。

 彼が「自我の終焉」「時間の終焉」を説きえたのも、こうした素質と関係するかも知れません。なぜなら、そのような人は強い自己同一性というものをもたず、換言すればパーソナリティとのゆるいつながりしかもたないので、その背後の地平に、たやすく出られるという特性をもっているからです。無時間的な、無自我的な体験は、そのような人にとってはかなり容易なことです。それがてんかんの発作であったのか、それとも何か他のものであったのかはわかりませんが、“プロセス”はこれに促進的に作用した。
 ある意味でそれは原始心性のリバイバルです。鉱物などの無機物まで含め、すべては躍動する一つの生命のうねりと感じられる。心は自分の外に出て、遍在する一つのものとして感得されるのです。そのとき、真にリアルなものは通常の、自他分離的、二元的な世界理解に基づくこの世界ではなく、分離のない、主客のないその世界そのものなのです。
 だから、クリシュナムルティのそのあたりの描写に嘘はない。彼は見られたもの、感じ取られたものをそのまま言葉にしようとしたのです。そして、そこにこそ絶対的な自由と幸福があると感じた。そこに偽りはなかったのです。

 しかし、一方で彼の人格は心理学的には「パーソナリティ障害」と呼んで差し支えのないような病的な分裂を残していた。この本の中には時々、関係者の言葉の引用として、dual personality(二重人格)とかtwo Krishnas(二人のクリシュナ)という表現が出てきますが、それは不気味なものとして、周囲の人たちには感じられることがあったのです。
 そして、パーソナリティレベルでのその病的な分裂は、おそらくご本人には真に気づかれることはなかったのでしょう。子供時代の記憶がないというのは、上に見たように分裂したかたちで存在する「子供人格」の存在が意識化されなかった、ということだったかも知れないからです。だから、未熟なパーソナリティが仕出かすことに、彼のコントロールは及ばず、それに対して真の責任感情をもつこともできなかったのです。しかし、未熟な彼のその人格または心的要素が仕出かしたことの結果は、否応なくはね返ってくる。そこで彼は狼狽して、またもや無責任な愚かしいふるまいをするが、瞑想や講話の際に働く、彼の言うintelligenceは奇妙にもそれと関わりをもたないのです。
 むろん、これはあくまで単純化した一つの作業仮説にすぎませんが、だとすれば、思慮深く愛情に富むクリシュナとは違う、利己的で軽薄な、幼児的自己中心性を核とするクリシュナがいた、ということも了解可能になるのです。

 しかし、仮にも“悟った”人間にそんなことがありうるだろうか? それはありうると僕は思います。いわゆる「悟り」や「根源的洞察」なるものは、パーソナリティの地平を超えたところに生じるので、それは必ずしも人格的な成熟や統合を保証してくれるものではないからです。両者はイコールではなく、パーソナリティの次元には病的な問題を抱えながら、そうした体験が生じるということは、あっても不思議ではないのです。クリシュナムルティ自身の言明にもかかわらず、子供時代の彼の不幸な経験が、パーソナリティ形成に何らかの病的な痕跡を残した。彼の女性への接し方――「幼児返り」の奇癖やマザコン的な愛着の仕方――からも、そういう推定は可能になるのです。
 もう一つの可能性――それは、彼が本当に人知を超えた何らかの叡知的存在のvehicle(乗物)であったということです。但し、それは彼の未熟なパーソナリティが私生活でしでかすことには介入せず、その責任は満足な問題解決能力をもたない生身のクリシュナの手に委ねられた。当然、彼は責任あるまともな対応は取れず、困ると嘘やごまかしを重ねる羽目になって、周囲の人間が苦しめられたのです。

 最後に、以上見てきたことを、もっと常識的な、別の角度から考えてみましょう。どんな人の人生もきれいごとではすまず、そこには色々な過ちや蹉跌がつきものです。すぐれた人物も、元からそうだったわけではないし、その人がその人“らしく”なった後でも、失敗はつきものです。
 クリシュナムルティはいわば“スピリチュアル愛好者たちのスーパースター”でした。このあたりは映画スターやテレビのアイドルと変わらない。早い時期から24時間好奇の目にさらされ続けるというのは想像を絶するほどつらいことでしょう。彼はスピリチュアルの分野におけるマイケル・ジャクソンみたいなものだったのです(彼は表向きの言葉とは違って、有名人や映画スターが好きだった、とも著者は述べています)。
 ロザリンドとの関係については、彼は元から彼女が好きだったのでしょう。しかし、ロザリンドは弟のニティヤに関心があって、クリシュナムルティにはなかった。彼は二人の思いを知っていたので、心中は複雑で、あの最初の“プロセス”がてんかんの発作だったとすれば、葛藤と緊張状態の中で無意識がその引き金を引いた、と見ることもできるかも知れません。当時の彼は、神智学の教義には強く反発していたとはいえ、“純潔”主義は彼の心に強く根をおろしていたようで、しかも“未来の世界教師”という立場ともなればなおさら、恋で弟と張り合うわけにもいかず、身動きが取れない状態にあったのです。フロイトの言う“リビドーの圧力が高まる”条件を、すべて満たしていたのです。
 ところが、「トンビに油揚げ」みたいな感じで、弟が亡くなった後、今度は伏兵ラージャゴパルにロザリンドをさらわれてしまった。その後しばらくたって“チャンス”はめぐってきたのです。露見するおそれも少ない。その誘惑に抗し切れなかったというのは、人情の自然として無理からぬことです。
 ところが、五十代になったある日、不幸な結婚に苦悩し、自分を尊敬のまなざしで見つめる内気な若い美人(ナンディーニはperfectly beautifulであったと、直接顔を合わせたことのある著者は評しています)が出現し、彼の心は千々に乱れてしまう。これまた十分理解しうる話ですが、“糟糠の妻”ならぬ糟糠の愛人にそれを見抜かれ、激しい嫉妬を買って、あとはおきまりの修羅場に落ち込んでしまうのです。
 この本に出てくるクリシュナムルティの醜態は、浮気がバレて周章狼狽し、何とか妻のご機嫌を取り結ぼうと焦って、「変わらぬ愛」を誓ったり、次から次へと矛盾した言い訳を並べ立てたりする、そこらの男と全く同じです。万事に超然とした“覚者”の姿など、どこにもない。このあたり、彼はふつうの男だったわけです。超がつくほど、その方面で「おくて」だったとは言えるとしても(心理学者ユングとその取り巻きの女性たちとの情事の話も有名ですが、プレイボーイのユングの場合はそこらへん、“女あしらい”が非常に巧みでした)。
 これがサラリーマンだったり、デザイナー、実業家、政治家等々だったりした場合には、別にさして問題ではないわけです(週刊誌の類は騒ぎ立てるとしても)。問題は、彼が高度な宗教的教えを体現する“世界教師”とみなされていたことにあって、「私には葛藤が全くありません」などと澄まして言いながら、日常においては恐怖や不安、葛藤にしばしばさいなまれていたという、その甚だしい言行不一致、偽善にあるわけです(何であなたはそんなに嘘をつくのかとロザリンドに問われて、「恐怖から」と彼は答えています)。言っていることと、やっていることの落差があまりに大きすぎる。自分の思い込みに支配されて人の感情が全く読み取れなかったり、他人のことは手厳しく批判するが、自分のおかしなふるまいを批判されるとすぐ感情的になって怒り出す彼のあられもない姿も本書のあちこちに出てきますが、こういうのは全部、そういうことは自分にはないと彼が言っていることばかりです(こういう話を著者があえてでっち上げる必要があったとは、僕には思えません)。
 本の終わりの方に、著者ラーダとのこんなやりとりが出てきます。その箇所をそのまま引用すると――

 「ある日、タネッグ山荘の上の丘をクリシュナと散歩していたとき、なぜあなたは四十年近くも全く同じ話をしてきたのに、まだ話し続けるのですか、と私は突然彼にたずねた。
 『もしも皆があなた[の言葉]を文字どおりに受け取り、注意深く耳を傾け、あなたが言っていることを吸収するなら、彼らは、追随者になりたいと思うのでないかぎり、戻ってくる必要はないでしょう。そして、あなたは追随者はいらないと言っているのです。あなたの聴衆が、本当にあなたの話を聴くことによって消えてしまったら、どうなるんでしょう?』
 『それはパラドックスです』と彼は率直にすぐ答えた。『私は生きるために話しているのであって、話すために生きているのではありません。もしもそれ以上講話がなくなれば、私は死ぬでしょう』
 それなら、と私は思った。彼がより少ない聴衆ではなく、ますます多くの聴衆を必要とするようになることには何の不思議もないと。年老いて弱くなればなるほど、彼はますます多くの聴衆に支えられる必要があると感じるようになるだろう。彼は世界を何度となく回り、使われるのと同じほど早く、力とエネルギーが回復されるよう、全力を尽くすだろう。…」 

 多少の意訳はまじえましたが、「私は生きるために話しているので、話すために生きているのではない。もしもそれ以上講話がなくなれば、私は死ぬだろう」という箇所は、完全に原文どおりです。
 そしてこれは、公式の伝記に現れる彼の言葉とは全く逆です。そこでは、自分の生命は講話をするために維持されている、つまり「講話をするために生きている」のだと語られているからです。
 真実はどちらだったのか? それともどちらも真実で、ここでも「二人のクリシュナ」が別々に語っていたのでしょうか?
 僕には謎です。言いうることは、もしもこの本に語られているクリシュナムルティが彼の真実の姿、少なくともその一面を正しく伝えているのなら、彼の講話の全体は、そうした彼のありようを真っ向から批判するもの(聴衆を自分のつっかえ棒にする話者についての皮肉めいた言葉も、彼にはあります)なので、彼は聴衆にはそうと悟られないまま、手厳しい自己批判――あるいは、自分ができないことへのたえまない願望の表明――を続けていたのだということになります。 
 彼に宿った“何者か”が本当にいたとして、僕はその可能性はあると思いますが、それはその「乗物」とした肉体、“生身のクリシュナ”に対しても容赦がなかったのです。
 だとすれば、クリシュナムルティとは真に謎めいた、不思議な存在です。

 以上、本の中のスキャンダラスな部分ばかり取り上げることになってしまったのでなおさらですが、ここまで我慢してお読みになったクリシュナムルティ読者は、公式の伝記とあまりにもかけ離れた彼の姿に愕然とされたでしょう。
 それは僕も同じなのですが、よくよく考えてみれば、彼の肉体を使っていたとされるあの“超越的な存在”の話にしても、それは物理的に確認可能なものではないので、基本的には彼自身の話に基づくのです(ルティエンスは彼女自身がした「途方もないパワー」の体験について触れていますが)。“プロセス”の際の彼が語る「脳の浄化」についても同じ。本人がそう解釈していたにすぎないという見方は可能です。人間には誰しも「自己神話化」の傾向があるので、それが周囲の人々の共同幻想(歴史上何度も繰り返されてきた、「メシア再臨」を待望する心理から出たもの)と協力して、“クリシュナムルティ神話”を作ったと見ることもあながち不自然ではありません。幻想の特徴は、その中にいる人たちには疑うことが難しいということです。

 たとえば、こういう話はいかがでしょう。僕の額には“第三の目”の痕跡があります。眉間の真上、3センチほど上に、目にも見える、指で触ればそれとはっきりわかるちょっとした窪みがあるのです。仮に僕がオカルト教団の教祖なら、これを利用するでしょう。ある時期、深い瞑想に入ったことがあって、気づいたらこういう変化が生じていた。以来、自分は見ようと思えば人の心の中が見えるが、それは私信を読むのと同じようなはしたないことなので、あえてそんなことはしないのだと(クリシュナムルティも自分にはそういう能力があるが、同じ理由でそれを行使することは差し控えているのだと言っていました)。
 信じやすい人は信じてしまうでしょう。げんに“第三の目の痕跡”らしきものは、そこに存在するのですから。この人は“スピリチュアルな本”を訳したこともある人なのだから、そんなことがあっても不思議ではないと思うのです(実際、知人の中には僕と話をしていると心の中の秘密を暴かれてしまうかも知れないと恐れるこっけな人もいるのです)。
 しかし、事実はこうなのです。自転車の練習をしていた小学生の頃、当時の田舎には子供用の自転車などというものはなかったので、大人用の足が届かない自転車に乗って未舗装の凸凹道を下っていたとき、前輪が突き出た石に激突して、僕はそのまま前に放り出され、頭から落ちたのです。ちょうどそこに、とがった石があって、頭を突き刺した。当然、僕は血だらけになってちょっとした騒ぎになりましたが、髪の生え際のその部分がそのまま小さなハゲとなって残ったのです。
 ところが、中年になって、おきまりの髪の後退が始まって、額の上方のそれは独立した窪みに見えるようになった。僕自身、それに気づいたときは何でここにこんなものがあるのだろうと不思議に思いました。それがあるとき、そうか、これはあのときの跡なのだなと思い当たって、ひとり笑ったのです。
 種明かしをすればかんたんですが、こんなことでもいわくありげなものに仕立てることはできるのです。僕自身が気づかず、誇大妄想的になってそう信じてしまうこともありうる。“スピリチュアルな進歩”の産物だと思い込むのです。

 おまえごときとクリシュナムルティ大先生を一緒くたにするのは無礼であり、冒涜だと怒り出す人もいるでしょうが、僕の言わんとするところは、なかば神話化したクリシュナムルティの超人的なそうした話も、一度疑って洗い直してみる必要がありそうだ、ということなのです。「だまし絵」の原理と同じで、特定の見方をしていると、別の見方をすれば全く別の図柄が見えてくるのに気づかない、そういうことはあるのです。両方見た上で、どちらが妥当かを判断すればいい。
 この本の著者は「彼自身が自分の言っていることを実行できなかったのなら、誰ができるのか?」と問いかけていますが、彼の教えについても同様です。「批判的吟味」は彼の推奨するところでもあるので、僕はその作業をやってみようと思っています。
 それは揚げ足取りや粗探しではない。僕は今でも彼の教えには価値があると思っています。しかし、「本当にすべてわかって言っているのか?」疑わしく感じたので、それを自分なりに調べ直してみる必要はあると、この本を読んで思ったのです。
 若い純粋な読者なら、人物に対する幻滅はそのままその人の思想や教えの全面否定につながるかも知れませんが、幸い僕は自分自身のそれを含む、人間のお粗末さをこれでもかというほど見てきたヒネたオヤジなので、もう少し「中道」的な対応ができるということです(“何者か”が彼を使っていたという可能性も、依然あるにはあるのです)。
 不幸(?)にしてここまで読んでしまったという方も、そのようになさってはいかがでしょうか? この本に書かれたことの多くが作り話だという証拠があれば、僕はむろん喜んでそれを教わりたいのですが…。

シャンカラのBrahmanとクリシュナムルティのthe ground

2011.02.23.18:49

 以下は、シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』(前田専学訳 岩波文庫)と、クリシュナムルティの『時間の終焉』(渡辺充訳 コスモス・ライブラリー)の読後感想文を一つにしたようなものなので、そのようなものとしてお読み下さい。学者的な論述をする能力は僕にはありませんので(事柄の性質上、一部議論がかなり難解になりますが、それは我慢して下さい)。

 シャンカラは、生没年さえ不明ですが、八世紀の人と推定され、三十代の若さで世を去ったと伝えられますが、後世に大きな影響を残し、「インド哲学の主流を形成するヴェーダーンタ学派の中の不二(ふに)一元論派の創始者とされ、しばしばインド最大の哲学者であるといわれている」(上掲書「訳者まえがき」)人です。ナーガルジュナ(龍樹)などと同じく、強力な論争家でもあったようですが、その教説の仏教説との類似から「仮面の仏教徒」という非難を浴びることもあったとのこと(むろん、ご本人には仏教徒のつもりなど少しもありませんでした)。

 この「不二一元論」というのは一般に、いわゆる「梵我一如」、「(個に宿る真実の自己である)アートマンと(宇宙の根本原理である)ブラフマンは同一である」という主張を指すものとされていますが、流派によって「アートマン」とは何か、「ブラフマン」とは何か、その捉え方、解釈には様々あって、そういうことに首を突っ込むとキリのないことになりかねないので、ここではそのようなことはスルーして、根本的に僕に重要だと感じられること、シャンカラの教えの中でとくに僕の関心を引くことについてのみ触れたいと思います。

 シャンカラの場合、通常のこれらの言葉の受け取られ方とは違い、アートマンとブラフマンは完全にイコールです。アートマンはブラフマンの別名なので、これが意味するのは、彼は個別化された「純粋自己」など認めないということです。アートマンがブラフマンに由来するとか、その純粋性、絶対性を分有しているとかいう話ではないので、「私」とか「私の…」という思いがなくならないと、ブラフマンは認識できず、「無明(無知)」が晴らされることはないのです。

 結論から先に言うと、クリシュナムルティがこのボームとの対談集(ときに鼎談になっている箇所もありますが)で言及しているthe ground(訳書では「基底」。尚、これはボームが持ち出した言葉です)とか、the source of all energy(同「あらゆるエネルギーの根源」)というのは、シャンカラのこの「アートマン=ブラフマン」と同一のものと思われます。

 こう言えば、この本の中でもクリシュナムルティは「ヒンズー教徒もまた、この種の観念、ブラフマンが万物である、という観念をもっている」とか、「(人は)『ブラフマンあるいは最高原理は常にあるのだから、あなたがしなければならないことのすべては、自己を浄化し、それに至ることだけだ』と言ってきた」が、「これもまた非常に危険な言明です」などと明確な警戒心を示しているので、よけいな比較を持ち込むなと言う人がいるかも知れません。が、シャンカラのそれは通俗化されたその種の観念とはずいぶん違うので、そもそも彼は、理論のための理論を構築した人ではなく、現実に輪廻(その意味については後述)の中で苦悩する人々を救済しようと、無明ゆえに理解が困難になった「真理」を示そうとしてあれこれ語ったので、元々はすこぶる実践的な意味をもつ教えだったわけです。それをたんなる「観念」にしてしまったのは、後世の人間の責任なので、クリシュナムルティのこうした言葉にしても、そこからクリシュナムルティ神学みたいなものを構想して、無意味な観念体系が作られてしまうこともありうるわけです。クリシュナムルティとボームはこの本の中で、実験室で二人の科学者がある現象なり事実なりを前にして、「こういうことだろうか?」と仮説、説明をあれこれ試し、それはあくまで「試行」なので、必ずしも全部が整合的だとは言えないものになっている(言葉だけを取ると、前後矛盾する場合すらある)のですが、崇拝心からそこで語られている言葉それ自体を絶対的なものみたいにして捉え、かんじんのその現象または事実はそっちのけに、それを細かく理論化して、「信者」にそのたんなる理屈にすぎないものの受容を強制する、みたいなことにもなりかねないのです。

 「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と言ったのは弘法大師空海だそうですが、僕らもそういう態度を失わないようにしたいものです。理論や説明が重要なのではない、それが意味をもつのは、そこで語られている対象が何で、どういう意味をもつか、ということなのです。後者を離れて、前者に意味はない。後者抜きの理論や知識は、むしろ人を真実から遠ざけ、災いをもたらすことになるでしょう。そのようなものは「思考の自動的・機械的な運動」になるより他はないからです。

 クリシュナムルティのそれと同じように、シャンカラのブラフマンについての説明も錯綜をきわめています。それは万物の基底にあって、万物に浸透し、万物に力と動きを与えるものでありながら、自らは不動であり、万物から完全に自由で、全知であり、すべての目撃者、観察者、「主体」でありながら、通常の「主体」意識を全く免れたものであるからです。それは時間・空間を超越したものでありながら、同時に時間・空間の中で働くのです。それは物質宇宙以前に存在し、不生不滅で、かたちをもたないので「客体」としては認識し得ぬものです。

 だから、理論上は「主体」として認識される他はないが、先にも述べたように、通常の主体意識、自己意識をもっていたのでは、これまた絶対に認識できない。限定されたものに無限定なものがわかるはずはないからです。「個別の自己」としてのアートマンがこれを認識するのではない。厳密にはそのようなものは存在しないのであり、そのような「思い違い」そのものがこの認識を妨げるのです。

 この「思い違い」をシャンカラはどう説明するか。岩波文庫本の「訳註」にわかりやすい前田専学氏の説明があるので、少し長くなるのは承知でそれを引用させてもらうと、

「シャンカラは、みずから輝くアートマン、その映像、およびその映像の拠り所としての統覚機能の三者を想定し、その三者の関係を、顔、顔の映像、およびその映像の拠り所である鏡の関係に比している。顔の映像は、顔の形相をしているから、人は鏡に映っている顔の映像は顔と同一であると考えるのと同様に、統覚機能の諸観念は、アートマンの映像によって輝かされているので、いわば知覚主体のように見えるという。換言すれば、縄に付託された蛇のように、アートマンの本性である純粋精神性あるいは知が、物質的にして活動・作用を本性とする統覚機能に付託されるとき、統覚機能は『アートマンに似たもの』になる。そのアートマンに類似した統覚機能は、アートマンのアーバーサ(映像)を宿すものであると同時に、今度はみずから照らすものとなり、あたかも意識と作用とをあわせもつ知覚主体であるかのようにアーバーサ(顕現)する。シャンカラは、アートマンが知覚主体であると説明することがあるが、それはアートマンが知覚活動の主体であるということを意味しているのではない。じつは知覚を本性とするみずから輝くアートマンの映像が、統覚機能の観念に宿っているということを意味しているにすぎない。アートマンはなんら活動・変化するわけではなく、単にありのままに存在しているにすぎないのである」

 この「統覚機能」というのは何かと言えば、シャンカラは場合によって異なる意味で用いることがあるようですが、ここでは一応「その人に生じた知覚や記憶、観念などを一つに束ねる機能」「主体というものを仮想して、それらをそれに帰属させる働き」としておきましょう(仏教の唯識説における「識」をシャンカラはこの「統覚機能」に相当するものと見做していると推定される、とも前田専学氏はコメントしています)。人間の脳にそのような機能があることは明らかだと思われるからです。その中心となっているのが思考の働きです。

 それで「一般世人」は誤ってこの「アートマンに似たものである統覚機能」を「アートマンそのもの」だと思い込んでしまう、とシャンカラは言うのです。「機能」にすぎないものを「実体」視してしまう。「鏡の上の顔の映像」を「顔そのもの」だと思ってしまうのです。その区別がつかない。この同じ箇所の訳註のうしろの方に、「私」のうまい説明が出てくるので、それも引用させてもらいます。

「アートマンの本性である純粋精神が、意識をもたない物質的な、動作を本性とする統覚機能に付託されるとき、統覚機能はアートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。このとき『私はアートマンである』という観念が統覚機能に起こる。この観念が『私』という観念(自我意識)である」

 ついでに、今見たことの補足を兼ねて、本文から少々。

「人は、光に照らされている身体を、誤って発光体である、と見做すように、見者(=アートマン)であるかのように現われている心(=統覚機能)を、『私である』、『見者である』と考える」
「鏡の中にある映像のように、見(=アートマン)の映像を宿している〔統覚機能の〕観念を見て、ヨーガ行者は、『アートマンを見た』と考える」

 むろん、これらはいずれも「錯誤」(シャンカラは「統覚機能の錯乱」「混迷」といった言葉も使っている)だというのです。

 スタンリー・キューブリック監督の有名な映画『2001年宇宙の旅』をご覧になったことがある人は、あの中に出てくる。宇宙船を管理する、ハルという名で呼ばれている高性能コンピューターが自意識を獲得し、強いプライドと自尊心をもつにいたって、みずからのミスを隠蔽するために嘘をつき、乗員を殺してしまう、という話を覚えておられるでしょう。人間の場合も、このハルと似たようなものだということです。機械が自意識をもって「私がある」と考えるのは笑止なことだ、なぜならそれはオレたちがつくったものだからだ、と人間は言います。しかし、人間も自然が生み出したもので、自分がつくったものではないのだから、それが「固有の自己」をもつと自惚れるのは、よくよく考えてみれば実に馬鹿げた話なのです。コンピューターの「知」が人間によって付与されたものであるのと同じく、人間の「知」も、自然によって、シャンカラの言う「ブラフマン」によって貸与されたものにすぎないのです。

 コンピューターは電源がなければ作動しません。人間も生命というエネルギーの供給がストップすれば、死にます。そのあたりも同じですが、コンピューターが電源を自分のものだと思ったり、人間が生命を自分のものだと考えたりするのはこっけいです。

 コンピューターはまた、適切なソフトウェアがなければ機能できませんが、脳も同じで、予めインプットされた基本となる思考ソフトがあるから機能できるのですが、人間のこの「思考ソフト」は主人顔して次々新しいソフトを作り出し、脳を混乱に陥れたり、動作を遅くさせてしまったのです。そうした原因を作った元凶は「私という観念」で、これはその思考ソフトが大昔に作って、哲学・宗教・心理学・オカルト等々の諸理論によって“ヴァージョンアップ”しながら代々引き継がれているのですが、いくら「改訂」してもそれは有益なものにはなりえないので、この「有害ソフト」を除去するのが先決だと、シャンカラもクリシュナムルティも一生懸命説いているのです。

 人間の脳はもとよりたんなる機械、コンピューターではありません。それは洞察力、創造力をもちます。脳の機能の仕方は、そもそもコンピューターとは全く違う。そのことも科学的に解明されつつあります。しかし、そうした洞察や創造は、脳自身や、その中に仮定されている「私」が起こしているものではない。重要なのはそのことです。それは、(ここでは空間的な意味でこの言葉を使うのではありませんが)その“外から”やってくるのです。それは全く非個人的なもので、何らかの“共通の源泉”のようなものがあるのです。それがこのボームとの対談で言われている「基底」であり、シャンカラの言う「ブラフマン」であると、僕は解釈しています。

 精妙で、かたちをもたない、完全無欠なあるものがそこに存在する。それをクリシュナムルティもシャンカラも言葉を尽くして摘示していたのだと思います(ついでながら、僕は“異端の禅僧”と呼ばれる江戸時代の禅僧、盤珪禅師の語録を長く愛読してきた者ですが、盤珪が「不生の仏心〔「霊明な」という形容がしばしば付けられる〕」と呼んでいたものも同じだと考えています)。

 しかし、どうやったらこのことが、つまり、シャンカラの言う「統覚機能」が生きた実体ではなく、たんなる機能にすぎず、思考が生み出した「私観念」に固執しているかぎり、この事実は理解できないということを、人々にわかってもらうことができるのでしょう。科学や技術に関するものは別として、世の常識は挙げてこの「私観念」に基づき、それを自明の前提としているからです。

 ウパニシャッドの「それではない、それではない」という章句は有名で、シャンカラも「人は『これではない、これではない』というような仕方で(アートマンに)到達する」と述べていますが、人間の頭の中に居座った「“私”ソフト」は頑固で、みずからを生き延びさせるために「高次の自己」とか「純粋な自己」「真の私」といった観念を立てて、これに抵抗し、そうした教えを歪めてしまいます。「完全な自己」というイメージをそこに投影してしまうのです。シャンカラ流に言えば、「統覚機能に映った映像(別に像が見えるわけではないので、それはイメージ、観念にすぎませんが)」を「自己」視して、それを「アートマン」だと思ってしまう。そしてそれが「ブラフマン」に由来するものだという理屈を立てて、二つのものを作ってしまう。つまりはどちらもただの観念です。それではいつまでたっても埒が明かないので、そうした「誤った認識(「無明」の同義語として彼はこの言葉を用いていると前田専学氏は注釈しています)」を打ち破れと、彼は教えるのです。

 こういうことは禅の場合などでも起こるので、たとえば『臨済録』の中に「赤肉団上有一無位真人」という有名な言葉があります(赤肉団上に一無位の真人有って、と読む由)。岩波文庫本の訳者の入矢義高氏は、不幸にして、この「無位の真人」という言葉は「臨済禅のトレードマーク」のような受け取り方をされてしまった、と言います。それでほぼ同時代の玄沙師備から激しい批判を浴びることになったそうですが、それはこの言葉が勝手に一人歩きを始め、「観念」化してしまったからです。それは臨済が意図したことではなかった。『臨済録』の「解説」から引用させてもらうと、

「しかし実は本文で読まれるとおり、臨済自身はこれを直ちに『什麼(なん)の乾屎橛(かんしけつ)ぞ』と、一撃で叩きこわしている(引用者注―乾屎橛というのは「乾いた棒状の糞」のことだという)。彼は決して『無位の真人』を内在の主体者として措定したのでもなく、上述の玄沙が批判するような『主宰』者に仕立てたわけでもなかった。『自信不及』の修行僧たちに活を入れるための便法として、これを仮設したにすぎない。彼自らも言う。『わしが外に法はないと言うと、皆はその真意を理解しないで、今度は内に求めようとする』、『外にも法はない、内にも得られはせぬ』と。『仏もなく、法もなく、証することもなし』とする究極の空観に彼は立つ以上、もし何らかの主宰者を己れの内に立てるならば、それはいわばウルトラ仏の内在を自ら認めることにほかならない。それは忽ち『仏魔』と化して、こちらを金縛りにするであろう。『仏を求め法を求むるは,即ち是れ地獄を造る業なり』。〈無位の真人〉を臨済禅の代名詞とすることは、たれよりも臨済その人の最も忌むところであろう」

 だからこれは、別に「無位の真人」という「真の私」を自覚せよとか、そういう意味では全くないということです。「一種の善巧方便から来た用語」(『自己と超越』の中の入矢氏の言葉)が、紙の上に定着されて流布するうちに、観念的な投影を受けてそのように解釈されてしまった。語り手の真意からすれば、「偽りの私」「真の私」などという区別をいちいち立てて、後者の「超越的な自己」に至ろうとすること自体が、「地獄を造る業(実際、辻褄合わせの理屈をえんえんとこね回し続けねばならないのは苦しいことでしょう)」なので、「“私”という観念」から自由になることが、最初の一歩なのです。

 それでこのこと、「“私”という観念」が虚構、シャンカラの言う「認識上の錯誤」だということが本当に理解、洞察されたとしましょう。そうすると、どうなるでしょう? この『時間の終焉』の中でも述べられているように、「死はなくなる」ということです。

 これはむろん、「不滅の霊魂」という観念を立て、肉体が滅びてのちも魂は生き続けるとか、そういった話では全くありません。仏教やヒンズー教には輪廻説があり、その輪廻の担い手が何であるかというのはやかましい議論をひき起こしてきた問題ですが、西洋的なスピリチュアリズム(それはわが国でも多くの信奉者を獲得しているようですが)における捉え方のように、それは望ましいものとは全く思われていなかったのです。そのようなもの(魂であれ念であれ)を「後に残さない」ようにするために、各種の教えが立てられ、修行が行われてきたといってよいので、シャンカラの教えは明確にそれを目的としたものであるし、クリシュナムルティも実質的にそこは同じだと言ってよいでしょう(だから彼は「日々死になさい」と言うのです)。

 それにどんな呼称を与えるにせよ、「自己という中心(マトリックスとしての自己観念)」がなくなれば、魂も「真の私」もなくなる道理です。「無である私」が存在するなどというのは、たんなる形容矛盾であって、屁理屈の最たるものです。「無」にも「空」にも「仏」にも、「ブラフマン」にも、「私」性は全く存在しません。自己観念が粉砕されないと、そうしたものは姿を現さないのです。

 自己という観念が虚構だという洞察が生じて、代わりにそこに「ブラフマン」とか、「あらゆるエネルギーの源泉」とか呼ばれているものがありありと姿を現わしたとしましょう(それは“誰”が知覚するのでも、「経験」するのでもありませんが)。そのものは時間にも、通常の空間にも所属しません。それはこの世界の、三十数億年の生物進化の背後にあるものです。あえてそういう表現をするなら、それは「現象」としての万物の背後にある唯一の「実在」(そういう“観念”ではない!)です。それには始まりも終わりもない。

 先に言及した盤珪は、みずからこういうエピソードを紹介しています。

 江戸のある儒者が次のように質問した。「不生不滅の仏心」が存在する、と仰るのはなるほど尤もなことと存じます。たしかによけいな意識的はからいをしなくても、人間の耳は自然に色々な音を聞き分けるし、目は物を見分け、鼻は匂いをかぎ分け、口は五味の味わいを知り、言葉を語ることができる。しかし、肉体が死んでからは仰るような「仏心」なるものの霊妙な働きは失われて、呼びかけても答えず、そのようなものの痕跡はすべてなくなってしまう。これでは不生とも不滅とも言えないのではありませんか、と。

 これに対して、彼はこう答える。このからだというのは、地水火風(物質的な諸元素)を借り集めた一時的な存在で、だから生滅がある。しかし、(盤珪の説く)一心というものは物質ではなく、一時的にこの肉体を家として宿ったものにすぎないから、肉体がなくなれば、そうした働きも消えるというだけで、そのものが消えてなくなるわけではない。「一心(英語で言うなら大文字のMindまたはthe absolute mindということになるでしょう)は元よりの一心でござるによって、不生不滅」であると。

 論理としては単純そのものですが、この「一心の覚悟(その直接的な感受と体得)」がありさえすれば、何も恐れるものはなくなる、ということです。生滅、すなわち生死は現象の中にだけある、そのものそれ自体には生成も消滅もないということです。

 この場合も、困難は、無意識に「私」がそのものに同一化するというパターンでそれを理解しようとしてしまうことです。「私は自我でもセルフでも、魂でもない、その不生不滅の一心である」というふうに。それではたんなる観念の投影、妄想になってしまう。これはいくら強調してもしすぎることはない点なので、そこから脱け出さなければならない。クリシュナムルティがしばしば「“誰が”そうするのですか?」という反問をするのも、同じ理由によります(この点、『時間の終焉』に付せられた大野純一氏の「解説」は甚だ不可解な印象を与えるもので、「解説」に名を借りたパーソナルな「演説」としか思われません。とりわけp.488以下の説明は本文を読んだ上でのそれとは到底思えないもので、「『個人』などない」と述べられているのに「真の個人」を云々してみたり、「『真の私』の実現」だの、「『私』と感情・情動との分離による『気づき』」だの、まさにその反応パターンこそが問題なのだと、再三にわたって「非理性的」なこととして本文中で指摘されていることを「観察に役立つやり方」だと推奨してみたり、ぜんたい無茶苦茶です。そういうことはトランスパーソナル心理学やユング心理学の理論には「適合」するのかも知れないが、クリシュナムルティの説くところには全く反していると言う他ないので、彼の語るところをそのまま素直に読めば誰にでもわかるはずです。氏がどうしてそういう誤解に落ち込んだまま下手な強弁を重ねるのかという理由は、以前すでに指摘したので、ここでは繰り返しません。それにしても、周到明快な申し分のない「訳者あとがき」がすでにあるのに、何用あってこのような雑駁で混乱した議論を付加しなければならなかったのか、僕には理解できないことです。これこそご本人言われるところの「『私が』『私が』と言ってきた自己主張的な騒がしい『私』」の表われなのではありませんか? いちいち「気づく主体である真の私」などというものを立ててそれに固執するから、本当の「自己への気づき」が生まれないのです。ついでに付け加えると、この本では訳註にも「大野純一註」が勝手に混入されているようで、こういうのも「出すぎた真似」としか僕には思えません)。

 話を両者の類似に戻して、『時間の終焉』で僕が面白いと思ったことの一つは、「時間(心理的時間)」が本当は存在しないと述べられているところです。「時間」と「私」は切っても切れない関係にあります。「私」があるところには必ず「時間」がある。平たく言えば「私」とは「時間」です。自己観念そのものが「時間である思考」の産物です(大野純一氏流の「『私』が『偽りの私』を脱して『真の私』になる」といった図式がクリシュナムルティの説くところに反するのも、それは「なること[becoming]」の一つのヴァリエーションにすぎず、「時間の内部にある」からです)。通常の場合、人生とはこの「成るプロセス」です。今はこれ、次はあれ、というふうに、たえず人は何かになろうとする。somebody(ひとかどの人間)になろうとすることだけでなく、自分を浄化し、nobodyになろうとすることも同じなのです。そこを履き違えてもらっては困る。たとえば、禅の修行者は「無」に到達しようと悪戦苦闘します。そのプロセスで、その「到達しようとする」ことそれ自体が含みもつ矛盾に直面し、行き詰まり、そこにある“何ものか”(悟ろうとする「私」とそれが投影する理想)が瓦解したとき、そのときにのみ、洞察が起こるのです。

 これとシャンカラの教えがどう関係するのか? それはシャンカラの「輪廻」の理解が、これと非常によく似ているからです。

 前田専学著『ヴェーダーンタの哲学』の中の解説を参考にさせてもらって、そのあたりを説明すると、通常理解されている輪廻は、「生・死を特徴とする輪廻」で、「時間的・空間的に、現在と現世に限ることなく、過去・現在・未来の三世にわたって、神・人間・畜生・餓鬼の各世界を、つぎつぎと経巡る輪廻」です。

 ところが、シャンカラはそうしたものをほとんど問題にしていない。彼が問題視するのは、「専らこの現在の生存を場とする、現在の生存の中で経験される輪廻」なのです。それはクリシュナムルティとボームが話し合っている、「時間に囚われた、縛られた生」と同じものを指しているのだと言って差し支えない。それも「輪廻」なのです。

「一般に、『輪廻』と言う場合には、前者が意味されている。しかし、『ウパデーシャ・サーハスリー』の作者の関心は、ほとんど全く後者の内在的輪廻に向けられ、『ブラフマ・スートラ』およびその注釈に見られる死後の運命などは全く無視されている。シャンカラの真の関心は、人間の過去や未来(引用者注―前世・来世のこと)ではなく、現実に苦しみ悩んでいる人間の救済にあったと見ることが出来るであろう」(同書p.222)

 用語や論理の組み立ては、むろん異なります。この「現世における輪廻」は、「覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻」「行為の主体であることと、経験の主体であることを特徴とする輪廻」などと表現されます(話がややこしくなりすぎるので説明は省きますが、ここで「覚醒状態」と呼ばれているものは眠っていないときの、通常の意識状態を指すものにすぎません)。

 要するに、「私という主体」が存在すると思い込んで、この「主体」が「行為(=業)」し、それに対する他からの反応にさらに反応し、好悪様々な感情を生起させ、そこからさらに行為し、それに対するリアクションに「私」がまた反応する…という葛藤と混乱に彩られた絶えまない循環が「輪廻」なのです。そこにはつねに「行為主体」「経験主体」である「私」が存在する。それはクリシュナムルティとボームが述べている「時間の中の運動」そのものなのです。

 その“根”がどこにあるかをよく自覚していなければ、「悟った私」はそういうものから自由である、などと言っても無駄です。実際にはそのような人は反応し続けているのであり、そうした自己の反応に無自覚・鈍感になり、自己欺瞞が深刻化し、「暗黒」がさらに深まったにすぎないのです。愚劣な自惚れだけよけいだと言わねばならないでしょう。シャンカラが言うように、「アートマンを、『私』という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である」からです。

 類似の言及は、この『時間の終焉』のあちこちにも見られます。「『私は到達した』という意味での自惚れ」「『永遠なるものが自分の内にある』と思い込む」危険、「自分の中に神がいる、何か超人間的なものがある、つまり、中身を超越しているので、中身に働きかけたり、中味とは関係なく機能することができる、何かがあると認める」危険等々。「真の私」などというものを妄想(失礼!)し続ける人は、こういう言葉を“重く受け止め”ねばならないのです。そういう“生悟り”ぐらい危険で有害なものはないからです。

 要するに、変化・生成する「私」、時間の中にあり、「時間」そのものである「私」、そうした「私」の担う生のありようが即「輪廻」だというのが、シャンカラの教えだということです。当て推量の「死後の運命」のことではない。それは「暗黒」であるとクリシュナムルティは言いますが、シャンカラも同じ言葉をそれに与えるのです。それが「無知」であり「無明」です。そして彼らはどちらも、そうした生存のありようからの「出口」を指し示そうとしていた。でなければ「正気の人生」はありえないと確信していたからです。

 『時間の終焉』の中でも、「ヴェーダーンタ」という言葉は元来「知識の終わり」を意味すると、何度か触れられています。「知識の終わり」とは「『私』の終わり」でもあり、「時間の終わり」でもあります。「私」とは畢竟、「知識(記憶・観念の堆積物)」に他ならないからです。それは終わらねばならない。終わるべき必然性を、シャンカラもクリシュナムルティも、様々な角度から説いています。それが人から生きた感受性、ヴァイタリティを奪い、「あのもの」の認識と、そこから来る洞察を妨げているのだと。が、私たちの「私」にとってそれは脅威であり、恐怖なので、何とかそれを「私」と共存させようとして、そうした教えまでをも「心理的知識」(クリシュナムルティ自身が使っている言葉)に貶めて、“不能化”してしまうのです。「真の私」などというものを、あたかもそれだけは別であるかのように立てるなどして。

 しかし、本当に聞く耳をもつ人は、言葉の真の意味で正直で、全身で傾聴するすべを知っている人は、何か全く違ったことがわが身に起き始めるのをどこかで経験(他に適切な言葉が見当たらないので、この言葉を使う他ありませんが)するのではないでしょうか。それは何かの反応の悪い機械をいじっていて、ある拍子にカチッと音がして、スイッチが入り、起動し始めるのと似たようなところがあるかも知れません。それは人生の一大事に遭遇し、それに対応するのに必死で、自分のことなどすっかり忘れ去っていたある日に、青天の霹靂のごとく、突然どこからか降ってくるような、あるいは、苦悩の果てに重いうつ状態に陥り、自己が膿み破れるかのようにして生じる“突破”体験のようなものとして訪れるかも知れません。いずれにせよ、それは類型化も公式化もできないもので、また「期待」しているときには、決してそのようなことは起きないでしょう。

 そして、そのようなことが何か起きたとしても、それは事の始まり、端緒でしかないと僕は思いますが、驚くべきことは、それは誰にでも起きうるということです。それがシャンカラやクリシュナムルティのような宗教的天才(あるいは生物学的変種)にしか起きないことなら、彼らの言うことには何の意味もないが、そうではないと信じられる理由はいくつもあるのです。

 その理由の一つは、彼らの本がそこにあって、たんなる知的アクセサリーや、スノビズムのためでも、自己の権威付けのためでも、評論家気取りになって能書きを垂れるためでもなく、虚心・真剣に読んで理解しようとする、それを「鏡」として自己を深く吟味し、「根底的変容」の必要性とその深い意義を感得する人が、少数でもつねに存在するということです。そのような人たちが、それでどうして何も変わらないということがあるでしょう。それが心からのものなら、あの「それ」(そういう言葉がボームの言葉として出てきますが、ウパニシャッドの「汝はそれなり」という章句は有名です)との感応は必ずどこかで起きるはずです。

 長くなりましたが、僕が書いておきたいと思ったことは、以上です。

 どうすれば「『私』の瓦解」「時間からの自由」が生じるのか、最大の“懸案”だといえるその問題については直接の言及を避けましたが、僕はそれを知りません。それは「方法」を云々できるようなものではないし、起きるときはそのようなものとは関係なしに起こるだろうと思うからです。それは「私」が無用の長物であると知る、その理解の深さ・度合いにもよるのではないでしょうか。

 『時間の終焉』は、クリシュナムルティの次の言葉で終わっています。

「私たちはこれまで長い間話し合い、そして今、どこかに到達したのではないかと思います」

 どこに「到達」するかは、読者のこの本との付き合い方、読み込み方次第でずいぶん違ってくるのではないかと思います。ここで触れたのは、むろん、その中でも議論に関連する範囲でのことにすぎませんが、こういう内容的に目方のある本が日本語で読めるようになったというのは、本当に嬉しいことで、訳者・出版社にお礼を言いたいと思います。

『時間の終焉』を推す

2011.02.12.02:33

 今からちょうど三ヶ月ほど前、見てみたら昨年の11月13日の記事でしたが、僕はここに「お困りネットレビュアーの精神分析」と題した戯文を載せました。それでその最後の方に、「(『英知へのターニングポイント―思考のネットワークを超えて』の)訳者の渡辺さんは(クリシュナムルティの)ボームとの対談集、The Ending of Timeを読み込んでいて、その翻訳を計画しておられると、ずいぶん前に噂で聞いたことがあるので、僕はずっとそれが出るのを楽しみにしているのです。この本は「訳書が出ていない重要著作」の一つなので、ぜひおやり下さい。渡辺さんの訳なら読みやすいものになるはずだと期待しています」と書きました。
 そしたら、こんなに早く出たので、驚いたのですが、その頃はすでに企画は進行していたわけで、だからこんなに早くお目にかかれる運びになったのでしょう。タイミングのよさはさらに重なって、注文して取り寄せようと思った矢先、コスモス・ライブラリー社主、大野純一さんから、先頃手直しを加えた『既知からの自由』の第二刷ができて、それを何冊か送りがてら、『時間の終焉』もご希望なら一冊差し上げます、というメールが届いて、大喜びしました(『既知からの自由』の訂正箇所については、それは幸い『生と出会う』ほど多くなくてすんだのですが、近日中にその「訂正箇所一覧」をここに載せます)。
 僕はもとよりこの本の原書を所持していますが、買ったのは1980年代の末頃で、一度読み飛ばしたきり、二十年以上読んでいない。その頃よりはいくらか理解もマシになっているはずなので、その重要性は認識していたので、きちんと読み返してみようと思いながら、ちゃんとした訳書が出れば、それで読んだ方が経済だし、よくわかるだろうと、そのままになっていました。
 それで、一昨日届くと、すぐに読み始めたのですが、期待にたがわず、よく工夫された読みやすい日本語になっているし、実に実に面白い本です。かかる重要著作(原著は1985年刊)が今まで翻訳されなかったのがあらためて不思議に思われるほどで、これほどクリシュナムルティの教えの核心にまっすぐ切り込んだ本は数少ないと言えるほどです。
 全部読み終えたら感想を書くつもりで、すでに読み終えたのですが、いくらか興奮を鎮める必要が生じたのと、この前、シャンカラについて書くと書いたのですが、それで考えていたこととぴたりと重なる部分があるので、両方からめて書いてみたい。大変な問題を前にしているのはわかっているので、書き切れるかどうか、自信がないのですが、今回はとりあえず、この本は猛烈に面白いので、皆さんお読み下さい、とだけ書いておきます。(先頃、同じコスモス・ライブラリーから出た『アートとしての教育』も、こなれたよい訳だと思います。こちらは小林真行氏の訳。)
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