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大学入試新テスト・民間試験導入、主犯はベネッセと下村か?

2019.11.13.16:46

 非常に興味深い記事がネットに2本出ています。とくに最初のデイリー新潮(元は週刊新潮)の記事は強烈です。

英語民間試験ごり推しの裏に「ベネッセ」の教育利権…高校も大学も逆らえない

 前に楽天・三木谷会長の関与を指摘した記事を紹介しましたが、これを見ると、ベネッセの“黒さ”は半端なものではありません。クリックして詳細をお読みいただきたいのですが、記事は文科省の作業部会への露骨な関与や、関係者・大学教授の囲い込み、「個別の大学にもベネッセ関係者の天下りが増加中」だと指摘した上で、

 もはや受験生ファーストでなく、ベネッセ・ファーストの入試改革が進んでいたようにさえ見えるが、そうなった背景を教育ジャーナリストが説明する。
「14年に発覚した個人情報漏洩事件で、ベネッセは250億円を超える特別損失を計上。また事件を機に主力の“こどもちゃれんじ”や“進研ゼミ”など通信教育の会員が減少したため、一刻も早い業績回復が急務とされていました。その点、入試に英語民間試験が導入され、毎年、仮に20万人の受験生がGTECを選ぶことになれば、1回7千円として1人2回受けるとして、黙っていても28億円の売り上げが加算されます。そのうえ、GTECを受ける子は当然、GTECを作っているベネッセの問題集を買い、通信添削も受けておこう、ということになるでしょう」
 だが、それだけではない。
「ベネッセの営業マンは全国の高校を巡回し、模試や教材を売っていますが、高校にすれば買わざるを得ない状況にあるのです。ベネッセは8月には、大学入試共通テストに新たに導入される記述式問題の採点業務を、61億円で落札しています。加えて英語民間試験でも、GTECの受検者が多ければ、入試に関する情報をもっているベネッセの教材を、高校が無視できるはずがないのです」
 さらには、大学にもプレッシャーをかけていた、と打ち明けるのは、某大学関係者である。
「ベネッセは大学に、合格者のGTECのスコアが何点だったとか、他大学との併願状況がどうだとか、受験生情報を売りさばいています。実際、私学の担当者は、そういうデータを見て受験日を設定したりしますが、特に併願情報については、ベネッセは1学部につき350万円で販売しています。教育に関わる企業の倫理として認められるものでしょうか。リクナビが企業に学生の情報を売って問題視された件と、どう違うというのでしょうか」


 えげつないとしか言いようがありませんが、

「下村氏は見送りが決まってからも、まだ入試改革をあきらめていません。自民党内の部会では、国が英語民間試験の導入を私学助成金で支援することまで仄めかしています。導入しなければ助成金をもらえないのか、と大学側は受けとりかねません」

 とあるように、元々が東京の板橋区で小中学生相手の塾を経営していたという元文科相の下村博文がその背後につねに見え隠れしているのです。この安倍の太鼓持ち、茶坊主の腐れ政治屋については数々の疑惑があって、僕も前にここに「下村博文・文科相の不正献金疑惑問題」(2015.3.4)「下村博文・不正献金疑惑から浮かぶ加計学園理事長の巧妙さ」(2017.6.30)と題して二度書いたことがありますが、懲りずにまだやっているのかと呆れます。ベネッセは彼の隠れ政治団体「博友会」にせっせと献金するのみならず、何かおいしい餌でも与えているのでしょうか?

「ベネッセは一線を越えた」英語民間試験の導入の経緯はブラックボックスの中

 こちらはアエラの記事ですが、その露骨な「利益至上主義」が指摘されています。

 ベネッセは、株主・投資家向けのビジネスレポートで、2018年度に162億円だった営業利益を20年度には350億円、22年度には600億円に引き上げる目標値を設定している。この中で「国内教育」領域の柱に「教育・入試改革を機会点としたさらなる成長」を挙げ、英語4技能教材の開発を重視することを明言。実際、グループ会社が大学入学共通テストで来年から導入の決まった国語記述式試験の採点業務を今年8月、61億6千万円で落札した。
 英語民間試験は高校3年生の4月から12月までの間に2回受けることが可能で、仮に共通テストの受験者の半数がGTECを選択して2回受ければ延べ約55万人が受験者になる。ベネッセが発表した検定料は税込み6820円で、それだけで数十億円規模の収入だ。さらに受験生向けの対策講座や参考書などの商品開発も加われば「教育・入試改革を機会点としたさらなる成長」という皮算用をしていたのだろうか。


 民間試験導入は巨大な利権を生み、それにベネッセは子飼いの政治家、学者、さらには役人まで使って食い込み、主役の座をつかんだということですが、職業倫理もへったくれもないので、深刻なのはこれが新テストに参加する国公立・私立の大学すべての入試の合否に関わってくるということです。大学側も、「そんな不透明なものは無視する」とは言えない。上の新潮の記事にもあるように、

 …たとえば、東京大学は昨年3月10日、英語民間試験は「合否判定に用いない」と発表した。ところが、ひと月余りのちの4月27日、一転して「使う方向で検討を始めた」と公表したのである。
 その間になにがあったのかについて、さる政府関係者は耳打ちする。
「下村博文さんが東大の五神(ごのかみ)真総長と幹部を自民党本部に呼びつけ、“センター試験廃止は教育再生実行会議で決まっている”“これ以上、遠藤(利明)さんを困らせるな”と、叱責したと聞いています。大学への金銭的プレッシャーも仄めかされ、幹部は蒼ざめて帰っていったそうです」


 これを下村側は「『100%ない』と否定」しているそうですが、彼は政治家らしくと言うべきか、常習的な嘘つきなので、誰も信じる人はいないでしょう。そもそも、東大はそれならどうして対応を一変させたのか? いかにも「権力に弱い東大」らしいが、何らかの圧力がかからなければ、「正論だ」と評価されていたのに、それを急に撤回することはなかったでしょう。「逆らうと為にならんぞ」と脅されたのです。

 他にも僕が驚いたのは、天下の阪大にまで、ベネッセが社員を送り込んでいたことです。

「たとえば、大阪大学高等教育・入試研究開発センターの山下仁司教授は、ベネッセでGTECの開発統括を務めた人。旧帝大で阪大だけが英語民間試験を必須としていたことと、関係があるといわれています」

 たしかに、関係はあるでしょうね。しかもこの御仁、肩書は事務関係ではなく、「教授」なのです(調べてみると、阪大文学部卒)。一体、学問的などんな専門をもっているのか、不可解この上ないので、旧帝大ナンバー・スリーの阪大も格が落ちたものだなと嘆息させられます。アエラの記事には、「ベネッセグループには、今回の英語民間試験の導入経緯に密接に関わってきた政官財学のメンバーが大勢ぶら下がっている」とありますが、ベネッセと仲良くしておけば、文科省の覚えもよくなるとか、癒着の詳しい内情を知るがゆえの人事だったのでしょうか? そう疑われても仕方はないのです。

 今の高校生や親御さんたちは、こういう話を読んでどう思われますか? 長い物には巻かれろで、それなら進研ゼミを受講して、使う教材はベネッセのものにして、外部試験はGTECを選択して、できるだけ入試に有利なようにしたいと思うのでしょうか? それとも「薄汚い話だ!」と憤るでしょうか! 後者が正常だと、僕は思いますが。

 安倍内閣の主要人物が旗振り役となり、教育現場を舞台に民間企業への利益誘導を図る構図は「森友・加計学園問題」とそっくりで、関係者の間で第3の疑惑と目されてきた。

 アエラの記事にはそうありますが、その規模の大きさと不透明さ、大学入試全体に及ぼす悪影響において、これは「森友・加計学園問題」とは比較にならない。ベネッセにはおそらく有能な顧問弁護士がついていて、明確な違法・不正行為と判断されて検察の捜査を受ける羽目にはならないよう、指南を受けているのだろうと思いますが、アメリカの企業や産業組織がよく使う、法案や政策策定の場に関係者を送り込んで中身を好都合なものに変えてしまう「合法の外観を装った不正」が日本にも上陸していることが、これではっきりわかるのです。

 思うに、公金と受験生を食い物にするだけの英語の民間試験と国数記述式導入はやはり白紙撤回すべきでしょう。親は余分な出費を強いられ、受験生は一層多忙になり、しかも、その効果はないに等しい(その理由については前回も述べた)ので、ベネッセその他の業者とそれに飼われている学者先生、政治屋、一部のジャーナリストの懐を温めるだけなのです。

 仮にこういうことが「ちょっと延期されただけ」で、そのまま通ってしまうとすれば、それはバブル崩壊後の銀行救済のあれを凌ぐ深刻なモラル・ハザードをひき起こすかもしれない。とくに若者に影響するので、「日本社会というのはこういうものなんだな」と受験生たちは学習し、どんなおかしな社会になろうと、大事なのはそれに追随して「うまい汁を吸える」側につくことだと考えて、まともな感性を失うのです。そうして20年もたたないうちに活力のない、不正と賄賂にまみれた後進国になり下がる。

 後世の歴史家はこれを「重要なターニングポイントの一つだった」として、ベネッセ、下村、そして文科省をその「最大の功労者」としてとくに名前を挙げて記録し、子々孫々に伝えてくれるかもしれません。それは全5巻ぐらいの『日本国衰亡史』あるいは『いかにして日本は三流国家となったのか』の最後を飾るヤマ場の一つなのです。

 最後に一言、元同業者の下村博文に言っときたいのですが、彼のような根性の卑しい、ヤマイダレのチセイの持主が国会議員になり、文科相になり、数々の不正疑惑で名を馳せるなんて、学習塾業界としては恥以外の何ものでもありません。学部が違うのはせめてもの慰めですが、自分と母校が同じだと聞くとなおさら腹が立つ。悪質かつ恥さらしなことをいつまでも続けるのは許し難いので、潔くさっさと引退するよう勧告しておきます。

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英語民間試験導入に楽天・三木谷社長あり?

2019.11.09.13:29

 これは出色の記事です。なるほど、そういうことだったのかと、初めて納得が行った。

落胆の三木谷氏。ゴリ押し英語民間試験「身の丈」発言への恨み節

 どれだけ三木谷氏が、英語入試の改革に熱心だったかは、文科省の「英語教育の在り方に関する有識者会議」における発言を議事録でたどることによって確認できる。
 この有識者会議では民間試験導入にかなり慎重な意見もあった。たとえば明海大学外国語学部教授、大津由紀雄氏のこの発言。

「TOEIC、TOEFLのスコアが高い、700、800、900点というようなあたりを取っていても、英語が使える人というのが非常に少ない。それだけではなくて、日本語がきちんと使える人が非常に少ない。例えば、私が日常的に接している大学生だなんていうのも、とてもみじめな状況になっている。母語という礎なしの外国語の運用能力というのは、よくてただぺらぺらしゃべることができるという、ハリボテ英語力というものにすぎない」

 楽天社内の英語常用を進めるため「TOEFL」の効用を信仰してやまない三木谷氏に対するあてつけのような意見であるが、同様の考えを抱く学者は数多い。日本語もまともに書けない学生がほんとうにグローバル人材といえるかどうか。「ハリボテ英語力」とはよく言ったものである。


 僕はこの「明海大学外国語学部教授、大津由紀雄氏の発言」に完全に同意するものです。英語教育に従事していて、「ハリボテ英語力」の無意味さをいくらかでも知っていれば、大方の人はこの大津教授の意見に賛成でしょう。前に書いた「有識者会議はアホの集まり」は撤回しなければならない。特定の、現場教育に無知なビジネスパーソンが正論を排除して決定をゴリ押ししたということなのですから。

 2014年9月4日に開かれた8回目の会議でのことだ。取りまとめのために配布された資料に「CEFR」の文字が散見されることに大津教授が疑問を呈した。「CEFR」は語学の熟達度を測る国際的な基準で、下はA1から上はC2まで6段階のレベルが判定される。
「TOEFL iBT」「GTEC」「英検」など異なる7種類(6団体)の英語民間試験で出るバラバラの点数を一つの評価基準にまとめるため、文科省は昨年3月、各試験の点数を「CEFR」のどのレベルにあてはめるかの対照表をつくり、民間試験導入に備えていた。2014年の時点でも「CEFR」を使う考えだったのだろう。
 しかし、そもそも、比較できない別のテストの結果を比べ、一つの評価基準にあてはめるというのは、どだい無理なやり方である。大津教授はこう述べた。

「項目横断的に見え隠れするCEFRを日本の英語教育という文脈に置いたとき、それがどういう位置付けを与えられるのかについて、有識者会議で体系的に論じられたことがなく、これまでの議論におけるとても重要な欠落だと思う」


 これも正論です。「そもそも、比較できない別のテストの結果を比べ、一つの評価基準にあてはめるというのは、どだい無理なやり方」なのです。そういういい加減なことを平気でやる忖度文科省官僚の無責任は批判されるべきです。それとも、あのつまらないセンター試験や公務員試験で高得点を取って官僚になる手合いは、こうした対応の出鱈目さ加減もわからないほど頭脳の緻密さに欠けるということなのか?

 ともあれ、それで激論になったが、

 座長が三木谷氏の意見を重視したため、英語民間試験の導入を前提とした協議会の設置へと話は進んだ。後日、発足した協議会のメンバーが英語試験業者だらけだったのは言うまでもない。もちろん、英語など学習コンテンツの供給に熱心な楽天の三木谷氏やドリコムの内藤裕紀社長らも加わった

 のだという。全くもってテキトーな話で、安倍政権は「ビジネスを活性化」させるためなら、教育だろうと福祉だろうと、それがその結果どうなるかは考えず、何でも利用すればいいのだと考えているとしか思えない。こういうところ、韓国のアホな文政権のおかげで高支持率を得られているが、「亡国政権」ぶりが露わになっているのです。

 実際のところ、今の日本の教育はすでにしてボロボロです。日本の労働生産性は先進諸国の中では最低レベルにあると言われますが、教育もそうなので、彼らは「無駄な多忙さ」を強いられているのです。塾のことを英語では cram school(直訳すれば「詰め込み学校」)と言いますが、塾ではなく学校がそうなので、彼らは「センター試験に必要」と脅されつつ、ひたすら暗記を強いられ、少なくとも僕の塾はそれによって機械的になった彼らの頭の働きを「修正」するのに苦慮しているのです。立ち止まって自分の頭で考え、工夫してやることを知らなければ、将来社会人になっても同じで、何のためにこれをしているのかということは考えず、無駄なしなくてもいいことばかりして、労働生産性も低下するでしょう。その「不毛な資質」を学校が作っているのです。

 英語の民間試験では、地方の都市部以外の受験生は不利になるとか、そういう議論ばかり目立ちますが、新テストもセンターと暗記科目の多さは変わらず、それに新たに「記述式」(その無意味さについては前に引用した筑駒生の指摘を参照)と英語の民間試験が加わり、新たに「対策」が必要になって、受験生の多忙さはさらに増す、ということが問題なのです。意味のないことで多忙になるだけなので、それは彼らの教養面の貧弱さや国語力、「自分で考える力」のさらなる低下を招くだけでしょう。一体誰が得をするのか? 新たな「対策講座」を売り込む予備校や教材業者たちが儲かるだけです。これには「英語など学習コンテンツの供給に熱心な楽天」なども含まれるというわけです。

 地方の公立高校などは、対応能力のない教師たちが業者に全面依存することになって、新テスト用の効果の疑わしい売り込み教材をとっかえひっかえ使って生徒を無駄に混乱・疲弊させることになるでしょう。中には、これは延岡の高校で実際に起きていることですが、1・2年の生徒と保護者相手に「夏休みホームステイ体験」を売り込む業者の説明会を学校で開いて、「公立の学校でそんなことをやっていいのか?」と僕を驚かせたほどです。十日かそこいらのオーストラリア・ホームステイが40万なんて、相場からして高すぎるだろうと呆れましたが、結構な数の参加者がいたらしいので、そんなので語学力や国際性がつくのなら、誰も苦労はしない。親の負担を考えて月謝を低く抑えて地道に塾なんかやっているのが馬鹿馬鹿しくなってくるのです。

 親に余分な出費を強い、受験生は多忙さを募らせるだけで、別に高い思考力や語学力、国際性がつくわけでも何でもない新テストと民間試験導入。関係業者に新たなビジネス・チャンスを与えるためだけにこんなことを国が音頭を取ってする国に、「明るい未来」などあるはずがないではありませんか。

 今の子供や若者は高齢者人口のさらなる増大と、温暖化などの地球環境悪化の中で、社会に出てから困難な事態に遭遇することが予想されます。そのとき必要なのは後ろ向きに適応することではなくて、現実を見据えて創造的な解決策を見つけ出す能力と、それを果敢に行動に移せるパワーです。その両方を奪うようなことばかり今のオトナたちはやっているわけで、一体誰がその責任を取るのか、僕は無責任な連中ばかりなのを彼らに申し訳なく思います。

「政治都合」の民間試験延期、その他の問題

2019.11.03.18:54

 1日、新テストの民間試験導入延期が発表されましたが、その背後には次のようなお粗末な「政治事情」があったようです。

英語民間試験、首相官邸が見送り主導=「身の丈」で危機感強まる

 無責任かつ安易な制度いじりで現場に大混乱をひき起こし、それを反省して根本から見直すというのならともかく、全く無関係な政治事情で一部の延期を発表する。野党も野党で、前から反対していたのならともかく、ここに来て急に張り切るのは、やはり「自己都合」の政治利用のためなのだから、国民の共感は得られないでしょう。

 前回の引用記事とも関係しますが、新たにこういう記事も出ています。

大学入試新テスト 国語記述式にも課題 複雑な採点方法など批判高まる

 記述式は元々採点が難しい。二次の大学別個別試験では、それは各大学の裁量に任されるわけですが、それは大学への信頼関係に基づいていると言えるでしょう。たとえば英語の下線部訳や「~について百字以内で文中に示されている筆者の考えを述べよ」というような問題があった場合、それは努めて正確でなければならないが、個々の単語の訳だけつなぎ合わせて、全体としては意味不明の文章をつくり上げても、ほとんど点はもらえないよ、と僕は教えています。アルバイトを使って大量の答案を処理する模試では、便宜上これとこれとこれ、というふうに要素の指定がマニュアルにあって、それぞれ一つが何点、というふうになっているのかもしれませんが、本番では全体としてまともな文章になっているかどうかが重要視されるでしょう。それは当然のことだと、僕は思います。そしてそれについては大学側を信頼してよい。採点が甘い厳しいの差は大学によってかなりあるようですが、それはその大学の受験生のレベルにもよるでしょう。

 しかし、学力も極端なまでにマチマチの50万人分の記述式答案を短期間で採点し、それに「公正さ」を担保しようとなると、話はまた違ってくる。だから、前回引用した筑駒生が指摘するような、次のような問題が出てくるわけです。

<一文目は「確かに」という書き出しで、具体的な根拠を二点挙げて、部活動の終了時間の延長を提案することに対する基本的な立場を示すこと。二文目は「しかし」という書き出しで、部活動の終了時間を延長するという提案がどのように判断される可能性があるか、具体的な根拠と併せて示すこと。(筆者注:課題文は、架空の学校の部活動について)>
 設問条件をガチガチに固めておいて、与えられた文章、資料から必要な情報、キーワードを抜き出せるように誘導して、採点するわけです。これのどこが思考力を問う問題なのでしょうか。文科省は資料を読み取り、読解力を試すと言っていますが、しょせん、ことばの抜き出しにすぎません。このプレテストを見て、ある国語教師は「全文を読まず、斜め読みでも解答できる」と指導しているぐらいです。センター試験の選択問題を記述式にしただけの問題であり、採点はこちらのほうがかえって難しくなります。


 要するに、形式が記述になっただけの、ほとんど意味のない試験なのです。それなら従来のマークオンリーの問題の方がよほどすっきりする。通常の二次の国語の試験に見られるような、思想や文学の内容理解力と国語表現能力を問う問題ではなく、題材も実用重視で、「そんなクソ面白くもない架空の問題にいちいち頭を使わせるな」と言いたくなるような退屈なシロモノでしかありません(その頭の使い方も低級パズルを解くときのそれでしかなく、それならAIの方がずっとうまくやるでしょう)。

 これは「工夫次第で今後よくなる」という性質のものではありません。短期大量採点のため多数の大学生アルバイトを動員し、かつ「公正」を期さねばならない以上、特定の鋳型に流し込む半機械的作業という性質は消せないだろうからです。教育再生実行会議の「有識者」センセイたちが「記述式にすれば主体的な思考能力と表現力を問う試験になる」「そうだ、そうだ」というような安易な発想で提案して、文科省のお役人が「素晴らしいお考えですね」と揉み手で相槌を打ち、しかし、問題を作る側が「公正な採点」を念頭に作ると、こういう何のための改変かわからないようなものができてしまうわけです。ほとんどマンガに近い。

 だから四の五の言わず、センターそれ自体をさっさと廃止してしまえ、というのが僕の意見なのですが、日本のお役人や教育関係者の旧習墨守の性格上、それはできないでしょう。いったん作ったものは暴力革命でも起きないかぎり潰せないという社会的惰性の問題もあるので、大学入試センターも潰せない。それなら、今のセンター試験を同じマークでも問題の作り方を工夫しながらより「暗記重視でない」性質のものに変えていくぐらいがせいいっぱいで、そうすれば今より悪くなることはない。

 大方の受験生もそれなら納得するのではありませんか。ちなみに、韓国は日本以上の学歴社会で、「受験戦争の過熱」が以前から社会問題になっており、それを緩和するための方策として推薦入試が拡大され、今は推薦入学組が全体の7割に達している(最難関とされるソウル大は何と8割近い)という話です。それをあちらでは「随時募集」と呼ぶのだそうで、この前のチョ・グク問題でも、娘が二週間どこかの大学にインターンに行っただけで専門的な医学論文の第一著者になり、それが効いて名門大の推薦入試に合格したのだと報じられました。こういうふうに、推薦入学を狙う生徒は「他とは違う取柄(スペックと呼ぶらしい)」を競うことになって、それがあの法務大臣の娘の例に見られるような「不正(他にも大学教授が自分の子供や親戚の子を共著者にして箔をつけさせた、などという見え見えのケースもある由)」の温床になっているわけです。日本も推薦入試で大学に進学するケースが増えていますが、ほどほどにしないと今度はおかしな方向で競い合うようになって、入試の不透明さが増し、かつ大学生の学力レベルも下がってしまうでしょう。今の韓国の学校では日本のかつての日教組と似た左翼教組が猛威を振るっており、しばらく前には高3生がその度の過ぎた「反日」思想強要への抗議を表明したというニュースもありました。推薦では内申書(韓国では「学生生活記録簿」という)重視なので、学校の先生たちの覚えが悪くなるとアウトです(一般入試でも、日本のセンターに当たる「大学修学能力試験(但し、センターより難易度が高い)」があって原則大学別の学力二次試験はなく、面接や内申が重視されるようだから、軽視できない)。大部分の生徒はそれを恐れて何も言えないが、この生徒たちは時期的にその記述が終わったので、後輩たちのためにも黙っているべきではないと思ったと抗議声明を出したので、その心映えは立派なものですが、日本の場合、一般入試では内申書はたんなる添え物にすぎず、事実上合否には無関係だから、生徒が教師の従属物にならずにすむので、その意味でもよいシステムだと言えるでしょう(ついでに付言すると、日教組はそのイデオロギー的偏向ゆえに、教え子世代にかえって左翼嫌いを多く生み出すという皮肉な結果を招きました。そして力を失ったのですが、韓国の反日左翼教組も同じ運命を辿るかもしれません。だとすれば、今の子供たちが成人し、社会を担うようになった頃には、異常な「反日種族主義」も力を失って、歴史の冷静な見直しも可能になり、日韓関係はもっと良好なものに変化するかもしれません)。

 受験戦争緩和の目的で推薦を拡大したものの、韓国ではその推薦の「不公平感」に対する不満が高まって、今度は一般入試の比率を高めようという方向に議論が進んでいるようですが、こういうふうに事はかんたんではない。入試制度を変えるときは全体的視野が必要なので、部分だけ見てある箇所をいじると、それによって今度は別のより深刻な問題が発生し、受験生はさらに疲弊し、不公平感も増すといったことになりかねないのです。ヤブ医者に体をいじられるとよけいに悪くなってしまうのと同じなので、今回の件もその「ヤブ」ぶりが明らかになっているのだから、一から考え直すべきでしょう。

大学入試・新共通テストの無知蒙昧

2019.10.30.14:35

 まず、記事を二本引用します。

筑駒生、大学入学共通テスト中止を訴える 「ぼくたちに入試を受けさせてください」

大学入試改革を民間に丸投げする文科省の狙い

「いじればいじるほど悪くなる入試制度」と言いますが、僕は「大混乱になるよ」とずっと前から予言していて、その通りになっているのですが、天下の筑駒生にこう言われたとなると、文科省も頭が痛いでしょう。昔、今のセンター試験の前身、共通一次がスタートする前も、東大の法学部と医学部(文Ⅰと理Ⅲに対応)がうちは参加しないと言って、文部省(当時)が激怒するという一幕があったと聞きました。国立文系と理系の偏差値トップに拒否されたのだから、面目が丸潰れになってしまったのです(むろん、そういう例外は認められなかったのですが)。

 しかし、あれは、つまり、今のセンター試験そのものが「失敗」だったのです。当初、京大の方は協力的な態度を取り、「共通一次重視」の配点でこれに応えました。ところが、しばらくしてその弊害でキャンパスの風景が一変することになり、「こういう小利口・表面的な、深くものを考えない暗記馬鹿ばかりになったのでは教育はできない」というので、数年を経ずして二次重視に切り替えることになったそうで、今は難関大はどこも二次重視の配点に変わっています。僕もそれは正しいと思います。あんな試験で適切な学力・資質判定はできない。

 そもそも、なぜ共通一次=センター試験のような広く浅く式のつまらない試験が導入されたのか? あれは一般の高校教師たちが文句を言ったからだと言われています。入試で問われる学力レベルと、高校の授業のレベルが違いすぎるから、生徒は学校授業を軽視するようになり、それがけしからんというので、一般的な高校の授業レベルで最低6割は得点できるというコンセプトのあれが導入されたのです。

 しかし、これは頭が悪すぎる話でした。げんに今のセンターでも、東大・京大は総合得点で9割前後がボーダーになっている。他の旧帝大レベルでも8割以上必要なので、要するに、あんなものでは差がつかず、二次の個別試験でふるいにかけるしかなくなるからです。東大だけ昔は独自の一次試験がありましたが、あれは今のセンターとは微妙に質が違っていて、怠惰な不良の僕も昔、地学か何かの問題を見ていて、「これなら国語力だけで解けるな」と色気を起こしかけたことがあったくらいなので、知識というよりは文脈力、思考力を見る色彩が濃かったのです(従って、今のセンター試験よりはるかにマシだった)。

 話を英語にかぎると、新テストですぐに英語がなくなるわけではありません。上の二番目の記事にもあるように、全面廃止は「2024年度から」らしいので、それまでは「リーディング100点、リスニング100点」の組み合わせになって存続し、リスニングの配点が一気に増え、筆記では発音・アクセント・文法などの単独出題はなくなり、これにさらに民間テストが加わるということなのです。その民間試験の受験を出願要件に含めるかどうかは大学によって相違し、さらに、出願要件に含める大学も、その民間試験の成績を点数換算するかどうか、比重をどうするかで対応はバラバラなのです。

 受験生が怒るのも無理はない。教育再生会議と文科省の元々の意図は、新テストに申し訳のように記述式を混ぜ(それも国数だけですが)、暗記力だけでなく思考力や判断力も見たという名目にし、英語は民間試験に移し替えることによって、「グローバルな英語力」なるものを判定したことにして、二次では基本的に学力テストは行わず、面接や志望理由書、小論文、ボランティアや部活等の記録によって合否を決めるという方向にもっていこうとしたのでしょう。あの大惨事になっている法科大学院のときと全く同じで、アメリカのサル真似をしようとしたのです(共通テストが2種類というあたりも同じです)。

「考える力」がまるでない、わが国の「有識者」なるもののお粗末さが際立つ話ですが、英語塾の教師として僕はこう見ています。英語の場合、「四技能」とよく言われ、この四技能とは、listening、speaking、reading、writing の四つです。今のセンターにはリスニングは入っていますが、スピーキングやライティングは入っていない。それで全部が満遍なく入った新テストを、ということになるのですが、ライティング、すなわち英作文は、すでに二次の英語には入っています。それは伝統的な和文英訳と、あるテーマについて意見を英語で書かせる自由英作文に分かれますが、両方入っているケースが多い。要するに、スピーキング以外の部分はすでにカバーされているのです。

 このうち英作文について言うと、今の受験生の能力は楽観できるものではありません。まず和文英訳については、その場で日本語の意味を取って自分で正しく表現できる英語文に転換することが彼らはおしなべて苦手だし、テーマについて論じる自由英作文となると、英語以前に、何を書いていいかわからない、何も思い浮かばないという生徒が増えているのです。それで無理に書くと、「なんじゃ、それは」というような、読む価値ゼロの英文になって、文法のミスを修正してもよくはならない。何も特別才知溢れることを書く必要はないが、そこで問われていることに対するごく基本的な知識もなかったりするのです。それではたしかに書きようがない。これは今は試験されていないスピーキングについても同じことになるでしょう。帰国子女などはたしかにしゃべれるかもしれないが、無意味なことをいくらペラペラしゃべっても意味はないのです。語るべき内容がまずなければならないが、それは英語とはまた違う次元の問題になるのです。たんなる思慮のなさや無知をさらけ出すために英語でしゃべっても、何か意味がありますか(逆に、ips細胞の山中教授のように、発音が「日本人英語」でスピーチをしても、内容があるから尊敬されるのです。国際会議のニュースなど見ていると、外国人は、ドイツ人やインド人などその典型ですが、日本人にはたいへん聞きとりやすい英語を話していて、それは発音が英語的ではないということですが、それで何も問題はないわけです)。

 要するに、現実の状況をよく見ずに「教育再生実行会議」なるものは無責任な提言を行ない、二流官庁の文科省が十分に議論を詰めることもせず決定してしまったのがこの新テストなので、記述学力はすでに二次で問われているから、そんなものを無理に共通テストに入れ込む必要はなかったわけです。英語も、目下問われていないのはスピーキングだけですが、すでに述べたようにしゃべれさえすればいいというものではないし、現状でも大学入学後、やる気のある生徒は必要に応じて必要なレベルのそれを身につけるでしょう。げんにうちの塾の元生徒でも、大学入学後TOEFLを受験して留学した学生は何人もいるし、中には高得点(120点満点の100点以上)を取って「受験英語は役立たない」説を否定して見せた者もいるのです。何にせよ、それで一年も向こうにいれば、話す方も自然に上達する。いや、どんな生徒でも全員スピーキングができなければならないのだと言うかもしれませんが、事実上そんな必要はないし、上にも書いたように、無内容なことを、アメリカ人の真似をして、舌をむやみと転がしたり、猫みたいに喉を鳴らしながらガイジン風に発音してみたところで、軽薄さが際立って侮蔑を買うだけの話なのです(昔の日本人留学生は、最初は沈黙がちで劣っているように見なされても、文法力も理解力も教養もあったので、そのうち真価を発揮して、一目も二目も置かれるようになることが多かったと聞きます)。

 センターは「眠たいだけの試験」だと僕はよく悪口を言っているのですが、これに対して、二次の英語長文には今は非常に面白いものが多い。それには明らかに価値があるので、僕らの「常識」の多くはたんなる「思い込み」にすぎませんが、入試英語ではそれを問い返し、突き崩すような内容の英文がかなりたくさん出ているのです。それは広義の「哲学的訓練」ともなって「自明を疑う力」を育むので、知的好奇心の強い高校生には面白いのです。また、大学側はそれを面白がるような生徒をほしがっているので、それは教育機関としては当然だと思います。それを廃止して、センターであれ、それに代わる民間試験であれ、実用重視のつまらない表面的な語学力だけを問う試験だけで済ませて、あとは志望理由書と面接だけで合否判定をしろというのでは、ノーベル賞はおろか、健全な判断能力をもつ一般市民ですら生み出せなくなってしまうでしょう。愚民化政策として、政治家や官僚にはそれは好都合なことかもしれませんが。

 僕はセンター廃止論者でしたが、試験の内容もさることながら、その最大の理由は、「無駄に科目数だけ多い」という点にありました。国立は原則一律で文系なら英数国に加えて社会二つ、基礎理科二つ、理系なら地歴一つに理科(詳しい方)二科目をセンターで強要されるので、そのための暗記勉強で超多忙になり、それは飛び抜けた秀才には大して負担ではないでしょうが、ふつうの受験生は何もかもが中途半端になり、自分で好き勝手考えたり、本を読んだりする余裕もなくなるから、正味学力が低下してしまうのです(先に述べた、なぜ英作文が苦手かという理由も明らかにこれと関係する。多忙なためやることが機械的になって、立ち止まって考えたり、自分で工夫したりといったことをしない悪癖がつくのです)。大学別の試験だけに戻せば、センター用、二次用と勉強を分ける必要もなく、多くの大学ではもっと試験の科目数も減るでしょう。その代わり、もっと板についた各教科の学力を受験生は身につけられるようになるのではないか、そう思ったのです。

 ついでに言うと、今の高校のヘンテコなところは、授業科目は逆に減っていることです。たとえば昔なら、僕は文系のクラスにいましたが、理科は生物、地学、化学、物理、四教科の授業がありました。社会の方は、日本史、世界史、地理、政治経済、倫社、全部やったので、国語も現国、古文、漢文と、授業が分かれていて、それぞれ先生が違っていた。文系だと数学は数Ⅲはやらないと、その程度の違いだったので、入試の見地からすれば、「いらない科目」だらけだったわけです。当時は大学進学率が今ほど高くなかったこともありますが、進学希望者も学校の授業と入試を直結させる考えはもっていなかったので、高校で一通り全教科をやるのはあたりまえだと思っていたのです。

 今は違うので、たとえば英文で物理学や生物学に関する議論が出てきたとして、理系の生徒ですら、自分の選択は生物と化学、あるいは物理と化学なので、物理は、生物は知りませんとなる。文系でも、世界史に関する話が出てきて、この人あるいは事件は有名なので知ってるよねときくと、いや、私は日本史または地理を選択しているので、世界史は何も知りません、というようなことになる。代わりに英語の授業回数などは昔より増えているようですが、それで彼らの英語力が上がっているという事実はないので、一体どんな授業をしているのかと不可解なのです。ロクな説明もない文法の授業は自分でよい英文法の参考書を見つけて勉強した方が早そうだし、リーディングでもリスニングでも、今はインターネットがあるから、生きた教材は山のようにある。英語の授業数を減らしてその分、今やっていない理科社会の授業を増やし、全般的な基礎知識を教えた方がいいように思われるほどです。国語にしても、高校レベルとなると、現国、古文、漢文、一人の先生がちゃんと教えられるのかは疑わしい。その全部に詳しい人などほとんどいないだろうからです。

 こうなってしまった最大の理由は、高校の授業科目とセンター試験の科目を無理にリンクさせてしまったことにあるのでしょう。つまり、試験でやる科目しか高校の授業でやらなくなったのです。たまにそれで困った問題も出てくるので、たとえば東大の文系には「地歴二科目」が必須です。二次がそれなのでセンターの選択も自動的にそうなるはずですが、「東大命」の有名進学校はカリキュラム上、そんな不備はないでしょうが、地方のふつうの公立高校の生徒は文系でも地歴から一つしか学校では選択できないので、もう一つは独学するしかなくなるのです(京大文系学部の大半も2014年度までは地歴二科目が必要でした。翌年から文系はすべて地歴1+倫政経の組み合わせが可能になったのですが)。

 こういうのは僕には釈然としないので、悪い意味で高校が予備校化してしまったのです。入試に関係ない科目は全然知らないという若者が量産される。暗記勉強は定期テスト前の一夜漬けだけだったとしても、初めから全くやらないのといくらか触れたことがあるのとでは後々微妙に違ってくると思うのですが、どんなものでしょう?

「余計なことを言うな。それでなくても大変なのに、この上入試に無関係な教科まで増やされてたまるか!」と受験生は怒るかもしれませんが、僕は受験科目は減らした方がいいと言っているのです。むろん、あの退屈な学校授業のやり方はぜひとも改めてもらわなければなりませんが、基本的な教養としては試験に使わない教科にも触れておいた方がいいかも知れないと思うのです。それとこれとは別の話だということで(大体、好き勝手本や雑誌を読んだり考えたりすることも、純粋にそれが面白いからで、入試のためにするのではありませんが、結果としては入試にも役立つことが多いのです)。

 話を新テストに戻して、冒頭の筑駒生が言うように、国語や数学に新たに導入される記述方式は「考える力」とは別に何の関係もないとして、受験生は新たにその「対策」もしなければならなくなって、大して意味のないことにまた時間とエネルギーを奪われるのです。かくて事態は悪化するのみ。ちなみに、その新テストの記述式問題の採点業務を落札したのはベネッセだという話で、これはすなわち「ベネッセの採点基準」が記述式問題の基準になるということで、公平性の見地からも大問題になる。それをそのまま大学が丸呑みしろということになると、民間の一企業が、大学入試まで支配することになります。おそらくこういう問題点は再生会議や文科省は何も考えていなかったのでしょう。だからアホなのです。

 結局、新テストのそうした弊害(趣旨の異なる複数の英語民間試験に公正な統一基準が見つからないのもその一つ)を考慮するなら、大学側は自己防衛上、これまでのセンター以上にそれを軽視して、二次の独自試験で合否判定をする方向に動かざるを得ないでしょう。受験生の負担が無駄に増えただけで、得るものは何もなかったということになる。

 繰り返しますが、センター試験は新テストなど作らず、単純に廃止し、大学入試センターも税金の無駄遣いなので解体して、その分を国立大学の補助金増額に回した方がいい。今は共通一次以来、それに依存しすぎたのと、愚かな安倍政権下で進められた教養教育軽視の弊害でその方面の教員不足に陥り、問題作成能力を十分持たなくなっている大学も少なくないだろうから、四、五年猶予期間として仕方ないからその新テスト(英語の民間試験はいらない)をやって、「あとは各大学で工夫して入試をやって下さい」ということで、「余計なお世話」から撤退する。試験内容は昔とは変わって当然ですが、システムは昔と同じ大学ごとの独自試験だけにするのです。

 おそらくそれがベストです。有識者先生や文科省のお役人の犬も食わない見栄やメンツのために、こうしたトンデモ「改悪」案を撤回できないというのは、オトナの恥以外の何ものでもないでしょう。それにつけても嘆かわしいのは、予備校や教材会社などの受験産業が、まともな批判は何もせずに、「ビジネスチャンス到来!」とばかり、その尻馬に乗って対策授業、対策教材の売り込みにやっきになっていることです。「入試のプロ」なら、問題点はよくわかっているはずです。「受験生の味方」を自称するなら、なぜきちんとこうした出鱈目さを批判しないのか。社会的責務の感覚が皆無だからと言う他はありません。

2019年センター試験英語について

2019.01.20.18:53

 予備校の「講評」によれば、河合塾と東進が「昨年並み」、駿台が「やや易化」となっていますが、僕もゆうべ夜の10時半から、パソコン画面で時間をはかって解いてみました。問題によってはスクロールして問題文を読み返さねばならないので、このやり方は面倒なのですが、いつもこのやり方でやっています。

 去年・一昨年の平均点は123点台だったので、上の予備校の見立てでは120~25点ぐらいということになりますが、最近精度が落ちてきたわが“カンピューター”に基づくと、やや下がって118点とか、そのあたりに落ち着くのではないかという気がします。

 その根拠は? ヤマカンというのは明確な根拠はもたないものなので、あらためてそう問われても困るのですが、やってみて、長文のセクションでミスを誘いそうな箇所がいくつかあったというのが、根拠といえば根拠です。文法はいつもにも増して易しいなという印象ですが、今年のうちの受験生には文法が苦手な子が多いので、behind schedule とか it can’t be helped とか、皮肉なことにこれは去年のセンター直前文法演習でやったもので、その頃2年生として在塾していた子たちにはついでにやらせたはずですが、それも一年も前の話なので、忘れている可能性が高い。あと、不要文削除の㉘は迷った生徒がかなりいたでしょう。恩師への贈物の㉛㉜あたりも迷いそうです。大問4は、例によってと言うべきか、内容が死ぬほど退屈ですが、それさえ我慢すれば設問自体はかんたんなので、ここは大部分の生徒が無傷で通り抜けたでしょうが、続く大問5の㊺は、消去法で3しか残らないが、微妙にニュアンスがズレているようにも感じられるので、厳密に考えるタイプの受験生は釈然としない思いが残ったかも知れません。大問6は悩ませられるような箇所はほとんどない。㊾で invisibly がわからないと痛い、というぐらいです。センターの英語は深く考える能力は何ら問われないスピード勝負の試験なので、読むのが遅い人は時間不足で落とさなくていいものまで落とす。そこはいつもと同じです。

 去年は、しかし、あのセンターの問題にしては珍しく笑えた「タコ型宇宙人」の海中探査の問題で「途中でわけがわからなくなってしまった」と言っていた生徒が何人もいたので、それと較べれば今年は意表を衝くような英文がない分、やりやすかったと言えるかもしれません。そう考えるなら、今年の受験生全体の学力にもよりますが、平均点が125点ぐらいに上がる可能性もあるわけです。生徒のためにも下がるように祈っていますが。

 問題はこれからです。こんなこと言うと気を悪くする人がいるかもしれませんが、センターの英語は高いレベルの読解力や英作能力などとは無関係で、スピードと基本知識さえあれば、9割得点することは難しくなく、差がつきません。学力の高い子の方が下になることもあって、優秀でも凡ミスの多い子はそれで10点前後落とすことがある。ただ、二次の英語では、正味の学力差がはっきり出るので、たとえばセンターで185点だった方が二次の記述で7割、195点だった方が4割というような大きな差が出ることも、とくに難関大の入試では珍しくないのです。センター得点しか見ていないリサーチの結果というのは、その意味でアテにならないので、判定がCやDでも、二次力があると見ている子には僕は迷わずゴー・サインを出します。逆の場合にはA判定でも心配する。むろん、これは英語だけ見て判断できることではなく、二次の他の科目がどれくらい取れそうかにもよる(とくに理系は数学理科の配点が大きい)のですが、出願の際には同じ判定でも、大学によって二次の問題レベルにかなりの差があることがあるので、そこらへんよく見て判断しないと失敗します。

 こういうのは受験指導では常識ですが、地方の公立高校の先生などには、そこらへんが全くわかっていないまま「指導」している先生が珍しくない(「またうちの学校の悪口が書かれているのではないか…」とこのブログを“警戒チェック”している先生たちはマシになっている?)ので、要注意なのです(大学別のいわゆる冠模試に関しては、形式は似ているが問題文がおかしな具合に難しすぎたり、採点基準が本番の入試とはかなり違うと思われるので、「参考程度」の扱いでよろしい)。

 そういうわけで、受験生はそのあたりよく考えて志望校を決め、国立の前期二次試験まであと1カ月余り、もう一頑張りして下さい(塾では月曜に、3年生から自己採点結果を教えてもらうのですが、聞くのがいつも恐ろしい)。

 ちなみに、今年の国語の評論部門には、沼野充義氏の「翻訳をめぐる七つの非実践的な断章」というのが出ているというので、翻訳屋のはしくれである僕も読んでみましたが、問題文はいいとして、設問の面白くないのには閉口したので、自分も昔、受験生の頃はこういうのをやらされていたのだなと、あらためて国語の試験問題の特殊性というものを感じました。英語はよくできて、文章力もちゃんとあるのに国語(とくに現国)が苦手という子はいますが、ふつうに文章を読んで理解するのとはまた違う頭の使い方を要求されるわけで、そこらへんの要領がそういう子たちはわかっていないのでしょう。いわば「国語ムラの掟」というものを知らないからで、それは自然な国語力とイコールではない。そこらへんをうまく解説した参考書を一冊読めば、コツがわかって高得点者に変身できるのではないかと思います。そういう人は「自分は国語力がない」と決めつけず、それを試してみればいいのです。

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