2016年東大入試英語「言論の自由について」(和訳)

2016.03.03.10:18

 僕はこの時期、ネットで最新の英語入試問題をチェックするのをつねとします。といっても、予備校のサイトに出ているもので、難関国立や、私立は早慶その他の有名どころにかぎられますが、これは仕事の必要性からそうするという意味はむろんありますが、どんな英文が出題されるのか、それ自体にも興味があるからです。

 前にも書きましたが、入試に出る英文には面白いものがたくさんあって、それらはふつうの大人が読んでも十分に刺激的で、興味深いものです。いつも言うように、センター試験の英文は僕には大方が平板・退屈すぎて腹立たしいのですが、国立二次や私立の一般入試には、中には「これは受験生には酷だろう」と思うような難しすぎるものもたまに混じっているとはいえ、内容的によいものが多い。そこから、塾で使えそうなのをえらぶのですが、年度によって生徒の学力にはかなり大きな開きがあるので、面白いがかなり難しいものは、生徒を苦しめるだけになってしまうので、残念ながら使えないこともあります。そこらへんは、だから、生徒の学力次第なのです(ついでに高校生にアドバイスしておくと、学力を大きく伸ばしたいのなら、視野を広く持ち、知的好奇心旺盛でいなさい、ということです。教科書勉強以外のことをすると損だなどと思っている視野の狭いガリ勉ぐらい、相手をしても退屈な、将来性のないものはありません)。

 今年の入試問題のイチ押しは、北大の入試英文の大問一です。北大にはかねてからよいものが多いが、今年のこれは、英文も平易、設問も適切なら、内容的にも面白い。現代の文明社会の暮らしより、狩猟採集民時代の暮らし(hunter-gatherer lifestyle)の方がはるかによかったのではないかというような話で、かねてサンカと呼ばれていた、日本版ジプシーみたいな人々の生活に強い郷愁を抱いている僕のような反文明的な人間は、この話には共感しまくりでした(僕は定住農耕民族の末裔では、おそらくありません。兼業農家で、祖父は炭焼き、父親はきこりという家庭に生まれたのですが、農業に適した素質は全くなく、子供の頃よく祖母に、「おまえは百姓仕事には向かないので、学問でもして身を立てるしかない」と言われました。こっけいなのは、学校の勉強が大嫌いで、学問の素質など全くなさそうに思えたことですが、祖母は何を見てそんなことを言っていたのでしょう? その代わり、遊びを通じて狩猟採集民としては大いなる有能さを発揮していたので、自分の前世の一つはサンカとしてのものだったろうと信じるに至ったのです)。

 だからこの問題は二年生用の教材に使えると判断して、早速宿題に出したのですが、今回ここにご紹介するのは、これとは別で、やはり今年の東大の英語入試問題です。例年東大では大問1がAとBに分かれていて、Aが英文の要約(日本語で)、Bが脱けた段落を下からえらんで埋めさせるというものですが、今年はこのBが「言論の自由(free speech)」についてのものになっていて、批判的なことを言うと、「公正さに欠ける報道だ!」としてテレビ局に批判を自粛するよう圧力をかけたり、「電波停止」までほのめかす今の安倍政権下でのわが国の「言論の自由」の現状に照らして、タイムリーな、なかなかに興味深い出題です。

 英文は無理のない読みやすいもの(但し、一部解釈が難しいところがある。受験生用に言っておくと、unlessとdoubtlessの処理)で、その意味でも良心的な出題ですが、今回のこれは一般国民にとっても内容的にタメになるものではないかと思うので、その和訳をお目にかけたいと思います。まだ全訳はどこにも出ていないでしょうから(訳は穴を埋めた後のもの。塾で生徒たち相手にするときと同じ要領で、アドリブ的に訳したものにすぎないので、多少の不備はあるかもしれません)。とくに後半に注目!です。
 英文に関しては、次の河合塾のサイトをクリックしてご覧ください(設問の答えは、b→c→e→d→aの順に入る)。

2016年度東大入試英語


 言論の自由は国旗や標語と同様、たんなるシンボル的なものにすぎないのだろうか? それは互いに比較衡量すべき多くの価値観の一つにすぎないのだろうか? それとも言論の自由は根底的なもので、絶対とは言わないまでも、(その制限が)注意深く、明確に定義されたものである場合に限り、放棄すべき権利なのだろうか?

 その答えは、言論の自由はじっさい根底的なものである、ということである。なぜそうなのかということを心に銘記し、その権利が疑問に付されるときにはなぜかと問う心構えをしておくことは重要である。

 その最初の理由は、私たちが言論の自由は根底的なものであるかどうかと問うとき、私たちが行なっているまさにそのこと――つまり、思想を取り交わし、評価するというそのこと自体が、私たちがそれを行う権利をもっているということを前提としたものだ、ということである。言論の自由(あるいは他の何であれ)について論じるとき、私たちはまさに「論じている(言論の自由を享受している)」のだ。私たちは自分の反対を力やコイン投げなどで解決することはしない。もしもあなたが、ナット・ヘントフの言葉を借りれば、「言論の自由は私のためにあるのであって、あなた方のためにあるのではない」と進んで宣言するのであれば話はまた別で、その場合、言論の自由に反対の弁論をするために登壇した途端に、あなたは負けてしまうことになる。言論の自由を言論の自由に反対するために用いるなどというのは、およそ意味をなさないことだからである。

 純然たる論理的推論によってはこのことが納得できないという向きは、これまでの人類史上の議論を見てみるとよろしい。歴史を知れば、宗教や政治の問題に関する真理を知っているのは自分たちだけだと主張する人々が、のちにしばしば間違っていた、しかもこっけいなぐらいそうだった、ということがわかるのである。

 たぶん、現代史における最大の発見――それはその後のあらゆる発見にとって必要な発見だったのだが――は、私たちが前科学的な信念の源泉を信頼できないということを知ったということである。信仰、奇蹟、権威、未来占い、第六感、慣習的な知恵、そして主観的な思い込みは、誤りの発生源であり、捨て去るべきなのである。

 では、どのようにして私たちは[正しい]知識を獲得できるのだろうか? その答えは仮説と検証と呼ばれるプロセスにある。私たちは現実の性質に関する考えを思いつく。そしてそれらを現実に照らして検証し、それによって世界が間違った考えを虚偽として斥けられるようにするのだ。この手続きの仮説の部分は、むろん、自由な言論の行使に依存している。私たちが間違った信念を避けられるのは、どの考えが検証の試みに耐えられたか、それを見ることによってのみなのである。

 ひとたびこの科学的なアプローチが現代の初期に受け入れられるようになると、世界についての古典的な認識は覆されてしまった。真理の源泉としての権威【これは下のガリレオの例に見るように、絶大な権勢を誇ったキリスト教カトリックの権威を特に指す。当時はローマ教会が支持するプトレマイオスの天動説に反対することさえ異端であり、死に値する重罪だったのだ】に、実験と議論が取って代わり始めた。

 この道に沿った重要な一歩は、地球は太陽の周りを回っているというガリレオのデモンストレーション、激しい抵抗を克服しなければならなかったその主張である。しかし、コペルニクス革命は、先祖たちには認識できなかった、世界についての今の私たちの理解を形成することになる、一連の出来事の手始めにすぎなかった。今では私たちは、どの時代、どの文化のものであれ、広く支持されている確信が、おそらくは私たちがこんにち信じているものも含め、明らかな間違いだと証明される[日が来る]かもしれないということを理解している。そしてこの理由から、私たちは新しい思想の自由な交換を頼りにするのである。

 人類の繁栄にとって言論の自由が根本的なものであるという三番目の理由は、それが民主主義と、独裁の防止にとって不可欠なものだということである。どのようにして二十世紀のおぞましい支配体制は権力を獲得し、維持したのか? その答えは、暴力集団がそれに対する批判や反対者を黙らせたということである。そして、ひとたび権力の座に着くや、独裁権力は体制に対するいかなる批判も処罰した。これはこんにちでも、大量殺戮や他の野蛮行為で知られる政府【北朝鮮はもとより、中国もこれに近い】には当てはまる。

 なぜこれらの体制はいかなる批判の表明も許さないのか? 実のところ、苦しんでいる何千人万もの人々が一緒になって行動すれば、どんな体制もそれに抵抗する力はもたない。市民が独裁者に対して団結しない理由は、彼らに共通の理解――皆が知識を共有し、それを共有していることを知っているという自覚――が欠けているからである。他の人たちが同じ時に自らを危険にさらしていることを知っていれば、人々は自分を危険にさらすことを辞さないものなのだ。

 共通の認識は、公の情報によって生み出される。『皇帝の新しい衣装(裸の王様)』の話は、このロジックをわかりやすく説明してくれる。小さな少年が「王様は裸だ!」と叫んだ時、彼は何も他の人たちがまだ知らずにいたことを、わが目で見ることができないことを、言ったわけではない。にもかかわらず、少年は人々の認識を変えたのであって、それは皆が、他の人たちも王様が裸であるということを知っているということを知ったということである。それでこの共通の認識が、人々に力を与えて、笑いによって王様の権威に挑戦するということを可能にしたのだ。

 私たちはまた言論を、権力者の力を殺ぐための道具としてだけでなく、日常生活で誰かに対抗するために使うこともある。要求がましい上司、威張りくさった教師、些細な決まり事を強硬に押しつけてくる隣人などを相手に、である。

 なるほど、言論の自由には制限がある。私たちは人々を不誠実な個人攻撃から守るために、軍事機密の漏洩や、他者を扇動して暴力を振るわせることを防止するために、(それに制限を課す)法案を通過させることがある。しかし、これらの例外(としての法規)は厳格に定義され、かつ、個別に正当化できるものでなければならない。それは言論の自由を、多くの代置可能なよきものの一つに過ぎないものとして扱うための言い訳であってはならないのだ。

 それで、もしもあなたがこうした議論に反対するというのなら――私の論理の弱点を指摘したいとか、私の考えの間違いを暴露したいとかいうのなら、その場合には、あなたがそうするのを許す自由な言論の権利が、あなたにはあるということなのである。



 以上ですが、なかなかにイミシンでしょう? 安倍政権が怒って、東大に「不適切な」入試問題を今後出さないよう、予算の脅しと共に注文をつけるかどうかは知りません。
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