夏休みの変容~勝手に遊べなくなった今の子供たち

2017.07.22.12:07

 今回は煩わしいアベ政治(早く退陣してくれれば書かずにすむのですが…)のことはひとまず忘れて、夏休みの話です。

 今日は22日ですが、僕の記憶では、高校に入った頃は一学期の終業式が24日から20日に繰り上がって、夏休みは昨日からだったような気がします。すでに期末テストが終わった段階で授業は午前中だけの「短縮授業」というのに切り替わっていて、午後は毎日下宿近くの広い川(海まで数百メートルで、潮の干満で深さが変化した)で泳いでいたものですが、この日になるともう奥熊野の実家に帰っていて、今度は渓谷の淵でアマゴ(ヤマメの兄弟分)なんかを追いかけ回していたわけです。

 夏休みはだから、高校時代は42日間、小中学校では38日間あったわけです。しかも、その前の10日ほどは半ドンで、午後は好きなだけ遊べた。この「短縮授業」なるものは、昔の学校にはクーラーなんてものはなかった(ふつうの家にもなかった)ので、お勉強はまだ涼しい午前中に済ませて、あとは海や川、好きなところに行って泳ぐなり、魚とりをするなり、勝手にしろということだったのでしょう。いわば「夏休み前の肩慣らし期間」で、子供たちは喜んでその仰せに従っていたのです。

 60を過ぎた今でも、僕は夏場になると全身の細胞が活性化したみたいで元気になるのですが、これは子供時代のそうした幸福な記憶と関係している。昼間は川で好きなだけ遊んで、夜は夏休み用に楽しみにとっておいた西洋の長編小説(むろん、翻訳で)なんか読む、というパターンが定着していたので、夏になると自然に読書量も増えるのです。

 お勉強の記憶の方は、残念ながらほとんどない。小中学校の頃は、夏休みの間に登校日というのが2回ほどありました。朝礼とホームルームだけで終わりなのですが、これは学校が生徒たちの無事を確認するという趣旨のものだったのでしょう。そこで子供たちは「宿題やった?」「いや、丸残り」というような会話を交わして、「よかった! やってないのは自分だけじゃない」というので、「赤信号みんなで渡れば…」心理を強化することになり、心安んじてサボり続けることができたのです。その宿題も、今思えば1日30分か1時間もあれば終わる僅かなものだったのですが、それすらちゃんとやれなかったのです。

 そういうわけで、農家などでは家の手伝いもたまにはやらされたのですが、当時の子供にとって夏休みというのは、長期間心おきなく丸々遊べる、まさに「地上のパラダイス」でした。じっさいあんな嬉しいものはなかったので、当時はまだ日本中が貧乏でしたが、自然は豊かで、子供たちが好きなクワガタも、川の魚も、ウジャウジャいたから、そこで遊ぶのにお金はいらなかった(今は絶滅状態に近くなってしまったニホンウナギなど、信じられないくらいたくさんいたのです)。よく朝から川に出かけて、夢中になっているうちにおひるを食べに帰るのも忘れて、夕方腹ペコで帰って、大目玉を食ったものです。昼食を食べに戻ったときは、おなかがもつので、帰りが夜の8時になってしまうこともあって、またしても怒られる。そんなことの繰り返しでした。

 今は田舎でも、地域の年齢層の違う小中学生ぐらいの子供たちが川で群れて遊んでいるなんて光景を見ることはめったにありません。土日に家族連れを見かけることはありますが、昔は子供の中に大人の姿を見つけることは稀で、子供たちだけで遊んでいるのがつねでした。大人たちは皆仕事で忙しかったから、子供同士、勝手に川や海で遊んでいたのです。

 それがいつから始まったのかは知りませんが、当時は自主運営の子供会が健在で、月1ぐらいで地域の公民館に集まって会議を開いていた。メンバーは小3くらいから中3までだったと記憶しています。選挙で三役を決め、その時々の議題について討議するのです。お盆や正月前には、「道普請(みちぶしん)」というのがあって、大人たちと一緒に地域の共有道路の草刈りや清掃を行う。他に家々を回って空き瓶回収を行うこともあったので、それをリヤカーか何かで2キロほど離れた町場の酒屋までもっていって、代金をもらうのです。道普請でも大人から子供会への金一封が出た。そういうのをプールしておいて、「茶話会(さわかい)」と呼ばれる中3卒業生の送別会(数人ずついくつかのグループに分かれ、皆で買い出しから調理までやって、公民館ですき焼きやカレーを楽しんだ。そのときは終わり頃、大人の誰かが火の元の点検に来てくれました)などに使ったのです。山奥で近くに高校がなく、当時は中卒で就職する子が多かったので、その送別会は子供たちにとって大きな意味をもっていたのです。

 夏前、梅雨明けが近くなると、子供会でその年の「泳ぎ場」というのを決めました。大水が出ると川の流れが変わってしまうことが珍しくなくて、川はその都度姿を変えたのですが、今年は川のどの淵が地域の子供たち共通の「泳ぎ場」にふさわしいか、3つほどの候補の中から投票で決めるのです。このときにはA派、B派、C派というふうに分かれていて、自分の支持する場所に賛成が増えるように、事前の「多数派工作」なども行われて面白かったのですが、民主的に一番票が多かったところに決まるのです。そしてそれが決まると、いついつの日曜、そこに全員集合という付帯決議が行われる。皆でビーバーよろしく石や流木を組んでそこに堰(せき)をつくり、少し深くして、その淵がいっそうプールらしくなるようにするのです。そしてその淵のそばの河原には、先端に黄色い旗をつけた棒切れが立てられる。それは毎年学校から子供会長に渡される旗で、そこが「公認の泳ぎ場」であることを示すのです。

 むろん、子供たちは他でも泳いでいたのですが、「公認」なので、泳ぎがメインの目的の場合はたいていそこに行く。面白いのは、浮き輪をもった小さい子をそこに預けに来る親もいたことです。「頼むね」と言って、親はさっさと帰っていく。二、三時間するとまた連れに来るのですが、そこで遊ばせていれば、年かさの子供たちが注意して見ていてくれるので、親としては安心なのです。じっさい、そこは深いところは二メートルをゆうに超えるので、泳いでいて溺れかける子も出る。そういうときは泳ぎの達者の子がすぐ飛び込んで助けてくれるから、水死者などは一度も出たことがなかったのです。子供はそういうのを見ながら育つので、自然に年齢に応じた役割がどういうものか学習する。

 そして、その「泳ぎ場」の上流と下流には、泳ぎに飽きて魚とりを始めた子供たちの姿が点々とつながっている。そこでも小さい子は大きい子に、魚とりの方法を教わったりしているのです。晴れた日にはそういうわけで、子供たちは男の子も女の子も、全員川に出払っていた。そこにはのけ者にされた子は一人もいなかったので、中には知的な障害をもつ子もいましたが、そういうことも一緒に遊ぶには関係なかったのです(自然は面白いもので、そういう子供が構えた網に、とんでもない大物が飛び込んだりして、「えっ、おまえがそれとったの?」なんて周りがびっくりすることもあるのです)。

 今でも子供会というのは存在するようですが、それは親がかりです。部活も親がかりなら、遊びに行くのも親がかりで、「子供が外で勝手に遊べる夏休み」は事実上、消滅した。夏休み自体が今は短縮傾向にあるようで、静岡県の吉田町というところではそれが16日間にまで削減されるというので、子供たちが「町長のバカヤロー」と憤慨しているなんてニュースもありましたが、どのみち今の子供たちは背中の皮が三回むける(日焼けでそうなってしまうのです)まで夏休みに遊び倒すなんてことはできなくなっているわけです。

 見ていると、今でも地方には子供たちが遊べそうな場所は町から近いところにいくらもある。しかし、大人の地域共同体が崩壊してしまったのと同じで、子供のそうしたコミュニティも今は消えてしまったのでしょう。僕は子供の頃、山や川であやうく死にかけたことが何度かあります(むろん親には内緒)が、そうした経験もないので、自然とのつきあい方がわからず、子供たちだけで遊ばせると事故がこわいということもあって、学校や親が禁止しているのかもしれません。

 実際、水の事故は多くなっているようです。僕がこのブログに名前を借りている祝子川なども、下流は遊泳禁止になっています。水死者が毎年のように出るからです。このブログもかなり危険ですが、本家の祝子川もなかなかにこわい川なのです。にもかかわらず、僕は息子が小学生の頃、何度も一緒にそこで泳ぎました(母親には内緒でしたが)。そこが危険とされる理由の一つは、水量が多くて流れが見た目以上に強いというだけでなく、河原と川の境目がなだらかではなく、急に深くなっていることにもあるのでしょう。河原がすぐそこだから、もう足が着くだろうと思っても、ズボンといってしまうのです。どんな川でも、地形や流れなどに癖があるので、そのあたり心得ておく必要がある。プールと川や海は違うのです。足がつったときの対処法なども、昔は年上の子からふつうに教わったものですが、今はそれも知らない子が多いでしょう。

 しかし、こういうのも時代の流れで、いい悪いの問題ではありません。昔と違って進学率が上がった今はお勉強もしなければならない。中学生たちは部活の他、塾の夏期講習があるだろうし、小学生でも、中学受験をする子供たちは夏も大忙しなのです。高校生ともなればなおさらで、大学受験に備えて夏は猛勉しなければならない。今はふつうに学校の夏課外というのもあるから、少なくとも7月いっぱい学校は続く。塾の生徒に昔の高校生の夏休みは42日あったのだというような話をすると、一体それはどこの国の話ですか、みたいになるのです。

 まあ、僕みたいに子供の頃遊んでばかりで全然勉強しなかった人間は立派な大人になり損ねるということはあるかも知れないので、ほどほどには勉強もした方がいいと思いますが、楽しかった夏休みの思い出はいつまでも残るものなので、回数はそう多くなくても、親御さんたちは子供を川や海に連れて行くなどして、丸一日腹いっぱい遊ばせてやることは、やはりした方がいいでしょう。複数家族で出かけると、子供には遊び仲間がいるからなおいいということがある。彼らがガヤガヤやっている様子を見るのは、それ自体愉快なものです。すでに見たように、子供たちが勝手に遊べる時代ではなくなったから、意識的にそうする必要が出てきたのです。

 僕自身は、自分が遊びたいというのもあって、子供が小さい頃、事情が許すかぎり家族で川や海に出かけました。あれこれ魚とりの方法なども伝授したのですが、彼はすぐそれに夢中になったから、子供は昔も今も同じなのです。中学の頃は部活(熱烈野球少年だった)の関係で、お盆をはさんだ五日ぐらいしかまとまった夏休みがありませんでしたが、そのときは連日鮎とりで、高校になってもそれは続いた。高3の夏も日曜になるたび出かけていたので、そのために車を出さねばならない母親は「受験生で他にこんなことしてる子がいる?」と呆れ顔でしたが、「気分転換が必要である」という父子の主張が勝って、それは続いたのです。後で本人に聞くと、「あれは最高に楽しかった」そうなので、幸い受験もうまく行ったから、良質の気分転換になっていたのです。

 だから、それはお勉強とも両立するわけです。僕は「小中学生の頃は落ちこぼれさえしなければ学校の勉強はどうでもいい」と考えていて、中学になっても小学校時代の「家庭学習30分」が変わらないという母親の嘆きは笑って聞き流し、わが子の勉強にはノータッチでした。勝負は高校に入ってからで、それも別にガリガリやる必要はないので、落ちこぼれないようにしつつ、少しずつペースを上げていって、競馬でいうと最後の直線に差しかかったあたりで猛烈な追い込みをかければ、それまでの遊びや読書で培われたパワーがものをいう、と考えていました。先行逃げ切りタイプの馬もいますが、それでは面白くないので、途中までは目立たない位置につけておいて、最後に外から回り込むようにしてすーっと前に出て、そのまま先行馬をごぼう抜きにするというのが一番カッコいいわけです。

 むろん、中には、その直線で思うように伸びないこともあるでしょうが、先行していても息切れして次々抜かされてしまう馬もいるのだから、そのときはそのときなのです。とにかく早くから勉強していればいいというものではない(高3になって初めていくらか勉強し出すというのでは間に合わないでしょうが)ので、とくに「遊びも勉強のうち」という年頃では、しっかり遊ばせてあげた方がいい。All work and no play makes Jack a dull boy(勉強ばかりして遊ばない子は駄目になる)という英語の諺は真実なのです。

 前にここに書いた「父親よ、もっと子供と遊べ」という一文は幸い多くの人に読んでいただけたようですが、子供とコミュニケーションがうまく取れないという人は、小さい頃子供の遊び相手をしてあげなかったことも関係するのではないかと思います。僕自身、子供の頃、山仕事で多忙な父にモドリというウナギとりの仕掛けを作ってもらったことがあって、これは入口を竹細工で編んで作ったりして、結構精密な作業を要するのですが、目を皿のようにしてその作業を眺め、後で不器用ながら自分でもそれを作ったことがあります。父はそれを1、2週間田んぼの泥の中につけてくさみをとり、それを川の中にもぐって仕掛ける実演までしてくれたのですが、翌朝その筒の中にはかたちのいいウナギが8匹入っていた。父の偉大さが強く印象づけられたもので、他にも、ツケバリという仕掛けをするときの、時期による場所のシフト(同じ夏でもウナギの餌あさりのルートが変わる)の仕方とか、釣り針の糸の結び方、春先のアマゴ釣りのコツなど、その当時教わったことは今でもほとんど全部憶えているのです。男の子にとってはとくに父親に相手をしてもらうことは嬉しいので、それが先々の人間関係の土台となるのです。僕の父親は一本気な恐ろしく不愛想な人間で、大方は怒られてばかりだったのですが、それでもそういうところがあって、子供にはそれが嬉しかったのです。子供というのは、そういうものです。

 そういう自分の経験があるものだから、小さい頃、わが子にも遊びの相手はできるかぎりしてあげようと思いました。僕は怖い父親ではなく、自分の父親ほど多忙でもなかったので、その分多く相手ができたのですが、母親と較べて父親は子供と接する機会が少なくても、そうしておけばコミュニケーションに問題は生じにくいのです。遊び相手をしていれば子供の性格もよくわかるから、成長段階に応じた的確なアドバイスもそれだけできやすくなる。わが子の場合、「子供時代、十分遊べなかった」という不満はゼロのはずで、人間にとってそういう“納得感”というのは人格形成上、案外重要な意味をもつのです。

 だから、地方から都会に出ている人はお盆休み、おじいちゃん、おばあちゃんに孫の顔を見せに帰省する人が多いでしょうが、その際は子供に自分が昔やっていた魚とりの方法を教えるとかしてあげれば、子供たちはただ家でスイカを食べているよりずっと喜ぶでしょう。そうでない都会育ちの人も、家族で自然と直接触れ合えるキャンプなどされてはいかがでしょう? どちらの場合も、そこに無神経にゴミなど捨てないよう、「公徳心」教育もちゃんとしていただきたいのは言うまでもありませんが(前に神奈川県かどこかで、上流の山の方が大雨になっているのに、そのまま河原でキャンプしていて、増水した水に流されて死者が出るという事故があったので、そのあたり必要な予備知識はちゃんと備えておいていただきたいと思いますが)。


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「でんでん」と「印象操作」~アホが教育にまで口を出すな!

2017.06.03.13:46

 この「でんでん」は子供たちの間でも有名で、「アベさんて、半端でなく勉強できない人なんですね」と思われる根拠の一つになっているようですが、アベノミクスから教育改革にいたるまで、振付師がたくさんいて(彼らは皆、「公平」を装いつつ、安倍擁護の論陣を張っているので、どうもおかしいなと思って調べると、安倍のブレーンの一人か、「お友達のお友達」だったということがやたら多い)、カタカナ語なんかは意味がわかっていようといまいと、読みを間違えることはないから、そのまま言わせれば足りるとして、漢字に全部ルビを振るわけにもいかないので、ときどきこういう“事故”が起きてしまうのです。

「印象操作」の方は、これを彼がどれほど乱発しているかをていねいに検証したまさのあつこ氏の以下の記事がヤフーのニュースサイトに出ていて、熟読に値しますが、要するに語彙も異常なまでに貧弱なので、とにかく形勢が不利になれば、「それは不当な印象操作だ!」と言い出すのです。自分の方は、この前、前川前事務次官の「風俗通い」を読売に書かせたときみたいに、露骨な「印象操作」を平気でやらかすのですが。

安倍首相、質問に「印象操作」で反論16回

 こういうふうにその“不適切”な使用ぶりを列挙されると、「また『印象操作』ですか?」と苦笑を誘うだけになって、「あんたはその『印象操作』という言葉によって、自分がさも卑劣な非難を受けているかのように“印象操作”しようとしているだけでしょうが」と、子供にまで見透かされて、誰からも相手にされなくなってしまい、自ら墓穴(まさかこれもボアナなんて読まないでしょうね?)を掘ってしまう結果になるのです。

 それであらためて安倍語録を思い出してみると、彼には「自分の言葉」というのが非常に少ないのがわかります。彼は歴代の首相の中で「総理にはあるまじき下品な野次」が最も多い男ですが、吉田茂みたいに「曲学阿世の徒」なんて言葉が自然にポンと出てくるといったことはないので、例の「日教組!」とか、ネトウヨ丸出しのヘイト野次みたいなものがせいぜいなのです。そしてそういうものにだけは妙に実感がこもっている。

 僕が彼に腹を立てているのは、その時代錯誤の国家主義的偏向や韓国並情実政治(こう言えば、嫌韓的言動だという人がいるかもしれませんが、それは韓国の人たち自身が認めるかの国の社会の前近代的体質なのです)だけではないので、彼はよく教育にも口出しして勝手な御託を並べていますが、「おまえみたいなアホが教育に口を挟むな!」とムカムカするのです。

 先日安倍は経団連のパーティに出席して、次のような御託を並べたという話です(朝日新聞5/31記事)。

 技術革新が加速し、(企業の)外部での人材育成が必要になっている。そこで、明治以来とも言える大学改革に着手する。地方大学を強化し、実践的な教育を充実させていく。
 第一に、実務経験のある教員を思いきって増やす。産業界のニーズに合う実務教育を行う。ここ(パーティー会場)にも、70歳を超えても80歳を超えてもバリバリ働く方がたくさんいる。リカレント教育(学び直し教育)の態勢を整えていく。
 第二に、大学の経営層に地元経済界の人材を登用し、ガバナンス改革を試みる。民間(企業の)出身者が大学経営に参画することで、大学教育が就職に結びつく。
 企業の外で人を育てる仕組みをつくるには、経団連の協力が必要だ。新卒一括採用だけではなく、大学でリカレント教育を受けた人材を積極的に中途採用していく方針を打ち出していただきたい。(都内で開かれた経団連創立70周年記念パーティーのあいさつで)


「リカレント教育(学び直し教育)」なんてカタカナ語も、安倍の空虚語の一つで、振付師にあてがわれたものでしょうが、「それが一番必要なのはおまえだろうが」というようなツッコミはさておき、安倍(というより、その後ろの傀儡師たち)にかかると、大学は完全な「企業の下請」です。大学のよさというのは本来、それが「社会の番外地」だというところにあったので、「実務経験のある教員を思いきって増やす。産業界のニーズに合う実務教育を行う」「大学の経営層に地元経済界の人材を登用し、ガバナンス改革を試みる。民間(企業の)出身者が大学経営に参画することで、大学教育が就職に結びつく」なんて、それが議論の余地のない善事みたいに頭ごなし言われては困るのです。

 今は有名な大学でも官僚上がりやビジネス界の人間が増えて、実務感覚かビジネスマインドか知らないが、それでやたら大学教員も書類やらマネジメントやらで多忙になって、「せちがらい浮世からは一線を画す」大学のよさが失われているようです。「大学は就職のためにある」なんて、昔も今も僕は全然思っていませんが(そんな下らないことのためだけに大学はあるのではない)、この前の文系学部潰しの「指令」もその一部ですが、こうした安倍式改革(とそれに対する大学側の“忖度”)のせいで、大学がどれほど深みや幅のない、面白くないところになりつつあるか、このどアホは全然考えていないのです。

 長い目で見れば、それは逆に日本社会の活力を殺ぐ結果になるでしょう。この世の中には「無用の用」というものがあって、それが文化を作り出し、一面的な経済至上主義の解毒剤になり、社会に正気を保たせる砦ともなるのです。いかがわしい投機不動産屋のトランプや、哲学書や古典の一冊も読んだことのない無教養な安倍のような男(前におねだりして文科相になった子分の下村博文なんかも最悪です)が分を弁えず、教育改革がどうたら言い出すのは「亡国の兆し」で、この政権の有害さには実にはかり知れないものがあります。

 安倍政権の問題はこういうあまり注目されないところにもあるわけで、一刻も早いご退場をと、願わずにはいられません。

安倍昭恵はAO義塾の宣伝にも一役買っていた、という話

2017.03.19.21:36

 あまり話題にはなっていないようですが、週刊新潮3月23日号のトップ記事は「文科省に圧力電話する安倍昭恵は私人か!」で、これは新潮にしては珍しく文章はお行儀がいいが、すぐれた記事です。

 こういう記事が出るのは「妻は私人だ」と安倍首相が言い張るからですが、一連の報道を見ると昭恵夫人のアホさ加減には驚くべきものがあって、「総理夫人」の威光を利用して“善意で”社会の公正を害するようなことを、このオバハンは数々やっているようです。事は森友問題だけではないということで、彼女に関してはこれまで、左派メディアも概して好意的でした。理由は、夫の「方針」に反して反原発に肩入れしたり、有機農法の真似事をしたり、居酒屋を経営したり(中には芸能人に酔って抱き着いてチューなんて脱線もあったようですが)していたからで、「家庭内野党」などという言葉が使われて、「自由で独立した女性」というイメージがふりまかれたからでしょう。美人とは言い難いその容貌も、“庶民的”だとして好意的に受け取られた(元森永製菓社長の娘なので、どう見ても「庶民」ではないのですが)。

 そういうのがネトウヨ夫への風当たりを和らげたという側面はあって、「内助の功」効果を発揮していたわけですが、今回の森友事件をきっかけに、「そんなまとものものなのか?」という疑問が生まれて、数々の「疑惑」が出てくるようになったのです。たとえば、ビジネス・ジャーナル3月17日の記事には、ある「全国紙記者」の話として、次のような談話が紹介されています。

「可能性として考えられるのは、昭恵夫人が安倍首相への断りなしに〔森友学園に〕勝手に寄付していたというケースです。そもそも昭恵夫人はこれまで、自民党の方針に反する反原発の言動を繰り広げたり、さまざまな社会的な運動に参加したり、雑誌などのメディアに積極的に露出して発言したりと、これまでの首相夫人とは明らかに違い、自由な言動が目立ちました。
 ただ、昭恵夫人は何か確固たる思想的信条に基いてそうした活動をしているのかといえば、まったくそんなことはなく、悪くいえば“ただの思いつき”。たとえば、数回にわたり役人を連れて見学に訪問した森友学園が運営する幼稚園では、『この幼稚園でやっていることが本当に素晴らしい』と言って涙を流していましたが、要はその場その場の感情に流されて、勝手気ままに発言したり行動したりしているだけです。よって、そんな“共鳴した”森友学園の理事長から『寄付してください』とお願いされて、個人の判断で寄付している可能性は十分に考えられます。もしそうであれば、安倍首相が『私や妻が関係していたとなれば、首相も国会議員も辞める』と言った以上、辞めざるを得ないでしょう。
 昭恵夫人は騒動が大きくなり名誉校長を辞任した後も、出席したある会合で、『今、なんで私はこう注目を集めてしまっているんだろうかと、すごく戸惑っています』『今は嵐の中にいる。嵐は自分の力ではどうにもならない』などと語り、反省している気配はゼロです。そんな昭恵夫人のバカげた行動によって安倍首相が辞任に追い込まれることになれば、文字通り“身内に足元をすくわれた”ことになるでしょう」


 たしかに、森友学園風の「教育」に“感動”するなどというのはふつうではありません。いいとこだけ見せられてそうなったのだと擁護する人もいるでしょうが、ある程度教育というものに理解のある人なら、その見せかけから透けて見える裏というものは必ずあるので、いったん判断を留保して、調べてみるぐらいのことはするでしょう。全然そういうことはしないでほいほいその場で感じた自分の印象を口にし、それに基づいて行動する。しかも、「総理夫人」という自分の肩書がどういう影響を及ぼすかということに関しては全く無自覚なので、こういうのは「利用された」ですむ話ではない。

 今回の新潮のこの記事などは、「利用された」とは言い訳できない、昭恵夫人の「積極的関与」を指摘したもので、彼女は「全国高校生未来会議」なるものに肩入れして、これを「主催するのは『リビジョン』という一般社団法人で、その代表は斎木陽平という24歳の青年だ」というのですが、その「イベントの打ち合わせに総理の官舎たる公邸を使えるように」便宜を図り、この青年のツイッターには「安倍昭恵です。全国高校生未来会議を応援しています。沢山の高校生が全国高校生未来会議に参加をして下さいます。この高校生たちがこれからの日本の未来を創っていくと、私は思っています。そのために、どうか多くのみなさまにご協力をいただきますように、私からもお願い申し上げます」という“応援メッセージ”まで寄せていたというのです。

 それの何が悪いのか? 記事は「ここで第1回未来会議がどんな内容であったか、確認しておく必要があるだろう」として、その詳細に入っていくのですが、これがかなり驚くべきものなのです。

 記事によれば、それは2016年3月23日から25日にかけて行われたのですが、「会場が衆院第一議員会館で、最終日は総理公邸まで使われた。そのうえ文科省と総務省が後援し、優秀者には総務大臣賞に地方創生担当大臣賞、そして内閣総理大臣賞までが贈られるという大盤振る舞い。常識的に考えて、弱冠23歳の若者であった若者が主催しうるイベントのスケールを、はるかに超えた様相だった」というものなのです。

 昭恵夫人からの支援要請があったことを文科省の関係者は認めているようですが、他にも夫人からは「いろいろなご相談が持ちかけられる」のだという。今、「第二の森友事件」として注目を集めている加計学園に関しても、「昭恵さんから省内にご相談をいただいたことがあるのは確か」だと語った由。

 要するに、昭恵夫人は自分が気に入ったものがあると文科省に「会ってあげてほしい」と頼んだり、「総理公邸に官僚が呼び出されることもしばしば」で、「そんな日常的“圧力”の一つとして、未来会議への支援を要請してきた」のです。

 当然ながら、お役人としては「総理夫人」の要請をむげに断ることもできないわけで、「一私人としての行動だ」と言うには無理があるのですが、そういう事実上の「職権乱用」には昭恵夫人はおかまいなしなのです。こういう非常識な総理夫人もめったにいないでしょう。

 文科省は夫人の「文部科学大臣賞を出すことを考えてほしい」という要請には抵抗して、何とか「踏みとどまった」そうですが、「後援」だけでも問題なので、省内ではその是非をめぐって議論になったという。それもそのはず、「高校生を支援するイベントは他にもたくさんあるのに、リビジョンなる14年に設立されたばかりの実績に乏しい団体が主催するイベントを後援していいのか」大いに疑問はあったからです。

 どう見てもそれは公平性に欠ける。しかし、ここで驚くべき話が出てくるので、別の文科省関係者の話では、「15年9月15日、当時の下村博文文科相から、全国高校生未来会議を首相直下の事業としてやってほしいという指示が下」ったのですが、「安保法案ですったものだの時期にいったいどうした、と誰もが思ったあとで伝えられたのは、リビジョンの斎木代表は安倍総理の親族だ、という話で、みな仰天しました」ということなのです。

 下村博文といえば、安倍の腰巾着の一人で、「博友会」なる塾団体からカネを吸い上げていながら、届は出さず、政治資金規正法違反の疑いをもたれたことは、前にここでも「下村博文・文科相の不正献金疑惑問題」(2015.3.4)として取り上げたことがありますが、いかにも公正観念の欠落した腰巾着らしい「指示」です。話を「親族」に戻すと、「山口県長門市のある市議」が語ったという詳細はこうです。

「斎木家は長門で代々医者の家系。陽平君の曽祖父は長門市長を務め、祖父は安倍総理の父親の晋太郎さんの後援会幹部でした。そのうえ、安倍家とは遠縁に当たるそうです」

 これは安倍事務所も認めているという話で、新潮記事は「要は、昭恵夫人は、親族かつ有力支援者の子弟に便宜を図るために、文科省に公然と圧力をかけ、大臣をはじめ政治家を動かしていたことになるのだ。その意味では、森友学園の問題よりも根が深いと言えよう」と指摘するのです。

 しかし、昭恵夫人にはそんな自覚はない。少し長くなりますが、そのあたり、記事を引用させてもらうと、

 第2回未来会議には文科省の後援はつかないが、昭恵夫人は相変わらず、公邸という「公の場」に主催者たちを呼んでは打ち合わせをさせ、未来会議の後押しをしている。また、今回も会場に総理公邸を使えるように、現在、尽力しているという噂もある。
 この期に及んで、なにゆえに未来会議に、公人然として関わりつづけるのか。昭恵夫人に連絡しても、梨のつぶてだったが、彼女は昨年12月には、本誌の取材にこう答えていた。
「陽平君は主人の父の後援者のお孫さんでもあって、非常に頑張っているので応援してきました。遠縁といえば、遠縁だと思います」
 と、総理夫人が公の力を使って支援すべきではない対象であることを認めながら、悪びれずに、続けた。
「陽平君だけじゃなくて、誰に対しても、良いことをやろうとするときは、私は“利用していいよ”と言っているので、若くて名前がない人たちは、信用を得るためにはすごく努力をしなくちゃいけない。それはすごく無駄なことだったりもするので、私が信用のために使えるのだったら、使ってもらって全然いいと思ってるんですね」
 かわいい子にこそ旅をさせることの見事な逆張りであるのはともかく、「利用していいよ」と言うが、なぜ昭恵夫人は利用するに足る存在なのか、それは、肩書に「総理」という冠がつく「公人」だからに他なるまい。


 常識的見地からすれば、こういうのは試験のカンニングやコネ入社などと同じなので、自分の親戚や接近してくる団体に「良いことをやろうとするときは、私は“利用していいよ”と言っている」というのは、進んで社会的不正に加担するのと同じ結果になるのに、ご本人にはそうした自覚が全くないということです。大体、森友学園のような戦前教育の復活にも「感動して涙を流す」ほどなので、その場合も「良いこと」というのは夫人自身の幼稚な主観による判断でしかないので、なおさら問題なのです。

 記事の内容とは順序が変わりますが、僕が読んで呆れたのは、

 しかし、それでも、主催した斎木氏が、若者の政治意識を高めるべく真摯に行動したのなら救いがあるが、現実に行っていたのは、自分が経営する塾への勧誘だったのである

 というくだりです。記事には「未来会議参加者の君へ」と題されたビラの写真が出ていますが、「これはAO義塾なる塾への誘いで」「なんのことはない、斎木氏は総理夫人の尽力で不自然に大掛かりになったイベントを利用して、参加者を自塾に勧誘していたのである」というから、驚くのです。

 何でも、この斎木という青年は、10年にAO入試で慶大法学部に入学したらしいのですが、早くもその年末にはこの塾を立ち上げ、ある塾講師が語るには、

「私が作った教材やノウハウを勝手に使い、苦情を言うと逆ギレする。うちの生徒がAO義塾を見学に行けば、私についてのウソの情報を流し、“うちに来た方がいい”と勧誘する。また、うちの塾に話をしに来て、うちの塾生に自分の名刺を配ってAO義塾に引き入れた。とにかく倫理的に逸脱しているのです」

 という輩で、「塾業界に詳しいジャーナリスト」によれば、「自塾の生徒を未来会議の運営に関わらせ、彼らが自主的に活動をしたかのような志望理由書を書かせてAO入試対策とし」たり、「イベントに集まった優秀な子に声をかけて誘導するため、東大の推薦入試でそれなりの結果を出す」のだそうで、この斎木という青年は明らかに「未来会議」なるものを悪用しているのです。

 それが「良いこと」だと思っているのは昭恵夫人と斎木青年だけのはずで、文科省が「再三、宣伝活動をしないように伝えてきたのに、事後に宣伝をしていたという情報が出てき」て、「頭を抱え」たというのは尤もなのです。

 塾教師の僕からすれば、こういうのは許しがたい手合いです。ここまで悪質ではないが、僕も自分の息子を延岡の某数学塾に「広告塔」代わりに利用されて腹を立てたことがあるので、ついでにそれを書いておきましょう。息子は割と礼儀正しい人間なので、合格後、挨拶に行ったのですが、そこの塾の生徒たちの前で話をしてやってくれと頼まれて、話をした。そこまではまだ許せたが、大学入学後も、お土産をもって行こうと電話したら、また似たようなことを頼まれたという話で、後で話を聞いて驚いた僕は「もうそういう要請に応じるのはやめろ。高校でなら、商売ではないからいいが、おまえにその気は全くなくても、そこの生徒たちや保護者はおまえがその塾にとくに世話になったと恩に着ているから、そういうことをしていると思うだろう。お人よしにもほどがあるので、宣伝の片棒を担がされているのと同じになる。事実は、おまえは最後まで数学が一番苦手だったし、二次試験では仮に数学が零点でも受かっていた〔今は成績開示のおかげでそういうこともわかる〕のだから、月謝以上の恩恵を受けたわけではさらさらない。大体、塾商売をしている人間が生徒をそういうかたちで利用するというのはまともな人間のやることではないので、実にふざけた野郎だ」と言ったのです。

 元々、彼がその塾に通い始めたのは、高1の時、数学の定期テストのクラス平均点が他のクラスより20点も低いというトンデモ教師に当たってしまったからです。文系でも、これはまずすぎる。中学までは数学が得意だったはずなのに「数学の授業がさっぱりわからない」と言うし、話を聞いているうちに、それは新米だからではなく、永遠にまともな授業ができないタイプの教師だなと判断したので、塾で数学塾に通っている生徒から電話番号を聞き、通わせることにしたのです。そのとき、そのトンデモ教師に当たった生徒は多くが緊急避難的に数学塾に通い始めたらしいので、塾としては一気に生徒が増えて大助かりだったようですが、その中にはそれまでその塾にはいなかったような優秀層が混じっていたので、大喜びしたのでしょう。

 僕自身は、元塾生にそんなことを頼んだことは一度もありません。たとえそれが塾を持ち上げるものではなく、公正客観的な「勉強の仕方」についての話でも、「効果」や「印象操作」の見地からして「えげつない」と感じるからです。それは生徒を利用したのと同じになる。息子は京大と早稲田4学部を一般受験して、全部に合格したので、そういう生徒がわざわざ何度も塾にやってきて話したとなると、その塾の印象はずいぶん影響を受けるでしょう。「そんなつもりはありませんでした」とそこの塾(他の数学塾が迷惑するかもしれないので、イニシャルだけ明示しておけば、S塾という名ですが)の経営者が言っても、それは通用する理屈ではない。もっとまともなやり方で勝負しろ、と言いたくなるので、一度このSという塾長は僕のところに息子が高校在学中に電話を寄越して、「おかげで助かってます」なんて言ってましたが、それは成績のいい子がいると塾としては間接的な宣伝になって「助かる」という意味だったのでしょう。だから、それを最大限に利用しようとした(そのときの電話も、手に負えない心理的問題を抱えた生徒をこちらに押しつけるためだけだったと後でわかって呆れたので、僕はまだ彼を信用していた頃、数学塾を探している生徒を何人か紹介しましたが、その逆はゼロだったのです)。

 こういう妙に調子のいいジコチューの御仁はどの業界にもいるものですが、このAO義塾の斎木という青年の場合には、詐欺のレベルに達していると言わねばならないでしょう。ノーテンキな昭恵夫人はそれをしも「良いこと」だと言うのか、直接会ってきいてみたいくらいです。

 世の中には「善意」を装って、あるいは極度の自己欺瞞から、人を利用することを恥としない手合いがたくさんいるので、権力者の妻たるもの、その片棒を担いでおきながら「そんなことは知りませんでした」ではすまないのです。私は馬鹿なのでいつまでたってもその見分けがつきませんというのなら、初めから出しゃばるなと言う他はないでしょう。

教育と洗脳

2017.03.05.13:38

 森友学園騒動は終息の兆しを見せず、国有地不正譲渡に対する疑惑は増し、理事長夫妻の異常さと児童虐待に関する報道も増える一方です。安倍首相が「たまたま悪いのに引っかかった」と言えるかどうかは疑わしいので、「しつけ等をしっかりしているところに共鳴した」「その時は妻から聞いた情熱的な教育をされるということ以上は情報がなかった」(先月28日の参院予算委員会での首相答弁)と言い訳していますが、戦前回帰の“ネトウヨ思想”を地で行けば必然、こういう虐待・洗脳教育にもなってしまうわけで、今さら「まさか実態がこうとは夢にも思いませんでした」という話は通用しないでしょう。これで政権が倒れる可能性も出てきたわけで、「安倍政権はネトウヨに始まり、ネトウヨに終わった」と、後世の歴史家たちに評されるかもしれません(安倍夫妻の教育観に関しては、幼稚・愚昧の一語に尽きます)。

 最新号の週刊文春・新潮はどちらもこの問題に関する記事をトップにもってきていて、一昨日、僕は仕事帰りにそこを本屋で立ち読みしましたが、どちらも相当に痛烈で、新潮は森友学園のこのボス夫妻がわが子の教育に「大失敗」していることまで取り上げて皮肉っていて、よそ様の子供の教育をとやかく言えるレベルの人たちではないのです。

 しかし、こういうネトウヨ学園にかぎらず、教育者という人種はなぜか「統制」「洗脳」好きな人が多いようです。それは学校の「文化」になっていると言ってもいい。僕は昔、小学校に上がったときのショックを今でも憶えているのですが、朝礼で校庭に生徒を並ばせて、気をつけ、礼! 前へならえ、右向け右!なんて軍隊みたいなことをやらせるわけで、いきなりこれでは生きた心地がしませんでした。僕などはものすごい山奥で育ったので、幼稚園も保育園も当時はまだなくて、それまで野山と川を友として呑気に遊んでいたのが、いきなりこれなのです。いや、子供集団を統率するのは大変で、大人数ともなればそうした軍隊式規律を仕込まなければ秩序は保てないのだ、と言われるかも知れませんが、僕が入学したのは同級生が十何人しかいない山の分校(過疎でとうの昔に廃校になりましたが)で、その地域の子供たちは三年間そこにいて、それから、体力的にもう大丈夫だろうというので、本校に移るのです。少人数だから、別に軍隊式にやらないと秩序が保てないというわけではないはずなのですが、そうしないと気がすまない。それが学校というところで、基本的にそれは今も変わっていないのです。

 いや、むしろ「悪化」している。当地の高校には、「おまえはヒトラーか?」と言いたくなるようなクソ教師がいて、いちいち授業が始まるたびに「お願いします!」と叫ばせるらしいのですが、その教師は声が小さいといきなりブチ切れて、教卓を蹴飛ばし、あとはずっと意味不明のお説教なんて羽目になるのだとのこと。僕自身は少なくとも高校段階でそんな異常な教師に出くわした記憶はないので、「そんな対応に正当性は何もないから、逆ねじを食らわして黙らせてやりな」と呆れて生徒たちに言うのですが、今は各種の式典で君が代日の丸は必須になっている(「日本会議」が背後でそうした法制定の旗振りをしていた)し、学校だけは時代に逆行しているのです。そういうヒトラー教師が「厳しくて素晴らしい」なんてたわけたことを言う困った親まで中にはいる(幸い、うちの塾の生徒の親にはそんな人はいませんが)という話で、何を考えて生きているのかと思うのですが、思わない人がいるからこそ、森友学園みたいなところに間違ってわが子を入れてしまう人も出てくるわけでしょう。

 わが子が小学生の頃、「父親もたまには参観授業に行くべきだ。大体、あんたは昼間はヒマなんだし」と言われて、僕も一度仕方なくそれに出たことがあるのですが、行ってみると、その日に備えて「練習」してきたのが歴然としていて、その「活発さ」も全部演出で、「北朝鮮のマスゲームではあるまいし、誰が子供を調教しろと頼んだ?」とすっかり不快になってしまったのですが、隣に立っていたどこかのお母さんが「素晴らしいですわね」と言うので、二重に驚いてしまいました。あとで先生との個別面談になったとき、「お父さんが私の授業をよく思われなかったことはお顔を見てわかりました」と先手を取られてしまったので、弱ったのですが、子供の頃は学校で家畜化教育を行って、会社に入るときは首尾よく「社畜」になれるよう準備して下さるとは親切も度が過ぎてませんか?

 だから、森友学園のそれは異常の度合いが少々きつすぎるとしても、ふつうの学校でもマイルドな「洗脳」は行われているわけです。日本人の集団主義は学校で形成されると言っても過言ではないほどで、私立には自由と自主自律をモットーとするところが少なくないようですが、話をよく聞いてみると、やはり妙に権威主義的な教師がそこにはいたりする。

 それをよしとしない親は、家庭で「脱洗脳」教育をしなければならないわけで、よけいな手間ですが、親が権威主義的でなく、そうした学校の権威も権威とみなしていなければ、子供はそれにつきあいながらも、相対化して見ることができるので、そうした洗脳教育は不成功に終わるでしょう。北朝鮮の中にいても、外部の事情をよく知っていれば、アホな「将軍様信仰」の馬鹿馬鹿しさがわかるのと同じです。それで子供が不良化することはない。理不尽を理不尽と見ることができ、自分の正直な感性を肯定することができれば、おかしな抑圧が働くことはないから、自然な自己肯定感がもてるのです。

 子供が健康な自己肯定感がもてているかどうかを示すバロメーターの一つは、友達の長所や才能を素直に認められるかどうか、弱い子にも優しくできるかどうかです。そのあたり、親御さんたちはわが子をよく観察してごらんなさい。不安が強く、人を優劣の関係でしか見られず、だから他者の優れた点を認められず、自分より弱い者をあえて作り出そうとする心理は、自己肯定感の欠如の裏返しなのです。僕が道徳教育をいらざるものと考えるのは、自然な自己肯定感のある人は不道徳な人間にはならないと見ているからです。一方でそれを破壊するような教育を行っておいて、他方で道徳教育を行うというのは、二重の抑圧を加えているのと同じになる。最近の科学研究で、赤ちゃんには弱い側を助けようとする生まれつきの正義感のようなものがあることが明らかになったそうですが、僕はそれは正しいだろうと思います。それを損ねるようなことを「しつけ」「教育」の名で大人は行っていることが多いのです。おかしなことをやって生得の道徳的直観を破壊してしまうから、尤もらしいことを並べる自称道徳家の反道徳性も見抜けなくなるわけでしょう。エラそうなお説教を並べ立てる奴にロクなのはいない。自身、自然な自己肯定感に乏しくて、おかしな権威・権力をふるって他者を直接間接支配し、それによってその内部の欠落を埋め合わせようとしている連中ばかりです。むろん、ご本人たちにその自覚はないわけですが、学校の教師や政治家には、そういう理由で権力に魅せられたという人間が、ことのほか多いのではないでしょうか。つまり、「病人比率」が高いということです。

 自由主義教育は昨今不評です。勝手気ままな人間が増えたのは「個性の尊重」なんて西洋かぶれのたわごとのせいだと言うのですが、社会性や公徳心の欠如は端的に言ってそれのない親が増えたからで、それとはほとんど関係がない。家庭でも、別に厳しいしつけなどしなくとも、子供は親の日常のふるまいを見てそれを身につけるものです。だから今の親に良識のない人が増えたのだとすれば、それはその親、祖父母の世代にそれがない人が増えたからでしょう。つまり、道徳教育がどうたら言う、保守的教育者や政治家センセイ自身にそれがないのです。その人たちは「学校の誤った個性尊重主義教育」のせいでそうなったのか?

 これは強調しておくだけの価値があると思うのですが、体面を取り繕うことと、本当に道徳的であることとは違います。妙な形式主義でとかく人を裁くが、ハートがなくて恐ろしく利己的で冷たい人間というのはいるもので、そういうのはたんに底意地が悪いだけなのです。そして、何より大事なそのハートは、型にはまった道徳教育で培われるようなものでは全然ない。もしも個の人格が本当に尊重されるような教育が行われていれば、柔らかなハートが損なわれることはないでしょう。

 むろん、ベタベタして子供を甘やかすことと、子供を一個の人格として尊重することとは違います。僕はそれを「バカ殿教育」と呼んでいるのですが、口うるさいのは勉強のことだけで、後は勝手気ままを容認し、他人に対して無神経かつ非道なことをしても、叱りもしないしそれに気づきもしないという馬鹿な親はたしかにいます。それでいて自分の権利主張だけはやたら強いので、こういう人がモンスター・ペアレントになるのですが、そういう親に育てられた子供は高校生、大学生になっても小学生か幼稚園児並の偏頗な幼児人格しか持たず、後で苦労する羽目になるわけですが、こういうのは学校の道徳教育でどうにかできるというような性質のものではないのです。

 案外とこういう親にかぎって、「厳しいしつけ」を受けて育ったという人が多いものです。虐待に等しい扱いを受けたり、親にハードルを課されていて、「これをクリアできなければわが子ではない」みたいな脅しを受けて、そのためにありのままの自分というものを肯定できなくなり、常に自分が脅かされているように感じるので、なおさら利己的になり、自己防衛的、攻撃的になるのです。こういう人の場合、わが子にも同じようなことをしたり、逆に極端な甘やかしになったりする。自然な対応ができないからそうなるので、しばしば両方が混在していたりするのです。これは観察しているとよくわかるので、特定のことでは異常に厳しいかと思えば、別のことでは異様に甘かったりする。当然子供は混乱するので、それではバランスの取れた健康な人格的成長というものは期待できません。“自然な”対応というものが何なのか、親自身が混乱していてよくわからなくなっているのです。

 昔も、判で捺したような「厳しい軍人」がわが子を台無しにしてしまうというような例は珍しくなかったようですが、昔の庶民層が比較的健全だったのは、「教育勅語」的教育のおかげではなく、義務教育だけで終わるのがふつうで、学校教育の影響がそれだけ小さかったことと、国家主義的教育の支配が及ばない生きた地域共同体というものがまだあって、それによる見えない社会化・人間教育というものの効果が大きかったからでしょう。

 今はそれがない。子育ては「孤育て」になり、困った時に親切に助けてくれる近所のおじさん、おばさんもいなければ、非常識なことをしていても、そんなことやっちゃ駄目だよと親身に教えてくれる人もいないのです(後でいきなり非難だけが来る)。地域共同体の自然な生きた教育能力がなくなって、社会全体の教育能力が低下した。学校で「道徳教育」を行えばどうにかなるといった問題では、本来ないのです。

 先にも述べたように、それはむしろなくもがなのものです。「自己肯定感を二重に損ねる」可能性の方が高いので、その程度のこともわからない人たちが教育に嘴をはさみ、それによって教育が変えられるなら、お先真っ暗と言わねばならないでしょう。森友学園は「神道に基づいたわが国初の小学校」という触れ込みだったようですが、それはかつてわが国を愚かな戦争へと導いた人為的かつ硬直した「国家神道」によるもので、そんなもので「愛国少年少女」を養成しても災いにしかならないということは、僕らは日本人としてこの際はっきり認識しておくべきでしょう。

 日本会議やそれと結びついた政治家たちは、「森友学園は特殊な例で、自分たちとは関係がない」としきりに煙幕を張っているようですが、彼らが提唱する「教育改革」なるものは、五十歩百歩のロクでもない洗脳と教育統制に向けたものであることも、同じく忘れるべきではないでしょう。いくら何でも露骨すぎてあれはまずいと、理事長が「日本会議」に名を連ねていたからなおさら、彼らはあわてているのです。

文科省「腐敗」の深刻度

2017.02.07.17:05

 そこまでひどかったのかと、ため息が出るほどです。何より深刻なのは、文科省側に事態の深刻さについての自覚が全くないらしいことで、「国家百年の計」である教育がこういう三流省庁・役人たちの手に握られているのかと思うと、誇張ではなく戦慄せざるを得ません。

 まず、天下り問題についていえば、それが禁止されて正々堂々と天下りできなくなったので、「人助けだと思って」OBが人事課と共謀して、規制の裏をかき、おいしい天下り先を斡旋していたというのですが、世間の常識からすれば、再就職先は自分で探すのがあたりまえで、「据え膳」を用意してもらうのが当然だなどと、発想自体がお役人ならではの甘さです。「人助け」というのは完全な「内輪の論理」で、そこには卑しい利己性しかない。社会に巣食うダニみたいな連中だと言っても差し支えはないでしょう。

 もう一つは、次のような記事に見られる「現役出向」の問題です。

天下りあっせん 現役出向、83大学241人 補助金巡り癒着懸念(毎日新聞)

 この問題に関しては、同じ毎日の1月26日の記事にこうありました。

 自民党の河野太郎前行革担当相は26日午前の衆院予算委員会で、文部科学省の官僚が国立大学法人に幹部として出向する「現役出向」が241人に上り、そのうち理事が76人を占めるというデータを示し、「大学は文科省の植民地になっているのではないか」と追及した。今月1日現在の数字だという。
 河野氏は「文科省は大学の運営交付金や補助金のさじ加減を握っている」と指摘。今回の天下りあっせん問題を踏まえ、現役出向をやめるよう求めた。松野博一文科相は「出向は国立大学法人の学長からの要請に基づき行われている。現場感覚を養い、行政に反映できるメリットもある」と答弁した。


 URLをつけた上の記事には、その出向先の「多い国立大一覧」が付いていて興味深いのですが、異常な多さで、大学側が予算配分の権限を握る文科省に「揉み手外交」を行っているみじめな姿が浮かぶので、「学問の独立」などどこの世界の話かという感じです。河野大臣の「植民地」という言葉は言い得て妙で、文科省側の「現場感覚を養い、行政に反映できるメリット」というのは典型的な役人の答弁にすぎません。

 大学側からすれば、出向したお役人に「好印象」をもってもらえれば、先にもグローバル大学の認定なんてわけのわからないものもありましたが、何かと便宜をはかってもらえて、好都合なわけです。役人としては、出向先で学者先生相手に権力をふるえる快感がある。「あっ、そんな態度私に取っていいんですかね? 匙加減が変わりますよ」というようなものです。「いや、そのあたりはどうぞよしなに…」と大学側は平身低頭する。そういう図式。

 お役人の側からすれば、「旧態依然たる大学の体質を変える」という自負があるのかもしれませんが、一連の報道からすると、文科省自体が腐りきっているわけです。組織ぐるみで不正を働きながら、「身内にだけ甘い」彼らにはその明確な自覚すらなかった。その程度の連中に大学改革もへちまもないだろうと思われるので、ブラックジョークとしては面白いが、真面目にそんなこと言われても、誰もまともに取り合う人はいないでしょう。

 僕は塾教師という変則的な立場で教育に関わりながら、文科省というのは一体何をしているところなのだろうと、これまでにも疑問に思うことがよくありました。大学入試制度改革一つとっても、おかしなことをやって、それでボロが目立つようになると、また新たな「改革」を思いつきだけでやろうとして、「有識者」なるものを集めて何とか諮問会議、何とか委員会を作って、テキトーとしか言いようのない「提案」を出させ、事態をさらに悪化させる。そういうことの繰り返しなのです。文科省のおかげで教育がよい方向に変わったなんて話、聞いたことがない。日本の大学の世界ランキングが下がっているという問題にしても、文科省の役人的な発想では表面的なこと、形式的なことにこだわるばかりで、本質的なことには目が行かないから、大学側の自主努力に任せておいた方が百はマシでしょう。

 いらないことをするだけだから、最低限必要な事務部門だけ残して、いったん解体してしまってはどうでしょうかね? よく教育委員会無用論が聞かれますが、その元締めたる文科省それ自体が「いらないもの」の最たるものかも知れないのです。
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