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何のための教育?

2019.10.20.17:10

 タイトルを見て神戸市須磨区の公立小学校の「教師間いじめ」の話だと思った人がいるかもしれませんが、ああいうのは程度が低すぎて論外です。幼稚で品性下劣な、あの四人のクズどもは刑法の規定に即して法廷で裁き、「初犯」として執行猶予が付くでしょうが、有罪は認定されると思うので、懲戒免職にして、二度と教育に携わることがないようにすればいい。一罰百戒で、似たようなレベルの教師たちも「明日はわが身」と自然に行いを慎むようになるでしょう。その程度のけじめもつけられないようなら、教育委員会はない方がいい。

 今回論じるのは別の話で、先日こういう記事が出ていました。

中国人が「日本人のノーベル賞受賞」に大騒ぎする理由

 韓国も毎年大騒ぎしますが、国民性が違うせいか、その「騒ぎ方」の性質も微妙に違っていて、こちらの方が「ゆとり」があるようです。そこには素直な賞讃の気持ちがまずあって、日本に対する批判は批判として別に行う。「畜生、今に見てろ!」みたいなせせこましい悪感情が先行しているわけではない。共産党一党独裁の中国がいい国かどうかは問題で、今の「香港騒乱」でも、世界が注目しているから、いきなり戦車を出して制圧なんてことはできないが、本来は平気でそんなこともやりかねない国で、だから恐ろしいのですが、国民の全般的な気風としては大陸的なおおらかさのようなものがまだ残っていて、それがこういうところに表われるのかもしれません。

 これに先立って、次のような記事もありました。こちらでは「日本に代わって中国が台頭し、日本は五年に一度に対し、中国は毎年受賞者を出す」ようになるだろうという見通しが示されています。科学界でも今度は中国が存在感を示すようになるだろうというのです。これはデータに基づいた議論なので、かなりの信憑性がある。中国では、しかし、それをそのまま引用して舞い上がるというようなことはなくて(韓国ならそうなるでしょうが)、ああいうのは日本人の「低姿勢な」国民性によるものなので、額面通り受け取ってはならない、という捉え方をするのです。

日本人のノーベル賞が「急減する」絶対的理由

 それはともかく、今の日本で「今後受賞者が減る、またはいなくなる」理由として、多くの識者が指摘しているのは、研究費(とくに息の長い基礎研究に対するそれ)の減少と、研究者のポストの不足と身分の不安定化です。理系の場合、少なくとも有名大では企業に就職する場合でも、修士まで了えるのがふつうですが、優秀な学生が学者としての将来を悲観して博士課程には進まず、就職を選ぶケースが増えてきていると言われています。今回の吉野さんの場合は、修士終了後民間企業に就職した人ですが、企業も今は目先の利益を負うのに多忙で、先の長い、海のものとも山のものとも知れない研究にカネを出すことは少なくなっているでしょう。内部留保(いわば企業のヘソクリ)は増え続けているそうですが、貯めるばかりで使い方を知らないのです。経営者の質も昔とは違ってきて、懐の深さも、いい意味でのアニマル・スピリットもなくなっているのかもしれません。

 今回の吉野さんも京大の出身ですが、予算が多い東大より京大の方が強いのは、たぶんあの「自由の学風」と「放し飼い教育」が関係しているのでしょう。「変人比率」が高く、変人は世間的な栄達などには無関心なことが多いので、リスクはあっても面白そうだと思えば研究者の道に進む確率が高そうだから、研究環境の悪化にもかかわらず、今後も飛び抜けた研究者を京大は輩出し続けるかもしれない。尤も、安全志向の今の若者気質からしてそれも減っているかもしれませんが。

 ちなみに、吉野さんが就職したのは旭化成で、僕が今住んでいる延岡市は旭化成の企業城下町です。それと関連して、こんな新聞記事もありました。

吉野彰氏ノーベル化学賞「1歩も2歩も先を見ている」長年の交流の九大・岡田教授「講義に学生も刺激」

 一方、吉野氏が所属する旭化成は、宮崎県延岡市が創業の地だ。
 同市の読谷山洋司市長は祝福のコメントで、吉野氏がリチウムイオン電池の開発を進める過程で延岡市が関わっていたとして「いわば『メイド・イン・延岡』のリチウムイオン電池が誕生したことは延岡市民にとって大きな誇り。延岡の子供から化学者が多く生まれ、『第二の吉野博士』が誕生することを期待している」とした。


 記事の最後はそう締めくくられているのですが、僕は(最近はあまり書いていませんが)このブログで延岡の県立普通科高校の課外をはじめとする過剰な管理教育を批判してきました。これは延岡だけの問題ではなく、宮崎県、ひいては九州地区全体の問題で、最近は朝課外を廃止する学校が増えました(宮崎県でも延岡星雲高校は廃止した)が、非科学的で、慢性睡眠不足と健康問題を作り出すだけのアホなゼロ時限授業を、「前からやっているから」という理由だけで道理にかなった批判は全部無視していまだに続けているようなところから、自発性と創造力に富む天才が育つわけはないでしょう。むしろその芽を摘んでいる。

 考えてもごらんなさい。朝の7時半から退屈な授業が始まって、それが夕方4時か5時まで続き、1・2年はそれから部活で、下校時間は季節によって違うが、夜の7時か8時なのです。しかも、いりもしない宿題がどっさりあって、食事と風呂を終えてそれをやっていると夜中の1時になることも珍しくない。それでギリギリまで寝たとしても、6時半には起きるから、睡眠時間は5時間台になる(前に生徒に聞いたら、もっと少ないという生徒も何人かいた)。3年になって部活を引退すると、今度は夕課外というのが始まって、これが終わるのが夕方6時。そうすると、部活がなくなっても、学校に10時間半拘束されることになるのです。ブラック企業の社員さながらです。他に何をするゆとりもない。

 さらにこれに季節課外というのが加わって、本来四十日あるはずの夏休みなども十日あればいい方で、むろん夏休み課題という名の宿題が各教科たっぷり出ているのだから、まとまった休みなんてないに等しいのです。部活であちこち遠征や練習試合に飛び回っている生徒はなおさら。

 授業が啓発的な、素晴らしいものだというのならまだ許せます。しかし、大方は退屈極まりないものなので、この点は全国どこの公立でも大体同じでしょう。今の先生たちの名誉のために付け加えておくと、学校の授業というのは概して昔から面白くなかったのです。僕は高2のとき、これに対する名案を思いつきました(むろん、課外なんて余計なものはなかった学校です)。北杜夫の自伝小説だったか、菊池寛のそれだったか忘れましたが、昔の旧制高校生の中には「出席日数3分の2」を満たせば進級はできるというので3分の1サボることにしたが、計算を間違えて足りなくなって落第した生徒がいたという話を読んだのです。「これは使える!」と僕は膝を叩きました。要は計算を間違えなければいいのです。それで3年になったらそれを実行することにしたが、当時、遅刻・早退は3回で1日の欠席にカウントされていました(今は知りません)。その遅刻・欠席も、午前中全部サボって午後からだけ出ても一回の遅刻、逆に午前中だけ出て、午後は全部サボっても1回の早退なのです。これをうまく組み合わせれば、大学生並の時間割が可能になる! それでその通りやって、ギリギリ「3分の1以下の欠席日数」にまとめて落第を免れたのですが、そういうことをしたのも、退屈な授業を聞いているより、自分で好き勝手本を読んだり、当時は詩人志望だったので、ヘタクソな詩作に苦吟する方がよほど有意義に思われたからです(学校の定期試験は、クラス一の秀才に試験直前にノートを見せてもらい、レクチャーを受けながら各教科のヤマまで教えてもらったおかげで、難なく切り抜けた。総合点で負けた方がお好み焼きをおごるという賭けを毎回していて、当然ながら毎回僕が負けたので、イカ、ブタなど具が全部入ったミックスというやつを毎回おごらされたのですが)。

 高校生はこういう不良の真似をしてはいけませんが、昔からふつうの学校の授業は面白くなかったということです。僕では説得力がないが、もっと真面目な秀才が次のようなことを書いていたとなれば、話はまた違ってくるでしょう。次は東大名誉教授の上野千鶴子氏が高校生の時に書いたという文章です。

「高校教育は学問ではない」上野千鶴子が17歳の時に訴えたこと 寄稿文を発見

 うーん。やはり勉強嫌いの不良とは言うことが違うなという感じで、「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」ということわざを思い出させる文章ですが、学校の授業の何がどういうふうに面白くないかを、これは端的に語っています。上野氏と僕では世代がまた少し違いますが、高校生のとき会っていれば意気投合したかもしれない。うちの塾にも前に、思想濃厚少女(その子は中高一貫私立に通っていた)が来たことがあって、そちらの話で盛り上がってしまうので困ったのですが、途中で、受験勉強は自分でやるからテツガクだの心理学だのの話し相手をしてほしいと言い出し、しかし、親の手前そうは行かないだろうと思ったのですが、そのうちお母さんがやって来て、そうして下さい、回数も週2回から3回に増やして下さい、あの子は塾に行った後は元気になって、翌日は学校にも行くのですが、その後また休みがちになる。週3回にすると間がうまく埋まって休まなくなるので、ぜひそうして下さいということになって、たしかに受験勉強は勝手にやったらしく、ちゃんとしかるべき大学に合格したのですが、今の学校の授業というものには「学ぶ意味感」に応えてくれるものがないから、こういうことになってしまうのです。

「知識偏重」の入試があるからこれは仕方ないのだと言う人もいるでしょうが、あの眠たいだけのセンター試験は別として、英語などは、二次の個別試験となると内容的に非常に面白い英文が出ることが多いのですが、たまに学校の授業でそういう英文を取り上げても、その内容についての議論などは全く出ないらしいので、学校というところは、面白いものでも面白くなくしてしまう名人なのです。僕は文系ですが、大学生のとき理系の本をかなり読んで、高度な数式など出てくるとたちまちお手上げになったのですが、物理学にしても生物学にしても、これほど意味深い、面白いものだったのかと、そのとき驚いたのです。歴史もそうで、固有名詞と年号の暗記ばかりで、皆目面白くなかったが、詳しい歴史書を読むと人間の生きたドラマがあって非常に面白い(僕は受験では、年号は1929年の世界大恐慌だけ憶えていればいいというので、政治経済を選択したくらいです)。途中で、自分には通史の知識が欠けているというので、本屋に行って大学受験生用の詳しい世界史の通史を買って読んだりもしたのですが、要するに、どの科目もその本来の意義、面白さを伝えていないのです。僕は今でこそ、塾で英語を教えたり、翻訳したりしていますが、最大の苦手科目が英語だったので、これも独学なのです。高3になってから英語の勉強を始めたときも、学校の授業は完全に無視した。それくらい退屈なものだったので、あんなものなら授業を免除して、生徒に勝手にやらせた方がずっといいと思うくらいです。文法それ自体、あんなヘタクソな授業ではわかるようにならない。

 ノーベル賞の科学関係の受賞者だけでなく、過去の日本にはすぐれた文系の研究者も多くいたのですが、考えてみれば、そういう人たちは子供時代、学校がそんなに大きな生活の比重を占めていなかった時代の人たちです。放課後は腹いっぱい戸外で遊べただろうし(今と違ってサラリーマン家庭はそう多くなかったので、家の手伝いなどもさせられたでしょうが)、ある程度の年齢になって読書や調べものをするようになったときも、かなり自由にそれができた。要するに、管理されずに自由にやれる余地が大きく、そういうところから感性や行動力、「自分で考える力」も育ったと解釈できるのです。それが後の研究でも役立つ。金魚鉢の金魚みたいに、四六時中監視されていたのでは人間は成長できないのです。

 これは子供や若者だけではなく、今のオトナがすでにそうなっていますが、ロクに自分で考えもせず質問する人が多い。考えることが非常に安易で、すぐにハウ・ツー的な答を求めるのです。有名な論語に、「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」というのがありますが、日頃考えるべきことを考えず、悩むべきことを悩んでいないから、一度切り返されたらそれで終わりになってしまうような「自分の考え」(実際は何かの受け売り)なるものを口にしたり、「そういうことはある程度自分で考えてから質問しろよ」というようなことを訊いたりするのです。相手に答えてもらっても、よく考えていないからその意味がわからず、アドバイスとしての効力も乏しい。相手としては時間を無駄にされただけなのです。

 こういうのは、いちいちああしなさい、こうしろ、これはこんなやり方でしなさいと管理づくめで育ったことの弊害でしょう。規則や禁止事項も増える一方で、自分で判断して行動するということがなければ何をしでかすかわからない手合いも多くなって、自然にそういうふうになるのです。程度の低い人間に合わせて、規制もどんどん細かくなる。それを不自由だと不快に感じる感性もない。遊ぶ場合ですら、今の子供は戸外や自然相手の遊び方を知らないというので、オトナがわざわざそういう企画をして、子供たちはボランティアの人たちに道具を作ってもらった上に、それを使った遊び方まで教えてもらうのです。それで自分でもそれを作るようになるのならまだしも、これはもう飽きたから、何か他のものを作ってくれと言う。自分で工夫して何かするということがないのです。ふだん学校と部活、塾や習い事でスケジュールが埋まっていれば、そんなことしているヒマもないので、いつもは出来合いのゲーム機で遊ぶというより、「遊ばされて」いるだけなのです。

 教育ママパパたちも、「スマホや電子機器のゲームの使用時間は学力と反比例する」といったニュースを見ると、これは大変だとその使用を制限するが、大枠の「子供に対する過剰管理」は問題視しない。それで、東大生には小学生の頃から公文をやっていた子が多いと聞くと、新たにそこに入会を申し込むのです。ピアノがいいと聞くと、それも習わせなければならない。そうやって、子供の「自由な放課後」はどんどん失われてゆくのです。今はほとんど絶滅状態かもしれない。

 子供の遊びはむろん、時代によって変わります。僕は息子が小学生の頃、「全クリした!」と嬉しげに言っているのを聞いて、その言葉が可笑しかったので、それは何なのかときいたことがあります。「全部クリア」の意味らしく、ファミコンか何かで、モンスターを全部撃退すると、ヒーロー役のアバターがパワーアップし、それに伴ってゲーム自体がヴァージョンアップするとか、何かそういうことのようで、「うまくできてるな」と笑ったのですが、今の子供にはそういう遊びもあるわけで、一律にそういうのを禁止したのでは仲間づきあいもできず、時代にも適応できなくなってしまうでしょう。問題はバランスなので、近くの団地の階段の下か何かに秘密基地を作って、そこでダンゴムシを飼育しているとか、木登りをしていて誰かが枝ごと転落したとか、そういうのは昔風です。他に親が山菜取りや魚とりに連れて行くなどのこともありました。彼は山菜取りにはあまり興味を示しませんでしたが、魚とりには熱中して、日が暮れても帰りたがらないのには閉口したほどでした(あれも初めはつかまえやすいハゼなどから、だんだん対象がグレードアップしてゆくのです)。こういうのは、親がある程度遊べる環境を用意してやらないと今の子供には無理ですが、僕は今の学校の「家畜化」教育には反対だったので、「野生」を身につけさせるためにもそういうことは必要だと考えていました(中学になると野球の部活に熱中して、それ一色になってしまいましたが)。「文化的な」習い事などは何もさせなかった。学校のお勉強も、あんなものは落ちこぼれさえしなければいいのだということで、「家庭学習30分」が中学になっても変わらないというので母親はいくらか心配したようですが、一度も勉強しろなどとは言わなかったのです。

 むろん、わが子が将来ノーベル賞を受賞するなんてことはありえません。文系だし、小説家になることもないだろうし、経済学をやっているわけでもないからです。しかし、理系の子供でも、子供のときはしっかり遊ばせておいた方が、「ノーベル賞確率」は高まるのではありませんかね。ノーベル賞は稀な例としても、創意工夫の能力はその方が上がって、有能になるのではないかと思うのです。どんな分野でも「勝手に考える・やる」能力は大事だと思いますが、それは管理が行き届きすぎた今の教育空間では身につかないのです。

 だから、今の「日本からノーベル賞受賞者が出なくなる」という議論は、もっぱら大学から上の問題に集中していますが、その下の教育(家庭でのそれも含めて)がより心配な材料になるのではないかということです。

「学校化社会」という言葉があって、これはイヴァン・イリッチが指摘したことだったと記憶していますが、それで検索すると、ウィキペディアの「脱学校論」という項目が出てきて、

 脱学校論(だつがっこうろん、deschooling)は、イヴァン・イリイチの造語で、学校という制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為、すなわち学習者が内発的に動機づけられて独学する行動を取り戻すために、学校という制度的な教育機関を超越することである。つまり、教えてもらう制度、機構である学校から離れて、自分の学び、自分育てとしての学びすなわち独学を取り戻すことである。

 と書かれています。これに関する彼の訳本は今でも出ていて、アマゾンの『脱学校の社会』の内容紹介文には、

 現行の学校制度は、学歴偏重社会を生み、いまや社会全体が学校化されるに至っている。公教育の荒廃を根本から見つめなおし、人間的なみずみずしい作用を社会に及ぼす真の自主的な教育の在り方を問い直した問題の書

 とあります。「いまや社会全体が学校化されるに至っている」というのは本当で、自分で考え、その考えを行動に移して、社会にダイナミズムを作り出してゆく、という能力が失われつつあるのです。管理され、指示されるのが当然と思い、それを不快には感じず、むしろそうしてくれないと不安になる、というような社会になりつつある。ヒトラーみたいな全体主義の政治家にはもってこいの土壌が作られているのです。

 今では大学でも、「面倒見のいい大学ランキング」なんてものまでできていて、昔は四年間ほっといてくれるのが大学の最大の取柄だったのに、今は手取り足取り「指導」してもらうことを親や学生が大学側に求めるのです。大学の先生たちはシラバスなるものを作って、その通り授業をしなければならない。休講にしたらその分、補講をしなければならない。昔の学生の感覚からすれば全部「余計なお世話」に見えますが、今は大学も「高校化」したのです。中には「有意義な自由時間の使い方」を先生に質問する学生もいるかもしれない。

 もう今から三十年近くも前の話ですが、関西の某有名私大のOBから、最近うちの大学でこういうことがあったらしいという話を聞きました。ある教授が、今年はやけに学生の数が多いなと思いながら授業をしていた。この「多い」というのは、授業に出てくる学生の数です。登録している学生はたくさんいても、授業に出る学生は少ないのがふつう(昔は)なので、そう思ったのです(その先生は出欠を取っていなかった)。しかし、まあ、そのうち減るだろうと思ってやっていて、ゴールデンウイークになった。ここでガタッと減るだろうと思ったら、予期に反して、休みが明けてもあまり減った様子がない。それでその先生は板書している途中、不審に耐えかねてうしろを振り返り、学生たちに向かって「おまえら、他に行くとこがないのか?」とたずねたというのです。

 その教授の「不審」はその話をしたOBや僕にはよくわかった。どちらも大方の単位は試験だけ受けに行ってかすめ取った口だったからです。その教授も、学生時代にマメに授業に出た方ではなかったのでしょう。昔になるともっとひどいのがいたりするので、たとえば『日本のアウトサイダー』などの著作があった批評家の河上徹太郎は、東大経済学部の出身ですが、僅か四日しか大学に行かなかったという。盟友の小林秀雄との対談で出てくる話で、それを聞いた小林は「そんなにひどいのか!」と呆れていましたが、こちらもたまに行くときは大方、辰野隆教授にカネを借りに行くときぐらいだったので、その回数がいくらか多かったという程度にすぎない。昔はそれでも卒業できたが、今はそうは行かなくなったのです。それが喜ばしいことなのか、どうか。

 日本の大学は「入るのは大変だが、出るのはかんたん」だと言われていました。そのため、入ったときより出たときの方が馬鹿になっていて、こういうのではよろしくないから、アメリカ並に単位認定の厳格化をはかるべきだというので、変わってきたのでしょう。しかし、不良どももバイトや遊びに明け暮れていただけではなく、それなりに勝手に勉強もしていたから、皆が皆、馬鹿になっていたわけではないのです(読書量などは、昔の不良の方が今の真面目学生よりはるかに多かったでしょう)。とくに文系学生は、いかによけいなことをやるかにかかっていると言えるので、つまらない授業(失礼!)に出てそれをぼんやり聞いているより、勝手なことをやったり、仲間と議論を戦わせたりする方が勉強になるということもある。理系でも、アインシュタインなどは、実験の指示が書かれたメモをゴミ箱に捨てて、喫茶店に行って「思考実験」と称するものに耽っていて、そういうことが重なったから先生たちの覚えが悪く、就職も世話してもらえず、友人の親の伝手で特許局にやっとこさ就職でき、そこで仕事を手早く片付けてあの相対性理論のアイディアを練り、論文を書いたのだと言われています。権威が嫌いで、言われたことに忠実に従う真面目な秀才ではなかったから、当時の物理学常識からすれば「非常識」な発想も持ちえ、環境がどうでも、これと思ったことは徹底的に追求する執念をもっていたからこそ、それを結実させることができたのです(よく言われることですが、天才の特質はたんなる知能の高さにはない)。

 昔と違って今は大学の授業も素晴らしいのが多くなっているのかもしれませんが、劇的にそういうのが増えたということはなさそうだし、仮にそうであったとしても、それを本当に生かせるのは独学精神の旺盛な学生にかぎるでしょう。そしてそうなるには、あてがわれた栄養食だけで育つのではなく、「自分で餌を探す」楽しみと苦労を知っていなければならない。そういう人間はハウ・ツーも自分で工夫できるが、そうした野生の能力は学校及び学校的なものの外部で身につくので、十分な「自由時間と空間」を奪われた子供にそれを期待するのは難しいでしょう。

 今の時代は問題山積で、多方面で創造力と行動力が必要な時代になっているのに、むしろそうした能力を低下させるような教育システムになり、管理を強化しているのです。社会全体がイリッチの言う「学校化」に陥っている。文科省のいわゆる「考える力」というのは、そもそも「考える力」などではない。マーク方式を記述に変える程度では何も変わらないので、今度のセンター試験に代わる新たな統一試験にしてもそうですが、平板で眠たいだけの試験の本質は何も変わらないのです(英語の民間試験の活用など、ただ混乱の材料を増やしただけに終わっています)。

 要するに、創造力(想像力)も考える力もない、早く引退した方が世のため人のためというオッサン・オバハンが寄り集まって事態の悪化に手を貸しているだけの話で、賢いオトナなら、「余計なお世話をいかにして差し控えるか」を考えるでしょう。無能なオトナの特徴は「教えすぎないことの重要性」を理解しないことなのです。そして彼らは立身出世と社会適応に必要だからというのでシステムに従ってお勉強した人たちにすぎないので、十七歳の上野千鶴子が問うた「学問研究の意味」など考えたことすらない。だから教科指導を通じて「学ぶ意味」を生徒に実感させる能力も欠落しているのです。それがありさえすれば、子供は勝手に勉強し始めるのだということを彼らは知らない。

 僕が言いたいことは、要するにこういうことです。子供には、とくに小さい頃は腹いっぱい遊ぶ楽しさを体験させた方がいい。彼らはそれを通じて多くのことを学ぶので、それは学校の教科書勉強よりずっと大事なことです。次に、管理や指示が多すぎてはならない。そういうものやシステムに依存しすぎること自体が、自分で考え、判断し、行動する主体的な能力を減退させるのです。いわゆる「自明を疑う」能力は理系・文系を問わず、学問研究でも、社会改革でも何より重要なものであるとされています。それが新しい次元を切り開くからです。しかし、管理づめにされて育ったのでは、それは極度に困難なものになるでしょう。それがノーベル賞の対象であろうとなかろうと、感性のレベルで大きな発見への扉が閉ざされる結果になるのです。「社会全体の学校化」が進むと、どの分野でも革新的なブレイクスルーは起きなくなって、その社会は衰退し、やがて破滅してゆくしかなくなる。

 今の日本人はもっとそういうことを心配した方がいい。どんな分野であろうと、過去の偉人の伝記を調べてみれば、そこには彼らの「野生」を担保する要素が必ず発見されるはずです。そしてその野生が彼らの業績の中で重要な役割を果たした。ただの家畜ではなかったからこそ、彼らは偉人たりえたのです。これは、もしも文化や文明が完全に自然から切り離されてしまえば、それはインスピレーションや力の源泉を失って自動的・機械的な運動の中に閉じ込められ、暴走したり無力化したりして崩壊するしかなくなってしまうということを意味します。「内輪でうまくやる」ことしか考えられない小利口な人間ばかりになってはノーベル賞から遠ざかるのはもとより、社会そのものが立ち枯れの樹木のようになってしまうということです。

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校則をなくした校長先生の言い分

2019.04.11.18:27

 先日、面白い記事を見つけたので、ご紹介しておきます。

校則が消えた理由

 これは親御さんたちや生徒、最後に、いくら言ってもわからない頭のカタすぎる今どきの学校先生たちにも、必読の記事です。

 この校長先生のおっしゃることはいちいちご尤もという感じで、すべて良識にかなっていますが、学校というのはそれが最も通じにくいところなので、こういうことが公立中学で実現したというのは一つの驚きです(校長先生が10年変わらないというのも今は珍しい)。

 しかし、東京世田谷区の区立中だというところに、謎を解く一つの鍵があるような気が僕はしたので、ご存じかどうか、世田谷区の今の区長は元衆院議員の保坂展人氏で、保坂展人氏と言えば、かつて「内申書裁判」で有名になった人なのです。それはどういう事件であったのか、ウィキペディアの記事でかんたんにおさらいしておきましょう。

(麹町)中学在学中、当時世間を席巻していた学園闘争の影響を受け、「麹町中全共闘」を校内に結成。機関紙「砦」の発行やビラ配り、大学生ML派による集会への参加等、積極的な運動を行っていた。そうした学生運動をしていた事実について中学校での内申書に書かれ、高校受験の面接では面接官からの質問が思想にまつわるものに集中。受験した全日制高校は全て不合格であったため、東京都立新宿高等学校定時制に進学した(のちに同校を中退)。
 なお、自身が学生運動をしていた経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害されたとして千代田区と東京都を相手どり、国家賠償法に基づき、損害賠償請求訴訟を起こした。一審・東京地裁は慰謝料請求を認めたが、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、保坂側が敗訴。最高裁判所に上告したが、最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではないことは明らか」として上告を棄却した(麹町中学校内申書事件)。


 というものです。内申書にはどういうことが書かれていたかと言うと、

 担任教諭は内申書の「基本的な生活習慣」「公共心」「自省心」の欄にC評価(三段階の最下位)を付けるとともに、備考欄に「文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している」等の原告の学生運動に関する経歴を記述した。

 ということなので、担任の先生は半端でなくこの生徒(=保坂氏)を嫌っていたのです。「秩序」最優先の教師にはこの種の生徒は許しがたい。保守的な最高裁は訴えを退けましたが、保坂氏が受験した高校をことごとく落とされたのは間違いなくこの悪意ある人物評が関係するので、憲法の「思想、信条による差別」に当たるとするのがその後の通説的理解になっているはずです。サヨク嫌いの人たちは「そんな奴、落として当然ではないか!」と言うかもしれませんが、そういう人も「当該生徒にはネトウヨ的な偏向が顕著に認められる」と書かれて落とされたら、文句を言うでしょう。違いますか?

 ちなみに、今は内申書の開示請求ができるので、生徒の露骨な悪口を人物評価欄に書く教師はあまりいないはずです。それが可能になったのも、元はと言えば、この裁判が関係するので、これは明らかにその後の社会にプラスの影響を及ぼしたのです。

 保坂氏は僕と同世代(同じ1955年の生まれですが、早生まれの僕より学年は一つ下)ですが、中学でそういう活動をするというのは、早熟で多感な、頭のいい子だったからでしょう(幼稚な僕などはひたすら野良で遊んでいた)。昔はそういう政治少年もいたので、大学時代の僕のクラスメイトには、高校時代、中核派の活動家として政治活動をやりすぎて退学処分を受け、その後土木関係の飯場を転々としていたが、一念発起して大検(今の高卒資格認定試験)を受けて大学受験資格を取り、さらに勉強して25歳で大学に入ったというのがいました。えらくクソ真面目な男に見えたので、そんな過去があったとは思えないほどでしたが、のちに良き大人となる人にも、心の振幅が大きい十代の頃はそういう「逸脱」がありうるので、保坂氏や彼はその見本のようなものでしょう。保坂氏はその後政治家になったわけですが、そのクラスメイトは五年後、30歳で司法試験に合格し、検事を経てその筋では割と有名な人権派の弁護士になりました(僕が彼に関して憶えているのは、ふだんおとなしいし、毛色が違ってつきあいもあまりないのに、クラスの飲み会でからまれたことがあって、「今の法曹界にはおまえのようなアウトローが必要だ!」と耳元でがなり立て、熱心に司法試験の受験を勧められたことがあったことです。「おまえのようなアウトローが…」と何度も繰り返すので、僕はだんだん腹が立ってきました。アウトローというのは日本語に訳せば「無法者」です。おまえみたいな元左翼過激派の、退学処分を食らったような奴に無法者呼ばわりされる筋合いはない、と言い返したのですが、彼の目に当時の僕はどんなふうに見えていたのだろうと、今考えると可笑しくなります)。

 話を戻して、東京の世田谷区はその保坂氏が区長を務める地域です(2011年以降、現職)。だからリベラルと寛容の空気があって、こういう先生が、10年もの長きにわたって区立中学の校長を務めるなんてことも可能になったのではないかと思われたので、それは言及しておくだけの価値があると思って書いたのです。

 もう一つ、記事の筆者の前屋毅氏についても、この人は画面の右に出ていますが、『ブラック化する学校』(青春新書インテリジェンス)という著書がおありのようで、画面をクリックすると、好意的な書評が並んでいて、面白そうです。今は読まねばならない本がたくさんあって手が回りませんが、いずれ僕も読んでみるつもりです。皆さんもまだの方はぜひどうぞ。

心愛ちゃん虐待死事件に見る「亡国の兆し」

2019.02.08.02:39

 やっといくらかゆとりができたので、久しぶりに書きます。

「千葉女児虐待」「野田小4女児死亡」事件などとして連日ニュースで取り上げられているこの問題の恐ろしさは、そこにまともなオトナが一人も出てこないということです。モンスター・クレイマーを兼ねたイカレポンチのDV男を父親にもったがために、虐待の果てに殺されるしかなかったこの10歳の少女は、死ぬとき何を想ったのでしょう。ここは恐ろしい世界だ、どこに訴えても誰も助けてくれない。神様、あなたはどこにいるのですか?――そう思わなかったでしょうか?

 彼女はまず学校の、「ひみつをまもりますので、しょうじきにこたえてください」と保証されたいじめアンケートなるものに、家庭での度重なる虐待を訴えたわけです。以下はNHKのニュースサイト(2/1)からの引用。

 千葉県野田市で小学4年生の女の子が死亡し、傷害の疑いで父親が逮捕された事件で、亡くなった栗原心愛さんは、おととし11月、当時通っていた小学校で行われたいじめのアンケートに父親から暴力を受けていると回答し、担任に助けを求めていました。その直筆の回答のコピーを野田市の教育委員会が、1日、公表しました。
このアンケートには匿名でも回答できましたが、心愛さんは「栗原心愛」とみずから名前を記入していました。
 また、自由記述欄では、しっかりとした字で「お父さんにぼう力を受けています。夜中に起こされたり、起きているときにけられたりたたかれたりされています。先生、どうにかできませんか。」と書いていました。
 このほか回答用紙の欄外には、当時の担任が心愛さんから聞き取った内容として、「お母さんはみかたしてくれるが父は保護者だといって母のいうことをきかない。おきなわでは、お母さんがやられていた。きのうたたかれた あたま、せなか、首をけられて今もいたい」とか、「なぐられる 10回(こぶし)」などという書き込みも見られます。
 教育委員会は去年1月、父親からの強い要求を拒みきれずにコピーを渡していましたが、その際は担任が欄外に書いた記述は消したうえで渡したということです。
 今回、公表した理由について野田市教育委員会は「心愛ちゃんがお亡くなりになるという痛ましい事件が起き、父親が虐待を認めないなかで、心愛ちゃんの名誉のためには、心愛ちゃんの『いじめにかんするアンケート』の回答の写しを公表することが必要であると判断した」としています。


 全く、アホか…。「心愛ちゃんの名誉のためには」というノーテンキそのものの言い草にはつくづく呆れるので、父親にそのコピーを渡した時点で「ひみつをまもります」はあっさり反故にされていたわけです。しかも、虐待の主にそれを渡したというのだから、これ以上悪いことはない。
 
 アンケートを見て驚いた担任は、報告を上に上げ、校長や教頭もそれを知った。それはただちに市教委に伝えられた。そこで「県柏児童相談所は、回答内容などから虐待の可能性が高いと判断し、アンケートを行った翌日の11月7日から12月27日まで、心愛さんを一時保護した」(千葉日報1/31)。この辺までは問題がなかったわけです。

 しかし、児相や教委からの聞き取りに対して、父親の栗原勇一郎(41)は虐待行為を全面的に否定した。これはむしろ「ふつう」のことでしょう。「悪うございました」と素直に頭を下げるような人間なら、そもそもそんな非道下劣なことはしないはずだからです。

 にしても、虐待の当事者である父親にコピーを渡すなどという「絶対にしてはならないこと」をどうして彼らはしたのか? お役人の口癖は「規則ですから」です。それはこういうときにこそ使うべき言葉で、「規則ですからお見せできません」と言い張ればよかったのです。なぜそうしなかったのか、上記千葉日報の記事では、次のような「事情」によるのです。

 一時保護の解除後に行われた三者会談〔引用者註:1月12と15日、二回行われた〕で、勇一郎容疑者は出席した校長や担任、市教委職員らに「名誉毀損(きそん)」「訴訟を起こす」「異議を申し立てる」などと威圧的態度で主張。アンケートの閲覧と複写を要求し、「家族を引き離された気持ちが分かるか」「解除はもう暴力がないということだろう」などとどう喝したという。
 厳しい要求に押し切られるように市教委は児相に連絡せず、独断で渡した。担当者は「重篤な危機感がなかった。渡すことで(心愛さんに)どのような影響があるか引っかかったが、(父親の)恐怖で追い詰められていた。私の判断で、守れる命を守れなかった。取り返しのつかないことをした」と悔いた。


 この「担当者」、別の記事によれば、正式の肩書は「野田市教育委員会・学校教育部次長兼指導課長」なのだそうで、ただのヒラではない。一説によれば、校長の経験もあるいい年したおっさんなのです。勇一郎の恫喝がそれほど激しかったから恐怖に駆られてつい渡してしまったという話ですが、保身大事のお役人心理からすれば、「名誉毀損で訴える」だの「異議を申し立てる」だのと脅されると、仮にそうなった場合、責任を問われるのは自分なので、大変なことになるとパニックになったのでしょう。私の今までの順調なキャリアが…というわけです。一応親から聞き取りはした。父親は虐待はしていない(今後も当然しない)と言っているし、それは嘘に決まっているが、一通り形式的な順序を踏んだ対応はしたのだから、言い訳はできる。別の記事によれば、

 対応した校長や市教委職員はいったんは拒否。しかし、勇一郎容疑者らは三日後、「アンケートを両親に見せていい」との内容を心愛さんが手書きで記したとする同意書を市教委に示し、改めて開示を要求。「娘が書いた」との母親の説明を信じ、心愛さんに直接確認しないまま、市教委指導課の矢部雅彦課長らがコピーを渡した(東京新聞2/1)

 とされているので、本人の「同意書」もあることだし、母親も娘がたしかに書いたと言っているのだから、申し開きもできるのではないかと考えたのです。今これを渡しさえすれば、この恐ろしいモンスター・クレイマー(父親)から解放される…。たぶんその一心だったのでしょう。可哀想な子供のことなどはどこかへ消し飛んでしまったので、後になってから「私の判断で、守れる命を守れなかった。取り返しのつかないことをした」などと言っても全く無意味なのですが、フヌケ役人の悲しいさがで、そういうことになってしまったのです。

 この事件で深刻なのは、上の記事には「厳しい要求に押し切られるように市教委は児相に連絡せず、独断で渡した」とありますが、その「児相」、児童相談所もまた、甚だアテにならない存在だったことがその後判明したことです。どういうわけでか?

 千葉県野田市で小学4年生の栗原心愛さん(10)が死亡した事件で、柏児童相談所は5日に会見を開き、逮捕された父親が嘘の手紙を示した可能性を認識しながら心愛さんを自宅に返していたことを明らかにした。
「お父さんに叩かれたというのは嘘です。小学校の先生に聞かれて思わず言ってしまいました。お父さん、お母さん、妹にたくさんの迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。ずっと前から早く4人で暮らしたいと思っていました。児童相談所の人にはもう会いたくないので来ないでください。会うと嫌な気分になるので今日でやめてください。お願いします」
 心愛さんが書いたものとして、父親の勇一郎容疑者が柏児童相談所に示した手紙。手紙を見せた後、勇一郎容疑者は「これ以上家庭を引っかき回さないでほしい。これ以上引っかき回すようなことをする場合、児童相談所という組織としてではなく、職員個人として訴える。名誉毀損も検討している」と圧力をかけたという。児童相談所側は「この場で心愛さんを帰すことはできない」として、会議で検討することを伝え面会を終えた。
 柏児童相談所の二瓶一嗣所長は会見で「基本的には父親に書かされている可能性が高いと認識していた」と説明したが、面会が行われたわずか2日後の去年2月28日に、心愛ちゃんを自宅に戻すことを決定。そして、3月上旬に心愛さんは自宅に戻った。3月19日には児童相談所の職員が小学校を訪問し心愛さんと面会したが、心愛さんから手紙に関する決定的な事実を聞いたという。
「本児(心愛さん)が小声で『言っていいのかな?』と(児相職員に)話をしている。『親族に頼んで、お母さんしかいないときにアパートに連れて行ってもらったりしていた』と。そのときに父から母にメールがあり『本児にこういう手紙を書くように』と内容を伝えていて、本児がそれを見ながら書き写した」
 勇一郎容疑者から強要されて手紙を書いたことを認めていた心愛さん。児童相談所の担当者が「じゃあそこに書いてあったのは心愛さんの気持ちとは違う感じ?」と聞くと「でもお父さんとお母さんに早く会いたい。一緒に暮らしたいと思っていたのは本当のこと」と答えたという。手紙の内容への疑いが確信に変わってもなお、児童相談所は適切な対応をせず、その後も心愛さんと面会することなく対応を学校に委ねていた。(AbemaTIMES 2/6)


 時系列に沿って言うと、児相による「一時保護」は2017年の11月7日から12月27日まで、市教委がコピーを渡したのが翌2018年1月15日です。しかし、この記事では「去年2月28日に、心愛ちゃんを自宅に戻すことを決定。そして、3月上旬に心愛さんは自宅に戻った」とあって、それなら2017年12月28日から2018年3月上旬までの間、彼女はどこにいたのか、という疑問が出てきます。「市や親族らのサポートを得られる見込みになった」として一時保護は解除されたそうなので、親族の誰かに預けるかたちになっていたのでしょう。

 先の東京新聞の記事によれば、「同課は勇一郎容疑者にアンケートのコピーを渡したことを市上層部や柏児相に報告しておらず、周知したのは1月24日に心愛さんの遺体が発見された後だった」そうなので、市教委の課長らは「知られては具合が悪い」というのでアンケートを父親に渡してしまったことを隠し、児相はその重大な事実を知らず、その児相は児相で、「お父さんに叩かれたというのは嘘です」という心愛ちゃん自筆のそれが父親に書かされたものだという確信を得た後でも、何もしなかったのです。

 オトナの側のわが身大事の保身と事なかれ主義が少女を殺した。母親もその後逮捕されたそうですが、DV夫の完全な支配下に置かれていた彼女に、娘を救い出すことなどハナから期待できなかったはずで、今さら逮捕してどうするのだという気がします。

 にしても、この栗原勇一郎という男はサラリーマンだったそうですが、よくもこういう畜生以下のクズにサラリーマンが務まるものだと、それが僕には不思議なので、会社では全く別の顔を見せていたのでしょうか? DV男には外面(そとつら)のいい奴が多いと聞きますが、この男もそうだったのでしょうか?

 たしかにこういうきちがいは何をしでかすかわからないとしても、僕の経験則上、女性や子供に暴力をふるうような奴に喧嘩の強い人間は一人もいません。度胸もないので、甘やかされた座敷犬のように際限もなくキャンキャン吠えたてるだけです。だからビビる必要は何もないわけで、女性の場合は仕方ないとして、大の男が何人もいてこの程度の奴一人にも対抗できないというのは男の恥ではないかと思うのですが、いかがなものでしょう? つまらないことで事を構えるのはただの馬鹿ですが、かんじんなときには男はからだを張らねばなりません。別に殴り合いが強くなければならないということはない。「訴える」と息巻けば、「どうぞお好きなように。勝手にいくらでも訴えて下さい」と言ってやればよく、「何を!」ということで暴力を振るわれれば、もっけの幸い、警察に暴行届を出せばいいわけです。それで相手を刑務所にぶち込むことができる。別にそれで殺されるほどのことはないわけです。その程度の覚悟もなくてオトナが務まるか。

 この事件の場合、心愛ちゃんのからだのあざなど、虐待の証拠は十分にあった。最初のアンケートに書かれた内容が真実でないと疑う証拠は何もなく、逆に、父親が本人に書かせた文はどれも疑わしいものだった。DV父に虚偽の申し立てをするこういう腐れが多いことも、プロならよく知っていたはずです。だから事は十分にシンプルだったのに、面倒を避けたがる当事者意識のないオトナどもが問題をややこしくしただけなのです。そして一人の少女を見殺しにした。

 僕は長く塾商売をしていますが、塾内で子供同士のいじめを発見したときは放置したことは一度もないし、保護者から持ち込まれる学校をめぐるあれこれの相談(なかにはかなりとんでもないものも含まれる)にもいつも誠実に対処してきたつもりです。前に塾の生徒の一人が学校から塾に来る途中、コンビニで出くわした三人組のヤンキーにからまれて連れ去られるという珍事件が起きたことがあって、そのときは報せを受けて即座に救助に駆けつけた。塾は勉強を教えるところですが、塾生の身の安全を守る責任が塾にはあるので、それを忘れたことはないのです。仮に刃物をもった暴漢が塾に乱入するというような事件が起きれば、僕は命がけで生徒を守るでしょう。それは何も特別なことではなく、あたりまえの話なのです。

 話を戻して、「先生、なんとかできませんか」という心愛ちゃんのアンケートに対して、彼らはこう答えたということです。

「それはできないのよ。なぜって、君のおとうさんって、あれこれややこしい人で、僕ら公務員はみんなそういう人が苦手ですからね。『親権の侵害だ!』とか『訴える!』とか凄まれると、マスコミに被害者のふりして垂れ込まれたりすると責任を問われて困るって不安が先に立って、何もできなくなってしまうわけ。君のおとうさんが君に無理に書かせた文をもってきて、『この前のあれは嘘です。家に戻りたい』ってそこに書いてあったら、ふつうはそんなの信じる方が馬鹿だけど、信じたふりをして君を家に返せば、面倒なあのおとうさんの相手、もうしなくてすむでしょう? それで一応『必要な対応はした』って申し訳も立つし、他の仕事も色々あって忙しいから、そういうときはそうするのよ。君はまだ子供だからわからないだろうけど、オトナになると、とくに公務員になると、そういうふうにしないとしんどくてやっていけないのよ。君がそれで殺されるかも知れないと内心わかってても、今の世の中ってそういうものなのよ。だから期待されると困るので、ああいうアンケートなんかも、君らを助けるためにあるんじゃなくて、『ちゃんといじめや虐待を把握するためにやってます』って世間に向けてアピールすることが隠れたほんとの目的なんですからね。そういうオトナ世界の事情、ちゃんとわかってもらわないと…。正直なところ、君のおとうさんのような親をもった不幸な子供の場合、もうそれでおしまいなのよ。今度生まれ変わってくるときは、もっとマシな国と時代に生まれてくるよう、関係者一同陰ながらお祈りしています」云々。

 冗談ではなく、今の日本はそういう国になっているわけです。こういうクソみたいなオトナがやっていることを、子供たちはよく見ていて、自分もオトナになったらああいうわが身大事で他はどうでもいいというなおざり対応をするのが「ふつう」なのだと学習する。政治家先生の大嘘も、忖度役人の「記憶にございません」も、学校のいじめ自殺事件のたびに繰り返される「いじめとは認識していなかった」も、今回の不祥事も、根は同じなのです。

 どこに人間としてのハートや気概があるのか? こういうのはもはや人間の世界とは言えません。仏教には「六道輪廻」という考えがあって、僕らは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つのうち、今は上から2番目の「人間道」に一応いることになっているのですが、それはいつのまにか修羅と畜生、餓鬼の入り混じった世界に格下げされていて、心愛ちゃんの場合には、どこにもまともな対応をしてくれる人を見つけられず、地獄そのものと化していたのです。

 この分では、われらが日本民族が滅びる日もそう遠くはないはずです。そういう危機感が欠落したまま、やれ組織がシステムの欠陥がどうのといった呑気な「説明」をしている人が少なくないのは、それ自体が驚くべきことではないかと、僕には思われるのです。

 最後に一言。今どきの公務員は辻褄合わせの下らない書類仕事にばかり多忙になっているようですが、子供を守る仕事を任されながらそれができないのなら、たんなる月給泥棒なので、さっさと依願退職しろ! それが世のため人のためというものです。



「校則を守るのは当然」87.9%?

2018.10.09.14:15

 まずは、次の内田良氏のブログ記事をお読み下さい(こちらは図が省かれていますが、一ページで読めるので便利だと思ってえらびました。図も見たい方は記事の一番下の「この記事を筆者のサイトで読む」をクリックしてください)。

校門圧死事件から30年――理不尽すぎる「ブラック校則」の闇が深くなっている

 あの1990年7月の不幸な事件のとき、僕は勤務していた関東の某塾の月刊通信にコラムを連載していて、それについて「鉄製門扉の恐怖」と題して書いた記憶があるのですが、今考えると当時僕は35歳だったわけで、まだ若かったわけです。詳しい記事の内容は憶えていないのですが、そのクレイジーな校則と運営のあり方に驚き、事件以前にそのようなことが行われていたこと自体が異常であり、問題だと書いたのはたしかだと思われます。その点、今と考えはほとんど違っていないわけです。

 このブログには裁判で有罪判決を受けた教師の手記の一節が紹介されています。

「私ははっきり言って校門事件当時は、校門を閉鎖して遅刻生徒を取り締まることは正しいと信じて疑わなかった。しかしこうして尊い生徒の生命が失われてみると、他に方法はなかったのだろうかと考えさせられることがある。(略)当時そんなことを考える余裕は私にはなかった。気がつくとそういうシステムの中に嵌め込まれ、そうすることが教師として当然の義務のように思い込まされてきた。(略)私は決められたことを忠実に実行しただけであった。」――『校門の時計だけが知っている』(草思社、1993年、240-241頁)

 何かナチスの裁判で、強制収容所の運営に当たっていた職員の釈明を読まされているかのようです。実際、彼らも同じようなことを言ったのです。自分はきまりに、上からの命令に忠実に従っていただけで、私自身に判断が委ねられていたわけではない、従って、私に責任はない、というアレです。

 今でも大学生の就職面接などでは、「あなたは理不尽なことにも耐えられますか?」なんて訊かれることがあるそうで、そういう場合は「はい、大丈夫です」が“正解”のようですが、そこで「『理不尽』って、それはどういう種類のものを指して仰ってるんですか?」と面接官に逆質問して、議論になって相手をやり込めたりすると、落とされるのでしょう。稀にジャーナリズム関係では、それが評価され、「君は面白い」と内定がもらえることもあるかもしれませんが、それは相手が相当懐の深い人物の場合にかぎられるので、あくまで例外でしょう。

 校則に話を戻して、その規定と運用はあくまで「合理性」のあるものでなければなりません。上の事件の場合、「登校時の遅刻取り締まりのために、校門付近で教師3名が指導をおこなっていた。『○秒前!』とハンドマイクでカウントダウンしながら、午前8時30分のチャイムとともに、1人の教師が鉄製の門扉をスライドさせて閉めようとした。そこに、女子生徒1人が駆け込んでいった。教師は気づかずに門扉を押していったため、女子生徒は頭部を挟まれ、死亡する結果となった」わけですが、「間に合わなければグラウンド2周のペナルティが科せられる」ことになっていたので、その女子生徒は必死だったのです。

 そもそも何でそんな奇怪な「指導」が行われていたのか、当時僕はそのこと自体に驚いたのですが、「鉄製の門扉」を閉めるようなことこそしていないものの、今でも高校では教師たちが校門付近で遅刻の見張り番をしている光景は珍しくないようです。当地の普通科高校の場合だと、朝課外というのがあるので、それは7時半かそこいらでもっと時間が早いのですが、遅刻すると教師に問責され、嫌味を言われたりするのです。そういう過剰な管理は、僕の世代だと経験した人は稀だと思います。小中高通じてです。

 今では小学校などでも、登校すると校長先生が校門の前に立っていて、「おはよう」と生徒一人一人に声かけをするなんてことがあるそうで、そういう場合、その校長先生は「教育熱心な、優しい先生」だと保護者からも高い評価を受けるのです。いちいちそんな面倒なことまでやる必要はないだろうと薄気味悪く感じるのは、年配のオヤジにかぎられるということなのかも知れません。僕が校長なら老子風の「無為にして化す」をモットーに、ふだんいるのかいないのかわからないようにしておいて、問題が起きた非常事態にだけ登場し、迅速果敢な行動によって速やかに問題を解決に導くよう努めるでしょう。教師全般に言えることですが、今はその逆の、ふだんはあれこれ口やかましいが、問題が起きるとそれから逃げて、隠蔽しか能がなく、かんじんなときは何の役にも立たない、という学校管理者がいくらか多すぎやしませんか。力の置き所がずれているのです。

 話を戻して、僕がこの内田氏のブログを読んで一番ショックだったのは、後半部分です。

 興味深いデータを一つ紹介したい。
 福岡県の高校2年生を対象に、2001年、2007年、2013年と3時点にわたって実施された調査の結果である。「学校で集団生活をおくる以上、校則を守るのは当然のことだ」という質問への回答は、3時点で大きく変化している【図2】。
 全体(男子・女子)の傾向として、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という肯定的な傾向が、2013年では87.9%に達している。大多数の生徒が校則を守ることは当然と考えている。しかもそれは2001年の68.3%から、約20%もの大幅な増加である。さらには「どちらかといえばそう思う」はほとんど変化がなく、「そう思う」というより積極的な回答が増えている。
 この結果を踏まえて今日の中高生における校則への感受性を想像すると、複雑な思いになる。なぜなら、非合理または理不尽な校則が今日も通用している一方で、生徒らはそれらの校則を守るべきと考えている可能性が見えてくるからである。


 どうしてそうなるのか、その「理由」についての考察は見当たりませんが、小中学生ならともかく、調査対象になっているのは、自主的な判断能力がもてるようになっているはずの年齢に達した高2の生徒たちです。これは管理する学校の側から見れば、「望ましい」ことでしょう。それは内容についての是非を問わず、「規則だから受け入れる」という態度の伸長を示すものだからです。

 少なくとも当地の高校の先生たちを見ているかぎり、システムに埋没して旧習墨守に陥り、常識的な個人としての判断力に基づいてそれを再検討し、改めるべきは改めようという姿勢をもつ人は非常に少ないように思われます(これは校則ではないが、課外制度などもその一つです)。僕はそれを、元々学校の先生になりたがるような人は個が貧弱で、それを組織にもたれたかかることによってカバーしようとする(従って「集団統制」的なものに初めから親近性がある)心性の持主が多いからなのではないかと疑っている(塾の生徒を見ていても、思考の自由度の高い生徒が教員を志望することはめったにない)のですが、学校の管理強化が進む中、中は典型的な「タコツボ社会」になっていて、こんなことを言うと「失礼な!」と叱られそうですが、ナチズム的順応性が高い世界になっているのです。

 昔は、ことに高校レベルになると、個性的な面白い先生がかなりいました。そういう人には「なり損ね」が多くて、パイロットになり損ねて仕方なく物理の先生になったとか、作家になり損ねて現国の先生になったとか、そういう先生たちは頭もよくてゆとりがあり、悪ガキの突っ込みにも柔軟な臨機応変の対応ができて、「これは相手の方が一枚上だわ」ということで、かえって生徒を承服させることが多かったものです。

 上記の「校則は守るのが当然」という回答の増加は、早い段階から管理統制が進む中、生徒もそれに取り込まれて、管理への順応が進んだ、ということなのかも知れません(「管理」と「保護」は違いますが、そこらへんの区別もついていない)。僕は学校の入学式や卒業式で君が代を歌わされたという経験は一度もなく育った人間ですが、今はそれが当たり前で、「何で君が代を歌わされるのが問題なんですか? あれは国歌ですよ」なんて言う生徒もいますが、僕らのときは学校の校歌だったので、それすら僕はロクに憶えていませんでしたが、国歌であれ、校歌であれ、全員起立して斉唱するなんてのは僕の趣味には合わないので、そういうのに「感動」したためしはないのです。むしろそういうありようには居心地の悪さしか感じず、「早く終わってくれ」としか思わなかった。これは生まれつきの感受性のようなもので、集団の名において何か統制的な行動を強いるとか強いられるとかするのが嫌いなのです(北朝鮮のマスゲームのようなものは見ただけで寒気がする)。当然ながら、集団で行う大がかりな宗教的な儀式の類も好まない。その「神聖な荘厳さ」に感動するというようなことはないので、それはバッハのミサ曲を好むというようなこととは別に矛盾しないので、そちらは大丈夫なのです。あれはもって回った仕掛けによる統制とは何ら関係がない。

 そういう個人的な好みで他を断罪するな、と言われるかもしれませんが、今の日本人は今少し集団というものに用心した方がいい。人間は群れる動物、社会的動物なので、組織や集団なしに社会生活は成り立ちません。だから僕はそういうものを否定する者では決してないのですが、集団というのはその性質上、個を無化したがる強い傾性をもっています。だから統制を強めすぎると、健康な個が育たなくなり、それが集団の暴走や圧政に結びつきやすくなるのです(そういうものにブレーキをかけるのはつねに健康な個人だということは説明せずともおわかりでしょう)。かつての「愛国」は「鬼畜米英」とセットになっていたし、今のネトウヨの「愛国」は「中韓敵視」とセットになっている。大きな戦争が起きればジ・エンドの、またボーダーレスになっている今のこの時代、どうせ教えるなら「愛地球」を教えればいいので、よきコスモポリタン(地球市民)を増やすことこそ望ましいことでしょう。今さら学校で君が代や日の丸を強制するというのは何のためなのか? 問題は、教師も生徒もそういうことは何も考えずにそうしていることで、無考えにそういうものを受け入れることと、理不尽な校則にも無感覚になって、「とにかくきまりは守らなきゃ」ですませてしまう安易さは根本で通底しているように思われるのです(冒頭の記事では「下着の色が決められている」なんてものまであるとされていますが、そういうのはヘンタイが作った校則としか思えないので、完全なビョーキです。「私は白しかはかないからかまわない」と言う生徒は、問題の所在がどこにあるのかわかっていないのです)。

 今の子供には反抗期がない、とよく言われます。そのこともこれには関係しているかもしれないので、オウムの幹部たちの多くはこの「反抗期のない子供」でした。反抗期がないと手がかからず、従順で、親や学校の教師には好都合ですが、オウムの幹部たちは麻原に逆らえなかっただけではなく、麻原の烈しい社会憎悪と無意識で共振する部分を内部にもっていて、無自覚なだけにそれがいっそう危険なものになったと見ることができます。今のブラック企業の社員たちも、会社には逆らえず、その理不尽に耐えながら、ネットに中傷の投稿をしてうさ晴らしするしか能がないという人がかなりいそうです。

 むろん、これは昔と比べて子供に理解のある親が増えたということもあるかも知れません。僕自身は型のごとく、自分の父親と対立し、顔を合わせるたびに喧嘩になっていたのですが、高校を卒業して上京する前夜、「人に逆らうな。とくに目上の人に」という訓戒を与えられ、それにカチンと来て、「別に好きで逆らっているんじゃない。下らんことを言う奴がいるからだ」と答えて、「それが悪い!」とまた叱られたのですが、自分の息子とは幸いそういう関係にはなりませんでした。彼は母親とは小学生の頃から派手な口喧嘩をよくやっていて、「お母さんは意味わからん!」で始まるそのやりとりは見ていて面白く、この前はこう言っていた。その前はこう言った。今度はまた別のことを言っていて、その間の連絡が何もなく、相互に矛盾しているということをロジカルに指摘するのです。痛いところを衝かれた母親は、「まあ、この子は何て性格の悪い、恐ろしい子なんでしょう。そんな大昔のことまで憶えているなんて!」と憤慨し(「大昔」といっても、僅か数ヵ月前のことでしかないが、子育てに多忙な母親はそんなことは忘れているのです)、そのへんまではいいとして、「あんたのそういう素直でない、邪悪な性格はお父さんに似たのよ!」と突然火の粉が降りかかって来たりするから困るのです。息子は物忘れが激しく、どこかに出かけて忘れ物をせずに帰るということの方が稀だったので、母親としては心労が絶えなかったのですが、それは明らかに父親からの遺伝なので、そのあたりは一緒に謝罪するしかありませんでした。そういう役回りで、父親から「勉強しろ」と言われることもない(彼は祖母から自分の父親がどんなに「勉強しないダメな子」だったかを詳しく聞いていたので、言っても説得力がなかった)し、父子の対立は少なくてすんだのです。

 大体が、今の父親というのは昔と違って家父長的な権威はもっていないので、それだけ子供としては反抗する理由も乏しくなっているわけです。それも反抗と言えるほどの反抗を子供が見せなくなった理由の一つかも知れず、それなら「進歩」と言えるが、それ以上のものがそこにはあって、波風が立つことに子供が本能的な強い恐怖を抱くとか、親の反応が暖簾に腕押しで、「言っても無駄」だと思うから子供が何も言わなくなったということになると、明らかにそれはよくない兆候です。学校の校則の類も、生徒から話を聞いていると、「たしかにそういう教師が相手だと言うのもアホくさくなるだろうな…」という印象を受けることが多いので、習い性となって、とにかく現にあるものは受け入れた方がエネルギーのロスがなくていい、という心理になり、それでは仕方なく諦めているということになって、それを認めるのは嫌なので、心理学でいう合理化機制が働いて、「積極的に受け入れている」と思いたがるようになり、それがそうした調査結果にも反映している、ということなのかも知れません。

 何にしても、それは好ましい兆候ではないという点で、内田氏と僕の見解は一致します。以前内田氏は誰かとの対談で、今のブラック企業の増加は、それに抗えない若者の増加とも関係しているので、そうなってしまう大きな理由の一つはあの学校の部活(今のそれはブラック度が高くなっている)にあるのではないか、ということを話していたように記憶しています。僕もそういう因果関係はありそうに思うので、今の子供たちのこういう「長い物には巻かれろ」式メンタリティが強化されると、それはブラック企業の支えとなるだけでなく、先々危険な国家統制にも唯々諾々と従い、そうしない人間を「非国民」呼ばわりして攻撃するようなことにもなりかねないと危惧するのです。彼らはそれを「集団の和」という言葉で正当化し、それを一種の「道徳的罪悪」として弾劾するようになる。頭からの校則肯定と同じで、その内容の是非は問わない。それを無視したり、逆らったりすること自体が罪悪視されるのです。

 むろん、僕はそれが杞憂であってほしいと願います。しかし、国家主義丸出しの統制好きで、イエスマンばかり集めたがり、批判する人間には権力を乱用して容赦のない圧迫や嫌がらせを加える安倍政権がこれほどまでに“肯定的”に扱われて(若い世代の支持が最も高い)、最長不倒内閣になるというのは、そういう不幸な未来を暗示するものであるかのように感じられるのです。

そういうことに無感覚であることは、いずれ自分の身に跳ね返ってくる。「こういうきまりになっているから」と、その「きまり」それ自体が何のためにあるのかには頑なに答えようとせず(そもそもちゃんと考えたことがないので、明確な答となるものをもっていない)、それが不当なことであるという自覚もなく、反対は組織権力で抑え込もうとする学校の教師を、子供たちは絶対に見習ってはいけません。それは個としての自殺であり、そういうことの果てにやってくるのは、詩人ポール・ヴァレリィの予言した「巨大な蟻塚」に似た非人間的な統制社会でしかないのです。そのときに「しまった!」と思っても、もう遅い。それだけは忘れないようにしてもらいたいと思います。


嘘つきほど「道徳」を説きたがる

2018.10.07.13:08

 英語にモラライザー(moralizer)という言葉があります。文字どおりには「道徳を説く人」で、英和辞典には「道学者」という訳語が添えられていることが多いのですが、要は「お説教屋」です。政治家にはstatesman と politician の使い分けがあって、後者には侮蔑的なニュアンスがある(だから「政治屋」と訳したりする)が、この moralizer にも同種の響きがあります。試しにこれをネットで検索してみると、moralize の説明として、

to tell other people your ideas about right and wrong behavior, especially when they have not asked for your opinion(他人に、特にそれを求められてもいないときに、行動の善悪についての自分の考えを説くこと)

 というのがあって、when 以下がゴチックで表示されていて、この言葉はnegative connotation をもつと書かれているので、僕だけの主観ではないことがわかります。

「教育勅語には普遍的な価値がある」なんてことを言い、学校の道徳授業で使わせたいという保守政治家の先生たちはこの典型です。別に教育勅語を持ち出さなくても、正規に道徳という科目まで設けて、子供たちに道徳についての能書きを垂れないと気がすまないというのは全部この類でしょう。「いや、今の子供たちは、家庭の教育力が落ちていて、ほんとにひどいのがいるんですよ」と反論する先生たちもいるかも知れませんが、学校の教師というのは他方で平気で嘘をついたり、自己欺瞞が甚だしかったりするので、結局のところは、「道徳というのは、自分のことは棚に上げて偉ぶって見せたり、他人を非難するために使うものだ」ということを実物教育する結果にしかならないのです。それで世の中がよくなったら、そちらの方がよっぽど不思議です。

 実際、サイコパスや自己愛性人格障害の人間は、しばしばこの通りのことをします。他者をそれで非難し、弱らせ、支配するための道具として使うのです。僕はそういう人間を何人も知っています。彼らは超がつくほど利己的で、ハートが全くない(病的な自己愛の延長としてペットを溺愛したりはする)ので、言葉の真の意味で「不道徳」なのですが、そんな自覚はまるでない。彼らは自分を「道徳的」に見せることには熱心なので、ご本人が言うことだけ聞いていると立派な人に見える。しばらく前に足立朱美の事件がありましたが、実の父親と弟を謀殺しながら、彼女は「親孝行娘」「弟思いの優しい姉」を熱心に演じ、自作の怪文書(結局それで墓穴を掘ることになった)でそれを強調したのです(一方で、自分の犯行を疑った弟の妻の「不道徳性」を激しく罵りながら)。

 今の自民党や日本会議に連なる文化人先生方が推奨する「道徳」に、最も敏感に反応し、肯定するだろうと思われるのは、足立朱美のような人間です。彼らは知識的にはそうした「道徳」に欠けるところはない。むしろ熱心なその提唱者でもあるのですが、中身はそれとは全く別なのです。ネットで他者の揚げ足取りに熱心になり、「正義」を装って「道徳的弾劾」にふけるのも、足立朱美のように殺人まで犯すことはないでしょうが、精神構造的には似たタイプの人たちでしょう。

 しばらく前に、僕はある人が歴史的人物を引き合いに出し、「正直」や「胆力」等々の精神的美徳について能書きを垂れているのを見て呆れたことがあります。僕はその人物の内実をよく知っているので、「それって、あなたに欠けているものばかりでしょ?」と思わず突っ込みを入れたくなったのですが、何らかの権威を引き合いに出して、その尻馬に乗って無用なお説教を垂れるのはその人の得意技なのです(そういうふうにしておくと、それは間違いだと指摘された時でも、「いや、あれは紹介しただけで、私が言っていることではありません」と言い訳できる)。僕はそれを一種の病気とみなしていますが、世間の評価や名声がほしくて、虎の威を借りて無責任な能書きを垂れたがる悪癖は治らないようです。

 この前、ここにソギャル・リンポチェのスキャンダルについてのかなり長い英文記事を翻訳紹介しましたが、彼などもそのひどい内実が知られていないうちは、「悟ったチベット仏教のグル」、いわゆる spiritual teacher として西洋で大きな尊敬を集めていたのです。わが国でも彼の『チベットの生と死の書』はベストセラーになっていたので、それを読んでこれは偉い人だと思っていた人たちは「そんなのありですか?」と唖然とさせられたでしょうが、あの本は、直接の引用はありませんが、僕が今度出す訳本(こちらの作業は完了したので、年内には出ると思いますが)の参考文献一覧にも書名が出ていて、担当編集者の女性に、そのスキャンダル記事をブログに紹介したので読んでみて下さいと言ったら、読んでやはり唖然とさせられたようでした。彼の破廉恥漢ぶりには本に序文を寄せたダライ・ラマも閉口させられたようですが、全く、紛らわしいことこの上ない時代です。

 保守派の皆さんのお好きな孔子によれば、名実が一致しないのは世が乱れる元です。そうなると名分は空虚な美辞麗句にすぎなくなって、道徳はたんなる形式と化して、信用を失い、世は乱れ放題になるのです。今はまさにそういう時代で、不道徳な人間が道徳をやたら口にし、子供たちにそれを教えるべきだと主張するのは、その乱れをいっそうエスカレートさせることにしかならないでしょう。安倍なんて、「もり・かけ問題」でどれだけ嘘をついたか、あの恥さらしの下村博文なんかも同様です。そういう連中が愛国だの道徳だのを説くというのは、子供たちに「口でだけエラそうなことを言ってれば、あとは何をしてもいい」と教えるのと同じです。つかまりそうになったら権力を悪用して関係方面に圧力を加え、それを阻止すればいいので、それができるのが「成功者」というものだと。

 昔の自民党の政治家たちは、そこらへんは今と較べてずっと“謙虚”だったように思います。つまり、自分が道徳的でないことはよく承知していたので、人にエラそうに道徳を説くようなことはなかったのです。某法務大臣など、「政治家に倫理を求めるのは、八百屋で魚をもとめるのと同じ」だと語って、マスコミに叩かれましたが、言い得て妙だと、僕はむしろそれを評価していました。同じく「この程度の国民ならこの程度の政治家」だと言ったのも、たしかに言えてると笑ったので、彼は「真実を愛する」政治家ではあったのです。

 僕が奇怪に思うのは、今はつまらないことにはえらく厳格だということです。前にもちょっと書きましたが、昨今は「差別語」への検閲が異常に厳しくて、僕のこのブログなんかはそんなことはおかまいなしに書いていますが、ごく自然な日本語でも、「差別だ!」と弾劾されるのです。だから「めくら滅法」「つんぼ桟敷」「びっこを引く」なんて昔からある言葉(言うまでもなく、それらは差別を意図したものではありません)も本にするときにはご法度なのだと言いましたが、「はげ頭」や「未亡人」も駄目だということになると、首を傾げざるを得ない。

「そんなもの、ギャアギャア言う方がどうかしているので無視できませんか?」と編集者に言うと、やはり社にクレームが来ることが予想されるのだという。本の最後に、「本文中、一部不適切な訳語がありますが、これは訳者が編集者の言うことを聞かずに勝手に使用したもので、社に責任はありません。抗議は直接訳者宛にお願いします」と、メールアドレス添付の断り書きをつけるなんてのはどうですか、と言うと、微笑されるのみ(ついでにお断りしておくと、ナチュラルスピリット社長のブログに出てくる「厄介な訳者」は僕のことではありません)。仕方がないので、訳文を工夫して、別の表現に変えましたが、「ハゲ頭」と言っても、例の豊田元議員の「このハゲェー!」というのとは違い、それは文中では無邪気な子供の言葉で、ここはそれでないとユーモラスな持ち味が出せない。未亡人まで差別語だというのは理解し難いが、「未来をうしなった人」と読めるのでけしからん、ということなのでしょうか? 通常そんな穿った意味で使う人はいないので、傷つく人がいるとすれば、それは被害妄想としか思えないのですが…。

 仮に僕がハゲだったとして、僕はハゲと言われてもべつだん傷つかないと思いますが、いちいちそういうことに敏感に反応して「深く傷つく」人に配慮すべきだというのは「道徳的」なことなのか? 今はそういうことにやたらやかましいくせに、ヘイトスピーチの類は逆に増えているので、問題をはき違えているとしか思えないのです。文章には文脈や全体の印象というものがあって、差別かどうかはそれを見て判断すべきだと思うのですが、それは無視して、部分に、言葉だけに反応する。全くもってやりにくい時代です。そういうつまらない言葉狩りでこの社会がより「道徳的」になることはありえないと思いますが、事実そうなってはいないのです。同じ伝で人や会社に些細なことで難癖つけるモンスター・クレイマーの類や、差別語満載のヘイトスピーチにふける腐れが増えただけ。

 結局、学校の道徳教育やら、重箱の隅をつつき回るような書籍の「差別語」検閲では、この社会の道徳性が上がることはないのです。むしろ逆効果になるので、そういうことはやめた方がいい。保守派の政治家先生や文化人の皆さんが“実質的”に道徳的なら、残念ながらそうは思えませんが、子供たちはそこから自然に学ぶでしょう。そうでないから言葉で無理じい徳目を教えてカバーしようとしても、それは孔子大先生も言ったように世の乱れを拡大することにしかならないのです。

 そのわかりきったことがどうしてわからないのか、僕には不思議でならないのですが、今の保守派たちのそれは、国民をかつてのように権力に従順なタブーまみれの“臣民”にして、自分たちの勝手放題に文句が出ないようにしたいと、そういうことなのでしょうか? たぶんそうなのでしょうね。
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