ミシェル・ロクベール『異端カタリ派の歴史』について

2016.12.07.15:23

 前々回の記事でも少し触れましたが、十日ほどかけて、ひととおりこの分厚い歴史書を読み終えました。それから少し時間がたったので、読んでいる途中書いておきたいと思ったことも半ばは忘れてしまったのですが、そこらへんは思い出せる範囲で書いてみたいと思います(最後に、『偉大なる異端』との内容的異同についても触れるつもりです)。

 こういう本は、研究者かよほどマニアックな歴史好きでもないと全部読むのは難しいと思いますが、カタリ派の歴史に関するエポック・メイキングな著作であることはたしかで、よくぞ訳してくれました、と言いたくなるような本です。翻訳作業は半端でなく大変だったはずで、訳された武藤剛史教授には純粋に頭が下がります。数年がかりのお仕事だったでしょう。訳文も明快そのもので、文化的偉業と呼ぶにふさわしい。出した講談社も立派です。以下は、その講談社の紹介サイト。

異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問

 いくらかでもカタリ派に関する知識のある人には周知のことですが、この異端宗派ほど有名な(西洋では)割にその思想・信仰の内容についての情報が乏しいものも珍しく、著者が「序」に書いているように、「彼ら自身が書いた神聖なテキストとして今日残されているのは、三つの典礼書とふたつの神学理論だけである。これらの書物が重要であることは疑いないとしても、それらが私たちに教えてくれるのは、信仰や典礼のあり方についてだけであり、彼らの内面の歴史については何も語ってくれない」のです。

 だから著者は、「カタリ派信仰のそれ自体としての価値や精神的重要性をどう考えるか、あるいは、この消え去った信仰を哀惜の念をもって思い浮かべるか、それともいまなお断罪の対象とみなすべきか、そうしたことはすべて、ひとりひとりの主観的判断に委ねられている。本書でも、そうした問題にはほとんど立ち入らないつもりである」「私の研究はもっぱら当時の資料にもとづいているが、私自身は、カタリ派を信奉する立場にも、またこの信仰を誹謗する立場にも、あえて立つつもりはない。信奉者にせよ、誹謗者にせよ、彼らは多くの場合、あらかじめ先入観をもって、そのうえじゅうぶんな情報もなしに、想像の中で勝手なイメージを膨らませているにすぎない」として、ストイックな歴史描写に徹する意図を明確にしています。

 それゆえに本書の記述は信用できる(事件の意味づけや人物の評価など、主観抜きに行うことはできないので、「完全な客観性」を求めるのは不可能ですが)と言えますが、カタリ派の思想・信仰の内容についてはほとんど触れられていないので、そういうことを期待する読者は肩透かしを食わされてしまうことになるでしょう。しかし、上記のとおり、カトリックの側からの駁論や異端審問の記録(当然ながら、そこには大きなバイアスがかかっている)を真に受けるのならともかく、その方面に関しては資料自体が極端に乏しいのです(だから、手前味噌になりますが、ガーダムの『偉大なる異端』のような本に盛り込まれた、前世記憶をもつ人たちや「霊界通信」によって得られた情報――それをどう受け取るかは読者の自由に委ねられる――が意味をもってくる)。

 しかし、最初の「序」には、「例外的」にある程度カタリ派思想についての突っ込んだ言及が見られて、そこが面白い。「善神・悪神の二元論」についての著者の理解も示されていて、それはよくある浅薄な誤解には落ち込まない、知的レベルの高さを示すものと言えるので、少し引用してみましょう。

…カタリ派の二元論は、たしかに原理的二元論、第一原理にかかわる二元論であるとはいえ、単純素朴に「善神」と「悪神」を対立させるようなものではけっしてない。もしふたつの原理が力の上で対等であるならば、つまりそれぞれが、価値的にまったく対等の立場で、一方は善において、他方は悪において、互いに自由にふるまうことができるとすれば、それぞれがそれぞれにおいて自足自存していることになり、そこには真の意味における二元論は存在しないだろう。…(中略)…
 たしかにカタリ派信者たちは、悪の原理を「悪神」あるいは「異邦の神」と言ったりするが、それはあくまで言葉の綾であって、ほんとうに神だと考えているわけではまったくない。そもそも、悪の原理に言及する場合、ほとんどつねに「まことの神」と対立させる――『二原理の書』でも何度も繰り返されている――のであって、それはつまり、この悪の原理は神ではない、あるいは偽の神である、ということを言わんとしているのである。「至高にして真実の神」は、唯一ただひとりであって、その唯一性が力強く宣言される。ただし、それは善なる神の唯一性にほかならず、たしかにこの神は唯一の創造主であるが、あくまで「良き創造」の唯一の創造者なのである。この「良き創造」に含まれるのは、純粋に精神的で目に見えないもの、すなわち、天使、魂、そして「黙示録」が語っている「新しい地」と「新しい天」、つまりこの世の非物質的かつ天上的な写しである。それゆえにこそ、カタリ派の文書は、正々堂々と、「私たちは唯一なる神を信じます」と宣言することができたのだ。しかも、「天と地の造り主」という言葉さえ付け加えたのである。


 要するに、グノーシス主義でもカタリ派でも、「悪はなぜ存在するのか?」というところから「悪の原理」は構想されたので、これがどうしてカトリックからすれば「許しがたい異端」であったのかといえば、「この問題についてのカトリック教会の基本的立場は、…神は唯一の創造者、あらゆるものの第一原因にして根本原理、使徒信経によれば、『天と地の』、ニカイア信条〔第一回ニカイア公会議(325年)で作成された信条〕によれば『見える者、見えないものの』、つまりは物質的および精神的現実すべての造り主」であるからなのです。

 カトリックにしても、「人間世界に厳然と存在する悪」は認めざるを得なかったので、彼らはそこから二つの「神話」を作ることになった。一つは「神に反逆した堕天使(これが悪魔となる)」の神話であり、もう一つはその悪魔の誘惑に負けて禁断の木の実を食べてエデンの園を追放される羽目になったアダムとイブの神話で、それが人間の「原罪」なのです。

 しかし、天使も人間も「善なる全能の神」が作り給うたものなら、彼らはどうして「悪に走る」ことになったのか? それは「愚かな天使や人間」の「自由意志」によるものだと言うのですが、控えめに見てもそんなものをつくって、自分に反逆させるなどというのは、「神の悪趣味」以外の何ものでもありません。厳しい処罰を与えるためにあえて未熟な存在をつくったとしか思えないからで、どう見てもそれは「善良な神」のやることではない。処罰や虐待を快とする神なんて、「悪神」以外の何ものでもないことになってしまうでしょう(カタリ派は「愛の神」しか認めなかった)。

 ある意味でグノーシスやカタリ派は、カトリック神学の「痛いところ」を衝いているのです(それについては長くなるので省きますが、「神による創造」を前提とするかぎり、論理的な整合性では明らかに前者に分がある)。これに加えてカタリ派はカトリック教会の秘蹟を全面否認した。これは「神の代理人」としてのカトリックの権威を否定することにつながります。当時のローマ教皇は王侯たち世俗権力の上位に君臨する、いわば「王の中の王」でした。これはそうしたあり方自体、福音書の教えに反すると言えますが、「死後の魂の行方」を決定する者として、その世俗支配力に固執し、「地獄落ちの恐怖」を煽ることによってこれを維持していたのです。カタリ派はカトリックの秘蹟、教義の否定によって思想面でその土台を揺るがすと共に、そうしたローマ教皇を頂点とする権力組織そのものを「キリスト教の教えに反するもの」として批判した。カタリ派からすれば、それは「善なる神」ではなくて、「悪神」、悪魔に仕えるものとしか見えなかったのです。

 これをそのまま放置して、カタリ派が西洋世界全体に広がるようなら、カトリックはその世俗支配権力を失うしかなく、だから激しい弾圧に走ったのは当然だったと言えるのですが、カタリ派を標的として設けられた異端審問はその後も長く続き(その正式な廃止は1821年、と本書にはある。だから17世紀のガリレオもその地動説が「教会が正しいと認める天動説に反する」ということでドミニコ会士に告発され、異端審問にかけられるのを免れなかったのです)、夥しい数の犠牲者を出したにもかかわらず、結局はそれを失うことになった。世界にとっては幸いと言うべきですが、巨大な世俗支配権力としてのカトリックは、新約聖書を素直に読むなら、「逸脱」としか言いようのないグロテスクな恐怖政治の主体となり果て、その異端審問というシステムは、その後「宗教の領域から政治の場に移されることによって、驚くべき復活を遂げた」のです。「おそらく、二十世紀は、とりわけ政治的異端審問が猖獗をきわめた時代として記憶されるに違いない」と著者は述べています。

 同趣旨の記述は『偉大なる異端』の中にもあって、「ヒトラーが情報と中傷的なプロパガンダの普及のためのあらゆる装置を意のままにしたことを思うとき、異端審問の業績は真に印象深いものである。現代世界の秘密警察のいかなる組織も、その偉大な先駆者と原型を正当なものとしてそこに認めることができるのである」と記されています。独裁国家がよく使う「密告の奨励」なども、カトリックが異端弾圧のために案出したものの一つなのです。

 著者ロクベールは、カタリ派に対する「言いがかり」でしかないような誇張された俗説もあっさり否定する。「かつては、カタリ派は閉鎖的なセクトであり、その信奉者たちを世間から、また社会生活から引き離して、彼らに禁欲生活を強い、それを広めることによって、いずれは人類を消滅させることを目論んでいた、などとまことしやかに言われていた」が、よく調べてみると、「私自身もすっかり驚いたことに、そこに見出されたのは、時代と社会にしっくりおさまり、心やすらかに日々を送る、ごく普通の男女であった」というのです(著者も述べているように、こうした「見方の転換」にはデュベルノワの功績が大きかった)。

 カタリ派は自らを「カタリ派」と称したわけではなく、彼らは自らをクリスチャンと呼んでいた(聖職者を表わすパルフェという呼称についても同様。「完徳者」と訳されているそれは、元々は「完全な異端」という意味で異端審問官たちによって命名されたものにすぎず、信者たちは親しみと敬意をこめて「善き人」と呼んでいた)。彼らは権力を求めず、自らも手仕事などの仕事に励みながら、人々を助け、癒すのが使命と考えていたので、ガーダムも言うように、「原始キリスト教徒の復活を自任していた」のです。権威主義的で、官僚的強権的、そしてしばしば腐敗のきわみにあったカトリックの聖職者たちと較べて、カタリ派の聖職者は質素で明るく、民主的で、人間的な魅力があった。でなければ、そもそもあんなに人気を博したはずはないので、逆に言えば、だからこそカトリックはそれに脅威を覚えたのです(素朴な一般信者にとっては神学の差異などほとんどどうでもよかったので、一番大事だったのは聖職者の人柄です)。

 現代的な見地からすれば、カタリ派のカトリック教会の各種の秘蹟の否認も合理的な理由に基づくものばかりで、今ではよほど迷信的な人でないかぎり、カトリック信者でもその「魔術的効能」を信じる人はいないでしょう。端的に言えば、それは迷信にすぎないのです。

 おそらく今の時代では、ことに日本では、「世界の創造」を云々すること自体がナンセンスだと考える人が多いでしょう。著者も言うように、「もし世界が創造されたのではなく、すべては永遠のはじめから存在するとすれば、世界を存在に至らしめた原因ないし原理などはもともとありえなかったのであり、それゆえ、カトリックであれ、カタリ派であれ、キリスト教神学は宙に浮いた空論だということになってしまう」からです。

 要するに、神だの悪魔だのは幼稚な擬人化、自然的な諸力への人間の感情的投影の産物にすぎないということになって、科学によっても「宇宙の謎」はまだ解明されていません(おそらく永遠にそうでしょう)が、偶然の積み重ねの果てに人類も出現したのだから、そういうことを云々すること自体が馬鹿げているという話になるのです。

 それでも「世界は神がつくった」と言う方がまだしも穏当で、「人間の魂は悪魔がつくったこの物質世界に投げ込まれたのだ」というのでは、精神衛生上もよろしくない。グノーシスやカタリ派より、カトリックの方が「平和的」かつ「高級」な感じがするでしょう。

 にもかかわらず、それならどうしてカトリックは長期間にわたってあれほど非道かつ冷酷残忍な行為を働くことができたのか? それは彼らが地上における「神の代理人」であったからで、異端を弾圧、抹殺するのは「正義」だという建前があったからです。彼らは「神の名において悪魔の所業を行う」ことに矛盾を感じなかった。異端信者は「悪魔の僕(しもべ)」に他ならず、彼らを殺したり、地獄の責め苦を味合わせたりするのは「神の栄光を称える」ことと矛盾しないどころか、むしろ「当然の義務」だったのです(とくに十字軍の指揮官、シモン・ド・モンフォールのような男にとっては)。

 ここに皮肉なパラドックスがある。自分の側が絶対的に正しく、善ならば、それに敵対する側は不正で、悪であるということになって、何をしても許されるということになってしまったのです。十字軍にしても、異端審問にしても、ローマ教皇の当初の意図を超えて現場の人間が「暴走」し始め、手がつけられないものになってしまう(そのあたりもこの『異端カタリ派の歴史』には詳しい)のですが、だからといって教皇庁の罪が軽減されるというものではなく、彼らは「悪魔の力を支配のために利用する」ことをあえてしたからこそ、そうなってしまったのです(その「悪魔の力」の由来に関する理論はどうであれ)。

 独善的な信念やイデオロギーに凝り固まった人間や党派が、敵対する人や党派を敵視するあまり、非道かつ卑劣なふるまいをするのは今でもありふれたことで、「普遍的な人間心理」だと言えるかも知れず、だから「善悪は相対的なものにすぎない」という議論も出てくるわけですが、これはある意味で危険な論理です。というのも、観念やイデオロギーに完全に頭をやられてしまっている人間でないかぎり、立場からは自由に、僕らはそこに隠れた悪を認識することができるからです。これは重要な論点です。普遍的な道徳というものがもしあるとすれば、僕はそれはあると思いますが、自らの正義をふりかざして残虐行為に走ることそのものを悪だとする感性が人間にはあって、そういう「相対的なものでない」善があるとするのでなければ、この世の争いや対立は永遠に解決しない。そういう「絶対的」なものは、知性の領域にではなく、ハートの領域にある。女性聖職者を認めないカトリック教会は煩瑣な神学にとりつかれた典型的な男性優位のピラミッド組織で、だからこそそれがわからなくなってしまう陥穽に落ち込んだのだと見ることもできるでしょう。女性や子供には本来自然なものとしてある「人間らしい柔らかな感情(それは根源的な善悪の直観を含みもつ)」が、そこでは息の根を止められて、全く機能しなくなっていたのです。

 その「ハートの領域」とは、魂の、プシュケの領域と言っていいもので、今でも大小様々な犯罪(露見しないものを含めて)の背後には共通して「感情の鈍麻」という現象が観察されますが、それは人間の善性の座がその領域にあって、知性の領域にはないことを示しています。知性は本来善でも悪でもないが、魂が抑圧されて、知性がそれとは無関係に暴走し始めるとき、それは必然的に「悪魔に仕える」ものとなってしまうのです。

 現代文明が「悪魔的」なものになったのもそのためだと思われますが、「魂の救い」をその任務としたカトリックがなぜそういうものになる皮肉な結果を生んだのかといえば、彼らにとっては魂も、その救いも、たんなる「観念」でしかなくなっていたからです。彼らは「神学の高楼」の建設に多忙になったが、そうした「灰色の理論」(ゲーテの『ファウスト』の言葉を借りれば)にかまけ、官僚的な支配組織の中に住まううちに、生き生きとした自らのハートとの連絡は断たれ、その空虚な内面を補償してくれるものは権力か世俗的野心でしかなくなってしまった(彼らがそれを自覚していたとは思えませんが)。そういう人間にとっては「神の愛」なるものもカトリックの教義と組織に従順な者だけに差別的に与えられる「恩恵」にすぎない。だからそれは自らの悪が認識できない「邪悪な巨大組織」へと堕してしまったのです。

 これは現代に生きる僕らにとっても、十分に教訓的なことです。宗教にかぎらず、排他的ナショナリズムや市場資本主義の崇拝でも同じで、科学的ドグマですら、一種の「宗教」となりえるのです。独善的に自らの主義主張が正しいとし、反論を封殺し、力づくでもそれを押しつけ、人々を従わせようとするとき、僕らはそうとは知らないまま、「悪魔に魂を売り払う」羽目になるのです。かつて「神の代理人」を自称したカトリックが「悪魔の代理人」となり果てたのと同じように。

 僕はしばらく前に『チャイルド44』という映画を見て、スターリン支配下のソ連では「楽園(つまり共産主義国家ソ連)には殺人は存在しない」という建前になっていたという話に笑ってしまったのですが、スターリンぐらい「粛正」という名の殺人に熱心だった独裁者も珍しいでしょう。犯罪は「邪悪な資本主義国家特有のもの」で、「楽園」たる共産主義国家にはそんなものは存在しないのだというのは、ブラックユーモアの最たるものですが、思想統制というものが行き着くところは、きまって恐怖政治なのです。建前上「悪」は存在しないが、そういう国家社会こそ「悪の楽園」になるというパラドックスがあるのです。

 これは、「神がつくり給うたこの善き世界」の牧人を自任するカトリック教会が、その教えに反する「悪神の現世支配」を説くけしからん異端を撲滅するために、マフィアも真っ青の「粛正」に励んで、この世に地獄図絵を現出させたのと似ています。それによってかえって「悪神の支配」がリアリティをもってしまうということには、彼らは思い至らなかったのです。

 これを要するに、人間の中には神と悪魔がブレンドされていて、その配合比率は遺憾ながら後者の方がいくらか多いと言えるので、僕らはそれに努めて自覚的であるべきだということです。「権力は悪魔の力と結託する」と言ったのは、カタリ派ではなくて社会学者のマックス・ウェーバーですが、ことに権力欲にとりつかれると、人は悪魔的たらざるを得なくなるのです。

 それを防止するために近代憲法の「思想、信教、言論の自由」はある。洗脳教育の類を排し、オープンな思想表明、言論の場が確保され、かつそれによって不利益を受けないことが保障されているなら、思想統制は困難になって、力づく人を従わせることもそれだけ難しくなる。かつてのカトリックとカタリ派の対立にしても、当初はカトリックも「説得と議論によって迷い出た羊たちを元の囲いに戻そうとした」(『偉大なる異端』)のですが、それが奏功しないのに苛立って、十字軍という暴力に訴え、のちにそれでもカタリ派信仰が一向弱まらないのを見て、今度は異端審問というさらにいっそう陰湿で悪質な思想統制(死刑を含む峻烈な刑罰付きの)に乗り出したのです。「思想的に劣った異端」が「由緒ある正統」に思想戦で敗れた、というのでは全くない。それはカトリック側の政治的プロパガンダにすぎないので、それならそんな非道な暴力に訴える必要は何もなかったわけです。

 似たようなことは今後も起きうるので、そうしたことには注意しなければならないということですが、最後に、『偉大なる異端』との記述の異同についていくらか書いておきたいと思います。これは『偉大なる異端』をお読みになった人には参考になるでしょう(煩瑣なので、以後、色分けはまとまった引用文だけにします)。

 まず、異端審問所が聖ドミニコによって創設されたというガーダムの記述に関しては、訳註で「それは間違いだろう」と書いておきましたが、やはり間違いで、それはグレゴリウス九世によるというのが正しいようです。しかし、ガーダムがなぜそう考えたのか理解するヒントがこの本には出ているので、「伝統的歴史解釈のひとつの流れとして、ドミニコ会が担うこの『審問』創設の起源を聖ドミニコにまで遡らせ、それを彼の拭いえない汚点とする見方がある」と書かれています。ガーダムはそれを「踏襲」していたのです。

 しかしロクベールは、「ドミニコは異端者たちをたしかに〈追跡〉はしたが、〈迫害〉したわけではまったくな」かったとして、こうした見方が濡れ衣だったと述べています。僕はその訳註で、「異端審問官が主にドミニコ会士から登用されたのは事実で、それはドミニコが異端排除にとりわけ熱心だったこととむろん関係する」と書きましたが、これについては「ふたつの理由がある。すなわち、この会の驚くべき発展とその学識である」と述べられています。この会は、「一世代足らずの間に、意欲満々で、戦闘的ともいえる新しい活力をカトリック教会にもたらしたのであ」り、それが教皇グレゴリウス九世のお眼鏡にかなったのです。

 異端審問官の正式な名称は、「異端の腐敗堕落を審問すべく聖座より派遣される判官」だったそうで、その後「任命された者たちは、みずからの任命当初の使命を大きく逸脱し、彼ら自身の召命を裏切ることになる」のですが、とにかく「任命の動機」としては、説教修道士会(他に「説教者修道会」「説教者兄弟修道会」などとも呼ばれるようですが、ドミニコ会の正式名称)がとりわけ狂信的な連中から成っていたから、というわけではなかったのです(彼らはその「熱心さ」の裏返しとして、元々そうなる素質を隠しもっていたのだと解釈できなくもありませんが)。著者には『聖ドミニコ 黒い伝説』という未訳の本があるようですが、ここの記述からして、それはそうしたドミニコの「悪い評判」に対して同情的なものになっているのでしょう。

 もう一つ、『偉大なる異端』ではいかにも性格が悪そうな「悪役」として登場するフランス王ルイ八世の未亡人ブランシュに関しても、僕は読んで驚いたのですが、「いとこのレモン〔七世〕にたいしてある種の尊敬の念、さらには愛着の気持ちすら抱いていた」のだとされる(つまり両者は近い親戚だった)。フランス軍による派手な破壊工作は、ブランシュがそれを知らなかったはずはないとしても、彼女の命令というより、副王であるアンペール・ド・ボージュが指揮してやらせたことだったのです(その目的は「レモンを交渉の席につかせる」ことにあった)。王太后ブランシュは、「ルイ八世存命の頃の厳しい政略からはかなり後退し、…レモン七世の失権も、彼の全領地の併合も望んでいなかった」というのです。

 この本を読んで僕はあらためて驚いたのですが、当時の王や領主、貴族間の「政略結婚」の徹底ぶりはすさまじいもので、ほとんどがそれだったようです。「愛のない結婚」をトルバドゥールたちが嘆いてみせたのも無理からぬこと(そのあたりに関しては『偉大なる異端』第十二章参照)。だから姻戚関係が入り組んでいて、ややこしい。時間的にはこれよりだいぶ前になりますが、シモン・ド・モンフォール率いる十字軍と、トゥールーズ伯レモン六世+アラゴン王連合軍との「ミュレの会戦」にしても、ガーダムも言うように、その戦闘における連合軍側の敗北は「カタリズムとラングドックの希望にとっての墓場」となったのですが、なぜアラゴン王がこの戦争に加わったのかという十分な説明はなされていない。「おそらく、彼は北部フランス人が自分の領土のそばまで侵略してくるのを見たくなかったのだろう」で片づけられているのですが、アラゴン王はレモンの「義兄」(つまりその妹がレモンに嫁いでいた)だったのです。彼の参戦が遅れたのは、対イスラム軍との戦いに多忙だったからにすぎない(このアラゴン王の名、ガーダムの本ではPierreⅡとあるのでそのまま「ピエール二世」としましたが、正しくはPedro IIで、『異端カタリ派の歴史』にあるように「ペドロ二世」とするのが正しいようです。ガーダムの本にはこの手の間違いは珍しくないので気づいたところは直したつもりですが、ここも確認していれば事前に訂正が可能だったろうにと残念です)。

 他にもこの「義兄弟」の政治的利益が一致するということなどもむろんあったのですが、それでこの強力な連合軍が成立したものの、十字軍に対して圧倒的に有利に見えたにもかかわらず、アラゴン王はその「向こう見ずと騎士道精神の過剰から、モンフォール軍に無分別な強襲をかけ」(『偉大なる異端』の描写)、途中で落命する羽目になって、予想外のみじめな敗北につながったのです。

『異端カタリ派の歴史』では、このあたりのくだりは「第七章 アラゴン王ペドロ二世――勇み足」と次の「第八章 レモン六世の失脚」にまたがっていて、対教皇との駆け引きなども入って、半端でなく話は長いのですが、その戦闘シーンだけに限定すると、アラゴン王は、ふつう総大将は「後衛あるいは予備部隊にとどまるのが普通」であるのに、あえて中衛に入って、「それでも最低限の用心はしており、自分の紋章を部下の騎士の一人のそれと交換していた」のがかえって裏目に出て、落命するというサエない話になったのです。

 十字軍は王の旗を見つけると、それを持っている騎士に襲いかかった。するとペドロ二世はみずから正体を明かし、自分こそ王だと叫んだ。まさにその瞬間、彼は槍を突き刺され、即死してしまった。入り乱れた戦いのなかで、おそらくは誤って殺されたのだろう。というのも、交渉のさい、優位な立場に立てるし、また多額の身代金を要求できることから、王は殺さず、捕虜にするのがふつうであった。

 ドン・キホーテさながらで、これで流れは一気に十字軍に傾いてしまったわけで、レモン六世にとっては「義兄の蛮勇」にすべてをぶちこわされてしまったかたちです(レモンのより周到で慎重な戦略がアラゴン王の部下に「臆病者のふるまい」としてあっさり斥けられてしまったのは『偉大なる異端』にもあるとおり)。アラゴン王はその配下の武将と共に、その武勇、男らしさをトルバドゥールたち(ちなみに、この本はあくまで歴史書なので、ガーダムが書いているような、彼らの詩のミスティックな意味についての考察などはない)に賞讃されていたそうですが、その代償がこれだったのです。

『偉大なる異端』を訳すとき、調べがつかなかったので、やむなくそのままカタカナ表記にしたfaiditsは、この『異端カタリ派の歴史』では原語と共に「残党騎士」の訳語が与えられている(「異端であるとして領地を召し上げられた騎士」というガーダムの説明は正しい)。彼らがカタリ派防衛軍の中で果たした役割は、この本によれば、僕の想像以上に大きかったようです(表記ついでに言うと、コンソラメントゥム「救慰礼」は、この本では「コンソラメント」となっており、原音では「クンスロメン」だという)。

「なるほど、これはほんとはこういう話だったのか!」とわかったこともあって、マイナーな部分ですが、それも書いておくと、『偉大なる異端』p.98に、1211年の教皇使節との会談で、レモン六世は配下の貴族や騎士たちが「平民服を着て、二種類の肉しか食べてはいけないということまで」要求された、という記事がありますが、これは「肉は週二回しか食べてはならない」が正しいようです。僕もここは「何かヘンだな?」と思ったものの、原文がそうなっているのでそのまま訳したのですが、「二種類の肉」ではなく、「肉は週二回まで」なら納得がいく。前者では懲罰としてはかなり不可解なものだからです。伝承に複数あったのか、ガーダムが誤読したのか、どちらかだったのでしょう(「平民服」の箇所も、『異端カタリ派の歴史』では「苦行層に倣い、粗末な袖なしマントを着る」となっている)。

 こういう細かい異同は他にもあって、有名な「ベジエの虐殺」についても、「皆殺しにせよ!」発言は、「シトー修道院代理の教会活動家」ではなく、シトー大修道院長アルノー・アモリーその人の「直接発言」だったと、『異端カタリ派の歴史』には書かれている。要するに、事はいっそう悪質だったということです(この高名な大修道院長は、その世俗的な野心と強欲のために、協力関係にあった十字軍の指揮官、シモン・ド・モンフォールとも後に対立する。「公正」でつねに冷静な著者ロクベールも、モンフォール以上にこの人物には強い嫌悪感を抱いていたように読めます)。

 異端審問の陰惨さに関しては、僕の印象では、『偉大なる異端』に書かれている以上にひどいという感じなので、読者はあれに誇張はないと思っていただいていいと思いますが、十字軍にしても、異端審問にしても、事態がおそろしく入り組んでいたのはたしかで、教皇、現地司教、異端審問官、諸侯、フランス王(途中まで十字軍への参加を拒んだが、代替わりして関与し始めると、こちらが主役になり、完全な侵略戦争の様相を呈した)などそれぞれの勝手な思惑が入り乱れて、醜怪きわまりない歴史絵巻が展開されることになるのです。「問題なのは、カタリ派ではなく、あんた方の方だろうが」と言いたくなるほどで、『偉大なる異端』には描かれていないレモン七世のその後についても、結局は失敗に終わる彼の失地回復を目指しての権謀術数には、同情するというより、そのしつこさに呆れるのです。

 こうやって書いていくとキリがないので、これぐらいにしますが、概してガーダムの歴史記述は簡略にすぎるとしても妥当なものだと言えると思うので、有名なモンセギュール攻防戦に関しても、落城の際の二週間の猶予の意味、「カタリ派の財宝」などについての解釈(両者の違いはそこに稀覯原稿の類が含まれていたかどうかが一番大きい)は異なりますが、それはどちらが正しいかは決められない部類のものです。

『偉大なる異端』で手薄な部分は『異端カタリ派の歴史』に詳しく、一方、後者で手薄な思想方面の記述は前者に詳しい、ということで、僕としては両方読んでもらえるといいな、と思うのですが、オカルトが入るとアレルギー反応を示す人は今でも少ないことからして、両者が書店の同じ棚に並ぶことは少なく、両方の読者が重なることもあまりないでしょう。このブログ記事がその垣根をこわす役に立ってくれればいいがと思って書いてみたのですが、「昔の外国の異端宗教の話なんて興味ないので、どちらも読みません」と言われかねず、それが一番痛いところです。
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カルトに使役される政治~菅野完著『日本会議の研究』雑感

2016.06.03.16:21

 先に少しよけいな前置きをさせてもらうと、英語のcultとカタカナ語としてわが国で流通している「カルト」は、必ずしも同じ意味ではありません。「カルト」をグーグルで検索してみると、一番上に次のような定義らしきものが出てきます。

カルト 特定の対象を熱狂的に崇拝したり礼賛したりすること。また、その集団。異端的宗教。「―教団」

 実は先頃、このカルトという言葉をどう表記するかで、出版社との間でいくらかやりとりがありました。それは入稿も済んで、今月下旬には発売予定のアーサー・ガーダム著『偉大なる異端』という本に関してですが、その中にcultという言葉がかなりの回数出てくるのです。僕はそれを、たとえば「ミトラのカルト」という具合に、多くをカタカナで表記していました。これは古代ローマ時代に栄えた「ミトラ教」または「ミトラス教」という宗教のことで、「ミトラのカルト」とはだから、「ミトラの教団」ぐらいの意味なのですが、わが国ではカルトと言うと、「反社会的な傾向をもつ、偏狭かつ異常な宗教または宗教まがいのセクト」というニュアンスが強いので、そこらへん勘違いされるおそれがある、ということを出版社側は懸念したようです。

 なるほど、ということで、「教団」の他「宗派」という言葉を使ったり、稀に「祭祀」とする方が適切な場合もあったので、そこはそうしたりと工夫を加えたのですが、多くの場合、原著者が使っているcultにはネガティブな意味はないのです。それをそのままカルトとした僕にも、そんなつもりは少しもなかったのですが、英語でも日本語のカルトと同じ意味で使われる場合はむろんあって、むしろその用法でのcultばかりが紹介されたので、わが国ではカルトといえば、冒頭の定義のようなものだと思われるに至ったのでしょう(上の定義の最後の「―教団」という言い方など、これは「カルト教団」ということなのだろうから、「カルト・カルト」となって、英語では成立しない表現です。和製英語には時々こういうヘンテコなものがある)。

 さて、『日本会議の研究』の話です。宗教や、カタカナ語のカルトまがい集団と政治権力が結びつくのは危険なことで、歓迎はしかねると、良識のある人なら誰でも思うでしょう。戦前の日本にはそうした性質が濃厚にあった。天皇を現人神(あらひとがみ)として崇拝させ、その現人神は無謬であるから、それを上に戴くわが日本帝国は「ただしき神国」で、民は「滅私奉公」の精神でこれに従うべし、とされたのです。

 国民にそうした洗脳教育を施し、美濃部達吉の「天皇機関説」のような、天皇制と民主主義的な政体を両立させようとする穏健な思想までをも「不敬」として激しく非難し、結果として天皇大権の名の下、軍部の暴走を許してしまったことが、日本人を民族絶滅の瀬戸際まで追い込む、あのような不幸な結果を招いたのです。

 僕には「基本的事実」と思えるこうしたことですら、今は「自虐史観」にすぎないと全面否定する向きがあるようで、そういう勢力が「戦前復帰」と「押しつけ憲法廃棄」こそが「美しい国」への道であると本気で信じ、それに親和的な政権を必死にバックアップし、「先祖返り」を目論んでいるということになれば、もはや笑って済ませることはできないでしょう。

 かねて僕は安倍晋三とその取り巻きには生理的な「気持ちの悪さ」を感じていました。その妙な尊大さと独善性、「美しい国」だの「英霊のみたま」だのといった、時代がかった美辞麗句をやたら使いたがるその面妖さは、キリスト教原理主義団体をバックにもち、自らもその熱烈な信者であったあのアメリカのブッシュ・ジュニア政権を思い起こさせます。ブッシュは「神のお告げ」によって大統領選立候補を決め、それをキリスト教原理主義団体(規模は大きいが、その硬直性、狂信性からしてカタカナ語の「カルト」以外の何ものでもない)の指導者に話して大いに励まされ、組織を挙げて応援すると、強力なバックアップを約束されたと言います。世界にとっては迷惑以外の何ものでもなかった、ブッシュが始めたあの二つの無用な戦争も、彼のお粗末な脳髄の中では神聖な、一種の「十字軍」戦争だったのです(軍産複合体にとっては、自分たちの利益にかなう好都合なものだったからこそ、それに協力したのでしょうが)。

 安倍政権にも似たような「カルト臭」がある。菅野氏のこの本によれば、そのあたりの僕の嗅覚は正しかったということになるのですが、僕はその背後にあるのは戦前的な「国家神道」の類だろうと思っていました。この点は少し外れていたようで、安倍応援団の中心的存在と言える「日本会議」には神道系の団体がたしかにいくつも含まれているが、実質的にそれを仕切っているのは、源流を辿ると、70年代の「生長の家」学生信徒団体に行き着く、「一群の人々」(魚住昭氏が使った言葉)だというのです。

 生長の家? それは「谷口雅春が1930年に創設した強烈な反共意識にもとづく右派的な教義を説く宗教団体」(同書より)のことです。教祖・谷口は「戦後、公職追放となった」ものの、それが「解けた直後から『明治憲法復活』『占領体制打破』をスローガンに積極的な言論活動を展開し、『愛国宗教家』の異名を持つほど」になったのだとのこと。

 何でもこの宗教団体にはかつて、信者の子弟からなる「生長の家学生会全国総連合」というのがあって、それが結成されたのが1966年。「70年安保」の少し前で、左翼学生運動の高まりとぶつかって、当時は左翼が圧倒的に優勢だったが、長崎大学では「生長の家学生信徒たち」がその左翼を排除して、大学の「正常化」をかちとることに成功したのだという。彼らはそれで右翼「民族派学生のなかで一躍ヒーローとな」ったのですが、その後結成された「長崎大学学生協議会」の議長が、誰あろう、あの「日本会議」事務総長であり、日本会議を実質的に仕切る「日本青年協議会」会長である、椛島(かばしま)有三その人なのです。

 そして、「安倍首相の筆頭ブレーン」とされる「日本政策研究センター」なるえらく“客観的な”名称の民間シンクタンクの代表、伊藤哲夫も、こちらは新潟大学の出身だそうですが、元はと言えば、同じく「生長の家」の関係者で、「生長の家青年会の『中央教育宣伝部長』という歴とした幹部」だったのだという事実を、著者の菅野氏は突き止めています。

 まだあります。中国がユネスコに「南京事件」の記憶遺産登録を申請した際、日本政府はユネスコに、それに反対する意見書の提出を行ったが、その意見書を作成したのは明星大学教授・高橋史朗で、外務省関係者は、「高橋教授は保守派の中ではバランスの取れた研究者だ」と言ったそうですが、そもそもがこのセンセイの本業は教育学で、しかも「親学」なる「トンデモ科学の一種」の提唱者(それは一部の議員先生たちには好まれているらしく、「親学推進議員連盟」なるものまで結成されている由)なのです。そうして、その意見書作成の際にも、「南京事件の発生そのものを否定する論調で知られる亜細亜大学教授の東中野修道の著作」を引用していたのだという(これが意見書の信用性を逆に失わせる原因になった)。

 東中野修道? 僕も前にその「南京事件全否定」の著作を本屋で立ち読みして、「よくもこんなもの出すなあ…」と呆れたことがあったので、まともな歴史研究者ならそんなものを引用なんかするはずがない。どこが「バランスの取れた研究者」なのだと笑ってしまいますが、ほんとは安倍政権がそう言わせたのでしょう。そういう困った御仁なのですが、実は早大出身のこの先生も、元は「生学連(生長の家学生会全国総連合)の委員長だった」のです。

 他にも、「安保法案は違憲だ」と大多数の憲法学者が言う中、安倍政権を擁護して、「合憲だ。全く問題はない」と力強くお答えになった日大教授・百地章氏。この憲法学者も、元はといえば「生長の家」関係者で、1969年、「全日本学生文化会議」という組織が「生長の家の学生信徒の運動とその周辺に集まる民族派学生の運動を母体として」結成されたが、「この結成大会の大会実行委員長を務めたのが、静岡大学を卒業し、京都大学修士課程に進んだ直後の百地章」だったのだという。その後も“親しいおつきあい”は続いているのです。

 だんだん薄気味悪くなってきませんか? 実は最も恐ろしいのはこの先で、最後の「第六章 淵源」には、決して表には出てこない、すでに見てきた人たちより上に位置する「一人のカリスマ」が登場します。著者は、誰かそういう人でもいなければ、五十年近くにもわたって反左翼の「一群の人々」を一つに束ね、運動を持続させることはできなかっただろうと考えて、それを探すのですが、それらしき人物に行き着くのです。むろん、これも昔の「生長の家」関係者(長崎大出身)なのですが、僕はこの人物の描写を読んで背筋に冷たいものが走るのを感じました。この人物をモデルにすれば、ドストエフスキーの『悪霊』を超える作品が書けるでしょう。

 著者の菅野氏がここを書くには、大きな勇気が必要だったのではないかと思います。僕の見るところ、この本の著者は、相当に肚の据わった人です。ネトウヨの類はもちろん、ヤクザに脅されたぐらいではびくともしないでしょう。しかし、どんな度胸のある人でも、この最終章に出てくるような人間だけはこわい。見た目には申し分のない紳士で、同時に強力な磁力のようなものをもつカリスマ、「信念の人」であるが外見は柔和そのもので、「奇跡を起こす」力までもつと信じられているが、敵を倒すには手段をえらばない裏工作の達人でもあって、何か底冷えがするようなものを心に隠し持っているのです。その「力」が神から出たものか、悪魔に由来するものなのかは常人にはわからない。そのあたりの消息を、過不足のない描写で、著者はうまく伝えています(高齢なので、今現在も大きな影響力をもっているかどうかはわかりませんが)。

 著者が途中で断っているように、今の「生長の家」本体は、久しい以前に政治運動から手を引いて、著者言うところの「『エコロジー左翼』とでもいうべき路線を採用」しているので、ほとんど無関係と言えます(僕も「成長の家の出版社」である日本教文社から訳書を一冊出してもらっている)が、「生長の家原理主義」とでも言うべき勢力が、今の安倍政権を背後で操っているというのは、今見たところからだけでも十分頷けます。「『日本会議国会議員懇談会』に所属する国会議員が第三次安倍内閣の全閣僚19名に占める割合は8割を超えて」いて、「公明党出身の閣僚以外はほぼ全員が、日本会議国会議員懇談会に所属している」という異常な状態も驚きです。

 熱烈な安倍シンパの、よく右派マスコミに登場する文化人も、大方は「日本会議」関係者です。たとえば元日テレ「きょうの出来事」の「ごきげんよう」キャスター、櫻井よしこ氏は実に色々なところに出てきますが、「美しい日本の憲法を作る国民の会」の三名の共同代表の一人です。本書の著者によれば、この会も日本会議の「別動隊」で、「事務局長をつとめるのが、日本会議の事務総長である椛島有三であるのをはじめ、役員のほとんどが、日本会議の役員と重複する」ので、「ズブズブの関係」と言ってよいでしょう。

 ついでながら、僕は先日、本屋で『正論SP 高校生にも読んでほしい そうだったのか! 日本国憲法100の論点』(産経新聞社)というのを見つけ、買ってみました。中身は大方察しがつくが、こんなものを無知な高校生が買って読み、おかしなことを信じ込まれては困るので、万が一に備えて、「洗脳解除」用に目を通しておくことにしたのです。

 果たして相当呆れたシロモノで、どこかで執筆の機会でも与えてくれば、「お笑い憲法改正講座」というのでも連載して、どこがどうおかしいかを徹底的に指摘して、笑いのめして差し上げたいのですが、冒頭に「論文執筆者」と「講師紹介」の一覧が載っていて、それがこの本に登場する学者・文化人と重複することが多いのには一驚しました。

 巻頭言は「なぜ日本国憲法ではダメなのか」と題された、櫻井よしこ氏の「日本会議」的メンタリティ丸出しの道徳的お説教、続くのはケント・ギルバート氏の「米国人から見た憲法議論の不毛」という、馬鹿の一つ覚えみたいな新味ゼロの押しつけ憲法論と、「9条のせいで海外の日本人の命が失われる!」といった珍論のオンパレード。このケント・ギルバートは本書『日本会議の研究』にも出てきて、「2015年11月10日、日本会議が主導する『美しい日本の憲法をつくる国民の会』は、『今こそ憲法改正を! 武道館一万人大会』と称する集会を開催した」のだそうですが、そこに例の百田尚樹らと共に、ゲスト・スピーカーとして招かれたのです。来場者はほとんどが日本会議会員の各種宗教団体が組織動員した信者たちだったようですが、そこで「(九条を堅持するのは)怪しい新興宗教の教義です」とやった。著者はこれを評して、次のように言います。

「ケント・ギルバートの発言は、彼がモルモン教の宣教師として来日したことや、当該発言が崇教真光や霊友会や佛所護念会教団の動員によって占められる聴衆に向かって発せられたことを考えると、『2015年おまえがいうな大賞』でも授与したいところだ。」

 たしかに…。しかし、彼らの特徴は、ユーモアには不可欠な「自己の客観視」が欠落しているところにこそあるのです。それが自己欺瞞の強すぎる真面目人間や、カルト信者、狂信的な「愛国者」たちに共通する特徴なのです。

 こういう団体、「一群の人々」が壟断(ろうだん)する今の日本政治と、それを恐れてロクにものも言えなくなっている今のマスコミのありようは恐ろしい。あの「電波停止」発言の高市早苗など、僕はいつも彼女の妙な具合に据わった目つきと、口許に浮かんだ薄笑いを見て、カルトの女性幹部にはよくああいう狐つきみたいな顔をした奴がいるよな、と思うのですが、ああいうのが重要閣僚の一人なのですよ。トランプが大統領になったら、アメリカに貸し出してやったらどうかと思います。

 女性閣僚ついでに言うと、安倍が「後継候補」と思っているらしい「トモちん」こと、政調会長の稲田朋美。シンゾー、トモちん、と呼び合う仲なのかどうかは知りませんが、彼女もこの本にはしっかり登場していて、「ダイジェスト 第6回東京靖国一日見真会」という動画(これは「谷口雅春先生を学ぶ会」なるものの集まりだそうで、しっかり「靖国」とも結びついているのです)に登場して、「祖母から譲り受けた」という戦前版の成長の家の経典、『生命の実相』を掲げて、「『ボロボロになるまで読んだ』と語っている」のだという。してみれば、彼女も「生長の家原理主義者」の一人なのか? それでこの「ダイジェスト 第6回東京靖国一日見真会」でグーグル検索してみると、ちゃんと彼女が出演する動画が出てきました。その通りのことを言っているし、両親も正式な信者だったかどうかはともかく、『生命の実相』の熱心な読者で、谷口雅春を崇拝していたらしいこともわかり、この右翼宗教家の影響力が世代を超えて及んでいることがよくわかるのです。ついでに彼女の公式ブログを見てみると、最新の記事が「関東一都七県神政連協議会『時局研修会』に出席」(5月30日)となっている。この「神政連」というのは、「神道政治連盟」のことです。

 要するに、彼女は紛うかたなき「復古主義政治家」であるということです。戦前回帰は安倍晋三だけではない、今の自民党の政治家にはそれは少しも珍しいものではなくなっているのでしょう。

 むろん、政治家が宗教団体と親しくすることには、その強固な組織票が目当て、ということもあるでしょう。しかし、こうまで大っぴらにその関係を示すということは、以前ならそれで一般票が逃げるという心配をしていたのが、今はそういう懸念はないということなのでしょう。祭政一致のカルト政治は、すでに現実のものとなっているのかも知れません。

『日本会議の研究』には、「安倍晋三の筆頭ブレーン」伊藤哲夫率いる日本政策研究センターの「最終的な目標は明治憲法復元にある」ことを示唆する箇所があります。センター主催のセミナーで、ある参加者が「我々は、もう何十年と、明治憲法復元のために運動してきたのだ」、だから改憲では手ぬるい、趣旨の発言があり、それに対してセンター側が「いきなり合意(明治憲法復元の)を得ることは難しいから、合意を得やすい条項から憲法改正を積み重ねてゆくのだ」と回答した、というのです。

 これは相当不気味なやりとりです。先の稲田朋美のビデオにも、法曹関係者の「憲法べったり」を嘲る発言があり、それは会場から多くの笑いをとっていましたが、それはおそらく安倍政権と日本会議、その下の多くのサークルに集う人々がまとう「共通の空気」なのでしょう。左翼は「安倍政権のやっていることは『壊憲』以外の何ものでもない!」と憤るが、「壊憲」こそが彼らの目指すところなのだとすれば、そんな批判は何の効果もない、ということになりかねません。

 むろん、それは国民全体からすればごく一部の人たちです。しかし、話が長くなるのでここには紹介しませんでしたが、本書の記述によれば、日本会議はきわめて巧妙かつ機能的な組織体で、事実上、今の政権を見事にコントロールしている。この本の出現によって状況が変わるかもしれないが、マスコミはそれについては沈黙し、何が進行しているかを、ほとんど国民に伝えてこなかったのです。

 最後に、僕にとって一つ不思議なのは、「日本会議」の資金源はどこにあるのかということです。多くの宗教団体を傘下に収めているとはいえ、暴力団組織のように「上納金」があるわけではないでしょう。それはそれぞれの団体の上層で止まる。日本会議の「一群の人々」は、かつては成長の家に所属していたとしても、今は違う。少なからぬ数の専従者を抱えるこの組織は、財政をどこに依存しているのか? 日本会議は会員を募っていて、会員になるには会費を支払わねばならないから、そうした個人会員と、企業などの法人会員の大口寄付などで人件費・活動費は十分賄えるのか? また、この本によれば、「自発的な民間団体」を装った日本会議の「別動隊」が数多く存在するようですが、「内容が偏っている!」と民放のニュース番組にいちゃものをつける意見広告を新聞(産経と読売)に出した「放送法遵守を求める視聴者の会」なんかも、この別動隊の一つでしょう。そういうことには大金がかかるはずです(それとも産経と読売は「お仲間」だから、タダで載せたのか?)。

 そこらへんも「徹底解明」してくれれば、そこからまた「さらに恐ろしい事実」がわかってくるかも知れません(蛇足ながら、この本には数学者の岡潔の話がちょこっと出てきます。最近その著作の多くが再刊されているようですが、ああいうピュアな人の書いたものまで「政治利用」するのはやめてもらいたいと思います)。

 とにかく、この菅野完氏の『日本会議の研究』は、「戦前回帰」を願うこの薄気味の悪い強力な圧力団体の謎に迫る、出色の一冊でした。発売直後、日本会議の椛島有三事務総長は、版元の扶桑社社長あてに、「個人的に出版停止の申し入れ」を行い、それを知って怒った著者がツイッターでそのことを暴露したことから話題になり、あっという間に初版が売り切れになったというのは皮肉な話で、そういうオウンゴールを連発してくれれば、この面妖な団体が裏で何をしているか、国民ももっとよく知るようになるでしょう。

 著者は元々は「民間企業のサラリーマン」で、その傍ら調査を始めて、ツイッターなどで私的にその成果を発表していたが、それが「ハーバー・ビジネス・オンライン」というウェブメディアの編集者の目に留まり、それがきっかけでそこに記事を連載するようになって、それがこの本になったのだという。一人の気骨あるジャーナリストの誕生を喜びたいと思います。今後の活躍に期待しています。

【追記】アベノミクス「壊滅」が明らかになった今、安倍政権は「消費税増税先送り」を決め、それで支持率低下を防ごうとしているようですが、彼は元々がひどい経済音痴で、ほんとはそんなことに関心はありそうもない。その真の目的はあくまで「憲法改正」で、彼を陰に日に支える「日本会議」のまなざしがさらにその先の「明治憲法復元(しかも神がかり的「愛国」解釈の)」に向けられているのだとすれば、彼を勝たせることがどういう結果につながるかは想像に難くありません。「まさかねえ…」と言って笑っているうちに、とんでもないところに連れて行かれていた、ということになりかねないので、すでに部分的には、彼らはナチスがワイマール憲法を無効化したのと同じ手口を使っている。何を指してそう言っているのかは、もはや説明を要しないでしょう。

韓国の人たちは『帝国の慰安婦』の何に怒っているのか?

2015.12.10.22:00

 延岡の本屋には見当たらなかったので、日本語版をネットで取り寄せて読みました。

 僕には予想したとおり、よく目配りの利いた良書と感じられましたが、この本を読了するには(斜め読みやつまみ食いなら別として)、けっこうパワーがいります。引用された多くの慰安婦の証言など、心が痛まずにはすまないし、問題の性質上、議論はかなり入り組んだものになっているからです。

 最近になって韓国マスコミは相次いで検察批判を始めたようですが、それは「司法ではなく、学界の批判に委ねるべし」というもので、本の内容に関しては「あまり感心できない」というニュアンスのものが多いようです。

 昨日は同書に批判的な韓国の学者たちが記者会見し、「今回の起訴は学問の自由への弾圧には当たらない」と述べたという、次のような共同通信の記事もありました。

【ソウル時事】韓国の学術書「帝国の慰安婦」の著者、朴裕河・世宗大教授が名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴されたことをめぐり、同書を批判する学者らが9日、ソウルで記者会見した。学者らは「原則として法的に刑事責任を問うのは適切でない」としつつも、今回の起訴が学問の自由への弾圧だという批判は当たらないという考えを示した。
 金昌禄慶北大教授は、起訴は国家権力が直接特定の人物を狙い撃ちしたのではなく、元慰安婦の告訴に基づくものだと強調。李信※(※=サンズイに徹のツクリ)成均館大教授は「なぜ起訴するに至ったのか十分に理解し、共感している」と語った。
 会見場には告訴した元慰安婦の柳喜男さん(87)が訪れ、「韓国は法治国家なのに、知識(学問)の自由があるからと勝手なことを言っていいのか。公正に法により審判すべきだ」と訴える一幕もあった。(2015/12/09-17:58)


 どうもよくわからないなと、僕はこの本を読んだ上で思うのですが、それは大方の日本人も同じでしょう。「法的に刑事責任を問うのは適切でない」のであれば、それはやるべきではないので、にもかかわらず今回の場合は「学問の自由への弾圧」でないというのはどういう意味なのか、「韓国独特の論理」だと言われても仕方はないように思います。

 要するに、それだけこの本には韓国内での感情的反発が強く、日本では賞讃の声が多い(左右両極端の人たちからは、それぞれの思惑には合致しないというので非難されていますが)からなおさら腹立たしく感じられるということなのでしょう。しかし、真面目な研究書の内容に関して著者を刑事告訴するというのは、「それでも近代国家か!」という海外からの非難を招く恐れがあって、外聞が悪いから「適切でない」と言わざるを得ないが、感情的にはそれを支持したくなるから、こういう摩訶不思議な言い方になるのかもしれません。

 しかし、この本がどうして「慰安婦の名誉を傷つけた」ことになるのか、多くの書評にもあるように、これは「日本の責任を明確に認めた」ものでもあるし、僕らふつうの日本人にはそうした反応は理解しがたいところがあります。この本を読んで朝鮮人慰安婦の人たちに侮蔑心をもったというような人は、少なくともまともな読解力をもつ人であるかぎり、一人もいないでしょう。むしろそれは読む側をして厳粛な気分にさせるものなのです。

 なのに、一体どうして…と僕には不可解そのものでしたが、どういうところが韓国ではそんなにけしからんと思われているのか、それを知りたいと思って、日本語のものしか読めませんが、インターネットであれこれ批判したものを読んでいたら、拒否感情に理屈がついた感じのもの(そういうものほど過度なまでに「論理的」な外観を装っているのは興味深い)が多かったのですが、ある方のブログに次のような韓国学者たちの声明文が紹介されているのを見つけました。これは僕が読んだ中では一番理性的で、落ち着いた、読むに値するものでしたが、日本のマスコミには出ていないようなので、ここに引用させていただきます。「おきく’s第3波フェミニズム」と題された菊地夏野さんという方のブログで、紹介文からして只者とは思えなかったので、調べてみると名古屋市立大学の先生でした。


『帝国の慰安婦』事態に対する立場

 日本軍「慰安婦」問題について深く考えこの問題の正当な解決のために努力してきた私たちは、朴裕河教授の『帝国の慰安婦』に関連する一連の事態に対して実に遺憾に思っています。

 2013年に出版された『帝国の慰安婦』に関連して、2014年6月に日本軍「慰安婦」被害者9 名が朴裕河教授を名誉毀損の疑いで韓国検察に告訴し、去る11月18日に朴裕河教授が在宅起訴されました。これに対し、韓国の一部の学界や言論界から学問と表現の自由に対する抑圧であるという憂慮の声が出ており、日本では11月26日に日本とアメリカの知識人54名が抗議声明を発表しました。

 私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、私たちは学問の自由と表現の自由という観点からのみ『帝国の慰安婦』に関する一連の事態にアプローチする態度については深く憂慮せざるをえません。日本軍「慰安婦」問題が日本の国家機関の関与のもと本人の意思に反して連行された女性たちに「性奴隷」になることを強いた、極めて反人道的かつ醜悪な犯罪行為に関するものであるという事実、その犯罪行為によって実に深刻な人権侵害を受けた被害者たちが今この瞬間にも終わることのない苦痛に耐えながら生きているという事実こそが、何よりも深刻に認識されなければなりません。

 その犯罪行為について日本は今、国家的次元で謝罪と賠償をし歴史教育をしなければならないということが国際社会の法的常識です。しかし、日本政府は1965年にはその存在自体を認めなかったため議論さえ行われなかった問題について1965年に解決されたと強弁する不条理に固執しています。日本軍「慰安婦」被害者たちはその不条理に対し毎週水曜日にすでに1200回以上も「水曜デモ」を開催しており、高齢の身をおして全世界を回りながら「正義の解決」を切実に訴えています。私たちは、これらの重い事実を度外視した研究は決して学問的でありえないと考えます。

 私たちは、『帝国の慰安婦』が事実関係、論点の理解、論拠の提示、叙述の均衡、論理の一貫性などさまざまな面において多くの問題を孕んだ本であると思います。既存の研究成果や国際社会の法的常識によって確認されたように、日本軍「慰安婦」問題の核心は日本という国家の責任です。それにもかかわらず『帝国の慰安婦』は、責任の主体は「業者」であるという前提に基づいています。法的な争点に対する理解の水準はきわめて低いのに比べて、主張の水位はあまりにも高いものです。充分な論拠の提示をせずに、日本軍「慰安婦」被害者たちが「自発的に行った売春婦」であり、「日本帝国に対する『愛国』」のために「軍人と『同志』的な関係」にあったと規定することは、「被害の救済」を切実に訴えている被害者たちに更なる深刻な苦痛を与えるものであるといわざるをえません。このように、私たちは『帝国の慰安婦』が充分な学問的裏付けのない叙述によって被害者たちに苦痛を与える本であると判断します。ゆえに、私たちは日本の知識社会が「多様性」を全面に押し出して『帝国の慰安婦』を積極的に評価しているという事実に接して、果たしてその評価が厳密な学問的検討を経たものなのかについて実に多くの疑問を持たざるをえません。

 私たちは、この事態を何よりも学問的な議論の中で解決しなければならないと考えます。韓国と日本と世界の研究者たちが問題について議論し、その議論の中で問題の実態を確認し解決方法を見つけるために、ともに知恵を出し合うことが必要であると思います。そこで、私たちは研究者たちが主体になる長期的かつ持続的な議論の場を作ることを提案します。また、その一環として、まず朴裕河教授や『帝国の慰安婦』を支持する研究者たちに、可能な限り近いうちに公開討論を開催することを提案します。

 最後に、私たちは名誉棄損に対する損害賠償請求と告訴という法的な手段に訴えねばならなかった日本軍「慰安婦」被害者らの痛みを深く反芻し、日本軍「慰安婦」被害者たちにさらなる苦痛を与えるこのような事態に陥るまで私たちの思考と努力が果たして十分であったのかどうか深く反省します。また、外交的・政治的・社会的な現実によってではなく、正義の女神の秤が正に水平になるような方法で日本軍「慰安婦」問題が解決されるよう、更なる努力を重ねていくことを誓います。

2015.12.2.

日本軍「慰安婦」被害者たちの痛みに深く共感し
「慰安婦」問題の正当な解決のために活動する研究者・活動家一同

(1次署名者71名)
ユン・ジョンオク(元梨花女子大学)、チョン・ジンソン(ソウル大学)、ヤン・ヒョナ(ソウル大学)、キム・チャンロク(慶北大学校)、イ・ジェスン(建国大学校)、ジョ・シヨン(建国大学校)、イ・ナヨン(中央大学校)、イ・シンチョル(成均館大学校東アジア歴史研究所)、カン・ソクチュ(ソウル大学校)、カン・ソンヒョン(聖公会大学校)、カン・ジョンスク(成均館大学校)、コン・ジュンファン(ソウル大学校)、クァク・キビョン(ソウル大学校)、クォン・ウネ(東国大学校)、キム・キョソン(中央大学校)、キム・ギオク(漢城大学校)、キン・ミョンヒ(聖公会大学校)、キム・ミラン(聖公会大学校)、キム・ミンファン(聖公会大学校)、金富子(東京外国語大学)、キム・ウンギョン(放送通信大学校)、キム・ユンジョン(歴史学研究所)、キム・ジナ(ソウル大学校)、キム・ヘジョン(全北大学校)、ド・ジンスン(昌原大学校)、パク・ノジャ(Vladimir Tikhonov, Oslo University)、パク・ジョンエ(東国大学校)、パク・ジンギョン(仁川大学校)、パク・ヘスン((社)韓国軍事問題)、ペ・ギョンシク(歴史問題研究所)、ペ・ウンギョン(ソウル大学校)、ペク・シジン(中央大学校)、ペク・ジェエ(ソウル大学校)、ペク・ジョヨン(中央大学校)、ソン・チャンソプ(放送通信大学校)、シン・グリナ(ソウル大学校)、シン・ヘス(梨花女子大学校)、シン・ヘスク(ソウル大学校)、オ・ドンソク(亞洲大学校)、オ・スンウン(漢陽大学校)、ユン・ギョンウォン(東アジア社会文化フォーラム)、ユン・テウォン(ソウル大学校奎章閣韓国学研究院)、ユン・ミョンスク(忠南大学校)、イ・キョンス(中央大学校)、イ・キョンジュ(仁荷大学校)、イ・ミナ(中央大学校)、イ・ドンキ(江陵原州大学校)、イ・ミョンウォン(慶熙大学校)、イ・ヨンスク(一橋大学)、イ・ジョンウォン(聖公会大学校)、イ・ジウォン(大林大学校)、イトー・ターリ(パフォーマンス・アーティスト)、板垣竜太(同志社大学)、イ・ハヨン(中央大学校)、イム・ギョンファ(延世大学校)、イム・ジョンミョン(全南大学校)、イム・ジヒョン(西江大学校)、ジョン・ガプセン(ソウル大学校アジア研究所)、ジョン・ミョンヒョク(東国大学校)、ジョン・ミレ(性売買問題解決のための全国連帯)、ジョン・イリョン(西江大学校)、ジョン・スルギ(中央大学校)、ジョン・ヒョンジュ(梨花女子大学校)、ジョン・ヒョンヒ(ソウル大学校)、チ・ナオミ(北海道大学)、チェ・ジョンギル(高麗大学校グローバル日本研究院)、ハン・ボンソク(歴史問題研究所)、ハン・スンミ(延世大学校)、ハン・ヘイン(韓国女性人権振興院)、ホン・スンクォン(東亜大学校)、古橋綾(中央大学校)


 いかがですか? ヒステリックなところは全く感じられない、いい文章だと読んで思いました(訳されたのは菊池さん?)が、韓国版と日本版の違いが相当あるのかもしれませんが、僕はここに述べられているようには『帝国の慰安婦』という本を読まなかったので、彼我の認識の差に、あらためて驚くのです。

 たとえば「『帝国の慰安婦』は、責任の主体は「業者」であるという前提に基づいてい」ると言いますが、著者は責任の根源は「日本による植民地支配」にあるとはっきり書いているので、そこに「業者(朝鮮人・日本人両方)」が直接の責任者として存在していたことは明確に認めつつも、だからといって「悪いのは業者であって、日本ではない」などとは言っていないのです(そんなアホなこと言ってるのは日本の一部右翼だけです)。

「充分な論拠の提示をせずに、日本軍「慰安婦」被害者たちが「自発的に行った売春婦」であり、「日本帝国に対する『愛国』」のために「軍人と『同志』的な関係」にあったと規定することは、「被害の救済」を切実に訴えている被害者たちに更なる深刻な苦痛を与えるものであるといわざるをえません」という箇所も、この「自発的な売春婦」というところは韓国の人たちを憤激させたようですが、少なくとも日本語版を読むかぎり、そういうニュアンスは感じられない。植民地化された特殊な状況に加え、当時の朝鮮の末端家庭の貧困、家父長制的な女性軽視のあり方、そういった諸々の条件の中でそれを選択せざるを得なかった女性もいれば、業者に騙して連れて行かれた娘もいたというような話なので、日本軍による直接連行によるものではなかった(この声明文では「本人の意思に反して連行された女性たち」とあって、「強制連行」を支持する以上、それはありえないという理屈になるのでしょうが)、という意味での「自発性」にすぎないので、それはそもそも「自発性」ではないのです。

 韓国の人たちがそういう受け止め方をするのは、日本の一部右翼が主張する「自発的な売春婦」という表現をそのままこちらに移し替えて解釈するから、ではないでしょうか。たとえば今の日本で非正規労働者になる若者は、一応「自発的」にコンビニなり、工場なりで働いているわけです。朴さんのいう「自発」はそうしたものの極端なかたちの、「強いられた自発」なのです。

「軍人と『同志』的な関係にあった」という話にしても、それは戦場で生死を共にするところから生まれた自然な感情で、赤紙一枚で戦地へと送られた日本兵は、別に「帝国主義の権化」でも何でもなくて、彼ら自身が「戦争のための国家動員という国家システムの中で動かされた将棋の駒」にすぎなかったのです(同じ箇所に作家・古山高麗雄の「虫けら」「蟻」といった表現も出てきます。これは慰安婦を指しての言葉ではなく、日本軍兵士たる自分が、なのです。日本の観念右翼にはこうした表現を不快に思う人はいるかもしれませんが)。

 慰安婦は性的な「慰安」だけでなく、ときに心情的な「慰安」の対象ともなりえたのだというのは、慰安婦と立場こそちがえ、同じ寄るべなき心情を抱えていた兵士たちの姿を思えば、何の不思議もないように思われます。そうした中で生じた「同志的関係」なのです。妻や恋人代わりに思う兵士もいたことでしょう。その心情に慰安婦の側が応えることがあったとしても、それは人間として自然なことで、何ら非難や嫌悪には値しないはずです。

 いや、そうではない、日本人と「愛国」イデオロギーを共にしたとも書かれている、それがけしからんのだと言われるかもしれませんが、朝鮮は当時日本に併合され、そこの人々は「準国民」とみなされ、たとえ強いられたものであっても日本への「愛国」心をもつことがあったとしても、そんなに不思議ではありません。業者にだって、それは深刻な自己欺瞞を含むものだったとしても、「愛国」ゆえに慰安婦を提供しているつもりの人もいたかもしれません。慰安婦の場合、その屈辱を「愛国の誇り」で埋め合わせようという心理も働いたかもしれない(こういう言い方も「許しがたい」ものと受け取られるおそれがありますが)。

 日本人そのものが当時は「愛国」を強要されていたのであり、ほとんどの日本人はそうした「洗脳」下にいたのです。「非国民」のそしりを受けながら、国家に正面から抵抗した人はごくごく一部にすぎない。しかし、悲惨な戦場にあって、自分が「蟻」であり「虫けら」に等しい存在になっていると感じる兵士は少なくなかった。僕はそう思います。朴さんの言われる「帝国」というのは、そういうものなのです。今のアフガンやイラクに送られているアメリカの兵士にしても、戦死者より帰国後の自殺者の方が多くなったと、もうずいぶん前にニュースになっていましたが、同じ「帝国」の恐ろしさを経験させられているのです。「愛国」によって生きた個人が「虫けら」の地位に落とされる皮肉。戦争にはそうしたことがつきものです。

「法的な争点に対する理解の水準はきわめて低い」云々は、『帝国の慰安婦』第4章の「韓国憲法裁判所の判決を読む」あたりを念頭に置いて書かれているのだと思いますが、朴教授は法律学の専門家ではないので、ここはかなり無理して書いたな、という印象を僕も受けました。この「個人の賠償請求権」が消滅したか否かについては、法理論的には大いに議論の余地があるでしょう。しかし、著者が言おうとしているのは、日本の右翼が「1965年の日韓協定で戦後補償はすんだ」と主張し、従来の自民党政府の公式見解もそれに則るものであった中で、「アジア女性基金」が日本の政治状況の中で政府がやろうとしたせいいっぱいの努力の産物であったことを、韓国側がほとんど評価しようとしないのはおかしいのではないかということを言わんとするためなのです。そこには明確に謝罪の意思が認められた。日本政府は全面的にコミットしていた。にもかかわらず、それは国家としての責任を回避して、民間のかたちをとったものなので評価できないというのでは、日本国内にも対立があるのだから、それを無視した「理想」に偏しすぎた対応ではないか、というのです。

 そもそもの話、本書でも批判されているように、「二十万人の少女・女性が日本軍に強制連行されて慰安婦にされた」という韓国の慰安婦支援団体によって流布された話は、「事実」としての裏付けは乏しいものでしょう。率直に言えば、それは「虚偽」なのです(大体、慰安婦に十代の娘は少なかった)。最初「挺身隊」と「慰安婦」が誤って同一視されたことからそういう誤解が生じたそうですが、いまだに韓国の一般国民の間ではそれが「真実」だと思われているという。日本の右翼も都合のいい話だけ切り取って過去の侵略の歴史を美化しようとするが、韓国もそこは同じで、「被害と蹂躙の過去」を強調するあまり、そうした視点からするなら「売国奴」でしかなかった日本軍への協力者(多数いたはずで、その一つが慰安婦業者)などは存在しなかったごとく、「日本の責任」ばかりを言い立てるのです。

 それでは日本の国民感情は悪化する。韓国挺身隊問題対策協議会(略して「挺対協」)を中心とする慰安婦支援団体は近年、慰安婦像設置と海外でのロビー活動に精力的に乗り出し、「二十万にのぼる無垢でけがれのない十代の少女たちが日本軍に強制連行され、性奴隷にされた」というような話を世界中に広めました。国連やアメリカ議会まで味方につけて、「報告書」や「非難決議」を次々出させ、慰安婦像を2010年以降、アメリカに九か所、韓国内に二か所(一つは日本大使館前)に矢継ぎ早に設立しましたが、朴槿恵大統領の執拗なほどの「反日」言動、「告げ口外交」とも相まって、日本人の「嫌韓」感情はピークに達したのです(僕は愚かにも朴大統領に日韓関係の改善を期待した者の一人でした)。

 前にも書いたことがありますが、こうした韓国による「行き過ぎた日本非難(その主張に虚偽が含まれていることは他国の学者や専門家にも次第に認められるようになってきたそうですが)」は、日本の「右傾化」に大いに貢献しました。左派は弱くなったので、象徴的なのは朝日新聞の例の「誤報」をめぐる謝罪です。一個の虚言症患者、吉田清治の「日本軍による慰安婦の強制徴用」のつくり話を真に受けてしまったこのリベラルの代表紙は、吉田証言が虚偽であることが判明するや、激しいバッシングにさらされ、とうとう謝罪するにいたったのですが、「軍による強制連行はなかった」→「軍の直接関与はなく、業者と慰安婦が金儲け目的でやっただけ」というふうにいわば悪用されて、「日本無罪」の補強証拠のように使われたのです。韓国が日本非難でヒートアップすればするほど、その反動で、逆に「日本は悪くない」という主張が支持を集めるようになった。

 朴裕河さんはこうした状況を何とかしたいとねがって、一連の著作活動を続けておられるのでしょう。この声明文だけからでは、そのあたりはわかりませんが、上に見ただけでも「曲解」と思われる点は少なくないので、やはり冷静さを欠いた批判が韓国では多いのではないかという気がします。どこがどう間違っているのか、それを具体的に明示した批判本でも書いて、日本語版も出してくれるといいと思いますが、その場合は「事実解明」を何より優先すべきで、「自国民に不利な話は許されない」という前提のそれでは、日本の一部右翼と同じになってしまうでしょう。

 思うに、「民族としての誇り」ぐらい有害なものはありません。それで日本人は「穏健な統治をした正義の支配者」だったと言い張り、韓国人は「圧政に苦しんだ純粋な被害者」だったと言うのでは、和解の手立てなど見つかるはずはありません。日本人は「善良な統治者」ではなかったし、朝鮮人慰安婦も「聖女」ではなかった。人間は元々そんなピュアな存在ではないので、それはよほど自己欺瞞の強い人でないかぎり、自分の内面を見れば誰にでもわかることでしょう。それを認めれば自己肯定感が失われるというのはよほど人間的に未熟な人にかぎられます。

 こんなことを言うとまた叱られるかもしれませんが、韓国の人たちは「白か黒か」思考がとくに強い人たちなのではないかという印象を僕は受けています。それで自分たちは真っ白、日本人は真っ黒みたいになるので、この「慰安婦」問題に関してもそうです。日本人は謝罪しない、悪いと思っていないと非難しますが、植民地支配も、慰安婦も、そのディティールはどうあれ、こんにちの基準からすれば悪かったにきまっているのです。日本人でそう思わないのはおかしな「愛国心」「民族としての誇り」とやらに盲いている人たちだけです。しかし、そういう人たちは一定数存在するので、彼ら(困ったことに、それは政治家にも少なくない)の言動を見て、日本人は全然反省していない、悪のかたまりみたいな連中だと言い、全員がこぞって謝罪するまで許さない、というのでは、朴大統領のセリフではないが、「千年たっても変わらない」ということにならざるを得ないでしょう。

 日本の右翼たちは最近よく、在韓米軍のためにかつて韓国政府が設けていた「慰安婦」の問題や、ベトナム戦争当時、韓国軍兵士が現地の人たち相手に行った暴行、強姦、殺人のことを言い立てます。「エラそうに人を非難するが、自分たちがやったことについてはどうなのだ?」というわけです。こういう論理は、泥棒が他の泥棒のことを言い立てて責任逃れをするのと似たような話ですが、「あいつらは一方的に被害者面して、人のことばかり責め立てる」という反発があるからこそ出てくるのです。加えて韓国は1965年の日韓協定に従って行われた戦後補償(名目はどうあれ)や、アジア女性基金による賠償はなかったかのごとく、しつこく謝罪と賠償を要求する。日本の占領地になった他の東南アジア諸国ではそうではないのに、なぜ韓国だけがこうもしつこいのかと、日本人は思うようになったのです。これが韓国ご自慢の「恨(ハン)の文化」というものなのかと。

 かつての帝国主義の時代、西洋列強は植民地の拡大を競いました。第二次世界大戦後、ほとんどは独立を果たしましたが、いつまでも「植民地時代の恨み」を言い立てる国は少ない。例のIS(イスラム国)は第一次大戦中のサイクス・ピコ協定を問題にしていますが、それ以外にはあまり聞かないのです。かつての宗主国がよく謝罪行脚に元植民地に出かけるというような話はない。ひとり韓国だけが、「ひざまずいて赦しを乞え!」と日本に向かって言い続け、それを拒否する日本の右翼を活気づけているのです。

 かつても無神経な差別的暴言を吐いて得意がっている石原慎太郎のような困った右翼老人はいましたが、最近は若い世代がそれに染まり始めた。それには韓国の日本非難があずかって力あったので、逆に「謝罪の気持ち」は薄れるばかりなのです。いっときのテレビドラマや芸能人などの「韓流ブーム」も、今や跡形もない。レンタルビデオ店で「韓流コーナー」をうろついているのは、「純愛もの」が好きな中高年の少数のおばさんだけなのです。

 朴教授のこの本は、少なくとも日本ではそうした風潮に歯止めをかける働きをしてくれるはずですが、当の韓国では刑事罰の対象にまでされたわけで、「もうつきあいきれん」と、リベラルな日本人ですら思うきっかけになりかねません。「今の韓国は異常だよ。話し合いなんてできるわけがない」という言葉を、僕は善良な知り合いの日本人から何度聞かされたことでしょう。今やそれがふつうの日本人の間では「共通認識」になりかけているのです。

 ですから、韓国の学者たちには、この本を日本の右翼の言辞と一緒くたにするのではなく、たんなる片言隻句や一部の表現にこだわるのでもなく、全体の文脈を見た上で、どこがどう間違っているのか、説得的な批判を行っていただきたいと思います。そしてその日本語版を出してくれれば、僕は必ずやそれを読むでしょう。というのも、ふつうの日本の読書人である僕には、これが「慰安婦の人格を傷つけ、冒涜するもの」とはどうしても思えないからです。むしろ敬意と思いやりに満ちたものと見えるので、一面的な「聖女」扱いより、それはずっと人間的な深みをもつものと感じられたのです。

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』雑感

2015.09.22.00:20

 最近、えらくマメに更新していますが、今回は全然毛色の違う話で、しばらく前に書きかけてそのままになっていたのを、続きを付け足してアップしておきます。

 この手の本を読むのは久しぶりなのですが、先日歯医者に行って、時間があったので寄った書店でたまたまこれ(新潮社刊)を見つけました。帯には末木文美士、佐々木閑、宮崎哲弥の三氏が推薦文を寄せていて、つむじ曲がりの僕は通常そんなものは信用しないので、著者の年齢が若い(35~6歳)ことでもあるし、大したことはないだろうが、定価も税別1600円と安いし、まあささっと読んでみるかということで買ったのですが、一読、「うーん。これは凄いな」と唸ってしまいました。

 これはたとえてみるなら、四百メートル障害物競走のアスリートの見事な走りっぷりを眺めるようなものでした。行く手に立ち塞がる障害を次々鮮やかにクリアしてゆく。ふつうのランナーなら、ここらへんで障害を回避したり、あるいはぶざまに転倒して、しかし、ご本人はクリアしたつもりでそのまま走り続けたりするだろうなというところで、正面からそれに挑んで、楽々それを飛び越えてゆくのです。そうしてめでたくゴールイン。

 わが国の仏教学会は久々の俊英をもったと言うべきでしょう。この分量で、これだけの内容のことを書ける人は、めったにいないのではないかと思われます。学部時代、西洋哲学を学んだという人だけに、論理もきわめて明快です。扱われている論点も、この方面にいくらかでも関心のある人には重要と感じられるものばかりです。その意味でも、これは「かゆいところに手が届く」懇切な本です。

 僕自身はこの本に述べられていることにほとんど全く異論がありません。「お見事!」と言う他ないもので、大乗仏教に関しても、この方面に関する詳細な知識がないから書けないだけで、自分が書いても同じような意見になるだろう(何で偽典を作ってまで、原始仏教との「連続性」を演出しなければならなかったのか?)と思います。「だから大乗仏教は無意味だ」という結論にはならないのも同じで、この点、著者の議論が「テーラワーダ仏教に肩入れしすぎたもの」だという批判は当たらないでしょう。

「仏陀の説いた教えとはそもそもどういうものであったのか?」というところにパーリ語原典をもとに切り込む、というのがこの本の本旨で、それが通常の道徳説や哲学とは根本的に大きく異なっているということも、明確に説明されています。「無我」説についての説明も意味不明の独善に落ち込まず、周到で納得のいくものです。

 この本の優れているところは、著者がたんにこの方面の該博な専門知識をもっているということだけではなく、何らかの自得体験をもっていて、そこからテキストを読み解いていると感じられる点です。でないとこういう説明はできない。むろん、その中身の深浅はあるでしょうが、論理の枠組みそれ自体はその後も訂正を要しないだろうと思うので、著者はその点、自信をもっているように見えます。

 P.147~8に、『ウダーナ(自説経)』の有名な個所だとして、次のような引用文が載っています。

 比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在する。比丘たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在しなかったならば、この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られることはないであろう。比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られるのである。

 この「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」が直覚されないことには、「生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」が本当に認識されることはない。それは夢とは別の現実を知っているから、夢が夢と認識されるというのと同じで、書物で読んで、いくら理屈で自分に言い聞かせても、それではどうにもならないのです。

 僕は座禅や瞑想をやったことがない(短期間、仏教系出版社に勤めたことがあって、そのとき社員研修の一環として二泊三日ぐらいの日程で禅寺で座禅をやらされたことがありますが、足が痛くなっただけでした)ので、そのあたりは想像でしかないのですが、禅僧などの場合だと、「悟る」ためにそれをやって、その「悟ろうとする自我の努力」が崩壊した時に、その地平は初めて開けるのだろうと思います。禅の公案の場合、あれは思考による合理化の努力を破産させる意図で設けられたものなのだろうと思いますが、そのときやっとそれが直覚される条件が整うのです。

 それはむろん、「小我から真我に意識がシフトした」というようなものではないので、そういう思考モデルそれ自体が破産したところに生じる、それは事態なのです(そこらへんをカン違いすると、厄介なことになる。「最終解脱」したつもりのオウムの麻原なんかはその類だったのかもしれません)。

 仏教における「無我の教え」というのは、別に道徳的なお説教ではないので、それは端的に、固定的、実体的な「自分」というものはどこにも存在しない、ということを現実に即して説明したものだと思いますが、ユングなどの心理学では、通常の自我、パーソナリティの背後に、真の自己、大文字のセルフが存在する、なんてことを言うので、話がよけいにややこしいことになってしまうのです。古来の「不滅の霊魂」説も、これに拍車をかける。それは死後も存続するコンプレックス(心的要素の複合体)、流れのようなもの(本書の著者によれば「現象」「プロセス」)で、それは実体的なものではなく、上記の引用文で言われている「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」はそういうものとは無関係(ユングの言う「集合的無意識」なるものをいくら探ってもそこには行き着かない)なのですが、「自己」観念というものに縛られていると、それ自体が妨げとなって、覚知が不可能になってしまうのです。

 しかし、現実問題として、こういう話はなかなか通じません。絶望的なまでにそうだと言ってよい。だから馬鹿らしくなって僕は話すのをやめてしまったのですが、我田引水ながら、輪廻転生の担い手となるものが何であるかということに関しては、それを認めていた西洋中世のキリスト教異端カタリ派(仏教との類似性も指摘されるが、原始キリスト教の再来を自任していた)の歴史と信仰を扱った『偉大なる異端』(アーサー・ガーダム著)という本の訳が、具体的な日程はまだ未定ですが、版権取得も無事済んで近いうちに出せる運びになって、その本の訳者あとがきに自分なりの考えを書き含めておいたので、興味のある方はそちらをご覧ください(出版時にはここでも告知します)。

 それはともかく、僕はこのブログで「この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」ばかりを相手にして、ああだこうだとうるさく言っているので、仮にも「宗教の高遠な真理」に関心を寄せたことがあるのなら、何でそんな馬鹿なことをしているのだ、と言われるかもしれません。

 そう言われると返す言葉もないのですが、僕は「生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離すること」は自分の柄ではないと考えて、とうの昔に「解脱」などというものは諦めてしまった人間です。そちらの道をきわめるのは偉いお坊さんたちにお任せする。ときにゲンナリしながらも、僕は「俗世間の泥」の中で暮らし、その泥を食らって正体不明になりかけながらも、これが下根のわが道であるかと、それなりに「覚悟」しているわけです(ある知人によれば、僕はカタリ派時代の「虚偽と不正に対する怒り」があまりにも強かったために、それを持ち越して今も怒り続けているのだという話です。カルマというのはかくも恐ろしい?)。

 話を戻して、これはそういう人間にとっても十分面白い本だったということです。真面目な仏教研究者、修行者にとってはなおさらでしょう。広く一読をお薦めします。

【付記】これをアップする前にネットを見てみると、小木田順子さんという方(なんとこの前僕が悪口を書いた見城徹氏の幻冬舎の編集者!)が愉快な書評を書いておられます。

  仏教は、「人間として正しく生きる道」を説いていると思われがちだが、それは冒頭できっぱり否定される。
 ゴータマ・ブッダは出家を重視し、弟子には「労働と生殖の放棄」を要求する。「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して、『異性とは目も合わせないニートになれ』と求めている」のだ。
 ゴータマ・ブッダが説くのは「世の流れに逆らう実践」であって、仏教に処世の知恵や癒しを求めた人は、まず出端を挫かれることになる。
 最初で救われないだけでなく、大方の読者はおそらく最後まで救われない。なぜか。
 仏教では「全ての現象は苦である」と言われる。ここでの「苦」とは、痛みや悲しみなどの肉体的・精神的な苦痛だけではない。そのニュアンスを正しく汲み取れば、「不満足」の語が適切で、「欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態」を意味する。(私は、チョコとポテチを一口だけ食べて満足することはなくて、食べれば食べるほど、また食べたくなる感じとか、お洋服を1着買えば、色違いも欲しくなり、それに合う靴も欲しくなり、バッグも欲しくなるときの、とめどない感じとかを反芻しながら読みました)
 このような「生」きている間の苦の先には、「老」「病」「死」という、誰にでも必ず訪れる苦が待ち受けているのだが、それでは終わらない。
 仏教の基盤になっているのは輪廻転生の世界観で、私たちは何度も生まれ、何度も死ぬ。その間「終わりのない不満足」は、ずうっと繰り返されるのだ。
 それを終わらせてくれるのが「解脱」であり、その先にある境地が「涅槃」。そこに到達する道が修行(瞑想)である。
 ゴータマ・ブッダは自らそれを実践し、解脱し涅槃に到達したうえで、弟子たちに対して、「これをやれば、お前たちも苦を終わらせることができる」と、正しい鍛錬の仕方を示した。
 そして弟子たちがそれを実践してみると、たしかに言われたとおりの結果が出た。そのような再現性こそが、仏教は2500年にもわたって存続してきたことの原動力になっている。
 方法があると書けば、救いはある、と思われるかもしれないが、解脱・涅槃に至る道は、ただ一つしかない。すなわち、異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想すること。
 私が、今回の人生において、これから修行者の道を選ぶことはまずないから、私が決して満たされない欲望に苛まれ続け、「苦」のうちに生を終えるのも間違いない。
 そんな己の末路をはっきりと見通せてしまったことの、なんて痛快なこと。そして、縁起とか業とか無常とか無我といった、これまで難しそう・めんどくさそうと遠ざけてきた概念が、どこでどう繋がっているのかがわかり、この世界の成り立ちが鮮やかに説明されることの、なんという快感!


 簡にして要を得たうまい書評だと思いますが、「異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想する」覚悟が「仏弟子」には必要だということになれば、大方の人には「無理」だということになって、敬遠せざるを得なくなるでしょう(その生活も本来「乞食(こつじき)」によるべきなのです!)。しかも、「長年瞑想しても人格はよくならない」なんてことまでこの本には書かれているので、全く救いはなさそうに見えますが、それも「事実」だと思われるので、このあたりが「仏教の教えは人を幸せにする」と説く通常の啓蒙書の類とは大いに異なるところです。

 それでは、仏教は何の役に立つのか? 何の役にも立たないので、ただ、この世界がどういう成り立ち、仕組みになっていて、どういうおかしなことを人間はやり、その結果どういう苦しみ方をする羽目になるのか、そういうことをシビアに認識することに関しては大いに役立つということでしょう。学生時代読んだ小林秀雄のエッセイにこういう箇所がありました。「現代人は無常を知らない。常なるものを見失ったからである。」無常なものを常なるものと思い込むより、無常を無常と知ることの方がいくらかはマシだと、その程度のことだけは言えるかもしれません。仏教の教えもその意味では「ふつうの人の役に立つ」のです。

どんなホラー小説よりもこわい!~堤未果『沈みゆく大国 アメリカ』雑感

2014.11.29.15:28

「これは、しかし、ホントの話なのかね?」

 読みながら、途中何度も僕はそうひとりごちました。アメリカがひどい状態になっているのはわかっているつもりでしたが、認識が甘すぎたというか、まさかここまで悲惨なことになっているとは知らず、愕然とさせられたのです。

 これは21世紀の先進国に出現した、巨大な奴隷制国家です。そう評する他ない。

 話はオバマ大統領の医療保険制度改革、いわゆるオバマケアを軸に展開されるのですが、それを通して今のアメリカ社会がどういう構造になっていて、どういう不具合が生じているのか、あぶり出されるようになっているのです。

 これは有名なリンカーンの言葉をもじっていうなら、「一握りの金持ちの、一握りの金持ちのための、一握りの金持ちによる政治」が行われている国家で、大多数の人間はあの手この手で搾取を受けて貧困層へと突き落とされ、そこでさらに「貧困ビジネス」の餌食にされ、最後は家さえなくしてロクな治療も受けられないまま、トレーラーハウスか何かで苦しい息を引き取るのです。

 医療保険制度云々の前に、僕がびっくりしたのは医療費の高さです。何より薬代が「目ン玉が飛び出るほど」高い。だから月々の保険料も馬鹿高いので、ほとんど無意味に近い最低の医療サービスしか受けられないような最低レベルの保険(すべて民間の保険会社が提供する)でさえ、わが国の国民健康保険の平均的な割当額より高いほどなのです。

 これと較べるなら、わが国は医療の天国です。僕はこの前、「必ずしもいいことづくめではない」と書きましたが、あれは“基準”が高すぎたと言うべきで、北朝鮮人民と較べればわが国庶民の生活は「天国」と呼べるのと同じで、アメリカの医療システムと較べるなら、日本のそれは「天国」に近いのです。

 アメリカでは医療費が払えなくて破産する、いわゆる「医療破産」が破産理由のトップになっているそうで、しかもそれは無保険者だからそうなるというのではなくて、支払額を極力低く抑えたい保険会社があれこれ難癖つけて支払いを拒むものだから、結局治療費が全部自分にふりかかってきて、高い保険に加入しているのにそうなってしまう。そういう話はマイケル・ムーア監督の『シッコ』でもやっていましたが、オバマケアでそのあたり改善したのかと思いきや、全然そうはなっていなくて、製薬会社と保険会社はこの法案を使い物にならない穴だらけのものにして、全体としては前より事態は悪化してしまったのです。

「なるほどねえ」と僕はその巧妙さに感心(?)しました。どんな善意の制度でも、骨抜きにして、さらなる搾取の道具にしてしまう。オバマケアに期待した人たちはものの見事に裏切られ、たとえば、この本に登場するある50代の中年夫婦の場合だと、この人たちは以前からちゃんと保険に加入していたのですが、同じサービスを受けるのに前と較べて保険料が2倍になり、かつ、自己負担額が増えるのを知る羽目になった(具体的に言うと、この夫婦の年収は日本円にして約650万で、月々の保険料が6万円だったのが、12万になるという話なのです。医者にかかった時の自己負担分も含めた年間医療費はトータル約130万だった。まだマシだったという“以前でも”ですよ。とくに大きな病気もなく、時々医者にかかる程度で、こんなに医療費を払っている人が日本にいますか?)。

 ともかく「改革後」のそれだと支払い能力を超え、高い薬が必要な病気になれば破産は目に見えているので、それなら保険は買わない(=保険に加入しない)ことにすると言うと、今回の法改正でその場合は罰金を支払わねばならなくなり、この罰金は年々上がることになっているので、2016年段階でおたくの罰金額は16万円になります、と言われる。無保険で病気になれば全額自己負担というリスクを冒す上に、さらにこんな罰金まで課せられてしまうのです!

 実に恐ろしい話ではありませんか? この本には類似の(というより、これよりもっとひどい)残酷話がこれでもかというほど続出するので、だから「どんなホラー小説よりも怖い」と言ったのです。しかもこれは、フィクションではなくて、全部実話なのです。

 アメリカ国民でなくてよかった!と胸をなでおろしていたら、「安心するのはまだ早い」ということで、アメリカのハゲタカ外資は虎視眈々と日本市場を狙っている、という話が最後に出てくるのです。

 2014年1月のダボス会議で安倍総理は、「非営利ホールディングカンパニー型法人制度」について言及し、投資家たちに日本に新たに生まれる新市場をアピールした。名前の頭に「非営利」とついているが、重要なのはその下にある〈ホールディングカンパニー〉という部分だ。

 詳しくは本書を直接お読みいただくとして、「投資家たちにアピール」するのは儲け話に決まっているから、それがロクでもないものなのはこの段階でわかろうというものです。こういうのも、アベノミクスの何番目かの「矢」には含まれているわけです。全体、アベノミクスというのは株価などの経済指標を上げることばかりで、経済の内実を問うものではない。それがわかっていない人が多いようなので、そのあたりをきっちり見ておかないと、何もかもが「アメリカ並」にされてしまいかねないのです。

 話を戻して、今のアメリカでは患者である一般国民が理不尽医療制度の被害者になっているだけでなく、医師も被害者なのです。どうしてそうなってしまうのかということは本書の第2章「アメリカから医師が消える」に詳述されていますが、これまた読んで憤りを禁じ得ない内容で、この現代の巨大奴隷制国家においては、医師も奴隷の一部なのです。本業そっちのけで投資で儲けていれば別として、アメリカの医師はもはやかつての「尊敬を受ける裕福な専門職」などでは全然ない(日本もこうだと、医学部進学希望者は激減して、「最も入りやすい学部の一つ」になってしまうでしょう)。

 他にもオバマケアの導入でどうして短時間パートが激増する羽目になったのかなど、興味深い(というより、これまた恐ろしい)話がたくさん出てくるのですが、そうしたあれこれについては直接お読みください。僕が最後に書いておきたいのは、この本全体から見えてくる今のアメリカ社会の透視図です。

 リーマンショック以後、金融機関の規制は進むどころか、巨額の税金投入で救済されたウォール街の大手金融会社はかえって焼け太りして、さらに支配力を強化したというのは有名な話ですが、今のアメリカはそうした金融機関と、投資家、この本に出てくる製薬会社、保険会社などの巨大企業のトップと幹部たちのためにだけ存在し、一般の労働者はその搾取を受けるためだけに存在しているかのようです。政治家は支配層の使い走りにすぎない。

 かつてアメリカが元気だった頃は、分厚い中間層が存在して、その代弁者としての産業別組合も元気でしたが、今やその組合も風前の灯のようです。労働者はバラバラにされて交渉力を失ってしまった。昔、法学部の不良学生だった頃、民法のテキストで、「民法上、社員とは株主のことを指すのであって、わが国で通常『社員』と呼ばれているものは、法律的にはたんなる労務者にすぎない」という記述を読んで苦笑したことを憶えていますが、今のアメリカはこうした法律用語に忠実に、「社員」たる株主への配当を増やすべく、必死になって利潤を上げ、「労務者」の賃金、福利厚生などは、「経営効率化」のために削れるだけ削って、かぎりなく奴隷の労働に近いものにしてきたのでしょう。そうして経営陣は、経営効率化と利潤増大に努めた見返りとして巨額の給与、ボーナスを懐にして、たんまり配当を得た投資家たちとにっこり笑って握手するのです。彼らは「同志」です。一般従業員は、彼らに奉仕すべく存在する奴隷でしかない。

 今のアメリカでは医療も教育もビジネスです。刑務所ですら民営化されてビジネスになっていて、ビジネス化されると、そこで働く者はすべて自動的にこの新種の奴隷制度に組み込まれることになるのです。サービスを受ける側も当然ただではすまない。それはビジネスに見合った性質のものへと変容するのです。究極的にはそれはサービスを受ける側のためにあるのではない、それを通じて儲ける側のために、投資家の利益に貢献するためにあるのです。つねに利潤が、その仕事本来の目的に優越する。

 製薬会社にとっては薬代は高ければ高いほどよい。原価の何百倍と吹っかけても、そんなことは一向気にしない(とうの昔に良心なんてものはなくなっている)。利潤こそすべてなのです。だから彼らはそれを高く維持できるようにするために、契約相手から価格交渉力を奪い去るために、巨額の資金を使ってロビー活動を行う。そうやってオバマケアも骨抜きにされ、彼らに好都合な内容に変えられたのです。保険会社もその点は同じ。従来から彼らは、加入者の医療費請求をできるだけ多く拒否できるように、従業員に山のようなノウハウを教えてきました。それで拒否件数が多ければ、「よく頑張った」ということでボーナスがもらえるのです。同じ労働者である顧客が電話の向こうでその理不尽に泣き、破産、自殺しても、そうしないと会社から評価されないのです。病院の医師に対しても同じで、煩雑極まりない書式の診療費請求書を押しつけて、かんじんの医療業務に支障が生じるほどの膨大な手間をかけさせ、やっとそのフォームを埋めて提出しても、あれこれ難癖をつけてその支払いを拒もうとする。患者に対してであれ、病院・医師に対してであれ、拒否件数が多ければ多いほど、出費は減って会社の利益は増大するからです。

 弱肉強食の仁義なき資本主義も行き着くところまで行き着いたという感じで、これはもう人間の世界の話ではありません。しかし、それが今のアメリカという国なのです。「自由と民主主義」が聞いて呆れる。

 念のためにお断りしておきますが、僕は別に「アカ」ではありません。問題は巨大資本とその所有者たちがフリーハンドを得て、「最大利潤」を目指し、制度や社会構造をカネと権力で自分たちの都合のいいものに変えてしまったことです。そして各界のエリートたちが、それに仕える走狗と化してしまった現状です。

 かくして古代の奴隷制は復活したのですが、ややこしいのは、見た目にはそれがそうとはわからないことです。オバマケアだって、本書には何度もオバマ自身の誇らしげな言葉が引用され、いかにもそれは「民主的」で「国民に優しい」医療制度改革案に見えるのですが、その法案の成立には資本の意を受けたプロが深く関与していて、細かい規定を見ていくと、それはオバマの説明とは全く違う結果になるよう仕組まれているのです。

 医療や法律の専門知識がないふつうの人には読んでもそれが現実に何を意味するのかわからない。「適用」段階で、それがオバマの説明したものとは、自分たちが期待していたものとは似ても似つかないものであるのを初めて知るのです。

 権力も財力も、専門知識も、それは持てる1%の側にあって、持たざる99%の側にはない。前者は後者に向かって「これはあなた方のためにすることなのですよ」と親切顔で言いつつ、実は自分たちに好都合なように法律、システムを変えてしまう。そうしたペテンの積み重ねの果てに、アメリカは今のような奴隷制国家になってしまったのです。

 メディアの重要な役割は、その欺瞞を暴いて人々に警告を発することですが、今や主要メディアも巨大資本の支配と統制の下に置かれ、御用メディアになり下がった。その御用メディアに、御用学者、御用文化人が登場し、人々を騙すことに一役買うのです。これはわが国の原発問題にもはっきり見られたことです。

 資本・権力が良心と自制を欠き、このまま暴走を続けて、人々が有効な抵抗のすべを失ったまま、奴隷制がさらに強化されるようだと、行き着くところは大規模な暴動とテロでしょう。アメリカはアルカイダや「イスラム国」だけでなく、自国内部に誕生した自前のテロリスト集団をもつことに早晩なるのです。それはむろん、一般国民を幸福にすることにはつながらないでしょう。破壊と殺戮の応酬の中で、社会は崩壊してゆくのです。

 アメリカの巨大資本(一般国民ではなくて)は、TPPでさらなる「規制緩和」をわが国に迫り、「奴隷市場」の開拓にやる気満々だと伝えられています。医療分野もその一つで、それでアメリカの金融・保険会社や製薬会社が大儲けできるようなものにして、実質的に今とは全く違うものに変えてしまおうと目論んでいるのです。

 実にお楽しみな話ですが、今の安倍政権だと、「外資を呼び込んで経済を活性化させる」などと、たんなるその使い走りにされていることも知らず、胸を張って言いそうです。そうして「善良な国民」はそれを信じる。それで見かけの経済指標は一時的に多少よくなるかも知れないが、その果実は全部外資の懐に入り、国民は保険料の大幅アップとサービス低下に苦しみ、「アメリカ国民の悪夢」を共有する結果となるのです。そのとき「やっとこれでわが国もアメリカ並になった!」と喜ぶのは、経済学者の竹中平蔵ぐらいのものでしょう。

 著者の堤未果さんは、続編の「日本版」を計画しておられるそうなので、周到な現状分析と未来予測を、僕らはそれで読むことができるでしょう。

 何はともあれ、この本は示唆に富む「全国民必読」の本です。まだの方はぜひお読みになって下さい。

堤未果『沈みゆく大国 アメリカ』(集英社新書 720円+税)

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