この「寝そべり族」というのは興味深い現象で、いつかそれについて書きたいと思っていたのですが、この王青さんの記事は、かの国の熾烈な受験戦争についても詳しい記述があって、考えさせられる文章です。
・中国の過酷な受験戦争を勝ち抜いた若者が「寝そべり族」になってしまう理由
「このような背景から、高校の3年間は皆、命懸けで勉強する」とあるのは誇張ではなさそうで、
競争が激化する中、統一試験で好成績をたたき出すことに特化した高校もある。河北省衡水市にある衡水中学(高校)は、「高考工場」「受験訓練所」「鬼の強制収容所」などと呼ばれ、全寮制でスパルタ教育を行い、高い進学率を実現している。高校3年間で休日はほぼなし。毎日のスケジュールは秒刻みで、忙しすぎて「歩くことが存在しない」といわれるほど。生徒は校内での移動でも常に走っているという。教室内に監視カメラがいくつも設置され、全ての生徒が学校の監視下にある。
この学校にまつわるさまざまな伝説の中で、一番有名なのは、全校生徒約8000人が毎朝5時半に一斉にグラウンドをランニングすることだ。冬だとまだ薄暗い中で、「超越自我」「挑戦極限」など四文字のスローガンの号令をかけながら、足並みをそろえて前列にぴったりとくっついて走る風景は軍隊そのものだ。もし一人でも倒れたら、ドミノ倒しになる状況で倒れないように走り続けることには、集中力と緊張感を養う目的があるのだという。
そのほか、自習時には眠気を払うため立ったまま勉強したり、服の着脱時間を省くため寝るときも着衣のままの人もいたりするなど、伝説の枚挙にいとまがない。そして、成績が悪かったら、教師から人格侮辱な言葉でののしられたり、体罰が行われたりすることも日常茶飯事だという。卒業生は「まるで地獄だった」と口をそろえる。人間の極限を試すような環境に耐えられず、退学する生徒や、体を壊す生徒が後を絶たない。
ただ、全国の重点大学への合格率は毎年9割以上。清華大学や北京大学などの超一流大学の進学生徒数は数百人に上り、合格者数全国1位の実績を誇り、「奇跡をつくる学校」と称えられている。ここでの生活を耐えれば後の人生は「楽勝」だと、多くの親が心を鬼にして子どもを送り込む。現在、中国では、「衡水高校」をまねした学校が地方で続出している。
中国式監視社会が学校教育にまで及んでいるということで、戦慄させられますが、韓国なども受験戦争はすさまじく、前にもここで紹介したことのある金敬哲さんの『韓国 行き過ぎた資本主義』に描かれた病的としか言いようのない受験実態や、Netflix のドラマ『SKYキャッスル』(誇張だとしか思えないような話にさえ元ネタがある!)に見られるような、親がかり管理の凄さや、受験コーディネーターなるものの暗躍など、こういうのは東アジア的稲作文化によって育まれた集団的横並び競争の弊害が行くところまで行った結果なのでしょう。日本の場合には、第二次ベビーブーマーが受験年齢に差しかかった頃はかなり凄まじかった(僕は塾の受験現場でそれを見ていた)ものですが、今はそれと較べるとユルユルになっていて、大学生の就職率も高くなっているので、子供たちはそこまでしんどい思いをしなくて済むのは幸いですが、それでも中学受験などは過熱したままらしいので、やはり同じ稲作文化的メンタリティです。毎年、東大・京大や、国公立医学部に何人入ったかという高校別ランキングが発表されて、週刊誌などはそれを入れると売り上げが倍増するというので、欠かさず掲載する。何度も同じランキングが「速報版」「現浪別」「確定版」というふうにして出て、最後は主要な大学全部をまとめたものが「特別愛蔵版」として出るというしつこさです。
中国も、韓国の「修能試験」と同じ(というか、韓国がそれを真似た?)で、
6月下旬、中国で全国統一大学入試(通称「高考」)の成績が発表された。この試験は、中国の若者の未来を大きく左右する。中国の多くの大学では、基本的に大学ごとの試験は行われず、この1発勝負で合否が決まるからだ。
ゆえに、高い点数を獲得し、家族と抱き合ってうれし涙を流す人もいれば、普段は成績が良かったのに今回に限って失敗し、一人で部屋に閉じこもって泣いている人も……。まるで天国と地獄。試験後になると、SNSではそうしたいろいろな人間模様が話題となる。今年もまた、12年間命懸けで勉強してきた結果が発表され、数多くの若者の運命が分かれたといっても過言ではない。
ということで、日本でいえばセンター試験(無意味ないじり方をして「共通テスト」なるものに変わりましたが)のような統一試験ですべてが決まってしまうという話です(韓国の場合は「随時」と呼ばれる選考過程が不透明な上に、富裕層に有利な推薦入試の合格者の方が多いそうですが)。日本の場合には二次の大学別の試験があり、難関大はすべてそちらの比重の方が高いので、勝負はそちらで決まるのですが、何にしても難儀なことです。「12年間命懸けで」文字どおり寝る間も惜しんで勉強して、失敗したら「人生終わった」みたいになり、うまく行っても、払った代償が大きすぎる。そういうのに疑問を感じないような連中ばかりがエリートになって、まともな社会が作れるのかは大いに疑問です。
ついでに脱線させてもらうと、僕は11年前の6月に「教育という名の児童虐待:延岡の普通科高校の場合」という記事をここに書き、無用な朝課外に大量の宿題、非合理な校則、おかしな懲罰システムなど、生徒たちは虐待を受けているに等しいと述べたのですが、上の記事のような、「全校生徒約8000人が毎朝5時半に一斉にグラウンドをランニングする」なんてことまではやっていないので、それを「もし一人でも倒れたら、ドミノ倒しになる状況で倒れないように走り続けることには、集中力と緊張感を養う目的がある」なんて正当化するこういう学校と比較するなら、全然問題視するには足りない、ということになるでしょう。“中国基準”に照らすなら、こうした度の過ぎた管理と強制は何ら異常とは見なされない(むしろ締め付けが足りないくらい?)のです。
今の日本でも「受験は団体戦」と称して、センター試験(共通テスト)直前に3年生全員を体育館に集めて、「総決起集会」なるものを開き、「ガンバロー!」と誰かが音頭を取って、拳を突き上げてそれに一斉唱和するなんて「おまえら、正気か?」と言いたくなるようなことをやっている学校が多数あるようですが、こういうのも東アジア的見地からすれば、いたって“正しい”ことなのです。教師たちから見ると、こういう光景は申し分なく美しい。西洋かぶれの個人主義的なおまえの方が異常なのだと嘲られそうです。
僕にはそういう育ち方をした人間が自由で自立した思考のできる人間、自分の目で物を見、自分の頭で考えられる人間になることはほぼ無理だろうと思えるのですが、教育関係者たちはそういう重要な問題については何も配慮していないようです。というのも、教師自身がそんなことをしたことがないからで、そもそも体制内思考しかできない。これは中国、韓国、日本で共通したことなのかなと思います。そうなると社会の改革はアウトサイダーたちに期待するしかなくなるが、中国は共産党が支配しているし、韓国社会は財閥にスポイルされているし、日本の場合も階級ができてそれが固定化しつつあるので、それはかつてないほど難しくなっている。
「寝そべり族」はそうした中で登場した中国若者のレジスタンスです。別に共産党独裁に反対するパフォーマンスをやっているわけでもないので、政治犯として逮捕することもできず、中国政府にとってはやりにくい相手でしょう。
寝そべり主義」とは、簡潔に説明すれば“六不主義”である。「家を買わない」「車を買わない」「結婚しない」「子どもを作らない」「消費しない」「頑張らない」という六つを“しない”こと。そして、「誰にも迷惑をかけない、最低限の生活をする」ことを指す。
受験戦争に勝つため、全ての時間を勉強に費やし、歯を食いしばって苦しんだ。大学に無事に入り、都会で働きたい夢も実現した。しかし、996(朝9時から夜9時まで週6日間勤務)や007(午前0時から深夜0時まで週7日間勤務)といわれる過酷な労働や高圧的な職場でいくら頑張っても、都会で家を買うこともできない。1カ月の収入は、大半が家賃で消えてしまう。およそ10年間で、中国の不動産価格は10~20倍に高騰したからだ。物価も年々上がり、生活することすら容易ではなくなった。これまで夢を持ってひたすら努力してきたが、結局、日々過酷な環境が続いて救われることがない。将来は見えなくなった。だったら「もういいよ、最低限な生存状態を維持すればいいだろう」と投げやりのような気持ちになっても無理はない。
中国の「高度経済成長」は、日本のそれと較べて賞味期限が短かった。また、日本の場合、一時的には全階層にわたって所得が向上し、一億総中流と呼ばれるかつてないほどの平等化が実現した。それが止まってから、行き場のなくなった資本が不動産に流入し、バブル経済→崩壊となって、その後「失われた30年」になったのですが、中国では逆に経済成長は格差の拡大を伴い、不動産価格の暴騰は賃金上昇率をはるかに超えてしまった。同時に、高齢化のスピードも猛烈なので、今後税金、社会保険料などの負担も上がる一方となる(一人っ子政策をやめたが、出生率は上がっていない。子供一人を育てるのでもこういう競争社会では大変なのだから、それはあたりまえの話です)。
韓国でも、文政権になってから不動産価格が急騰し、ほぼ2倍になってしまった(韓国らしいのは、政府幹部にそれを見込んで大儲けしようとした浅ましい連中が続出したことです)。財閥系企業と中小零細企業の賃金・待遇の格差は相変わらずすさまじい。おまけに、中国と同じ不公平な縁故社会、コネ社会です。年金制度は、日本のそれもひどいものですが、韓国の将来見通しはさらに暗く、若者は老人層に貢がされているとしか思えない。韓国の政治家は歪んだ歴史教育をベースに、伝統的に「困ったときの反日頼み」でやってきたが、その騙しもいい加減利かなくなってきている。あれやこれやで、出生率は0.8台の世界最低になり、今後はもっと落ち込むと予想されているのです。
要するに、一部の甘い汁を吸える特権層を別とすれば、多くの若者にとっては「ヘル朝鮮」、「ヘル・チャイナ」になりつつあるということです。早い段階から遊ぶ間もなくお勉強、お勉強と尻を叩かれてきた結果がこれ。その絶望感には凄まじいものがあるのでしょう。
記事はさらにこう続きます。
もっとも、大学にも行けない人たちの環境は、もっと過酷だ。労働者として働くが、低賃金に加え、職業安定の保障もなく、使い捨てのように扱われる人も少なくない。
先日、中国にいる知人から、「これ見た?」とある動画のリンクが送られてきた。その動画は、2018年にNHKが放送したドキュメンタリー「三和人材市場~中国・日給1500円の若者たち~」の中国語字幕付きのものだった。「今、中国ですごく拡散されている。これまでこんな番組があるとは知らなかった」と友人は言う。
番組では、中国の深セン郊外、巨大な就職斡旋場「三和人材市場」にいるたくさんの日雇い労働者の若者の現実が映し出されている。1日働いたら、3日休み。5元(約90円)のラーメンを食べて、野宿する生活を送る。かつては将来に希望を持っていたが結局挫折し、三和地区に集まってきた人がほとんどだ。
これはかつての東京の山谷や、大坂のあいりん地区のそれよりももっとひどい。岡林信康の『山谷ブルース』を中国語の字幕付きで流せば、大ヒットしそうです。そんな日雇い労働者の生活が多くの若者の共感を呼び、「中国では彼らは『三和大神』(三和ゴッド)と呼ばれている」というのだから、いかに今の中国が深刻な矛盾を抱えているかがわかるのです。習近平の「中国夢」は内側から崩壊する危険にさらされている。中国の覇権主義的な行動は、それによって愛国心に訴え、求心力を上げて内部のお粗末から目をそらさせようというところも明らかにあるのでしょう。オリンピックの強行開催で愛国心を高め、内政のひどいお粗末を忘れさせようという菅自民政府と似たようなさもしさなのです。
要するに、日本も中国も、韓国も、何か根本的に間違ったところがある。それは何なのかということを根本的に考え、そこから政治も改めようとしないかぎり、明るい未来などというものはあり得ないでしょう。問題は、いずこの政治家たちもそれを理解する能力はなさそうだということです。この「根本的に間違ったところ」というのは何なのか? 僕は自分なりの回答(そこまで遡るのかと笑われるかもしれない)をもっていますが、それは一人一人が考えるべきことでしょう。
・中国の過酷な受験戦争を勝ち抜いた若者が「寝そべり族」になってしまう理由
「このような背景から、高校の3年間は皆、命懸けで勉強する」とあるのは誇張ではなさそうで、
競争が激化する中、統一試験で好成績をたたき出すことに特化した高校もある。河北省衡水市にある衡水中学(高校)は、「高考工場」「受験訓練所」「鬼の強制収容所」などと呼ばれ、全寮制でスパルタ教育を行い、高い進学率を実現している。高校3年間で休日はほぼなし。毎日のスケジュールは秒刻みで、忙しすぎて「歩くことが存在しない」といわれるほど。生徒は校内での移動でも常に走っているという。教室内に監視カメラがいくつも設置され、全ての生徒が学校の監視下にある。
この学校にまつわるさまざまな伝説の中で、一番有名なのは、全校生徒約8000人が毎朝5時半に一斉にグラウンドをランニングすることだ。冬だとまだ薄暗い中で、「超越自我」「挑戦極限」など四文字のスローガンの号令をかけながら、足並みをそろえて前列にぴったりとくっついて走る風景は軍隊そのものだ。もし一人でも倒れたら、ドミノ倒しになる状況で倒れないように走り続けることには、集中力と緊張感を養う目的があるのだという。
そのほか、自習時には眠気を払うため立ったまま勉強したり、服の着脱時間を省くため寝るときも着衣のままの人もいたりするなど、伝説の枚挙にいとまがない。そして、成績が悪かったら、教師から人格侮辱な言葉でののしられたり、体罰が行われたりすることも日常茶飯事だという。卒業生は「まるで地獄だった」と口をそろえる。人間の極限を試すような環境に耐えられず、退学する生徒や、体を壊す生徒が後を絶たない。
ただ、全国の重点大学への合格率は毎年9割以上。清華大学や北京大学などの超一流大学の進学生徒数は数百人に上り、合格者数全国1位の実績を誇り、「奇跡をつくる学校」と称えられている。ここでの生活を耐えれば後の人生は「楽勝」だと、多くの親が心を鬼にして子どもを送り込む。現在、中国では、「衡水高校」をまねした学校が地方で続出している。
中国式監視社会が学校教育にまで及んでいるということで、戦慄させられますが、韓国なども受験戦争はすさまじく、前にもここで紹介したことのある金敬哲さんの『韓国 行き過ぎた資本主義』に描かれた病的としか言いようのない受験実態や、Netflix のドラマ『SKYキャッスル』(誇張だとしか思えないような話にさえ元ネタがある!)に見られるような、親がかり管理の凄さや、受験コーディネーターなるものの暗躍など、こういうのは東アジア的稲作文化によって育まれた集団的横並び競争の弊害が行くところまで行った結果なのでしょう。日本の場合には、第二次ベビーブーマーが受験年齢に差しかかった頃はかなり凄まじかった(僕は塾の受験現場でそれを見ていた)ものですが、今はそれと較べるとユルユルになっていて、大学生の就職率も高くなっているので、子供たちはそこまでしんどい思いをしなくて済むのは幸いですが、それでも中学受験などは過熱したままらしいので、やはり同じ稲作文化的メンタリティです。毎年、東大・京大や、国公立医学部に何人入ったかという高校別ランキングが発表されて、週刊誌などはそれを入れると売り上げが倍増するというので、欠かさず掲載する。何度も同じランキングが「速報版」「現浪別」「確定版」というふうにして出て、最後は主要な大学全部をまとめたものが「特別愛蔵版」として出るというしつこさです。
中国も、韓国の「修能試験」と同じ(というか、韓国がそれを真似た?)で、
6月下旬、中国で全国統一大学入試(通称「高考」)の成績が発表された。この試験は、中国の若者の未来を大きく左右する。中国の多くの大学では、基本的に大学ごとの試験は行われず、この1発勝負で合否が決まるからだ。
ゆえに、高い点数を獲得し、家族と抱き合ってうれし涙を流す人もいれば、普段は成績が良かったのに今回に限って失敗し、一人で部屋に閉じこもって泣いている人も……。まるで天国と地獄。試験後になると、SNSではそうしたいろいろな人間模様が話題となる。今年もまた、12年間命懸けで勉強してきた結果が発表され、数多くの若者の運命が分かれたといっても過言ではない。
ということで、日本でいえばセンター試験(無意味ないじり方をして「共通テスト」なるものに変わりましたが)のような統一試験ですべてが決まってしまうという話です(韓国の場合は「随時」と呼ばれる選考過程が不透明な上に、富裕層に有利な推薦入試の合格者の方が多いそうですが)。日本の場合には二次の大学別の試験があり、難関大はすべてそちらの比重の方が高いので、勝負はそちらで決まるのですが、何にしても難儀なことです。「12年間命懸けで」文字どおり寝る間も惜しんで勉強して、失敗したら「人生終わった」みたいになり、うまく行っても、払った代償が大きすぎる。そういうのに疑問を感じないような連中ばかりがエリートになって、まともな社会が作れるのかは大いに疑問です。
ついでに脱線させてもらうと、僕は11年前の6月に「教育という名の児童虐待:延岡の普通科高校の場合」という記事をここに書き、無用な朝課外に大量の宿題、非合理な校則、おかしな懲罰システムなど、生徒たちは虐待を受けているに等しいと述べたのですが、上の記事のような、「全校生徒約8000人が毎朝5時半に一斉にグラウンドをランニングする」なんてことまではやっていないので、それを「もし一人でも倒れたら、ドミノ倒しになる状況で倒れないように走り続けることには、集中力と緊張感を養う目的がある」なんて正当化するこういう学校と比較するなら、全然問題視するには足りない、ということになるでしょう。“中国基準”に照らすなら、こうした度の過ぎた管理と強制は何ら異常とは見なされない(むしろ締め付けが足りないくらい?)のです。
今の日本でも「受験は団体戦」と称して、センター試験(共通テスト)直前に3年生全員を体育館に集めて、「総決起集会」なるものを開き、「ガンバロー!」と誰かが音頭を取って、拳を突き上げてそれに一斉唱和するなんて「おまえら、正気か?」と言いたくなるようなことをやっている学校が多数あるようですが、こういうのも東アジア的見地からすれば、いたって“正しい”ことなのです。教師たちから見ると、こういう光景は申し分なく美しい。西洋かぶれの個人主義的なおまえの方が異常なのだと嘲られそうです。
僕にはそういう育ち方をした人間が自由で自立した思考のできる人間、自分の目で物を見、自分の頭で考えられる人間になることはほぼ無理だろうと思えるのですが、教育関係者たちはそういう重要な問題については何も配慮していないようです。というのも、教師自身がそんなことをしたことがないからで、そもそも体制内思考しかできない。これは中国、韓国、日本で共通したことなのかなと思います。そうなると社会の改革はアウトサイダーたちに期待するしかなくなるが、中国は共産党が支配しているし、韓国社会は財閥にスポイルされているし、日本の場合も階級ができてそれが固定化しつつあるので、それはかつてないほど難しくなっている。
「寝そべり族」はそうした中で登場した中国若者のレジスタンスです。別に共産党独裁に反対するパフォーマンスをやっているわけでもないので、政治犯として逮捕することもできず、中国政府にとってはやりにくい相手でしょう。
寝そべり主義」とは、簡潔に説明すれば“六不主義”である。「家を買わない」「車を買わない」「結婚しない」「子どもを作らない」「消費しない」「頑張らない」という六つを“しない”こと。そして、「誰にも迷惑をかけない、最低限の生活をする」ことを指す。
受験戦争に勝つため、全ての時間を勉強に費やし、歯を食いしばって苦しんだ。大学に無事に入り、都会で働きたい夢も実現した。しかし、996(朝9時から夜9時まで週6日間勤務)や007(午前0時から深夜0時まで週7日間勤務)といわれる過酷な労働や高圧的な職場でいくら頑張っても、都会で家を買うこともできない。1カ月の収入は、大半が家賃で消えてしまう。およそ10年間で、中国の不動産価格は10~20倍に高騰したからだ。物価も年々上がり、生活することすら容易ではなくなった。これまで夢を持ってひたすら努力してきたが、結局、日々過酷な環境が続いて救われることがない。将来は見えなくなった。だったら「もういいよ、最低限な生存状態を維持すればいいだろう」と投げやりのような気持ちになっても無理はない。
中国の「高度経済成長」は、日本のそれと較べて賞味期限が短かった。また、日本の場合、一時的には全階層にわたって所得が向上し、一億総中流と呼ばれるかつてないほどの平等化が実現した。それが止まってから、行き場のなくなった資本が不動産に流入し、バブル経済→崩壊となって、その後「失われた30年」になったのですが、中国では逆に経済成長は格差の拡大を伴い、不動産価格の暴騰は賃金上昇率をはるかに超えてしまった。同時に、高齢化のスピードも猛烈なので、今後税金、社会保険料などの負担も上がる一方となる(一人っ子政策をやめたが、出生率は上がっていない。子供一人を育てるのでもこういう競争社会では大変なのだから、それはあたりまえの話です)。
韓国でも、文政権になってから不動産価格が急騰し、ほぼ2倍になってしまった(韓国らしいのは、政府幹部にそれを見込んで大儲けしようとした浅ましい連中が続出したことです)。財閥系企業と中小零細企業の賃金・待遇の格差は相変わらずすさまじい。おまけに、中国と同じ不公平な縁故社会、コネ社会です。年金制度は、日本のそれもひどいものですが、韓国の将来見通しはさらに暗く、若者は老人層に貢がされているとしか思えない。韓国の政治家は歪んだ歴史教育をベースに、伝統的に「困ったときの反日頼み」でやってきたが、その騙しもいい加減利かなくなってきている。あれやこれやで、出生率は0.8台の世界最低になり、今後はもっと落ち込むと予想されているのです。
要するに、一部の甘い汁を吸える特権層を別とすれば、多くの若者にとっては「ヘル朝鮮」、「ヘル・チャイナ」になりつつあるということです。早い段階から遊ぶ間もなくお勉強、お勉強と尻を叩かれてきた結果がこれ。その絶望感には凄まじいものがあるのでしょう。
記事はさらにこう続きます。
もっとも、大学にも行けない人たちの環境は、もっと過酷だ。労働者として働くが、低賃金に加え、職業安定の保障もなく、使い捨てのように扱われる人も少なくない。
先日、中国にいる知人から、「これ見た?」とある動画のリンクが送られてきた。その動画は、2018年にNHKが放送したドキュメンタリー「三和人材市場~中国・日給1500円の若者たち~」の中国語字幕付きのものだった。「今、中国ですごく拡散されている。これまでこんな番組があるとは知らなかった」と友人は言う。
番組では、中国の深セン郊外、巨大な就職斡旋場「三和人材市場」にいるたくさんの日雇い労働者の若者の現実が映し出されている。1日働いたら、3日休み。5元(約90円)のラーメンを食べて、野宿する生活を送る。かつては将来に希望を持っていたが結局挫折し、三和地区に集まってきた人がほとんどだ。
これはかつての東京の山谷や、大坂のあいりん地区のそれよりももっとひどい。岡林信康の『山谷ブルース』を中国語の字幕付きで流せば、大ヒットしそうです。そんな日雇い労働者の生活が多くの若者の共感を呼び、「中国では彼らは『三和大神』(三和ゴッド)と呼ばれている」というのだから、いかに今の中国が深刻な矛盾を抱えているかがわかるのです。習近平の「中国夢」は内側から崩壊する危険にさらされている。中国の覇権主義的な行動は、それによって愛国心に訴え、求心力を上げて内部のお粗末から目をそらさせようというところも明らかにあるのでしょう。オリンピックの強行開催で愛国心を高め、内政のひどいお粗末を忘れさせようという菅自民政府と似たようなさもしさなのです。
要するに、日本も中国も、韓国も、何か根本的に間違ったところがある。それは何なのかということを根本的に考え、そこから政治も改めようとしないかぎり、明るい未来などというものはあり得ないでしょう。問題は、いずこの政治家たちもそれを理解する能力はなさそうだということです。この「根本的に間違ったところ」というのは何なのか? 僕は自分なりの回答(そこまで遡るのかと笑われるかもしれない)をもっていますが、それは一人一人が考えるべきことでしょう。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin
今の日本の特徴は、合理性でも国民の声でもなく、「内輪の関係者」だけで物事が決められることと、その経緯には大いに疑問があっても、いったん決まったことは決して変えられないことです。これは先の大戦のときにも見られたことなので、先祖返りしているだけだと見ることもできそうですが、三流国家の特性であることは間違いないので、こういうことを続けていたのでは、社会が腐った水たまりのようになって、活力が失われて、どんどん駄目になるだけでしょう。「流れる水は腐らない」の逆を行っているわけです。
今回の東京オリンピックに関しては、国民の7割から8割が中止または延期を望んでいるというのが世論調査の結果で、今は感染力の強い変異株が増えているという報告も相次いでいることからして、「まだやるなんて言ってるの?」と呆れている人が多いと思われますが、頑固で粘着性の強い菅総理の性格からして、内心まずいことになったと思っていても、今さらやめるとは言えなくなっているのでしょう。彼の特徴は、学術会議問題でも、ゴーツーでも全部そうですが、批判や反対があるとよけい意固地になってしまうことです。
選手たちは複雑な気分だと思いますが、関係者やスポンサー企業などは「ふつうなら無理だが、総理の性格からしてやらざるを得なくなるだろう」とほくそ笑んでいるのかもしれません。水泳の池江璃花子選手が白血病から「奇蹟の復活」を遂げたことは、それ自体としては日本人を元気にしてくれる、喜ばしいことですが、彼らはそれを利用して、「オリンピックを盛り上げる」のにつなげたいと思っているようです。
今の状況で「盛り上がる」わけはなく、北朝鮮が不参加を表明して、それを政治利用したいと思っていた北べったりの韓国文政権がショックを受けたというのはわかりますが、何で日本政府まであわてたのかと思ったら、あの国は特殊だとはいえ、それがきっかけで不参加を表明する国が相次ぐのではないかと、それを恐れているという話です。僕が馬鹿だなと思うのは、総理や関係者のメンツだけで強行開催しようとすると、外交も自立性を失って、オリンピックに参加してほしいがために、無用な媚びを売らねばならなくなることがそれだけ多くなってしまうだろうことです。自分から進んで弱みをつくり出すなど、政治としては愚の骨頂です。ガースーの個人的なプライドのために、わが国は自分の立場を弱くしたようなもので、今後も「あのときは無理を聞いてやったのだから」と言われかねない。
合理的に判断するなら、東京オリンピックは中止すべきです。また、中止を表明して、それがけしからんと言う国は存在しない。そんなことを言う政府首脳がいたとすれば、選手の安全やコロナに歯止めをかけることをおまえは何と考えているのだと、逆にバッシングを受ける羽目になるでしょう。だから中止を表明しても、何の問題もなかったわけです。
逆に開催するリスクは高い。ふつうのオリンピックと違って、検査体制や隔離など、手間もカネもずっと多くかかる。観光客を呼び込んで、観光立国化を推進するなんて話は、海外からの観客はなしにすると決めた時点ですでにどこかに消えている。日本人観客だけにしたとして、それが全国各地にコロナを拡大するきっかけになるという危険は、ゴーツーだけでもそういうデータがあったというのに、新種の変異株が海外選手団や関係者から持ち込まれたりして、一層高くなるでしょう。自民党は、「そのときはもう菅は総理ではなくなって、新総裁に代わっているから、責任は前総理たるガースーに負わせればいいのだ」と考えているのかもしれませんが、それはカラスの勝手ならぬ自民の勝手で、無責任そのものです。
逆に、外国の選手団が変異株を自国に持ち帰ってしまったことが判明した場合、「不十分な管理体制の下でオリンピックを強行するからだ!」という日本に対する非難の材料にもなるでしょう。どう転んでもいいことはない。「コロナを克服した証」にしたいと、勢い込んで菅総理は語っていましたが、ウイルス相手に勝ったの負けたのと言うのは幼稚というもので、そもそもの話、そういう人間中心的な思い上がりが自然へのリスペクトを失わせ、生態系の深刻な破壊をもたらし、ひいてはウイルスの人間界への進出を促しているのです。
それでもやるというのは理解し難いことです。巨費を使って誘致運動を行ない、すでに一年延びているからそれだけでもまた余分に多額の税金が費やされたわけですが、コロナは想定外で、別に一般国民はその責任を取れと言っているわけではないにもかかわらず、自分たちのメンツがかかっているので今さら後には引けないということなのでしょう。ようやるわ、という感じしかしないので、先のやめ時を知らなかった戦争の時と同じです。
思えば、1964年の東京オリンピックは、その当時僕は小学生でしたが、年率10%を超える経済成長のさなかに行われたもので、それから十年ぐらいは高度経済成長なるものが続き、人々の暮らし向きは年々よくなり、池田内閣の国民所得倍増計画は大成功を収めたのでした。イケイケドンドンの時代にふさわしい祭典で、海外への宣伝効果も大いにあったと思われますが、今回のオリンピックは別にコロナがなくとも、全く逆ベクトルの社会状況下で開催されるもので、日本経済は世界における地位を下げ続けていて、少子高齢化で医療費や社会保障費が暴騰する中、労働者の平均賃金は下がり続け、税負担は重くなる一方で、たとえていうなら、前のオリンピックが「日の出」を象徴するものだったとするなら、今回のオリンピックは「日没」を記念するかのごときものになっていたのです。オリンピックの経済効果なんて一時的で高が知れたものなので、やったからといって基本の流れが変わるものでは全然ない。前にも書きましたが、IOCで安倍総理が臆面もない「アンダーコントロール」演説をぶった頃、必要なのはオリンピック誘致ではなく、東北大震災からの復興に真剣に取り組み、原発問題を再考し、かつ労働生産性を上げ、年金や医療制度の抜本的改革を進めることだったのです。
初めから、今回のオリンピック誘致は国民への「目くらまし」でしかなかった。そこに、開催年を狙い撃ちしたかのごとくコロナ禍が襲った。それに投下した巨額の費用は税金の無駄遣い以外の何ものでもなくなった。こういうの、昔の人なら「天罰覿面(てきめん)」と言ったのではないでしょうか。困窮する人がたくさんいて、他にも問題が山積しているのに、「こういうときこそ景気づけのお祭りが必要だ!」と、何もしないことの言い訳にオリンピック開催を利用しようとしたのです。間が悪いことに、そこにコロナさんがやって来た。
いったん決めたことは変えられず、いったん作ったものはこわせない。理由の如何を問わずそうなので、そういう事例は今の日本社会にはたくさんあります。例の共通一次→センター試験→共通テストと推移してきた、あのおかしな大学入試制度もその一つです。僕は前からあれは廃止した方がいいとずっと言っているのですが、その気配は全くなく、何としても維持しなければならないと、その前提でのみ考えているようです。
・【独自】共通テスト「このままでは実施困難」入試センター赤字13億…24年度試算
「少子化による共通テストの志願者減が原因で、『このままでは実施が困難になる』」というのですが、検定料(3教科以上1万8000円)は決して安くありません。国立の場合、二次の受験料がこれに加えて1万7000円かかるので、計3万5000円。私立の一般受験も一回平均3万5000円なので、同額なわけです。「安くない」というより、むしろ「高すぎる」ほどです。「有識者会議は、国に公的支援を求めることや、検定料が適切か検討することが必要としている」そうですが、値上げすればいいという安易な結論になりそうです。
上は読売ですが、これには朝日も続報を出していて、
大学入学共通テストの実務を担う独立行政法人大学入試センターが、大学から徴収する「成績提供手数料」を2年かけて値上げし、2年後の第3回共通テスト以降は現行の2倍にすることが10日、入試関係者への取材で分かった。
という話で、
センターは3月29日、国公私立大に値上げを通知した。関係者によると、まず来年1月の第2回共通テストで1200円に引き上げ、第3回以降は1500円にする。今年の750円も、初の共通テスト実施という理由で、大学入試センター試験だった2020年から180円値上げしていたが、今回の値上げ理由は「大幅赤字が予想され、共通テストを安定的・継続的に実施するため」と各大学に説明した。(以上、「共通テスト、大学からの手数料倍増へ 受験生の負担増も懸念」という見出しの4/11付記事)
というのです。要するに、再来年からは今年の倍額の手数料を各大学から取る。僕に奇怪に思われるのは、これらの記事は共通テスト自体を廃止するという選択肢はない前提で書かれていることです。それを廃止して、各大学が独自の入試を行ない、受験料を3万にしたとすれば、無用の長物たる「独立行政法人大学入試センター」に支払う1500円は消え、それを織り込んで計算すると、国立大は受験生一人当たり1万4500円の増収になるのです。作成科目が増えても元が取れるだけでなく、大いに潤うでしょう。そして受験生はトータル受験料が5000円少なくて済む(科目が増える関係で、どこも東大・京大のように二日がかりの入試になるかもしれませんが、これまではセンターにも別に二日取られていたのです)。それで困るのは潰れる「独立行政法人大学入試センター」だけでしょう。
現時点でも、東工大などはセンター改め共通テストは足切りに使われるだけで、二次試験の配点が100%です。つまり、共通テストの成績は無関係。東大は440点(二次)対110点(共通テスト)で四分の一。京大は学部によって様々ですが、こちらも高くても三分の一。他の旧帝大も大学・学部によってまちまちですが、二次の比重が6割を超えていることが多く、他の難関大も大方は似たようなものです。
要するに、センター=共通テストの成績は軽んじられることが多いということで、二次の記述を重視しているのです。理由はかんたんで、あんな試験では本当の学力はわからないと大学側が思っているからです。
僕は英語塾の教師なので、英語に関して言わせてもらえば、あれが「役に立たない」試験であるのは、今回の共通テストでなおさらはっきりしました。「実用性重視」に舵を切ったと言われますが、全く実用的ではない。出てくる英文がすべて、基本的な単語とイディオムしか使わないように限定されているからで、とくにイディオムは「超」がつく基本的なものしか出てこないように配慮されています。その意味で“不自然”すぎるので、あれではふつうの易しめの英文でも読むのに苦労することになるでしょう。二次試験に出てくる英文との落差がさらに拡大したという印象で、設問も低級知能パズルみたいなものが多く、通常の読解力とは関係のない頭の使い方を強いられる。取り上げられている題材も人畜無害すぎて知的刺激をもたらすようなものは何もなく、非常に退屈する(これは僕だけが言っていることではなく、受験生がそう言っているのです。前は物語文など、意外性があって、内容的に面白く読めるものもいくらかはあったのですが、それも消滅した)。受験生は退屈を我慢しながら、スピードだけは要求されるので、「クソみたいな問題だな」と思いつつも、集中力を切らせないようにしながら、ダダーッとやらねばならないのです。全体にこれは、高校生用ではなく、英語のよくできる小学生向けの試験だな、という感じです。それほど歯応えがない。大学の頃、ドイツ語の授業で、初心者向けだから仕方ないとはいえ、子供用のテキストを読まされて退屈で閉口した記憶があるのですが、あれと似た感じを受験生はもったでしょう。試験問題作成に関与しているガイジンは、あれが「役に立つ、実用的な」ものだとほんとに思っているのでしょうか?
ああいうつまらない試験ならやらない方がいいと僕は思っているので、今は二次でもリスニングを課すところは増えているし、英作文なども、従来の和文英訳に加えて表現力・発信力を見る意見作文なども加わっている。そして長文読解問題は内容的に面白いものが多く、それは英文読解力だけではなく、頭の柔軟さや考える力も見るようになっている。要するに、あんな試験を一次で課す必要は何もないので、地方のいわゆる駅弁国立の場合、理系などは二次に英語がないところもありますが、低レベルすぎる共通テストだけで英語力を判定していると、入学後困ることになるのではありませんか?
他の科目も、たとえば国語などはああいう試験では国語力は測れないし(だから理系でも二次に配点は低いが、国語を課すところが増えている)、難関大では文系でも二次に数学の試験はあるし、意味はあまりないのです。大学の個別試験しかなかった共通一次以前の時代は、各大学が必要な科目の問題を全部自前で作っていたのだから、共通テストは廃止して、元の形に戻せばいいだけです。当時は東大だけが独自の一次試験をやっていましたが、あれは知識に頼らなくても思考力と国語力で何とかなるものが多かったので、今のセンター改め共通テストの暗記に頼らざるを得ない試験よりはずっとマシだったのです。
そしたら受験生は、センター対策、二次対策と分けて勉強する手間が省けて、負担も軽減する。今でもその二次の科目は大学・学部によってまちまちなのだから、三年前ぐらいに試験科目を予告しておけば、何の問題もないわけです。重要科目は大方の大学の試験に共通して入っているだろうから。やれ、考える力がどうのと言いますが、前から二次では「考える力」は問われていた。センターが暗記マシーンみたいになることを受験生を要求するから、話がおかしくなってしまっただけなのです。
うちは科目横断的な独自の総合学力テストと英語または数学の試験を課すとか、学科試験は課さず、小論文と面接だけにするとか、今のAOや推薦みたいなやり方で全部の学生を取るという国立大大学もあってよい。国立だから科目を多くしなければならないということもないわけで、たとえば文系なら、数学を課さない国立大もあっていいわけです。哲学者ニーチェや作家フローベルのような、数学はまるでダメの天才もいるのだから。そういうふうにバラバラになると、従来の偏差値ランキングみたいなものも無意味になってきて、もっと個性的な大学が増えるかもしれない。そしたら多様な人材が輩出されて、めでたしめでたしではありませんか?
ついでに言うと、今の日本は大学の数が無駄に多すぎるので、慢性定員割れのいわゆるFラン私大などは潰して、整理した方がいい。それが補助金のばらまきになっていて、文教予算が不足し、科研費なども削られるようになっているわけです。こういうのは漏電だらけの古い家に住んで、それはそのまま放置して家族に電気の節約を呼びかけているようなものなので、問題の解決にはならない。これも「いったん作ったものは潰せない」思考で、見通しもないままいつまでも延命させるからで、そこに合理性はないのです。建物を老人ホームに転用などすれば、使い道はいくらもあるので、少子化で学生数も減るばかりなのだから、一体いつまでこういう状態を放置しているのかと思います。
これは「母校がなくなるのはさみしい」というようなセンチメンタルな問題ではない。僕の母校なんか、小学、中学、高校と、その主な原因は過疎ですが、全部“消滅”してしまいました。しかし、それは時の流れというもので、大学までなくなっても、別に気にしないでしょう。諸行無常はこの世のつねなので、自分も後十年か、長くても二十年後にはあの世に行くのです。嘆くべきことは、栄枯盛衰があることではなく、変わるべきものが変わらないことです。そこらが腐った水たまりだらけになってしまうことです。それでは社会はまともに機能しなくなる。
今の日本の組織は老害が目立つので、とくに二階や麻生が支配する自民党などは最悪ですが、こういうふうに「変えられない」のも、変えたくない連中が変えようとする側を妨害していて、それで変える機運がすっかり衰退してしまったからなのかもしれません。「何を言っても駄目」みたいな諦め心理に支配されるようになったのです。彼らは発想自体が固定化していて古いので、今回の共通テストみたいに、「有識者」なる連中がわけのわからないことをワアワア言って、前よりももっと悪いものに変えて、事態を悪化させるだけになったりするのです。それでは全然「変えた」ことにはならないのですが、それがわかっていない。東京オリンピックも大阪万博(こちらは2025年予定)も、昔と発想が同じで、老人たちの「過去の成功体験」から出てきたものにすぎないでしょう。場所まで同じ東京と大阪で、時間間隔も、前回が1964年と1970年で、今回と似通っている。
こういうのは何なのかなと思いますが、いかに今の日本は発想力が乏しく、型にはまった考え方しかできないかということを示しています。今の日本の若者は保守化していると言われますが、若い世代に活躍の場を与えようとしないからそうなってしまうわけで、そのあたり根本から考え直した方がいいのではありませんか? 僕は塾の生徒に言われて何度か高校の文化祭を見に行ったことがあって、今の若い子は表現力があってセンスもいいなあと感心したので、その力を活用しないのが悪いのです。
今回の東京オリンピックに関しては、国民の7割から8割が中止または延期を望んでいるというのが世論調査の結果で、今は感染力の強い変異株が増えているという報告も相次いでいることからして、「まだやるなんて言ってるの?」と呆れている人が多いと思われますが、頑固で粘着性の強い菅総理の性格からして、内心まずいことになったと思っていても、今さらやめるとは言えなくなっているのでしょう。彼の特徴は、学術会議問題でも、ゴーツーでも全部そうですが、批判や反対があるとよけい意固地になってしまうことです。
選手たちは複雑な気分だと思いますが、関係者やスポンサー企業などは「ふつうなら無理だが、総理の性格からしてやらざるを得なくなるだろう」とほくそ笑んでいるのかもしれません。水泳の池江璃花子選手が白血病から「奇蹟の復活」を遂げたことは、それ自体としては日本人を元気にしてくれる、喜ばしいことですが、彼らはそれを利用して、「オリンピックを盛り上げる」のにつなげたいと思っているようです。
今の状況で「盛り上がる」わけはなく、北朝鮮が不参加を表明して、それを政治利用したいと思っていた北べったりの韓国文政権がショックを受けたというのはわかりますが、何で日本政府まであわてたのかと思ったら、あの国は特殊だとはいえ、それがきっかけで不参加を表明する国が相次ぐのではないかと、それを恐れているという話です。僕が馬鹿だなと思うのは、総理や関係者のメンツだけで強行開催しようとすると、外交も自立性を失って、オリンピックに参加してほしいがために、無用な媚びを売らねばならなくなることがそれだけ多くなってしまうだろうことです。自分から進んで弱みをつくり出すなど、政治としては愚の骨頂です。ガースーの個人的なプライドのために、わが国は自分の立場を弱くしたようなもので、今後も「あのときは無理を聞いてやったのだから」と言われかねない。
合理的に判断するなら、東京オリンピックは中止すべきです。また、中止を表明して、それがけしからんと言う国は存在しない。そんなことを言う政府首脳がいたとすれば、選手の安全やコロナに歯止めをかけることをおまえは何と考えているのだと、逆にバッシングを受ける羽目になるでしょう。だから中止を表明しても、何の問題もなかったわけです。
逆に開催するリスクは高い。ふつうのオリンピックと違って、検査体制や隔離など、手間もカネもずっと多くかかる。観光客を呼び込んで、観光立国化を推進するなんて話は、海外からの観客はなしにすると決めた時点ですでにどこかに消えている。日本人観客だけにしたとして、それが全国各地にコロナを拡大するきっかけになるという危険は、ゴーツーだけでもそういうデータがあったというのに、新種の変異株が海外選手団や関係者から持ち込まれたりして、一層高くなるでしょう。自民党は、「そのときはもう菅は総理ではなくなって、新総裁に代わっているから、責任は前総理たるガースーに負わせればいいのだ」と考えているのかもしれませんが、それはカラスの勝手ならぬ自民の勝手で、無責任そのものです。
逆に、外国の選手団が変異株を自国に持ち帰ってしまったことが判明した場合、「不十分な管理体制の下でオリンピックを強行するからだ!」という日本に対する非難の材料にもなるでしょう。どう転んでもいいことはない。「コロナを克服した証」にしたいと、勢い込んで菅総理は語っていましたが、ウイルス相手に勝ったの負けたのと言うのは幼稚というもので、そもそもの話、そういう人間中心的な思い上がりが自然へのリスペクトを失わせ、生態系の深刻な破壊をもたらし、ひいてはウイルスの人間界への進出を促しているのです。
それでもやるというのは理解し難いことです。巨費を使って誘致運動を行ない、すでに一年延びているからそれだけでもまた余分に多額の税金が費やされたわけですが、コロナは想定外で、別に一般国民はその責任を取れと言っているわけではないにもかかわらず、自分たちのメンツがかかっているので今さら後には引けないということなのでしょう。ようやるわ、という感じしかしないので、先のやめ時を知らなかった戦争の時と同じです。
思えば、1964年の東京オリンピックは、その当時僕は小学生でしたが、年率10%を超える経済成長のさなかに行われたもので、それから十年ぐらいは高度経済成長なるものが続き、人々の暮らし向きは年々よくなり、池田内閣の国民所得倍増計画は大成功を収めたのでした。イケイケドンドンの時代にふさわしい祭典で、海外への宣伝効果も大いにあったと思われますが、今回のオリンピックは別にコロナがなくとも、全く逆ベクトルの社会状況下で開催されるもので、日本経済は世界における地位を下げ続けていて、少子高齢化で医療費や社会保障費が暴騰する中、労働者の平均賃金は下がり続け、税負担は重くなる一方で、たとえていうなら、前のオリンピックが「日の出」を象徴するものだったとするなら、今回のオリンピックは「日没」を記念するかのごときものになっていたのです。オリンピックの経済効果なんて一時的で高が知れたものなので、やったからといって基本の流れが変わるものでは全然ない。前にも書きましたが、IOCで安倍総理が臆面もない「アンダーコントロール」演説をぶった頃、必要なのはオリンピック誘致ではなく、東北大震災からの復興に真剣に取り組み、原発問題を再考し、かつ労働生産性を上げ、年金や医療制度の抜本的改革を進めることだったのです。
初めから、今回のオリンピック誘致は国民への「目くらまし」でしかなかった。そこに、開催年を狙い撃ちしたかのごとくコロナ禍が襲った。それに投下した巨額の費用は税金の無駄遣い以外の何ものでもなくなった。こういうの、昔の人なら「天罰覿面(てきめん)」と言ったのではないでしょうか。困窮する人がたくさんいて、他にも問題が山積しているのに、「こういうときこそ景気づけのお祭りが必要だ!」と、何もしないことの言い訳にオリンピック開催を利用しようとしたのです。間が悪いことに、そこにコロナさんがやって来た。
いったん決めたことは変えられず、いったん作ったものはこわせない。理由の如何を問わずそうなので、そういう事例は今の日本社会にはたくさんあります。例の共通一次→センター試験→共通テストと推移してきた、あのおかしな大学入試制度もその一つです。僕は前からあれは廃止した方がいいとずっと言っているのですが、その気配は全くなく、何としても維持しなければならないと、その前提でのみ考えているようです。
・【独自】共通テスト「このままでは実施困難」入試センター赤字13億…24年度試算
「少子化による共通テストの志願者減が原因で、『このままでは実施が困難になる』」というのですが、検定料(3教科以上1万8000円)は決して安くありません。国立の場合、二次の受験料がこれに加えて1万7000円かかるので、計3万5000円。私立の一般受験も一回平均3万5000円なので、同額なわけです。「安くない」というより、むしろ「高すぎる」ほどです。「有識者会議は、国に公的支援を求めることや、検定料が適切か検討することが必要としている」そうですが、値上げすればいいという安易な結論になりそうです。
上は読売ですが、これには朝日も続報を出していて、
大学入学共通テストの実務を担う独立行政法人大学入試センターが、大学から徴収する「成績提供手数料」を2年かけて値上げし、2年後の第3回共通テスト以降は現行の2倍にすることが10日、入試関係者への取材で分かった。
という話で、
センターは3月29日、国公私立大に値上げを通知した。関係者によると、まず来年1月の第2回共通テストで1200円に引き上げ、第3回以降は1500円にする。今年の750円も、初の共通テスト実施という理由で、大学入試センター試験だった2020年から180円値上げしていたが、今回の値上げ理由は「大幅赤字が予想され、共通テストを安定的・継続的に実施するため」と各大学に説明した。(以上、「共通テスト、大学からの手数料倍増へ 受験生の負担増も懸念」という見出しの4/11付記事)
というのです。要するに、再来年からは今年の倍額の手数料を各大学から取る。僕に奇怪に思われるのは、これらの記事は共通テスト自体を廃止するという選択肢はない前提で書かれていることです。それを廃止して、各大学が独自の入試を行ない、受験料を3万にしたとすれば、無用の長物たる「独立行政法人大学入試センター」に支払う1500円は消え、それを織り込んで計算すると、国立大は受験生一人当たり1万4500円の増収になるのです。作成科目が増えても元が取れるだけでなく、大いに潤うでしょう。そして受験生はトータル受験料が5000円少なくて済む(科目が増える関係で、どこも東大・京大のように二日がかりの入試になるかもしれませんが、これまではセンターにも別に二日取られていたのです)。それで困るのは潰れる「独立行政法人大学入試センター」だけでしょう。
現時点でも、東工大などはセンター改め共通テストは足切りに使われるだけで、二次試験の配点が100%です。つまり、共通テストの成績は無関係。東大は440点(二次)対110点(共通テスト)で四分の一。京大は学部によって様々ですが、こちらも高くても三分の一。他の旧帝大も大学・学部によってまちまちですが、二次の比重が6割を超えていることが多く、他の難関大も大方は似たようなものです。
要するに、センター=共通テストの成績は軽んじられることが多いということで、二次の記述を重視しているのです。理由はかんたんで、あんな試験では本当の学力はわからないと大学側が思っているからです。
僕は英語塾の教師なので、英語に関して言わせてもらえば、あれが「役に立たない」試験であるのは、今回の共通テストでなおさらはっきりしました。「実用性重視」に舵を切ったと言われますが、全く実用的ではない。出てくる英文がすべて、基本的な単語とイディオムしか使わないように限定されているからで、とくにイディオムは「超」がつく基本的なものしか出てこないように配慮されています。その意味で“不自然”すぎるので、あれではふつうの易しめの英文でも読むのに苦労することになるでしょう。二次試験に出てくる英文との落差がさらに拡大したという印象で、設問も低級知能パズルみたいなものが多く、通常の読解力とは関係のない頭の使い方を強いられる。取り上げられている題材も人畜無害すぎて知的刺激をもたらすようなものは何もなく、非常に退屈する(これは僕だけが言っていることではなく、受験生がそう言っているのです。前は物語文など、意外性があって、内容的に面白く読めるものもいくらかはあったのですが、それも消滅した)。受験生は退屈を我慢しながら、スピードだけは要求されるので、「クソみたいな問題だな」と思いつつも、集中力を切らせないようにしながら、ダダーッとやらねばならないのです。全体にこれは、高校生用ではなく、英語のよくできる小学生向けの試験だな、という感じです。それほど歯応えがない。大学の頃、ドイツ語の授業で、初心者向けだから仕方ないとはいえ、子供用のテキストを読まされて退屈で閉口した記憶があるのですが、あれと似た感じを受験生はもったでしょう。試験問題作成に関与しているガイジンは、あれが「役に立つ、実用的な」ものだとほんとに思っているのでしょうか?
ああいうつまらない試験ならやらない方がいいと僕は思っているので、今は二次でもリスニングを課すところは増えているし、英作文なども、従来の和文英訳に加えて表現力・発信力を見る意見作文なども加わっている。そして長文読解問題は内容的に面白いものが多く、それは英文読解力だけではなく、頭の柔軟さや考える力も見るようになっている。要するに、あんな試験を一次で課す必要は何もないので、地方のいわゆる駅弁国立の場合、理系などは二次に英語がないところもありますが、低レベルすぎる共通テストだけで英語力を判定していると、入学後困ることになるのではありませんか?
他の科目も、たとえば国語などはああいう試験では国語力は測れないし(だから理系でも二次に配点は低いが、国語を課すところが増えている)、難関大では文系でも二次に数学の試験はあるし、意味はあまりないのです。大学の個別試験しかなかった共通一次以前の時代は、各大学が必要な科目の問題を全部自前で作っていたのだから、共通テストは廃止して、元の形に戻せばいいだけです。当時は東大だけが独自の一次試験をやっていましたが、あれは知識に頼らなくても思考力と国語力で何とかなるものが多かったので、今のセンター改め共通テストの暗記に頼らざるを得ない試験よりはずっとマシだったのです。
そしたら受験生は、センター対策、二次対策と分けて勉強する手間が省けて、負担も軽減する。今でもその二次の科目は大学・学部によってまちまちなのだから、三年前ぐらいに試験科目を予告しておけば、何の問題もないわけです。重要科目は大方の大学の試験に共通して入っているだろうから。やれ、考える力がどうのと言いますが、前から二次では「考える力」は問われていた。センターが暗記マシーンみたいになることを受験生を要求するから、話がおかしくなってしまっただけなのです。
うちは科目横断的な独自の総合学力テストと英語または数学の試験を課すとか、学科試験は課さず、小論文と面接だけにするとか、今のAOや推薦みたいなやり方で全部の学生を取るという国立大大学もあってよい。国立だから科目を多くしなければならないということもないわけで、たとえば文系なら、数学を課さない国立大もあっていいわけです。哲学者ニーチェや作家フローベルのような、数学はまるでダメの天才もいるのだから。そういうふうにバラバラになると、従来の偏差値ランキングみたいなものも無意味になってきて、もっと個性的な大学が増えるかもしれない。そしたら多様な人材が輩出されて、めでたしめでたしではありませんか?
ついでに言うと、今の日本は大学の数が無駄に多すぎるので、慢性定員割れのいわゆるFラン私大などは潰して、整理した方がいい。それが補助金のばらまきになっていて、文教予算が不足し、科研費なども削られるようになっているわけです。こういうのは漏電だらけの古い家に住んで、それはそのまま放置して家族に電気の節約を呼びかけているようなものなので、問題の解決にはならない。これも「いったん作ったものは潰せない」思考で、見通しもないままいつまでも延命させるからで、そこに合理性はないのです。建物を老人ホームに転用などすれば、使い道はいくらもあるので、少子化で学生数も減るばかりなのだから、一体いつまでこういう状態を放置しているのかと思います。
これは「母校がなくなるのはさみしい」というようなセンチメンタルな問題ではない。僕の母校なんか、小学、中学、高校と、その主な原因は過疎ですが、全部“消滅”してしまいました。しかし、それは時の流れというもので、大学までなくなっても、別に気にしないでしょう。諸行無常はこの世のつねなので、自分も後十年か、長くても二十年後にはあの世に行くのです。嘆くべきことは、栄枯盛衰があることではなく、変わるべきものが変わらないことです。そこらが腐った水たまりだらけになってしまうことです。それでは社会はまともに機能しなくなる。
今の日本の組織は老害が目立つので、とくに二階や麻生が支配する自民党などは最悪ですが、こういうふうに「変えられない」のも、変えたくない連中が変えようとする側を妨害していて、それで変える機運がすっかり衰退してしまったからなのかもしれません。「何を言っても駄目」みたいな諦め心理に支配されるようになったのです。彼らは発想自体が固定化していて古いので、今回の共通テストみたいに、「有識者」なる連中がわけのわからないことをワアワア言って、前よりももっと悪いものに変えて、事態を悪化させるだけになったりするのです。それでは全然「変えた」ことにはならないのですが、それがわかっていない。東京オリンピックも大阪万博(こちらは2025年予定)も、昔と発想が同じで、老人たちの「過去の成功体験」から出てきたものにすぎないでしょう。場所まで同じ東京と大阪で、時間間隔も、前回が1964年と1970年で、今回と似通っている。
こういうのは何なのかなと思いますが、いかに今の日本は発想力が乏しく、型にはまった考え方しかできないかということを示しています。今の日本の若者は保守化していると言われますが、若い世代に活躍の場を与えようとしないからそうなってしまうわけで、そのあたり根本から考え直した方がいいのではありませんか? 僕は塾の生徒に言われて何度か高校の文化祭を見に行ったことがあって、今の若い子は表現力があってセンスもいいなあと感心したので、その力を活用しないのが悪いのです。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
「どうやったら国語力はつくんですか?」
これは僕が塾でよく受ける質問です。一つ難しいなと思うのは、学科としての国語力、とくにセンター改め共通テストの国語のような客観式テストの得点率と、本当の国語力はイコールではないということです。あの試験の場合、僕もたまに解いてみることがありますが、大体8割前後は得点でき、しかも、古文漢文ではほとんどミスをしないで、現国で落としていることが多く、それはいい加減にやってしまうことも関係しますが、古文漢文の場合、あれは教科書によく採用される有名どころは避けられている(見たことがあるのとないのとでは不公平になるという理由で)ので、出題文そのものはかなり難しいが、設問にヒントがあるので、そこを押さえれば解けてしまう。つまり、要領の問題なので、それは国語力というよりは受験テクニックの問題です。現国だと出題文が読んでわからないということはない(評論なんかには何を一生懸命わけのわからないこと言ってるんですか、と言いたくなるものもたまにありますが)ので、ただ設問が、文構成がどうなっているかというような、内容そのものの理解とは無関係な形式に関するものなども入っているので、「そんなもの、どうでもええわ」とテキトーに片づけているうちに失点することになるのです。
この場合、現国の読解力が一番あるはずなので、にもかかわらずその得点が一番低く、大してない古文漢文の得点の方が高いというのは、国語力を正しく反映していないということになるでしょう。一般受験生の場合でも、理系のよくできる生徒などは古文漢文を手堅く取るという話を聞くので、それは同じ理由によるのではないかと思われます。そのあたり、国語力というよりは要領の問題なのです。
これは記述式の方を見ないとわかりませんが、英語の偏差値は70あって、国語は50前後というアンバランスな生徒の場合、国語力がないと文脈を読みとったり、満足な英文和訳、和文英訳もできないので、そういう生徒は国語力がないわけではない。ただ「国語問題の掟」のようなものを知らないだけなので、そこに苦手意識が加わって、そういう結果になってしまうだけなのでしょう。有能な国語の先生ならそのあたり教えられるはずですが、たいていの場合、問題を繰り返し解かせるだけになって、「国語問題の掟」では、ここはこういう考え方になって、この選択肢が正解になるとか、こういう場合はこういう書き方をするといい点がもらえるとか教えることはしないから、改善しないままになってしまうのでしょう。あれはかなり特殊な世界だと僕は思っていますが、国語の先生自身はその中で育っているので、それが特殊なものだとは感じず、相対化した視点でそれを見ることもなく、かえってそういう発想は「国語という教科に対する冒瀆」のように感じられるのかもしれません。
僕自身は昔、「国語だけできる子供」でした。中一のとき、何でそういうことになったのかは忘れましたが、割と思い込みの激しい国語の先生(太めの中年女性)が大げさにそこらじゅうに触れ回って、試験でも絶対に一番を取らないといけないことにされ、一度そこから陥落すると、職員室に呼び出されて、「何ですか、この恐ろしい点数は!」と震える声で叱責され、そのときの僕の点数は88点だったのですが、深刻な罪悪みたいに言われて、子供心にもそれは少々大げさすぎるように思われましたが、とにかくそれで周りも何となく「国語はあいつ」ということになって、暗示の力は恐ろしいものなので、自分でも国語は得意だと思い込んでしまったのです。大学受験の時も、国語を構えて勉強した記憶はない(勉強にせず、楽しく古文漢文もできるようになる方法があるのですが、長くなりすぎるのでそれはカット)ので、「国語問題の掟」もその頃は何となくわかっていたわけです。
皆目わからなかった英語は、僕のそれはほとんど独学なのですが、自分であれこれ考えながらやったおかげで、学校では教えないようなことも教えられるようになり、文法などの説明もその分わかりやすいだろうと思うので、それが商売になったわけです。得意だった国語の方は、説明しろと言われても説明しにくいので、国語も教えたことはあるのですが、どうもこじつけじみていて、自分ではこういう順序で考えてはいないよなという感じなので、教えるのは下手なのです。そして受験が終わって「国語問題の掟」とは無関係になると、自分でもそのあたりカンが鈍って、かつてのようには「正解」できなくなった。
だから国語も、元々は苦手だった人が苦労の末、高得点できるようになり、その過程で身につけたノウハウを伝授するというふうだと、効果的な指導ができるのかもしれません。試験問題というものにはそういう性質があるので、前にイギリスに3年間いたという子が塾に英語を教えてほしいと言ってきたので驚いたことがあるのですが、聞けば、日本の大学入試の英文法の問題が解けないのだという。これは文法がわかっていないということではなくて、頭の不自然な使い方を要求される文法問題に対処できないということにすぎなかったのです(その証拠に、英作文を書かせるとちゃんと正しい英文が書けた)。それで3カ月ほどかけて説明しながら問題集を一冊解かせると、コツがわかったようで問題は解消したのですが、この他にも講師を募集したら、東大の大学院に在籍しているインド大使か何かの娘さんが応募してきて、採用試験用の高校入試(但し、私立)の英文法の問題ができなくて、面接していて、同じ理由によるのだなとわかったことがあります。ああいうのは一種のパズルのようなものなので、やはり特殊なのです。
話を戻して、だから国語だけできないという生徒の場合、それは国語力がないのではなく、「国語問題の掟」がわかっていないだけだと思われるので、そのあたりがわかるように解説してくれている問題集でも一冊やれば、そして「国語ができない」という自己暗示を解除できれば、問題は解決するでしょう。
ついでに、近年増えている小論文についても少し書いておきましょう。前に短期間、東京の某資格試験予備校で行政書士試験の時事小論文の講師をしたことがあって、こういう笑える話がありました。サラリーマンらしきある男性がこう質問したのです。その人は前の年、別の予備校に通ったそうですが、そこでは答案のフォーマットのようなものが提示され、書き出し、本論、結論と、使う行数まで細かく指定され、言い回しなども教えてくれて、そこに言葉を当てはめるみたいにして書くすべを習ったが、先生はそういうことを全く言わない、それは問題ではないかと。僕はそのとき出題が予想される問題を五つほどピックアップして、毎回資料を配布し、一通りレクチャーした上で受講者に書いてもらってそれを添削していたのですが、議論が自然に流れ、整合性があって説得力があるかどうかがポイントなので、添削を受けるうちにそのあたり、何となくわかってもらえるだろうと思っていました。しかし、その人にはそれが不満だったわけです。そこで僕は、逆にこう質問しました。もしその別の予備校の指導がよくて、功を奏していたのなら、なぜあなたは今ここにおられるのですかと。駄目だったから、予備校を変えたはずだからです。
幸い、予想問題の一つが的中し、感謝状をたくさんもらって喜んだのですが、その中には「正直言うと、毎回添削で真っ赤にされるので、頭に来てました」なんてのもあって苦笑させられました。その意図はなかったのですが、僕は皆さんのプライドを傷つけていたのです。しかし、文のつながりが不自然すぎたり、無意味なことや、前と後ろが矛盾するようなことを書いて受かるはずはないので、そういうことは自覚してもらわないと困るのです。これは大学入試の小論文でも同じですが、何とか型と命名して、いくつものそのパターンを長々と説明していたりする小論文の参考書などもありますが、大方は有害無益で、文章を書いている人間はそんな型など意識して書いているわけではないので、それを後で誰かが勝手に分類したにすぎないのです。まず問題点を挙げて、それについて論じ、最後にまとめるというふうに、通常は自然に頭が働くから、かんじんなのはそこに盛り込まれる中身です。型だけ守っているが、内容の論理的つながりは不明というのでは何の意味もない。なかには何をきかれているのかを理解せず、違うことを長々と書き並べる人もいますが、こういうのは駅への道順をきかれているのに、徒歩だと何分、タクシーやバスだとそれぞれ何分、なんてことを細かく説明して相手をイライラさせてしまうのと同じです。
そして大事なのは「自分の頭で考える」ということなので、そうしているかぎり、論述は自然に流れるのですが、借り物の情報を入れ込むことにばかり腐心すると、たいていは支離滅裂になってしまう。大学の推薦用の志望理由書なども、そこにその生徒の「真実の思い」がこめられていてこそアピールするので、技術的なことはむしろ枝葉にすぎないのです(文章を直す場合も、オリジナリティが十分あればかんたんな手直しで済む)。
面白いのは、意見作文のようなものの場合、考えながら書いていると、最初自分が正しいと思っていたことがだんだん疑わしくなってくる、というようなことがしばしば起こるので、そういう例を僕は副業で専門学校の社会学講師をしていた頃、学生のレポートで何度も見ましたが、一体何が正しいのか、途中でわからなくなってしまうのです。本人は苦しい状況に追い込まれてしまったわけですが、そういうのは読んでいて面白いので、僕は高い評価を与えました。しかし、日本の学校教育に一番欠けているのはそういう体験と訓練です。ソクラテスではないが、そうやって自分で考えることによって、「わかっていた」ことが実は「わかったつもり」だけだったことに気づいて、無知を自覚するのです。大学入試の小論文のテーマでも、これは一筋縄ではいかないなというものが多いのですが、出題者側は「明確な主張」よりも、それが単純な問題ではないということを受験生が理解しているかどうかを答案から読み取ろうとしているのでしょう。高校の先生には「結論が明確」であるかどうかにやたらこだわる人がいますが、表面的な議論だけしていくら結論が明確でも、それは問題の奥行きを理解していないということなので、いい点数なんかもらえるわけはないのです。
今は英語の入試でも、英文である問題に関する意見や議論を示して、あなたはこの考えに賛成か反対か(あるいはどちらを支持するか)、理由を挙げて、○○の語数で書きなさい、というような問題がよく出ます。こちらはそんなに微妙な、答えにくい問題は出ないので、比較的書きやすいのですが、それでも生徒の方が一番困るのは、その「理由」の箇所であるようです。今でも地方の高校などは「詰め込み暗記」一辺倒の教育をしていて、その上に課外だの宿題だので手いっぱいで、社会問題化しているような多くのことの基礎知識すらなかったりするので、「急にそんなこと言われても困る」ことになるのです。大体、学校で要求されるのは、教師が用意した「正解」を言い当てることでしかないので、自分の考えや意見ではない。校則その他のことで「これはおかしい」という意見を言っても、反抗的だということで嫌な顔をされるだけで、対等の立場で意見を戦わせるというようなことには決してならない。昔の高校生は平気で教師をやりこめたりしたものですが、今はそんな下剋上は許されない雰囲気になっていて、親も「内申に響く」ことを恐れて、必死に止めるのです。
だから、それ自体典型的な問題についてであっても、十分な知識もないし、意見表明の機会も与えられてこなかったので、何と書いていいかわからず、小学生でももう少しましな理由が挙げられるだろうと思うようなヘンなものしか出てこなくて、軽い突っ込みだけで瓦解するような説得力に著しく乏しいものになったりするのです。これは英語以前の問題で、書かれている理由が意味不明なので、これはどういうことなのと質問すると、本人が思っていることと、表現されたそれとが全然違っていたりして、つまり、「相手がわかるように書く」ということもできないのだなと判明したりするのです。これが劣等生ならともかく、共通テスト(センター)で総合8割前後はある生徒だったりするので、事態はかなり深刻であることがお分かりいただけるでしょう。学校が事実上「自由なコミュニケーション」と各自で「考えること」を禁止するようなおかしな教育をするから、こうなってしまうわけです。こう言っては失礼ながら、そんな学校、ない方がマシではありませんか?
だから、読書は推奨されますが、わかりきったことながら、それも自分で考えながら読まないと駄目なので、仮に高校生が論説文対策で本を読むとしたら、模試に出る評論のような、本人と狭い範囲のギョーカイ人以外は誰も読まないだろうなと思われるような専門用語だらけの、難解な割に内容は乏しい文章ではなく、この人はほんとに頭がいいなという一流の人の書いた面白い文章を読んだ方がいい(一流大の場合、本番の入試のそれはいいものがセレクトされていることが多い)。自分の頭の混乱やもつれがそのまま問題に化けてしまったような人の書いたものや、論理の粗雑な文(最近はこれが目立つ)をいくら読んでも駄目なので、そういう見分けも、本を読んでいるうちについてくるものなので、わからないという人は目利きができる人に聞けばいいと思いますが、知的誠実さをもつ明晰な頭脳の持ち主が書いたものなら、わからないところに遭遇しても、それはこちらの問題なので、よく考えると必ずわかるはずです。そういうことを繰り返しているうちに、考える力もおのずとついてくる。論理的な文章を書く素地も、それで養われるわけです。これは翻訳ものでも訳文がしっかりしていればいいので、興味のあるジャンルを選んで、そこの一流どころを一冊でも二冊でも、読むといいのです。
それ以前のことについては、小さいお子さんがいる家庭では、絵本の読み聞かせなどが国語力育成に効果的であることはよく知られています(これはビデオやDVDでは駄目で、人による直接的な語りかけが大切。脳の反応部位が違うのです)。いわゆる論理的思考力が育ってくるのは比較的遅い段階で、子供は物語的なものが好きで、その中に感情移入して入り込んで、ストーリーを擬似体験するのが楽しいのです。想像力や直観力、共感力も、自由な遊びの他、そういうことで育つ。それから漫画や小説を自分で読むようになって、高校生ぐらいになると背伸びして、比較的読みやすい講演集や、それぞれの興味に応じて科学や哲学、心理学などの入門書もいくらか読みかじるようになり、論理的な文章もわかるようになってくるわけです。僕は高校生の頃、西洋の小説が好きで、その翻訳を日本の小説より多く読みましたが、西洋人の文章は元来ロジカルなので、それだけでも論理に強くなるということはあるでしょう(ついでに言うと、読書について親が「教育的配慮」からあれこれ指図するのは感心しません。うちの息子は小学生の頃、お笑い芸人志望で、漫画家のさくらももこのエッセイやヒロシの著書を愛読して、自分でも駄ジャレをつくり、「もうしませんとは申しません」などという“新作”を自慢げに披露したりしていましたが、そういう好きでやる言葉遊びも国語力を伸ばす助けになるでしょう。彼は大の勉強嫌いで、学校から帰るとすぐに遊びに行きたがり、「家庭学習の限度時間は15分から30分」と母親を嘆かせていましたが、基本的に学校のお勉強が好きな子供なんていないものなので、お受験する子は別として、落ちこぼれてさえいなければ好きにさせていいのです。小学生に英語を習わせるのも、僕自身は大して意味がないだろうと思っています)。
文を読むスピードも、本好きの子とそうでない子では全然違うので、小説なんか、早く先が知りたくて読んでいるうちに、自然に読むのが速くなるのです。だから試験でも、問題文を読むスピードが違うので、設問に答える時間的余裕も読むのが速い生徒にはたっぷりあることになって、よけい得点差がついてしまうことになるわけです。
この前、共通テストの新科目についての新聞記事がネットに出ていましたが、「(試行)問題のページ数は歴史総合が17ページ、情報と地理総合が各18ページ、公共が26ページに上り、限られた時間内に多くの資料や文章を読みこなす必要がある」(朝日新聞)とあって、読むのが遅いと今後は他教科の成績にも致命的な影響を及ぼすことになるのです。
今は学校でも「読書の時間」なるものが設けられ、前に生徒に本を貸してあげたら、学校でその時間に少しずつ読んでいるという話でしたが、僕なら二晩か、遅くとも一週間では読み切ってしまうだろうと思ったので、本というのは元来そういう読み方をするものではないのです。しかし、超多忙な今の子供たちには二、三時間ぶっ通しで本を読むなんてぜいたくはできないので、毎日十分間決められた時間に学校で少しずつ読むなんてことになって、それでは次に読むときは前の箇所は忘れているし、不効率かつ人間の生理にも反したやり方なのですが、それで学校は「読書の習慣」を身につけさせられると思っているのです。何だかねえ…。そもそも読書というのは勝手にやるからこその読書なので、時間的ゆとりを奪いすぎるからそんな妙なことになってしまうわけです。
このあたり、学校授業に課外と部活と大量の宿題がプラスされて、睡眠時間も削られる(最悪なのはあの朝課外ですが)ような学校では、ゆとりがなさすぎて国語力も「考える力」も育たないわけです。将来ブラック企業に勤務したときでも耐えられるようにという親切心から出ているのかもしれませんが、誰もそんなことは学校に頼んでいない。この前も春休みで大学生になった元塾生たちが遊びに来てくれて、「悪夢のようなあの生活は思い出したくない」と笑っていましたが、合理性ゼロのそういう学校に通う生徒たちはうまく手抜きしないと、大切なそういう能力を奪われてしまうのです。入試自体が詰め込み暗記から脱却する方向に向かっているというのに、これでは受験の妨害をしているのと同じなので、その種の学校に通う生徒やその保護者は、それに対する防衛策を練らねばならなくなるのです(実際僕は、わが子が高校に入学したとき、睡眠時間7時間確保を厳命した上、「下手すると疲れて病気になるし、あんな“指導”に従っていたのでは行きたい大学なんか受かるわけはないから、うまく手抜きしろ」とアドバイスしたほどです)。
国語力のつけ方から脱線しましたが、実際今の子供たちの「国語力低下」の原因は、スマホの普及よりも、学校の詰め込み暗記教育と過剰管理の悪影響によるところの方が大きいので、それに触れないでは済まされないのです。長くなったのでこれくらいにしますが、不幸にしてそういう学校に入ってしまったという人は、主体性をもち、距離を置いて学校とは付き合い、「手抜き」と言って悪ければ、宿題なども取捨選択して、よけいなものに時間を取られないようにして、自分でものを考えたり、本や雑誌を読んだりするゆとりを確保することが大切でしょう。子供が低学年の親御さんたちも、多すぎる習い事や塾などで子供のゆとりを奪いすぎないように気をつけた方がいいと思います。自分で工夫したり、主体的に考え、自問自答したりする能力は、それが「見えない学力」というものですが、自由のないところでは育たないからです。
これは僕が塾でよく受ける質問です。一つ難しいなと思うのは、学科としての国語力、とくにセンター改め共通テストの国語のような客観式テストの得点率と、本当の国語力はイコールではないということです。あの試験の場合、僕もたまに解いてみることがありますが、大体8割前後は得点でき、しかも、古文漢文ではほとんどミスをしないで、現国で落としていることが多く、それはいい加減にやってしまうことも関係しますが、古文漢文の場合、あれは教科書によく採用される有名どころは避けられている(見たことがあるのとないのとでは不公平になるという理由で)ので、出題文そのものはかなり難しいが、設問にヒントがあるので、そこを押さえれば解けてしまう。つまり、要領の問題なので、それは国語力というよりは受験テクニックの問題です。現国だと出題文が読んでわからないということはない(評論なんかには何を一生懸命わけのわからないこと言ってるんですか、と言いたくなるものもたまにありますが)ので、ただ設問が、文構成がどうなっているかというような、内容そのものの理解とは無関係な形式に関するものなども入っているので、「そんなもの、どうでもええわ」とテキトーに片づけているうちに失点することになるのです。
この場合、現国の読解力が一番あるはずなので、にもかかわらずその得点が一番低く、大してない古文漢文の得点の方が高いというのは、国語力を正しく反映していないということになるでしょう。一般受験生の場合でも、理系のよくできる生徒などは古文漢文を手堅く取るという話を聞くので、それは同じ理由によるのではないかと思われます。そのあたり、国語力というよりは要領の問題なのです。
これは記述式の方を見ないとわかりませんが、英語の偏差値は70あって、国語は50前後というアンバランスな生徒の場合、国語力がないと文脈を読みとったり、満足な英文和訳、和文英訳もできないので、そういう生徒は国語力がないわけではない。ただ「国語問題の掟」のようなものを知らないだけなので、そこに苦手意識が加わって、そういう結果になってしまうだけなのでしょう。有能な国語の先生ならそのあたり教えられるはずですが、たいていの場合、問題を繰り返し解かせるだけになって、「国語問題の掟」では、ここはこういう考え方になって、この選択肢が正解になるとか、こういう場合はこういう書き方をするといい点がもらえるとか教えることはしないから、改善しないままになってしまうのでしょう。あれはかなり特殊な世界だと僕は思っていますが、国語の先生自身はその中で育っているので、それが特殊なものだとは感じず、相対化した視点でそれを見ることもなく、かえってそういう発想は「国語という教科に対する冒瀆」のように感じられるのかもしれません。
僕自身は昔、「国語だけできる子供」でした。中一のとき、何でそういうことになったのかは忘れましたが、割と思い込みの激しい国語の先生(太めの中年女性)が大げさにそこらじゅうに触れ回って、試験でも絶対に一番を取らないといけないことにされ、一度そこから陥落すると、職員室に呼び出されて、「何ですか、この恐ろしい点数は!」と震える声で叱責され、そのときの僕の点数は88点だったのですが、深刻な罪悪みたいに言われて、子供心にもそれは少々大げさすぎるように思われましたが、とにかくそれで周りも何となく「国語はあいつ」ということになって、暗示の力は恐ろしいものなので、自分でも国語は得意だと思い込んでしまったのです。大学受験の時も、国語を構えて勉強した記憶はない(勉強にせず、楽しく古文漢文もできるようになる方法があるのですが、長くなりすぎるのでそれはカット)ので、「国語問題の掟」もその頃は何となくわかっていたわけです。
皆目わからなかった英語は、僕のそれはほとんど独学なのですが、自分であれこれ考えながらやったおかげで、学校では教えないようなことも教えられるようになり、文法などの説明もその分わかりやすいだろうと思うので、それが商売になったわけです。得意だった国語の方は、説明しろと言われても説明しにくいので、国語も教えたことはあるのですが、どうもこじつけじみていて、自分ではこういう順序で考えてはいないよなという感じなので、教えるのは下手なのです。そして受験が終わって「国語問題の掟」とは無関係になると、自分でもそのあたりカンが鈍って、かつてのようには「正解」できなくなった。
だから国語も、元々は苦手だった人が苦労の末、高得点できるようになり、その過程で身につけたノウハウを伝授するというふうだと、効果的な指導ができるのかもしれません。試験問題というものにはそういう性質があるので、前にイギリスに3年間いたという子が塾に英語を教えてほしいと言ってきたので驚いたことがあるのですが、聞けば、日本の大学入試の英文法の問題が解けないのだという。これは文法がわかっていないということではなくて、頭の不自然な使い方を要求される文法問題に対処できないということにすぎなかったのです(その証拠に、英作文を書かせるとちゃんと正しい英文が書けた)。それで3カ月ほどかけて説明しながら問題集を一冊解かせると、コツがわかったようで問題は解消したのですが、この他にも講師を募集したら、東大の大学院に在籍しているインド大使か何かの娘さんが応募してきて、採用試験用の高校入試(但し、私立)の英文法の問題ができなくて、面接していて、同じ理由によるのだなとわかったことがあります。ああいうのは一種のパズルのようなものなので、やはり特殊なのです。
話を戻して、だから国語だけできないという生徒の場合、それは国語力がないのではなく、「国語問題の掟」がわかっていないだけだと思われるので、そのあたりがわかるように解説してくれている問題集でも一冊やれば、そして「国語ができない」という自己暗示を解除できれば、問題は解決するでしょう。
ついでに、近年増えている小論文についても少し書いておきましょう。前に短期間、東京の某資格試験予備校で行政書士試験の時事小論文の講師をしたことがあって、こういう笑える話がありました。サラリーマンらしきある男性がこう質問したのです。その人は前の年、別の予備校に通ったそうですが、そこでは答案のフォーマットのようなものが提示され、書き出し、本論、結論と、使う行数まで細かく指定され、言い回しなども教えてくれて、そこに言葉を当てはめるみたいにして書くすべを習ったが、先生はそういうことを全く言わない、それは問題ではないかと。僕はそのとき出題が予想される問題を五つほどピックアップして、毎回資料を配布し、一通りレクチャーした上で受講者に書いてもらってそれを添削していたのですが、議論が自然に流れ、整合性があって説得力があるかどうかがポイントなので、添削を受けるうちにそのあたり、何となくわかってもらえるだろうと思っていました。しかし、その人にはそれが不満だったわけです。そこで僕は、逆にこう質問しました。もしその別の予備校の指導がよくて、功を奏していたのなら、なぜあなたは今ここにおられるのですかと。駄目だったから、予備校を変えたはずだからです。
幸い、予想問題の一つが的中し、感謝状をたくさんもらって喜んだのですが、その中には「正直言うと、毎回添削で真っ赤にされるので、頭に来てました」なんてのもあって苦笑させられました。その意図はなかったのですが、僕は皆さんのプライドを傷つけていたのです。しかし、文のつながりが不自然すぎたり、無意味なことや、前と後ろが矛盾するようなことを書いて受かるはずはないので、そういうことは自覚してもらわないと困るのです。これは大学入試の小論文でも同じですが、何とか型と命名して、いくつものそのパターンを長々と説明していたりする小論文の参考書などもありますが、大方は有害無益で、文章を書いている人間はそんな型など意識して書いているわけではないので、それを後で誰かが勝手に分類したにすぎないのです。まず問題点を挙げて、それについて論じ、最後にまとめるというふうに、通常は自然に頭が働くから、かんじんなのはそこに盛り込まれる中身です。型だけ守っているが、内容の論理的つながりは不明というのでは何の意味もない。なかには何をきかれているのかを理解せず、違うことを長々と書き並べる人もいますが、こういうのは駅への道順をきかれているのに、徒歩だと何分、タクシーやバスだとそれぞれ何分、なんてことを細かく説明して相手をイライラさせてしまうのと同じです。
そして大事なのは「自分の頭で考える」ということなので、そうしているかぎり、論述は自然に流れるのですが、借り物の情報を入れ込むことにばかり腐心すると、たいていは支離滅裂になってしまう。大学の推薦用の志望理由書なども、そこにその生徒の「真実の思い」がこめられていてこそアピールするので、技術的なことはむしろ枝葉にすぎないのです(文章を直す場合も、オリジナリティが十分あればかんたんな手直しで済む)。
面白いのは、意見作文のようなものの場合、考えながら書いていると、最初自分が正しいと思っていたことがだんだん疑わしくなってくる、というようなことがしばしば起こるので、そういう例を僕は副業で専門学校の社会学講師をしていた頃、学生のレポートで何度も見ましたが、一体何が正しいのか、途中でわからなくなってしまうのです。本人は苦しい状況に追い込まれてしまったわけですが、そういうのは読んでいて面白いので、僕は高い評価を与えました。しかし、日本の学校教育に一番欠けているのはそういう体験と訓練です。ソクラテスではないが、そうやって自分で考えることによって、「わかっていた」ことが実は「わかったつもり」だけだったことに気づいて、無知を自覚するのです。大学入試の小論文のテーマでも、これは一筋縄ではいかないなというものが多いのですが、出題者側は「明確な主張」よりも、それが単純な問題ではないということを受験生が理解しているかどうかを答案から読み取ろうとしているのでしょう。高校の先生には「結論が明確」であるかどうかにやたらこだわる人がいますが、表面的な議論だけしていくら結論が明確でも、それは問題の奥行きを理解していないということなので、いい点数なんかもらえるわけはないのです。
今は英語の入試でも、英文である問題に関する意見や議論を示して、あなたはこの考えに賛成か反対か(あるいはどちらを支持するか)、理由を挙げて、○○の語数で書きなさい、というような問題がよく出ます。こちらはそんなに微妙な、答えにくい問題は出ないので、比較的書きやすいのですが、それでも生徒の方が一番困るのは、その「理由」の箇所であるようです。今でも地方の高校などは「詰め込み暗記」一辺倒の教育をしていて、その上に課外だの宿題だので手いっぱいで、社会問題化しているような多くのことの基礎知識すらなかったりするので、「急にそんなこと言われても困る」ことになるのです。大体、学校で要求されるのは、教師が用意した「正解」を言い当てることでしかないので、自分の考えや意見ではない。校則その他のことで「これはおかしい」という意見を言っても、反抗的だということで嫌な顔をされるだけで、対等の立場で意見を戦わせるというようなことには決してならない。昔の高校生は平気で教師をやりこめたりしたものですが、今はそんな下剋上は許されない雰囲気になっていて、親も「内申に響く」ことを恐れて、必死に止めるのです。
だから、それ自体典型的な問題についてであっても、十分な知識もないし、意見表明の機会も与えられてこなかったので、何と書いていいかわからず、小学生でももう少しましな理由が挙げられるだろうと思うようなヘンなものしか出てこなくて、軽い突っ込みだけで瓦解するような説得力に著しく乏しいものになったりするのです。これは英語以前の問題で、書かれている理由が意味不明なので、これはどういうことなのと質問すると、本人が思っていることと、表現されたそれとが全然違っていたりして、つまり、「相手がわかるように書く」ということもできないのだなと判明したりするのです。これが劣等生ならともかく、共通テスト(センター)で総合8割前後はある生徒だったりするので、事態はかなり深刻であることがお分かりいただけるでしょう。学校が事実上「自由なコミュニケーション」と各自で「考えること」を禁止するようなおかしな教育をするから、こうなってしまうわけです。こう言っては失礼ながら、そんな学校、ない方がマシではありませんか?
だから、読書は推奨されますが、わかりきったことながら、それも自分で考えながら読まないと駄目なので、仮に高校生が論説文対策で本を読むとしたら、模試に出る評論のような、本人と狭い範囲のギョーカイ人以外は誰も読まないだろうなと思われるような専門用語だらけの、難解な割に内容は乏しい文章ではなく、この人はほんとに頭がいいなという一流の人の書いた面白い文章を読んだ方がいい(一流大の場合、本番の入試のそれはいいものがセレクトされていることが多い)。自分の頭の混乱やもつれがそのまま問題に化けてしまったような人の書いたものや、論理の粗雑な文(最近はこれが目立つ)をいくら読んでも駄目なので、そういう見分けも、本を読んでいるうちについてくるものなので、わからないという人は目利きができる人に聞けばいいと思いますが、知的誠実さをもつ明晰な頭脳の持ち主が書いたものなら、わからないところに遭遇しても、それはこちらの問題なので、よく考えると必ずわかるはずです。そういうことを繰り返しているうちに、考える力もおのずとついてくる。論理的な文章を書く素地も、それで養われるわけです。これは翻訳ものでも訳文がしっかりしていればいいので、興味のあるジャンルを選んで、そこの一流どころを一冊でも二冊でも、読むといいのです。
それ以前のことについては、小さいお子さんがいる家庭では、絵本の読み聞かせなどが国語力育成に効果的であることはよく知られています(これはビデオやDVDでは駄目で、人による直接的な語りかけが大切。脳の反応部位が違うのです)。いわゆる論理的思考力が育ってくるのは比較的遅い段階で、子供は物語的なものが好きで、その中に感情移入して入り込んで、ストーリーを擬似体験するのが楽しいのです。想像力や直観力、共感力も、自由な遊びの他、そういうことで育つ。それから漫画や小説を自分で読むようになって、高校生ぐらいになると背伸びして、比較的読みやすい講演集や、それぞれの興味に応じて科学や哲学、心理学などの入門書もいくらか読みかじるようになり、論理的な文章もわかるようになってくるわけです。僕は高校生の頃、西洋の小説が好きで、その翻訳を日本の小説より多く読みましたが、西洋人の文章は元来ロジカルなので、それだけでも論理に強くなるということはあるでしょう(ついでに言うと、読書について親が「教育的配慮」からあれこれ指図するのは感心しません。うちの息子は小学生の頃、お笑い芸人志望で、漫画家のさくらももこのエッセイやヒロシの著書を愛読して、自分でも駄ジャレをつくり、「もうしませんとは申しません」などという“新作”を自慢げに披露したりしていましたが、そういう好きでやる言葉遊びも国語力を伸ばす助けになるでしょう。彼は大の勉強嫌いで、学校から帰るとすぐに遊びに行きたがり、「家庭学習の限度時間は15分から30分」と母親を嘆かせていましたが、基本的に学校のお勉強が好きな子供なんていないものなので、お受験する子は別として、落ちこぼれてさえいなければ好きにさせていいのです。小学生に英語を習わせるのも、僕自身は大して意味がないだろうと思っています)。
文を読むスピードも、本好きの子とそうでない子では全然違うので、小説なんか、早く先が知りたくて読んでいるうちに、自然に読むのが速くなるのです。だから試験でも、問題文を読むスピードが違うので、設問に答える時間的余裕も読むのが速い生徒にはたっぷりあることになって、よけい得点差がついてしまうことになるわけです。
この前、共通テストの新科目についての新聞記事がネットに出ていましたが、「(試行)問題のページ数は歴史総合が17ページ、情報と地理総合が各18ページ、公共が26ページに上り、限られた時間内に多くの資料や文章を読みこなす必要がある」(朝日新聞)とあって、読むのが遅いと今後は他教科の成績にも致命的な影響を及ぼすことになるのです。
今は学校でも「読書の時間」なるものが設けられ、前に生徒に本を貸してあげたら、学校でその時間に少しずつ読んでいるという話でしたが、僕なら二晩か、遅くとも一週間では読み切ってしまうだろうと思ったので、本というのは元来そういう読み方をするものではないのです。しかし、超多忙な今の子供たちには二、三時間ぶっ通しで本を読むなんてぜいたくはできないので、毎日十分間決められた時間に学校で少しずつ読むなんてことになって、それでは次に読むときは前の箇所は忘れているし、不効率かつ人間の生理にも反したやり方なのですが、それで学校は「読書の習慣」を身につけさせられると思っているのです。何だかねえ…。そもそも読書というのは勝手にやるからこその読書なので、時間的ゆとりを奪いすぎるからそんな妙なことになってしまうわけです。
このあたり、学校授業に課外と部活と大量の宿題がプラスされて、睡眠時間も削られる(最悪なのはあの朝課外ですが)ような学校では、ゆとりがなさすぎて国語力も「考える力」も育たないわけです。将来ブラック企業に勤務したときでも耐えられるようにという親切心から出ているのかもしれませんが、誰もそんなことは学校に頼んでいない。この前も春休みで大学生になった元塾生たちが遊びに来てくれて、「悪夢のようなあの生活は思い出したくない」と笑っていましたが、合理性ゼロのそういう学校に通う生徒たちはうまく手抜きしないと、大切なそういう能力を奪われてしまうのです。入試自体が詰め込み暗記から脱却する方向に向かっているというのに、これでは受験の妨害をしているのと同じなので、その種の学校に通う生徒やその保護者は、それに対する防衛策を練らねばならなくなるのです(実際僕は、わが子が高校に入学したとき、睡眠時間7時間確保を厳命した上、「下手すると疲れて病気になるし、あんな“指導”に従っていたのでは行きたい大学なんか受かるわけはないから、うまく手抜きしろ」とアドバイスしたほどです)。
国語力のつけ方から脱線しましたが、実際今の子供たちの「国語力低下」の原因は、スマホの普及よりも、学校の詰め込み暗記教育と過剰管理の悪影響によるところの方が大きいので、それに触れないでは済まされないのです。長くなったのでこれくらいにしますが、不幸にしてそういう学校に入ってしまったという人は、主体性をもち、距離を置いて学校とは付き合い、「手抜き」と言って悪ければ、宿題なども取捨選択して、よけいなものに時間を取られないようにして、自分でものを考えたり、本や雑誌を読んだりするゆとりを確保することが大切でしょう。子供が低学年の親御さんたちも、多すぎる習い事や塾などで子供のゆとりを奪いすぎないように気をつけた方がいいと思います。自分で工夫したり、主体的に考え、自問自答したりする能力は、それが「見えない学力」というものですが、自由のないところでは育たないからです。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
次のような記事を読みました。
・「いじめ自殺」否定するなら原因は何? 長崎・海星高生らが学校側に説明求め署名活動
長崎海星というと高校野球で有名ですが、記事に、
海星高は校訓として「神愛・人間愛」を掲げている。カトリック・マリア会が経営するミッション・スクールだ。取材に応じてくれた男子生徒によると、授業で「隣人を自分のように愛しなさい」と何度も説かれるという。これらの教育理念と自殺した生徒の尊厳や遺族の気持ちを踏みにじる対応とは、完全にかけ離れている。
とあるように、いわゆるミッション系の私立中高一貫校の一つです。ついでに高校の偏差値を調べてみると、43 – 61となっていて、学科によって差が大きいようですが、元は男子校で、「2006年(平成18年)よりステラ・マリスコースを開設し正式に共学となった」(ウィキペディア)とあって、偏差値が一番高いのもこの学科になっています。
「私立は公立と較べていじめが少ない」という俗説がありますが、それは嘘で、延岡などでも高校への移行のタイミングで入試を受け直し、私立から公立に移る生徒はけっこういます。「頭がよくて、可愛くて、男子に人気がある」女の子なんかはことに女子生徒の間で執拗かつ陰湿ないじめに遭いやすいようで、それが嫉妬から出たものであることは明白ですが、詳しい話を聞くとかなりたちの悪いものであることが多い。多くの場合、学校も波風が立つのを恐れて見て見ぬふりをする。一般論としても、公立より生徒数が少なくて関係が密になりやすいから、六年間も同じメンバーだとときにそれは耐えがたいものになるのです。全国的な知名度のあるいわゆる名門私立でもいじめは少なくなく、それが事件化するのは氷山の一角であるようです(学校のお勉強がよくできるから人格的にもすぐれているということには、残念ながらならない。世間的に見ても幼稚でジコチューな知的エリートは少なくありません)。
長崎海星のこの事件で不信を買っているのは学校側の対応のようです。
…昨年11月、スマートフォンで見た1本の記事。自殺の約1週間後、教頭だった武川校長が遺族に「突然死ということにしないか」「転校したことにもできる」と提案し、長崎県学事振興課の当時の担当者も後に「突然死までは許せる」と追認していたことを、共同通信が報じていた。(中略)
長崎県の「突然死」追認が報道された翌日、教室の中は記事の話題で持ちきりだった。授業が始まる直前まで話し込んでいると、入ってきた教員に「話題に出すな」と強い口調で止められた。一瞬で空気は凍り付いた。3年生は受験を控えた時期で、推薦をもらう生徒もいる。それから学校内で自殺問題に言及するのは、タブーのような雰囲気になってしまった。
「また全てを無かったことにするつもりなのかな」。男子生徒の脳裏に浮かんだある出来事があった。海星高では19年5月にも校内で別の生徒が自殺している。その当日の朝、緊急の全校集会で亡くなった事実だけを知らされた。その後、生徒間では原因についてさまざまなうわさが出回ったが、学校側からの詳しい説明は一度も無かったという。
「臭いものに蓋」の典型ですが、学校側は「いじめが原因で生徒が自殺した」ということになると管理責任が問われるし、ことに私立の場合、悪評が立って志願者が激減するおそれがある、そうなると経営が危うくなり、生徒の学力レベルもそれに応じて低下し、進学実績はさらに下がって、それがまた志願者減の一因として作用するという「負のスパイラル」に落ち込む可能性があると考え、それを恐れたのでしょう。OBたちにも「母校の名前に傷がついた!」と非難されるわけです。それで、「なかったことにするのが一番」ということになった。そう想像されます。
学校側としては、「自殺した生徒と遺族に申し訳ない」という気持ちはあまり、というかほとんどなくて、「自殺されて迷惑」という感情の方が強いのでしょう。それで自分たちが窮地に立たされてしまったからで、「余計な問題をつくり出してくれたな」という思いです。おまえらそれでも教育者か、と言っても始まらない。学校教育関係者には保身第一の事なかれ主義者がことの他多いのです。僕は長く塾商売をやってきて、そういう例を腐るほど見てきたので、「ありそうなこと」としか感じられないのが悲しいところです。
これは前にも書いたことかあるのですが、学校の隠蔽体質をよく物語る事例なので、もう一度書いておきましょう。それは僕が三十代半ばに実際経験したことです。そのとき僕は関東にある某塾に勤めていて、そこの中学生対象の集団部門校舎(六つほどあった)の一つの校長というのをやっていました。10月か11月ぐらいだったかと思うのですが、3年生の塾生の保護者たちが五、六人一緒に「相談がある」と言ってやってきて、次のような話をしたのです。その保護者たちの子は全員同じ公立中の生徒でしたが、そこの3年生の間で集団暴行事件が起きた。そこには数人の不良グループがいて、ひそかにいじめやカツアゲをやっていたようでしたが、ある日一人の生徒をトイレに連れて行って、殴る蹴るの暴行を加え、血がトイレ内に飛び散る事件が発生したというのです。当然それは生徒たちに大きなショックを与えて、家庭でも親に話しました。するとその翌日か翌々日に、3年生の保護者全員に学校から呼び出しがかかった。体育館か講堂に呼び集められた親たちに向かって、校長はこの件を絶対に外部に漏らさないようにと言いました。もしこれが外部に漏れれば、と校長は言いました。あの学校は暴力中学だという悪評が立って、推薦入試で落とされるにとどまらず、一般入試でも不利な扱いを受けることは避けられないだろう。つまり、あなた方の子供全員がそれで不利益をこうむることになるのだと。
これに憤慨したお母さんたちは口々に言いました。そんな馬鹿な話ってあるんでしょうか? そんなひどい暴力事件、警察沙汰にしない方がおかしいので、それを揉み消すなんて校長の保身のためとしか思えない。また、それで大部分の子供たちはその事件とは無関係なのに、同じ中学の生徒だという理由だけで推薦が駄目になったり、一般入試でも不利に働くなんて、ほんとにあることなのでしょうかと。
話を聞いて僕も驚いたので、それでは暴力事件を起こした生徒たちはお咎めなしで、被害生徒は泣き寝入りということになります。無関係な生徒が推薦や一般入試で落とされたり、不利な扱いを受けるというのは脅しで、かえって事件を曖昧にしてしまう方がおかしな憶測を呼ぶことになってマイナスになる。それで僕は話をまず市の教育委員会に持っていくようアドバイスしました。仮にそれが身内の庇い合いで動かなければ、マスコミに流せばいいので、そのときは経緯をまとめた文を作っておきますので、記者の取材に応じるとき、それも渡して下さい。そういう二段構えで行けば、この問題は解決できると思いますと言うと、「わかりました」とお母さんたちは立ち上がって、彼女たちは行動力があったので、すぐさま教委にかけ合ったところ、意外や市教委は迅速に動いて、校長を職務停止にして、事件は公表され、その中学の生徒たちが推薦入試でゆえなく落とされたり、一般入試で不利な扱いを受けるなどということは全くなかったのです(あたりまえの話ですが)。
今の学校関係者はそのあたりわかっていないようですが、生徒や保護者が学校に期待するのは是非善悪を明確にするということなのであって、それをしないから信頼が失われるのです。いじめや暴力事件が起きたというそのこと自体より、そちらの方がずっと大きい。
上の体験談の前には一つ笑える話があって、学校と塾ではいくらか事情は異なりますが、いかに表面的なことはどうでもいいと思われているかを示すものです。子供の進路相談に訪れたある母親から、僕は妙なことを言われたことがあったのです。一通り話が終わってから、「先生、あの噂は本当なのでしょうか? もちろん、私たちはちっともそんなことは気にしてないんですけどね」と、やたら「気にしていない」ということを強調して、僕自身は何も知らない「噂」のことをたずねるのです。聞けば、「今度の○○塾の△△校の校長は元関西の暴力団の幹部だった」という噂が広まっているというのです。僕は驚いて、「それって、僕が元ヤクザだという意味ですか?」ときくと、そうなのだという。根も葉もない話で、それは嘘ですよと笑ったのですが、ひどい話で、ライバル塾が流したデマだとすれば悪質なので、もしそうなら痛い目に遭わせてやらねばならない。それでその出所を調べてみたところ、何のことはない、自塾の馬鹿な学生講師の一人がでっち上げた話だと判明し、僕は彼を呼びつけて、「こんな上品な紳士の一体どこがヤクザなんだ!」とどやしつけたのですが、彼は騒がしい中2の悪ガキどもをおとなしくさせるために、「今度の校長は…」と脅しの材料に使っていたのです。「でも、効果てきめんで、みんな信じましたよ」と得意げに言うので心底呆れたのですが、奇妙だったのは、そんな「噂」が広まっても、やめる生徒は一人も出なかったということです。それは「元暴力団」の僕の報復を恐れたためではなかったはずで、げんに相談に訪れる保護者は多かったのです。僕は管理的な人間ではありませんが、塾内のいじめなどには厳格に対処していたので、今の子供たちは休憩時間に「プロレスごっこ」などと称して弱い者いじめをして、「何してる?」と言うと、「いや、遊んでただけです。なあ」といじめられている子に同意を強要してごまかすなんてことを平気でやるものですが、そういう嘘にはごまかされない。「おまえはオトナをなめてるのか?」とひとこと言えば、そういうのは終わるのです。まともな授業をして、まともに対応していれば、生徒の信頼も親の信頼も得られる。元マフィアだろうとヤクザだろうと、お笑い芸人だろうと、そんなことはどうでもいいのです。僕が高校(県立でした)の時も、嘘かほんとか、先生に高校時代番長だったという人が三人いて、一人は年配の人情味あふれる英語の先生、もう一人は体育教師、もう一人は服装のセンスが抜群で、うちの下宿のおばさんなども熱烈なファンだった三十前後の物静かな美術の先生(一度だけ態度の悪い生徒相手にその片鱗を見せたことがある)でした。このうち体育教師はクソでしたが、他の二人は立派な人で、その英語の先生など、一年のときこの先生に当たったのですが、入試の英語がほぼ零点だった(そのためビリケツ入学だった)僕には特別な憐れみを感じたのか親切そのもので、かえってやりにくかったほどですが、元喧嘩自慢のワルが一体どういうわけでこれほど穏やかで優しい人になったのだろうと、それが不思議でならなかったほどです。
何を言いたいかと言うと、生徒も保護者も「正しい対応」「誠実な対応」を学校に求めているということなので、大事なのは表面的な体裁ではないということです。仮に暴力事件やいじめ事件が起きても、そしてそれが公になっても、学校側がそれにきちんとした対応を取れば、評判が悪くなるということはないはずです。彼らは真に恐れるべきことが何かを理解していない。
校則をめぐる問題などでも同じです。時々ニュースになるように、相変わらず理不尽でナンセンスに近い校則は全国で少なくないようで、僕にはそういうのは過剰管理にしか見えませんが、生徒側が改善や廃止を求めても、学校側は話し合いに応じず、生徒総会でも議題から外そうとしたり、アンケートを取ってそれが上位に来ても、それにまともな回答をしようとはしない。それならアンケートなんか取るなということになるのですが、とにかくやることが姑息すぎるのです。
僕が前にここの「延岡の高校」コーナーに何度も書いた課外の問題なんかもそうで、ああいうのも塾がとやかく言うのは商売上得策ではないが、生徒たちがかわいそうでならなかったから書いたのです。延岡星雲高校はその後朝課外の廃止に踏み切ったし、延岡高校も今は「選択制」を導入しているのですが、あれは朝夕課外がセットになっているので、夕課外はあってもいいが、朝課外はいらないという3年生の圧倒的大多数の声に応えるものにはまだなっていない。それをやると、希望者が少なくなりすぎて朝課外が成立しなくなるのを恐れているからなのでしょうが、なかなか話が前に進まないのです。寝不足でかえって授業全体の学習効果が低下するだけの話なので、合理的・理性的に考えれば、ない方がいいのはすぐわかりそうなものです(九大なんか、九州地区に多い有害無益な朝課外に対する間接的な批判の意図がこめられていると見られますが、近年二度も「睡眠不足の害」についての英文を入試に出題している)。「考える力の育成」を文科省は教育目標の一つに掲げているのですが、教師の側にそれがないのでは悪い冗談みたいなものです(一説によれば、OB会が廃止に反対しているとか。僕の知り合いの延岡高校のOB、OGに反対している人はゼロなので、ほんまかいなと思うのですが、それなら生徒たちが納得するだけの朝課外正当化の根拠を示すべきでしょう。「昔からの伝統だから」というのでは理由にはならない。「オレたちはあれで苦しめられたのだから、後輩も同じ目に遭うべきだ」心理や、強引な自分の過去の美化心理が関与しているのだとすれば、それは社会進歩を阻むメンタリティでしかなく、嘆かわしいことです)。
悪質ないじめ事件や、いじめ自殺事件などの場合、学校の閉鎖的で不正直な隠蔽体質は致命的なものとして作用する。この長崎海星高校の事件の場合、不可解なのはすでに「第三者委員会の『同級生によるいじめが主要因』と結論付けた報告書」まで出ていることです。つまり、事件はすでに世間に知れ渡っている。なのに、なぜそれを否定し続けるのか?
こういう場合、学校幹部の保身だけでは説明がつかないようにも思われます。加害生徒たちの親や親戚に理事など学校経営陣のメンバーがいて、それが否定の圧力をかけていることもありそうな話です。つまり、加害生徒たちを守らねばならない何らかの特殊事情があるのではないかということです(彼らはすでに卒業して、大学生になるなり社会人になるなりしているはずですが)。しかし、いじめで被害者を自殺に追い込んだことは刑法上の罪に問われることはなくても、道徳的な責めは負わなければならないでしょう。それはつらいことですが、でなければ人間としての再生もない。それを否定することは本人たちのためにもならないので、宗教の教えを旨とする学校がかかる不道徳な対応を取るというのは解せないことです。それは学校設立の基盤を自ら否定する行為だと言っても大げさではない。
「もし自分がいじめに遭っても助けてもらえないのでは、という恐怖を感じた。一番かわいそうなのはご遺族だけれど、学校側の態度に在校生も傷ついていると理解してほしい」。自身は3月に卒業式を迎えたが、後輩たちに同じ思いを味わわせたくはない。その一心で声を上げようと決めた。
有志会の発起人となった長崎市の学習塾経営者佐々木大さん(57)は「肩身の狭い思いをしている学校の関係者は他にも多いはずだ」と指摘する。自身も教え子の小学生に「海星は自殺を隠蔽(いんぺい)するのか」と問われた経験があるという。「世間にそう見られるのはこの上ない不名誉だ。署名活動に海星高を糾弾する意図はない。学校が生まれ変わるための契機をつくりたい」と強調した。
ここには嘘はないだろうと、僕は記事を読んで思いました。「教育機関として正しいことをしてくれ」と有志会は願って署名活動を始めたわけです。学校を潰すのが目的ではなく、それを再生させるのが目的なのです。否認を続けるのでは亡くなった生徒とその遺族だけでなく、加害者側の生徒たち、学校、在学生、卒業生、すべての関係者にマイナスにしかならないのです。正しい対応を取れば、すでに書いたように、むしろ信頼に値する学校だという評判を得る。その逆を行けば、受験生やその保護者達からも見放されてしまうでしょう。Honesty pays in the long run ということわざが英語にありますが、「結局は正直が一番引き合う」という意味です。dishonesty はその逆で、その場はごまかせても、いずれ真実は露呈して信用は半永久的に失われることになる。
遺憾ながら、今の日本の学校全般に欠けているのはこの美徳です。表面的に体面を取り繕うことしか考えないから、はからずも見て見ぬふりや隠蔽に走ることが多くなり、その結果学校への信頼は損なわれ、教師の社会的地位もこれほど低くなってしまった。世間が見ているのは表面的なことではなく、その実質なのだということに、学校関係者は早く気づくべきでしょう。
むろん、一部には正直かつ誠実で、生徒思いの、勇気をもって自分が正しいと思うことをきっちりやる先生もいる。それによって救われる生徒や親はいるのです。僕もわが子が学校生活を送る中で、「この先生には本当にお世話になったな」と思うことが二度ありました。それは尊敬に値する先生たちで、子供も親も、そういうことは決して忘れないものです。
しかし、全体として今の学校というところは、かんじんなところで平気で生徒を裏切ることが多い。「問題なのはわかっているけど、どうにもならないんだよね」と言うのはまだマシな部類だというのでは、あまりに寂しすぎるというものです。長崎海星の先生たちにも良心的な先生はいるでしょう。しかし、内部にそうした不正に正面から物申す人はいなかった(今もいない)のだとすれば、学校の未来は真っ暗でしょう。僕の見るところ、今の学校というところには何か大きな問題があっても、外部から声が上がるのを待つだけという他力本願の頼りない教師が多すぎるように思われます。自分が体を張ることは決してしない(その割に生徒相手に威張り散らしたりする教師は多いようですが)。当然ながら、生徒たちはそれを見ているので、それが彼らの人格形成にどういう影響を及ぼすかを少しは自覚すべきです。
そのあたり、詳しい事情はこの記事だけではわかりませんが、長崎海星は校長・教頭などの指導部を変え、場合によっては理事なども入れ替える必要があるでしょう。僕が学校の経営者ならそう考えます。そうして「新しく生まれ変わる」必要がある。上の記事にはその署名のURLも付いているので、趣旨に賛同する方はご署名いただきたいのですが、日本の学校の悲しい現実として、ある程度“外圧”を加えないと何事も動き出さないところがあるので、僕はこういう活動を応援したいと思います。でないと自殺した生徒が浮かばれないだけでなく、そのご遺族、在学生たちも気の毒です。通るのはごまかしではなく、正しいことでなければなりません。最終的にはそれが学校を救うことにもなる。有志会が願っているのもそのことでしょう。
・「いじめ自殺」否定するなら原因は何? 長崎・海星高生らが学校側に説明求め署名活動
長崎海星というと高校野球で有名ですが、記事に、
海星高は校訓として「神愛・人間愛」を掲げている。カトリック・マリア会が経営するミッション・スクールだ。取材に応じてくれた男子生徒によると、授業で「隣人を自分のように愛しなさい」と何度も説かれるという。これらの教育理念と自殺した生徒の尊厳や遺族の気持ちを踏みにじる対応とは、完全にかけ離れている。
とあるように、いわゆるミッション系の私立中高一貫校の一つです。ついでに高校の偏差値を調べてみると、43 – 61となっていて、学科によって差が大きいようですが、元は男子校で、「2006年(平成18年)よりステラ・マリスコースを開設し正式に共学となった」(ウィキペディア)とあって、偏差値が一番高いのもこの学科になっています。
「私立は公立と較べていじめが少ない」という俗説がありますが、それは嘘で、延岡などでも高校への移行のタイミングで入試を受け直し、私立から公立に移る生徒はけっこういます。「頭がよくて、可愛くて、男子に人気がある」女の子なんかはことに女子生徒の間で執拗かつ陰湿ないじめに遭いやすいようで、それが嫉妬から出たものであることは明白ですが、詳しい話を聞くとかなりたちの悪いものであることが多い。多くの場合、学校も波風が立つのを恐れて見て見ぬふりをする。一般論としても、公立より生徒数が少なくて関係が密になりやすいから、六年間も同じメンバーだとときにそれは耐えがたいものになるのです。全国的な知名度のあるいわゆる名門私立でもいじめは少なくなく、それが事件化するのは氷山の一角であるようです(学校のお勉強がよくできるから人格的にもすぐれているということには、残念ながらならない。世間的に見ても幼稚でジコチューな知的エリートは少なくありません)。
長崎海星のこの事件で不信を買っているのは学校側の対応のようです。
…昨年11月、スマートフォンで見た1本の記事。自殺の約1週間後、教頭だった武川校長が遺族に「突然死ということにしないか」「転校したことにもできる」と提案し、長崎県学事振興課の当時の担当者も後に「突然死までは許せる」と追認していたことを、共同通信が報じていた。(中略)
長崎県の「突然死」追認が報道された翌日、教室の中は記事の話題で持ちきりだった。授業が始まる直前まで話し込んでいると、入ってきた教員に「話題に出すな」と強い口調で止められた。一瞬で空気は凍り付いた。3年生は受験を控えた時期で、推薦をもらう生徒もいる。それから学校内で自殺問題に言及するのは、タブーのような雰囲気になってしまった。
「また全てを無かったことにするつもりなのかな」。男子生徒の脳裏に浮かんだある出来事があった。海星高では19年5月にも校内で別の生徒が自殺している。その当日の朝、緊急の全校集会で亡くなった事実だけを知らされた。その後、生徒間では原因についてさまざまなうわさが出回ったが、学校側からの詳しい説明は一度も無かったという。
「臭いものに蓋」の典型ですが、学校側は「いじめが原因で生徒が自殺した」ということになると管理責任が問われるし、ことに私立の場合、悪評が立って志願者が激減するおそれがある、そうなると経営が危うくなり、生徒の学力レベルもそれに応じて低下し、進学実績はさらに下がって、それがまた志願者減の一因として作用するという「負のスパイラル」に落ち込む可能性があると考え、それを恐れたのでしょう。OBたちにも「母校の名前に傷がついた!」と非難されるわけです。それで、「なかったことにするのが一番」ということになった。そう想像されます。
学校側としては、「自殺した生徒と遺族に申し訳ない」という気持ちはあまり、というかほとんどなくて、「自殺されて迷惑」という感情の方が強いのでしょう。それで自分たちが窮地に立たされてしまったからで、「余計な問題をつくり出してくれたな」という思いです。おまえらそれでも教育者か、と言っても始まらない。学校教育関係者には保身第一の事なかれ主義者がことの他多いのです。僕は長く塾商売をやってきて、そういう例を腐るほど見てきたので、「ありそうなこと」としか感じられないのが悲しいところです。
これは前にも書いたことかあるのですが、学校の隠蔽体質をよく物語る事例なので、もう一度書いておきましょう。それは僕が三十代半ばに実際経験したことです。そのとき僕は関東にある某塾に勤めていて、そこの中学生対象の集団部門校舎(六つほどあった)の一つの校長というのをやっていました。10月か11月ぐらいだったかと思うのですが、3年生の塾生の保護者たちが五、六人一緒に「相談がある」と言ってやってきて、次のような話をしたのです。その保護者たちの子は全員同じ公立中の生徒でしたが、そこの3年生の間で集団暴行事件が起きた。そこには数人の不良グループがいて、ひそかにいじめやカツアゲをやっていたようでしたが、ある日一人の生徒をトイレに連れて行って、殴る蹴るの暴行を加え、血がトイレ内に飛び散る事件が発生したというのです。当然それは生徒たちに大きなショックを与えて、家庭でも親に話しました。するとその翌日か翌々日に、3年生の保護者全員に学校から呼び出しがかかった。体育館か講堂に呼び集められた親たちに向かって、校長はこの件を絶対に外部に漏らさないようにと言いました。もしこれが外部に漏れれば、と校長は言いました。あの学校は暴力中学だという悪評が立って、推薦入試で落とされるにとどまらず、一般入試でも不利な扱いを受けることは避けられないだろう。つまり、あなた方の子供全員がそれで不利益をこうむることになるのだと。
これに憤慨したお母さんたちは口々に言いました。そんな馬鹿な話ってあるんでしょうか? そんなひどい暴力事件、警察沙汰にしない方がおかしいので、それを揉み消すなんて校長の保身のためとしか思えない。また、それで大部分の子供たちはその事件とは無関係なのに、同じ中学の生徒だという理由だけで推薦が駄目になったり、一般入試でも不利に働くなんて、ほんとにあることなのでしょうかと。
話を聞いて僕も驚いたので、それでは暴力事件を起こした生徒たちはお咎めなしで、被害生徒は泣き寝入りということになります。無関係な生徒が推薦や一般入試で落とされたり、不利な扱いを受けるというのは脅しで、かえって事件を曖昧にしてしまう方がおかしな憶測を呼ぶことになってマイナスになる。それで僕は話をまず市の教育委員会に持っていくようアドバイスしました。仮にそれが身内の庇い合いで動かなければ、マスコミに流せばいいので、そのときは経緯をまとめた文を作っておきますので、記者の取材に応じるとき、それも渡して下さい。そういう二段構えで行けば、この問題は解決できると思いますと言うと、「わかりました」とお母さんたちは立ち上がって、彼女たちは行動力があったので、すぐさま教委にかけ合ったところ、意外や市教委は迅速に動いて、校長を職務停止にして、事件は公表され、その中学の生徒たちが推薦入試でゆえなく落とされたり、一般入試で不利な扱いを受けるなどということは全くなかったのです(あたりまえの話ですが)。
今の学校関係者はそのあたりわかっていないようですが、生徒や保護者が学校に期待するのは是非善悪を明確にするということなのであって、それをしないから信頼が失われるのです。いじめや暴力事件が起きたというそのこと自体より、そちらの方がずっと大きい。
上の体験談の前には一つ笑える話があって、学校と塾ではいくらか事情は異なりますが、いかに表面的なことはどうでもいいと思われているかを示すものです。子供の進路相談に訪れたある母親から、僕は妙なことを言われたことがあったのです。一通り話が終わってから、「先生、あの噂は本当なのでしょうか? もちろん、私たちはちっともそんなことは気にしてないんですけどね」と、やたら「気にしていない」ということを強調して、僕自身は何も知らない「噂」のことをたずねるのです。聞けば、「今度の○○塾の△△校の校長は元関西の暴力団の幹部だった」という噂が広まっているというのです。僕は驚いて、「それって、僕が元ヤクザだという意味ですか?」ときくと、そうなのだという。根も葉もない話で、それは嘘ですよと笑ったのですが、ひどい話で、ライバル塾が流したデマだとすれば悪質なので、もしそうなら痛い目に遭わせてやらねばならない。それでその出所を調べてみたところ、何のことはない、自塾の馬鹿な学生講師の一人がでっち上げた話だと判明し、僕は彼を呼びつけて、「こんな上品な紳士の一体どこがヤクザなんだ!」とどやしつけたのですが、彼は騒がしい中2の悪ガキどもをおとなしくさせるために、「今度の校長は…」と脅しの材料に使っていたのです。「でも、効果てきめんで、みんな信じましたよ」と得意げに言うので心底呆れたのですが、奇妙だったのは、そんな「噂」が広まっても、やめる生徒は一人も出なかったということです。それは「元暴力団」の僕の報復を恐れたためではなかったはずで、げんに相談に訪れる保護者は多かったのです。僕は管理的な人間ではありませんが、塾内のいじめなどには厳格に対処していたので、今の子供たちは休憩時間に「プロレスごっこ」などと称して弱い者いじめをして、「何してる?」と言うと、「いや、遊んでただけです。なあ」といじめられている子に同意を強要してごまかすなんてことを平気でやるものですが、そういう嘘にはごまかされない。「おまえはオトナをなめてるのか?」とひとこと言えば、そういうのは終わるのです。まともな授業をして、まともに対応していれば、生徒の信頼も親の信頼も得られる。元マフィアだろうとヤクザだろうと、お笑い芸人だろうと、そんなことはどうでもいいのです。僕が高校(県立でした)の時も、嘘かほんとか、先生に高校時代番長だったという人が三人いて、一人は年配の人情味あふれる英語の先生、もう一人は体育教師、もう一人は服装のセンスが抜群で、うちの下宿のおばさんなども熱烈なファンだった三十前後の物静かな美術の先生(一度だけ態度の悪い生徒相手にその片鱗を見せたことがある)でした。このうち体育教師はクソでしたが、他の二人は立派な人で、その英語の先生など、一年のときこの先生に当たったのですが、入試の英語がほぼ零点だった(そのためビリケツ入学だった)僕には特別な憐れみを感じたのか親切そのもので、かえってやりにくかったほどですが、元喧嘩自慢のワルが一体どういうわけでこれほど穏やかで優しい人になったのだろうと、それが不思議でならなかったほどです。
何を言いたいかと言うと、生徒も保護者も「正しい対応」「誠実な対応」を学校に求めているということなので、大事なのは表面的な体裁ではないということです。仮に暴力事件やいじめ事件が起きても、そしてそれが公になっても、学校側がそれにきちんとした対応を取れば、評判が悪くなるということはないはずです。彼らは真に恐れるべきことが何かを理解していない。
校則をめぐる問題などでも同じです。時々ニュースになるように、相変わらず理不尽でナンセンスに近い校則は全国で少なくないようで、僕にはそういうのは過剰管理にしか見えませんが、生徒側が改善や廃止を求めても、学校側は話し合いに応じず、生徒総会でも議題から外そうとしたり、アンケートを取ってそれが上位に来ても、それにまともな回答をしようとはしない。それならアンケートなんか取るなということになるのですが、とにかくやることが姑息すぎるのです。
僕が前にここの「延岡の高校」コーナーに何度も書いた課外の問題なんかもそうで、ああいうのも塾がとやかく言うのは商売上得策ではないが、生徒たちがかわいそうでならなかったから書いたのです。延岡星雲高校はその後朝課外の廃止に踏み切ったし、延岡高校も今は「選択制」を導入しているのですが、あれは朝夕課外がセットになっているので、夕課外はあってもいいが、朝課外はいらないという3年生の圧倒的大多数の声に応えるものにはまだなっていない。それをやると、希望者が少なくなりすぎて朝課外が成立しなくなるのを恐れているからなのでしょうが、なかなか話が前に進まないのです。寝不足でかえって授業全体の学習効果が低下するだけの話なので、合理的・理性的に考えれば、ない方がいいのはすぐわかりそうなものです(九大なんか、九州地区に多い有害無益な朝課外に対する間接的な批判の意図がこめられていると見られますが、近年二度も「睡眠不足の害」についての英文を入試に出題している)。「考える力の育成」を文科省は教育目標の一つに掲げているのですが、教師の側にそれがないのでは悪い冗談みたいなものです(一説によれば、OB会が廃止に反対しているとか。僕の知り合いの延岡高校のOB、OGに反対している人はゼロなので、ほんまかいなと思うのですが、それなら生徒たちが納得するだけの朝課外正当化の根拠を示すべきでしょう。「昔からの伝統だから」というのでは理由にはならない。「オレたちはあれで苦しめられたのだから、後輩も同じ目に遭うべきだ」心理や、強引な自分の過去の美化心理が関与しているのだとすれば、それは社会進歩を阻むメンタリティでしかなく、嘆かわしいことです)。
悪質ないじめ事件や、いじめ自殺事件などの場合、学校の閉鎖的で不正直な隠蔽体質は致命的なものとして作用する。この長崎海星高校の事件の場合、不可解なのはすでに「第三者委員会の『同級生によるいじめが主要因』と結論付けた報告書」まで出ていることです。つまり、事件はすでに世間に知れ渡っている。なのに、なぜそれを否定し続けるのか?
こういう場合、学校幹部の保身だけでは説明がつかないようにも思われます。加害生徒たちの親や親戚に理事など学校経営陣のメンバーがいて、それが否定の圧力をかけていることもありそうな話です。つまり、加害生徒たちを守らねばならない何らかの特殊事情があるのではないかということです(彼らはすでに卒業して、大学生になるなり社会人になるなりしているはずですが)。しかし、いじめで被害者を自殺に追い込んだことは刑法上の罪に問われることはなくても、道徳的な責めは負わなければならないでしょう。それはつらいことですが、でなければ人間としての再生もない。それを否定することは本人たちのためにもならないので、宗教の教えを旨とする学校がかかる不道徳な対応を取るというのは解せないことです。それは学校設立の基盤を自ら否定する行為だと言っても大げさではない。
「もし自分がいじめに遭っても助けてもらえないのでは、という恐怖を感じた。一番かわいそうなのはご遺族だけれど、学校側の態度に在校生も傷ついていると理解してほしい」。自身は3月に卒業式を迎えたが、後輩たちに同じ思いを味わわせたくはない。その一心で声を上げようと決めた。
有志会の発起人となった長崎市の学習塾経営者佐々木大さん(57)は「肩身の狭い思いをしている学校の関係者は他にも多いはずだ」と指摘する。自身も教え子の小学生に「海星は自殺を隠蔽(いんぺい)するのか」と問われた経験があるという。「世間にそう見られるのはこの上ない不名誉だ。署名活動に海星高を糾弾する意図はない。学校が生まれ変わるための契機をつくりたい」と強調した。
ここには嘘はないだろうと、僕は記事を読んで思いました。「教育機関として正しいことをしてくれ」と有志会は願って署名活動を始めたわけです。学校を潰すのが目的ではなく、それを再生させるのが目的なのです。否認を続けるのでは亡くなった生徒とその遺族だけでなく、加害者側の生徒たち、学校、在学生、卒業生、すべての関係者にマイナスにしかならないのです。正しい対応を取れば、すでに書いたように、むしろ信頼に値する学校だという評判を得る。その逆を行けば、受験生やその保護者達からも見放されてしまうでしょう。Honesty pays in the long run ということわざが英語にありますが、「結局は正直が一番引き合う」という意味です。dishonesty はその逆で、その場はごまかせても、いずれ真実は露呈して信用は半永久的に失われることになる。
遺憾ながら、今の日本の学校全般に欠けているのはこの美徳です。表面的に体面を取り繕うことしか考えないから、はからずも見て見ぬふりや隠蔽に走ることが多くなり、その結果学校への信頼は損なわれ、教師の社会的地位もこれほど低くなってしまった。世間が見ているのは表面的なことではなく、その実質なのだということに、学校関係者は早く気づくべきでしょう。
むろん、一部には正直かつ誠実で、生徒思いの、勇気をもって自分が正しいと思うことをきっちりやる先生もいる。それによって救われる生徒や親はいるのです。僕もわが子が学校生活を送る中で、「この先生には本当にお世話になったな」と思うことが二度ありました。それは尊敬に値する先生たちで、子供も親も、そういうことは決して忘れないものです。
しかし、全体として今の学校というところは、かんじんなところで平気で生徒を裏切ることが多い。「問題なのはわかっているけど、どうにもならないんだよね」と言うのはまだマシな部類だというのでは、あまりに寂しすぎるというものです。長崎海星の先生たちにも良心的な先生はいるでしょう。しかし、内部にそうした不正に正面から物申す人はいなかった(今もいない)のだとすれば、学校の未来は真っ暗でしょう。僕の見るところ、今の学校というところには何か大きな問題があっても、外部から声が上がるのを待つだけという他力本願の頼りない教師が多すぎるように思われます。自分が体を張ることは決してしない(その割に生徒相手に威張り散らしたりする教師は多いようですが)。当然ながら、生徒たちはそれを見ているので、それが彼らの人格形成にどういう影響を及ぼすかを少しは自覚すべきです。
そのあたり、詳しい事情はこの記事だけではわかりませんが、長崎海星は校長・教頭などの指導部を変え、場合によっては理事なども入れ替える必要があるでしょう。僕が学校の経営者ならそう考えます。そうして「新しく生まれ変わる」必要がある。上の記事にはその署名のURLも付いているので、趣旨に賛同する方はご署名いただきたいのですが、日本の学校の悲しい現実として、ある程度“外圧”を加えないと何事も動き出さないところがあるので、僕はこういう活動を応援したいと思います。でないと自殺した生徒が浮かばれないだけでなく、そのご遺族、在学生たちも気の毒です。通るのはごまかしではなく、正しいことでなければなりません。最終的にはそれが学校を救うことにもなる。有志会が願っているのもそのことでしょう。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
先日、毎年恒例のタイムズ・ハイヤー・エデュケーション(英国)による「世界大学ランキング」が発表されました。次はハフポストの記事です。
・「中国が歴史的躍進」かたや日本は記述なし。世界大学ランキング「トップ100に日本勢10校」は達成できる?
タイムズ誌が「歴史的な躍進」と表現したのは中国勢。清華大学が現在の統計方法になってからアジア勢としては初の20位入りを果たしたほか、北京大学が23位にランクイン。100位以内の大学も3校から6校へと倍増させた。
タイムズ誌は理由として、中国は国家単位で20年以上にわたり高等教育や研究分野への投資を続けてきたと指摘。欧米でのトップクラスの研究機関での人材育成も行なっているとした。
中国はこれまで、海外の優秀な研究者を招聘したり、海外で研究する中国人を国に呼び戻したりするなどの政策を続けている。
そういうわけで、研究に惜しみない投資をしている中国は「大躍進」している一方、「2013年に掲げられた『日本再興戦略』に」は、「2023年までのKPI(評価指標)として、タイムズ誌のランキングで『世界トップ100に10校以上を入れる』と明記されている」にもかかわらず、こちらは実現の見込みなし、というのがこの記事の要旨です。「異次元の金融緩和」の継続にもかかわらず、アベノミクスの2%インフレ目標は達成されませんでしたが、教育分野となると、その「再興戦略」なるものはさらに悲惨な結果に終わっているのです。前に下村博文が文科相になっていたとき、国立大学長の集まりに出向いて、入学式などの式典では日の丸掲揚、君が代斉唱を必須にするのが望ましいというような演説をぶって、「この頭の悪い右翼は何しにこんなところへ来たのだ?」と会場は不気味な沈黙に包まれたそうですが、何かズレすぎているのです。
面白いのは、何でも日本と比較して勝ち負けを論(あげつら)わないと気が済まない韓国メディアの朝鮮日報も、次のような記事を載せていることです。これは少したつと消されてしまうので、URLではなく、記事本文をコピーしておきます。
・「THE世界大学ランキング2021」1位はオックスフォード大、ソウル大60位…東京大は?
英国の高等教育専門誌「THE(Times Higher Education)」が2日、2021年の「THE世界大学ランキング」を発表した。
今回の世界大学評価は世界93カ国・地域の大学1527校を対象に実施された。「THE世界大学ランキング」は2004年から毎年発表されている、権威ある大学評価で、教育与件、研究実績、論文の被引用度、国際化、産業体の収入など五つの領域で評価を実施。
2021年の「THE世界大学ランキング」1位には前年に続き、英国のオックスフォード大学が選ばれた。2位はスタンフォード大学、3位はハーバード大学、4位はカリフォルニア工科大学、5位はマサチューセッツ工科大学、6位はケンブリッジ大学、7位はカリフォルニア大学バークレー校、8位はイェール大学、9位はプリンストン大学、10位はシカゴ大学だった。トップ10入りした大学はすべて英国と米国の大学だった。
韓国の大学のランキングを見ると、ソウル大学(60位)、 KAIST(96位)、成均館大学(101位)、浦項工科大学(151位)、高麗大学(167位)、蔚山科学技術大学(176位)、延世大学(187位)の順で、200位以内に7校がランクインした。
一方、日本の大学で200位以内に入ったのは東京大学(36位)、京都大学(54位)の2校だけだった。
「勝った!」という喜びが滲み出ているようで微笑ましいのですが、「日本のその2つの大学より韓国7大学は下位にある」ということは誇りを傷つけるので決して言葉にしてはならないのです。
しかし、実際問題として、200位以内に入っているのは日本では東大と京大だけで、これはたとえていえば、オリンピックで「日本は銀メダル2つだったが、韓国は銅メダル7つを獲得した」というようなもので、こういうランキングは英語圏の大学に不当に有利になっていて、だからそれほど気にするには及ばないと考えることはできますが、中国や韓国も非英語圏の大学なので、日本の大学が見栄えしなくなっているのは確かなのです。これでは日本への留学生が増えることも期待できないわけで、「アジア唯一の先進国」というのは遠い過去の栄光になってしまったのです。げんにGDPは中国にかなり前に抜かれているし、一人当たりGDPではすでに韓国に並ばれている。それが教育にも及び、かつてはアジアトップの大学は東大と見られていたはずですが、今では誰もそんなふうには思わなくなっているのです(上の記事には出ていませんが、小国シンガポールの躍進も著しく、アジア第3位の25位にシンガポール国立大が入っている)。
次のような記事も出ています。
・なぜ東大の予算は2500億円で、スタンフォード大は1兆円超なのか
残念なことに、これは会員にならないと続きが読めないようになっていますが、最初のページだけでもかなりのことはわかる。
…2004年に国立大学が法人化されて以降、国から支給されていた運営費交付金は毎年1%ずつ削減される状態がしばらく続いた。その代わりに増えているのが、「競争的資金」と呼ばれる、研究課題を公募し優れたテーマに配分する研究資金だ。文部科学省の科学研究費がその代表だろう。
各大学は外部から資金を調達する必要に迫られている。東京大学も例外ではなく、2000年代初めには年間で約1000億円あった運営費交付金は、18年度には760億円まで落ち込んでいる。その代わりに約620億円を外部から調達している。今や外部資金は、東大の収入の約3割を占める重要な財源だ。資金の出し手は国にとどまらず、財団法人や企業が募る民間のものも多い。また、産学連携などで獲得した委託金などの研究資金も広い意味での競争的資金に含まれる。
競争的資金に重点を置くようになった背景には、言うまでもなく国の財源が逼迫し、大学の研究や教育にまとまった額の予算が割けないという事情がある。期待される研究に限られた資金を手厚く配分して、最大限のパフォーマンスを上げようという方向に政策の舵(かじ)を切ったわけだが、こうしたやり方が結果的に研究計画ありきの厳しい資金獲得競争を生んだ。その結果、若手研究者に向けた研究環境の整備や、基礎研究の充実に支障をきたしているとの不満は根強い。
同じ国立大学でも競争的資金を取れる大学と取れない大学の「格差」も生じてしまった。16年に文部科学省が行ったアンケートで、約6割の教員が所属機関から研究者に支給される個人研究費の額を「50万円未満」と答えるなど、地方国立大学の「窮状」も明らかになっている。
こういうのは研究費さえ多ければいいというものではなく、げんに科学関係のノーベル賞受賞者は研究資金が元からダントツで多かった東大より京大の方が多い(発想力や思考の柔軟性で負ける?)のですが、それも程度問題で、今は減らし過ぎです。だから「日本人のノーベル賞受賞者は近い将来ゼロになるだろう」と言われるのですが、いちいち首相官邸や文科省の顔色(だいたい、連中に研究の良し悪しの判断なんてできるのか?)を見なければならないだけでなく、「科研費がなさすぎて、新たな研究を立ち上げることも、継続することもできない」状態になっているのです。若手研究者のポストも少なくなったり、身分が不安定化しているので、理系の優秀層が研究より就職を選ぶことが多くなったという問題も指摘されています。「貧すりゃ鈍する」の悪循環に陥っているのです。
こうしたことについては、「文教予算は減っているのに、大学の数をむやみに増やし過ぎたのが悪いので、私立でも補助金名目で万年定員割れの大学にも多額の補助金が支払われている、そういうのを全部潰してしまえば、まともな大学に出せる金も増えて、研究費問題も改善するはずだ」という、いくらか乱暴な議論があります。僕も、乱暴だがそれは正論だと思っています。子供の数は減り続けているのに、大学の総定員数は減らないので、「落ちる方が難しい」大学も相当数あるのです。今は国立ですら、地方の駅弁大ではセンター得点率が5割に届かなくても合格できるケースもある。そういう受験生は基礎学力自体が疑わしいので、大学教育どころではないだろうなと思うのですが、いわゆるFラン大学となると、それはいっそう甚だしく、世間からも大学扱いされないので、進学する意味があるのかなという気がするのです。
昔、「十五の春を泣かせない」というスローガンの下、高校全入運動が行われましたが、今は大学も全入時代で、それどころか、余っているから定員割れ大学がこんなに多くなるので、文科省は苦肉の策として私大の定員厳格化を推し進め、人気大に落ちた受験生が不人気大へと流れるように仕向けて、これ自体姑息きわまりないやり方ですが、その数を減らそうとしてきたものの、それでも2019年度段階でまだ33%(短大も含めると比率はもっと高くなる)もあり、全体の3分の1が定員割れを起こしているのです。たまたまならまだしも、こうした大学のほとんどは慢性的で、ひどいところになると定員充足率は3割台で、7割に満たない大学だけでも30校あるのです。今後それが大きく改善する見込みもない。それでも毎年一校当たり億単位(平均では5億円)の私学助成金が出ているわけで、税金の無駄遣い以外の何ものでもないように見えます。文科省も、一度認可してしまった手前、よほどの不祥事がないと潰せないと思っているのかもしれませんが、慢性的に充足率が低い大学は潰すべきでしょう。それだけでもかなりの巨額が浮くので、それを他に回せばいい。うまくすれば、それで定員割れ大学もゼロになるかもしれない。それらの大学に入学していた受験生が他に振り分けられるからです。
高校以下の学校は統廃合が進みました。げんに僕の母校など、残っているものは一つもないほどです。まず小3まで通った分校(絵に描いたような「山の分校」だった)が児童数の激減で廃校になったのは僕がまだ大学生の頃で、本校の小中学校もその後統廃合の対象になった。お次は高校で、ウィキペディアを見ると、「…にあった県立高等学校である」と過去形で語られ、統合された後しばらく「分校」として残ったものの、三年ほど前生徒募集が停止され、消滅した。これは少子高齢化と人口流出がダブルで進んだ田舎では珍しくもない話です。時代の流れでそうなったので、別に誰が悪いわけでもないのですが。
だから母校の中でまだ存続しているのは大学だけなのですが、そういうふうに高校以下の学校では容赦なく統廃合が進められたのに、補助金額がとくに大きな大学は潰せないというのは道理に合わない。それは文教予算の無駄遣いというものなので、それを有効活用するためにも、慢性定員割れ私大は潰すべきなのです。それで教職員が失業するとか、それに寄生している関係業者が打撃を受けるとかいったことは、言い訳にはならない。それはいかなる変化も拒否するということなので、そういうことばかりやっているからソンビ組織が生き永らえて、望ましい社会構造の変化も、経済の活性化も起きないのです。
問題は、しかし、そういうことだけではない。この手のランキングでは「教育力」というのも重視されていますが、大学教員も今はやたらと事務仕事を多くさせられる(いちいちそんなことにも書類を提出しなければならないのかと呆れるものまである)上に、懇切丁寧な学生指導に多くの時間とエネルギーを割かねばならないのです。まず詳細なシラバスなるものを作って提出するというところから始まり、それに従ったわかりやすく“楽しい”授業を心がけねばならず、休講した場合は必ず補講を行なう。そして成績不良学生や引きこもり学生にも愛の手を差し伸べて、大学の評価を下げる原因となる退学率を減らすよう努めねばならない。各種会議もたくさんあり、理系なら、研究予算獲得のために申請書類書きに追われるほか、企業にも愛想よくしなければならない。
これはしばらく前に院生の息子に聞いた話ですが、ある関西の有名私大の教授に会ったとき、大学教員になったが最後、自分の研究などというものはほとんどできなくなる、という嘆きを聞かされたとのこと。だから時間のある今のうちにしっかり研究しておきなさいというのがアドバイスだというのは笑えない話ですが、どうしてそうなるのかといえば、他のことで多忙を極めるからです。研究を進めるために大学教員になるのではなく、そうなったらかんじんの研究の方は引退したも同然になってしまうのです。だから、研究発表にしても、著書を出すにしても、それは若い頃の研究の“貯金”を取り崩しながらそうしているだけなので、研究の進展どころではない。これは文系の話ですが、それなら出版社の学術書の編集者にでもなった方がまだ自分の勉強のゆとりがもてていいくらいです。あるいは、自分で塾でもやって、それで食い扶持だけ稼いで、残りの時間を研究に使った方がマシです。彼にはそれぞれ専門の違う学部時代から仲のいい優秀な研究者の卵友達が二人いて、三人で会って話すと、きまってそういう「お粗末な研究環境」の話になるそうですが、「乞食と大学教授は三日やったらやめられない」というのは昔の話で、「大学教員になったら他のことで忙しくて、もう研究なんてできない」という本末転倒も甚だしい事態になっているのです。名門大教授でさえそうなら、低偏差値大の教員となるとどうなるのか、授業中の私語に耐え続けねばならないだけでなく、問題学生へのかなり低次元な手取り足取り“指導”に忙殺され、これにどうでもいいような大量の事務仕事、会議などの雑用が加わるのです。
要するに、文系理系を問わず、学者の研究環境は最悪のものになりつつあるということです。それでは大学者なんか出てくるはずがない(ノーベル賞とは関係なくても、文系のすぐれた学者は必要です)。成果も当然出ない。昔は、実験などが不可欠な理系はともかく、文系の学生はほったらかしでした。学生の方もほったらかしにしてもらえるのを期待して入学したので、休校が少ない講義にはむしろ文句が出た。そもそも、大部分の講義は出席を取らなかったので、それをいいことに出席しない学生が多かったのです。専攻関係なしに、当時の学生は本だけはたくさん読んでいたので、それで仲間と議論を戦わせるのが楽しみだった。これは当時の「標準」ではありませんが、生活費稼ぎのバイトに追われていたこともあって稀にしか講義には出なかった僕など、「今日は出てみようか」と殊勝な気持ちになって大学に向かうものの、途中の古本屋街で引っかかってしまって、着いたときは最後の授業が終わる頃になっているということがよくありました。それで一階のラウンジで自動販売機のコーヒーを飲んでいると、授業が終わった連中が降りてきて、「ああ、いた、いた。そろそろ来る頃だと思っていた」と言いながら仲間が寄ってきて、それから学食か近くの食堂で夕食を取り、そのまま話をしながら五、六人、ぞろぞろ駅の方に歩いて、暗黙の了解のごとく行きつけのビル地下の喫茶店に入り、コーヒー一杯で二、三時間粘りながら議論に花を咲かせる、というのがいつものパターンでした(ウエイトレスのお姉さんも常連なので親切だった)。そういうのが楽しくて学生をやっているようなものだったので、授業なんてものはおまけみたいなものだったのです。
こういう時代は、先生たちも楽だったわけです(詳細なシラバスなんてものも、むろんなかった)。授業に二、三十分遅れてくるのはふつうのことだったし、研究に没頭して授業があるのを忘れてしまい、そのまま休講になっても、「この分では今日は休みだな」と学生の方は思って、どこかに行ってしまい、文句を言われることもない。今なら「高い授業料を払っているのに何だ!」と抗議が殺到して、大問題になってしまうでしょう(ついでに言うと、アメリカよりはずっとマシだとはいえ、大学の学費の上昇は物価上昇分をはるかに超えている。国立の場合なおさらそうで、僕の記憶では、当時の国立大の授業料は年間3万6千円だったのです。私大文系で20万前後)。そういう牧歌的な雰囲気はとうに失われ、電子機器の発達で、入室の際学生証をセンサーにかざす、なんてシステムになっているので、出欠は自動的にカウントされ、「単位認定厳格化」の指示が文科省から来ている手前、出席日数不足の学生に気安く単位を与えることもできない。今でも思い出すたび笑ってしまうのですが、学生の頃、試験を受けに行くと、空いている席が最前列にしかなく、仕方なくそこに座っていると教授が「試験問題のことで何か質問はないか」と言いながら入ってきて、思わず目と目が合って、「おまえの顔なんか、いっぺんも見たことないぞ」と大声で言われてしまい、クスクス笑いが起きて弱ったことがありました。「いや、二回ぐらい(半期ではなく通年で、です)は出たことがあります」とも言えない。幸い、それは出席を取らないものだったので、「いっぺんも見たことがない」その学生が誰なのかは先生も把握できなかったわけで、単位はめでたく取得できた。今なら出席率一割以下なのがすぐバレてしまい、問答無用で落とされてしまうわけです。
こういうのが果たしていいことなのか、どうか。学生も教員もその方が自分の好きなことができてよかったのではないかと思うので、今の大学生が真面目に授業には出るからそれだけ優秀になっているとは必ずしも言えないでしょう。真面目に授業には出て、課題をきちんとこなしているとしても、その分、好き勝手なことをやる時間は減っていて、人間は好き勝手やったことの方がよく身につくものなので、厚みに乏しくなっているかもしれないのです。息子が行った大学は「放し飼い教育」を旨としていて、自由度が高いようなので、割と昔の大学に近い感じで、学部の同期には就職もせず院にも行かず、そのまま「消息不明」になっているのが何人もいるという話で、そういう怪しげなのがかなりの数いるというあたりも、昔の大学と似ている。それでもだんだん管理的になってきているのはたしかだという話で、わが母校など、昔は卒論がない上に面倒なゼミ(少人数なのでサボれない)も他科目で代替できた、最も卒業が容易だった法学部が、今は最も単位認定のシビアな学部になっているという話で、全体に大学教育は様変わりしたのです。
今の大学生は、ああしなさい、こうしなさいと指示されないとどうしていいかわからないのが増えているから、こうなるのでしょうか? だから大学も高校の延長みたいになってしまい、それに文科省のアメリカ猿真似政策が重なってこうなるのだと思いますが、これは今の若者が動物として駄目になりかけているということなのではないかと思います。いちいちあてがいぶちの餌を与えられないと生きていけないみたいな感じで、野生というものを失っているのです。試験前のテキスト一夜漬けで、一通りの筋が通った答案が書けるという知的瞬発力も落ちていて、ちゃんと授業に出ている割にはお粗末な答案が多いとも聞きます。子供時代の野遊びも足りていないから、それが災いして、入試段階で知的にピークアウトしてしまい、それ以上伸びない学生も多いのかもしれない。
こんなことを書くと“炎上”してしまうかもしれませんが、コロナによってキャンパス・ライフを奪われる以前に、そういう問題が起きていたわけです。生徒と教師両方が不必要に細かい管理システムでがんじがらめにされ、どちらもそれで疲弊する(日本の子供の精神的幸福度は先進38か国中37位)という現象は小中高段階で問題になっていますが、それが大学教育にも及んでいるということです。教員は多忙すぎて自分の研究ができず、学生は単位認定厳格化で眠たい授業もサボれず、アメリカ式に課題をたくさん出しましょうということで多忙になり、こちらも自分の好きなことができない。余暇時間はつまらないSNSに大方奪われるというのでは、クリエイティブで突破力のある人材が続出するということにはならないでしょう。社会を挙げて「日本沈没」に精出しているようなものです。
英語の school が「余暇」を意味するギリシャ語の skholē(スコレー)に由来するというのは有名な話ですが、余暇どころか、今の学校は上から下まで、最も多忙な場所の一つとなってしまっているのです。その多忙さは好きで勝手に何かに没頭しているのとは違うので、昔はたしかに十年講義内容が全く同じで、学者としてはとうの昔に終わっていて、何の新味もないという無能教授たちもいましたが、余暇が保障されていたために大きな研究業績を挙げるすぐれた学者もいたわけです。今はおしなべて多忙で自分の研究どころではないというのでは、そういう大学者もいなくなってしまう。理系の研究者はこれに加えて、必要な研究資金も確保できないから、「したくてもできない」事情が付け加わるのです。
こういうのは冒頭のランキングに見られる数字以上に深刻な問題ではありませんかね(研究力の低下などはそちらにもダイレクトに反映される結果になるはずですが)。だから、他にも色々方策はあるでしょうが、まずもって大学の名に値しないような慢性定員割れ大学を整理して、それで浮いたお金は残った大学に回し、大学教育のあり方も、アメリカの猿真似ばかりしないで、昔の放任主義の大学にはいいところもあったのだから、再考した方がいいのではないかということです。
高校時代、真面目なのか不真面目なのかよくわからない、脱線話が面白い物理の若い先生がいました。パイロットになりたかったが、なりそこねたので仕方なく高校の教員になったという人で、最初の中間テストの第一問にいきなり鉄腕アトムが出てきて、教室がざわついたのですが、ちゃんと物理の問題になっていて、他もかなり変わったオリジナルの問題でした。中に、風船に何かのガスを入れて放したら、その後どうなるか考えて書け、という問題があって、教師を怒らせる名人だった僕はしめしめと、およそ思いつくかぎりの出鱈目を書き並べて提出したのですが、返ってきた答案を見ると全部にマルがついていたので、不審に思って「何でこんなものに点をくれたんですか?」ときくと、「ああ、おまえのそれね。どれも可能性としてはありうることだからねえ」と澄まして答えました。相手の方が役者が一枚上だったのですが、卒業前に珍しく真面目な顔つきになって、「大学生バカという言葉がある。これは入ったときより出るときの方が馬鹿になっている学生のことを指していう言葉で、君らの中には大学に行く人もかなりいるだろうが、入ってから何をしてもいいが、この『大学生バカ』にだけは絶対なってくれるなよ」と言ったのです。
悪ガキどももかなり神妙にその話は聞いていたので、それは心に届いたのです。単位認定を厳しくして学生を勉強させるというのは、他律的なやり方ですが、こういうふうに言って自覚を促す方法もあるわけです。前に九州地区の某有名私大に行った生徒が遊びに来て、試験でのカンニングの横行(その大部分が昔はなかった指定校推薦で入った連中だというのだから呆れた話です)に憤っていましたが、そういう下劣なことをするのは昔の不良の見地からすれば名折れもいいとこで、最低限の勉強だけして実力で単位をかすめ取るところに不良たるものの芸とプライドがあったので、他に大学の単位とは無関係なことをたくさん勉強しているから、ふつうの学生より学びの幅は広いと自惚れることもできたのです。
そう考えれば、「入るのは大変だが、卒業は容易」な従来の日本の大学が悪かったとはいちがいに言えない。彼らには試験で測定されなかった「見えない学力」が豊かにあったのだと言えば、自己正当化も甚だしいと叱られるかもしれませんが、それだと学生は勝手にやるから、大学の先生たちも手間がかからず、自分の研究に使う時間的、エネルギー的ゆとりももてるようになるわけです。「休講したら必ず補講は行わなければならない」なんて、他律の最たるものである受験勉強(公務員試験もその一つです)しか能がなかった文科省の官僚たちが言って、管理教育に慣れ過ぎた学生がそれに追随しているだけの話でしょう。
理系でも、アインシュタインなどは、教授に渡された実験の指示メモを丸めてゴミ箱に捨て、喫茶店に行って「思考実験」と称してひとり思索にふけっていたりしたのです。それで、先生たちの受けが悪かったので就職も世話してもらえない羽目に陥ったのですが、上からの指示に忠実に従うだけの真面目な秀才なら、当時の物理学常識をひっくり返すような発見はできなかったでしょう。
学問や教育というのはそういうものです。管理が行き過ぎるのはマイナスにしかならない。形式的なことにばかりこだわって、生きた人間がどういうものであるかを、今の教育関係者は忘れてしまっているのではないでしょうか。それではすぐれた研究者も、有用な社会的人材も育たず、「日本のたそがれ」は深まるばかりになりかねないのです。当然、日本の大学の世界的地位も上がることはない。これは隠れた問題点の一つかもしれません。
尚、最後に一点付け加えておくと、中国や韓国は受験競争の激化と低年齢化が日本より甚だしく、そのあたり今の日本の子供は…という論調も一部に見られますが、僕はそういうのは馬鹿げた話だと思っています。皆が横並びで一斉に競争するのは東アジア的稲作文化の特徴で、それは不毛な消耗戦になりがちだからです。そうした詰め込み暗記競争を勝ち抜いただけの受験秀才がクリエイティブな人材になるとは思えないので、そういうつまらないことで張り合っても意味がないということだけは、ちゃんと認識しておいた方がいいのではありませんか。
・「中国が歴史的躍進」かたや日本は記述なし。世界大学ランキング「トップ100に日本勢10校」は達成できる?
タイムズ誌が「歴史的な躍進」と表現したのは中国勢。清華大学が現在の統計方法になってからアジア勢としては初の20位入りを果たしたほか、北京大学が23位にランクイン。100位以内の大学も3校から6校へと倍増させた。
タイムズ誌は理由として、中国は国家単位で20年以上にわたり高等教育や研究分野への投資を続けてきたと指摘。欧米でのトップクラスの研究機関での人材育成も行なっているとした。
中国はこれまで、海外の優秀な研究者を招聘したり、海外で研究する中国人を国に呼び戻したりするなどの政策を続けている。
そういうわけで、研究に惜しみない投資をしている中国は「大躍進」している一方、「2013年に掲げられた『日本再興戦略』に」は、「2023年までのKPI(評価指標)として、タイムズ誌のランキングで『世界トップ100に10校以上を入れる』と明記されている」にもかかわらず、こちらは実現の見込みなし、というのがこの記事の要旨です。「異次元の金融緩和」の継続にもかかわらず、アベノミクスの2%インフレ目標は達成されませんでしたが、教育分野となると、その「再興戦略」なるものはさらに悲惨な結果に終わっているのです。前に下村博文が文科相になっていたとき、国立大学長の集まりに出向いて、入学式などの式典では日の丸掲揚、君が代斉唱を必須にするのが望ましいというような演説をぶって、「この頭の悪い右翼は何しにこんなところへ来たのだ?」と会場は不気味な沈黙に包まれたそうですが、何かズレすぎているのです。
面白いのは、何でも日本と比較して勝ち負けを論(あげつら)わないと気が済まない韓国メディアの朝鮮日報も、次のような記事を載せていることです。これは少したつと消されてしまうので、URLではなく、記事本文をコピーしておきます。
・「THE世界大学ランキング2021」1位はオックスフォード大、ソウル大60位…東京大は?
英国の高等教育専門誌「THE(Times Higher Education)」が2日、2021年の「THE世界大学ランキング」を発表した。
今回の世界大学評価は世界93カ国・地域の大学1527校を対象に実施された。「THE世界大学ランキング」は2004年から毎年発表されている、権威ある大学評価で、教育与件、研究実績、論文の被引用度、国際化、産業体の収入など五つの領域で評価を実施。
2021年の「THE世界大学ランキング」1位には前年に続き、英国のオックスフォード大学が選ばれた。2位はスタンフォード大学、3位はハーバード大学、4位はカリフォルニア工科大学、5位はマサチューセッツ工科大学、6位はケンブリッジ大学、7位はカリフォルニア大学バークレー校、8位はイェール大学、9位はプリンストン大学、10位はシカゴ大学だった。トップ10入りした大学はすべて英国と米国の大学だった。
韓国の大学のランキングを見ると、ソウル大学(60位)、 KAIST(96位)、成均館大学(101位)、浦項工科大学(151位)、高麗大学(167位)、蔚山科学技術大学(176位)、延世大学(187位)の順で、200位以内に7校がランクインした。
一方、日本の大学で200位以内に入ったのは東京大学(36位)、京都大学(54位)の2校だけだった。
「勝った!」という喜びが滲み出ているようで微笑ましいのですが、「日本のその2つの大学より韓国7大学は下位にある」ということは誇りを傷つけるので決して言葉にしてはならないのです。
しかし、実際問題として、200位以内に入っているのは日本では東大と京大だけで、これはたとえていえば、オリンピックで「日本は銀メダル2つだったが、韓国は銅メダル7つを獲得した」というようなもので、こういうランキングは英語圏の大学に不当に有利になっていて、だからそれほど気にするには及ばないと考えることはできますが、中国や韓国も非英語圏の大学なので、日本の大学が見栄えしなくなっているのは確かなのです。これでは日本への留学生が増えることも期待できないわけで、「アジア唯一の先進国」というのは遠い過去の栄光になってしまったのです。げんにGDPは中国にかなり前に抜かれているし、一人当たりGDPではすでに韓国に並ばれている。それが教育にも及び、かつてはアジアトップの大学は東大と見られていたはずですが、今では誰もそんなふうには思わなくなっているのです(上の記事には出ていませんが、小国シンガポールの躍進も著しく、アジア第3位の25位にシンガポール国立大が入っている)。
次のような記事も出ています。
・なぜ東大の予算は2500億円で、スタンフォード大は1兆円超なのか
残念なことに、これは会員にならないと続きが読めないようになっていますが、最初のページだけでもかなりのことはわかる。
…2004年に国立大学が法人化されて以降、国から支給されていた運営費交付金は毎年1%ずつ削減される状態がしばらく続いた。その代わりに増えているのが、「競争的資金」と呼ばれる、研究課題を公募し優れたテーマに配分する研究資金だ。文部科学省の科学研究費がその代表だろう。
各大学は外部から資金を調達する必要に迫られている。東京大学も例外ではなく、2000年代初めには年間で約1000億円あった運営費交付金は、18年度には760億円まで落ち込んでいる。その代わりに約620億円を外部から調達している。今や外部資金は、東大の収入の約3割を占める重要な財源だ。資金の出し手は国にとどまらず、財団法人や企業が募る民間のものも多い。また、産学連携などで獲得した委託金などの研究資金も広い意味での競争的資金に含まれる。
競争的資金に重点を置くようになった背景には、言うまでもなく国の財源が逼迫し、大学の研究や教育にまとまった額の予算が割けないという事情がある。期待される研究に限られた資金を手厚く配分して、最大限のパフォーマンスを上げようという方向に政策の舵(かじ)を切ったわけだが、こうしたやり方が結果的に研究計画ありきの厳しい資金獲得競争を生んだ。その結果、若手研究者に向けた研究環境の整備や、基礎研究の充実に支障をきたしているとの不満は根強い。
同じ国立大学でも競争的資金を取れる大学と取れない大学の「格差」も生じてしまった。16年に文部科学省が行ったアンケートで、約6割の教員が所属機関から研究者に支給される個人研究費の額を「50万円未満」と答えるなど、地方国立大学の「窮状」も明らかになっている。
こういうのは研究費さえ多ければいいというものではなく、げんに科学関係のノーベル賞受賞者は研究資金が元からダントツで多かった東大より京大の方が多い(発想力や思考の柔軟性で負ける?)のですが、それも程度問題で、今は減らし過ぎです。だから「日本人のノーベル賞受賞者は近い将来ゼロになるだろう」と言われるのですが、いちいち首相官邸や文科省の顔色(だいたい、連中に研究の良し悪しの判断なんてできるのか?)を見なければならないだけでなく、「科研費がなさすぎて、新たな研究を立ち上げることも、継続することもできない」状態になっているのです。若手研究者のポストも少なくなったり、身分が不安定化しているので、理系の優秀層が研究より就職を選ぶことが多くなったという問題も指摘されています。「貧すりゃ鈍する」の悪循環に陥っているのです。
こうしたことについては、「文教予算は減っているのに、大学の数をむやみに増やし過ぎたのが悪いので、私立でも補助金名目で万年定員割れの大学にも多額の補助金が支払われている、そういうのを全部潰してしまえば、まともな大学に出せる金も増えて、研究費問題も改善するはずだ」という、いくらか乱暴な議論があります。僕も、乱暴だがそれは正論だと思っています。子供の数は減り続けているのに、大学の総定員数は減らないので、「落ちる方が難しい」大学も相当数あるのです。今は国立ですら、地方の駅弁大ではセンター得点率が5割に届かなくても合格できるケースもある。そういう受験生は基礎学力自体が疑わしいので、大学教育どころではないだろうなと思うのですが、いわゆるFラン大学となると、それはいっそう甚だしく、世間からも大学扱いされないので、進学する意味があるのかなという気がするのです。
昔、「十五の春を泣かせない」というスローガンの下、高校全入運動が行われましたが、今は大学も全入時代で、それどころか、余っているから定員割れ大学がこんなに多くなるので、文科省は苦肉の策として私大の定員厳格化を推し進め、人気大に落ちた受験生が不人気大へと流れるように仕向けて、これ自体姑息きわまりないやり方ですが、その数を減らそうとしてきたものの、それでも2019年度段階でまだ33%(短大も含めると比率はもっと高くなる)もあり、全体の3分の1が定員割れを起こしているのです。たまたまならまだしも、こうした大学のほとんどは慢性的で、ひどいところになると定員充足率は3割台で、7割に満たない大学だけでも30校あるのです。今後それが大きく改善する見込みもない。それでも毎年一校当たり億単位(平均では5億円)の私学助成金が出ているわけで、税金の無駄遣い以外の何ものでもないように見えます。文科省も、一度認可してしまった手前、よほどの不祥事がないと潰せないと思っているのかもしれませんが、慢性的に充足率が低い大学は潰すべきでしょう。それだけでもかなりの巨額が浮くので、それを他に回せばいい。うまくすれば、それで定員割れ大学もゼロになるかもしれない。それらの大学に入学していた受験生が他に振り分けられるからです。
高校以下の学校は統廃合が進みました。げんに僕の母校など、残っているものは一つもないほどです。まず小3まで通った分校(絵に描いたような「山の分校」だった)が児童数の激減で廃校になったのは僕がまだ大学生の頃で、本校の小中学校もその後統廃合の対象になった。お次は高校で、ウィキペディアを見ると、「…にあった県立高等学校である」と過去形で語られ、統合された後しばらく「分校」として残ったものの、三年ほど前生徒募集が停止され、消滅した。これは少子高齢化と人口流出がダブルで進んだ田舎では珍しくもない話です。時代の流れでそうなったので、別に誰が悪いわけでもないのですが。
だから母校の中でまだ存続しているのは大学だけなのですが、そういうふうに高校以下の学校では容赦なく統廃合が進められたのに、補助金額がとくに大きな大学は潰せないというのは道理に合わない。それは文教予算の無駄遣いというものなので、それを有効活用するためにも、慢性定員割れ私大は潰すべきなのです。それで教職員が失業するとか、それに寄生している関係業者が打撃を受けるとかいったことは、言い訳にはならない。それはいかなる変化も拒否するということなので、そういうことばかりやっているからソンビ組織が生き永らえて、望ましい社会構造の変化も、経済の活性化も起きないのです。
問題は、しかし、そういうことだけではない。この手のランキングでは「教育力」というのも重視されていますが、大学教員も今はやたらと事務仕事を多くさせられる(いちいちそんなことにも書類を提出しなければならないのかと呆れるものまである)上に、懇切丁寧な学生指導に多くの時間とエネルギーを割かねばならないのです。まず詳細なシラバスなるものを作って提出するというところから始まり、それに従ったわかりやすく“楽しい”授業を心がけねばならず、休講した場合は必ず補講を行なう。そして成績不良学生や引きこもり学生にも愛の手を差し伸べて、大学の評価を下げる原因となる退学率を減らすよう努めねばならない。各種会議もたくさんあり、理系なら、研究予算獲得のために申請書類書きに追われるほか、企業にも愛想よくしなければならない。
これはしばらく前に院生の息子に聞いた話ですが、ある関西の有名私大の教授に会ったとき、大学教員になったが最後、自分の研究などというものはほとんどできなくなる、という嘆きを聞かされたとのこと。だから時間のある今のうちにしっかり研究しておきなさいというのがアドバイスだというのは笑えない話ですが、どうしてそうなるのかといえば、他のことで多忙を極めるからです。研究を進めるために大学教員になるのではなく、そうなったらかんじんの研究の方は引退したも同然になってしまうのです。だから、研究発表にしても、著書を出すにしても、それは若い頃の研究の“貯金”を取り崩しながらそうしているだけなので、研究の進展どころではない。これは文系の話ですが、それなら出版社の学術書の編集者にでもなった方がまだ自分の勉強のゆとりがもてていいくらいです。あるいは、自分で塾でもやって、それで食い扶持だけ稼いで、残りの時間を研究に使った方がマシです。彼にはそれぞれ専門の違う学部時代から仲のいい優秀な研究者の卵友達が二人いて、三人で会って話すと、きまってそういう「お粗末な研究環境」の話になるそうですが、「乞食と大学教授は三日やったらやめられない」というのは昔の話で、「大学教員になったら他のことで忙しくて、もう研究なんてできない」という本末転倒も甚だしい事態になっているのです。名門大教授でさえそうなら、低偏差値大の教員となるとどうなるのか、授業中の私語に耐え続けねばならないだけでなく、問題学生へのかなり低次元な手取り足取り“指導”に忙殺され、これにどうでもいいような大量の事務仕事、会議などの雑用が加わるのです。
要するに、文系理系を問わず、学者の研究環境は最悪のものになりつつあるということです。それでは大学者なんか出てくるはずがない(ノーベル賞とは関係なくても、文系のすぐれた学者は必要です)。成果も当然出ない。昔は、実験などが不可欠な理系はともかく、文系の学生はほったらかしでした。学生の方もほったらかしにしてもらえるのを期待して入学したので、休校が少ない講義にはむしろ文句が出た。そもそも、大部分の講義は出席を取らなかったので、それをいいことに出席しない学生が多かったのです。専攻関係なしに、当時の学生は本だけはたくさん読んでいたので、それで仲間と議論を戦わせるのが楽しみだった。これは当時の「標準」ではありませんが、生活費稼ぎのバイトに追われていたこともあって稀にしか講義には出なかった僕など、「今日は出てみようか」と殊勝な気持ちになって大学に向かうものの、途中の古本屋街で引っかかってしまって、着いたときは最後の授業が終わる頃になっているということがよくありました。それで一階のラウンジで自動販売機のコーヒーを飲んでいると、授業が終わった連中が降りてきて、「ああ、いた、いた。そろそろ来る頃だと思っていた」と言いながら仲間が寄ってきて、それから学食か近くの食堂で夕食を取り、そのまま話をしながら五、六人、ぞろぞろ駅の方に歩いて、暗黙の了解のごとく行きつけのビル地下の喫茶店に入り、コーヒー一杯で二、三時間粘りながら議論に花を咲かせる、というのがいつものパターンでした(ウエイトレスのお姉さんも常連なので親切だった)。そういうのが楽しくて学生をやっているようなものだったので、授業なんてものはおまけみたいなものだったのです。
こういう時代は、先生たちも楽だったわけです(詳細なシラバスなんてものも、むろんなかった)。授業に二、三十分遅れてくるのはふつうのことだったし、研究に没頭して授業があるのを忘れてしまい、そのまま休講になっても、「この分では今日は休みだな」と学生の方は思って、どこかに行ってしまい、文句を言われることもない。今なら「高い授業料を払っているのに何だ!」と抗議が殺到して、大問題になってしまうでしょう(ついでに言うと、アメリカよりはずっとマシだとはいえ、大学の学費の上昇は物価上昇分をはるかに超えている。国立の場合なおさらそうで、僕の記憶では、当時の国立大の授業料は年間3万6千円だったのです。私大文系で20万前後)。そういう牧歌的な雰囲気はとうに失われ、電子機器の発達で、入室の際学生証をセンサーにかざす、なんてシステムになっているので、出欠は自動的にカウントされ、「単位認定厳格化」の指示が文科省から来ている手前、出席日数不足の学生に気安く単位を与えることもできない。今でも思い出すたび笑ってしまうのですが、学生の頃、試験を受けに行くと、空いている席が最前列にしかなく、仕方なくそこに座っていると教授が「試験問題のことで何か質問はないか」と言いながら入ってきて、思わず目と目が合って、「おまえの顔なんか、いっぺんも見たことないぞ」と大声で言われてしまい、クスクス笑いが起きて弱ったことがありました。「いや、二回ぐらい(半期ではなく通年で、です)は出たことがあります」とも言えない。幸い、それは出席を取らないものだったので、「いっぺんも見たことがない」その学生が誰なのかは先生も把握できなかったわけで、単位はめでたく取得できた。今なら出席率一割以下なのがすぐバレてしまい、問答無用で落とされてしまうわけです。
こういうのが果たしていいことなのか、どうか。学生も教員もその方が自分の好きなことができてよかったのではないかと思うので、今の大学生が真面目に授業には出るからそれだけ優秀になっているとは必ずしも言えないでしょう。真面目に授業には出て、課題をきちんとこなしているとしても、その分、好き勝手なことをやる時間は減っていて、人間は好き勝手やったことの方がよく身につくものなので、厚みに乏しくなっているかもしれないのです。息子が行った大学は「放し飼い教育」を旨としていて、自由度が高いようなので、割と昔の大学に近い感じで、学部の同期には就職もせず院にも行かず、そのまま「消息不明」になっているのが何人もいるという話で、そういう怪しげなのがかなりの数いるというあたりも、昔の大学と似ている。それでもだんだん管理的になってきているのはたしかだという話で、わが母校など、昔は卒論がない上に面倒なゼミ(少人数なのでサボれない)も他科目で代替できた、最も卒業が容易だった法学部が、今は最も単位認定のシビアな学部になっているという話で、全体に大学教育は様変わりしたのです。
今の大学生は、ああしなさい、こうしなさいと指示されないとどうしていいかわからないのが増えているから、こうなるのでしょうか? だから大学も高校の延長みたいになってしまい、それに文科省のアメリカ猿真似政策が重なってこうなるのだと思いますが、これは今の若者が動物として駄目になりかけているということなのではないかと思います。いちいちあてがいぶちの餌を与えられないと生きていけないみたいな感じで、野生というものを失っているのです。試験前のテキスト一夜漬けで、一通りの筋が通った答案が書けるという知的瞬発力も落ちていて、ちゃんと授業に出ている割にはお粗末な答案が多いとも聞きます。子供時代の野遊びも足りていないから、それが災いして、入試段階で知的にピークアウトしてしまい、それ以上伸びない学生も多いのかもしれない。
こんなことを書くと“炎上”してしまうかもしれませんが、コロナによってキャンパス・ライフを奪われる以前に、そういう問題が起きていたわけです。生徒と教師両方が不必要に細かい管理システムでがんじがらめにされ、どちらもそれで疲弊する(日本の子供の精神的幸福度は先進38か国中37位)という現象は小中高段階で問題になっていますが、それが大学教育にも及んでいるということです。教員は多忙すぎて自分の研究ができず、学生は単位認定厳格化で眠たい授業もサボれず、アメリカ式に課題をたくさん出しましょうということで多忙になり、こちらも自分の好きなことができない。余暇時間はつまらないSNSに大方奪われるというのでは、クリエイティブで突破力のある人材が続出するということにはならないでしょう。社会を挙げて「日本沈没」に精出しているようなものです。
英語の school が「余暇」を意味するギリシャ語の skholē(スコレー)に由来するというのは有名な話ですが、余暇どころか、今の学校は上から下まで、最も多忙な場所の一つとなってしまっているのです。その多忙さは好きで勝手に何かに没頭しているのとは違うので、昔はたしかに十年講義内容が全く同じで、学者としてはとうの昔に終わっていて、何の新味もないという無能教授たちもいましたが、余暇が保障されていたために大きな研究業績を挙げるすぐれた学者もいたわけです。今はおしなべて多忙で自分の研究どころではないというのでは、そういう大学者もいなくなってしまう。理系の研究者はこれに加えて、必要な研究資金も確保できないから、「したくてもできない」事情が付け加わるのです。
こういうのは冒頭のランキングに見られる数字以上に深刻な問題ではありませんかね(研究力の低下などはそちらにもダイレクトに反映される結果になるはずですが)。だから、他にも色々方策はあるでしょうが、まずもって大学の名に値しないような慢性定員割れ大学を整理して、それで浮いたお金は残った大学に回し、大学教育のあり方も、アメリカの猿真似ばかりしないで、昔の放任主義の大学にはいいところもあったのだから、再考した方がいいのではないかということです。
高校時代、真面目なのか不真面目なのかよくわからない、脱線話が面白い物理の若い先生がいました。パイロットになりたかったが、なりそこねたので仕方なく高校の教員になったという人で、最初の中間テストの第一問にいきなり鉄腕アトムが出てきて、教室がざわついたのですが、ちゃんと物理の問題になっていて、他もかなり変わったオリジナルの問題でした。中に、風船に何かのガスを入れて放したら、その後どうなるか考えて書け、という問題があって、教師を怒らせる名人だった僕はしめしめと、およそ思いつくかぎりの出鱈目を書き並べて提出したのですが、返ってきた答案を見ると全部にマルがついていたので、不審に思って「何でこんなものに点をくれたんですか?」ときくと、「ああ、おまえのそれね。どれも可能性としてはありうることだからねえ」と澄まして答えました。相手の方が役者が一枚上だったのですが、卒業前に珍しく真面目な顔つきになって、「大学生バカという言葉がある。これは入ったときより出るときの方が馬鹿になっている学生のことを指していう言葉で、君らの中には大学に行く人もかなりいるだろうが、入ってから何をしてもいいが、この『大学生バカ』にだけは絶対なってくれるなよ」と言ったのです。
悪ガキどももかなり神妙にその話は聞いていたので、それは心に届いたのです。単位認定を厳しくして学生を勉強させるというのは、他律的なやり方ですが、こういうふうに言って自覚を促す方法もあるわけです。前に九州地区の某有名私大に行った生徒が遊びに来て、試験でのカンニングの横行(その大部分が昔はなかった指定校推薦で入った連中だというのだから呆れた話です)に憤っていましたが、そういう下劣なことをするのは昔の不良の見地からすれば名折れもいいとこで、最低限の勉強だけして実力で単位をかすめ取るところに不良たるものの芸とプライドがあったので、他に大学の単位とは無関係なことをたくさん勉強しているから、ふつうの学生より学びの幅は広いと自惚れることもできたのです。
そう考えれば、「入るのは大変だが、卒業は容易」な従来の日本の大学が悪かったとはいちがいに言えない。彼らには試験で測定されなかった「見えない学力」が豊かにあったのだと言えば、自己正当化も甚だしいと叱られるかもしれませんが、それだと学生は勝手にやるから、大学の先生たちも手間がかからず、自分の研究に使う時間的、エネルギー的ゆとりももてるようになるわけです。「休講したら必ず補講は行わなければならない」なんて、他律の最たるものである受験勉強(公務員試験もその一つです)しか能がなかった文科省の官僚たちが言って、管理教育に慣れ過ぎた学生がそれに追随しているだけの話でしょう。
理系でも、アインシュタインなどは、教授に渡された実験の指示メモを丸めてゴミ箱に捨て、喫茶店に行って「思考実験」と称してひとり思索にふけっていたりしたのです。それで、先生たちの受けが悪かったので就職も世話してもらえない羽目に陥ったのですが、上からの指示に忠実に従うだけの真面目な秀才なら、当時の物理学常識をひっくり返すような発見はできなかったでしょう。
学問や教育というのはそういうものです。管理が行き過ぎるのはマイナスにしかならない。形式的なことにばかりこだわって、生きた人間がどういうものであるかを、今の教育関係者は忘れてしまっているのではないでしょうか。それではすぐれた研究者も、有用な社会的人材も育たず、「日本のたそがれ」は深まるばかりになりかねないのです。当然、日本の大学の世界的地位も上がることはない。これは隠れた問題点の一つかもしれません。
尚、最後に一点付け加えておくと、中国や韓国は受験競争の激化と低年齢化が日本より甚だしく、そのあたり今の日本の子供は…という論調も一部に見られますが、僕はそういうのは馬鹿げた話だと思っています。皆が横並びで一斉に競争するのは東アジア的稲作文化の特徴で、それは不毛な消耗戦になりがちだからです。そうした詰め込み暗記競争を勝ち抜いただけの受験秀才がクリエイティブな人材になるとは思えないので、そういうつまらないことで張り合っても意味がないということだけは、ちゃんと認識しておいた方がいいのではありませんか。