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酒井嘉和著『聖中心伝 肥田春充の生涯と強健術 青年編』について

2020.03.22(02:03) 700

 肥田春充という人は、その筋では有名人ながら、一般の人はほとんどご存じないでしょう。以下はウィキペディアの「肥田春充」の項です。

肥田春充

 幼少期は病弱な上痩せ細っていたため、「茅棒」のあだ名がつけられ、2度死の宣告を受ける程の虚弱児であった。数え年18歳にして心身改造に志し、古今東西の健康法、運動法を研究実践し、西洋のウエイトトレーニング等に東洋の丹田鍛錬、氣合等を取り入れた独自の心身鍛錬法、川合式強健術(後の、肥田式強健術)を編み出す。

 1883年(明治16年)生まれなので、大昔の人ですが、この記事にもあるように、病弱だったためだいぶ遅れて山梨県の旧制第一中学に入学、卒業した後、高等予科へと進み、その後は「中央大学法科・明治大学政治科・明治大学商科・早稲田大学文学科の三大学四学科に入学」して、いずれも同時に卒業するという離れ業をやってのける。そしてその直後、軍隊に入る前に、『実験 簡易強健術』(明治44年)という処女作を出し、これが著名人の後押しもあって大ベストセラーとなり、一躍時の人になった。そういう人です。

 たんなる運動家、体育指導者、心身健康術の著者であるにとどまらず、「生涯を通じて多数の政治家、軍人、学者、文人などと親交があり、様々な影響を与えている」とあるように、多彩な面をもつ、一種のスーパーマンでした。

 本書は著者・酒井嘉和氏が15年の歳月をかけて関係文書を渉猟し、存命の縁者にも取材し、自らもその健康法(強健術)を実践しながら、その生涯と強健術(たえず改良が加えられ続けた)についてまとめた、三巻本の最初の巻です。

 不健康そのものの生活を送って、ロクに運動もしない僕のような人間がこういう本についてとやかく言うのは全く的外れで、奇怪に思われる人が多いでしょうが、著者の酒井氏は僕の古い知り合い(昔の塾仲間)で、本にする前の膨大な原稿を見せてもらって、この本も頂戴したので、その意味では縁があるのです。

 本書では引用の明治・大正期の文語文が現代語訳され、叙述も、付随的な細かいところは整理されて、僕が最初読ませてもらったものよりずっと読みやすくなっています。肥田式強健術の考え方は本書で順を追って詳しく解説されていますが、実践面に関しては、イラスト等を交えて現代風に解説した、また別の本が必要でしょう。それは著者の次の仕事になるものと思われます。この本では肥田春充の生い育った環境や「強健術への開眼」と、その後の生涯の軌跡がていねいに辿られ、「肥田春充とその時代」がよくわかるように描かれています。類書は僕が知るかぎり存在しないので、本書は今後肥田春充を研究する人にとって基本文献の一つになるでしょう。

 ひ弱ないじめられっ子がその後、空手の師範やボクシングの世界チャンピオンになるといった話は割とあるものなので、それに照らせば並外れて虚弱な少年・川合春充(のちに養子に行った先が肥田家)の劇的な変貌も不思議ではありませんが、この人は各種の健康法、肉体改造法に、生理学・解剖学や医学の本まで幅広く参照し、自分を実験台にして工夫改良を加えながら、独自の「強健術」を開発したところに大きな特徴があります(どういう順序で彼が「聖中心」という考えに辿り着いたのかをこの伝記は明らかにしようとする)。過剰なまでに義侠心が強かった若い頃は「弱きを助ける」ために暴力も辞さず、その方面の武勇伝もたくさんあった(平たく言えば、めっぽう喧嘩も強くなった)ようですが、その後精神面でも禅匠にその境地を賞讃されるなど、たんなる体育家には収まらない多様な側面があったので、僕個人に一番関心があるのは、先のウィキペディアの記事にも「深夜連続の『人類救済』のための真の宗教、哲学、科学の学的、体験的研究をはじめる(この研究を「宇宙大学」と呼ぶ)」とあった、その思索の中身です。挙句、「人類の将来を憂い、水もほとんど摂取しない49日間の完全断食の果て、死去」ということになるのですが、本書でも最後の巻「晩年編」でそれについてはかなり詳しく触れられますが、当然ながら、伝記本にはおのずと限界があるので、その詳細な全体像まではわからない。

 僕の見るところ、彼が憂えた恐るべき「人類の将来」は、今、僕らの目の前にあるのですが、この本(のちの巻にそういう話は出てくる)を読むと、肥田春充という人は一種の「千里眼」になっていたと見てよさそうなので、これが見えていたのかもしれません。いや、そんなに大げさに言うほど今の世界はひどくないよと笑う人もいそうですが、それはよほどものを知らないか、さもなければ想像力に乏しい鈍感な人なので、別にコロナウイルス騒ぎや株の暴落を見て、僕はこんなことを言っているのではありません。全体からすれば、そんなことはいずれも些事にすぎない。内面・外面の諸般の事情を考慮するなら、人類は「自滅へのカウントダウン」を始めるところまで来てしまった。これで無事で済んだら、むしろその方が不思議なくらいです。

 この『聖中心伝』を読んでいて、僕に何より感銘深かったのは、肥田春充やその周辺の人たちの生への切実さ、というか情熱と真剣さです。当時もむろん腐敗した人間は、とくに政治家や富裕層にはゴマンといたわけですが、思いやり深い細やかな心の持主や、感激家、理想家がそこらじゅうに見つかるという感じで、田中正造や内村鑑三を生み出した時代の息吹がここにはまだそのまま残っているという感じがしたのです。大川周明は肥田春充の友人であり、共に国事を憂えて奔走する姿(それは結局さしたる影響を及ぼすことはなかったので、現代からするとそのドタバタぶりはいくらか滑稽に見える)が後続巻には出てくるはずですが、彼らはいずれも現代人には見られないタイプの理想家であり、国家の現状、社会の矛盾や、虐げられた人々の苦しみをそのままわが悩みとするそのありようは、文字どおり「隔世の感がある」と言えるものです。

 むろん、肥田春充が当時においてもいくらか度の強い理想家であったことはたしかで、大学卒業時の次のような述懐にはそれが自覚されていたことが読み取れます。

こうして、法、政、文、商の各科を修了したけれども、私の手に残る所のものは何もない。みじめにも、私もまた奇異な夢想児ではないか。(心身強健術)

 私の願う所が、苦しむ者なく、虐げられる者なく、正義仁愛が自然に行われる理想郷の実現であった。しかもそれは、献身犠牲の志士の決死的奮闘によって、容易にその目的が達せられるものと考えた。なぜならば世間大部分のものは皆、天使のような善良な人ばかりであって、害毒を流す悪漢は極めて少数であり、これらを除き去って社会を粛正することは、さしたる難事ではないと思ったからである。(聖中心道肥田式強健術) 本書p.272~3


 そうは言っても、理想家肌の彼の性格は終生変わるところがなかった。父や兄が社会奉仕に明け暮れる同じような献身的な理想主義者であり、最後までそれが変化しなかったのと同じです。そしてあの時代には、有名無名のそうした人たちがかなりの数いて、いわゆる社会エリートの中にもそれは少なくなかった。

 空気が今とは全く違うのであり、こう言うと気を悪くする向きもあるでしょうが、現代日本人が「真剣」になることと言えば、それはもっぱら経済方面のことで、それも自分が勝ち組になるか負け組になるかといった類のことです。若者ができるだけ偏差値の高い有名大学に入りたいとしのぎを削るのも、多くはそれが「有利な就職」につながるからであり、「勝ち組に入れる確率」がそれだけ高くなるからなのです。「弱きを助け、強きを挫く」義侠精神ではなく、自己保身から権力に寄りかかって「強きを助け、弱きを挫く」側に回るのが、現代風エリートのやることになってしまったように見えます。それが「ふつう」になったので、誰もそれに目くじら立てることもない。負け組になることは恥ずべきことであり、それは本人のたんなる無能や怠惰の結果なので、自己責任として放置して差し支えない。なるほど、そこには社会システムの「醜いからくり」があるが、その構造を理解し、変えるのではなく、そのからくりをそのまま利用して勝ち組に回るのが有能なエリートというものであり、それは称賛に値するのです。

 これは日本だけの話ではなく、今や「世界的傾向」になっているのではないかと思いますが、これでは「人生意気に感ずる」こともなくなって、損得だけに過剰かつ敏感に反応して、「割に合うか合わないか」のソロバン勘定だけが死活的な重要事になるのです。たんなる「知能の高いサル」にすぎないと言えば、サルに失礼なくらいです。そういうジコチューの行く末として、いずれ皆が損をすることになるのはわかりそうなものですが、サル化した悲しさで、そこまでの知恵は働かないのです。

 話が強健術とは無関係なことに脱線してしまいましたが、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉は、古代ローマのある文明批評家が、オリンピックの体操選手の見事な肉体を見て、「健全な精神が健全な肉体に宿るようならねえ」と皮肉を言ったことの誤伝だと言われていますが、肥田春充の場合、ひ弱な肉体の改造に成功したことから、風邪一つひかなくなっただけではなく、臆病な引っ込み思案の性格も治り、万事に前向きになり、頭脳の働きまで明晰さを増したというのは本当だったのだろうと思います(始めて二年間で、別人と思われるほどの顕著な変化があった)。それはたんなる肉体改造だけではなく、心身相関、内臓の健康や血液循環にまで配慮した総合的なものだったので、全体に好ましい変化をもたらしたのでしょう。

 僕も今、中学生か高校生ぐらいだったなら、強い関心をこの強健術に示すでしょう。自分もチビで、見る影もなくやせこけていたからです。中学を卒業したとき、身長が150センチ、体重は30キロ台前半だったと言えば、いかに貧弱であったかが想像できるでしょう。これは極端なおくてだったことも関係するので、あそこの毛がいつまでたっても全くはえてくる気配がないのを僕は真剣に悩みました。男子にはそれはないということを知らず、自分は無毛症なのではないかと気に病んだのです。高校に入って、親元を離れて生活するようになってから、身長は急に伸び始め、高校三年間で18センチ伸びて、高校卒業時は168センチになった。これは当時の平均身長だったので、やっと人並になったのですが、相変わらずやせたままで、体重は50キロになかなか届かなかった。その後、はたちぐらいまで身長は伸び続けて、171センチで止まり、当時の体重は52~54キロぐらいだったと記憶しています(一時素振り用の大きな木刀を買って、毎晩空地で一時間ほど振り回していたので、その頃は銭湯に行くと周りの視線が集まる感じになった)。脂肪が全くつかない体質だったので、運動不足に陥ると筋肉が落ちて、元々の骨格が華奢なので、三十代四十代の頃は48キロまで落ちたことがある。幸い病弱ではなく、大きな病気はほとんどせず、やせている割には体力もあって、十代の末から二十代初めの頃は、組み合って相撲なんか取ると、かなり大柄な相手でも倒せた(だから当時は喧嘩にも相応の自信があった)のですが、肥田式強健術を習っていれば、もっと筋骨たくましくなれただろうにと、それが残念です。

 そのままずっと脂肪がつかなければよかったのですが、今は下腹に余分な脂肪がついて、こういうのは醜いだけで何の役にも立たないものなので閉口しているのですが、若い頃やせていてもこうなるので、今は若くてスリムな人も、油断してはなりません。人にもよるでしょうが、僕の場合、五十を過ぎてから徐々にこうなったのです。

 肥田式強健術の本はいくらか出ているようですが、多くは昔の本のリプリントのようで、今の人が読んでわかりやすいものではない。この本をきっかけにその存在が広く知られるようになって、わかりやすいイラスト入りの、中学生なんかにも読めて実践に使えるような解説本など出れば、その「奥義」を伝えることはむろん困難でしょうが、それ相応の効果は生まれるのではないかと思います。この本には学校体育のありように対する肥田春充の批判も紹介されていますが、僕は読んで全く同感だったので、合理性と科学性に欠け、効果にも乏しく、やって楽しくもないたんなる“苦行”になりがちなあれを改めるきっかけにもなるでしょう(それは当時、学校の教育現場にも一部導入されたことがあるにもかかわらず、定着せず、そのまま忘れ去られたのです)。それを応用した高齢者向けの強健術の本も出れば、高齢社会の今、人々の健康寿命を延ばすことにもなって、大いに社会に貢献することになるでしょう。

 ということで、心身の健康法や、世界的に見ても類のない独自の強健術を編み出したこの非凡な人物に興味を覚えられた方はお買い求め下さいということで、紹介させていただきました。こういう本を出すというのは今の出版事情では超がつく難事で、これはひとえに著者の情熱と、版元の壮神社社長、恩蔵良治氏の心意気によるものでしょう。脱字やワードの転換ミスによる誤字が若干残ったのは残念ですが、それは文脈から容易に判断がつくものなので、読むのに大きな支障になるものではありません(そのあたりについては、著者か出版社がネットで正誤表を閲覧できるようにするなどの措置がいずれ取られるでしょう)。最後に、アマゾンのURLを付けておきます。

聖中心伝 肥田春充の生涯と強健術 青年編


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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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反日カルト国家の自縄自縛~『反日種族主義』を読んで

2019.11.25(02:45) 672

 韓国で「親日」本としては異例のベストセラーになったこの本は、日本語版(文藝春秋)が発売されるやたちまちアマゾンでトップになり、日本ではすでに25万部を売り上げたとのこと。関心が高いのは今の韓国があまりに異常だからでしょう。

 その異常さについて、あらためておさらいしておくと、文在寅は、韓国大法院の奇怪な判決を「三権分立の国だから」と言って放置・追認して、日韓請求権協定(1965年)の実質的破棄を行ない、前・朴槿恵政権のときに成立した日韓慰安婦合意も「内容及び手続き面で重大な欠陥がある」とこじつけて、日本が10億円を拠出して作った「和解・癒やし財団」を勝手に解散してしまいました(例の反日左翼団体、挺対協改め正義連はこの合意に猛反対していて、文政権はそれに歩調を合わせたのですが、多くの元慰安婦や遺族はむしろ歓迎して、お金を受け取った)。前者の文言には「完全かつ最終的に解決」、後者には「最終的かつ不可逆的に解決」といった言葉が盛り込まれていましたが、そんなものには縛られない“国際法にも優越する超法規的”政権であることを自ら誇らしげに示したのです。その他にも旭日旗事件とか、レーダー照射事件とか、非常識としか思えないことが色々あって、これにはネトウヨとは無縁の、ふだんおとなしいフツーの日本人も呆れてしまったのです。

 だから日本政府が韓国を貿易面で「ホワイト国待遇」から外す決定をしたときも、「あんな信義も何もない反日国を貿易優遇する筋合いは何もない」と、国民の大部分はこれを支持したのですが、怒った文在寅はこれに、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄の通告でもって応じた。それは韓国の外相ですら知らなかった大統領(とその反日の取り巻きたち)の独断的決定でした。

 それは、文とその取り巻き以外の人には大方予想できたものですが、アメリカをひどく怒らせてしまった。GSOMIAは元々、アメリカが根回しをして日韓両国に結ばせたものだったからです。それでアメリカは「破棄撤回」を強く文政権に迫ったが、「自分は正しい」と言い張り、韓国の世論も5割超が破棄を支持した。「今の韓国人は頭がおかしいのではないか?」と多くの日本人はあらためて思いましたが、彼のその思考回路がどういう構造になっているかは、終了期日が迫る中、「国民との対話」なるイベントで、ご本人が語ったところから明らかになりました。

「GSOMIA終了問題は日本が原因をつくったのだ」というのがかねてからの彼の主張でしたが、その「原因」とは上記の、日本が韓国を貿易面での「ホワイト国待遇」から外したことです。まず「韓国は日本の安保にとって大きな部分で防波堤役をしてやっている」と恩着せがましく言った後で、「なのに日本は輸出規制をする際、『韓国を安保上、信頼できないため』という理由を挙げた」と述べ、「安保上、信頼できないと言いながら、軍事情報は共有しようというなら矛盾した姿勢だ」とお得意の三百代言的ロジックを開陳し、「(北朝鮮に武器に転用可能な物資を横流しするのに見て見ぬふりをしているといった)疑惑自体がとんでもないが、日本が仮にそうした疑いを抱いているのなら、輸出物資統制を強化してほしい、あるいは韓日間の意思疎通を強化しようと言うべきなのに、何の事前要求もなしにある日突然、輸出規制措置を取った」、こんな無礼なことが果たして許されるのか、だから対抗措置を取ったまでで、非は全面的に日本側にあるのだ、とのたまうのです。

 日本側からすれば、「ある日突然」もクソもない、大法院のあの国際的非常識判決でも、慰安婦財団の解散のときでも、文は日本政府にいかなる相談、意思疎通の努力も見せなかったのです。これはA→B→C→D→Eと原因と結果の連鎖が続いて関係が悪化していくプロセスで、それ以前の因果関係には目もくれず、いきなりDから事が始まったとする理解に基づくもので、通常は幼稚なジコチュー人間しかやらないことです。事情を知る第三者なら、「その前に自分がやらかしたいくつものひどいことは何でもなかったわけ?」と呆れるはずですが、それを恥ずかしげもなく一国の大統領が自己陶酔的に吹聴するというところが恐ろしい。おそらく彼にはその自覚が全くないのでしょう。

 結局、彼は失効直前になって、GSOMIA延長を決めました。さらなる外交的孤立とアメリカを恐れたためだと見られていますが、「日本に対する8月の破棄通告の効力を停止する」(共同通信)というややこしいかたちでそれを発表したのです。むろん、負け惜しみの強い文政権は「これはあくまで『一時的な停止』であって、日本側が過ちを改めない場合にはいつでも廃棄できる」と付け加えるのを忘れないのですが、悪い経済指標が関係官庁から発表されるたびに決まって出される「大本営発表」的な無駄にポジティブな経済政策の自画自賛にしても、こういう滑稽としか言いようのない強がりにしても、現実を見ずに愚行を重ねて、それでどうしようもなくなると苦しい言い逃れに走るというのは、とても一国の政治指導者のやることとは思えない。トランプならずとも、「どうしてあんな人が大統領になったのか?」と言いたくなりますが、それでも支持率はまだ4割台もあるのです。

 これは僕にとってだけでなく、多くの日本人にとって謎でしょう。大統領就任以来、彼が取ってきた対応でまともなものはほとんどありません。あのチョ・グクの法相任命の時もそうでした。次から次へと出てくる疑惑に、「疑惑だけで任命しなかったら、悪い先例になる」と珍妙な理屈をこねて任命を強行しましたが、検察の捜査が進むにつれてその疑惑がさらに濃厚になるにつれ、とうとう持ちこたえられずに辞任する羽目になったのです。こういうのはアメリカでもヨーロッパでも、日本でも、ありえないことです。同じく「ありえない」のは彼の北朝鮮対応で、日本に対してはどんな些細なことでも逆上するのに、金正恩に対してはアホバカ呼ばわりされても怒ることすらない。北朝鮮は人権蹂躙の野蛮な時代錯誤の独裁国家である、というのは国際常識です。「瀬戸際外交」なるもので経済援助をゆすりとりながら、約束は守ったためしがない。それを、文は北朝鮮が核開発とミサイル実験に狂奔する中、かの国の平和志向は明確であるとして、使い走りよろしく、西欧諸国首脳に「経済制裁緩和」を説いて回ったのです(呆れられて終わりでしたが)。また、「北朝鮮は危険な敵国ではない」ので、進んで対北戦力を削減する方針を示した。北朝鮮は過去何度も「ソウルを火の海にしてやる」と恫喝しましたが、文在寅が見るところでは、金正恩は良識に満ちた偉大な政治指導者で、そんな危険性は全くないのです。先頃は脱北の意思を示した漁民二人を北朝鮮に強制送還しました。これは韓国史上初の出来事で、彼らは同じ漁船に乗った十数人の同胞殺害の疑いがもたれていたのですが、帰順の意思を示している者なら、いったん亡命を受け入れて自国の裁判所で裁けばよいものを、北朝鮮のご機嫌を損じるのを恐れて、ロクな取り調べもせず、証拠物件の漁船もろとも金正恩様にお返ししたのです。その一人は、目隠しをされて連行されたら、それが国境で、目の前に北朝鮮兵士が立っているのを見て卒倒したそうですが、文在寅にはその理由が理解できない。理想国の北朝鮮なら、韓国でよりもずっと公正な裁判が受けられるはずだからです。国際的な人権監視機構であるヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、国際法違反の暴挙だとこれを手厳しく批判しましたが、極端な親北の文政権には馬耳東風なのです。

 文政権の異常性について長々書きましたが、これらはリアルタイムで起きたことで、誇張や虚偽は含まれていないだろうと思うので、もしもあったらご指摘いただきたいのですが、一体こうした通常人の理解を絶したコリアン・メンタリティはどこに淵源するのか? 上に見てきたことすべては、ふつうの日本人の感覚からすれば人間のクズのやることです。しかし、困ったことにその「人間のクズ」が隣国の大統領で、韓国民がこれを深く恥じている様子もない。一体それはどうしてなのでしょう?

 ここでやっと話は『反日種族主義』に入りますが、この本を読む際の僕の最大の関心は、こうした非常識かつ無能な男を大統領に選出し、なおも一定の支持を与え続ける韓国民のメンタリティにありました。彼らはどうしてあの男と、取り巻き連中を異常だとは思わないのか? 韓国の保守派はむろん批判していますが、それが国民的な広い理解を得られないのはなぜなのか、いくら考えてもわからないところがあったのです。

 編著者の李栄薫氏は、プロローグを「嘘の国」と題して、韓国の異常な「嘘つき文化」の描写から始めます。「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っています」という書き出しで、偽証罪、誣告罪による起訴の件数(人口比で日本のそれぞれ430倍、1250倍)、保険金詐欺(アメリカの100倍)の桁外れの多さをまず指摘するのです。それは2014年の具体的なデータを示してのものなので、事実なのでしょうが、驚くべき話です。それで「お互いが信じ合えないので各種の訴訟が入り乱れ」、「ある社会運動家は、韓国の一人当たりの民事訴訟の件数は世界最高だ、と嘆きました」と述べて、その後、「嘘をつく政治」、「嘘つきの学問」、「嘘の裁判」と論を進めて、嘘が韓国社会全体を覆っていることを示すのです。

 そこで述べられている嘘のいくつかは、大方の日本人も先刻承知しているものですが、本文のそれぞれの章も、全部「反日韓国人の嘘」を暴くものです。非難が事実に基づかないものなら、それは中傷に他なりませんが、今の韓国人は「反日自体が正義」なので、日本相手ならどんな嘘をつこうが、虚偽に基づいて非難しようが、何ら罪悪感を感じないのでしょう。「あれは間違ったから、謝ります」と言ったという話を、僕は一度も聞いたことがありません。一例は、「朝鮮半島の少女や若い女性の20万人が日帝によって強制的に慰安婦にされた」という挺対協が広めた荒唐無稽な大嘘ですが、日本にあれほどしつこく謝罪と賠償を要求しながら、彼らは自らの非を認めて日本に謝罪するなどということは決してしないのです。国連やILOにまでその一方的な主張を持ち込み、慰安婦少女像なるものを仲間の彫刻家夫妻に作らせ、それをあちこちに「建立」しながら、虚偽と誇張に基づく日本人の悪評を世界に広めるのに、彼らは尽力してきたのですが、間違いを指摘されても居直るだけなのは驚くべきことです。挺身隊と慰安婦を混同していたという話は有名になりすぎたので、団体の名称を「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(略称「正義連」)に変えたのはご愛嬌ですが、ウィキペディアにも「北朝鮮工作機関の傘下にある朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会と協力関係にあり、産経新聞は、この団体は日韓両政府の慰安婦問題解決に向けた歩み寄りを度々妨害してきた、としている」とあるとおり、「元慰安婦の救済」ではなく、反日イデオロギーの強化を目的とする札付きの「市民団体」なのですが、今の「反日でなければ人に非ず」の韓国社会では大きな影響力をもっているのです。

 この挺対協の目に余る「悪行」については、第22章「韓日関係が破綻するまで――挺対協の活動史」に詳述されているので、そちらをご覧いただきたいのですが、文政権はこれにべったりなので、だから慰安婦財団も解散したのです。「もっと日本を懲らしめてやらねばならない」というのは、彼らの共通信念なのでしょう。北朝鮮の深刻な人権侵害については何も言わないのも同じです。そこには理性的な現実認識というものがそもそもない。

 著者たちはそれを「反日種族主義」と命名し、呪術的な朝鮮半島のシャーマニズムと結びつけていますが、たしかにこれは一種の「宗教カルト」です。文在寅はその「神官」であり、挺対協はその「巫女」のごときものです。彼らは「反日儀式」を司り、それに異を唱える者は「悪魔の手先」として“積弊清算”の対象となるのです。いかがわしい「親日」の痕跡は「日帝残滓」とされ、撲滅されねばならない。だから学校の校歌も、親日的な人物が作ったものであれば歌うのをやめねばならず、校庭の樹木でさえ、植民地時代に日本から持ち込まれたという俗説のあるものは「親日の木」として伐り倒さなければならない。過去の歴史全体が、反日ファンタジーに合わせて書き換えられなければならないのです(だから恥ずべき親日政権の朴正熙時代の「漢江の奇跡」なども教科書から削除された)。

 この本には一つ、とびきりこっけいな話が出てきます。それは第13章「鉄杭神話の真実」で述べられている話で、僕はこの「鉄杭騒動」というのは知りませんでしたが、何でも「文民政府だと宣言した金泳三政権(1993~1998年)」のとき、「鉄杭引き抜きが一種の国策事業」として行われたらしいのです。一体これはどういうわけなのか?

 民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ、人材輩出と精気を押さえ付けようとしたのだ(p.166)。

 これは、「ソウル国立民族博物館で開かれた光復五〇周年記念の『近代一〇〇年民族風物展』に展示され」た「楊口で除去された鉄杭」に添えられた説明文だとのこと。それで全国で鉄杭抜きの作業が必死に行われ、それは「日帝」が残したものかどうか、よくわからないものが多かったそうですが、とにかく片っ端から抜いて回った。事実は、その憎き「日帝」が残したものも、風水とは関係がなくて、「日本は朝鮮を併合した後、土地調査のため(朝鮮の)歴史上初めて近代的測量を行ない、その過程で測量基準点の標識を全国の高い山に設置」したのが、迷信深い民衆からそう誤解されたにすぎなかったのですが、二〇世紀末になってもまだ、政府まで乗り出して大々的にそんなことが行われたのです。

 うーむ。僕はオカルトや神秘主義には詳しい方ですが、さすがにこれには呆れたので、「鉄杭神話は、韓国人の閉ざされた世界観、非科学性、迷信性が、長い歴史と共に反日感情と結合して作られた低劣な精神文化を反映しています」と著者が述べているのは尤もです。これでは韓国人悲願のノーベル科学賞など、永遠の夢でしかないでしょう。全体に理性的、現実的な思考ができない人たちなのです。「いや、人材輩出と精気を押さえ付けようとした日帝の悪だくみは粉砕したから、今後は気がうまく流れるようになって、天才が続出するはずだ」と言うかもしれませんが。

 こういうのは今の日本人には理解し難いことですが、オウム真理教のようなカルトを考えるとわかりやすいかもしれません。あれもある意味、迷信に彩られた古い心性の復活と考えられるからです。彼らは精神病質人格の麻原というグルの下、社会を敵視し、「毒ガス攻撃を受けている」という被害妄想を共有しました。そうしながらサリンを製造してそれをばらまき、社会を大混乱に陥れ、「ハルマゲドンがやって来る」と言いつつ、自作自演のハルマゲドンを計画したのです。虚栄心が強く、東大法学部→政治家→総理大臣という誇大妄想的な夢をもちながらその入り口にも辿りつけず挫折した麻原は、屈折した内面の持主でしたが、その心理的補償として高学歴の若者たちをリクルートし、彼らを幹部に登用しました。宗教的な嘘は別として、オウムの嘘は信者の一人を誤って死なせてしまい、その発覚を恐れて隠蔽を図ったところから始まった。嘘をごまかすために次の嘘が必要になるというかたちでそれはエスカレートしたのですが、そのプロセスでどんどん攻撃性も増し、最初は事故死の隠蔽にすぎなかったものが積極的な殺人と強引なその教義的正当化へとエスカレートし、ついには大量殺人、国家転覆という途方もない妄想へと発展したのです。それは「最初にして最後の最終解脱者」である「至高の尊師」が支配する「至福の千年王国」樹立という“ポジティブ”な包装紙にくるまれていたのですが。

 文在寅が麻原と同じだとまでは僕も言いません。しかし、彼は虚偽にまみれた「南北統一後のユートピア」を夢想する、自国の屈辱と挫折にまみれた歴史を全否定して「あるべき歴史」に作り替えたいという願望に支配された一個の妄想家なのです。それはカルトの神官にはうってつけの素質で、韓国社会は新たな神官を得て、これまで見え隠れしていた古い心性とその自閉的な「神学体系」が露骨なものとして前面に出てきた。そう考えるといくらかわかりやすくなります。

 いくら馬鹿に見えても、彼らは知能が足りないのではない。オウム事件の時も、本来頭のいいはずの若者たちがどうしてあのような妄想に取り込まれたのか、人々は不思議に思いました。おかしいなと思っても雰囲気的に内部ではそれに逆らえないという集団心理も手伝っていたのでしょうが、現実を直視したのでは自分の信仰や価値観が一気に崩壊してしまうので、何としてでもその妄想にすがりつきたいという思いが大きかったのでしょう。彼らの知的能力は、現実と照らし合わせてそちらを修正するのではなく、その虚偽の妄想体系を精緻化し、正当化する努力に注がれたのです。彼らが世間の批判に何と言って反論していたか、記憶している人もいるでしょう。

 韓国の「反日神学」もこれと似ています。『反日種族主義』の良心的な著者たちは、「このままでは国が亡びる」という危機感の下、それに正面から異論を叩きつけたのですが、文在寅の右腕だった、「疑惑のタマネギ男」と呼ばれていたチョ・グクなどはこれを「ヘドが出る本」だとして斬り捨てたのです。文は疑惑の渦中で彼を法相に任命し、世論の批判に耐えかねてついに辞任するに至ったのですが、文政権とその取り巻きが一個のカルトに他ならないと理解すれば、あの非常識な任命劇もよくわかるのです。カルトの内部においては何よりも「神学への忠誠」が重要であり、人格面はどうでも、チョ・グクはそれには欠けるところがなく、神学の正当化・精緻化をはかる上でも不可欠の人材だったからです。

 オウムと文政権の共通点は他にもあります。それは自らを高しとする、その並外れた自惚れです。オウムの信者たちにとって俗世間は「高度な精神性をもたない、不潔な妥協に満ちた世界」でした。文一派にとっても韓国の保守派は「ゴミ溜め」にすぎないのです。とくに親日派ほどけがらわしいものはない。オウムの信者たち同様、自分の内面の醜さ、ご都合主義的な虚偽体質は自覚しないのです。他方、北朝鮮は、その現実に照らせば人権無視の、野蛮かつ醜悪な時代錯誤の独裁国家にすぎませんが、文のカルト信仰に照らせば、それは「反日の旗幟鮮明な、民族自立の本道を歩いてきた」尊敬すべき友邦なのです。だから自分の愚行を棚に上げてすぐ日本には腹を立てるが、金正恩にはどれほど罵倒されても、苦痛の色は見せてたとしても不快は表明することがない。その極端なコントラストを説明してくれるのは、彼のカルト信仰なのです。神官・文在寅に見えているのは現実ではない、彼自身の幻想世界なのです。

 幻想を通じて世界を見る人間は、その幻想に合わせて現実の人間や出来事を割り振ります。事実どうなのかということは重要ではない。だからそれを軽視してしまうのですが、それでは現実からきついしっぺ返しを受けることは避けられない。彼の現実無視の「理想」に基づく経済政策はものの見事に失敗しました。韓国の宿痾である財閥中心の経済構造の改革も全く進んでいない。彼の支持母体であった「自己利益追求集団」の巨大労組はさらにのさばり、それが経済悪化と格差社会に拍車をかける。日本との関係については、戦後最悪です。しかし、幻想に固執する彼は容易にそれを認めない。鵜の目鷹の目で好都合な材料を探して、「すべてはうまく行っている」と言い張るのです。一部問題はあると認める場合でも、非難すべきは不都合を作り出した悪しき現実であって、自分の幻想の方ではない。これは典型的なカルト思考です。

 カルトは平気で嘘をつきます。その幻想体系それ自体が虚偽なのですが、彼らにとってはそれは正義であり、絶対なので、その幻想を共有しない者相手にどんな嘘をつこうが、それはさしたる問題ではないのです。幻想が真実なら、現実は虚偽になる。そこでは価値が転倒しているので、話が噛み合わないのはあたりまえです。

 例の反日歴史教科書問題にしても、日本人は「あまりにも史実無視の嘘が多すぎる」と憤りますが、彼らにとってはその幻想の中にある「歴史ファンタジー」こそが重要なので、まず歴史的資料の客観的かつ詳細な吟味・分析があって、それに基づいて歴史理解が進むという近代精神的なやり方にはならないのです。ファンタジーに合わせて資料解釈も行われる。『反日種族主義』の著者たちは例外として、韓国の歴史研究者たちの間では、そのファンタジーに適合する資料探索が熱心に行われ、新たにそれらしきものが発見されると、そのファンタジーをより強化する方向での歴史記述の修正が行われる。マスコミも政府もこぞってそれを称賛し、後でその資料がいかがわしいものであったり、恣意的利用が甚だしいものであることが判明したとしても、深く咎められることはないのです。そしてそれはそのまま真実として受け入れられる。これとは反対の、皆が信奉するファンタジーの正当性を疑わしくさせるようなケースでは、異常なまでに厳しく吟味され、それはほとんど揚げ足取りに等しいものですが、一部に語句の「不適切な使用」や誤りが発見されるとそれが針小棒大に報じられて、全部が虚偽として葬り去られるのです。その「取り調べ」の雰囲気は、西洋中世の異端審問のそれに近い。僕は『帝国の慰安婦』の著者、朴裕河さんの裁判のとき、そう感じました。近代国家でどうしてああいうことが起きるのかと。

 韓国を被害者意識と病的なナルシシズムに冒された、神経症的な「反日カルト国家」だと理解すれば、こうした数々の「非常識」も了解可能なものになります。1980年代の「民主化」以降、とくにそれが顕著になったというのは皮肉なことですが、政治的抑圧から解放された時、呪術と迷信にまみれた古いシャーマニズム的心性も一緒に現われ、それに呑み込まれてしまったのかもしれません。おそらく、韓国は元々、日本以上に集団心性の支配力が強く、個が稀薄な国です。それも関係しているのだろうと思います。

 もう一つ、僕にはかねてから不思議なことがありました。韓国人はどうしてああも深く過去のことを根にもち、しつこいのかという素朴な疑問です。朴槿恵・前大統領は「恨みは千年たっても忘れない」という名言(?)を残しましたが、それが「恨(ハン)の文化」だと言われても、それだけではよくわからない。しかもその恨みが、しばしば甚だしく主観的なものであることで、それが客観的に妥当性のあるものなのかどうかなどということはあまり気にかけないのです。

 こういうのは、史実の見地からすれば「99%嘘」の韓流歴史王朝ドラマなどにもよく表われているので、両班の重臣たち(その多くは権力を悪用して私腹を肥やしている)は派閥に分かれて血みどろの抗争を繰り返し、その中の悪役の首領のたちの悪さ、諦めを知らない執念深さは半端なものではありませんが、最後にとうとうつかまって死を免れなくなっても、呪詛の言葉を口にしたり、「こんな私に誰がした」と責任転嫁するのを忘れないのです。何でも、彼(彼女)は昔、よい人間であったが、誰かに手ひどく裏切られるとか、権力の無慈悲な暴力によって家族を奪われるなどして、あるいは「権力の蜜の味」にスポイルされるとか、王様の寵愛を失うなどして、人格が変容し、このような悪しき人間になってしまったのです。韓国流「甘えの構造」の面目躍如で、それが度の過ぎた悪行の正当化にどうしてなるのかわからないが、なってしまうのです。そして部下たちも、その悪行に手を貸し続け、最後には主人の処刑に涙し、あるいは憤る。むろん、善玉の主人公だけは「清く正しい(しかもありえないほどに)」のですが、全体として見た場合、著しく「公」の観念に乏しいことは否めないので、私的な怨念を晴らすことか、自己及び一族の繁栄、権力の伸長をはかることこそが正義で、それを超えた「正義」の観念などあまりなさそうに思えるのです。

 これは基本的に今の韓国でもあまり変わっていないのではないでしょうか。だから『反日種族主義』のプロローグの指摘にもあったように、今の韓国社会では並外れて不正が多いのです。韓国の儒教社会においては「名分」というものが何より重視されてきました。歴史王朝ドラマでは、重臣たちが陰謀をたくましくするとき、きまってこの言葉が出てきます。敵を非難して陥れたり、卑劣な陰謀を正当化する際、この「名分」が錦の御旗として使われるのです。今の韓国でも同じく、与野党の攻防でも、マスコミの批判でも、この名分が多用される。それは韓国が「理の国」だからだそうですが、それは道具、タテマエにすぎないので、社会がそれで道徳的になることは決してない。むしろ逆なのです。儒教の始祖たる孔子その人がこの危険性をよく承知していた。だから「正名論(名称と実質を一致させること)」を説いたのですが、名分がタテマエとして他者への道徳的非難や自己正当化に乱用されるとき、それは嘘をつくことに他なりませんが、社会全体の道徳規範は著しく低下するのです。

『反日種族主義』が指摘するように、これは今の韓国社会の深刻な病理であると思われますが、李栄薫氏の説明によれば、こういうのも「韓国の文明史に古くから存在するシャーマニズム」が関係するのです。少し長いが、日本語版p.336~8にそのまとまった説明が出てくるので、そこを引用します(カッコ部分は引用者の補い)。

 シャーマニズム、物質主義、種族主義は、お互い深く通じ合っています。〔韓国の〕シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です。私は朝鮮の奴隷制度を研究する中で、このような生と死の原理に気づくようになりました。そう気づいてから、韓国の文明史について多くの点を新しく考え直すようになりました。このような生と死の連鎖の中で、善と悪の絶対的区別や、死後の審判は成立しません。どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間の霊魂が永遠の救済に至る道です。それで両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことも、不法にお金を儲けることも、みな正当化される物質主義社会が成立しました。シャーマニズムと物質主義の関連は、このようなものです。

 物質主義社会で政治的に対立する集団の間には、共有する真理や価値観はありません。二つの集団が衝突する場合、これを調整する客観的な弁論は許されません。一方の集団はその物質的成就のため、もう一方の集団を排斥し、敵対視します。その集団に「自由な個人」という要素は存在しません。個人は全体に没我的に包摂され、集団の目的と指導者を没個性的に受容します。このような集団が種族です。このような集団を単位にした政治が「種族主義」です。(中略)

 このような韓国の政治文化が、対外的に日本との関係に至ると、非常に強い種族主義として噴出します。古い昔から日本は仇敵の国でした。反日種族主義の底辺には、そのように歴史的に形成された敵対感情が流れています。中国に対する敵対感情は歴史的に稀薄でした。そのため、反中種族主義というほどのものはありません。むしろ中国に対しては、朝鮮王朝がそうしたように、事大主義の姿勢を取ることが多いのです。中国がひどいことを言っても怒らず、ひどいことをしても我慢して過ごします。韓国の民族主義には、自由な個人という範疇がありません。二つの国に対する態度も、その未熟な世界観によって顕著に不均等です。それで私は、韓国の「民族主義」は「種族主義」と呼び変えるのが正しい、と主張するのです。

 反日種族主義は一九六〇年代から徐々に成熟し、一九八〇年代に至り爆発しました。自律の時代に至り、物質主義が花開いたのと軌を一にしました。反日種族主義に便乗し、韓国の歴史学会は数多くの嘘を作り出しました。この本が告発したいくつかは、そのほんの一部にすぎません。嘘はまた反日種族主義を強化しました。過ぎし三〇年間、韓国の精神文化はその悪循環でした。その中で韓国の精神文化は、徐々に低い水準に堕ちて行きました。


 そしてとうとう、文在寅のような大統領を誕生させ、日韓関係を「戦後最悪」と言われるレベルにまで悪化させたのですが、その「反日種族主義」は没理性的なものであるだけに、対応が難しい。それはカルト集団相手に話し合いが成立し難いのと似ています。「洗脳」を先に解かないことには、どうしようもない。

「なぜ韓国人はああもしつこいのか」という先の疑問に戻りますが、それを解くヒントも上の引用にありそうです。それは「〔韓国の〕シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です」という箇所です。だから、「どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間の霊魂が永遠の救済に至る道」だということになって、「両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことも、不法にお金を儲けることも、みな正当化される」ということになるのです。

 これは韓国人には超越的な、言葉の真の意味での「彼岸(ひがん)」はないことを意味します。日本人のような「死ねば仏」という観念はないのです。あの世はこの世の延長で、身分差別もそのまま維持される。「あの世」は「この世」の従属物でしかなく、奴婢で死んだ人は何度も生まれ変わって、この世で両班(貴族)の地位を得るまでは救済されず、その救済も身分差別に立脚する歪んだものでしかないのです。

 再び韓流歴史王朝ドラマを持ち出すと、それには典型的な「貴種流離譚」などが多いが、低い身分の女性が王様の寵愛を受けて高い地位を授けられる、といったものもあります。この場合も、賤民が貴族に“昇格”するのであって、それ止まりです。現代ドラマだと、財閥の御曹司がその威光を恐れぬ庶民女性に恋をして、といったふうなものが多いようです。華やかな上流階級がやはり舞台となるのです。「そんなクソみたいなもの、相手にしてられるか」といった見地から作ったのでは一般受けがしないのでしょう。貧しい庶民は富裕層の相次ぐ不正に怨嗟の声を上げる一方、それに憧れて仲間入りを熱望するといった矛盾した心理の中に置かれているのです。その中で身分社会は維持される。

 厳密には、それでは救済にはならない。身分差別のある現世の中で、勝ち組になるまで戦い続けるしかなくなるのですから。「千年たっても恨みは忘れない」ことが是とされる国、民族というのは、その救いのない宗教観から生まれたものなのでしょう。それだけに現世的な恨みつらみも根深いものになるのです。韓流ブームの起点となったドラマ『冬のソナタ』は、美男美女によるその「一途な愛」で日本のおばさんたちを熱狂させたのですが、あれなども見方を変えれば現世的な感情執着の強さを讃美するもので、醜男醜女のそれなら、ストーカーじみたしつこさになります。愛であれ、恨みであれ、韓国的シャーマニズムの心性では、それが成就するまで維持されるのが望ましいことなのです。日本でいえば、江戸時代の有名な四谷怪談のお岩さんの心理です。それが今の韓国ではまだ生きている。挺対協改め正義連などは、元慰安婦の代理人を自称し、いくら日本政府が謝罪・賠償しようとも、それは彼らが主張する「性奴隷」の苦痛には見合わないものだとして拒絶し、非難を続けているのですが、その主張の高度の幻想性・主観性とも相まって、「呪詛の宗教」そのものです。そういう団体が韓国社会で孤立するどころか大きな影響力をもつというのは、社会がそういうものに親和的な体質をもつからでしょう。この本の第1章では「荒唐無稽『アリラン』」として、韓国で累計350万部を売り上げたという「今日の韓国で一番よく知られた人気小説家」、趙廷来(チョ・ジョンネ)の“反日国民的小説”『アリラン』の並外れた虚偽を暴いていますが、その中でこの人気作家は史実的にありえない「悪鬼のような日本人による朝鮮人虐殺」の場面をいくつも迫力満点の筆致で描き出しているそうです。歴史小説の場合、読者はそれを事実を踏まえたものと誤解しやすいので悪質です。李氏は彼を「狂気がかった憎悪の歴史小説家」と評していますが、これも「呪詛の宗教」です。

 長くなったのでこれくらいにしますが、韓国のあの異常さがどこから、どのようにして出てきたのかという僕の疑問は、ある程度この本によって答えられました。文政権は著者たちのいう「反日種族主義」から生まれたカルト政権で、その幻想性において、過去のどの政権をも凌ぐ。対日外交は彼らのその幻想に基づくものなので、僕ら日本人には理解し難いのです。しかし、彼らの幻想は日韓関係を極度に悪化させたのみならず、国内経済面でも、国家内部の政治対立を極大化させて自国民の間に深刻な分裂を生み出してしまったという点でも、行き詰まってしまった。幻想は現実を前に立ち往生してしまったのです。

 韓国でこの本がベストセラーになった理由を、著者たちは、文政権の度の過ぎた「反日」に韓国民が危機感を感じるようになったためではないかと分析しているようです(意外にも、露骨な反日歴史教育を受けて育った30代が一番多く買っている由)。僕が前にここにちょっと書いたロバート・J・リフトンは、Losing Reality で、完全な洗脳は不可能で、健康な部分は必ずどこかに残っているものだと書いています。文政権はその硬直したカルト的体質ゆえに、逆に韓国民の間に本能的な警戒感を呼び覚ましたのかもしれません。だとすれば、文政権は日本人に韓国の異常な思考形態と歴史教育にあらためて注意を向けさせただけでなく、韓国民の洗脳にも目覚めのきっかけを与えたと言えるかもしれません。このカルト大統領は皮肉な功績を残したことになるわけです(これとは別に、高校生たちが韓国教組の教師たちの反日思想強制に抗議の声明を出したというニュースもありました)。

 仕方なく妥協はしても、体質にそもそもの問題があるので、文のカルト政権ぶりが変わることは望み薄です。彼のあの「神官」じみた能面のような顔つきは変わらないでしょう。本格的な関係改善はその後の政権に期待するしかありませんが、韓国社会そのものは、まだ柔軟性のある若い世代から徐々に変わってくるかもしれない。それに期待したいところです。

 相変わらずだなと思ったのは、この本の著者たちは、『帝国の慰安婦』の朴裕河さんと同様、言論の場での対等のやりとりではなく、語句の揚げ足取りで訴訟攻めに遭うのではないかと危惧していたら、案の定、「強制徴用労働者像」なるものが、韓国人労働者のものとして流布された日本人労働者の写真(そういう“誤って”転用された写真は少なくない)をモデルとしたものではないかという記述(p.72)が名誉棄損に当たるとして、像の彫刻家夫妻が損害賠償の訴えを起こしたそうです。ニュースに「キム・ウンソン、キム・ソギョン夫妻」とあったので、ひょっとしたらと思って調べたら、やはりこれはあの慰安婦少女像で有名な、挺対協とタッグを組んでいる夫妻です。彼らがやせこけてあばら骨が浮いた徴用工像も作った。モデル問題というのは彫刻などの場合、本人が「違う」と言い張れば、それでおしまいなので、本書で名指しで批判されている挺対協が意趣返しに焚き付けたものなのでしょう。『帝国の慰安婦』のときと同じ構図で、そういうところは、相変わらずの韓国なのです。

 しかし、挺対協のそうしたやり方は支持を失うかもしれない。この本の挺対協批判の章は非常によくできていて、僕も読んで胸のつかえが下りたのですが、ふつうに読めばこれがどんな団体なのか、よくわかるからです。本書の他の細かい部分、たとえば「強制労働」の解釈をめぐる箇所などでは一部から尤もな批判が出ていますが、僕がネットで検索して読んだかぎりでは、感情的な反発は別として、他に立論を覆すような強力な反論はほとんど出ていない。文政権御用新聞のハンギョレは過日、「民族問題研究所と日本軍「慰安婦」研究会は〔10月〕1日、ソウル龍山区(ヨンサング)の植民地歴史博物館で『反日種族主義』緊急シンポジウムを開き、この本の主張に逐一論破した〔最後、日本語がヘンだが、そのまま〕」として、そのシンポジウムの模様を伝えていましたが、実際は「論破」になどなっていないので、反日イデオロギーに基づく従前の主張を飽きもせずただ繰り返しているだけです。

 最後に、『反日種族主義』の編著者、李栄薫氏の日本記者クラブでの記者会見(今月21日)のときの冒頭発言の全文が産経に出ているので、URL を付けておきます(産経を引用したからといって「右翼に転向したのか!」と決めつけないでください)。

李栄薫氏「韓国人の自己批判書だ」 発言全文



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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ノーム・チョムスキー『アメリカンドリームの終わり』、スティーブン・M・グリア『ディスクロージャー』

2017.11.19(14:19) 533

・ノーム・チョムスキー『アメリカンドリームの終わり』(寺島隆吉+寺島美紀子訳 ディスカバー・トゥエンティワン)

・スティーブン・M・グリア『ディスクロージャー』(廣瀬保雄訳 ナチュラルスピリット)

 この二つを、僕は同時に買って、並行して読みました。どちらも非常に面白かった。チョムスキーは著名な言語学者であるのみならず、犀利卓抜な政治評論でも有名で、僕はアルンダティ・ロイ(インド人の女性作家・政治評論家)のファンですが、彼女のお師匠さんに当たる人と言えばいいのか。僕ぐらいの年配なら、若い頃『デカルト派言語学』や『知識人と国家』などを読んだことのある人は少なくないと思うのですが、1928年12月生まれだというから、もう90歳近い人だということになります。この本は「語り下ろし」だそうなので、高度な集中力を要求される彼の他の本と較べてはるかに読みやすい。

 スティーブン・M・グリア氏の方は、僕はこの方面に疎いので知りませんでしたが、この本の「著者紹介」によれば、

 ディスクロージャー(公開)・プロジェクト、地球外知性体研究センター(CSETI)、 およびオリオン・プロジェクトの創始者。2001年5月に米国ナショナル・プレスクラブにおいて衝撃的な記者会見を主催。20名を超える軍、政府、情報機関、および企業の証人たちが、地球を訪れている地球外知性体の存在、宇宙機のエネルギーおよび推進システムの 逆行分析等について証言し、その模様はウェブ放送されて世界中で10億人を超える人々が視聴した。
 全米で最も権威のある医学協会アルファ・オメガ・アルファの終身会員でもある グリア博士は、一連のプロジェクトに専念するため現在は救急医の職を辞しているが、かつてはノースカロライナ州カルドウェル・メモリアル病院の救急医療長を務めた。
 博士には本書の他に4冊の著書があり、多数のDVD も制作していて、地球外文明と平和的にコンタクトする方法を指導すると共に、真の代替エネルギー源を一般社会に普及させる研究を続けている。また、サンスクリットのヴェーダを学び、30 年以上にわたりマントラ瞑想を教えていて、映画「古代の宇宙人」「スライブ」等にも出演するなど、 極めて多彩な活動を精力的に行なっている。


 という、元は医師だが、「UFO研究の権威」の一人なのです。僕はこの方面には詳しくありませんが、関心は昔からあったので、ある程度はこの方面の本も読んでいて、Roswell Incident(ロズウェル事件)に関しては、訳本のみならず、英語のペーパーバックを買って読んだこともあるくらいです。あの事件など、観測気球ごときであの騒ぎになるわけはないので、どう見ても隠蔽工作が行われたとしか思えなかった。この本の複数の証言によれば、やはりあれは本物の「UFO墜落事件」だったということになるので、乗員であるET(地球外生命体)の遺体もそのとき回収されていたのです。

 この本には日本航空ボーイング747のUFO遭遇事件も詳しく述べられています。それは1986年のアラスカ上空でのことで、それは当時の日本の新聞にもベタ記事として出ていたような気がするのですが、FAA(米国連邦航空局)やFBI、CIAはいつものように揃って口裏合わせをして、「なかったこと」にし、その記録を隠蔽したのです。だから、この種の事件の続報はきまっていつもない。お気の毒だったのは見たものを正直に見たと言った寺内機長で、日航は「この事件に関して医学審査委員会を開」き、「その結果、そのような奇妙な現象を見るパイロットを飛行させることは、日本航空にとり賢明でないとの結論になっ」て、寺内氏は地上勤務に降格されてしまったのだという(その後復帰)。地上の航空管制官とのやりとりが実際にあって、そこのレーダーでも31分間にわたって奇妙な動きを見せる目標が捕捉されていたのだから、それが幻覚や錯覚の類であるはずがない。寺内機長はそれを視認して、747機のおよそ四倍の大きさがある「一個の巨大球体」であると管制官とのやりとりで述べたようですが、位置を自在に変え「機の周囲を跳ね回」りながら追尾する巨大飛行物体など「ありえない」ので、かかる幻覚を見るようなパイロットは精神に異常が認められ、危険である、ということにされてしまったのでしょう。

 こういうのは、僕に言わせれば無意識的な「ヒト至上主義」に基づく人間の傲慢な思い込みの一つにすぎませんが、それは一般的なものとして存在するので、軍や政府諸機関はその心理を隠蔽に利用するのです。「そんなもの、常識的、科学的に考えてありえないでしょう? 無意識の願望が投影されて、そういうものが見えたと錯覚することがあるので、そういう人たちはみんな少々頭がおかしいんですよ」などと。仮に中世の人間が今のふつうの航空機を見たとすれば、それは「ありえない」ので、幻覚を見たか、悪魔にとりつかれたかだと思われたでしょう。幸い今は火あぶりにされることはありませんが、それと似たようなものです。

 僕は宇宙人が地球を侵略するなんてことはまずないと思っていますが、それは彼らのテクノロジーをもってすれば赤子の手をひねるようなかんたんなことのはずなのに、それをまだやっていないということからして、彼らはむしろ憐れみをもって人類の有様を眺めているのではないかと思うからです。「どうして連中はああも利己的で、アホなんだろ? とくに支配層が最悪だ。地上の他の生物のためにも、根絶をはかるべきではないのか?」「いや、未開で遅れているんだから、仕方がない。われわれの先祖もかつて愚かだったことがある。彼らのDNAはサルとほとんど同じなのだ。それを思えば頑張っているとは言えるので、もう少し慈悲心をもって、愚かさに自分で気づくまで寛大に見守ってやるべきではないのか?」というような会話が、ETたちの惑星間会議の場で交わされていても、何ら不思議ではないように思われるのです。地球史上、第六番目の生物大量絶滅が進行しつつある今、今回のそれは人為的な要因によるものなので、ETたちの間でも「有害生物退治派」が優勢になりつつあるのではないかという気もしますが、その場合でも彼らの意図は「侵略」ではなくて、「ダニ駆除」みたいな趣旨のものだろうと思われるのです。基本的に彼らは人類ほど利己的でも邪悪でもない。まあ、「宇宙人も色々」かもしれませんが(本書の著者もETたちは核戦争など、人類の愚行を懸念していて、こちらが攻撃しないかぎり襲ってくることはない友好的な存在と見ているようです)。

 この手の本は玉石混交ですが、この『ディスクロージャー』は良質なもので、本文だけでも700頁を超えるので読むのは大変ですが、資料集、証言集としても大きな価値があるので、手元に置いておくと便利です。「へっ、UFOなんて…」という侮蔑も露わな反応を見せる知人に読ませて感想を聞くのもいい。この本によれば、その高度なテクノロジー、エネルギーシステムに学び、それを活用すれば、今の人類が直面する多くの問題が解決できるようなので、きちんと情報を公開してもらいたいものですが、電気自動車ですら石油メジャーは既得権益を害されるというので普及を妨害したのだから、道のりは遠そうです。今の支配階級(民主主義の今、そのようなものは存在しないというのは、それこそ「幻想」に過ぎません)の目に余る利己性からして、彼らが「地球や人類の将来的福祉」はおかまいなしに「目先の自己利得」を最優先するのは明らかなので、それは困難なのです。

 ここで話はめでたくチョムスキーの本とつながります。今のアメリカは完全に「病気」だと僕は思っていますが、どうしてあそこまでひどいことになってしまったのか、そのあたりの経緯をこの本はわかりやすく解説してくれています。訳者の註も周到かつ親切なもので、申し分がない。

 要するに、今のアメリカは「民主主義社会」ではないのです。資本主義かといえば、それも疑問で、著者の皮肉な言い方を借りれば、「企業社会主義」みたいなもので、政治はごく一部の強欲・利己的な特権階級の手に握られている。1970年代にそれは変質し、その後その度合いはエスカレートして今日に至った、というのが著者の見立てです。民主党政権だろうが、共和党政権だろうが、そこは同じなのです。むろん、アメリカンドリームなんてのは今は昔の話で、階級間移動の最も困難な国に、アメリカはなってしまった。

 愚かにも、僕はオバマが当選した時喜びました。あのブッシュの後だったからなおさらですが、同時に暗殺されるのではないかと心配した。しかし、しばらくすると、これは暗殺の心配なんか全くない男だというのがわかったので、相も変らぬ「ウォールストリート政権」のままだったのです。Change!のスローガン空しく、人相も見る見る卑しくなっていった。目玉のオバクケアも保険会社・製薬会社の策謀で「ない方がマシ」なものに変えられてしまったよう(国民皆保険のようなものはアメリカでは「政治的な支持が得られない」ので、これは「ゴールドマンサックスやJPモルガンチェイスなどの金融機関からの支持が得」られないというのと同義だそうです)だし、国際政治に関しても見るべきところは何もなかった。無人戦闘機ドローンによる民間人殺害で名を上げただけだったのです。彼の大統領職はたんなるお飾りでしかなかった。それなら思いっきり粗野で下品なトランプのような男の方が「突破力」があるのではないかと期待して、「貧すりゃ鈍する」中で、ああいうのをえらぶ羽目になったのです。またしてもその期待は裏切られるでしょうが(トランプに二期目はないが、今も危ないので、「余命一年」なんて言われています。しかしそれも、マスコミや良識派の批判によってそうなるというのではなく、「エスタブリッシュメントの意向」に合致しないからその場合は切られるわけで、仮に彼が差別的言動に怒ったイスラム過激派によって暗殺された場合でも、それは防護を意図的に怠ってそう仕向けたという性質のものでしょう)。

 この本には「人類の支配者」という言葉が何度も出てくるので、これはオカルト的陰謀論の類ではないか、と思う人がいるかもしれませんが、元はアダム・スミスの言葉だそうで、述べられていることはいたってまっとうなことです。アメリカ人は“伝統的に”「小さな政府」を好み、とりわけ共和党はそうだと言われますが、額面通りにそれを受け取ることはできないので、強欲なエスタブリッシュメントは人々に自助努力を説きながら、「自分たちが経営危機に陥ったときに、国民の税金を総動員して自分たちを救ってくれる強力な政府機能」と「強力な軍隊」は欲するのです。「それがあれば、世界を支配下に置くことができますし、世界中で展開している彼らの悪行(企業活動)に抗議する『民衆暴動』から身を守ることができ」るからです。

 70年代以降、なぜアメリカの金融資本は巨大化したのか、また、それは「歴史の必然」みたいに思われていますが、なぜアメリカの産業(製造業)は空洞化したのか、あの馬鹿げた経済の「トリクルダウン学説(金持ちを税制で優遇してもっと金持ちにしてやれば、貧乏人もそのおこぼれに預かることができる)」は、わが国でもマック竹中こと竹中平蔵あたりがさかんに吹聴していましたが、そうしたことは彼ら「人類の支配者」の利益にかなうがゆえに「必要なこと」だと主張され、実行されたのです。彼らにとっては確かにそれは「必要」だったが、大多数の人たちにとってはそうではなかった。それは自然なことでも防げないことでもなかったのです。

 アメリカの大学の学費は馬鹿高いことで有名ですが、これも昔は安かったらしいので、名門のアイビーリーク(すべて私立)ですら例外ではなかったのです。今は州立大学ですら驚くほど高額なので、その理由は「合衆国の半分以上の州で、州立大学の財源のほとんどは、州政府からの交付金ではなく、学生が自分の懐から支払う授業料になってしまって」いるからです。その結果、多くの学生は多額の学生ローンを背負って卒業(または中退)することになり、これも有名な話ですが、それは自己破産しても免除されない。著者によれば、彼らは「ネズミ捕りにつかまったネズミ」に等しくなり、たとえ弁護士になっても、借金返済のために「儲けのために動く民間の法律会社に就職せざるを得なくなって」しまうのです。これは他の職種でも同じでしょう。彼らは解雇を恐れて上の命令に唯々諾々と従う「従順な羊」にならざるを得ないのです(日本とアメリカの共通点は、異常に労働時間が長いことです)。

 初等・中等教育もアメリカは悲惨で、貧困地区の学校には予算がないため、まともな教育は提供されず、この本には「ドラッグを飲ませて成績の向上を図ろうとしている医者が少なからずいる」という話まで紹介されていますが、教育に対する公的扶助が徹底して削られているのです。とにかく削れるものは皆削る。そうしないと財政が悪化してやっていけないからだ、と説明するのですが、富裕層の税金を軽減し、金融機関が悪質なマネーゲームに走って潰れそうになったときなどは巨額の税金投入で救済する「余裕」はつねにあるわけで、それは嘘なのです。政治家は選挙(それはますますカネのかかるものになっている)のたびにスポンサー(多国籍企業や機関投資家)の援助をアテにしているから、タテマエはどうあれ、実際の政策や予算の使い道は彼らの意向に合わせたものになる。

 プラトンの哲人政治ではないが、少数者による独裁が正当化しうるのは、それが「良心的な、高潔なエリート」によるものであるときだけです。それでも独善性は免れないが、今のアメリカの場合、それは「極度に利己的なエリート」に支配されるようになっているのです。企業経営者も、四半期三ヶ月でどれだけの利潤が生みだされるかだけが評価され、長期的な視野やそこで働く従業員の福利厚生などは全く考慮されない。考慮されているのはCEOの巨額報酬と株主利益だけなので、人件費などは削った方が利益が上がるから、むしろ容赦なく削るのです。経済のグローバル化にしても、それは「必然」だったのではなく、まず「拷問部屋」と呼ばれるような途上国の貧困労働者を低賃金で使って利益を最大化し、その次は、彼らと競わせて、先進国の労働者の人件費を削減するという方向に進むので、それはアメリカの中産階級を没落させたが、支配層には好都合なことだったのです。

 その際、労働組合が存在すればその妨げになるというので、これを潰すか無力化しなければならない。アメリカのエスタブリッシュメントはこれをやりました。おかげで今は民間の組織率は7%以下まで落ち込んだ、という話ですが、彼らはアカ(共産党)であり、「特殊権益の保持者」なので、世間の人たちとしてもそんなものを擁護すべき理由は何もないというわけです。こうして労働者は自分の首を絞める羽目になった。

 日本の場合だと、労働組合は企業別、産業別ですが、こちらも組織率は下がり続けています。そして国民の支持も低い。理由の一つは、それは多く大企業の正社員を対象としたもので、大半は御用組合と化し、経営陣にすり寄る一方、増える一方のひどい待遇の非正規社員や下請けのために戦うことはないからです。たとえば高額の給料を得ているテレビ局の社員が属する労働組合だと、仕事を悪条件で丸投げしているプロダクションの労働者の待遇改善を求めて戦うことはないでしょう。公務員たちの組合も同様です。パートの人たちの悲惨な待遇を改善して、「同一労働同一賃金」を実現すべきだなどとは口が裂けても言わない。彼らの犠牲のもとに自分たちの好待遇が守られているのだということを承知していて、そうした「差別」は温存するのが得策と心得ているからです。もっとひどいのになると、自己関心しかないので、そういうところには全く目が向かないという人までいる。

 要するに、今の労働組合というのは、正社員としての自分たちの既得権益を守るためのものでしかなく、「一緒に働く仲間」意識なんてものはないので、見ている方もシラけてしまうのです。また、電力会社の労働組合だと、脱原発には当然のように反対する。民進党のこの問題に対する対応が中途半端だったのは、支持母体の連合の電力総連に遠慮したためだったと言われています。国民益のために彼らは戦うのではなく、まさに「特殊権益の保持者」でしかなくなっているので、国民的な支持は得られないのです。

 こういうのはエスタブリッシュメントの見地からすれば、この上なく好都合なことです。それは労働者階級の間に分裂と対立を作り出し、彼らにとっては脅威となる「連帯と団結」を防止することになるからです。非正規雇用が増加の一途をたどる中、正規と非正規の社員の対立が募って、労働者がバラバラになれば、企業が労働者への所得分配を減らして内部留保をため込むこともそれだけ容易になる。「同一労働同一賃金」についても、これはそれを口実に正社員の待遇を下げる口実にも使えるので、「労働者の団結」が欠けている中、結局いいようにしてやられるのです。

 ついでに言うと、今の政府・日銀の円安政策は、輸入型・国内型の多数の中小零細企業にとっては輸入原材料の値上がりなどでメリットは何もありません。製品を値上げすれば、労働者の実質賃金は下がり続けているのだから、単純に売れなくなるので、価格を維持すれば、利益率が下がるだけだからです。こちらは内部留保どころではなく、経営がアップアップで、要は輸出型大企業に有利な政策を取っているだけの話です。正社員も賃上げは、だから、そうした大企業にかぎられることになる。安泰なのはそうした大企業と、景気対策として行われるバラマキ公共事業で潤う大手ゼネコンと関連産業、景気無関係の親方日の丸公務員だけで、他は「貧乏のスパイラル」に入るだけになり、げんにそうなっているのです。官製相場の株価の値上がりは庶民には何の関係もない。国や日銀が必死に買い支えることを承知の海外機関投資家にそのうまみを全部持っていかれているだけの話です。素晴らしい哉、アベノミクス。

 チョムスキーは、今のアメリカ社会の荒廃は、70年代から強力に進められた「金融の規制緩和」と、「産業空洞化(製造業の海外移転)」に国民レベルで有効な反対ができなかったことにあると見ているようです。繰り返しますが、それは偶然そうなったのでも、「歴史の必然」だったのでもなく、「人類の支配者」の意図によって行われたもので、産業・社会構造が意図的に作り替えられたのです。「グローバリズム」なるものは、従って、その意思によって推進されたものです。

 今では当たり前のように思われている、カネがカネを生むマネーゲームにしても、それは社会に財もサービスも文化も何も生み出さない。しかし、それが最も儲かる産業になっているというのは、思えば異常で馬鹿げたことです。製造業でも、「利潤の最大化」を求めて、環境規制・労働者保護規制の少ない低賃金・低コストの国や地域を探し回り、そこに工場を作って安価に製品を作って大儲けしようとする多国籍企業(しばしば法を巧妙にかいくぐって法人税も支払わない)は、元の工場を閉鎖して、大量の失業者を生み出すが、そうした労働者の運命には何の関心も同情も示さないのです。アメリカで起きたことはまさにそれで、これら二つがその潤沢な資金力を背景に、政治を自在に操ろうとし、それに成功してきたのです。

 そうして「グローバル経済」は作られた。「良貨は悪貨を駆逐する」で、いったんそういう構造が出来上がってしまうと、どこでも似たようなことが行われるようになる。そうでないと生き残れないということになってしまうからです。その中で労働者は「低賃金競争」を強いられることになる。格差もその中で生み出される。正社員の賃金をそれに合わせて削ることはできないとなると、それを補うために低賃金で身分保障のない非正規労働者を増やして、トータルで人件費を削るしかなくなってしまうからです。「下見て暮らせ圧力」が強くなるので、正社員の立場も自然弱くなる。「何、文句があるって? 非正規と較べて、自分がどんなに恵まれているか、わからないのか?」で、サービス残業もあたりまえということになり、職場のブラック度がどんどん増すことになるのです。

 長時間労働が一般的になれば、それは「労働者を従順にする」効果をもつ、とチョムスキーは指摘します。余暇や精神的ゆとりがなければ、じっくりものを考えることなどはできなくなるからです。その分、安易な政治プロパガンダに乗せられることも多くなる。低能のトランプはそこらへんをはき違えて逆さまなことを言っていますが、アメリカ発のグローバリズムは、同時に世界に「富と権力の一部の集団への集中」という現象をも輸出した。経済成長の果実は、発展途上国においても公平に配分されることはなく、かえって貧富の格差を拡大する方向に作用しているのです。アメリカでは1950年代、60年代は経済成長の恩恵は全階層に行き渡っていたが、今はそうではないとありますが、それは日本においても同様です。中国やインドはアメリカに劣らず格差が甚だしい国だと著者は言いますが、それはこれらの国々が遅れて経済発展した国だからで、それは今のグローバリズムの中に内蔵された性質だからです。そこには権力(それと結託した富裕層)の横暴を抑制する装置は存在せず、貧しい者は貧しいままに留め置かれ、インドや中国では公共事業のためと称して農民が土地を奪われて流民化するという現象まで起きているのです。

 アメリカは「世界に先駆けて」富裕層の減税、法人税減税、投資減税などを行ってきたわけですが、かの国が大きな経済成長を遂げていた50、60年代は金持ち個人に対する税金は今よりはるかに高いものだったと、チョムスキーは言います。法人税はそれよりさらに高く、また株の配当に対する課税はもっと高くて、全体として富裕層の税負担は今とは比べものにならないくらい高かったというのです。

 ところがいまやそれは大きく修正されてしまいました。超大金持ちに対する税金は低くなる一方です。そして、それに反比例して民衆への税金は増大化しています。そのように税制が組み替えられてきたのです。しかも、所得税と売上税(消費税)だけで、株の配当には課税されない方向へと進んでいるのです。

 産業空洞化に加えてこれでは、一般大衆の貧困化が進むのはあたりまえですが、わが国でも「経済成長にはそれが必要だ」なんて言うエコノミストがまだいるわけです。あの恥知らずなマック竹中なんかその典型ですが、どういうわけだかこうした動きを批判すると「空想的な左翼の寝言だ」なんて薄笑いを浮かべて言う人が少なくないのです。しかし、貧乏人の数を増やして、その可処分所得をさらに減らす、なんてことをやったのでは景気はよくなるわけがない。需要が縮小するからで、株高を演出し、インフレ期待を起こせば景気はよくなるなんて、たんなる机上の空論に過ぎません。モノが高くなれば買う量を減らすだけだから、企業の売上は増えず、従って賃金も上げられない。実体経済とは別のところで投資マネーが行き来しているだけなのです。そっちの方がよほど「空想的」な話だということになる。そして今の日本の「雇用の改善」なるものは大部分、たんなる労働者人口の減少に伴う自然現象にすぎないのです。アベノミクスの成果だなどと自慢するのは安倍本人だけです。

 アメリカの場合だと、近年の経済成長の果実は大部分が富裕層に吸い取られ、一般のアメリカ人は確実に貧困化しているというデータが(この本ではないが)出ています。そのやり場のない怒りと不満がトランプ大統領を生んだ。彼はアメリカファーストで、国内に雇用を、製造業を取り戻すと言ったからです。それは間違った因果関係の理解に基づいていて、真の敵が国家内部にいることはわかっていないようなので、決して成功することはないでしょうが。

 僕は経済学は素人ですが、実際の経済のしくみがどうなっているかは、カネの流れを追えばわかるということは承知しています。そこに不自然な富の偏在、集中が発生しているとすれば、それは経済構造が不正なものに作り替えられているということです。アメリカの支配層はそれをたしかにやって、そのシステムを世界に輸出してきた。それをまず認識しなければ、何も始まらないわけです。その経済構造の中でどうすればうまく行くかを考えても、それは第一着手が間違っているのだから、矛盾と混乱を募らせるだけです。

 長くなったので、これくらいにしますが、チョムスキーのこの本はそこらへんをあらためて考えさせてくれる本でした。「日本を考える」役にも立つのです。もう一つだけ付け加えさせてもらうと、こうした「カネの流れ」というのは、予算などを見ても、見かけだけではわからない。たとえば、福祉予算、文教予算というものが示されても、それがどこに流れているかを調べないと、本当に名目通り役に立つものになっているかどうかはわからないのです。それがいりもしない特殊法人に流れて、天下り役人の法外な退職金支払いに流用されていることもあれば、政治家や役人と結託した悪徳事業者の私腹を肥やすために使われていたりすることもあるのです。発展途上国への医療支援のはずが、実際はその支援金の大部分が西側の悪徳巨大製薬会社に吸い上げられていた、なんて話はかなり有名ですが、今の世界には内外を問わず、そういう「吸血ダニ」みたいな連中がたくさんいるようです。彼らは表向き「名士」を気取っていても、社会の体力を奪う元凶になっていることが多い。日本の今の国家予算でも、そういう連中の懐に入る無駄金を全部排除すれば、消費税増税分を上回る金額が節約できるでしょう。それほどその規模は大きいと想像されるのです。寄生虫は余儀なき事情で生活保護を受けている人たちではない、紳士淑女顔したそういう連中なのです。見えにくいそういうところにも注意を向ける必要があるということですが、一般人にはそんなことを調べているヒマはないので、ジャーナリストたちはそこらへん、低俗ネタばかり追うのでなく、肩書にふさわしい仕事をしてもらいたいと思います。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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『アベノミクスによろしく』~アホノミクスの愚劣さと恐ろしさを凝縮した本

2017.11.04(14:59) 529

 例の「講演会もどき」も無事終了し(お集まりいただいた皆さん、お世話いただいた方々、どうも有難うございました)、翻訳の方も、版権契約が完了したとのことで、一昨日、出版社から正式にゴー・サインをもらったので、編集者との作業に入るにはまだちょっと時間がありそうですが、訳はすでに完成していて、後は手直しをするだけ(とは言っても、それはそれで手間取る)なので、一息入れがてら、書かせてもらいます。

 先日本屋をウロウロしていたとき、添えられたマンガに思わず笑ってしまい、中身をパラパラ見て「中身もしっかりしていそうだ」と思って買ったのですが、これはほんとに面白い本です。この前の選挙では、二十代、三十代は自民党に投票したパーセンテージがとくに高かったそうで、「何考えてんだ? いや、何も考えてないのか?…」と僕は呆れたのですが、その中には「株価は上がって、経済指標も改善してるし、大学生の就職率も上昇している。安倍総理のトランプへの異様なゴマスリも、憲法改正も、現実的には“それしかない”対応で、野党は些細な『もり・かけ』問題で批判してるだけで、政権担当能力はゼロ、自分はパヨクなんかと違って、現実的な考えができる人間だから、自民に入れたのだ」なんて、真面目な顔して言っている若者がたくさんいるのでしょう。

 そこまでアホなのではどうしようもないな、と僕のようなヒネたオヤジは思ってしまうのですが、この本の著者、明石順平氏は1984年生まれの弁護士で、まだ32歳です。つまり、今の若者にも賢い人はちゃんといるということを示しており、その点でも心強い。

 尤も、ヒネたオヤジにもアホは珍しくないので、とくに専門家やインテリを自任する人は、例の有名な童話『裸の王様』を地で行くみたいなのが多く、王様は実際は裸で、パンツもはかないで粗末なアレをブラブラさせているだけなのに、その「見えざる衣装」を専門用語を駆使しつつ、とやかく論評して、「もののわかった人間」であることが示したつもりになっていることが少なくないのです。一般世間のオトナも、「ホンマでっか?」なんて言うと、自分の無知を暴露してしまうのではないかと恐れて、尤もらしい顔をして、そういう話にいちいち頷いて見せたりするのです。

 この本の著者はその『裸の王様』の男の子と同じで、そのような猿芝居には騙されず、自分の目と頭を信じ、データを精査した上で、逆立ちした驚くべき現実そのまま(「王様は裸だ!」)を暴露した。あの童話ではそれをきっかけに、周りもその虚偽の幻想から目覚めるのですが、大勢の人がこれを読めば、「安倍さんの極右がかった政治姿勢と独善性はちょっと心配だけど、アベノミクスのおかげで経済は持ち直したからね」なんて馬鹿げたことを言う人は一人もいなくなってしまうでしょう。要するに、安倍は全部ダメ!ということがよくわかるのです(「謙虚な対応」などと言いつつ、その舌の根も乾かないうちに、「野党の質問時間を削る」などとたわけたことをほざいているのはいかにも安倍らしいのですが)。

 ある程度はすでにこの馬鹿げた幻想から人々は覚め始めていると言っていいでしょう。先の衆院選のさなか、株価は上昇を続けていましたが、それで「景気がよくなっている」という話につなげるような人は、虚言症の安倍以外には誰もいなかったからです。すでにあれが官製相場だということは知れわたっていて、それを利用して儲けているのは海外の機関投資家だけ(それは海外のハゲタカに国富の収奪を許しているということを意味する)ということは常識になりつつあり、一般の日本人は貧乏になるばかりなのを人々は実感しているからです。

「アベノミクスはたんなる亡国的詐欺」だと承知している人には、この本の三分の二は周知のことだろうと思いますが、それでもこれだけきっちりデータを示して論じている本は珍しいし、「第4章 GDPかさ上げ疑惑」などは、僕も全然知らなかったので、そこまでセコい操作――これを国家的犯罪と呼ばずして何をそう呼ぶか!――をしていたのかと、驚きを新たにしました。太郎君とモノシリンというキャラの対話形式で話は進行し、非常に読みやすくできているし、展開もすこぶるロジカルなのでわかりやすい。元々はブログ記事だったそうですが、これだけ明快な文章が書けるというのは頭がいい証拠です。

 これはだから、高校生からお年寄りまで、幅広い年齢層にお薦めです。経済学の知識がなくても説明がわかりやすいので十分理解できる。ちゃんと頭を使わされるから、論理的思考力アップにも、認知症予防にも役立つし、一石三鳥ぐらいの効果はあるでしょう。アマゾンのランキングを今さっき見てみたら、79位になっていて、馬鹿売れしているのがわかる(今度出す僕の訳本もそれぐらい売れてくれれば嬉し泣きするのですが…)ので、アベノミクスがアホノミクス以外の何ものでもなく、日本の経済社会と日本人一般の暮らしがそのために破壊的損傷を受けて終わりになりかけていることを理解する人が倍増して、安倍退陣どころか、「奴を刑務所に入れろ!」という声まで出てくることになるかもしれません。尤も、安倍は人文学的教養が全くないのはもとより、法律学も経済学もまるでわかってない男なので、その「全面的無知」ゆえに「責任能力がない」ということになってしまうかも知れませんが(トランプと安倍というのはそのあたり、全くお似合いの組み合わせです)。

 そういうわけで良書なので書評を書こうかと思ったのですが、ご本人がブログに自己推薦文を載せているので、代わりにそちらを紹介しておくことにします。ぜひご一読を。

モノシリンの3分でまとめるモノシリ話



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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ミシェル・ロクベール『異端カタリ派の歴史』について

2016.12.07(15:23) 422

 前々回の記事でも少し触れましたが、十日ほどかけて、ひととおりこの分厚い歴史書を読み終えました。それから少し時間がたったので、読んでいる途中書いておきたいと思ったことも半ばは忘れてしまったのですが、そこらへんは思い出せる範囲で書いてみたいと思います(最後に、『偉大なる異端』との内容的異同についても触れるつもりです)。

 こういう本は、研究者かよほどマニアックな歴史好きでもないと全部読むのは難しいと思いますが、カタリ派の歴史に関するエポック・メイキングな著作であることはたしかで、よくぞ訳してくれました、と言いたくなるような本です。翻訳作業は半端でなく大変だったはずで、訳された武藤剛史教授には純粋に頭が下がります。数年がかりのお仕事だったでしょう。訳文も明快そのもので、文化的偉業と呼ぶにふさわしい。出した講談社も立派です。以下は、その講談社の紹介サイト。

異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問

 いくらかでもカタリ派に関する知識のある人には周知のことですが、この異端宗派ほど有名な(西洋では)割にその思想・信仰の内容についての情報が乏しいものも珍しく、著者が「序」に書いているように、「彼ら自身が書いた神聖なテキストとして今日残されているのは、三つの典礼書とふたつの神学理論だけである。これらの書物が重要であることは疑いないとしても、それらが私たちに教えてくれるのは、信仰や典礼のあり方についてだけであり、彼らの内面の歴史については何も語ってくれない」のです。

 だから著者は、「カタリ派信仰のそれ自体としての価値や精神的重要性をどう考えるか、あるいは、この消え去った信仰を哀惜の念をもって思い浮かべるか、それともいまなお断罪の対象とみなすべきか、そうしたことはすべて、ひとりひとりの主観的判断に委ねられている。本書でも、そうした問題にはほとんど立ち入らないつもりである」「私の研究はもっぱら当時の資料にもとづいているが、私自身は、カタリ派を信奉する立場にも、またこの信仰を誹謗する立場にも、あえて立つつもりはない。信奉者にせよ、誹謗者にせよ、彼らは多くの場合、あらかじめ先入観をもって、そのうえじゅうぶんな情報もなしに、想像の中で勝手なイメージを膨らませているにすぎない」として、ストイックな歴史描写に徹する意図を明確にしています。

 それゆえに本書の記述は信用できる(事件の意味づけや人物の評価など、主観抜きに行うことはできないので、「完全な客観性」を求めるのは不可能ですが)と言えますが、カタリ派の思想・信仰の内容についてはほとんど触れられていないので、そういうことを期待する読者は肩透かしを食わされてしまうことになるでしょう。しかし、上記のとおり、カトリックの側からの駁論や異端審問の記録(当然ながら、そこには大きなバイアスがかかっている)を真に受けるのならともかく、その方面に関しては資料自体が極端に乏しいのです(だから、手前味噌になりますが、ガーダムの『偉大なる異端』のような本に盛り込まれた、前世記憶をもつ人たちや「霊界通信」によって得られた情報――それをどう受け取るかは読者の自由に委ねられる――が意味をもってくる)。

 しかし、最初の「序」には、「例外的」にある程度カタリ派思想についての突っ込んだ言及が見られて、そこが面白い。「善神・悪神の二元論」についての著者の理解も示されていて、それはよくある浅薄な誤解には落ち込まない、知的レベルの高さを示すものと言えるので、少し引用してみましょう。

…カタリ派の二元論は、たしかに原理的二元論、第一原理にかかわる二元論であるとはいえ、単純素朴に「善神」と「悪神」を対立させるようなものではけっしてない。もしふたつの原理が力の上で対等であるならば、つまりそれぞれが、価値的にまったく対等の立場で、一方は善において、他方は悪において、互いに自由にふるまうことができるとすれば、それぞれがそれぞれにおいて自足自存していることになり、そこには真の意味における二元論は存在しないだろう。…(中略)…
 たしかにカタリ派信者たちは、悪の原理を「悪神」あるいは「異邦の神」と言ったりするが、それはあくまで言葉の綾であって、ほんとうに神だと考えているわけではまったくない。そもそも、悪の原理に言及する場合、ほとんどつねに「まことの神」と対立させる――『二原理の書』でも何度も繰り返されている――のであって、それはつまり、この悪の原理は神ではない、あるいは偽の神である、ということを言わんとしているのである。「至高にして真実の神」は、唯一ただひとりであって、その唯一性が力強く宣言される。ただし、それは善なる神の唯一性にほかならず、たしかにこの神は唯一の創造主であるが、あくまで「良き創造」の唯一の創造者なのである。この「良き創造」に含まれるのは、純粋に精神的で目に見えないもの、すなわち、天使、魂、そして「黙示録」が語っている「新しい地」と「新しい天」、つまりこの世の非物質的かつ天上的な写しである。それゆえにこそ、カタリ派の文書は、正々堂々と、「私たちは唯一なる神を信じます」と宣言することができたのだ。しかも、「天と地の造り主」という言葉さえ付け加えたのである。


 要するに、グノーシス主義でもカタリ派でも、「悪はなぜ存在するのか?」というところから「悪の原理」は構想されたので、これがどうしてカトリックからすれば「許しがたい異端」であったのかといえば、「この問題についてのカトリック教会の基本的立場は、…神は唯一の創造者、あらゆるものの第一原因にして根本原理、使徒信経によれば、『天と地の』、ニカイア信条〔第一回ニカイア公会議(325年)で作成された信条〕によれば『見える者、見えないものの』、つまりは物質的および精神的現実すべての造り主」であるからなのです。

 カトリックにしても、「人間世界に厳然と存在する悪」は認めざるを得なかったので、彼らはそこから二つの「神話」を作ることになった。一つは「神に反逆した堕天使(これが悪魔となる)」の神話であり、もう一つはその悪魔の誘惑に負けて禁断の木の実を食べてエデンの園を追放される羽目になったアダムとイブの神話で、それが人間の「原罪」なのです。

 しかし、天使も人間も「善なる全能の神」が作り給うたものなら、彼らはどうして「悪に走る」ことになったのか? それは「愚かな天使や人間」の「自由意志」によるものだと言うのですが、控えめに見てもそんなものをつくって、自分に反逆させるなどというのは、「神の悪趣味」以外の何ものでもありません。厳しい処罰を与えるためにあえて未熟な存在をつくったとしか思えないからで、どう見てもそれは「善良な神」のやることではない。処罰や虐待を快とする神なんて、「悪神」以外の何ものでもないことになってしまうでしょう(カタリ派は「愛の神」しか認めなかった)。

 ある意味でグノーシスやカタリ派は、カトリック神学の「痛いところ」を衝いているのです(それについては長くなるので省きますが、「神による創造」を前提とするかぎり、論理的な整合性では明らかに前者に分がある)。これに加えてカタリ派はカトリック教会の秘蹟を全面否認した。これは「神の代理人」としてのカトリックの権威を否定することにつながります。当時のローマ教皇は王侯たち世俗権力の上位に君臨する、いわば「王の中の王」でした。これはそうしたあり方自体、福音書の教えに反すると言えますが、「死後の魂の行方」を決定する者として、その世俗支配力に固執し、「地獄落ちの恐怖」を煽ることによってこれを維持していたのです。カタリ派はカトリックの秘蹟、教義の否定によって思想面でその土台を揺るがすと共に、そうしたローマ教皇を頂点とする権力組織そのものを「キリスト教の教えに反するもの」として批判した。カタリ派からすれば、それは「善なる神」ではなくて、「悪神」、悪魔に仕えるものとしか見えなかったのです。

 これをそのまま放置して、カタリ派が西洋世界全体に広がるようなら、カトリックはその世俗支配権力を失うしかなく、だから激しい弾圧に走ったのは当然だったと言えるのですが、カタリ派を標的として設けられた異端審問はその後も長く続き(その正式な廃止は1821年、と本書にはある。だから17世紀のガリレオもその地動説が「教会が正しいと認める天動説に反する」ということでドミニコ会士に告発され、異端審問にかけられるのを免れなかったのです)、夥しい数の犠牲者を出したにもかかわらず、結局はそれを失うことになった。世界にとっては幸いと言うべきですが、巨大な世俗支配権力としてのカトリックは、新約聖書を素直に読むなら、「逸脱」としか言いようのないグロテスクな恐怖政治の主体となり果て、その異端審問というシステムは、その後「宗教の領域から政治の場に移されることによって、驚くべき復活を遂げた」のです。「おそらく、二十世紀は、とりわけ政治的異端審問が猖獗をきわめた時代として記憶されるに違いない」と著者は述べています。

 同趣旨の記述は『偉大なる異端』の中にもあって、「ヒトラーが情報と中傷的なプロパガンダの普及のためのあらゆる装置を意のままにしたことを思うとき、異端審問の業績は真に印象深いものである。現代世界の秘密警察のいかなる組織も、その偉大な先駆者と原型を正当なものとしてそこに認めることができるのである」と記されています。独裁国家がよく使う「密告の奨励」なども、カトリックが異端弾圧のために案出したものの一つなのです。

 著者ロクベールは、カタリ派に対する「言いがかり」でしかないような誇張された俗説もあっさり否定する。「かつては、カタリ派は閉鎖的なセクトであり、その信奉者たちを世間から、また社会生活から引き離して、彼らに禁欲生活を強い、それを広めることによって、いずれは人類を消滅させることを目論んでいた、などとまことしやかに言われていた」が、よく調べてみると、「私自身もすっかり驚いたことに、そこに見出されたのは、時代と社会にしっくりおさまり、心やすらかに日々を送る、ごく普通の男女であった」というのです(著者も述べているように、こうした「見方の転換」にはデュベルノワの功績が大きかった)。

 カタリ派は自らを「カタリ派」と称したわけではなく、彼らは自らをクリスチャンと呼んでいた(聖職者を表わすパルフェという呼称についても同様。「完徳者」と訳されているそれは、元々は「完全な異端」という意味で異端審問官たちによって命名されたものにすぎず、信者たちは親しみと敬意をこめて「善き人」と呼んでいた)。彼らは権力を求めず、自らも手仕事などの仕事に励みながら、人々を助け、癒すのが使命と考えていたので、ガーダムも言うように、「原始キリスト教徒の復活を自任していた」のです。権威主義的で、官僚的強権的、そしてしばしば腐敗のきわみにあったカトリックの聖職者たちと較べて、カタリ派の聖職者は質素で明るく、民主的で、人間的な魅力があった。でなければ、そもそもあんなに人気を博したはずはないので、逆に言えば、だからこそカトリックはそれに脅威を覚えたのです(素朴な一般信者にとっては神学の差異などほとんどどうでもよかったので、一番大事だったのは聖職者の人柄です)。

 現代的な見地からすれば、カタリ派のカトリック教会の各種の秘蹟の否認も合理的な理由に基づくものばかりで、今ではよほど迷信的な人でないかぎり、カトリック信者でもその「魔術的効能」を信じる人はいないでしょう。端的に言えば、それは迷信にすぎないのです。

 おそらく今の時代では、ことに日本では、「世界の創造」を云々すること自体がナンセンスだと考える人が多いでしょう。著者も言うように、「もし世界が創造されたのではなく、すべては永遠のはじめから存在するとすれば、世界を存在に至らしめた原因ないし原理などはもともとありえなかったのであり、それゆえ、カトリックであれ、カタリ派であれ、キリスト教神学は宙に浮いた空論だということになってしまう」からです。

 要するに、神だの悪魔だのは幼稚な擬人化、自然的な諸力への人間の感情的投影の産物にすぎないということになって、科学によっても「宇宙の謎」はまだ解明されていません(おそらく永遠にそうでしょう)が、偶然の積み重ねの果てに人類も出現したのだから、そういうことを云々すること自体が馬鹿げているという話になるのです。

 それでも「世界は神がつくった」と言う方がまだしも穏当で、「人間の魂は悪魔がつくったこの物質世界に投げ込まれたのだ」というのでは、精神衛生上もよろしくない。グノーシスやカタリ派より、カトリックの方が「平和的」かつ「高級」な感じがするでしょう。

 にもかかわらず、それならどうしてカトリックは長期間にわたってあれほど非道かつ冷酷残忍な行為を働くことができたのか? それは彼らが地上における「神の代理人」であったからで、異端を弾圧、抹殺するのは「正義」だという建前があったからです。彼らは「神の名において悪魔の所業を行う」ことに矛盾を感じなかった。異端信者は「悪魔の僕(しもべ)」に他ならず、彼らを殺したり、地獄の責め苦を味合わせたりするのは「神の栄光を称える」ことと矛盾しないどころか、むしろ「当然の義務」だったのです(とくに十字軍の指揮官、シモン・ド・モンフォールのような男にとっては)。

 ここに皮肉なパラドックスがある。自分の側が絶対的に正しく、善ならば、それに敵対する側は不正で、悪であるということになって、何をしても許されるということになってしまったのです。十字軍にしても、異端審問にしても、ローマ教皇の当初の意図を超えて現場の人間が「暴走」し始め、手がつけられないものになってしまう(そのあたりもこの『異端カタリ派の歴史』には詳しい)のですが、だからといって教皇庁の罪が軽減されるというものではなく、彼らは「悪魔の力を支配のために利用する」ことをあえてしたからこそ、そうなってしまったのです(その「悪魔の力」の由来に関する理論はどうであれ)。

 独善的な信念やイデオロギーに凝り固まった人間や党派が、敵対する人や党派を敵視するあまり、非道かつ卑劣なふるまいをするのは今でもありふれたことで、「普遍的な人間心理」だと言えるかも知れず、だから「善悪は相対的なものにすぎない」という議論も出てくるわけですが、これはある意味で危険な論理です。というのも、観念やイデオロギーに完全に頭をやられてしまっている人間でないかぎり、立場からは自由に、僕らはそこに隠れた悪を認識することができるからです。これは重要な論点です。普遍的な道徳というものがもしあるとすれば、僕はそれはあると思いますが、自らの正義をふりかざして残虐行為に走ることそのものを悪だとする感性が人間にはあって、そういう「相対的なものでない」善があるとするのでなければ、この世の争いや対立は永遠に解決しない。そういう「絶対的」なものは、知性の領域にではなく、ハートの領域にある。女性聖職者を認めないカトリック教会は煩瑣な神学にとりつかれた典型的な男性優位のピラミッド組織で、だからこそそれがわからなくなってしまう陥穽に落ち込んだのだと見ることもできるでしょう。女性や子供には本来自然なものとしてある「人間らしい柔らかな感情(それは根源的な善悪の直観を含みもつ)」が、そこでは息の根を止められて、全く機能しなくなっていたのです。

 その「ハートの領域」とは、魂の、プシュケの領域と言っていいもので、今でも大小様々な犯罪(露見しないものを含めて)の背後には共通して「感情の鈍麻」という現象が観察されますが、それは人間の善性の座がその領域にあって、知性の領域にはないことを示しています。知性は本来善でも悪でもないが、魂が抑圧されて、知性がそれとは無関係に暴走し始めるとき、それは必然的に「悪魔に仕える」ものとなってしまうのです。

 現代文明が「悪魔的」なものになったのもそのためだと思われますが、「魂の救い」をその任務としたカトリックがなぜそういうものになる皮肉な結果を生んだのかといえば、彼らにとっては魂も、その救いも、たんなる「観念」でしかなくなっていたからです。彼らは「神学の高楼」の建設に多忙になったが、そうした「灰色の理論」(ゲーテの『ファウスト』の言葉を借りれば)にかまけ、官僚的な支配組織の中に住まううちに、生き生きとした自らのハートとの連絡は断たれ、その空虚な内面を補償してくれるものは権力か世俗的野心でしかなくなってしまった(彼らがそれを自覚していたとは思えませんが)。そういう人間にとっては「神の愛」なるものもカトリックの教義と組織に従順な者だけに差別的に与えられる「恩恵」にすぎない。だからそれは自らの悪が認識できない「邪悪な巨大組織」へと堕してしまったのです。

 これは現代に生きる僕らにとっても、十分に教訓的なことです。宗教にかぎらず、排他的ナショナリズムや市場資本主義の崇拝でも同じで、科学的ドグマですら、一種の「宗教」となりえるのです。独善的に自らの主義主張が正しいとし、反論を封殺し、力づくでもそれを押しつけ、人々を従わせようとするとき、僕らはそうとは知らないまま、「悪魔に魂を売り払う」羽目になるのです。かつて「神の代理人」を自称したカトリックが「悪魔の代理人」となり果てたのと同じように。

 僕はしばらく前に『チャイルド44』という映画を見て、スターリン支配下のソ連では「楽園(つまり共産主義国家ソ連)には殺人は存在しない」という建前になっていたという話に笑ってしまったのですが、スターリンぐらい「粛正」という名の殺人に熱心だった独裁者も珍しいでしょう。犯罪は「邪悪な資本主義国家特有のもの」で、「楽園」たる共産主義国家にはそんなものは存在しないのだというのは、ブラックユーモアの最たるものですが、思想統制というものが行き着くところは、きまって恐怖政治なのです。建前上「悪」は存在しないが、そういう国家社会こそ「悪の楽園」になるというパラドックスがあるのです。

 これは、「神がつくり給うたこの善き世界」の牧人を自任するカトリック教会が、その教えに反する「悪神の現世支配」を説くけしからん異端を撲滅するために、マフィアも真っ青の「粛正」に励んで、この世に地獄図絵を現出させたのと似ています。それによってかえって「悪神の支配」がリアリティをもってしまうということには、彼らは思い至らなかったのです。

 これを要するに、人間の中には神と悪魔がブレンドされていて、その配合比率は遺憾ながら後者の方がいくらか多いと言えるので、僕らはそれに努めて自覚的であるべきだということです。「権力は悪魔の力と結託する」と言ったのは、カタリ派ではなくて社会学者のマックス・ウェーバーですが、ことに権力欲にとりつかれると、人は悪魔的たらざるを得なくなるのです。

 それを防止するために近代憲法の「思想、信教、言論の自由」はある。洗脳教育の類を排し、オープンな思想表明、言論の場が確保され、かつそれによって不利益を受けないことが保障されているなら、思想統制は困難になって、力づく人を従わせることもそれだけ難しくなる。かつてのカトリックとカタリ派の対立にしても、当初はカトリックも「説得と議論によって迷い出た羊たちを元の囲いに戻そうとした」(『偉大なる異端』)のですが、それが奏功しないのに苛立って、十字軍という暴力に訴え、のちにそれでもカタリ派信仰が一向弱まらないのを見て、今度は異端審問というさらにいっそう陰湿で悪質な思想統制(死刑を含む峻烈な刑罰付きの)に乗り出したのです。「思想的に劣った異端」が「由緒ある正統」に思想戦で敗れた、というのでは全くない。それはカトリック側の政治的プロパガンダにすぎないので、それならそんな非道な暴力に訴える必要は何もなかったわけです。

 似たようなことは今後も起きうるので、そうしたことには注意しなければならないということですが、最後に、『偉大なる異端』との記述の異同についていくらか書いておきたいと思います。これは『偉大なる異端』をお読みになった人には参考になるでしょう(煩瑣なので、以後、色分けはまとまった引用文だけにします)。

 まず、異端審問所が聖ドミニコによって創設されたというガーダムの記述に関しては、訳註で「それは間違いだろう」と書いておきましたが、やはり間違いで、それはグレゴリウス九世によるというのが正しいようです。しかし、ガーダムがなぜそう考えたのか理解するヒントがこの本には出ているので、「伝統的歴史解釈のひとつの流れとして、ドミニコ会が担うこの『審問』創設の起源を聖ドミニコにまで遡らせ、それを彼の拭いえない汚点とする見方がある」と書かれています。ガーダムはそれを「踏襲」していたのです。

 しかしロクベールは、「ドミニコは異端者たちをたしかに〈追跡〉はしたが、〈迫害〉したわけではまったくな」かったとして、こうした見方が濡れ衣だったと述べています。僕はその訳註で、「異端審問官が主にドミニコ会士から登用されたのは事実で、それはドミニコが異端排除にとりわけ熱心だったこととむろん関係する」と書きましたが、これについては「ふたつの理由がある。すなわち、この会の驚くべき発展とその学識である」と述べられています。この会は、「一世代足らずの間に、意欲満々で、戦闘的ともいえる新しい活力をカトリック教会にもたらしたのであ」り、それが教皇グレゴリウス九世のお眼鏡にかなったのです。

 異端審問官の正式な名称は、「異端の腐敗堕落を審問すべく聖座より派遣される判官」だったそうで、その後「任命された者たちは、みずからの任命当初の使命を大きく逸脱し、彼ら自身の召命を裏切ることになる」のですが、とにかく「任命の動機」としては、説教修道士会(他に「説教者修道会」「説教者兄弟修道会」などとも呼ばれるようですが、ドミニコ会の正式名称)がとりわけ狂信的な連中から成っていたから、というわけではなかったのです(彼らはその「熱心さ」の裏返しとして、元々そうなる素質を隠しもっていたのだと解釈できなくもありませんが)。著者には『聖ドミニコ 黒い伝説』という未訳の本があるようですが、ここの記述からして、それはそうしたドミニコの「悪い評判」に対して同情的なものになっているのでしょう。

 もう一つ、『偉大なる異端』ではいかにも性格が悪そうな「悪役」として登場するフランス王ルイ八世の未亡人ブランシュに関しても、僕は読んで驚いたのですが、「いとこのレモン〔七世〕にたいしてある種の尊敬の念、さらには愛着の気持ちすら抱いていた」のだとされる(つまり両者は近い親戚だった)。フランス軍による派手な破壊工作は、ブランシュがそれを知らなかったはずはないとしても、彼女の命令というより、副王であるアンペール・ド・ボージュが指揮してやらせたことだったのです(その目的は「レモンを交渉の席につかせる」ことにあった)。王太后ブランシュは、「ルイ八世存命の頃の厳しい政略からはかなり後退し、…レモン七世の失権も、彼の全領地の併合も望んでいなかった」というのです。

 この本を読んで僕はあらためて驚いたのですが、当時の王や領主、貴族間の「政略結婚」の徹底ぶりはすさまじいもので、ほとんどがそれだったようです。「愛のない結婚」をトルバドゥールたちが嘆いてみせたのも無理からぬこと(そのあたりに関しては『偉大なる異端』第十二章参照)。だから姻戚関係が入り組んでいて、ややこしい。時間的にはこれよりだいぶ前になりますが、シモン・ド・モンフォール率いる十字軍と、トゥールーズ伯レモン六世+アラゴン王連合軍との「ミュレの会戦」にしても、ガーダムも言うように、その戦闘における連合軍側の敗北は「カタリズムとラングドックの希望にとっての墓場」となったのですが、なぜアラゴン王がこの戦争に加わったのかという十分な説明はなされていない。「おそらく、彼は北部フランス人が自分の領土のそばまで侵略してくるのを見たくなかったのだろう」で片づけられているのですが、アラゴン王はレモンの「義兄」(つまりその妹がレモンに嫁いでいた)だったのです。彼の参戦が遅れたのは、対イスラム軍との戦いに多忙だったからにすぎない(このアラゴン王の名、ガーダムの本ではPierreⅡとあるのでそのまま「ピエール二世」としましたが、正しくはPedro IIで、『異端カタリ派の歴史』にあるように「ペドロ二世」とするのが正しいようです。ガーダムの本にはこの手の間違いは珍しくないので気づいたところは直したつもりですが、ここも確認していれば事前に訂正が可能だったろうにと残念です)。

 他にもこの「義兄弟」の政治的利益が一致するということなどもむろんあったのですが、それでこの強力な連合軍が成立したものの、十字軍に対して圧倒的に有利に見えたにもかかわらず、アラゴン王はその「向こう見ずと騎士道精神の過剰から、モンフォール軍に無分別な強襲をかけ」(『偉大なる異端』の描写)、途中で落命する羽目になって、予想外のみじめな敗北につながったのです。

『異端カタリ派の歴史』では、このあたりのくだりは「第七章 アラゴン王ペドロ二世――勇み足」と次の「第八章 レモン六世の失脚」にまたがっていて、対教皇との駆け引きなども入って、半端でなく話は長いのですが、その戦闘シーンだけに限定すると、アラゴン王は、ふつう総大将は「後衛あるいは予備部隊にとどまるのが普通」であるのに、あえて中衛に入って、「それでも最低限の用心はしており、自分の紋章を部下の騎士の一人のそれと交換していた」のがかえって裏目に出て、落命するというサエない話になったのです。

 十字軍は王の旗を見つけると、それを持っている騎士に襲いかかった。するとペドロ二世はみずから正体を明かし、自分こそ王だと叫んだ。まさにその瞬間、彼は槍を突き刺され、即死してしまった。入り乱れた戦いのなかで、おそらくは誤って殺されたのだろう。というのも、交渉のさい、優位な立場に立てるし、また多額の身代金を要求できることから、王は殺さず、捕虜にするのがふつうであった。

 ドン・キホーテさながらで、これで流れは一気に十字軍に傾いてしまったわけで、レモン六世にとっては「義兄の蛮勇」にすべてをぶちこわされてしまったかたちです(レモンのより周到で慎重な戦略がアラゴン王の部下に「臆病者のふるまい」としてあっさり斥けられてしまったのは『偉大なる異端』にもあるとおり)。アラゴン王はその配下の武将と共に、その武勇、男らしさをトルバドゥールたち(ちなみに、この本はあくまで歴史書なので、ガーダムが書いているような、彼らの詩のミスティックな意味についての考察などはない)に賞讃されていたそうですが、その代償がこれだったのです。

『偉大なる異端』を訳すとき、調べがつかなかったので、やむなくそのままカタカナ表記にしたfaiditsは、この『異端カタリ派の歴史』では原語と共に「残党騎士」の訳語が与えられている(「異端であるとして領地を召し上げられた騎士」というガーダムの説明は正しい)。彼らがカタリ派防衛軍の中で果たした役割は、この本によれば、僕の想像以上に大きかったようです(表記ついでに言うと、コンソラメントゥム「救慰礼」は、この本では「コンソラメント」となっており、原音では「クンスロメン」だという)。

「なるほど、これはほんとはこういう話だったのか!」とわかったこともあって、マイナーな部分ですが、それも書いておくと、『偉大なる異端』p.98に、1211年の教皇使節との会談で、レモン六世は配下の貴族や騎士たちが「平民服を着て、二種類の肉しか食べてはいけないということまで」要求された、という記事がありますが、これは「肉は週二回しか食べてはならない」が正しいようです。僕もここは「何かヘンだな?」と思ったものの、原文がそうなっているのでそのまま訳したのですが、「二種類の肉」ではなく、「肉は週二回まで」なら納得がいく。前者では懲罰としてはかなり不可解なものだからです。伝承に複数あったのか、ガーダムが誤読したのか、どちらかだったのでしょう(「平民服」の箇所も、『異端カタリ派の歴史』では「苦行層に倣い、粗末な袖なしマントを着る」となっている)。

 こういう細かい異同は他にもあって、有名な「ベジエの虐殺」についても、「皆殺しにせよ!」発言は、「シトー修道院代理の教会活動家」ではなく、シトー大修道院長アルノー・アモリーその人の「直接発言」だったと、『異端カタリ派の歴史』には書かれている。要するに、事はいっそう悪質だったということです(この高名な大修道院長は、その世俗的な野心と強欲のために、協力関係にあった十字軍の指揮官、シモン・ド・モンフォールとも後に対立する。「公正」でつねに冷静な著者ロクベールも、モンフォール以上にこの人物には強い嫌悪感を抱いていたように読めます)。

 異端審問の陰惨さに関しては、僕の印象では、『偉大なる異端』に書かれている以上にひどいという感じなので、読者はあれに誇張はないと思っていただいていいと思いますが、十字軍にしても、異端審問にしても、事態がおそろしく入り組んでいたのはたしかで、教皇、現地司教、異端審問官、諸侯、フランス王(途中まで十字軍への参加を拒んだが、代替わりして関与し始めると、こちらが主役になり、完全な侵略戦争の様相を呈した)などそれぞれの勝手な思惑が入り乱れて、醜怪きわまりない歴史絵巻が展開されることになるのです。「問題なのは、カタリ派ではなく、あんた方の方だろうが」と言いたくなるほどで、『偉大なる異端』には描かれていないレモン七世のその後についても、結局は失敗に終わる彼の失地回復を目指しての権謀術数には、同情するというより、そのしつこさに呆れるのです。

 こうやって書いていくとキリがないので、これぐらいにしますが、概してガーダムの歴史記述は簡略にすぎるとしても妥当なものだと言えると思うので、有名なモンセギュール攻防戦に関しても、落城の際の二週間の猶予の意味、「カタリ派の財宝」などについての解釈(両者の違いはそこに稀覯原稿の類が含まれていたかどうかが一番大きい)は異なりますが、それはどちらが正しいかは決められない部類のものです。

『偉大なる異端』で手薄な部分は『異端カタリ派の歴史』に詳しく、一方、後者で手薄な思想方面の記述は前者に詳しい、ということで、僕としては両方読んでもらえるといいな、と思うのですが、オカルトが入るとアレルギー反応を示す人は今でも少ないことからして、両者が書店の同じ棚に並ぶことは少なく、両方の読者が重なることもあまりないでしょう。このブログ記事がその垣根をこわす役に立ってくれればいいがと思って書いてみたのですが、「昔の外国の異端宗教の話なんて興味ないので、どちらも読みません」と言われかねず、それが一番痛いところです。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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