ナチュラルスピリット今井社長の個人ブログ、『酔星人ブログ(ノーマインドの道)』は、仕事上のおつきあいがあるからというより、正直な人柄と飾らないホンネが吐露されているのが面白くて、割と僕はよく見ているのですが、最新のもの(5/14)に「2024年危機説」というのが出ていて、興味深かったので、ご紹介しておきます。
・酔星人ブログ(ノーマインドの道)
他界した霊も、アストラル界までしかいけない霊が多く、妄想の中で苦しんでいるといふ。アストラル界に行けず、地上をうろうろする浮遊霊も多く、かなりの人に憑依してゐるらしい。エゴの強い人ほど憑依を受けるとのこと。
地上とアストラル界のマイナス波動がたまりにたまって、それが原因となって2024年頃の天変地異が起るといふ。戦争も起るのか。
というのですが、こういうのはいわゆる「霊界」というものを認めない、そんなものはナンセンスだと思っている人にはトンデモ話としか思えないでしょう。僕は別に霊能者ではありませんが、昔一時期、超常現象の頻発に悩まされたことがあって、その頃は一時的に霊能者もどきにもなってしまって、人のオーラ様のものが見えたり、電車やバスに乗ったとき、激しい悪寒がするのでこの邪悪なエネルギーはどこから、誰から出ているのか探って正確に特定できたりもした(他の乗客が平気でいられるのが不思議でならなかった)ので、不気味この上なく、「一体この世界はどういう構造になっているんだ!」と空恐ろしくなったことがあります。その頃はユングのいう「共時性」現象も全くありふれたことだったので、そういう経験をすれば、世界の見方も自然に変わるわけです。
体調を崩す前に、嗅覚が異常に敏感になったりするのは、多くの人に覚えがあるでしょう。それは錯覚ではなくて、それに対応するものが実際にあるのですが、健康であるというのはだから、鈍感であるのと同義のところもあるのです。僕が「霊能者もどき」になっていたときも、パーソナリティ的な防衛機構が精神的な衰弱のために弱まっていたことと関係します(精神科医のアーサー・ガーダムによれば、そういうときには抑え込まれていたプシュケの働きが感受されやすくなる)。何か子供の頃に戻ってしまったみたいで、おまえが乳児の頃は畳を踏むみしっという音だけでも目を覚ますので、家族は抜き足差し足で歩かねばならず、ヒソヒソ話もできないので往生したと後で親に言われたことがありますが、感覚的に敏感すぎる子供は匂いや音だけでも大きな負担になって、吐き気に襲われたり、人間の思惑の類も物理的な力のように感じられるので、疲れて身体的な成長が妨げられることがあって、僕もそういう子供の一人だったのです。幸い、山奥で育って、豊かな自然が周囲にあったから、その中にいることで傷が修復できた。都会の喧騒の中にいたら、確実に病気になっていたでしょう。
話を戻して、僕の場合、元通り元気になって鈍感になると“霊能”も消えたのですが、霊能というのは通常の感覚と全くの別ものではなく、地続きのものと考えてよさそうで、それでキャッチされるものも、たんなる主観に還元できるものではありません。その知覚が捉えたものがそこにはあると見ていいので、たんなる妄想ではないのです。音や匂いでも、鈍感な人には聞えなかったり、嗅げなかったりするものをそういう人たちは感知できるので、精密機器でそれが測定されたという場合、それは錯覚ではなかったことが証明されたことになる。霊能に関しても、幽霊測定器なんてものは作れないでしょうが、見える人はいて、相互に全く無関係な霊能者たちが同じような描写をしたとすれば、それに対応する何かがそこには存在すると判断した方が合理的でしょう。わからない人たちの多数決で真実が決まるわけではない。
ただ、敏感な人や超常知覚のある人たちは、それに振り回されて情緒的に不安定になりやすいから、途中から妄想的になってしまうこともあるし、もう一つ、その知覚されたものをどう解釈するかという問題が出てくるので、そのあたりの判別が難しい。僕は神経症とその種の能力が一緒になったような悩ましい人には何度か会ったことがあるし、この人は潜在的な霊能者で、その第六感そのものは正しいことが多そうだと思っても、解釈はパーソナリティレベルでやっているので、その段階で間違えてしまうことが多いのではないかと感じたこともあります。
いわゆる「霊界」にはいくつもの階層があって、ガーダムなんかは七つあると言っているのですが、死後人間のプシュケは、生まれてきたときとは逆の順序で星間飛行して、その階層をのぼっていき、進歩した魂の場合はさらに上の方までに行って、特殊な事情がないかぎり、もう戻ってくることはなくなるというのが彼が霊たちから聞いたという話です。その場合、ヴァイブレーション(振動)が大きな役割を果たすので、その人のプシュケまたは魂がどこに行くかは、その振動率またはレベルで決まるとのこと。魂が戻ってくる時も、それは類似のヴァイブレーションに引き寄せられるというから、「子供は親をえらんで生まれてくる」という仏教説には一理あることになるわけです。
人間界に近い階層を、彼はプラトンなどと同様、ハデス(冥界)と呼んでいますが、そこには悪の巨大なエネルギー(それが具現化したものが悪霊です)が存在して、それがこの世界に大きな影響を及ぼし、これを阻止せんとする善霊との間でたえず熾烈な闘争が行われている。この世界の善悪のせめぎ合いは、ハデスにおけるその闘争の写し絵に他ならない、と彼は言っています。
上の今井社長のブログの、「アストラル界までしかいけない霊が多く、妄想の中で苦しんでいるといふ」のも、この世で進歩を妨げられた振動の粗い魂がそれだけ増えていて、上に進めず、ハデスに存在する悪霊の餌食にされるケースが増え、悪のエネルギーがそれだけ活性化、強大化しているということでしょう。
「アストラル界に行けず、地上をうろうろする浮遊霊も多く、かなりの人に憑依してゐるらしい。エゴの強い人ほど憑依を受けるとのこと」というのは、不幸ないわゆる地縛霊の類が増えているということですが、人間に憑依するのは地縛霊だけではありません。ハデスの悪霊はハートに乏しい邪悪な人間を送信機代わりに使ったり(ガーダムはそういう邪悪な人間を「悪のトランスミッター」と呼ぶ)、直接憑依することもある。善良な人が悪霊に乗っ取られることはまずありません(反対に、標的にされることはよくある)が、サイコパス的な人間や、前々からジコチューで独善的・他罰的傾向が強く、トラブルを起こしやすかった人が目つきが一段と悪くなって妄想的で攻撃的性格を強めたというような場合、この憑依が起きていると疑っても差し支えない。目が妙にギョロついて、口元に妙な薄笑いを浮かべているというような特徴は、悪霊の憑依または悪霊に操られていることのわかりやすい見分けポイントです。
僕も、最近は「こいつは正気か?」と言いたくなるような人間が増えていると感じています。ネットがその大きな媒体になっている気もしますが、たんなる無神経よりもっとタチが悪い人間が増加しているのではないか。道理をもって説いても聞く耳をもたず、逆ギレするだけなら、相手にしないのが一番ですが、こうまでおかしな手合いが増えるとそうもいかず、そういう人にしつこくからまれて鬱になってしまう人も増えているから、かなりの危機的状況です。
ユングの共時性、シンクロニシティというのは、内部的・心理的な状況と、外部の現実界の現象が奇妙な「偶然の一致」的対応を見せることです。これを機械的、表面的、公式的に解釈しすぎるのは危険で、悪用もされやすいのですが、これは心的現象と外部的な現象が分離したものではなく、何らかの相互連関をもっていることを示唆するもので、さらに上位の総合的な見地からすれば、おそらくそれらは一つのものなのです。
地球環境の急激な悪化、文明と経済の深刻な行き詰まり、ウイルス(ガーダムはそれをハデスからくる悪のエネルギーの働きと直接結びつけていた)の相次ぐ出現、社会の各種組織の深刻な機能不全、そういう見たところ外部的なものと、人間の内面、心の世界の暗黒化は、別々のものというより、通常説明に用いられる因果関係よりももっと密接な絡み合いを示すものなのかもしれません。
つまり、それは、不況になったから生活苦で鬱に苦しむ人が増えた、という単純なものではないかもしれないということです。陰気くさい顔をして、年中人を嫉んだり恨んだりばかりしているジコチューな人は、周りの人間を弱らせ不幸にするばかりではなく、自身もネガティブな外部的状況に取り囲まれてしまうものですが、それは自業自得としても、そういう人が増えすぎると、集合的な悪のエネルギーを強化して、この物質世界に大きなマイナスの影響を及ぼすようになる。それがまた人々の内面的な苦しみを募らせて…という具合に、負のスパイラルに入ってしまうわけです。
あの世とこの世の相互作用についても同じで、「霊界なんてあるわけがない」と冷笑する人は、僕にはたんなる無知による思い込みとしか思えないのですが、そういう関係が全くわからず、自身がガーダムの言う「悪のトランスミッター」になっていて、ロクでもないものに操られるだけになっていても、その自覚がない。それで、この世とあの世の状況を一段と悪化させながら、苦しむ人たちをあざ笑ったりするのだから、最悪です。
今の状況だと、たしかに後三年ぐらいでその悪影響が誰の目にも見える外的惨事となって顕在化するかもしれない。もう行くところまで行ってしまったので、どうしようもない(「現状をよくすることは不可能」)というのも、僕の実感と一致している。そこまで行かないとわからないのなら、行く他はないのです。
さっきも塾で、今のアホなオリンピック騒ぎや、菅政権の意味不明のドタバタ、いわゆる「識者」たちの出鱈目な思いつきなどの話になって、これはもう行くところまで行って、いったん全部ぶちこわれ、君ら若者が新たに一から始めるしかなくなるだろうねと言ったら、彼らはどっと笑いました。ほんとに今のオトナたちはイカれているなと、高校生たちも感じるようになっているのです。情けないの一語に尽きます。いろんなところで従来はなかったような不注意によるミスも激増していて、これは高齢者が激増して、認知症老人も増えているから、それが若い世代にも伝染しているのかなと思うことがありますが、認知症が進むのもたんなる年齢の問題ではなく、この世界にあるネガティブな無明(むみょう)エネルギーがかつてないほど膨張してそれが弱った高齢者に影響しているせいかもしれず、そう考えると、話はそう単純ではないのです。
・酔星人ブログ(ノーマインドの道)
他界した霊も、アストラル界までしかいけない霊が多く、妄想の中で苦しんでいるといふ。アストラル界に行けず、地上をうろうろする浮遊霊も多く、かなりの人に憑依してゐるらしい。エゴの強い人ほど憑依を受けるとのこと。
地上とアストラル界のマイナス波動がたまりにたまって、それが原因となって2024年頃の天変地異が起るといふ。戦争も起るのか。
というのですが、こういうのはいわゆる「霊界」というものを認めない、そんなものはナンセンスだと思っている人にはトンデモ話としか思えないでしょう。僕は別に霊能者ではありませんが、昔一時期、超常現象の頻発に悩まされたことがあって、その頃は一時的に霊能者もどきにもなってしまって、人のオーラ様のものが見えたり、電車やバスに乗ったとき、激しい悪寒がするのでこの邪悪なエネルギーはどこから、誰から出ているのか探って正確に特定できたりもした(他の乗客が平気でいられるのが不思議でならなかった)ので、不気味この上なく、「一体この世界はどういう構造になっているんだ!」と空恐ろしくなったことがあります。その頃はユングのいう「共時性」現象も全くありふれたことだったので、そういう経験をすれば、世界の見方も自然に変わるわけです。
体調を崩す前に、嗅覚が異常に敏感になったりするのは、多くの人に覚えがあるでしょう。それは錯覚ではなくて、それに対応するものが実際にあるのですが、健康であるというのはだから、鈍感であるのと同義のところもあるのです。僕が「霊能者もどき」になっていたときも、パーソナリティ的な防衛機構が精神的な衰弱のために弱まっていたことと関係します(精神科医のアーサー・ガーダムによれば、そういうときには抑え込まれていたプシュケの働きが感受されやすくなる)。何か子供の頃に戻ってしまったみたいで、おまえが乳児の頃は畳を踏むみしっという音だけでも目を覚ますので、家族は抜き足差し足で歩かねばならず、ヒソヒソ話もできないので往生したと後で親に言われたことがありますが、感覚的に敏感すぎる子供は匂いや音だけでも大きな負担になって、吐き気に襲われたり、人間の思惑の類も物理的な力のように感じられるので、疲れて身体的な成長が妨げられることがあって、僕もそういう子供の一人だったのです。幸い、山奥で育って、豊かな自然が周囲にあったから、その中にいることで傷が修復できた。都会の喧騒の中にいたら、確実に病気になっていたでしょう。
話を戻して、僕の場合、元通り元気になって鈍感になると“霊能”も消えたのですが、霊能というのは通常の感覚と全くの別ものではなく、地続きのものと考えてよさそうで、それでキャッチされるものも、たんなる主観に還元できるものではありません。その知覚が捉えたものがそこにはあると見ていいので、たんなる妄想ではないのです。音や匂いでも、鈍感な人には聞えなかったり、嗅げなかったりするものをそういう人たちは感知できるので、精密機器でそれが測定されたという場合、それは錯覚ではなかったことが証明されたことになる。霊能に関しても、幽霊測定器なんてものは作れないでしょうが、見える人はいて、相互に全く無関係な霊能者たちが同じような描写をしたとすれば、それに対応する何かがそこには存在すると判断した方が合理的でしょう。わからない人たちの多数決で真実が決まるわけではない。
ただ、敏感な人や超常知覚のある人たちは、それに振り回されて情緒的に不安定になりやすいから、途中から妄想的になってしまうこともあるし、もう一つ、その知覚されたものをどう解釈するかという問題が出てくるので、そのあたりの判別が難しい。僕は神経症とその種の能力が一緒になったような悩ましい人には何度か会ったことがあるし、この人は潜在的な霊能者で、その第六感そのものは正しいことが多そうだと思っても、解釈はパーソナリティレベルでやっているので、その段階で間違えてしまうことが多いのではないかと感じたこともあります。
いわゆる「霊界」にはいくつもの階層があって、ガーダムなんかは七つあると言っているのですが、死後人間のプシュケは、生まれてきたときとは逆の順序で星間飛行して、その階層をのぼっていき、進歩した魂の場合はさらに上の方までに行って、特殊な事情がないかぎり、もう戻ってくることはなくなるというのが彼が霊たちから聞いたという話です。その場合、ヴァイブレーション(振動)が大きな役割を果たすので、その人のプシュケまたは魂がどこに行くかは、その振動率またはレベルで決まるとのこと。魂が戻ってくる時も、それは類似のヴァイブレーションに引き寄せられるというから、「子供は親をえらんで生まれてくる」という仏教説には一理あることになるわけです。
人間界に近い階層を、彼はプラトンなどと同様、ハデス(冥界)と呼んでいますが、そこには悪の巨大なエネルギー(それが具現化したものが悪霊です)が存在して、それがこの世界に大きな影響を及ぼし、これを阻止せんとする善霊との間でたえず熾烈な闘争が行われている。この世界の善悪のせめぎ合いは、ハデスにおけるその闘争の写し絵に他ならない、と彼は言っています。
上の今井社長のブログの、「アストラル界までしかいけない霊が多く、妄想の中で苦しんでいるといふ」のも、この世で進歩を妨げられた振動の粗い魂がそれだけ増えていて、上に進めず、ハデスに存在する悪霊の餌食にされるケースが増え、悪のエネルギーがそれだけ活性化、強大化しているということでしょう。
「アストラル界に行けず、地上をうろうろする浮遊霊も多く、かなりの人に憑依してゐるらしい。エゴの強い人ほど憑依を受けるとのこと」というのは、不幸ないわゆる地縛霊の類が増えているということですが、人間に憑依するのは地縛霊だけではありません。ハデスの悪霊はハートに乏しい邪悪な人間を送信機代わりに使ったり(ガーダムはそういう邪悪な人間を「悪のトランスミッター」と呼ぶ)、直接憑依することもある。善良な人が悪霊に乗っ取られることはまずありません(反対に、標的にされることはよくある)が、サイコパス的な人間や、前々からジコチューで独善的・他罰的傾向が強く、トラブルを起こしやすかった人が目つきが一段と悪くなって妄想的で攻撃的性格を強めたというような場合、この憑依が起きていると疑っても差し支えない。目が妙にギョロついて、口元に妙な薄笑いを浮かべているというような特徴は、悪霊の憑依または悪霊に操られていることのわかりやすい見分けポイントです。
僕も、最近は「こいつは正気か?」と言いたくなるような人間が増えていると感じています。ネットがその大きな媒体になっている気もしますが、たんなる無神経よりもっとタチが悪い人間が増加しているのではないか。道理をもって説いても聞く耳をもたず、逆ギレするだけなら、相手にしないのが一番ですが、こうまでおかしな手合いが増えるとそうもいかず、そういう人にしつこくからまれて鬱になってしまう人も増えているから、かなりの危機的状況です。
ユングの共時性、シンクロニシティというのは、内部的・心理的な状況と、外部の現実界の現象が奇妙な「偶然の一致」的対応を見せることです。これを機械的、表面的、公式的に解釈しすぎるのは危険で、悪用もされやすいのですが、これは心的現象と外部的な現象が分離したものではなく、何らかの相互連関をもっていることを示唆するもので、さらに上位の総合的な見地からすれば、おそらくそれらは一つのものなのです。
地球環境の急激な悪化、文明と経済の深刻な行き詰まり、ウイルス(ガーダムはそれをハデスからくる悪のエネルギーの働きと直接結びつけていた)の相次ぐ出現、社会の各種組織の深刻な機能不全、そういう見たところ外部的なものと、人間の内面、心の世界の暗黒化は、別々のものというより、通常説明に用いられる因果関係よりももっと密接な絡み合いを示すものなのかもしれません。
つまり、それは、不況になったから生活苦で鬱に苦しむ人が増えた、という単純なものではないかもしれないということです。陰気くさい顔をして、年中人を嫉んだり恨んだりばかりしているジコチューな人は、周りの人間を弱らせ不幸にするばかりではなく、自身もネガティブな外部的状況に取り囲まれてしまうものですが、それは自業自得としても、そういう人が増えすぎると、集合的な悪のエネルギーを強化して、この物質世界に大きなマイナスの影響を及ぼすようになる。それがまた人々の内面的な苦しみを募らせて…という具合に、負のスパイラルに入ってしまうわけです。
あの世とこの世の相互作用についても同じで、「霊界なんてあるわけがない」と冷笑する人は、僕にはたんなる無知による思い込みとしか思えないのですが、そういう関係が全くわからず、自身がガーダムの言う「悪のトランスミッター」になっていて、ロクでもないものに操られるだけになっていても、その自覚がない。それで、この世とあの世の状況を一段と悪化させながら、苦しむ人たちをあざ笑ったりするのだから、最悪です。
今の状況だと、たしかに後三年ぐらいでその悪影響が誰の目にも見える外的惨事となって顕在化するかもしれない。もう行くところまで行ってしまったので、どうしようもない(「現状をよくすることは不可能」)というのも、僕の実感と一致している。そこまで行かないとわからないのなら、行く他はないのです。
さっきも塾で、今のアホなオリンピック騒ぎや、菅政権の意味不明のドタバタ、いわゆる「識者」たちの出鱈目な思いつきなどの話になって、これはもう行くところまで行って、いったん全部ぶちこわれ、君ら若者が新たに一から始めるしかなくなるだろうねと言ったら、彼らはどっと笑いました。ほんとに今のオトナたちはイカれているなと、高校生たちも感じるようになっているのです。情けないの一語に尽きます。いろんなところで従来はなかったような不注意によるミスも激増していて、これは高齢者が激増して、認知症老人も増えているから、それが若い世代にも伝染しているのかなと思うことがありますが、認知症が進むのもたんなる年齢の問題ではなく、この世界にあるネガティブな無明(むみょう)エネルギーがかつてないほど膨張してそれが弱った高齢者に影響しているせいかもしれず、そう考えると、話はそう単純ではないのです。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin
このところ、土日になると必ず雨が降るみたいで、これは今頃の雨の特徴なのかもしれませんが、一日中しとしと絶え間なく降り続ける。学校は今春休みですが、これでは休日に親子連れで山菜とりに出かけるなんてこともできないでしょう。いや、今の人はそもそもそんなことはしません、と言われそうですが、今はワラビ、ゼンマイ、ウド、イタドリなど、山菜とりの絶好のシーズンなのです。
釣り好きの人にはヤマメ(アマゴ)釣りのシーズンでもあって、僕は高校の頃、ふだんは親元を離れて下宿していましたが、春休みは実家に帰っているので、父親の原付バイクを借りて、川を遡り、「ここの谷はいそうだな」というところを見つけてそこに入ってみると、読みが的中して次々大物がかかり、他の人はほとんど知らなかった(その後人に教えたら皆に知られてしまった)ので、毎年そこに行っていたことがあります。かなり切り立った谷なので、半分登山みたいなもので、糸と釣り針だけ用意して行って、ナイフで竹を切って、竿は現地調達、餌も石をめくって川虫を使っていました。父はニワトリ(雄)の胸の羽毛で毛バリを作って水面スレスレに飛ばしていたという話でしたが、僕にはそんな高等技術はなかったので餌釣り専門で、それでも行くたび20~30センチのものが七、八尾は釣れたのです。帰りにイタドリやウド(こちらは場所が限定される)も採って帰った。
今はその谷も無考えな行政と土建屋が有害無益な砂防ダムなどやたら作って完膚なきまでに破壊され(カネだけ出して何もしてもらわない方が百倍いい)、イタドリなど、植林のし過ぎで鹿が里に下りてきて、かつ数が増えすぎて、あの愚かな動物は山菜などは根こそぎ食ってしまうので、二度とはえなくなってしまい、今は鹿のいない町場近くの河川敷などの方がイタドリがたくさんあるので、一時弟がそれを採って、母がまだ元気な頃は宅急便で送ったりしていたほどです。田舎の良さがすっかり失われてしまったわけで、人間と動物が一緒になって生態系の破壊に精出しているのです。
アメリカあたりでも、トップ・プレデター不在の中で、増えすぎたヘラジカが周辺の生態系を深刻に破壊してしまい、たまらずオオカミのつがいを連れてきて放すと、ヘラジカたちの乱暴狼藉にストップがかかったというような話を読んだことがありますが、前に北海道ではエゾジカが増えすぎて生態系を駄目にしているというテレビ番組を見たことがあるので、僕はあの動物にあまり好意的ではありません。人間も異常繁殖の結果、かかる深刻な環境破壊をもたらしているわけですが、鹿というのは人間のように機械力、テクノロジーで破壊を倍加することはしないまでも、自制力も先を見る知恵もない、言い換えれば「持続可能性」を全く顧慮しない、稀に見るお馬鹿な動物なのです。見た目が可愛い、なんて問題ではない。人間に「おまえらはこれと同レベル」ということを教え諭すために、神がブラックユーモアでつくった生きものなのかもしれませんが。
幸いなことに、延岡はほどよい町場で、そこらを鹿がウロウロしている環境ではないおかげで、河川敷などにはイタドリがまだちゃんと自生していて、僕はこの時期、茶色のカラを目印にそれを探し歩いたりして、先日そうしていたら、自転車に乗った小学生の男の子が何度も遊歩道を行ったり来たりしながら見ていて、「悪いおじさんが何かを折って取っていた」と帰って親に報告するのではないかと苦笑したのですが、食べ頃なのを五本ほど得て、上機嫌で自転車の前カゴにそれを入れて帰宅しました。あれは、そのまま皮をむいて食べても独特の食感があっておいしいので、それで全部食べてしまったのですが、今の子供はあんなものおいしいとは感じないので、わが子が小学生の頃食べさせてみたのですが、反応は今イチでした。昔はあれを湯に通して皮をむいた後、流水に長時間浸してアクを取り、ゼンマイやタケノコ、高野豆腐などと一緒に煮物にもしていて、僕はそれが好きだったのですが、そういう料理を知っているのもおそらく六十代以上の人だけでしょう。ボブ・ディランの曲ではないが、Times have changed(時代は変わった)なのです。
イタドリは漢字で「虎杖」と書きますが、それは川の模様が虎の毛皮のそれを連想させるからでしょう。あれは薬効もあって、「痛いのを取る」からイタドリだという説もありますが、僕の田舎では「ゴンパチ」と呼びます。由来は不明ですが、先のヤマメ(僕の郷里の川にいるのは赤い点が追加されたアマゴの方ですが、同じ県内でもヤマメになる地域もある)もコサメと呼ぶ。これは「小鮫」ではなくて、たぶんきれいな斑点が「小雨」を連想するからでしょう。そう解するとなかなか洒落た呼称です。ワラビ、ゼンマイ、ウドなどは同じです。面白いのはガマガエルを「とちわら」と呼ぶことです。ふつうのカエルは「ひきんど」と呼ぶ。僕は田舎に帰ると言葉づかいを一気に方言モードに変えるので、うちの母親などは僕が学生の頃、「おまえはほんとに東京にいるのか? そんなことを言って親を騙しているだけなのではないのか?」といつまでも東京弁にならないのを怪しんでいましたが、この「とちわら」などは今では死語に近いようなので、前に同級生に会ってそう言ったら、今どきはこのあたりでもそんな言葉は使わないと笑われてしまったことがあります。以前、自然には詳しいので、子供時代の記憶を元に『熊野動物記』という本を書いてみようかと思ったことがありますが、僕は植物などは現物は知っていても名前を知らないことが多いし、名前を知っていても方言の方しか知らないものが多くあるので、そのあたり面倒すぎるというので諦めたことがあります。早い話が、クワガタなんかでも、ミヤマクワガタはゲンジ、ヒラタクワガタはヘイケ、ノコギリクワガタはホリと呼ばれていたのです。ゲンジ、ヘイケはそれぞれ源氏、平家に相当します。ホリというのはツノの動かし方から「掘り」か「放り」がなまったものでしょう。前に東京の公園でクワガタを探している子供たちと話をしていて、関東ではノコギリクワガタはたくさんいるが、ミヤマクワガタの方は少数らしいのを知って、僕の田舎ではそれは反対だったので、その話をすると、彼らは羨ましがっていました。とにかくそんなふうに名前が違うことが多いので、クワガタという言い方自体をしない。ゲンジガムトみたいになるので、これはカブトのなまりですが、ふつうのカブトムシの方はウジャウジャいすぎて見向きもされなかったので、クワガタにそれが使われていたのです(今はこれも激減して、おそらくかつての数パーセントになっている)。
しかし、そもそもイタドリって何?という人が多そうなので、遅まきながら記事を引用しておきます。
・イタドリ/スカンポ<春の山菜:特徴や産地と旬
この写真にあるようなものが食べ頃です。長く伸びすぎて、色が褪せているようなものはダメ。イタドリにも何種類かあって、細くて葉っぱばかり目立つようなものは、僕の田舎ではヘビゴンパチと呼ばれて、誰も採る人はいませんでした。こういう太くてかたちのいいのがお薦めです。
記事の中に「非常に繁殖力旺盛で、定着すると他の草木を締めだしてしまうほどで『世界の侵略的外来種ワースト100』にも指定されているそうです」とありますが、実際イギリスあたりではずっと昔持ち込まれたイタドリが「公害」扱いされているようです。しかし、日本ではそうではない。生態系の一部として、分を弁え、バランスよく点在しているのです。これの固いカラは僕が子供の頃、刀の鞘にするのにもよく使いました。細い棒や竹を刀身にし、カラの途中の節をくりぬいてそれが入るようにするのです。柄もこれにすると、座頭市の仕込み杖みたいになってカッコよかったので、それを腰に差して嬉々として棚田を飛び回り、忍者になったり、怪傑何とか頭巾になったつもりでいたのです。これは刀としてはあまり実戦向きではありませんでしたが、当時の子供たちはよく薪用の木のかたちのいいものを各自ナイフで刀らしく削って、チャンバラもやったので、冬場などは相手の「剣」がしもやけの手に当たったりして痛かったのですが、そんなことはおかまいなしに夢中になって遊んだものです。正義の味方と斬られ役は代わりばんこにやらねばならなかった。そうでないと不公平になるからです。
さて、漫談の最後は桜吹雪ですが、言葉は知っていましたが、それがどういうものなのかを先日僕はこの年になって初めて体験しました。4月1日、木曜のエイプリルフールの日、仕事に行く途中、市役所前のT字路のところで、自転車にまたがって信号が変わるのを待っていたとき、一陣の突風が吹いて、道路の向かい側の桜の木の花が豪勢に舞い上がり、それがこちらにそのままワッと吹きつけたのです。その瞬間、僕は花に包まれました。これはわが人生、最良の体験の一つと言ってよいので、桜吹雪とはこれのことかと、しばし感慨にひたったのです。
今年はどこも例年より桜の開花が早かったようで、コロナ禍の中、花見も自粛されているのでしょうが、そのときちょうどその木は他より少し遅く満開を迎えていて、それが豪勢な花吹雪を散らしたのです。予想もしなかったことで、思わぬ桜のプレゼントでした。今年は構えて花見はできないが、桜の近くを通っていて美しい桜吹雪に見舞われたという人が、他にもいらっしゃるかもしれません。あれは、ちょっとトクした気分にさせてくれるものです。
釣り好きの人にはヤマメ(アマゴ)釣りのシーズンでもあって、僕は高校の頃、ふだんは親元を離れて下宿していましたが、春休みは実家に帰っているので、父親の原付バイクを借りて、川を遡り、「ここの谷はいそうだな」というところを見つけてそこに入ってみると、読みが的中して次々大物がかかり、他の人はほとんど知らなかった(その後人に教えたら皆に知られてしまった)ので、毎年そこに行っていたことがあります。かなり切り立った谷なので、半分登山みたいなもので、糸と釣り針だけ用意して行って、ナイフで竹を切って、竿は現地調達、餌も石をめくって川虫を使っていました。父はニワトリ(雄)の胸の羽毛で毛バリを作って水面スレスレに飛ばしていたという話でしたが、僕にはそんな高等技術はなかったので餌釣り専門で、それでも行くたび20~30センチのものが七、八尾は釣れたのです。帰りにイタドリやウド(こちらは場所が限定される)も採って帰った。
今はその谷も無考えな行政と土建屋が有害無益な砂防ダムなどやたら作って完膚なきまでに破壊され(カネだけ出して何もしてもらわない方が百倍いい)、イタドリなど、植林のし過ぎで鹿が里に下りてきて、かつ数が増えすぎて、あの愚かな動物は山菜などは根こそぎ食ってしまうので、二度とはえなくなってしまい、今は鹿のいない町場近くの河川敷などの方がイタドリがたくさんあるので、一時弟がそれを採って、母がまだ元気な頃は宅急便で送ったりしていたほどです。田舎の良さがすっかり失われてしまったわけで、人間と動物が一緒になって生態系の破壊に精出しているのです。
アメリカあたりでも、トップ・プレデター不在の中で、増えすぎたヘラジカが周辺の生態系を深刻に破壊してしまい、たまらずオオカミのつがいを連れてきて放すと、ヘラジカたちの乱暴狼藉にストップがかかったというような話を読んだことがありますが、前に北海道ではエゾジカが増えすぎて生態系を駄目にしているというテレビ番組を見たことがあるので、僕はあの動物にあまり好意的ではありません。人間も異常繁殖の結果、かかる深刻な環境破壊をもたらしているわけですが、鹿というのは人間のように機械力、テクノロジーで破壊を倍加することはしないまでも、自制力も先を見る知恵もない、言い換えれば「持続可能性」を全く顧慮しない、稀に見るお馬鹿な動物なのです。見た目が可愛い、なんて問題ではない。人間に「おまえらはこれと同レベル」ということを教え諭すために、神がブラックユーモアでつくった生きものなのかもしれませんが。
幸いなことに、延岡はほどよい町場で、そこらを鹿がウロウロしている環境ではないおかげで、河川敷などにはイタドリがまだちゃんと自生していて、僕はこの時期、茶色のカラを目印にそれを探し歩いたりして、先日そうしていたら、自転車に乗った小学生の男の子が何度も遊歩道を行ったり来たりしながら見ていて、「悪いおじさんが何かを折って取っていた」と帰って親に報告するのではないかと苦笑したのですが、食べ頃なのを五本ほど得て、上機嫌で自転車の前カゴにそれを入れて帰宅しました。あれは、そのまま皮をむいて食べても独特の食感があっておいしいので、それで全部食べてしまったのですが、今の子供はあんなものおいしいとは感じないので、わが子が小学生の頃食べさせてみたのですが、反応は今イチでした。昔はあれを湯に通して皮をむいた後、流水に長時間浸してアクを取り、ゼンマイやタケノコ、高野豆腐などと一緒に煮物にもしていて、僕はそれが好きだったのですが、そういう料理を知っているのもおそらく六十代以上の人だけでしょう。ボブ・ディランの曲ではないが、Times have changed(時代は変わった)なのです。
イタドリは漢字で「虎杖」と書きますが、それは川の模様が虎の毛皮のそれを連想させるからでしょう。あれは薬効もあって、「痛いのを取る」からイタドリだという説もありますが、僕の田舎では「ゴンパチ」と呼びます。由来は不明ですが、先のヤマメ(僕の郷里の川にいるのは赤い点が追加されたアマゴの方ですが、同じ県内でもヤマメになる地域もある)もコサメと呼ぶ。これは「小鮫」ではなくて、たぶんきれいな斑点が「小雨」を連想するからでしょう。そう解するとなかなか洒落た呼称です。ワラビ、ゼンマイ、ウドなどは同じです。面白いのはガマガエルを「とちわら」と呼ぶことです。ふつうのカエルは「ひきんど」と呼ぶ。僕は田舎に帰ると言葉づかいを一気に方言モードに変えるので、うちの母親などは僕が学生の頃、「おまえはほんとに東京にいるのか? そんなことを言って親を騙しているだけなのではないのか?」といつまでも東京弁にならないのを怪しんでいましたが、この「とちわら」などは今では死語に近いようなので、前に同級生に会ってそう言ったら、今どきはこのあたりでもそんな言葉は使わないと笑われてしまったことがあります。以前、自然には詳しいので、子供時代の記憶を元に『熊野動物記』という本を書いてみようかと思ったことがありますが、僕は植物などは現物は知っていても名前を知らないことが多いし、名前を知っていても方言の方しか知らないものが多くあるので、そのあたり面倒すぎるというので諦めたことがあります。早い話が、クワガタなんかでも、ミヤマクワガタはゲンジ、ヒラタクワガタはヘイケ、ノコギリクワガタはホリと呼ばれていたのです。ゲンジ、ヘイケはそれぞれ源氏、平家に相当します。ホリというのはツノの動かし方から「掘り」か「放り」がなまったものでしょう。前に東京の公園でクワガタを探している子供たちと話をしていて、関東ではノコギリクワガタはたくさんいるが、ミヤマクワガタの方は少数らしいのを知って、僕の田舎ではそれは反対だったので、その話をすると、彼らは羨ましがっていました。とにかくそんなふうに名前が違うことが多いので、クワガタという言い方自体をしない。ゲンジガムトみたいになるので、これはカブトのなまりですが、ふつうのカブトムシの方はウジャウジャいすぎて見向きもされなかったので、クワガタにそれが使われていたのです(今はこれも激減して、おそらくかつての数パーセントになっている)。
しかし、そもそもイタドリって何?という人が多そうなので、遅まきながら記事を引用しておきます。
・イタドリ/スカンポ<春の山菜:特徴や産地と旬
この写真にあるようなものが食べ頃です。長く伸びすぎて、色が褪せているようなものはダメ。イタドリにも何種類かあって、細くて葉っぱばかり目立つようなものは、僕の田舎ではヘビゴンパチと呼ばれて、誰も採る人はいませんでした。こういう太くてかたちのいいのがお薦めです。
記事の中に「非常に繁殖力旺盛で、定着すると他の草木を締めだしてしまうほどで『世界の侵略的外来種ワースト100』にも指定されているそうです」とありますが、実際イギリスあたりではずっと昔持ち込まれたイタドリが「公害」扱いされているようです。しかし、日本ではそうではない。生態系の一部として、分を弁え、バランスよく点在しているのです。これの固いカラは僕が子供の頃、刀の鞘にするのにもよく使いました。細い棒や竹を刀身にし、カラの途中の節をくりぬいてそれが入るようにするのです。柄もこれにすると、座頭市の仕込み杖みたいになってカッコよかったので、それを腰に差して嬉々として棚田を飛び回り、忍者になったり、怪傑何とか頭巾になったつもりでいたのです。これは刀としてはあまり実戦向きではありませんでしたが、当時の子供たちはよく薪用の木のかたちのいいものを各自ナイフで刀らしく削って、チャンバラもやったので、冬場などは相手の「剣」がしもやけの手に当たったりして痛かったのですが、そんなことはおかまいなしに夢中になって遊んだものです。正義の味方と斬られ役は代わりばんこにやらねばならなかった。そうでないと不公平になるからです。
さて、漫談の最後は桜吹雪ですが、言葉は知っていましたが、それがどういうものなのかを先日僕はこの年になって初めて体験しました。4月1日、木曜のエイプリルフールの日、仕事に行く途中、市役所前のT字路のところで、自転車にまたがって信号が変わるのを待っていたとき、一陣の突風が吹いて、道路の向かい側の桜の木の花が豪勢に舞い上がり、それがこちらにそのままワッと吹きつけたのです。その瞬間、僕は花に包まれました。これはわが人生、最良の体験の一つと言ってよいので、桜吹雪とはこれのことかと、しばし感慨にひたったのです。
今年はどこも例年より桜の開花が早かったようで、コロナ禍の中、花見も自粛されているのでしょうが、そのときちょうどその木は他より少し遅く満開を迎えていて、それが豪勢な花吹雪を散らしたのです。予想もしなかったことで、思わぬ桜のプレゼントでした。今年は構えて花見はできないが、桜の近くを通っていて美しい桜吹雪に見舞われたという人が、他にもいらっしゃるかもしれません。あれは、ちょっとトクした気分にさせてくれるものです。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
地震列島の日本では地震は何も珍しくありませんが、最近は巨大地震への心配からか、地震関係のニュースが多くなっているような気がします。にしても、こんな地震の巣みたいな国に五十基を超える原発を建設してきたというのは、自殺行為以外の何ものでもなかったことになります。これも目先の経済とアメリカのご機嫌取りだけで、「百年の計」を怠ってきた戦後の自民党政治の象徴みたいなもので、そのツケを日本人はこれから支払わされるということなのかもしれません。
「コロナ程度でもこれほど右往左往している政治が、巨大地震なんか来たらどうなるんだ?」と心配している人が多いようですが、コロナがなくても、大地震が来なくても、急激な少子高齢化と活力の低下で、国家財政は火の車、労働生産性は先進国の最下位で、実質賃金は下がり続けて税金の類は上がるばかりという、昔「経済大国」と呼ばれたことが信じられないほど貧しくなっている国に住む人間としては、心配になるのは尤もです。思えばあの安倍長期政権は、日本版トランプのMake Japan Great Again 政権だったわけですが、異次元の金融緩和なるもので投機マネーをだぶつかせ、公金をおかしな具合に大量注入する「官製株価」システムを作って無駄に株価だけ上げたのと、戦前返りの日本会議的右翼思想を鼓吹しただけで、何の効果もなかったわけです(大学生の就職率アップも、とどのつまり団塊の世代の大量退職による“自然な”人手不足のおかげでしかなかった)。そのエピゴーネン政権の菅内閣と来た日には、目も当てられないことになっているわけで、出来の悪い「親の七光り」長男の違法接待事件だけよけいと言いたいくらいです(最近の各社の世論調査では不支持の方が多いとしても、支持率は下げ止まって40%弱あるようですが、一番多い支持理由が「他に人がいない」と「誰がやっても同じ」という諦めに満ちたものなのです)。
話を戻して、ほんとに地震は増えているのか? 次は最近の地震のついてまとめた記事です。図が付いていてわかりやすい。
・1週間の地震回数 震度4以上が3回 15日未明は和歌山県で震度5弱も
これを見ると、たしかに大きめの地震が増えているなという感じですが、僕が東京やその近県(埼玉や神奈川)に住んでいた頃(48~20年ほど前)は、震度3や4程度の地震は少なくなかった気がするので、にもかかわらず当時それほど騒がれなかったのは、地震学会のようなところが予測のようなものを出して警戒を呼びかけたりしていなかったからでしょう。僕は今でもよく憶えているのですが、1973年か74年初頭、ある霊能者が自信たっぷり日時を特定して、東京に直下型の大地震が来ると予言して、外れたら切腹するとまで言ったので、当時僕は高校を卒業して東京・新橋の新聞販売店で働きながら浪人していたのですが、そこまで言うのなら本当かも知れないと思って、24時間営業の喫茶店で本を読みながら待機していたことがあります。それは午前1時かそこらに起こると言われていたからです。
ところが微震すら起きず、そのまま徹夜して朝刊の配達に行ったのですが、その霊能者は夜逃げして行方をくらましたという話でした。何だかねえ…。また、元気象庁予報官という肩書の人が『富士山大爆発』という本を出して、『ノストラダムスの大予言』並にベストセラーになったことがあって、調べてみるとそれは1982年だったようですが、翌年「大爆発」するはずの富士山は静かなままでした(この時は僕も外れるだろうと予測していましたが)。
しかし、当時は「権威筋」が警告を発するということはなかったわけです。今はそのあたり様子が違っていて、「近いうちに必ず起きる」みたいな論調が支配的です。だからこんな記事も出る。
・南海トラフ地震が富士山噴火誘発したら… 首都機能は完全麻痺
「首都圏直下地震」の発生確率が「今後30年以内に70%」、「南海トラフ地震」でマグニチュード8〜9クラスの地震が発生する確率が「30年以内に70~80%」
ということになっていて、これはエセ霊能者や怪しげな御仁のヤマカン予測とは違うことになっているのです。逆に言うと、起きない可能性も20~30%あるということですが、オオカミ少年の話と同じで、この50年起きる起きると言われていて起きなかった大地震が、ついには起こるかもしれない。富士山も「大爆発」はしないまでも、この記事にもあるように、地震に連動して噴火する可能性は大いにあるわけです(科学というのも結構いい加減なものなので、昔は死火山として学校で教えられていたものがその後平気で噴火したりしているので、要は「安全な火山」なんてものはないということです)。そしてそうなると、ここに書かれているような深刻な事態になりかねない。僕はかねてこの電脳社会は危ないなと思っていますが、その弱点もモロに出て、二進も三進も行かないことになるのです。
これに再び原発のメルトダウン事故なんか重なったらその混乱はすさまじいものになるでしょうが、それは「ありえない」ことではなく、「ありそうな」話であるわけです。いっそ全部ブチ壊れないと、いつも外圧頼みのこの国は変わらないのではないかという気もしますが、原発事故だけは半永久的に広範囲にわたって人が住めなくなるので、勘弁してもらいたいものです。
これはオカルトですが、昔アメリカに「眠れる予言者」と呼ばれたエドガー・ケイシ―という人がいました。彼はトランス状態で依頼者の病気と治療法について語り、それは驚くほど的確で効果的だというので有名になったのですが、そのうち乞われるままライフリーディングというものを始めて、「アトランティス時代の前世」なんてものを語り始めて人をびっくりさせた(熱心なクリスチャンだったケイシー自身、生まれ変わりという考えに驚いた)のですが、その中で彼は「日本が海中に沈没する」なんて物騒なことも言ったようです(それはアトランティスの再浮上話とセットになっていた由)。最近再評価されているSF作家・小松左京の小説『日本沈没』はケイシーのこの予言にヒントを得て書かれたものだと言われますが、「1958年から1998年の間に起こる」と言われていたそれは、不発に終わりました(「起こる」というよりそれに向けた変動が「始まる」という意味だったのかもしれませんが)。もしもその通りになれば、「今は海中に没して跡形もないが、昔あのあたりの海原には清潔好きな国民をもつ、一時隆盛を誇ったジャパンと呼ばれた列島国家があったのだ」と、アトランティスほどではないが、伝説として未来の人類に語り継がれるものとなるのです。
「日本沈没」という言葉をメタファーとして解釈すれば、日本は1990年代初めのバブル崩壊以後「沈没」したと言えるので、当たっていたと言えますが、昔学校の地学か何かで習った造山運動に見られるように、ヒマラヤ山脈が元は海底だった(だから高い山なのに貝殻の化石なんかが見つかる)という話からも分かるように、地球規模の大きな地殻変動が起きれば、日本が海の藻屑と消えることも十分ありそうな話です。
うーん、諸行無常ですなあ、と感慨にふけっていられる立場では僕らはないはずですが、実際に日本が海中に没するというようなことになった場合には、世界の地理全体が激変しているはずなので、今の文明自体が終わって、どこかの辺境にごく僅か生き残った人類がまた一から出直すことになるのかもしれません。公式の人類史では直線的に未開から文明へと進んだことになっていますが、僅か数百年でこれほどテクノロジーが発達して社会が激変したことを思えば、現生人類が誕生してからだけでも20万年か30万年たっているそうなので、今のたかだか4、5千年の文明史に先立つ長期間、人類が大した変化をしなかったというのは不自然で、昔、『人類は三度滅んだ』というようなタイトルの本を読んだ記憶がありますが、何度か壊滅に近い状態に落ち込んでまたゼロからやり直さねばならなかったというのは大いにありそうなことです。僕はアトランティスのような高度な文明をもつ国家は実際にあったのではないかと思っていますが、かつての文明も袋小路的な状態に陥る中、争いになって、そのテクノロジーの致命的な誤用によって滅んだのかもしれません(ケイシーの語るアトランティス物語では、それが巨大地震を誘発した)。どうもヒトという生きものは、自分が自惚れているほど賢くないのです。
またまた脱線しましたが、対応によって大地震の被害は極力減らすことはできるでしょうが、惨事になるのは避けられない。個人レベルではそのときどんなところにいるかという運も関係するので、良寛ではないが、「病むときは病むがよろしく、死ぬときは死ぬがよろしい」ということに結局はなるかなと思います。長生きすればそれで幸せというものでもないのは、寿命が延びた今の時代を見てもわかります。からだがあちこち悪くなって、認知症が進み、医療のメンテナンスが徹底しているおかげでなかなか死ねないというのは難儀なことです。それで五年、十年、前の世代より長生きしたからといって、幸せだとは大方の人は思わないでしょう。なすすべもなく正体不明になった親の姿を見続けるのは、子供としてもつらいものです。
人間は何で死ぬかわからないもので、病気の場合も、事故の場合も、地震などの自然災害の場合もある。いつ死ぬかは予想不能で、結局のところ、一番いい心がけは、今をしっかり生きるということに尽きそうです。それでは刹那的な快楽主義になると批判されそうですが、のんべんだらりと生きているときの方がそうなりやすいので、ある程度覚悟を決めた人の方が真剣に日々を生きられるようになるようです。
大地震も、文明の崩壊も、今の僕らにとっては「今そこにある危機」です。昔の禅匠は、安逸に流れやすい弟子を戒めるのに、「無常迅速、生死事大」といった言葉をよく使ったようですが、ふつうの人もそう認識せざるをえない時代になったので、それは駄目駄目尽くしになりかけた今の日本人にはむしろプラスの効用が大きいかもしれません。
「コロナ程度でもこれほど右往左往している政治が、巨大地震なんか来たらどうなるんだ?」と心配している人が多いようですが、コロナがなくても、大地震が来なくても、急激な少子高齢化と活力の低下で、国家財政は火の車、労働生産性は先進国の最下位で、実質賃金は下がり続けて税金の類は上がるばかりという、昔「経済大国」と呼ばれたことが信じられないほど貧しくなっている国に住む人間としては、心配になるのは尤もです。思えばあの安倍長期政権は、日本版トランプのMake Japan Great Again 政権だったわけですが、異次元の金融緩和なるもので投機マネーをだぶつかせ、公金をおかしな具合に大量注入する「官製株価」システムを作って無駄に株価だけ上げたのと、戦前返りの日本会議的右翼思想を鼓吹しただけで、何の効果もなかったわけです(大学生の就職率アップも、とどのつまり団塊の世代の大量退職による“自然な”人手不足のおかげでしかなかった)。そのエピゴーネン政権の菅内閣と来た日には、目も当てられないことになっているわけで、出来の悪い「親の七光り」長男の違法接待事件だけよけいと言いたいくらいです(最近の各社の世論調査では不支持の方が多いとしても、支持率は下げ止まって40%弱あるようですが、一番多い支持理由が「他に人がいない」と「誰がやっても同じ」という諦めに満ちたものなのです)。
話を戻して、ほんとに地震は増えているのか? 次は最近の地震のついてまとめた記事です。図が付いていてわかりやすい。
・1週間の地震回数 震度4以上が3回 15日未明は和歌山県で震度5弱も
これを見ると、たしかに大きめの地震が増えているなという感じですが、僕が東京やその近県(埼玉や神奈川)に住んでいた頃(48~20年ほど前)は、震度3や4程度の地震は少なくなかった気がするので、にもかかわらず当時それほど騒がれなかったのは、地震学会のようなところが予測のようなものを出して警戒を呼びかけたりしていなかったからでしょう。僕は今でもよく憶えているのですが、1973年か74年初頭、ある霊能者が自信たっぷり日時を特定して、東京に直下型の大地震が来ると予言して、外れたら切腹するとまで言ったので、当時僕は高校を卒業して東京・新橋の新聞販売店で働きながら浪人していたのですが、そこまで言うのなら本当かも知れないと思って、24時間営業の喫茶店で本を読みながら待機していたことがあります。それは午前1時かそこらに起こると言われていたからです。
ところが微震すら起きず、そのまま徹夜して朝刊の配達に行ったのですが、その霊能者は夜逃げして行方をくらましたという話でした。何だかねえ…。また、元気象庁予報官という肩書の人が『富士山大爆発』という本を出して、『ノストラダムスの大予言』並にベストセラーになったことがあって、調べてみるとそれは1982年だったようですが、翌年「大爆発」するはずの富士山は静かなままでした(この時は僕も外れるだろうと予測していましたが)。
しかし、当時は「権威筋」が警告を発するということはなかったわけです。今はそのあたり様子が違っていて、「近いうちに必ず起きる」みたいな論調が支配的です。だからこんな記事も出る。
・南海トラフ地震が富士山噴火誘発したら… 首都機能は完全麻痺
「首都圏直下地震」の発生確率が「今後30年以内に70%」、「南海トラフ地震」でマグニチュード8〜9クラスの地震が発生する確率が「30年以内に70~80%」
ということになっていて、これはエセ霊能者や怪しげな御仁のヤマカン予測とは違うことになっているのです。逆に言うと、起きない可能性も20~30%あるということですが、オオカミ少年の話と同じで、この50年起きる起きると言われていて起きなかった大地震が、ついには起こるかもしれない。富士山も「大爆発」はしないまでも、この記事にもあるように、地震に連動して噴火する可能性は大いにあるわけです(科学というのも結構いい加減なものなので、昔は死火山として学校で教えられていたものがその後平気で噴火したりしているので、要は「安全な火山」なんてものはないということです)。そしてそうなると、ここに書かれているような深刻な事態になりかねない。僕はかねてこの電脳社会は危ないなと思っていますが、その弱点もモロに出て、二進も三進も行かないことになるのです。
これに再び原発のメルトダウン事故なんか重なったらその混乱はすさまじいものになるでしょうが、それは「ありえない」ことではなく、「ありそうな」話であるわけです。いっそ全部ブチ壊れないと、いつも外圧頼みのこの国は変わらないのではないかという気もしますが、原発事故だけは半永久的に広範囲にわたって人が住めなくなるので、勘弁してもらいたいものです。
これはオカルトですが、昔アメリカに「眠れる予言者」と呼ばれたエドガー・ケイシ―という人がいました。彼はトランス状態で依頼者の病気と治療法について語り、それは驚くほど的確で効果的だというので有名になったのですが、そのうち乞われるままライフリーディングというものを始めて、「アトランティス時代の前世」なんてものを語り始めて人をびっくりさせた(熱心なクリスチャンだったケイシー自身、生まれ変わりという考えに驚いた)のですが、その中で彼は「日本が海中に沈没する」なんて物騒なことも言ったようです(それはアトランティスの再浮上話とセットになっていた由)。最近再評価されているSF作家・小松左京の小説『日本沈没』はケイシーのこの予言にヒントを得て書かれたものだと言われますが、「1958年から1998年の間に起こる」と言われていたそれは、不発に終わりました(「起こる」というよりそれに向けた変動が「始まる」という意味だったのかもしれませんが)。もしもその通りになれば、「今は海中に没して跡形もないが、昔あのあたりの海原には清潔好きな国民をもつ、一時隆盛を誇ったジャパンと呼ばれた列島国家があったのだ」と、アトランティスほどではないが、伝説として未来の人類に語り継がれるものとなるのです。
「日本沈没」という言葉をメタファーとして解釈すれば、日本は1990年代初めのバブル崩壊以後「沈没」したと言えるので、当たっていたと言えますが、昔学校の地学か何かで習った造山運動に見られるように、ヒマラヤ山脈が元は海底だった(だから高い山なのに貝殻の化石なんかが見つかる)という話からも分かるように、地球規模の大きな地殻変動が起きれば、日本が海の藻屑と消えることも十分ありそうな話です。
うーん、諸行無常ですなあ、と感慨にふけっていられる立場では僕らはないはずですが、実際に日本が海中に没するというようなことになった場合には、世界の地理全体が激変しているはずなので、今の文明自体が終わって、どこかの辺境にごく僅か生き残った人類がまた一から出直すことになるのかもしれません。公式の人類史では直線的に未開から文明へと進んだことになっていますが、僅か数百年でこれほどテクノロジーが発達して社会が激変したことを思えば、現生人類が誕生してからだけでも20万年か30万年たっているそうなので、今のたかだか4、5千年の文明史に先立つ長期間、人類が大した変化をしなかったというのは不自然で、昔、『人類は三度滅んだ』というようなタイトルの本を読んだ記憶がありますが、何度か壊滅に近い状態に落ち込んでまたゼロからやり直さねばならなかったというのは大いにありそうなことです。僕はアトランティスのような高度な文明をもつ国家は実際にあったのではないかと思っていますが、かつての文明も袋小路的な状態に陥る中、争いになって、そのテクノロジーの致命的な誤用によって滅んだのかもしれません(ケイシーの語るアトランティス物語では、それが巨大地震を誘発した)。どうもヒトという生きものは、自分が自惚れているほど賢くないのです。
またまた脱線しましたが、対応によって大地震の被害は極力減らすことはできるでしょうが、惨事になるのは避けられない。個人レベルではそのときどんなところにいるかという運も関係するので、良寛ではないが、「病むときは病むがよろしく、死ぬときは死ぬがよろしい」ということに結局はなるかなと思います。長生きすればそれで幸せというものでもないのは、寿命が延びた今の時代を見てもわかります。からだがあちこち悪くなって、認知症が進み、医療のメンテナンスが徹底しているおかげでなかなか死ねないというのは難儀なことです。それで五年、十年、前の世代より長生きしたからといって、幸せだとは大方の人は思わないでしょう。なすすべもなく正体不明になった親の姿を見続けるのは、子供としてもつらいものです。
人間は何で死ぬかわからないもので、病気の場合も、事故の場合も、地震などの自然災害の場合もある。いつ死ぬかは予想不能で、結局のところ、一番いい心がけは、今をしっかり生きるということに尽きそうです。それでは刹那的な快楽主義になると批判されそうですが、のんべんだらりと生きているときの方がそうなりやすいので、ある程度覚悟を決めた人の方が真剣に日々を生きられるようになるようです。
大地震も、文明の崩壊も、今の僕らにとっては「今そこにある危機」です。昔の禅匠は、安逸に流れやすい弟子を戒めるのに、「無常迅速、生死事大」といった言葉をよく使ったようですが、ふつうの人もそう認識せざるをえない時代になったので、それは駄目駄目尽くしになりかけた今の日本人にはむしろプラスの効用が大きいかもしれません。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
ネットのニュースサイトで次の画像を見つけたとき、目が釘付けになってしまいました。どんなヴィジュアル・アーティストでもこれほどの“作品”を作ることは困難でしょう。記事は温暖化がチョウに及ぼす影響についてのものですが、写真のチョウの美しさの方に気をとられてしまう。
・チョウと温暖化、羽に隠された生存の鍵
下の部分は顔のように見えますが、全体に配色が絶妙で、いくら見ても見飽きないところがある。「造化の不思議」という言葉がありますが、たんなる偶然でこんなものができるとは思えない。これからは紅葉のシーズンですが、あれなんかも見事なもので、人間の美意識にぴったり合うというより、むしろ人間の美感が自然を通じて形成されるのです。プラトン流に言えば、美のイデアが自然を通じて表現され、それに接することによって魂が天上の光景を想起するとでも言えばいいのか。ガーダムはこの世のはかない美はあの世の美の摸像に他ならないと言っていますが、これもプラトンが言っていることとほぼ同じです。
僕は若い頃、よく絵を見に行きました。都会の良いところは自然が少ない代わり、美術館や美術展が多いことで、最初に見に行ったのはどこかのデパートで開かれた「泰西名画展」で、それはかなり大規模なものでしたが、そこで初めて見たレンブラントの自画像は今も記憶に鮮明に残っている。当時僕は十八歳で、新聞配達をしながら浪人している、いわゆる「実存的な」大きな不安を抱えた若者だったのですが、その自画像に惹きつけられ、その奥行きの深さに驚いて、写真では伝えられないものが絵画にはあるということを実感したのです。ああいう名画展のよくないところは、たくさん絵がありすぎて、それがかえって鑑賞を阻害することになってしまうことですが、それは仕方がない。
こういうこともありました。それは大学生の頃の話で、元バイト先の社長が大酒飲みで、土曜の晩、酒をごちそうになって、その人はまだ三十代の独身でしたが、すぐ上を高速が走る、世にも稀なオンボロアパートに住んでいて、二人で終電がなくなるまで飲んでいたので、そのアパートに泊めてもらった。朝になってあらためてそこの汚さには驚いたのですが、何で社長なのにそんなひどいところに住んでいるのかといえば、社員(学生アルバイトも準社員として好待遇を受けていた)をよく安くておいしい、行きつけの店に連れて行っていたのですが、全額自分のツケで支払っていて、その飲み屋のツケだけで毎月30万を超えていた(40年以上前の話です)。会社の交際費で落とすというようなセコいことをその人は嫌ったのです。それで、自分の住むところなんか寝に帰るだけだからどうでもいいということで、上の高速をトラックが通るたびに揺れる、今にも倒れそうな木造アパートに住んでいたのです。
このNさんという社長は北海道の田舎の出身で、高校卒業後、医者になって地元に戻り、貧しい地域医療を何とかしたいと国立医学部を目指して働きながら浪人していたが、夢が果たせず、その後職を転々としていたが、たまたまこの会社にいたところ、大赤字の同族企業で誰が社長になっても務まらず、あんたがやってくれないかと言われて、労働組合の設立という変わった条件をつけてそれを引き受け、八面六臂の活躍で僅か四年ほどで立て直して黒字に転換させたという人でした。つねに現場にいて陣頭指揮を執っている人で、この会社はこの人がいなければもたないだろうなと、僕のような学生アルバイトでも二、三週間もいれば気づくというほど有能な人でしたが、見た目はチビでやせていて、服装に構わずいつもランニング一枚でいるので、最初はシャチョーという声が飛び交うのを、変わった姓の人だなと思ったくらいですが、姓ではなく役職だったのです。いつもタバコのピース(ニコチン量がとくに多い!)を口に横っちょにくわえていて、大酒飲みと来ては、早死にを約束されたようなものでしたが、僕が今まで会った中で三本指に入る能力的にも人格的にもすぐれた人でした。しかし、その後、僕がやめてから二、三年後のことでしたが、社員重視でオーナーたちの言うことを聞かず、邪魔になるという理由で、社長を解任され、ヒラの取締役に降格させられることになる。倒産寸前のときは頼み込んでおいて現金なものですが、その傀儡社長は大卒ながら、僕も知っている無能な事務屋でした。
しかし、それは別の物語なので、詳細は省くとして、翌日の日曜、その人も絵が好きだったので、日本橋に絵でも見に行くか、ということになりました。そこは人形町で、日本橋までは歩いて行ける。二人ともかなりの距離を歩くのは平気だったので、最初はその社長お気に入りの山種美術館(今は広尾に移転しているようですが、山種証券が作ったもので、当時は日本橋の兜町にあった)に行って、昔の日本人画家の絵を見て、その後、流行の現代美術家の個展があるということで、そちらの会場に向かいました。山種美術館の方は閑古鳥が鳴いていたのに、こちらは大盛況なのにびっくりしたのですが、そのとき不思議だったのは、色彩は派手だが恐ろしく薄っぺらな印象を受けたことで、見ているときはそれほど強い感銘を受けなかった山種美術館で見た絵画群のよさがあらためて意識にのぼってきたことです。それは個人の好みで説明できるようなものではない歴然とした差異で、後でコーヒーを飲みながらそれを話すと、社長もそれには全く同感だったようです。ついでに山種美術館のサイトを見つけたので、貼り付けておきます。地味だが、いい美術館の一つです。
・山種美術館
具象画であれ、抽象画であれ、すぐれた画家の感性を育てるのもまた自然でしょう。その自然は、しかし、驚くべき勢いで破壊されつつある。美しい昆虫や鳥(熱帯雨林に最も多い)なども、それによって消えるか、上の記事にもあるような好ましくない変化を遂げることになるのです。日本の場合でいえば、昔は人々の目を楽しませてくれた美しい紅葉も、度の過ぎた人工林政策のためにすでに激減している(それは豊かな生態系も同時に失われたことを意味します)。前に弟と故郷の熊野古道に指定されているところを歩いていたとき、周りはいたるところスギかヒノキの森で、子供の頃とは風景が全く違うのに僕は驚いたのですが、「こんなところ、歩いてみたって何の面白みもない。四季の彩りはゼロで、緑の砂漠みたいなもんだよ」と弟が言うのに同感したものでした。木は売れず放置されているだけなので、昔のままなら貴重な観光資源になった原生林をただ破壊して、山崩れと花粉症患者を増やしただけなのです。何度でも言いますが、補助金をばらまいてむやみな植林を奨励し続けた政治家と農水省は少しは反省しろ。これも立派な自然破壊なのです。
自然が消えれば、その中の美しいものも消える。この前話題になったバッタの大量発生にしても、あれは温暖化も関係しているようですが、群生相になると体色も黒っぽくなり、体型も変わって全体に悪魔的になるのです。自然が健康ならそこに反映される美も鮮やかな透明度の高いものになるが、それが病むと美しいものはどんどん消えていく。海の美しいサンゴ礁の映像はいつも僕らの目を楽しませてくれますが、温暖化や汚染で、あと二、三十年で全滅する運命です。周囲の自然からそうして美しいものが消えて行ったとき、人間の美感や美意識はどのようなものになるのか、そもそも人はそれで正気を保てるのか、冒頭の美しいチョウの画像を見ながら、あらためてそんなことを考えました。
・チョウと温暖化、羽に隠された生存の鍵
下の部分は顔のように見えますが、全体に配色が絶妙で、いくら見ても見飽きないところがある。「造化の不思議」という言葉がありますが、たんなる偶然でこんなものができるとは思えない。これからは紅葉のシーズンですが、あれなんかも見事なもので、人間の美意識にぴったり合うというより、むしろ人間の美感が自然を通じて形成されるのです。プラトン流に言えば、美のイデアが自然を通じて表現され、それに接することによって魂が天上の光景を想起するとでも言えばいいのか。ガーダムはこの世のはかない美はあの世の美の摸像に他ならないと言っていますが、これもプラトンが言っていることとほぼ同じです。
僕は若い頃、よく絵を見に行きました。都会の良いところは自然が少ない代わり、美術館や美術展が多いことで、最初に見に行ったのはどこかのデパートで開かれた「泰西名画展」で、それはかなり大規模なものでしたが、そこで初めて見たレンブラントの自画像は今も記憶に鮮明に残っている。当時僕は十八歳で、新聞配達をしながら浪人している、いわゆる「実存的な」大きな不安を抱えた若者だったのですが、その自画像に惹きつけられ、その奥行きの深さに驚いて、写真では伝えられないものが絵画にはあるということを実感したのです。ああいう名画展のよくないところは、たくさん絵がありすぎて、それがかえって鑑賞を阻害することになってしまうことですが、それは仕方がない。
こういうこともありました。それは大学生の頃の話で、元バイト先の社長が大酒飲みで、土曜の晩、酒をごちそうになって、その人はまだ三十代の独身でしたが、すぐ上を高速が走る、世にも稀なオンボロアパートに住んでいて、二人で終電がなくなるまで飲んでいたので、そのアパートに泊めてもらった。朝になってあらためてそこの汚さには驚いたのですが、何で社長なのにそんなひどいところに住んでいるのかといえば、社員(学生アルバイトも準社員として好待遇を受けていた)をよく安くておいしい、行きつけの店に連れて行っていたのですが、全額自分のツケで支払っていて、その飲み屋のツケだけで毎月30万を超えていた(40年以上前の話です)。会社の交際費で落とすというようなセコいことをその人は嫌ったのです。それで、自分の住むところなんか寝に帰るだけだからどうでもいいということで、上の高速をトラックが通るたびに揺れる、今にも倒れそうな木造アパートに住んでいたのです。
このNさんという社長は北海道の田舎の出身で、高校卒業後、医者になって地元に戻り、貧しい地域医療を何とかしたいと国立医学部を目指して働きながら浪人していたが、夢が果たせず、その後職を転々としていたが、たまたまこの会社にいたところ、大赤字の同族企業で誰が社長になっても務まらず、あんたがやってくれないかと言われて、労働組合の設立という変わった条件をつけてそれを引き受け、八面六臂の活躍で僅か四年ほどで立て直して黒字に転換させたという人でした。つねに現場にいて陣頭指揮を執っている人で、この会社はこの人がいなければもたないだろうなと、僕のような学生アルバイトでも二、三週間もいれば気づくというほど有能な人でしたが、見た目はチビでやせていて、服装に構わずいつもランニング一枚でいるので、最初はシャチョーという声が飛び交うのを、変わった姓の人だなと思ったくらいですが、姓ではなく役職だったのです。いつもタバコのピース(ニコチン量がとくに多い!)を口に横っちょにくわえていて、大酒飲みと来ては、早死にを約束されたようなものでしたが、僕が今まで会った中で三本指に入る能力的にも人格的にもすぐれた人でした。しかし、その後、僕がやめてから二、三年後のことでしたが、社員重視でオーナーたちの言うことを聞かず、邪魔になるという理由で、社長を解任され、ヒラの取締役に降格させられることになる。倒産寸前のときは頼み込んでおいて現金なものですが、その傀儡社長は大卒ながら、僕も知っている無能な事務屋でした。
しかし、それは別の物語なので、詳細は省くとして、翌日の日曜、その人も絵が好きだったので、日本橋に絵でも見に行くか、ということになりました。そこは人形町で、日本橋までは歩いて行ける。二人ともかなりの距離を歩くのは平気だったので、最初はその社長お気に入りの山種美術館(今は広尾に移転しているようですが、山種証券が作ったもので、当時は日本橋の兜町にあった)に行って、昔の日本人画家の絵を見て、その後、流行の現代美術家の個展があるということで、そちらの会場に向かいました。山種美術館の方は閑古鳥が鳴いていたのに、こちらは大盛況なのにびっくりしたのですが、そのとき不思議だったのは、色彩は派手だが恐ろしく薄っぺらな印象を受けたことで、見ているときはそれほど強い感銘を受けなかった山種美術館で見た絵画群のよさがあらためて意識にのぼってきたことです。それは個人の好みで説明できるようなものではない歴然とした差異で、後でコーヒーを飲みながらそれを話すと、社長もそれには全く同感だったようです。ついでに山種美術館のサイトを見つけたので、貼り付けておきます。地味だが、いい美術館の一つです。
・山種美術館
具象画であれ、抽象画であれ、すぐれた画家の感性を育てるのもまた自然でしょう。その自然は、しかし、驚くべき勢いで破壊されつつある。美しい昆虫や鳥(熱帯雨林に最も多い)なども、それによって消えるか、上の記事にもあるような好ましくない変化を遂げることになるのです。日本の場合でいえば、昔は人々の目を楽しませてくれた美しい紅葉も、度の過ぎた人工林政策のためにすでに激減している(それは豊かな生態系も同時に失われたことを意味します)。前に弟と故郷の熊野古道に指定されているところを歩いていたとき、周りはいたるところスギかヒノキの森で、子供の頃とは風景が全く違うのに僕は驚いたのですが、「こんなところ、歩いてみたって何の面白みもない。四季の彩りはゼロで、緑の砂漠みたいなもんだよ」と弟が言うのに同感したものでした。木は売れず放置されているだけなので、昔のままなら貴重な観光資源になった原生林をただ破壊して、山崩れと花粉症患者を増やしただけなのです。何度でも言いますが、補助金をばらまいてむやみな植林を奨励し続けた政治家と農水省は少しは反省しろ。これも立派な自然破壊なのです。
自然が消えれば、その中の美しいものも消える。この前話題になったバッタの大量発生にしても、あれは温暖化も関係しているようですが、群生相になると体色も黒っぽくなり、体型も変わって全体に悪魔的になるのです。自然が健康ならそこに反映される美も鮮やかな透明度の高いものになるが、それが病むと美しいものはどんどん消えていく。海の美しいサンゴ礁の映像はいつも僕らの目を楽しませてくれますが、温暖化や汚染で、あと二、三十年で全滅する運命です。周囲の自然からそうして美しいものが消えて行ったとき、人間の美感や美意識はどのようなものになるのか、そもそも人はそれで正気を保てるのか、冒頭の美しいチョウの画像を見ながら、あらためてそんなことを考えました。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
今回の台風10号は超大型だというので早くから騒がれ、直近でも「特別警報」級扱いは変わりませんでしたが、風はかなり強かったものの、さしたる被害なくすんだのは幸いでした(僕がいるのは延岡ですが、朝の七時前には雨戸を戻した)。雨量も途中から台風のスピードが上がったおかげで、大したことがなくて済んだのです。九年前の紀伊半島豪雨のときなど、台風そのものは四国に上陸したのですが、動きが異様に遅かったために紀伊半島中心に豪雨が長期間続き、六日間の雨量が2000ミリに達するなどという「ありえない」ことが起きてしまい、洪水のみならず、山の深層崩壊という現象まで起きて、それが川を塞いで天然ダムが複数できた。今回は上陸せずに九州の西側をかすめるという「最悪のコース」(台風は東側で風雨が最も強くなるため)をとったので、どうなることやらと心配されましたが、この程度で済んだのは幸運でした。
ニュースでは全く取り上げられませんでしたが、気象衛星の雲の様子を見ると、朝鮮半島に早い段階から雲がかかりっぱなしで、台風はそのままそちらに進んだので、ふだん台風が来ることは少ない韓国や北朝鮮は、8、9、10号と三連発を食らったわけです。NHKのニュースでは、金正恩が「思いやり深い君主」を演出すべく「特別警戒」を指示しているというニュースがちょこっと出ていましたが、先に大雨と洪水で農作物に壊滅的な被害が出たという記事もあったので、アメリカ軍の情報によれば目下、潜水艦から発車するミサイル実験の準備を進めているそうですが、そんな余計なことしている場合ではないでしょう。経済援助の見返りに「核凍結」を約束しても、そういうのは平気で反故にする国なので扱いに困るが、また餓死者が大量に出るのではないかと、北朝鮮の庶民には同情せざるを得ません。うまくあの世襲独裁体制を潰して、ましな政治体制に移行させる方法はないものでしょうか? 今の韓国の文在寅政権では北朝鮮の現行体制の温存・強化に貢献するだけなので、難儀なことです。民間もそのムードに便乗して『愛の不時着』なんて荒唐無稽な「脳内お花畑作品」を作って悦に入っている始末だし、先が思いやられるのです(日本でもあれは『冬ソナ』以来の大ヒットになったそうですが…)。
話を台風に戻して、僕はふだんテレビそのものをほとんど全く見ないのに、なぜ「皆様のNHK」に高い視聴料を強制徴収されなければならないのか理解できないのですが、昨日は直近の台風情報を知るのに割とNHKをよく見て、それを見ながら思ったのですが、あの小学生か幼稚園児に言い聞かせているような口調は何なのでしょうか? 「高潮や氾濫の危険があるので、海岸や川に近寄るのは危険です」とか、「風が強くなってから、または夜になってから避難しようと外に出るのは危険です」とか、そういうことが危険なのはわかりきったことなのだから、視聴者を低能扱いしているとしか思えない。「命を守るために今すぐ行動して下さい」なんていうのも、状況を知れば、それが必要かどうかぐらいは自分で判断できそうなものです。今は、しかし、こういうふうにしないと、後で「注意喚起が足りなかった!」なんて非難されるのでしょうか? 中継アナウンサーの「危険を避けるためビル三階の室内から、窓からも離れてお伝えしています。外では木々が激しく揺れています(あの程度なら「激しく」というほどではないように見える)。今こうしていても恐怖を感じるほどです」なんていうのも笑えるので、そういうどうでもいいことばかり多くて、必要な情報はほとんどないのだから、いちいちそんな中継なんかしなくていい。台風の勢力やスピード、現在位置や今後の進路、今現在雨雲の分布がどうなっていて、それが今後どう変化しそうか、そういったコア部分の詳しい解説より、いらざる中継、能書きの方がはるかに多くて、「視聴料泥棒」の面目躍如という感じです。
今の日本はこういうのだから民度も低くて、安倍首相辞任会見で「病気なのに頑張っていたのか!」というので、支持率が一気に上がってこれまでの政策評価まで一変したり、次期首相が確実視されている菅官房長官については、その不透明な選出過程はどこへやら、「秋田の貧しいイチゴ農家出身で、上京してダンボール製造工場で働き、その後苦学して私学の夜間部を卒業」なんて“美談”ばかりが流され、いつのまにか「庶民の味方」であるかのようなイメージ形成が行われ、彼が安倍政権の番頭として不祥事隠蔽やもみ消しに奔走してきたこと、黒川検事長定年延長問題や、日本版カジノ推進、評判の悪いGo To トラベル前倒し実施の主犯であったことなどは、きれいに忘れられるのです。例のお粗末な公職選挙法違反で逮捕された河井案里の件にしても、通常の十倍に当たる1億5千万の選挙資金を与えられたのは、河井議員夫妻が安倍のみならず管のお気に入りだったからで、ロクな子分がいなかったりするのですが、そういうことには全く触れられない(ちなみに岸田文雄はこの件で思いきり「男を下げた」。自派の現職・溝手議員が落選したからですが、安倍からの政権禅譲を期待する彼は、安倍と一緒に案里の選挙応援に駆けつけたりしていたのです。地元自派の議員が落選しかねないのに、無節操にもほどがあると言われましたが、それでも溝手は落選しない――自民二人が議席を独占できる――と思っていたのだとすれば、よほど読みが甘いので、どういう見方をしても浅はかとしか思えない。これにかぎらず、彼は安倍におべんちゃらを重ねて「かんじんなときに筋を通せず、必ず判断を誤る」ダメ男の評価を確立し、昔はあった一般人気も台無しにしたのです。彼が安倍に気に入られたのも、与しやすく、自分が首相の座を去ってもその恩義につけ込んでたやすく操れる男と見ていたからでしょう)。
話が脱線しましたが、台風報道一つ取っても、いかにテレビが本質的な情報は少ない低レベルのメディアであるかがよくわかるので、政治報道なども同じような性質の「いらない話」ばかりが多くなって、センチメンタルな印象操作でどうにでもなる「民意」の形成に寄与することになっているのでしょう。イメージ操作にたやすく踊らされる「国民情緒法」の韓国を笑えない。あらためてそう思った次第です。
ニュースでは全く取り上げられませんでしたが、気象衛星の雲の様子を見ると、朝鮮半島に早い段階から雲がかかりっぱなしで、台風はそのままそちらに進んだので、ふだん台風が来ることは少ない韓国や北朝鮮は、8、9、10号と三連発を食らったわけです。NHKのニュースでは、金正恩が「思いやり深い君主」を演出すべく「特別警戒」を指示しているというニュースがちょこっと出ていましたが、先に大雨と洪水で農作物に壊滅的な被害が出たという記事もあったので、アメリカ軍の情報によれば目下、潜水艦から発車するミサイル実験の準備を進めているそうですが、そんな余計なことしている場合ではないでしょう。経済援助の見返りに「核凍結」を約束しても、そういうのは平気で反故にする国なので扱いに困るが、また餓死者が大量に出るのではないかと、北朝鮮の庶民には同情せざるを得ません。うまくあの世襲独裁体制を潰して、ましな政治体制に移行させる方法はないものでしょうか? 今の韓国の文在寅政権では北朝鮮の現行体制の温存・強化に貢献するだけなので、難儀なことです。民間もそのムードに便乗して『愛の不時着』なんて荒唐無稽な「脳内お花畑作品」を作って悦に入っている始末だし、先が思いやられるのです(日本でもあれは『冬ソナ』以来の大ヒットになったそうですが…)。
話を台風に戻して、僕はふだんテレビそのものをほとんど全く見ないのに、なぜ「皆様のNHK」に高い視聴料を強制徴収されなければならないのか理解できないのですが、昨日は直近の台風情報を知るのに割とNHKをよく見て、それを見ながら思ったのですが、あの小学生か幼稚園児に言い聞かせているような口調は何なのでしょうか? 「高潮や氾濫の危険があるので、海岸や川に近寄るのは危険です」とか、「風が強くなってから、または夜になってから避難しようと外に出るのは危険です」とか、そういうことが危険なのはわかりきったことなのだから、視聴者を低能扱いしているとしか思えない。「命を守るために今すぐ行動して下さい」なんていうのも、状況を知れば、それが必要かどうかぐらいは自分で判断できそうなものです。今は、しかし、こういうふうにしないと、後で「注意喚起が足りなかった!」なんて非難されるのでしょうか? 中継アナウンサーの「危険を避けるためビル三階の室内から、窓からも離れてお伝えしています。外では木々が激しく揺れています(あの程度なら「激しく」というほどではないように見える)。今こうしていても恐怖を感じるほどです」なんていうのも笑えるので、そういうどうでもいいことばかり多くて、必要な情報はほとんどないのだから、いちいちそんな中継なんかしなくていい。台風の勢力やスピード、現在位置や今後の進路、今現在雨雲の分布がどうなっていて、それが今後どう変化しそうか、そういったコア部分の詳しい解説より、いらざる中継、能書きの方がはるかに多くて、「視聴料泥棒」の面目躍如という感じです。
今の日本はこういうのだから民度も低くて、安倍首相辞任会見で「病気なのに頑張っていたのか!」というので、支持率が一気に上がってこれまでの政策評価まで一変したり、次期首相が確実視されている菅官房長官については、その不透明な選出過程はどこへやら、「秋田の貧しいイチゴ農家出身で、上京してダンボール製造工場で働き、その後苦学して私学の夜間部を卒業」なんて“美談”ばかりが流され、いつのまにか「庶民の味方」であるかのようなイメージ形成が行われ、彼が安倍政権の番頭として不祥事隠蔽やもみ消しに奔走してきたこと、黒川検事長定年延長問題や、日本版カジノ推進、評判の悪いGo To トラベル前倒し実施の主犯であったことなどは、きれいに忘れられるのです。例のお粗末な公職選挙法違反で逮捕された河井案里の件にしても、通常の十倍に当たる1億5千万の選挙資金を与えられたのは、河井議員夫妻が安倍のみならず管のお気に入りだったからで、ロクな子分がいなかったりするのですが、そういうことには全く触れられない(ちなみに岸田文雄はこの件で思いきり「男を下げた」。自派の現職・溝手議員が落選したからですが、安倍からの政権禅譲を期待する彼は、安倍と一緒に案里の選挙応援に駆けつけたりしていたのです。地元自派の議員が落選しかねないのに、無節操にもほどがあると言われましたが、それでも溝手は落選しない――自民二人が議席を独占できる――と思っていたのだとすれば、よほど読みが甘いので、どういう見方をしても浅はかとしか思えない。これにかぎらず、彼は安倍におべんちゃらを重ねて「かんじんなときに筋を通せず、必ず判断を誤る」ダメ男の評価を確立し、昔はあった一般人気も台無しにしたのです。彼が安倍に気に入られたのも、与しやすく、自分が首相の座を去ってもその恩義につけ込んでたやすく操れる男と見ていたからでしょう)。
話が脱線しましたが、台風報道一つ取っても、いかにテレビが本質的な情報は少ない低レベルのメディアであるかがよくわかるので、政治報道なども同じような性質の「いらない話」ばかりが多くなって、センチメンタルな印象操作でどうにでもなる「民意」の形成に寄与することになっているのでしょう。イメージ操作にたやすく踊らされる「国民情緒法」の韓国を笑えない。あらためてそう思った次第です。