スーパースターにドラマあり

2018.02.18.17:06

 昨日は羽生結弦選手の金メダルで日本中が喜びに沸きましたが、僕はそのとき塾にいたので、リアルタイムではそれを見ることができませんでした(前日のSPは見た)。もうそろそろ終わった頃だなと思ったとき来た生徒に聞くと、何と羽生選手が金で、宇野選手が銀だったという話です。やったーと、あらためて生徒たちと大喜び。

 順調に来ていたのならまだしも、11月のアクシデントで深刻な負傷を負い、満足な練習もできず、かつ強い痛み止めを打って臨まねばならないほど具合が悪いままだったのにこの結果を出したというところが凄いので、演技終了後に「勝った」と呟いたのは、何より「自分に勝った」という意味だったそうですが、そのあたりが彼がスーパースターであるゆえんです。

 家族やコーチ、チームなど支えてくれた人たちへの感謝の言葉も、社交辞令ではなく、真情がこもっていた。苦難を乗り越えた人間ほどそういうもので、現実を客観的に眺める目をもっているから、それがどれほど大きなものだったかがわかるのでしょう。

 彼は今でも華奢に見えますが、小さい頃はひ弱な喘息持ちで、そんな子がこういう偉業を成し遂げるまでになったのだから、世界中の人に大きな希望を与えるものです。さらに、東北大震災で実家が全壊するという苦難にも遭っている。そして今回は、オリンピック連覇がかかった大事な時期に出場すら危ぶまれる大怪我をしたのです。ツイてないな、これでは無理だろうなと大方の人が思ったところで、奇蹟的な復活劇を見せた。それはドラマを盛り上げるための神の見えざる演出であったかのようです。

 猛練習によって培われた高度な技術が土台にあっての話ですが、メンタル面の強さが最大限に問われる試練に、今回彼は直面したわけです。そして苦しみながらも、それに見事にパスした。色々な人たちから彼に大きな讃辞が送られるのは当然のことです。

 今は受験シーズンで、自然、実力とメンタルについて考えさせられることが多いのですが、どんなことでも地道な努力なしに実力はつかないし、そのプロセスの中でメンタルの強さも培われるので、それはスポーツでも勉強でも、仕事でも同じでしょう。何にしても、まず逃げずに立ち向かうという気概がなければならない。成功するかどうかには時の運もありますが、ストアの哲人流に言うと、人間にコントロールできるのは努力と内面のありようだけです。そこに注力して、あとは運命のはからいにまかせるしかないと達観できれば、それが最善ということになるでしょう。

 ウィキペディアによれば、結弦(ゆづる)という名は「『弓の弦を結ぶように凛とした生き方をして欲しい』と父が命名した」という話で、彼の場合は「名は体を表す」という言葉そのままですが、これも面白いので、弦はやみくもにただ強く引っ張るだけでは切れてしまうし、ゆるいのでは物の役には立たない。勝負事も勝気にはやるだけでは失敗するし、消極的に守りに入っても失敗するのです。実力をつけないとどちらにしても結果は出せませんが、そのあたりも彼は今回、負傷した右足に「信頼しつつ、過度な負担は避ける」という絶妙な対応をした。緊張のピークにあってそれができるというところが並外れているので、いかにも「結弦」君です。

 彼はクマのプーさんが好きだそうで、彼が滑るたびに大量のプーさんぬいぐるみがリンクに投げ込まれるのは愛嬌ですが、次のデイリースポーツの記事も笑えました。

羽生結弦から見た宇野昌磨は…「弟分というよりもワンコに近い。本当にかわいい」

 これ、添えられている宇野選手の写真がほんとに「ワンコに近い」感じなので、ほほえましいのですが、そこのくだりだけ抜き出すと、こうなっています。

 番組ではまず、宇野に「弟のように扱われているが、どう思っているのか」と質問が飛んだ。「すごいいろんな所で面倒を見ていただいて、本当にありがたいのと、申し訳ないという気持ちもあります」と少し恐縮して答えると、羽生も同様に「弟分みたいな感じなのか、刺激のしあいはどうか」と質問を受けた。
 羽生は「弟分というよりもワンコに近いですかね。本当にかわいい、かわいい、何か自分の…ペットじゃないんですけど、全然支配していないし、むしろ自由なので」とかわいがっていること明かし、「ずーっと一生懸命やっている姿は小さい頃から本当に僕も知っているので、こうやって真面目にやってきた分、結果が出ているのは本当に素晴らしいことだなと思っています」と、初の五輪で結果を残したことをたたえていた。


 ひたむきな努力を重ねてきた選手同士だからこういうよい関係が築けるのか、心温まる話です。プーさんとワンコでワンツー・フィニッシュだったのかと思うと、厳しい世界にもさりげないユーモアが添えられたようで、いっそう興趣深いものと感じられるのです。
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阪大はん、そら、あきまへんわ

2018.02.17.02:04

 以下、毎日新聞電子版2月16日 21時15分の記事です。

 大阪大は16日、今月7日に人間科学部人間科学科のAO入試の合格者をウェブサイト上で発表した際、本来合格だった受験生1人を誤って不合格と掲載するミスがあったと発表した。後日誤りに気づき、16日に受験生に合格を伝えたところ、入学の意思を示したという。阪大は、ウェブに掲載する作業をした同学部の50代の事務職員と監督責任者の事務長を厳重注意とした。
 阪大のAO入試は、専用サイト上で合否を発表し、各受験生がアクセスして確認する。人間科学科の合格者13人、不合格者19人のウェブ用データを作成した事務職員は、掲載前の確認作業で合格者の1人が不合格となっている誤りに気づき、修正した。しかし、修正後のデータの上書き保存を忘れ、誤ったデータを載せたという。
 阪大では昨年2月の一般入試で出題ミスがあり、今年1月になって30人を追加合格とした。今月の基礎工学部の推薦入試でも不備があり、追加合格者を出した。【大久保昂】


 この他にも、センター試験の時、会場の一つとなった阪大で、四十代の教授が居眠りの上、複数回いびきをかいて、「集中できなかった」として受験生や保護者からクレームをつけられるという事件もありました。

 阪大は、こう言っては叱られるかもしれませんが、大阪という土地柄にもかかわらず、「真面目」を売りにしてきた大学です。東大・京大のようなとび抜けた秀才はいなくても、堅実さ・真面目さで対抗して、高い社会的評価を得ているのです。しかし、あの物理の出題ミスはともかく、こうもいい加減なボケぶりが続いたのでは、まともな受験生や親たちからはそっぽを向かれるようになるでしょう。

 思うに、大事なところで記載ミスをするというのも問題(それは別の職員がやったことなのか?)ですが、それに気づいて誤記を直した職員が「修正後のデータの上書き保存を忘れ、誤ったデータを載せた」というのは、事の重大性にかんがみ、ふつうならありえないことです。何でちゃんと直っているか、その後自分で確認しないのか? 教授は試験中、平気でいびきをかき、職員はごく基本的な確認行動もとらないとは、教授も職員もブラック企業並の激務で疲弊しきっているか、それともたるみきっているかのどちらかでしょう。仕事にはミスや手抜きが許されるものとそうでないものとがあって、やってはいけない決定的な場面でのポカが多すぎるのです。

 真面目で優秀な学生が多いのに、教職員は何やってるんだかという感じで、もっとまともな連中を雇えと言いたくなります。関西人特有のボケはもっと笑えるところで出してもらいたいもので、こういうんでは受験生や学生がほんとに気の毒です。

犬の話

2018.01.01.22:41

 まずは、あけましておめでとうございます。今年は「戌年(いぬどし)」で、犬は概して忠実で善良な動物であることからして、よい一年になることが期待されます(安倍首相も「もり・かけ問題」に関して、犬を見習った誠実な答弁を心がけましょうね。あんたが正直に答えないからあれはいつまでたっても終わらないわけで、野党やマスコミのせいにしなさんなよ)。

 犬に関して、かねて僕が不思議に思っていることの一つは、軽快にタッタッとステップを踏んで歩いている時、前から見ると体の線がまっすぐではなく、進行方向に向かって少し斜めになっていることです。これはどの犬でもたぶん同じで、その方が歩きやすいのでしょうが、何度見てもユーモラスで笑ってしまいます。僕の観察によれば、それも前から見て、右ではなく、左に傾いている。どういうわけでそういう歩き方になるのだと、犬にきいてもむろん答えてくれないわけで、彼は「何をヘンなこと言ってるのだ…」と当惑の表情を浮かべるのみです。ライオンとかトラ、ヒョウなんかでも同じなのでしょうか? それともあれはイヌ科の特徴で、ネコ科はまた違うのか?

 僕にとって犬に関する思い出が一番たくさんあるのは、十代末から二十代初めにかけて、浪人・大学生の頃(その後も出稼ぎみたいにしてやったことがありますが)、新聞配達をしていた頃のものです。配達人にとって、犬は重要な存在です。たいていの犬は顔なじみになると吠えなくなって、対応もフレンドリーになるものですが、中には性格の悪い犬がいて、いつまでもしつこく、卑怯にも安全な距離を保ちつつ吠え続ける者がいる。中には飼主がそばいるとよけいにカサにかかって吠えたてる犬がいるので、今「者」と書きましたが、僕は基本的に犬と人を区別しない、「犬人同視」の人間なので、そのようなサイテーな犬には腹を立てたものです。

 最初僕は東京新橋でそのアルバイトを始めました。仕事の真面目さが評価されて、試用期間三カ月が一ヶ月に短縮されたのですが、最初にやらかした失敗が犬にまつわるもので、配達区域の大半はビル街でしたが、中には民家も混じっていて、そのうち一軒にたいそう性格の悪い座敷犬がいたのです。朝刊は表のポストに入れるので問題ないが、夕刊は玄関の戸を開けて、「夕刊でーす」と呼ばわって中に廊下を滑らせるようにして投げ込む。するとその邪悪な犬が爪音も荒々しく飛び出してきて、目の前でキャンキャン吠えたてるのです。それだけではない、向かいの家に新聞を入れていると、今度は二階に上って、ごていねいにその窓からまた激しく吠えたてる。それが毎度で、最初に区域を案内して順路を教えてもらっている時からずっとそうでした。「うるさい犬ですね」と専業員の人に言うと、「あの犬は馬鹿なんだよ」と苦々しく言っていたので、相手かまわず、郵便屋さんにでも誰にでも、しつこく吠えたてるのです。

 あるとき、二階の窓から顔を出して吠えたてているその犬に、ついに僕は堪忍袋の緒を切らし、石をぶつけてやろうと思いましたが、あたり一帯がきれいに舗装されているので、悲しいかな、小石一つないのです。やっと見つけたのがタバコの吸い殻で、これでもないよりはましだと二階に向かって投げつけたところが、その窓がガラリと大きく開き、「何をしている!」とそこの主人が呼ばわるのです。面倒なことになったと思いながらも、「おたくのクソ犬に石をぶつけてやろうと思ったのだが、残念なことにそれがないので、代わりにたばこの吸い殻を投げつけたのだ」と正直に答えました。何という非礼だ!とその主人は激昂しました。うちは戦後三十年近くにわたって、他の新聞屋の勧誘には耳を貸さず、ずっとおたくから新聞を取り続けている。そういう上客に向かって、あるまじき態度で、これからすぐ店に電話をして、このことを言いつける、というのです。それまでは「まずいことになったな」と内心困惑していたものの、その言葉を聞いてカチンと来た僕は、「それなら勝手にそうしろ。自分のしつけの悪いクソ犬が無礼を働いていることは棚に上げて、よくもそんなことが言えるな。明日から他の新聞を取れ。誰がこんな家に配達してやるか!」と捨てゼリフを吐いたのです。

 果たして配達を終えて店に帰ると、中年の担当の専業員の人がひきつり笑いを浮かべて、「あのう、大野クン、今日は途中で何かなかったかね?」と言いました。「ありましたよ」と僕は憤然として答えました。やはり電話は入っていたのです。「あそこの新聞代は僕の給料から引いてもらって構いません。全くあの家の主人とクソ犬は許しがたい」と。すると、実はそのことなんだが、先方が言うには、よく考えると自分の方も悪かったので、明日以降もそのまま新聞を入れてほしいという話だったのだというのです。何? それで翌日配達に行くと、奥の方で犬が吠えているものの、押えられているらしく出てこないし、二階にのぼってほえることもない。ずっとそのままだったので、わが怒りは消えたのです。

 もう一匹、僕を怒らせた犬は、これは別の場所での話ですが、学生向けの安下宿が何棟も立ち並ぶ区画の、管理人か誰かが飼っている中型犬で、放し飼いにされていて、配達人が来ると、誰彼なくワンワン吠えたてながら後を追い回すという卑劣な犬でした。そのしつこさが半端ではない。ある日の夕刊配達時、僕は一計を案じて、その周辺にはうまい具合に石がいくらもあったので、手頃な大きさの小石を一つかみ、ジャンパーのポケットに入れておきました。果たして配達の間中、四、五メートルほどの距離を保ちながらずっとしつこく吠えながらついてくる。全部配り終わって、帰ると見せかけていきなり振り向くと、僕は猛ダッシュでその犬を追いかけました。予期せぬ行動にあわてた犬は、必死に逃げましたが、逃げ場を失ってある下宿屋の中に飛び込みました。そこは玄関が広くなっていて、両側に下駄箱が並んでいる、昔はよくあった造りです。犬は廊下に逃げ込みました。部屋は一階にも五つほどあるようでしたが、各部屋のドアは閉まっていて、逃げ道はもはやないのです(二階への階段はかなり急だった)。僕はポケットからゆっくり小石を取り出し、玄関に仁王立ちになったまま、狙いを定めて犬に投げつけました。そういうときはコントロールがよくなるので、五回のうち三発は動く標的に命中しました。キャインという悲鳴が上がる。ざまあみろ。これでお仕置きは十分だと思った僕は満足して帰りましたが、翌日行くとその犬は犬小屋にきちんとつながれていて、僕の姿を見ると、驚くべき早さで犬小屋に飛び込み、出てきませんでした。家の中に平気で石を投げ込んでいたわけだから、住人たちにとっては戦慄すべきことで、苦情が来てもよさそうなものでしたが、それは全くなかったのが不思議でした。あんなアンタッチャブルな配達人にはそんなことをしても効き目はないと思ったのかもしれませんが、ともかくわが心の平安は(おそらく他の配達人のそれも)回復されたのです。人の場合は話せば(脅せば?)わかるが、聞き分けのない犬相手にはこういうのしか手がなかったのです。

 こう書くと犬たちと僕の関係は悪かったように見えるかもしれませんが、大部分は非常に良好でした。僕は基本的に動物好きなので、犬に嫌われるタイプではないのです。中でも思い出深いのは、ある三階建てのアパートの管理人のおばさんが飼っていた雑種の大型犬です。そのときはバイクで配達していたのですが、その犬はバイクの音を聞き分けていて、僕のバイクの音がすると、犬小屋から飛び出して、長い鎖をジャラジャラいわせながらウォーミングアップを始めるのです。全部配り終わった後、僕は必ずその犬を相手に10分ぐらい遊んでいたからです。その犬は正面から体重を乗せて飛びかかるのが得意技でした。それで僕は意地悪をして、後ろへパッと下がって、鎖が伸び切って前足が空を切るように仕向けたのですが、敵もさるもので、彼はあるとき知らんぷりを装いました。そして、ちらりと横目で見ると、次の瞬間ワッと襲いかかってきたので、フェイント攻撃を仕掛けたのです。奇襲攻撃が成功して僕が尻もちをつくと、その犬は満足そうでした。雨の日にぬかるんだ土の上でやられたのではたまりませんが、晴れた日には時々そうやって花をもたせてあげないと犬の方も面白くない。

 同じ頃、柴犬を飼い出した家がありました。あの犬は可愛いものですが、子犬だとえくぼがあってことにそうです。それは庭の小さな柵で囲まれた犬小屋にいましたが、見る見る大きくなっていくのを見るのが楽しみで、おまえは足が太いからもっと大きくなるよ、などと言っていたのですが、あるとき、バイクを走らせていて、何者かが追ってくる気配に気づきました。見ると、その柴犬がこちらに向かって疾走しているのです。バイクを止めて犬を抱き上げながら不思議に思いましたが、大きくなって柵を飛び越えられるようになったから、追いかけてきたのでしょう。そのまま連れて帰りたい誘惑を覚えましたが、そうはいかない。配達はほとんど終わりかけていて、バイクの前かごは空だったので、そこに載せて僕は道を戻り、家まで送り届けました。幸いあたりの家々はまだ起きていない時間で、「誘拐犯」扱いされずに済みました。ちゃんと家にいないと駄目だよと言って下ろすと、こちらを見ていたが、今度は追ってこなかった。あれは賢い犬です。

 よく「犬は飼い主に似る」と言われます。たしかに、ブルドック系の犬を見て飼主を見ると、そちらも心なしかブルドック系だったりして笑えることがあるのですが、これは主に性格面のことを言ったものでしょう。飼主が偏狭傲慢で排他的な人間だと、犬もそうなりやすく、温厚な人が飼うと、犬も自然にフレンドリーになることが多いのです。むろん、フレンドリーだからといって番犬として無能だとはかぎらず、いざというときはたいへん頼りになったりするのです。僕がお仕置きしたような卑劣なクソ犬は、かんじんなときには物の役には立たない。犬を飼う人は、自分の隠れた面がその犬に反映され、それによって自分の本性が見抜かれてしまうこともあるのだと知っておいた方がいいでしょう。犬が立派なら、たいていは飼主もすぐれた人柄の持主なのです。vice versa(逆もまた真なり)。これは血統証なんかとは関係がない。

 子供が親をえらんで生まれてくるのと同じで、犬も飼主をえらぶのだと言ったのは、英国の精神科医、アーサー・ガーダムです。ペットショップで犬をえらぶときでも、その微妙な意思決定のプロセスには、犬からのアピールが働いていて、人は無意識に犬にえらばれているという側面もあるのです。だから飼主は、自分に見合った犬をえらんでしまう。その時点で、すでに犬柄と人柄はかなり一致しているのです。

 また、ガーダムによれば、犬は“昇格”して、人間に生まれ変わってくる可能性が最も高い動物の一つだということです。進化論的にヒトに近い猿は、人間に生まれ変わることはめったにない。それは彼らが「低級な動物の攻撃衝動を最大限に保持している」からで、これに対して「犬や猫に人間として生まれ変わる資格を与えるものは、彼らの人と平和に暮らし、受容的な態度のもてるその資質である」(『偉大なる異端』「第15章 魂の輪廻」)というのです。

 僕が若い頃、ある柴犬が隣家の赤ん坊を放し飼いにされた凶悪な犬どもの襲撃から守って、激闘の末死んだ、というニュースがありました。家族が短時間留守にした隙に、その赤ちゃんは襲われたのですが、危険を察知した隣の柴犬が命がけでそれを防ぎ、畳の上には多くの犬の足跡や血痕が残っていて、その柴犬は傷だらけでそこに倒れていた。それで調べた結果、そうしたことがわかったというのですが、ベビーベッドの赤ちゃんはおかげで傷一つなかったのです。凶暴な犬どもを放し飼いにしていたクソ男は警察から厳重注意を受けたという話でしたが、赤ちゃん殺人未遂、柴犬殺害の「間接正犯」として、刑務所送りにすべきだと、僕は憤ったものでした。

人間より百倍はエラい犬(名前は「太郎」だったと記憶しています)ですが、ガーダム説によれば、こういう立派な犬はほぼ間違いなく人間として生まれ変わってくるのです。おそらくそれは人間としても立派な部類の人として生まれ変わるのでしょう。昨今は猿の生まれ変わりとしか思えないような低級な人が増えているとしても、こういう犬はその魂の気高さゆえに、よき人として生まれ変わるのです。

 そんなことはありえない、と言う人たちと議論する気は僕にはありませんが、何にしても、犬というのはかなり個性の鮮明な動物で、高度なコミュニケーション能力をもつことは、いくらかでも犬と親しく接したことのある人たちにはおわかりでしょう。そして人間には犬の美質に学ぶことが少なくないので、今年はそれを反映したよい年になってもらいたいものです。

日本にサンタがいない理由

2017.12.24.16:46

 早いもので今年ももうクリスマスです。僕が子供の頃は、少なくとも辺鄙な田舎では、あれを祝うというようなことはなくて、当然子供たちにもクリスマスプレゼントなんてものはありませんでした。学校の終業式はふつう12月24日で、その日学校で一人ずつ小さなケーキとミカンか何かが配られ、それが楽しみだったのですが、家に帰るとそんなものはなし。町場の家庭では、大きなクリスマスケーキを買って、それを家族みんなで食べるところもあると聞いていたので、僕はあるとき、うちではそんなものは見たことがない、これは不当なことではないのかと、親に抗議したことがあります。

「アホなことを言うな、あんなものは西洋人の風習である。ここは日本だ!」というのが父親の返事で、それきりで終わってしまったのですが、今の子供たちはクリスマスケーキはもとより、七面鳥の丸焼き代わりにローストチキンなども与えられ、寝ている間のお楽しみのあのクリスマスプレゼントももらえるわけです。

 塾の生徒たちに聞くと、善良な子が多いせいか、長くサンタは実在すると思い込んでいた子が多数派で、中学生ぐらいになってから、ようやくそれが嘘だと知ったと答える生徒が少なくない。僕はわが子が小学校低学年の頃、友達とサンタがいるいないで激論になっているところに居合わせて笑ったことがあります。友達の方は「サンタはいる」派で、息子は「いない」派だったのです。

「考えてん」と彼は友達に向かって言いました。「こんなところにトナカイがいるわけない。あれは寒い国の動物とよ」

 彼の説明によれば、サンタはトナカイに乗って、雪ぞりでやってくるのです。しかし、延岡などではごく稀に粉雪がチラつくだけでもニュースになるぐらいで、積もるほど雪が降るなんてことは絶無です。そこからしておかしいと、彼は疑いをもったのです。調べてみると、トナカイは北欧やカナダなどに生息しているだけで、東北や北海道の雪国でさえいない。ましてや温暖な宮崎県においてをや。雪も降らず、トナカイもいないとすれば、当然サンタも存在しえない。ロジカルに彼はそう考えたのです。

「でも…」と友達は反論しました。じゃあ、あのクリスマスプレゼントは誰が運んでくるのか? クリスマスプレゼントがげんに配達されている以上、そこにはサンタが存在するとしなければならない。そういう強い推論が働くのです。

 すると彼は憐れむような表情を浮かべて言いました。あれはみんな親のしわざなのだと。おかしいと思った彼は、あるとき寝たふりをして様子をうかがっていると、母親がこっそりやってきて、枕元に何かを置くのを見た。立ち去った後確認すると、それはクリスマスプレゼントで、それでサンタの正体が誰かわかったのだと。だから〇〇君も一度タヌキ寝入りをして、サンタが来るのを待ち受けてみるといい、そうすれば親がそうしているのがわかるだろう、云々。

 保育園児の頃は彼もまだサンタを信じていて、食い気に負けた母親が味見にクッキーをかじったりしたのを、トナカイがかじった跡なのだろうと思ったそうですが、あるときふと果たしてトナカイがこんなところにいるだろうかという疑問が頭に浮かび、調べたらいないということがわかり、さらに「実験」で確認した結果、あのクッキーをかじった犯人はトナカイではなくて、母親だったのだという真相を突き止めたのです。

 もちろん、クリスマスプレゼントはやっぱりほしいので、だまされたふりはしている。しかし、サンタもトナカイも存在しないので、そんなものが日本にいるといまだに信じているというのはあまりにも幼稚なことではないかと、彼は友達に言うのです。

 僕が笑ったのは、トナカイや雪ぞりの存在を疑うところから彼のサンタへの疑惑が始まったというところで、そのあたりがいかにも子供らしいのです。顧みれば僕も小学生の頃、色気づき始めた悪ガキの上級生が、学校の帰り、僕と友達が一緒にいる所に来て、ニヤニヤしながら「おまえらは自分がどうやって生まれたか、知っているか?」と言って、地面に棒切れで例の絵を描いて説明し始めたのに憤慨し、「うちの親はそんなことはしない」と反論して、ニワトリの例を出して相手をやり込めたことがあります。当時は副業で養鶏をやっていたので、わが家には何百羽もニワトリがいたのですが、彼らは一羽一羽ケージに入っていて、他との交渉はないのに毎日卵を産む。その卵が孵化するとヒヨコになるので、ニワトリですらそんなことはしないのに、人間がそのような馬鹿げたことをする道理がない。子供というのはそのように、親がいれば何もしなくとも“自然に”生まれるものなのだと自信たっぷり説明したのです。友達もこれを熱烈支持しました。こっけいなのはその上級生自身、本当のところは何も知らなかったので、「そ、そうだな…」ということでナットクしてしまったことで、当時僕は有精卵と無精卵の区別を知らなかったのですが、彼もそれを知らず、その「完璧な論理」の前に沈黙してしまったのです。

 まあ、イエス・キリストの場合、聖書では母親のマリア様から「処女懐胎」で生まれたことになっているので、小学生の頃の僕の説明も、それに照らせばあながち間違いだとは言えないわけで、その当時は、子供は全員それで生まれるのだと確信していたのです。

 何はともあれ、メリー・クリスマス!

大阪桐蔭vs仙台育英

2017.08.20.13:28

 あの試合を見ていて、大方の人は唖然としたでしょう。僕もテレビのスイッチをあやうく切ってしまうところでした。終わったはずが終わっていなくて、勝ったはずがその後でまさかの逆転サヨナラ負けを喫したのです。

 一塁手が実はベースを踏んでおらず、あわててベースに足をつけるより早く、ヘットスライディングした打者の手がベースに届いていたので、あれは誤審ではなかったようですが、こういうのは緊張した場面の高校野球では必ずしも珍しくないことです。昔、やはり夏の甲子園で、延長何回だったかは忘れましたが、表で1点入れて、その裏ツーアウトで打者が平凡な外野ファウルフライを打ち上げ、それで試合終了のはずが落としてしまって、ピッチャーが次に投げた球がホームランされてしまい、振出しに戻ってしまった、なんてのもありました。それで結局、そのチームは負けてしまった。勝ったのは和歌山の簑島高校で、その年優勝したように記憶しています(地元なので、僕は簑島を応援していました。安倍ごときに「郷土を愛する心」をもてと言われるまでもない。今は宮崎県選出の高校と、両方応援するのです)。

 だから一塁手の子を責めるのは酷なので、甲子園というのはそういうところなのです。そもそもの話、大阪桐蔭はほんとは2回戦で智辯和歌山に負けていた(安打数も7対12で、明らかに力負けしていた)。あれは4回表チャンス時の三塁塁審の“タイムリー誤審”や、その後の智辯側の急ぎ過ぎの相次ぐ走塁ミスで勝てたので、そうしたまずい攻めも元々はあのミスジャッジで入るべき点が入らなかった焦りに由来すると思われるので、あの誤審のおかげで勝たせてもらったようなものだったのです。

 その智辯にしても、1回戦の沖縄興南戦で0-6から大逆転したので、その段階で運を相当使ってしまったのかも知れず、それが2回戦の不運につながったのです。大阪桐蔭は、その智辯相手の2回戦のラッキーな勝利で、3回戦分の“運の貯金”がなくなっていた、ということなのかも知れません。

 こういうふうに何でもかんでも「運」で説明してしまうのはやりすぎですが、そういうところが高校野球にはあるので、大逆転や接戦の末、最後まで勝ち上がるチームというのは、よほど強い運をもっていた、ということなのでしょう。より正確に言えば、運を味方につけられるだけのしぶとさ、粘りをもつチームということになりますが。

 にしても、ああいうのは教訓的です。最後の最後まで勝負事というのはわからない。運頼みでは勝てず、歴然たる実力差があれば必敗します(だから努力して実力をつけるのが先決)が、負けている側は最後まで諦めてはいけないし、勝っている側も、ほんのちょっとした油断やミスから目の前の勝ちを逃してしまうことがあるのです。

 繰り返しますが、高校生ぐらいだと、緊張してかんじんなところでミスをしてしまうのは無理からぬところがある。だから誰も責めないだろうし、本人も気に病まない方がいいのですが、勝負事というのはこれだからこわいなと思うのです。

 思えば、人生というのも先が読めない高校野球みたいなもので、よく「人生の達人」なんて言いますが、そんな人はほとんどいないので、僕らは皆人生のアマチュアです。僕のような無計画が服を着たような人間は人生の生活設計なんて考えたこともありませんが、そういうことを怠りない堅実で計画的な人でも、「こんなはずではなかった」ということは少なからず経験するでしょう。幸いにそれはスコアを競うゲームではない(成功崇拝の人にとってはそうかも知れませんが)ので、単純な勝ち負けがつくものではないのですが、十歳の子供に三十になった自分はわからないし、三十歳の人間に、その倍の年になった自分がどうなっているのかはわからないのです。いや、一年先のことすらわからないので、今元気な人が死んでいることもあるし、何をどう考えても絶望的な状況で、自殺でもするしかないなと思い詰めた人が、思いもよらぬかたちで危地を脱していることもある。何がどうなるかは実際に生きてみないとわからないので、「人間万事塞翁が馬」と心得ておいた方がいいわけです。

 話を少し戻して、僕は毎年大学受験生を相手にしていて、これは受かるか落ちるかしかないので、その意味では「勝負の世界」です。塾教師としては、むろん、全員第一志望に合格してくれるのが願いなのですが、そうは問屋が卸さないのがこの世界で、合格率は高い方だろうと思うのですが、そうそう思い通りにはいきません。長いこと同じ仕事をしていると自然に勝負勘のようなものは働くようになるので、模試などのデータには表われない部分のことで、これは行けそうだとか危ないなとか、そうした予感はよく当たるようになります。もちろん、偏差値50の子が70の大学を受けても受かるはずがないので、そこは大体データ通りなのですが、似たような成績でも、こちらは大丈夫な感じがするが、これは心配だなとか、そういうのがあるのです。センターの判定が同じCやDでも、これは突っ込ませても大丈夫とか、これは無理そうだなとか、割とはっきりした勘が働く。そのファクターには性格的なものはもとより、模試の点数にはダイレクトに反映していないと感じられる学力の質の差異、勢いのあるなしなどもある。説明が難しいそのあたりのことが結果を大きく左右するのです。

 難しいのは、教師の側のその反応が、生徒に影響を及ぼしてしまう可能性も否定できないということです。先生のあの顔を見ると自分は大丈夫だなとか、駄目かもしれないなとか生徒が思ってしまって、それが生徒の当日のパフォーマンスに小さくない影響を及ぼし、それで結果がこちらの予想通りになってしまう、という可能性です。それでも、センターがかなり悲惨な結果になり、本人もこちらも「まあ、無理だろうな」と思ったが、他に選択肢がないので受けたらなぜか受かっていた、ということも一年か二年に一回ぐらいはあるので、こういう場合はどうなのかと思いますが、それは本人に通常の緊張がなく、火事場の馬鹿力みたいなもので、直前に必死に勉強し、当日も居直って試験に臨むしかなかったので、予想外にいい点が取れてしまった、ということなのかも知れません。

 どういう場合にも言えることは、「守りに入ってしまったら負ける」ということです。大阪桐蔭のあのサヨナラヒットを打たれてしまった気の毒なピッチャーの子にしても、勝ったと思ったのが一転それが消えて、逆にツーアウト満塁のピンチになってしまった。こうなるとメンタルは最悪なので、命拾いをした相手の打者は九回裏ツーアウトで、負けているのだから失うものは何もないという構えでバッタへボックスに入れるが、それに対して虎の子の1点を守ろうと、逃げの、守りの投球になってしまうのは避けがたいことです。果たしてそれを痛打された。

 入試でも、センターは予想以上に取れたというので、その“貯金”を守りたいという感じになると、二次で意識が守りに入って失敗するということがあるのです。あんまりビハインドが大きすぎると気力が萎えたり、あるいは二次で何としても逆転しなければならないと肩の力が入り過ぎたりしてしまうが、適度なビハインドだと、さしたる葛藤もなく、積極的な攻めの構えに入れる。それが思いきりのよさを生んで、よいパフォーマンスができるということがあるので、そこらへんふつうの勝負事と同じなのです。

 あと、勝負事には「希望的観測」は禁物です。それがいわゆる「プラス思考」だと思っている人がいるようですが、さにあらずで、そういう人は何をやっても成功するのが難しいでしょう。それは現実逃避の一形態でしかないからです。おそらく一番いいのは、「成るものは成る、成らないものは成らない」と考えて、結果は運命の手に委ね、自分はやりたいこと、やるべきことをするだけだと思って、落ち着いて目の前のことに集中することでしょう。そうすると能力も上がるし、中身のあるいい仕事(勉強)もできるようになるので、結果も自然よくなることが多いのです。イメージトレーニングなるものをやるスポーツ選手が今は多いそうですが、そういうのが意味をもってくるのも、コツコツやるべきことをやっている人にとってだけでしょう。

 高校野球の話から脱線しましたが、若い球児たちの熱戦は、見ていて手に汗握るだけでなく、人生を考えるよすがを与えてくれる、貴重な体験ともなりえるということです。
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大野龍一

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