本を書く

2018.05.19.13:20

 暑くなって、ほとんど夏のようですが、このブログ、しばらくご無沙汰しました。

 連休前から数日前まで、久しぶりに多忙な日々を過ごしました。せっせと原稿書きに精出していたので、初の“自著”に挑戦していたのです。ある人に、「もう翻訳はいいから、自分の本を書け。それも今年中に!」と言われて、「そんなこと言われてもねえ…」という感じはしたのですが、ちょうど受験生が抜けた後で塾商売がヒマな時期で、時間的余裕がたくさんあったので着手し、いざ書き出すと割とすんなり先が続いて、完成しました。僕はそれに『〈私〉からの自由』というタイトルを付けました。ちょうど6万字ぐらいになったので、薄めの本一冊分にはなるでしょう。扉には、シンボリックないいのがあったので、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』に出てくる言葉を拝借した。

 このブログにも本を書けと言って寄越してくれた人がいますが、こういうふうに重なるというのは珍しいことなので、それで書いてみる気になったのです。しかし、その人はある団体の長ではあっても出版関係の人ではないのだから、僕に書かせてどうするのかという気はするのですが、そのあたりは何か考えがおありなのでしょう(実はそんなものはなかったということもありえますが、その場合は自分で出版先を探さねばならなくなります)。

 その原稿には、これまで訳書のあとがきなどには多少書き含めていた、自分が最も本質的だと考えていることを正面から取り上げて書いたのですが、最近僕はその種の話をするのを避けてきました。それは世間常識とはかけ離れた人間・世界理解なので、大方の人には意味が分からないことのようだからです。意味が分からなければ、聞かされる方は苦痛だし、話す方も徒労感を覚えるだけです。僕自身は、他の人たちにそれをおわかりいただこうがいただくまいが、何の影響も受けないので、「これがわかればもっと楽に生きられるし、実生活面でもいいことが多くなり、世の中もいい方向に変わると思いますよ」ということで話していただけなのですが、理解されなければそもそも話す意味はないので、黙っていることにしたのです。そういう話をしているよりは、ブログで政治談議でもしている方が気楽というものです。ところが僕に書けと言った人によれば、それはよくないことなので、ちゃんとふつうの人にもわかるように説明する必要がある、プレゼンテーションの仕方を考えて、わかるように書け、という仰せなのです。僕はその人にそんな話をしたことは一度もないのだから奇妙ですが、僕の苦手な霊能者らしいので、話さなくても中にあるものはわかった、ということなのかも知れません。

 ともかくそのあたり、自分なりに工夫はして書いたつもりなので、少しはわかってくれる人が増えるかも知れません。僕がそれを書こうとしなかったもう一つの理由は、それ自体は古くからある思想の一つだからです。しかし、今の世の中を見ていると、それがわかっている人はどう見てもごく僅かです。その意味ではたしかにあらためて書く意義はあるかもしれません。僕は自分のいくらか風変わりな個人的体験から出発してものを考えてきた人間なので、哲学や宗教関係の本を読む場合、理解のベースにしているのはそのことです。今までそれは関係ないこととして書かなかったが、わかりやすくしようとすれば書かざるを得ないので、どういう道筋でそう考えるに至ったかを必要な範囲で説明しました。これでわかっていただけなければ、僕としては他にどうしようもない。

 しかし、とにかく、自分の一番伝えたいことは書けたという感じがしたので、すっきりはしました。それを皆さんがお読みになる日が来るかどうかは知りませんが、自分の義務の一つはこれで果たした。そういうささやかな満足感というか、充足感はもてたのです。

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入試戦線終わる

2018.03.10.16:08

 例年国公立大入試合格発表のトリは東大と京大がつとめる習わしで、本日10日をもって前期の発表が終わりました。今年のうちの塾では国公立の発表は4日に始まって、10日に終わるという日程で、残念ながら全員合格とはいきませんでしたが、センターのビハインドが大きすぎる駄目モト受験の生徒以外はほぼ成功して、最後も合格で終えられたので、ほっとしました。一人いた浪人生からも連絡のメールが届いて、昨年のリベンジを果たして無事合格したようなので、今年は良の部類です(去年はやたら推薦が多くて、一般受験組が少なかったのが、ふつうに戻りました)。後期再チャレンジ(二次に英語や小論文はない)の生徒一人を残して、わが塾の今年の入試戦線は終了です。

 今年は入試の一番忙しい時期に身内の愚劣な、しかし深刻なゴタゴタ(そちらはまだ片付いていない)が重なって、個人的には大変でしたが、これで一つは済んだので、一段落です。このブログもそれで久しぶりに更新する気になった次第です。

 世の中はあれこれ問題がたくさん起きているようで、例の佐川偽証問題では関係職員の自殺事件、佐川氏本人(ちなみにあの年の割に多すぎる髪はカツラですかね?)の辞任に発展し、北朝鮮問題では米朝首脳会談が開かれる見通しだとか(トランプと金正恩の組み合わせでは、問題が解決されることはないと僕は見ていますが)。例のお月さん大統領の韓国でも、前にここで「気色の悪いナルシシスト」と書いたことがある大統領候補の安熙正(アン・ヒジョン)、韓国・忠清南道知事の悪質な女性秘書連続レイプ事件が発覚して、これは権力をカサに着て女性を性奴隷扱いする悪辣な韓国有名人たちに対する「MeToo運動」の余波だそうですが、大騒ぎになっているようです。韓国には山口敬之がたくさんいるのか、それとも日本では発覚しにくいだけなのか、どちらかは知りませんが、従軍慰安婦問題で日本を一方的に非難し続ける割には、韓国人の性道徳はお粗末きわまりないようです。

 しばらく書かないでいると、書きたいことが増えすぎてかえって書けなくなってしまうものですが、またぼちぼち再開したいと思います。

スーパースターにドラマあり

2018.02.18.17:06

 昨日は羽生結弦選手の金メダルで日本中が喜びに沸きましたが、僕はそのとき塾にいたので、リアルタイムではそれを見ることができませんでした(前日のSPは見た)。もうそろそろ終わった頃だなと思ったとき来た生徒に聞くと、何と羽生選手が金で、宇野選手が銀だったという話です。やったーと、あらためて生徒たちと大喜び。

 順調に来ていたのならまだしも、11月のアクシデントで深刻な負傷を負い、満足な練習もできず、かつ強い痛み止めを打って臨まねばならないほど具合が悪いままだったのにこの結果を出したというところが凄いので、演技終了後に「勝った」と呟いたのは、何より「自分に勝った」という意味だったそうですが、そのあたりが彼がスーパースターであるゆえんです。

 家族やコーチ、チームなど支えてくれた人たちへの感謝の言葉も、社交辞令ではなく、真情がこもっていた。苦難を乗り越えた人間ほどそういうもので、現実を客観的に眺める目をもっているから、それがどれほど大きなものだったかがわかるのでしょう。

 彼は今でも華奢に見えますが、小さい頃はひ弱な喘息持ちで、そんな子がこういう偉業を成し遂げるまでになったのだから、世界中の人に大きな希望を与えるものです。さらに、東北大震災で実家が全壊するという苦難にも遭っている。そして今回は、オリンピック連覇がかかった大事な時期に出場すら危ぶまれる大怪我をしたのです。ツイてないな、これでは無理だろうなと大方の人が思ったところで、奇蹟的な復活劇を見せた。それはドラマを盛り上げるための神の見えざる演出であったかのようです。

 猛練習によって培われた高度な技術が土台にあっての話ですが、メンタル面の強さが最大限に問われる試練に、今回彼は直面したわけです。そして苦しみながらも、それに見事にパスした。色々な人たちから彼に大きな讃辞が送られるのは当然のことです。

 今は受験シーズンで、自然、実力とメンタルについて考えさせられることが多いのですが、どんなことでも地道な努力なしに実力はつかないし、そのプロセスの中でメンタルの強さも培われるので、それはスポーツでも勉強でも、仕事でも同じでしょう。何にしても、まず逃げずに立ち向かうという気概がなければならない。成功するかどうかには時の運もありますが、ストアの哲人流に言うと、人間にコントロールできるのは努力と内面のありようだけです。そこに注力して、あとは運命のはからいにまかせるしかないと達観できれば、それが最善ということになるでしょう。

 ウィキペディアによれば、結弦(ゆづる)という名は「『弓の弦を結ぶように凛とした生き方をして欲しい』と父が命名した」という話で、彼の場合は「名は体を表す」という言葉そのままですが、これも面白いので、弦はやみくもにただ強く引っ張るだけでは切れてしまうし、ゆるいのでは物の役には立たない。勝負事も勝気にはやるだけでは失敗するし、消極的に守りに入っても失敗するのです。実力をつけないとどちらにしても結果は出せませんが、そのあたりも彼は今回、負傷した右足に「信頼しつつ、過度な負担は避ける」という絶妙な対応をした。緊張のピークにあってそれができるというところが並外れているので、いかにも「結弦」君です。

 彼はクマのプーさんが好きだそうで、彼が滑るたびに大量のプーさんぬいぐるみがリンクに投げ込まれるのは愛嬌ですが、次のデイリースポーツの記事も笑えました。

羽生結弦から見た宇野昌磨は…「弟分というよりもワンコに近い。本当にかわいい」

 これ、添えられている宇野選手の写真がほんとに「ワンコに近い」感じなので、ほほえましいのですが、そこのくだりだけ抜き出すと、こうなっています。

 番組ではまず、宇野に「弟のように扱われているが、どう思っているのか」と質問が飛んだ。「すごいいろんな所で面倒を見ていただいて、本当にありがたいのと、申し訳ないという気持ちもあります」と少し恐縮して答えると、羽生も同様に「弟分みたいな感じなのか、刺激のしあいはどうか」と質問を受けた。
 羽生は「弟分というよりもワンコに近いですかね。本当にかわいい、かわいい、何か自分の…ペットじゃないんですけど、全然支配していないし、むしろ自由なので」とかわいがっていること明かし、「ずーっと一生懸命やっている姿は小さい頃から本当に僕も知っているので、こうやって真面目にやってきた分、結果が出ているのは本当に素晴らしいことだなと思っています」と、初の五輪で結果を残したことをたたえていた。


 ひたむきな努力を重ねてきた選手同士だからこういうよい関係が築けるのか、心温まる話です。プーさんとワンコでワンツー・フィニッシュだったのかと思うと、厳しい世界にもさりげないユーモアが添えられたようで、いっそう興趣深いものと感じられるのです。

阪大はん、そら、あきまへんわ

2018.02.17.02:04

 以下、毎日新聞電子版2月16日 21時15分の記事です。

 大阪大は16日、今月7日に人間科学部人間科学科のAO入試の合格者をウェブサイト上で発表した際、本来合格だった受験生1人を誤って不合格と掲載するミスがあったと発表した。後日誤りに気づき、16日に受験生に合格を伝えたところ、入学の意思を示したという。阪大は、ウェブに掲載する作業をした同学部の50代の事務職員と監督責任者の事務長を厳重注意とした。
 阪大のAO入試は、専用サイト上で合否を発表し、各受験生がアクセスして確認する。人間科学科の合格者13人、不合格者19人のウェブ用データを作成した事務職員は、掲載前の確認作業で合格者の1人が不合格となっている誤りに気づき、修正した。しかし、修正後のデータの上書き保存を忘れ、誤ったデータを載せたという。
 阪大では昨年2月の一般入試で出題ミスがあり、今年1月になって30人を追加合格とした。今月の基礎工学部の推薦入試でも不備があり、追加合格者を出した。【大久保昂】


 この他にも、センター試験の時、会場の一つとなった阪大で、四十代の教授が居眠りの上、複数回いびきをかいて、「集中できなかった」として受験生や保護者からクレームをつけられるという事件もありました。

 阪大は、こう言っては叱られるかもしれませんが、大阪という土地柄にもかかわらず、「真面目」を売りにしてきた大学です。東大・京大のようなとび抜けた秀才はいなくても、堅実さ・真面目さで対抗して、高い社会的評価を得ているのです。しかし、あの物理の出題ミスはともかく、こうもいい加減なボケぶりが続いたのでは、まともな受験生や親たちからはそっぽを向かれるようになるでしょう。

 思うに、大事なところで記載ミスをするというのも問題(それは別の職員がやったことなのか?)ですが、それに気づいて誤記を直した職員が「修正後のデータの上書き保存を忘れ、誤ったデータを載せた」というのは、事の重大性にかんがみ、ふつうならありえないことです。何でちゃんと直っているか、その後自分で確認しないのか? 教授は試験中、平気でいびきをかき、職員はごく基本的な確認行動もとらないとは、教授も職員もブラック企業並の激務で疲弊しきっているか、それともたるみきっているかのどちらかでしょう。仕事にはミスや手抜きが許されるものとそうでないものとがあって、やってはいけない決定的な場面でのポカが多すぎるのです。

 真面目で優秀な学生が多いのに、教職員は何やってるんだかという感じで、もっとまともな連中を雇えと言いたくなります。関西人特有のボケはもっと笑えるところで出してもらいたいもので、こういうんでは受験生や学生がほんとに気の毒です。

犬の話

2018.01.01.22:41

 まずは、あけましておめでとうございます。今年は「戌年(いぬどし)」で、犬は概して忠実で善良な動物であることからして、よい一年になることが期待されます(安倍首相も「もり・かけ問題」に関して、犬を見習った誠実な答弁を心がけましょうね。あんたが正直に答えないからあれはいつまでたっても終わらないわけで、野党やマスコミのせいにしなさんなよ)。

 犬に関して、かねて僕が不思議に思っていることの一つは、軽快にタッタッとステップを踏んで歩いている時、前から見ると体の線がまっすぐではなく、進行方向に向かって少し斜めになっていることです。これはどの犬でもたぶん同じで、その方が歩きやすいのでしょうが、何度見てもユーモラスで笑ってしまいます。僕の観察によれば、それも前から見て、右ではなく、左に傾いている。どういうわけでそういう歩き方になるのだと、犬にきいてもむろん答えてくれないわけで、彼は「何をヘンなこと言ってるのだ…」と当惑の表情を浮かべるのみです。ライオンとかトラ、ヒョウなんかでも同じなのでしょうか? それともあれはイヌ科の特徴で、ネコ科はまた違うのか?

 僕にとって犬に関する思い出が一番たくさんあるのは、十代末から二十代初めにかけて、浪人・大学生の頃(その後も出稼ぎみたいにしてやったことがありますが)、新聞配達をしていた頃のものです。配達人にとって、犬は重要な存在です。たいていの犬は顔なじみになると吠えなくなって、対応もフレンドリーになるものですが、中には性格の悪い犬がいて、いつまでもしつこく、卑怯にも安全な距離を保ちつつ吠え続ける者がいる。中には飼主がそばいるとよけいにカサにかかって吠えたてる犬がいるので、今「者」と書きましたが、僕は基本的に犬と人を区別しない、「犬人同視」の人間なので、そのようなサイテーな犬には腹を立てたものです。

 最初僕は東京新橋でそのアルバイトを始めました。仕事の真面目さが評価されて、試用期間三カ月が一ヶ月に短縮されたのですが、最初にやらかした失敗が犬にまつわるもので、配達区域の大半はビル街でしたが、中には民家も混じっていて、そのうち一軒にたいそう性格の悪い座敷犬がいたのです。朝刊は表のポストに入れるので問題ないが、夕刊は玄関の戸を開けて、「夕刊でーす」と呼ばわって中に廊下を滑らせるようにして投げ込む。するとその邪悪な犬が爪音も荒々しく飛び出してきて、目の前でキャンキャン吠えたてるのです。それだけではない、向かいの家に新聞を入れていると、今度は二階に上って、ごていねいにその窓からまた激しく吠えたてる。それが毎度で、最初に区域を案内して順路を教えてもらっている時からずっとそうでした。「うるさい犬ですね」と専業員の人に言うと、「あの犬は馬鹿なんだよ」と苦々しく言っていたので、相手かまわず、郵便屋さんにでも誰にでも、しつこく吠えたてるのです。

 あるとき、二階の窓から顔を出して吠えたてているその犬に、ついに僕は堪忍袋の緒を切らし、石をぶつけてやろうと思いましたが、あたり一帯がきれいに舗装されているので、悲しいかな、小石一つないのです。やっと見つけたのがタバコの吸い殻で、これでもないよりはましだと二階に向かって投げつけたところが、その窓がガラリと大きく開き、「何をしている!」とそこの主人が呼ばわるのです。面倒なことになったと思いながらも、「おたくのクソ犬に石をぶつけてやろうと思ったのだが、残念なことにそれがないので、代わりにたばこの吸い殻を投げつけたのだ」と正直に答えました。何という非礼だ!とその主人は激昂しました。うちは戦後三十年近くにわたって、他の新聞屋の勧誘には耳を貸さず、ずっとおたくから新聞を取り続けている。そういう上客に向かって、あるまじき態度で、これからすぐ店に電話をして、このことを言いつける、というのです。それまでは「まずいことになったな」と内心困惑していたものの、その言葉を聞いてカチンと来た僕は、「それなら勝手にそうしろ。自分のしつけの悪いクソ犬が無礼を働いていることは棚に上げて、よくもそんなことが言えるな。明日から他の新聞を取れ。誰がこんな家に配達してやるか!」と捨てゼリフを吐いたのです。

 果たして配達を終えて店に帰ると、中年の担当の専業員の人がひきつり笑いを浮かべて、「あのう、大野クン、今日は途中で何かなかったかね?」と言いました。「ありましたよ」と僕は憤然として答えました。やはり電話は入っていたのです。「あそこの新聞代は僕の給料から引いてもらって構いません。全くあの家の主人とクソ犬は許しがたい」と。すると、実はそのことなんだが、先方が言うには、よく考えると自分の方も悪かったので、明日以降もそのまま新聞を入れてほしいという話だったのだというのです。何? それで翌日配達に行くと、奥の方で犬が吠えているものの、押えられているらしく出てこないし、二階にのぼってほえることもない。ずっとそのままだったので、わが怒りは消えたのです。

 もう一匹、僕を怒らせた犬は、これは別の場所での話ですが、学生向けの安下宿が何棟も立ち並ぶ区画の、管理人か誰かが飼っている中型犬で、放し飼いにされていて、配達人が来ると、誰彼なくワンワン吠えたてながら後を追い回すという卑劣な犬でした。そのしつこさが半端ではない。ある日の夕刊配達時、僕は一計を案じて、その周辺にはうまい具合に石がいくらもあったので、手頃な大きさの小石を一つかみ、ジャンパーのポケットに入れておきました。果たして配達の間中、四、五メートルほどの距離を保ちながらずっとしつこく吠えながらついてくる。全部配り終わって、帰ると見せかけていきなり振り向くと、僕は猛ダッシュでその犬を追いかけました。予期せぬ行動にあわてた犬は、必死に逃げましたが、逃げ場を失ってある下宿屋の中に飛び込みました。そこは玄関が広くなっていて、両側に下駄箱が並んでいる、昔はよくあった造りです。犬は廊下に逃げ込みました。部屋は一階にも五つほどあるようでしたが、各部屋のドアは閉まっていて、逃げ道はもはやないのです(二階への階段はかなり急だった)。僕はポケットからゆっくり小石を取り出し、玄関に仁王立ちになったまま、狙いを定めて犬に投げつけました。そういうときはコントロールがよくなるので、五回のうち三発は動く標的に命中しました。キャインという悲鳴が上がる。ざまあみろ。これでお仕置きは十分だと思った僕は満足して帰りましたが、翌日行くとその犬は犬小屋にきちんとつながれていて、僕の姿を見ると、驚くべき早さで犬小屋に飛び込み、出てきませんでした。家の中に平気で石を投げ込んでいたわけだから、住人たちにとっては戦慄すべきことで、苦情が来てもよさそうなものでしたが、それは全くなかったのが不思議でした。あんなアンタッチャブルな配達人にはそんなことをしても効き目はないと思ったのかもしれませんが、ともかくわが心の平安は(おそらく他の配達人のそれも)回復されたのです。人の場合は話せば(脅せば?)わかるが、聞き分けのない犬相手にはこういうのしか手がなかったのです。

 こう書くと犬たちと僕の関係は悪かったように見えるかもしれませんが、大部分は非常に良好でした。僕は基本的に動物好きなので、犬に嫌われるタイプではないのです。中でも思い出深いのは、ある三階建てのアパートの管理人のおばさんが飼っていた雑種の大型犬です。そのときはバイクで配達していたのですが、その犬はバイクの音を聞き分けていて、僕のバイクの音がすると、犬小屋から飛び出して、長い鎖をジャラジャラいわせながらウォーミングアップを始めるのです。全部配り終わった後、僕は必ずその犬を相手に10分ぐらい遊んでいたからです。その犬は正面から体重を乗せて飛びかかるのが得意技でした。それで僕は意地悪をして、後ろへパッと下がって、鎖が伸び切って前足が空を切るように仕向けたのですが、敵もさるもので、彼はあるとき知らんぷりを装いました。そして、ちらりと横目で見ると、次の瞬間ワッと襲いかかってきたので、フェイント攻撃を仕掛けたのです。奇襲攻撃が成功して僕が尻もちをつくと、その犬は満足そうでした。雨の日にぬかるんだ土の上でやられたのではたまりませんが、晴れた日には時々そうやって花をもたせてあげないと犬の方も面白くない。

 同じ頃、柴犬を飼い出した家がありました。あの犬は可愛いものですが、子犬だとえくぼがあってことにそうです。それは庭の小さな柵で囲まれた犬小屋にいましたが、見る見る大きくなっていくのを見るのが楽しみで、おまえは足が太いからもっと大きくなるよ、などと言っていたのですが、あるとき、バイクを走らせていて、何者かが追ってくる気配に気づきました。見ると、その柴犬がこちらに向かって疾走しているのです。バイクを止めて犬を抱き上げながら不思議に思いましたが、大きくなって柵を飛び越えられるようになったから、追いかけてきたのでしょう。そのまま連れて帰りたい誘惑を覚えましたが、そうはいかない。配達はほとんど終わりかけていて、バイクの前かごは空だったので、そこに載せて僕は道を戻り、家まで送り届けました。幸いあたりの家々はまだ起きていない時間で、「誘拐犯」扱いされずに済みました。ちゃんと家にいないと駄目だよと言って下ろすと、こちらを見ていたが、今度は追ってこなかった。あれは賢い犬です。

 よく「犬は飼い主に似る」と言われます。たしかに、ブルドック系の犬を見て飼主を見ると、そちらも心なしかブルドック系だったりして笑えることがあるのですが、これは主に性格面のことを言ったものでしょう。飼主が偏狭傲慢で排他的な人間だと、犬もそうなりやすく、温厚な人が飼うと、犬も自然にフレンドリーになることが多いのです。むろん、フレンドリーだからといって番犬として無能だとはかぎらず、いざというときはたいへん頼りになったりするのです。僕がお仕置きしたような卑劣なクソ犬は、かんじんなときには物の役には立たない。犬を飼う人は、自分の隠れた面がその犬に反映され、それによって自分の本性が見抜かれてしまうこともあるのだと知っておいた方がいいでしょう。犬が立派なら、たいていは飼主もすぐれた人柄の持主なのです。vice versa(逆もまた真なり)。これは血統証なんかとは関係がない。

 子供が親をえらんで生まれてくるのと同じで、犬も飼主をえらぶのだと言ったのは、英国の精神科医、アーサー・ガーダムです。ペットショップで犬をえらぶときでも、その微妙な意思決定のプロセスには、犬からのアピールが働いていて、人は無意識に犬にえらばれているという側面もあるのです。だから飼主は、自分に見合った犬をえらんでしまう。その時点で、すでに犬柄と人柄はかなり一致しているのです。

 また、ガーダムによれば、犬は“昇格”して、人間に生まれ変わってくる可能性が最も高い動物の一つだということです。進化論的にヒトに近い猿は、人間に生まれ変わることはめったにない。それは彼らが「低級な動物の攻撃衝動を最大限に保持している」からで、これに対して「犬や猫に人間として生まれ変わる資格を与えるものは、彼らの人と平和に暮らし、受容的な態度のもてるその資質である」(『偉大なる異端』「第15章 魂の輪廻」)というのです。

 僕が若い頃、ある柴犬が隣家の赤ん坊を放し飼いにされた凶悪な犬どもの襲撃から守って、激闘の末死んだ、というニュースがありました。家族が短時間留守にした隙に、その赤ちゃんは襲われたのですが、危険を察知した隣の柴犬が命がけでそれを防ぎ、畳の上には多くの犬の足跡や血痕が残っていて、その柴犬は傷だらけでそこに倒れていた。それで調べた結果、そうしたことがわかったというのですが、ベビーベッドの赤ちゃんはおかげで傷一つなかったのです。凶暴な犬どもを放し飼いにしていたクソ男は警察から厳重注意を受けたという話でしたが、赤ちゃん殺人未遂、柴犬殺害の「間接正犯」として、刑務所送りにすべきだと、僕は憤ったものでした。

人間より百倍はエラい犬(名前は「太郎」だったと記憶しています)ですが、ガーダム説によれば、こういう立派な犬はほぼ間違いなく人間として生まれ変わってくるのです。おそらくそれは人間としても立派な部類の人として生まれ変わるのでしょう。昨今は猿の生まれ変わりとしか思えないような低級な人が増えているとしても、こういう犬はその魂の気高さゆえに、よき人として生まれ変わるのです。

 そんなことはありえない、と言う人たちと議論する気は僕にはありませんが、何にしても、犬というのはかなり個性の鮮明な動物で、高度なコミュニケーション能力をもつことは、いくらかでも犬と親しく接したことのある人たちにはおわかりでしょう。そして人間には犬の美質に学ぶことが少なくないので、今年はそれを反映したよい年になってもらいたいものです。

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