安倍昭恵はAO義塾の宣伝にも一役買っていた、という話

2017.03.19.21:36

 あまり話題にはなっていないようですが、週刊新潮3月23日号のトップ記事は「文科省に圧力電話する安倍昭恵は私人か!」で、これは新潮にしては珍しく文章はお行儀がいいが、すぐれた記事です。

 こういう記事が出るのは「妻は私人だ」と安倍首相が言い張るからですが、一連の報道を見ると昭恵夫人のアホさ加減には驚くべきものがあって、「総理夫人」の威光を利用して“善意で”社会の公正を害するようなことを、このオバハンは数々やっているようです。事は森友問題だけではないということで、彼女に関してはこれまで、左派メディアも概して好意的でした。理由は、夫の「方針」に反して反原発に肩入れしたり、有機農法の真似事をしたり、居酒屋を経営したり(中には芸能人に酔って抱き着いてチューなんて脱線もあったようですが)していたからで、「家庭内野党」などという言葉が使われて、「自由で独立した女性」というイメージがふりまかれたからでしょう。美人とは言い難いその容貌も、“庶民的”だとして好意的に受け取られた(元森永製菓社長の娘なので、どう見ても「庶民」ではないのですが)。

 そういうのがネトウヨ夫への風当たりを和らげたという側面はあって、「内助の功」効果を発揮していたわけですが、今回の森友事件をきっかけに、「そんなまとものものなのか?」という疑問が生まれて、数々の「疑惑」が出てくるようになったのです。たとえば、ビジネス・ジャーナル3月17日の記事には、ある「全国紙記者」の話として、次のような談話が紹介されています。

「可能性として考えられるのは、昭恵夫人が安倍首相への断りなしに〔森友学園に〕勝手に寄付していたというケースです。そもそも昭恵夫人はこれまで、自民党の方針に反する反原発の言動を繰り広げたり、さまざまな社会的な運動に参加したり、雑誌などのメディアに積極的に露出して発言したりと、これまでの首相夫人とは明らかに違い、自由な言動が目立ちました。
 ただ、昭恵夫人は何か確固たる思想的信条に基いてそうした活動をしているのかといえば、まったくそんなことはなく、悪くいえば“ただの思いつき”。たとえば、数回にわたり役人を連れて見学に訪問した森友学園が運営する幼稚園では、『この幼稚園でやっていることが本当に素晴らしい』と言って涙を流していましたが、要はその場その場の感情に流されて、勝手気ままに発言したり行動したりしているだけです。よって、そんな“共鳴した”森友学園の理事長から『寄付してください』とお願いされて、個人の判断で寄付している可能性は十分に考えられます。もしそうであれば、安倍首相が『私や妻が関係していたとなれば、首相も国会議員も辞める』と言った以上、辞めざるを得ないでしょう。
 昭恵夫人は騒動が大きくなり名誉校長を辞任した後も、出席したある会合で、『今、なんで私はこう注目を集めてしまっているんだろうかと、すごく戸惑っています』『今は嵐の中にいる。嵐は自分の力ではどうにもならない』などと語り、反省している気配はゼロです。そんな昭恵夫人のバカげた行動によって安倍首相が辞任に追い込まれることになれば、文字通り“身内に足元をすくわれた”ことになるでしょう」


 たしかに、森友学園風の「教育」に“感動”するなどというのはふつうではありません。いいとこだけ見せられてそうなったのだと擁護する人もいるでしょうが、ある程度教育というものに理解のある人なら、その見せかけから透けて見える裏というものは必ずあるので、いったん判断を留保して、調べてみるぐらいのことはするでしょう。全然そういうことはしないでほいほいその場で感じた自分の印象を口にし、それに基づいて行動する。しかも、「総理夫人」という自分の肩書がどういう影響を及ぼすかということに関しては全く無自覚なので、こういうのは「利用された」ですむ話ではない。

 今回の新潮のこの記事などは、「利用された」とは言い訳できない、昭恵夫人の「積極的関与」を指摘したもので、彼女は「全国高校生未来会議」なるものに肩入れして、これを「主催するのは『リビジョン』という一般社団法人で、その代表は斎木陽平という24歳の青年だ」というのですが、その「イベントの打ち合わせに総理の官舎たる公邸を使えるように」便宜を図り、この青年のツイッターには「安倍昭恵です。全国高校生未来会議を応援しています。沢山の高校生が全国高校生未来会議に参加をして下さいます。この高校生たちがこれからの日本の未来を創っていくと、私は思っています。そのために、どうか多くのみなさまにご協力をいただきますように、私からもお願い申し上げます」という“応援メッセージ”まで寄せていたというのです。

 それの何が悪いのか? 記事は「ここで第1回未来会議がどんな内容であったか、確認しておく必要があるだろう」として、その詳細に入っていくのですが、これがかなり驚くべきものなのです。

 記事によれば、それは2016年3月23日から25日にかけて行われたのですが、「会場が衆院第一議員会館で、最終日は総理公邸まで使われた。そのうえ文科省と総務省が後援し、優秀者には総務大臣賞に地方創生担当大臣賞、そして内閣総理大臣賞までが贈られるという大盤振る舞い。常識的に考えて、弱冠23歳の若者であった若者が主催しうるイベントのスケールを、はるかに超えた様相だった」というものなのです。

 昭恵夫人からの支援要請があったことを文科省の関係者は認めているようですが、他にも夫人からは「いろいろなご相談が持ちかけられる」のだという。今、「第二の森友事件」として注目を集めている加計学園に関しても、「昭恵さんから省内にご相談をいただいたことがあるのは確か」だと語った由。

 要するに、昭恵夫人は自分が気に入ったものがあると文科省に「会ってあげてほしい」と頼んだり、「総理公邸に官僚が呼び出されることもしばしば」で、「そんな日常的“圧力”の一つとして、未来会議への支援を要請してきた」のです。

 当然ながら、お役人としては「総理夫人」の要請をむげに断ることもできないわけで、「一私人としての行動だ」と言うには無理があるのですが、そういう事実上の「職権乱用」には昭恵夫人はおかまいなしなのです。こういう非常識な総理夫人もめったにいないでしょう。

 文科省は夫人の「文部科学大臣賞を出すことを考えてほしい」という要請には抵抗して、何とか「踏みとどまった」そうですが、「後援」だけでも問題なので、省内ではその是非をめぐって議論になったという。それもそのはず、「高校生を支援するイベントは他にもたくさんあるのに、リビジョンなる14年に設立されたばかりの実績に乏しい団体が主催するイベントを後援していいのか」大いに疑問はあったからです。

 どう見てもそれは公平性に欠ける。しかし、ここで驚くべき話が出てくるので、別の文科省関係者の話では、「15年9月15日、当時の下村博文文科相から、全国高校生未来会議を首相直下の事業としてやってほしいという指示が下」ったのですが、「安保法案ですったものだの時期にいったいどうした、と誰もが思ったあとで伝えられたのは、リビジョンの斎木代表は安倍総理の親族だ、という話で、みな仰天しました」ということなのです。

 下村博文といえば、安倍の腰巾着の一人で、「博友会」なる塾団体からカネを吸い上げていながら、届は出さず、政治資金規正法違反の疑いをもたれたことは、前にここでも「下村博文・文科相の不正献金疑惑問題」(2015.3.4)として取り上げたことがありますが、いかにも公正観念の欠落した腰巾着らしい「指示」です。話を「親族」に戻すと、「山口県長門市のある市議」が語ったという詳細はこうです。

「斎木家は長門で代々医者の家系。陽平君の曽祖父は長門市長を務め、祖父は安倍総理の父親の晋太郎さんの後援会幹部でした。そのうえ、安倍家とは遠縁に当たるそうです」

 これは安倍事務所も認めているという話で、新潮記事は「要は、昭恵夫人は、親族かつ有力支援者の子弟に便宜を図るために、文科省に公然と圧力をかけ、大臣をはじめ政治家を動かしていたことになるのだ。その意味では、森友学園の問題よりも根が深いと言えよう」と指摘するのです。

 しかし、昭恵夫人にはそんな自覚はない。少し長くなりますが、そのあたり、記事を引用させてもらうと、

 第2回未来会議には文科省の後援はつかないが、昭恵夫人は相変わらず、公邸という「公の場」に主催者たちを呼んでは打ち合わせをさせ、未来会議の後押しをしている。また、今回も会場に総理公邸を使えるように、現在、尽力しているという噂もある。
 この期に及んで、なにゆえに未来会議に、公人然として関わりつづけるのか。昭恵夫人に連絡しても、梨のつぶてだったが、彼女は昨年12月には、本誌の取材にこう答えていた。
「陽平君は主人の父の後援者のお孫さんでもあって、非常に頑張っているので応援してきました。遠縁といえば、遠縁だと思います」
 と、総理夫人が公の力を使って支援すべきではない対象であることを認めながら、悪びれずに、続けた。
「陽平君だけじゃなくて、誰に対しても、良いことをやろうとするときは、私は“利用していいよ”と言っているので、若くて名前がない人たちは、信用を得るためにはすごく努力をしなくちゃいけない。それはすごく無駄なことだったりもするので、私が信用のために使えるのだったら、使ってもらって全然いいと思ってるんですね」
 かわいい子にこそ旅をさせることの見事な逆張りであるのはともかく、「利用していいよ」と言うが、なぜ昭恵夫人は利用するに足る存在なのか、それは、肩書に「総理」という冠がつく「公人」だからに他なるまい。


 常識的見地からすれば、こういうのは試験のカンニングやコネ入社などと同じなので、自分の親戚や接近してくる団体に「良いことをやろうとするときは、私は“利用していいよ”と言っている」というのは、進んで社会的不正に加担するのと同じ結果になるのに、ご本人にはそうした自覚が全くないということです。大体、森友学園のような戦前教育の復活にも「感動して涙を流す」ほどなので、その場合も「良いこと」というのは夫人自身の幼稚な主観による判断でしかないので、なおさら問題なのです。

 記事の内容とは順序が変わりますが、僕が読んで呆れたのは、

 しかし、それでも、主催した斎木氏が、若者の政治意識を高めるべく真摯に行動したのなら救いがあるが、現実に行っていたのは、自分が経営する塾への勧誘だったのである

 というくだりです。記事には「未来会議参加者の君へ」と題されたビラの写真が出ていますが、「これはAO義塾なる塾への誘いで」「なんのことはない、斎木氏は総理夫人の尽力で不自然に大掛かりになったイベントを利用して、参加者を自塾に勧誘していたのである」というから、驚くのです。

 何でも、この斎木という青年は、10年にAO入試で慶大法学部に入学したらしいのですが、早くもその年末にはこの塾を立ち上げ、ある塾講師が語るには、

「私が作った教材やノウハウを勝手に使い、苦情を言うと逆ギレする。うちの生徒がAO義塾を見学に行けば、私についてのウソの情報を流し、“うちに来た方がいい”と勧誘する。また、うちの塾に話をしに来て、うちの塾生に自分の名刺を配ってAO義塾に引き入れた。とにかく倫理的に逸脱しているのです」

 という輩で、「塾業界に詳しいジャーナリスト」によれば、「自塾の生徒を未来会議の運営に関わらせ、彼らが自主的に活動をしたかのような志望理由書を書かせてAO入試対策とし」たり、「イベントに集まった優秀な子に声をかけて誘導するため、東大の推薦入試でそれなりの結果を出す」のだそうで、この斎木という青年は明らかに「未来会議」なるものを悪用しているのです。

 それが「良いこと」だと思っているのは昭恵夫人と斎木青年だけのはずで、文科省が「再三、宣伝活動をしないように伝えてきたのに、事後に宣伝をしていたという情報が出てき」て、「頭を抱え」たというのは尤もなのです。

 塾教師の僕からすれば、こういうのは許しがたい手合いです。ここまで悪質ではないが、僕も自分の息子を延岡の某数学塾に「広告塔」代わりに利用されて腹を立てたことがあるので、ついでにそれを書いておきましょう。息子は割と礼儀正しい人間なので、合格後、挨拶に行ったのですが、そこの塾の生徒たちの前で話をしてやってくれと頼まれて、話をした。そこまではまだ許せたが、大学入学後も、お土産をもって行こうと電話したら、また似たようなことを頼まれたという話で、後で話を聞いて驚いた僕は「もうそういう要請に応じるのはやめろ。高校でなら、商売ではないからいいが、おまえにその気は全くなくても、そこの生徒たちや保護者はおまえがその塾にとくに世話になったと恩に着ているから、そういうことをしていると思うだろう。お人よしにもほどがあるので、宣伝の片棒を担がされているのと同じになる。事実は、おまえは最後まで数学が一番苦手だったし、二次試験では仮に数学が零点でも受かっていた〔今は成績開示のおかげでそういうこともわかる〕のだから、月謝以上の恩恵を受けたわけではさらさらない。大体、塾商売をしている人間が生徒をそういうかたちで利用するというのはまともな人間のやることではないので、実にふざけた野郎だ」と言ったのです。

 元々、彼がその塾に通い始めたのは、高1の時、数学の定期テストのクラス平均点が他のクラスより20点も低いというトンデモ教師に当たってしまったからです。文系でも、これはまずすぎる。中学までは数学が得意だったはずなのに「数学の授業がさっぱりわからない」と言うし、話を聞いているうちに、それは新米だからではなく、永遠にまともな授業ができないタイプの教師だなと判断したので、塾で数学塾に通っている生徒から電話番号を聞き、通わせることにしたのです。そのとき、そのトンデモ教師に当たった生徒は多くが緊急避難的に数学塾に通い始めたらしいので、塾としては一気に生徒が増えて大助かりだったようですが、その中にはそれまでその塾にはいなかったような優秀層が混じっていたので、大喜びしたのでしょう。

 僕自身は、元塾生にそんなことを頼んだことは一度もありません。たとえそれが塾を持ち上げるものではなく、公正客観的な「勉強の仕方」についての話でも、「効果」や「印象操作」の見地からして「えげつない」と感じるからです。それは生徒を利用したのと同じになる。息子は京大と早稲田4学部を一般受験して、全部に合格したので、そういう生徒がわざわざ何度も塾にやってきて話したとなると、その塾の印象はずいぶん影響を受けるでしょう。「そんなつもりはありませんでした」とそこの塾(他の数学塾が迷惑するかもしれないので、イニシャルだけ明示しておけば、S塾という名ですが)の経営者が言っても、それは通用する理屈ではない。もっとまともなやり方で勝負しろ、と言いたくなるので、一度このSという塾長は僕のところに息子が高校在学中に電話を寄越して、「おかげで助かってます」なんて言ってましたが、それは成績のいい子がいると塾としては間接的な宣伝になって「助かる」という意味だったのでしょう。だから、それを最大限に利用しようとした(そのときの電話も、手に負えない心理的問題を抱えた生徒をこちらに押しつけるためだけだったと後でわかって呆れたので、僕はまだ彼を信用していた頃、数学塾を探している生徒を何人か紹介しましたが、その逆はゼロだったのです)。

 こういう妙に調子のいいジコチューの御仁はどの業界にもいるものですが、このAO義塾の斎木という青年の場合には、詐欺のレベルに達していると言わねばならないでしょう。ノーテンキな昭恵夫人はそれをしも「良いこと」だと言うのか、直接会ってきいてみたいくらいです。

 世の中には「善意」を装って、あるいは極度の自己欺瞞から、人を利用することを恥としない手合いがたくさんいるので、権力者の妻たるもの、その片棒を担いでおきながら「そんなことは知りませんでした」ではすまないのです。私は馬鹿なのでいつまでたってもその見分けがつきませんというのなら、初めから出しゃばるなと言う他はないでしょう。
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教育と洗脳

2017.03.05.13:38

 森友学園騒動は終息の兆しを見せず、国有地不正譲渡に対する疑惑は増し、理事長夫妻の異常さと児童虐待に関する報道も増える一方です。安倍首相が「たまたま悪いのに引っかかった」と言えるかどうかは疑わしいので、「しつけ等をしっかりしているところに共鳴した」「その時は妻から聞いた情熱的な教育をされるということ以上は情報がなかった」(先月28日の参院予算委員会での首相答弁)と言い訳していますが、戦前回帰の“ネトウヨ思想”を地で行けば必然、こういう虐待・洗脳教育にもなってしまうわけで、今さら「まさか実態がこうとは夢にも思いませんでした」という話は通用しないでしょう。これで政権が倒れる可能性も出てきたわけで、「安倍政権はネトウヨに始まり、ネトウヨに終わった」と、後世の歴史家たちに評されるかもしれません(安倍夫妻の教育観に関しては、幼稚・愚昧の一語に尽きます)。

 最新号の週刊文春・新潮はどちらもこの問題に関する記事をトップにもってきていて、一昨日、僕は仕事帰りにそこを本屋で立ち読みしましたが、どちらも相当に痛烈で、新潮は森友学園のこのボス夫妻がわが子の教育に「大失敗」していることまで取り上げて皮肉っていて、よそ様の子供の教育をとやかく言えるレベルの人たちではないのです。

 しかし、こういうネトウヨ学園にかぎらず、教育者という人種はなぜか「統制」「洗脳」好きな人が多いようです。それは学校の「文化」になっていると言ってもいい。僕は昔、小学校に上がったときのショックを今でも憶えているのですが、朝礼で校庭に生徒を並ばせて、気をつけ、礼! 前へならえ、右向け右!なんて軍隊みたいなことをやらせるわけで、いきなりこれでは生きた心地がしませんでした。僕などはものすごい山奥で育ったので、幼稚園も保育園も当時はまだなくて、それまで野山と川を友として呑気に遊んでいたのが、いきなりこれなのです。いや、子供集団を統率するのは大変で、大人数ともなればそうした軍隊式規律を仕込まなければ秩序は保てないのだ、と言われるかも知れませんが、僕が入学したのは同級生が十何人しかいない山の分校(過疎でとうの昔に廃校になりましたが)で、その地域の子供たちは三年間そこにいて、それから、体力的にもう大丈夫だろうというので、本校に移るのです。少人数だから、別に軍隊式にやらないと秩序が保てないというわけではないはずなのですが、そうしないと気がすまない。それが学校というところで、基本的にそれは今も変わっていないのです。

 いや、むしろ「悪化」している。当地の高校には、「おまえはヒトラーか?」と言いたくなるようなクソ教師がいて、いちいち授業が始まるたびに「お願いします!」と叫ばせるらしいのですが、その教師は声が小さいといきなりブチ切れて、教卓を蹴飛ばし、あとはずっと意味不明のお説教なんて羽目になるのだとのこと。僕自身は少なくとも高校段階でそんな異常な教師に出くわした記憶はないので、「そんな対応に正当性は何もないから、逆ねじを食らわして黙らせてやりな」と呆れて生徒たちに言うのですが、今は各種の式典で君が代日の丸は必須になっている(「日本会議」が背後でそうした法制定の旗振りをしていた)し、学校だけは時代に逆行しているのです。そういうヒトラー教師が「厳しくて素晴らしい」なんてたわけたことを言う困った親まで中にはいる(幸い、うちの塾の生徒の親にはそんな人はいませんが)という話で、何を考えて生きているのかと思うのですが、思わない人がいるからこそ、森友学園みたいなところに間違ってわが子を入れてしまう人も出てくるわけでしょう。

 わが子が小学生の頃、「父親もたまには参観授業に行くべきだ。大体、あんたは昼間はヒマなんだし」と言われて、僕も一度仕方なくそれに出たことがあるのですが、行ってみると、その日に備えて「練習」してきたのが歴然としていて、その「活発さ」も全部演出で、「北朝鮮のマスゲームではあるまいし、誰が子供を調教しろと頼んだ?」とすっかり不快になってしまったのですが、隣に立っていたどこかのお母さんが「素晴らしいですわね」と言うので、二重に驚いてしまいました。あとで先生との個別面談になったとき、「お父さんが私の授業をよく思われなかったことはお顔を見てわかりました」と先手を取られてしまったので、弱ったのですが、子供の頃は学校で家畜化教育を行って、会社に入るときは首尾よく「社畜」になれるよう準備して下さるとは親切も度が過ぎてませんか?

 だから、森友学園のそれは異常の度合いが少々きつすぎるとしても、ふつうの学校でもマイルドな「洗脳」は行われているわけです。日本人の集団主義は学校で形成されると言っても過言ではないほどで、私立には自由と自主自律をモットーとするところが少なくないようですが、話をよく聞いてみると、やはり妙に権威主義的な教師がそこにはいたりする。

 それをよしとしない親は、家庭で「脱洗脳」教育をしなければならないわけで、よけいな手間ですが、親が権威主義的でなく、そうした学校の権威も権威とみなしていなければ、子供はそれにつきあいながらも、相対化して見ることができるので、そうした洗脳教育は不成功に終わるでしょう。北朝鮮の中にいても、外部の事情をよく知っていれば、アホな「将軍様信仰」の馬鹿馬鹿しさがわかるのと同じです。それで子供が不良化することはない。理不尽を理不尽と見ることができ、自分の正直な感性を肯定することができれば、おかしな抑圧が働くことはないから、自然な自己肯定感がもてるのです。

 子供が健康な自己肯定感がもてているかどうかを示すバロメーターの一つは、友達の長所や才能を素直に認められるかどうか、弱い子にも優しくできるかどうかです。そのあたり、親御さんたちはわが子をよく観察してごらんなさい。不安が強く、人を優劣の関係でしか見られず、だから他者の優れた点を認められず、自分より弱い者をあえて作り出そうとする心理は、自己肯定感の欠如の裏返しなのです。僕が道徳教育をいらざるものと考えるのは、自然な自己肯定感のある人は不道徳な人間にはならないと見ているからです。一方でそれを破壊するような教育を行っておいて、他方で道徳教育を行うというのは、二重の抑圧を加えているのと同じになる。最近の科学研究で、赤ちゃんには弱い側を助けようとする生まれつきの正義感のようなものがあることが明らかになったそうですが、僕はそれは正しいだろうと思います。それを損ねるようなことを「しつけ」「教育」の名で大人は行っていることが多いのです。おかしなことをやって生得の道徳的直観を破壊してしまうから、尤もらしいことを並べる自称道徳家の反道徳性も見抜けなくなるわけでしょう。エラそうなお説教を並べ立てる奴にロクなのはいない。自身、自然な自己肯定感に乏しくて、おかしな権威・権力をふるって他者を直接間接支配し、それによってその内部の欠落を埋め合わせようとしている連中ばかりです。むろん、ご本人たちにその自覚はないわけですが、学校の教師や政治家には、そういう理由で権力に魅せられたという人間が、ことのほか多いのではないでしょうか。つまり、「病人比率」が高いということです。

 自由主義教育は昨今不評です。勝手気ままな人間が増えたのは「個性の尊重」なんて西洋かぶれのたわごとのせいだと言うのですが、社会性や公徳心の欠如は端的に言ってそれのない親が増えたからで、それとはほとんど関係がない。家庭でも、別に厳しいしつけなどしなくとも、子供は親の日常のふるまいを見てそれを身につけるものです。だから今の親に良識のない人が増えたのだとすれば、それはその親、祖父母の世代にそれがない人が増えたからでしょう。つまり、道徳教育がどうたら言う、保守的教育者や政治家センセイ自身にそれがないのです。その人たちは「学校の誤った個性尊重主義教育」のせいでそうなったのか?

 これは強調しておくだけの価値があると思うのですが、体面を取り繕うことと、本当に道徳的であることとは違います。妙な形式主義でとかく人を裁くが、ハートがなくて恐ろしく利己的で冷たい人間というのはいるもので、そういうのはたんに底意地が悪いだけなのです。そして、何より大事なそのハートは、型にはまった道徳教育で培われるようなものでは全然ない。もしも個の人格が本当に尊重されるような教育が行われていれば、柔らかなハートが損なわれることはないでしょう。

 むろん、ベタベタして子供を甘やかすことと、子供を一個の人格として尊重することとは違います。僕はそれを「バカ殿教育」と呼んでいるのですが、口うるさいのは勉強のことだけで、後は勝手気ままを容認し、他人に対して無神経かつ非道なことをしても、叱りもしないしそれに気づきもしないという馬鹿な親はたしかにいます。それでいて自分の権利主張だけはやたら強いので、こういう人がモンスター・ペアレントになるのですが、そういう親に育てられた子供は高校生、大学生になっても小学生か幼稚園児並の偏頗な幼児人格しか持たず、後で苦労する羽目になるわけですが、こういうのは学校の道徳教育でどうにかできるというような性質のものではないのです。

 案外とこういう親にかぎって、「厳しいしつけ」を受けて育ったという人が多いものです。虐待に等しい扱いを受けたり、親にハードルを課されていて、「これをクリアできなければわが子ではない」みたいな脅しを受けて、そのためにありのままの自分というものを肯定できなくなり、常に自分が脅かされているように感じるので、なおさら利己的になり、自己防衛的、攻撃的になるのです。こういう人の場合、わが子にも同じようなことをしたり、逆に極端な甘やかしになったりする。自然な対応ができないからそうなるので、しばしば両方が混在していたりするのです。これは観察しているとよくわかるので、特定のことでは異常に厳しいかと思えば、別のことでは異様に甘かったりする。当然子供は混乱するので、それではバランスの取れた健康な人格的成長というものは期待できません。“自然な”対応というものが何なのか、親自身が混乱していてよくわからなくなっているのです。

 昔も、判で捺したような「厳しい軍人」がわが子を台無しにしてしまうというような例は珍しくなかったようですが、昔の庶民層が比較的健全だったのは、「教育勅語」的教育のおかげではなく、義務教育だけで終わるのがふつうで、学校教育の影響がそれだけ小さかったことと、国家主義的教育の支配が及ばない生きた地域共同体というものがまだあって、それによる見えない社会化・人間教育というものの効果が大きかったからでしょう。

 今はそれがない。子育ては「孤育て」になり、困った時に親切に助けてくれる近所のおじさん、おばさんもいなければ、非常識なことをしていても、そんなことやっちゃ駄目だよと親身に教えてくれる人もいないのです(後でいきなり非難だけが来る)。地域共同体の自然な生きた教育能力がなくなって、社会全体の教育能力が低下した。学校で「道徳教育」を行えばどうにかなるといった問題では、本来ないのです。

 先にも述べたように、それはむしろなくもがなのものです。「自己肯定感を二重に損ねる」可能性の方が高いので、その程度のこともわからない人たちが教育に嘴をはさみ、それによって教育が変えられるなら、お先真っ暗と言わねばならないでしょう。森友学園は「神道に基づいたわが国初の小学校」という触れ込みだったようですが、それはかつてわが国を愚かな戦争へと導いた人為的かつ硬直した「国家神道」によるもので、そんなもので「愛国少年少女」を養成しても災いにしかならないということは、僕らは日本人としてこの際はっきり認識しておくべきでしょう。

 日本会議やそれと結びついた政治家たちは、「森友学園は特殊な例で、自分たちとは関係がない」としきりに煙幕を張っているようですが、彼らが提唱する「教育改革」なるものは、五十歩百歩のロクでもない洗脳と教育統制に向けたものであることも、同じく忘れるべきではないでしょう。いくら何でも露骨すぎてあれはまずいと、理事長が「日本会議」に名を連ねていたからなおさら、彼らはあわてているのです。

文科省「腐敗」の深刻度

2017.02.07.17:05

 そこまでひどかったのかと、ため息が出るほどです。何より深刻なのは、文科省側に事態の深刻さについての自覚が全くないらしいことで、「国家百年の計」である教育がこういう三流省庁・役人たちの手に握られているのかと思うと、誇張ではなく戦慄せざるを得ません。

 まず、天下り問題についていえば、それが禁止されて正々堂々と天下りできなくなったので、「人助けだと思って」OBが人事課と共謀して、規制の裏をかき、おいしい天下り先を斡旋していたというのですが、世間の常識からすれば、再就職先は自分で探すのがあたりまえで、「据え膳」を用意してもらうのが当然だなどと、発想自体がお役人ならではの甘さです。「人助け」というのは完全な「内輪の論理」で、そこには卑しい利己性しかない。社会に巣食うダニみたいな連中だと言っても差し支えはないでしょう。

 もう一つは、次のような記事に見られる「現役出向」の問題です。

天下りあっせん 現役出向、83大学241人 補助金巡り癒着懸念(毎日新聞)

 この問題に関しては、同じ毎日の1月26日の記事にこうありました。

 自民党の河野太郎前行革担当相は26日午前の衆院予算委員会で、文部科学省の官僚が国立大学法人に幹部として出向する「現役出向」が241人に上り、そのうち理事が76人を占めるというデータを示し、「大学は文科省の植民地になっているのではないか」と追及した。今月1日現在の数字だという。
 河野氏は「文科省は大学の運営交付金や補助金のさじ加減を握っている」と指摘。今回の天下りあっせん問題を踏まえ、現役出向をやめるよう求めた。松野博一文科相は「出向は国立大学法人の学長からの要請に基づき行われている。現場感覚を養い、行政に反映できるメリットもある」と答弁した。


 URLをつけた上の記事には、その出向先の「多い国立大一覧」が付いていて興味深いのですが、異常な多さで、大学側が予算配分の権限を握る文科省に「揉み手外交」を行っているみじめな姿が浮かぶので、「学問の独立」などどこの世界の話かという感じです。河野大臣の「植民地」という言葉は言い得て妙で、文科省側の「現場感覚を養い、行政に反映できるメリット」というのは典型的な役人の答弁にすぎません。

 大学側からすれば、出向したお役人に「好印象」をもってもらえれば、先にもグローバル大学の認定なんてわけのわからないものもありましたが、何かと便宜をはかってもらえて、好都合なわけです。役人としては、出向先で学者先生相手に権力をふるえる快感がある。「あっ、そんな態度私に取っていいんですかね? 匙加減が変わりますよ」というようなものです。「いや、そのあたりはどうぞよしなに…」と大学側は平身低頭する。そういう図式。

 お役人の側からすれば、「旧態依然たる大学の体質を変える」という自負があるのかもしれませんが、一連の報道からすると、文科省自体が腐りきっているわけです。組織ぐるみで不正を働きながら、「身内にだけ甘い」彼らにはその明確な自覚すらなかった。その程度の連中に大学改革もへちまもないだろうと思われるので、ブラックジョークとしては面白いが、真面目にそんなこと言われても、誰もまともに取り合う人はいないでしょう。

 僕は塾教師という変則的な立場で教育に関わりながら、文科省というのは一体何をしているところなのだろうと、これまでにも疑問に思うことがよくありました。大学入試制度改革一つとっても、おかしなことをやって、それでボロが目立つようになると、また新たな「改革」を思いつきだけでやろうとして、「有識者」なるものを集めて何とか諮問会議、何とか委員会を作って、テキトーとしか言いようのない「提案」を出させ、事態をさらに悪化させる。そういうことの繰り返しなのです。文科省のおかげで教育がよい方向に変わったなんて話、聞いたことがない。日本の大学の世界ランキングが下がっているという問題にしても、文科省の役人的な発想では表面的なこと、形式的なことにこだわるばかりで、本質的なことには目が行かないから、大学側の自主努力に任せておいた方が百はマシでしょう。

 いらないことをするだけだから、最低限必要な事務部門だけ残して、いったん解体してしまってはどうでしょうかね? よく教育委員会無用論が聞かれますが、その元締めたる文科省それ自体が「いらないもの」の最たるものかも知れないのです。

大学の学費値上げと、小中学校の問題

2015.11.04.16:51

 まずは次の赤旗の記事を、クリックしてご覧ください。

国立大授業料 40万円値上げ 財務省方針 小中教職員3.7万人削減も

 財務省がこういうことを言うのは何の不思議もありません。1000兆を超える赤字国債を抱え、依然として借金頼みの「放漫経営」を続けるこの国は、家族ならとうの昔に一家心中、企業なら倒産しているはずなのですから。国の財布を預かる財務省としては、何とかして税収を増やし、出費を削るしかない。しかし、既得権益に守られている権力・富裕層からは取れないので、法人税は減税しても、消費税は上げ、国会議員の歳費は削れなくとも、教育費は削るのです。

 僕は前にここに、今の日本では子供一人育てるのにどんなに費用がかかるかを述べ、大学学費の派手すぎる高騰ぶりについても書きました。それをまた上げようというのです。こういう話を一方でぶち上げながら、安倍政権は他方で出生率を1.8に上げるというのだから、今の政治家というのは何ともお気楽な商売です。出鱈目を真顔で並べて、それでも支持率が取れるというのですから。

 昭和三十年代の進学率に戻すのなら、「大学に行くのは金持ちの子供だけなのだから、大学の学費なんか高くたって、それは応分の負担というものだ」とわれわれ庶民は言えるかも知れません。しかし、今の中卒にまともな安定した仕事がありますか? 高卒にもある? それを用意してから言ってもらわないと困るので、ないから、親は何とかしてわが子を大学、短大、専門学校にやろうと必死になり、子供の方もクソ面白くもない受験勉強を耐え忍んでいるのです。貧富の格差は拡大、というよりも、急激な勢いで貧乏人が増えているので、そういう国が繁栄するわけがあるはずはないのです。

 大体、科学技術立国なんて言うのなら、大学教育の充実をはかるしかない。それで文系を削るのは愚かだということは前にも書きました。科学技術を用いるのは人間であり、その用い方を決めるのはその人の人間としての中身です。すなわち、文系的な教養が不可欠になる。また、技術職でない人間も文化や社会運営上各方面できわめて重要な役割を果たすので、技術一辺倒ではこの世界は人間の世界ではなく、蟻塚に等しいものになってしまうでしょう。

 赤旗のこの記事は、財務省が「16年後の2031年度に国立大学の自己収入を7370億円(2013年度)から2437億円増やして9807億円にすることを要求。自己収入の内訳は、授業料、寄付金、産学連携の研究費収入など」であるとしているのを受けて、「地方大学や文系中心の大学は、産学連携による収入増を見込むことは難しいのが現実」なので、「仮に授業料値上げだけで自己収入増をはかろうとすると、授業料を毎年2万5000円程度値上げして、16年後に現在の約53万円から40万円増の93万円程度にしなければなりません。(学生数を現在の61万人と仮定)」というふうに読んでいるのです。べつだん政府攻撃のための誇張ではない。

 財務省の言い分では、今は「大学の経営努力が足りない」ということなのでしょうが、僕が学生の頃は「産学共同」というのは「学問の独立」を害する悪しきものとして糾弾されていたので、ずいぶんと様変わりしたものです。しかし、大学が企業の下部機関になり下がって、理系は企業のお気に召すものばかりを研究、文系は「サラリーマン心得」を叩き込むところになると、仮に「産学連携の研究費収入」や「寄付金」を多く獲得して、授業料の値上げ幅を小さくできたところで、それはもはや「大学」と呼べるようなものではなくなってしまうでしょう。海のものとも山のものとも知れない基礎研究などは自然になおざりにされるから、「日本人のノーベル賞受賞? ああ、そういうことも何十年前かまではあったようですね」ということになって、世界の三流国に落ちてしまう(あれは大体、研究から受賞までかなりのタイムラグがあるのがふつうなので、今のノーベル賞は70~80年代の業績のおかげなのです。今空に見える星が、実は昔のそれだというのに似ている)。

 私大の学費がそれに連動して上がるのは目に見えているので、今は5割を超えている四年制大学への進学率も、4割台、3割台へと徐々に下がる。それに応じて、「高卒の就職難」が深刻な社会問題になってくるでしょう。「心配はありません」とわれらが安倍総理は胸を張って答えて下さるかもしれません。「軍備増大のためにわが軍(現自衛隊)は人員を多く必要とするようになるので、左翼的な思想をもたない健康な若者には“皇軍兵士”となる明るい未来が開けています」と。今年は例の安保法案成立を受けて、自衛隊の入隊希望者が2割も減ったそうですが、そういうふうになれば入隊希望者には事欠かなくなるのです。授業料が要らないどころか、給料まで支給される防衛大学校なんかは、今はタダで受けられるというので、しばしば大学受験生の模試代わりに利用されていますが、貧困家庭の急増に伴って、気象大学校並の人気になり、偏差値も軽く70を超えるようになるかもしれません。

 財務省にそこまでの深謀遠慮があるのかどうかは知りませんが、たぶんそれはないので、要は「削りやすいところから削る」ということでやっているだけなのでしょう。グランド・ヴィジョンを立てて、「国家百年の計」の下、ここは無駄だからどんな反対があっても削る、ここは必要だから、どんな無理をしても維持する、なんてことではない。もしも今後の日本社会の発展を考えるなら、教育投資は最も重要なところで、それならこういうことを言い出したりはしないはずだからです。

 一緒に論じられている、小中学校の教職員数を減らすという件に関してはどうか? こちらは、少子化で子供の数が減っているので、それに応じて教職員数も減らす、ということなのですが、文科省とは対立している由。そのまま、その箇所を引用しましょう。

 小中学校の教職員については、10クラスあたりの先生の数を今と同じ18人にしても、少子化の影響で24年度(=2024年)の教職員は3万7000人減らせると指摘。文科省が、いじめや不登校問題などに対処するため教職員を増やし、全体で約5000人減にとどめる計画を示していることと対照的な内容となっています。財務省は「教員が増えても、いじめや不登校も解決せず、学力も向上せず、教員の多忙も解消されない」と少人数学級を全否定しています。

 この問題に関しては、財務省がそう主張する根拠は明確ではありませんが、文科省が言うように教員を実質増員しても、今の小中学の体質では、問題が解決するとはかぎらないのも事実でしょう。僕が前に塾生の親の小学校の先生から聞いた話では、今の学校の先生は管理されすぎていて、書類提出などのよけいな仕事が多すぎ、花壇の位置を十センチずらすのにさえ、書類を上げる必要があるというのです。その分、生徒たちと直接向き合う方はなおざりになる。加えて今はモンスター・ペアレントの理不尽な要求などにも、ていねいに応対しないと非難を浴びるので、それでノイローゼになってしまう先生も少なくないとか。親が親なら、お粗末教師の不祥事も跡を絶たず、それで管理が強化されるのでしょうが、まともな先生たちはそうしたあれやこれやでどんどん仕事がやりにくくなってしまうのです。

 中には車を二台も乗り回しながら、給食費も払わない親とか、貧困のためなのか、ネグレクトのせいなのか、「唯一のまともな食事が給食」なんてかわいそうな子供もいるという話です。様々な種類の問題家庭の子がクラスに二人、三人といれば、そちらへの対応だけでも先生は手いっぱいになってしまうでしょう。それにいりもしない煩雑な書類仕事やら、アホなパワハラ校長まで加わったのでは、「精神疾患理由の休職」に追い込まれるのは時間の問題、ということにもなりかねません。

 それでは教科の指導能力なんか上がるはずもないので、「勉強の方は塾で」ということになって、ある程度経済的余裕のある親は早くからわが子を塾通いさせるようになる。僕は以前関東で中学生対象の集団塾の校舎責任者もしていたことがあるのですが、かなりの生徒が学校では授業中寝ていたり、塾の宿題を平然とやったりしていたようで、先生もそれでは張り合いがないでしょう。しかし、「そんな大嘘を教えているのか?」と呆れるような低学力の教師がかなり多いのも事実で、二、三十年前、大阪の公立中学で苦情の絶えない中年の数学教師がいて、研修で教育委員会が公立高校の入試問題を解かせたら、何と3割の得点しかできなかったという話がニュースになったことがあります。そういうのが教師(臨時教員ではありませんよ)をやるというのは犯罪に等しいが、長く塾教師などやって、生徒たちの話を聞いていると、「たしかにそういうのはいるだろうな…」という気がするのです(塾にもむろん、お粗末教師はいるが、そういうのを雇っていると悪評が立って潰れてしまうので、かなり早い段階でクビになるのです)。

 こういうのは元から学力が低かったうえに、多忙からか怠惰からか、自己研鑽を怠ってそういうふうになってしまったのだろうと思われますが、これは今の日本での学校教師の社会的地位の低さも関係するので、国立私立を問わず、おしなべて教育学部の偏差値は他学部と較べて低いのです。初めから学力優秀な学生が少ない。学校の先生はお勉強ができればいいというものではないが、ある程度はできてもらわないと、勉強を教えるのが本来の仕事なのだから、困るわけです。ところが、学力は二番手三番手で、べつだん教育への情熱があるわけでもなく、「公務員だから安定している」とか、「子供が相手だから威張れる」みたいな低級な動機で教員志望になる者が多いものだから、教員の質は改善しないのです。

 そういう、学力もなければ人間的な魅力もない教師に多く接して、優秀な生徒が教員志望になるはずはない。加えて、むやみやたらと雑用ばかり多くて忙しそうだとなれば、なおさらのことです。中にはそういう教育を経験してきて、「自分は今の学校を変えたい」と言って教育学部に行く生徒もいますが、そういうのは稀なケースで、そういう若者も十年もたてば「デモシカ教師」の一人になってしまうのです。あるいは在学中に「学校の裏事情」をあれこれ聞き、教育実習を経験して、すっかりその気はなくなったと、民間に就職したりする。

 要するに、今の学校教師は「魅力のある職業」ではないのです。だから人材が集まらず、それに加えて親の質も劣化を続けていて、そういうトンデモ親への対応にも心労しなければならないし、書類仕事の類もやたら増えているということになると、いくら公務員で身分が安定していると言っても、マイナスの方が大きいと判断されるので、「民間では通用しない」類の人間しか志望しなくなって、事態は悪化しこそすれ、改善は見込めなくなるのです(それでも採用試験の倍率が高いのは、教育学部が多すぎるのと、教職課程を取ればどの学部でも教員免許が取れるからなのでしょう。いくら倍率が高くても、似たようなレベルの人間が集まっているだけなら、質は向上しないのです)。

 一つの解決策としては、財務省は大反対するでしょうが、昔の高等師範学校を真似て、全国に東と西、二つ程度の教員養成専門の大学を作り、授業料をタダにすることです。そうすると、貧しい家庭の優秀な若者がそこには多く集まり、入試倍率も高くなって、東大京大、少なくとも旧帝大に準じる程度の偏差値にはなる。「教育エリート」をそこで養成し、それを各地の公立小中学校に送り込むのです。そうなれば、先生を見る世間の目も違ってくるでしょう。彼らに学校教育の中核を担ってもらうようにすれば、改革も進む。中には例外もいるとしても、全体として見た場合、今のわが国の学校の先生の質は低すぎるのです。「いじめ隠し専門」の無能な事なかれ主義者の集団と見られるから、先生への敬意もへったくれもなくなって、先生たちも仕事がやりにくくなるのです。

 そうして、下らない雑用は極力減らし、教育に専念できるような環境を作る。何か不祥事が起きるたびに文科省や教育委員会が通達を出し、それでよけいな報告書の類が増えたということもあるでしょう。いりもしない職員会議を頻回に開くなんてのも、やめるのです。僕は昔、塾の幹部会議をサボるために、塾長をこう言って脅迫したことがあります。「潰れる会社の特徴をご存じですか? 現場をお座なりにして、やたらと会議ばかりやっていることです」と。そしたら、出席を免除してもらえて、本部に寄らずに直接現場に行けばよくなったから、三時間近い時間の節約になりました。そういう会議では、皆何か言わなければならないと思うから、つまらない「企画提案」がなされることが多く、僕はその都度反対してそれを潰していましたが、よけいな手間が省けてよかったのです。ファックスで教室に届く通知も、意味のあるものだけ採って、あとは全部無視していました。だからうまく行ったのだと、今でも思っています(ちなみに、お役所の「省」というのは、本来「無駄なものを省く」という趣旨から付けられた名前です。「無駄を省いて民の暮らしを安らかならしめる」、そのための「省」なのです。現実には「役人は際限もなく無用な仕事を作り出す」というパーキンソンの法則通りになって、反対になっているようですが)。

 以上のような改革を行うなら、過度にではなく、生徒数の減少分だけ教員数が自然減しても、今よりはずっとマシになるでしょう。家庭に深刻な問題を抱えた子供が増えたことに関しては、それ専門の人員を各学校に配置するなどのことはやるべきだと思いますが(むろんそれと並行して、格差拡大を食い止める政策は不可欠です)。

 にしても、塾の教師が何でこんな世話まで焼かねばならないのでしょう? 安くない給料をもらっているのだから、皆さんもっとしっかりして下さいと言いたくなります。

子供の問題と政治

2015.10.13.15:42

 先週は高校の定期試験の関係で、学校が早く終わるというので、塾の時間を変則的にしたら、何となくリズムが狂ったようで、二本記事を書きかけたのですが、どちらも完成を見ずに終わりました。こういうのは面白い現象です。

 それで未完成に終わった記事の一つがこちらです。文科省の「問題行動調査」なるもので、「全国の国公私立小学校で起きた子どもの暴力行為が、2014年度は1万1468件に上り、過去最多だった13年度(1万896件)を更新した」ことがわかった、というニュースです。何でも、「現在と同じ調査範囲となった06年度の約3倍。学年別では低学年での伸びが目立ち、『荒れる小学生』の低年齢化が一層浮き彫りになった」(毎日新聞9月17日)とのこと。この記事によれば、八年前と比較すると「小学校暴力行為の加害人数」は小3で4.2倍、小2で4.3倍、小1では5.0倍にもなっているのだそうです。

 その後、同じ子供に関する次のようなニュースもありました。

 全国の児童相談所が二〇一四年度に対応した児童虐待の件数が過去最悪の八万九千件に上った。前年度比20%増。痛ましい児童虐待は後を絶たない。子どもの命を救う体制の強化が急がれる。
 厚生労働省によると、児童虐待件数の統計を取り始めた一九九〇年度以降、過去最多を更新し続けている。ここ五年間で倍増した。
 背景には、経済的な格差が広がり、貧困の家庭に育つ子どもが増えていることが指摘される。また、都市部の件数が増えており、家庭が地域で孤立化していることも一因とみられ、心配だ。(東京新聞10月10日)


 こういうのは相互に関連しているのでしょう。非正規雇用が全労働者の4割近くに達し、経済格差が拡大を続ける中で、ゆとりを失って家庭としての十分な機能が果たせない家庭が増え、それが児童虐待や「荒れる小学生」の増加にもつながっているのです。

 このまま経済格差が拡大し、それが固定化すると、事態の好転は望めなくなるでしょう。安倍政権は「一億総活躍社会」なる意味不明のスローガンを持ち出し、こういうのは僕には「一億一心」という戦時中の標語を思い出すだけで、薄気味悪いことこの上なしなのですが、「認知症の老人やハイハイ最中の幼児がどう“活躍”しろと言うのだ、日の丸の旗でも振らせるつもりか?」と皮肉の一つも言いたくなります。NHKの「日曜討論」という番組で、「加藤一億総活躍担当大臣は、一億総活躍社会について『少子高齢化の中で、国民一人一人が持っている力を発揮し、夢や将来の実現に取り組み、活躍してもらう。それが強い経済や人口1億を保つことにつながる』と述べ」た(NHKウェブサイト )そうですが、具体性はゼロで、「出生率1.8」という目標といい、現実性に乏しい美辞麗句を並べ立てるその姿には、アホらしいのを通り越して絶望感すら感じます。

 どうして少子化が進むのかについては、今の日本では子供一人育てるのにカネがかかりすぎるからです。日本全体がまだ貧しかった戦後間もなくの頃(昭和30~40年代初め)は中卒の子供たちが「金の卵」ともてはやされ、高度経済成長の波に乗って、地方の子供たちが集団就職列車に乗って都会の工場などに就職するという風景が多く見られました。僕が中学を卒業したのは昭和45年で、その頃はもうかなり高校進学率は高くなっていましたが、通える範囲に高校のない僻地などではなおも中卒での就職率は高く、僕には同級生が70人いたのですが、高校に進学したのはそのうち20人程度で、3分の2以上が中卒で就職したのです。大学進学したのはそのうち2人だったと思うので、こういう話をすると、「じゃあ、あんたは僻地のエリートか?」と皮肉を言われることがあるのですが、それはなりゆきでそうなったというだけの話で、元々が優秀な部類ではなかった(順位が何とか一ケタ台には入っているという程度)ので、中卒で就職した生徒の中には僕よりつねに模試の成績が上だった女子生徒が二人いました。そのうちの一人から、ちょうど今ぐらいの時期だったか、「もう必要がなくなったから…」と受験用の参考書や問題集をもらい受けたことがあります。家庭の事情で彼女は進学を諦めざるをえなかったので、微笑んではいるが淋しげなその表情を僕は今でもよく憶えています。罰当たりなことに、全く勉強しない(しなければならないとは思うのだが、なぜか実行には至らない)僕は、ほとんどそれを活用せずに終わったのですが…。

 話を戻して、それが今では4年制大学への進学率が5割を超えるという時代です。これに短大・専門学校を加えると、18歳人口全体に対するその比率は7~8割にも達する。義務教育か高校まで、という時代とは子供一人にかかる費用が全く違うわけです。バブル崩壊以降、日本人の貧困化が全体として進んだのに、進学率はさらに上がった。

 学費の方は高騰しているので、僕が高校生当時、国立大学の年間授業料は3万6千円でしたが、今は53万5800円で、財務省はこれをさらに値上げしようとしています。入学金を含めた初年度納入金だけで、81万7800円。昔の私立の倍額ですが、今の私立がこれより高いことについては言うまでもなく、これは平均値ですが、文系で約115万、理系で150万、これが医学部だと、1千万に達するのです。専門学校の学費もこれらに準じるか、もしくは割高になっている。こういうのは通常の物価上昇率をはるかに超えているのです。

 これはむろん、アパート代(これまた高くなっている)だの生活費だのはカウントされていないので、大学なら卒業までに最低4年かかるのだから、子供一人大学にやるのに、とくに地方の家庭はべらぼうな出費を強いられるのがおわかりでしょう。都会より地方の方が全般に所得はかなり低いのに、逆に費用負担は高くなるのです。

 わが子を私立中高一貫校などに通わせると、さらに費用はかさみ、これに塾・予備校などの費用が別に加わるのです。一人でもしんどいのに、4人も5人も、子供をもてるはずがない。僕が高校生当時は、高校生の就職率は非常によく、クラスメートの就職組の大部分は大企業か、公務員試験を受けて役所に就職しましたが、今はそんな有利な就職先はないので、大学にやるしかないと多くの親は考えるのですが、それには多額の費用がかかるので、そのあたりの問題を放っておいて、出生率を上げろもヘチマもないのです。

 一方にこういう問題があって、他方には「子供の6人に1人は貧困」という問題がある。こちらに関しては、義務教育がせいいっぱいで、高校にやるのもしんどい、中には日々の食費にも事欠く家庭もあるということなので、事態はいっそう深刻です。

 こうした現実を前に、「一億総活躍社会」などという寝言がどこから出てくるのか、僕には全くわからないのですが、「何、昔も日本人は貧乏だったので、高度経済成長の時代のような経済成長を復活させれば、好循環が生まれて、問題は解決する」とでも言うのでしょうか? そんなことは100%ありえないのですが、そこらへんが二世三世議員の多い今の甘ちゃん政治家たちにはわからないのかも知れません。

 前に安倍は、「女性が輝ける社会」なんてノーテンキなことを言って、「おまえごときに言われたくない!」と多くの女性を怒らせたのですが、保育園や託児所の開園時間を延長するなんてことだけでは問題は解決しないので、それは働く女性を過労状態に追いやるだけです。ヨーロッパの先進国並みに、子育て期間中の女性社員には融通の利く短時間労働が可能なようにワークシェアリングの手法をうまく導入するとか、そういう根本的な改善が必要です。今はそうしようと思えば、パートの地位に格下げされ、給与がその分下がるのは仕方ないとしても、社会保険などの社会保障まで全部打ち切られる。だから無理して長時間労働を続けねばならず、子供と接する時間は奪われて、それがひいては子供の問題行動にもつながってくるのです。

 貧困のために安いパートの仕事をいくつも掛け持ちする母子家庭の母親にしても、正社員の地位を守るために無理して長時間労働を続ける母親にしても、それでは子供と接する時間もエネルギーも奪われて、子育てに支障をきたすのはわかりきったことです。

 そこらへんのことに配慮した社会改革と、高等教育機関の学費を下げる施策をとった上で、そういうことは言ってくれと言いたくなるのは、僕だけではないでしょう。しかし、企業の負担増につながるヨーロッパ式のワークシェアリングは「企業の競争力を阻害する」と全くやる気はなく、かえって法人税を下げるとか、「残業代ゼロ法案(ゆくゆくは所得基準も下げて、いっそう「経営者に優しい」ものにする魂胆)」を国会に提出するとか、労働者にしわ寄せが行くことばかりで、安倍政権はアベコベ政権だと批判されても文句は言えないのです。よくも恥ずかしくもなく「一億総活躍社会」なんて言えるものです。

「ない袖は振れない」ので、僕は何が何でも国民の負担増には反対という人間ではありません。消費税の値上げも今みたいな超がつく赤字財政下では仕方がないと考える。しかし、破綻した年金制度の抜本解決も考えず、国民に未来展望も何ももてないような行き当たりばったりの政策の連続では、金持ちは資産防衛に走り、貧乏人はますます貧乏になるばかりだから、内需の拡大どころの話ではないので、意味不明のスローガンだけで、総合的ビジョンらしきものは何もなく、「ここをこうしてこう変える」という、聞いて納得のいく具体的な方策も何ら示されていないのです。カネの使い方を知らない馬鹿に、安心して国の舵取りを委ねられるはずがない。安保法案なんて、いりもしない出費を伴う法案は通すが、かんじんかなめのことは平気でなおざりにするのです。

 子供たちはそのとばっちりを受けたかっこうで、冒頭見た問題も、社会政策の貧困が生み出した現象と言えるでしょう。僕のような塾商売をしている人間が日ごろ接するのは、親の仕事も比較的安定した、地方でも裕福な部類の家庭の子たちなので、おっとりした子が多く、彼らを見ている限りでは「荒れる子供」というのは想像が難しいのですが、逆に言えば、ある程度経済的にゆとりがあり、夫婦仲もよい家庭では、子供が荒れることはほとんどないので、これはそうでない家庭が増えている証拠だろうと、そのあたりの察しはつくのです。

 しかし、学校で暴力的な、異常な行動を示す子供が増えると、そういう子供たちもただではすまない。オトナは格差に無関心でも、子供たちはそれによって生じる不幸な問題に巻き込まれるのです。

 一昔前は、「荒れる公立中学」を回避して、経済的に余裕のある家庭はわが子に私立中学を受験させる、という動きが見られましたが、今は「荒れる公立小学校」を見て、小学校から私立に入れる、ということになると、貧乏人と金持ちは初めから行く学校が違う、ということになって、それは「階級分断社会」をつくってしまう原因になるので、好ましくありません。貧乏組は「どうせオレたちは上の学校にも行けず、ロクな希望はない」とますます荒れるだろうし、お坊ちゃまお嬢様学校の生徒は、下々のことなど何も知らないまま育って、高学歴と親のコネで社会の有利な地位に就くと、狭い自分たちの階級利益しか考えないオトナになってしまうでしょう(安倍みたいに)。

 一部の金持ちと多数の貧乏人に分断された社会に未来はありません。古代ローマは増え続ける奴隷のために内部崩壊へと導かれたと言っていいほどですが、今のグローバル文明も格差の拡大と富の集中現象によって実質的に奴隷制が復活しつつあると言ってよいので、同じような運命を辿ることになるでしょう。アメリカの後追いをやめない今のわが国の政府は、アメリカ並に就職先のない貧乏人の子弟を兵士としてリクルート(何年かの兵役を務めれば、大学の奨学金がもらえるなどと甘言を弄しながら)し、彼らを「消耗品」として危険な戦場に追いやり、もって「世界の平和と安定に資する(事実としてその逆になっていることは、すでに何度もここに書いたとおり)」などと考えているのかもしれませんが。

 むろん、問題はこうしたことに尽きるわけではありません。個々人の問題もあるので、経済的には裕福でも愛のない家庭はいくらもあるし、公徳心に乏しい自己愛病患者みたいなエゴイスティックな夫婦が、似たような感性の持ち主にわが子をしてしまい、学校で問題を起こすということも実際にあるでしょう。「虐待の世代間連鎖」と似たような話で、「良識の欠如」も連鎖するものだからです。だから父親の方は病院相手に一方的な主張をまくしたてるモンスター・ペイシェントを演じ、その娘は問題行動を起こす小学生の親となって、学校相手にモンスター・ペアレントをやり、親子三代にわたって周囲を悩ませる、というマンガみたいな話だってないわけではないでしょう。

 こういうのは必ずしも親の学歴や社会的地位、経済状況とイコールではありません。裕福なインテリ夫婦でも箸にも棒にもかからないような一家もあれば、ヤンキー上がりでも善良かつ誠実そうな、子育てにも一生懸命という好感のもてる若い夫婦はいるからです。全般に親の教育レベルが高い方が、しっかりしていることが多いとは言えるかもしれませんが、そういうことだけで線引きはできないのです。

 学校の先生にも問題があるのだという説もあります。場合によってはたしかにそれもあるでしょう。前にこういう話を聞きました。小学校ではよくウサギやニワトリが飼われていますが、ある日世話係の子供たちが見に行くと、どちらだったか忘れましたが、一羽死んでいる。それで子供たちは校庭の隅にお墓を作ろうと相談しましたが、場所が決められないので先生に相談に行ったら、そのまだ若い女性教諭は、ろくに話も聞かず、子供たちが大事そうに運んできたその死骸を無造作に「生ゴミ」のゴミ箱に放り込んだ。そんな汚いもの、見たくもないという風情だったそうで、子供たちはあっけにとられたのです。

 これには後日談があって、子供から話を聞いてショックを受けたある母親が、それを別の母親に話した。そしたらその母親は、「ああ、あれは分類は生ゴミでいいんですよ。その先生の判断は正しい」と真面目な顔で言ったとか。そういうことを問題にしたつもりではなかったのですが、それで終わってしまったというのです。

 その先生はさぞや素晴らしい「感性の教育」をしてくれそうですが、今はどこを見ても「大丈夫かいな?」という人はいるわけで、学校は何を基準に教師を採用しているのか知りませんが(その先生は正規教員でした)、モンスター・ペアレントもいれば、モンスター・ティチャーもいるから、話はややこしくなるのです。

 子供を取り巻く社会環境の変化というのも大きい。昔の家庭はおしなべてみんなまともで、子供は幸福だったというわけではない。そういうのはたんなる幻想にすぎないので、僕が子供の頃はまだ日本中が貧乏で、ことに田舎ではそうでした。子供たちは膝や肘がツギだらけのボロ服を着て遊んでいたのであり、極貧と言っていい家庭の子も珍しくはなかった。貧しいと家庭内でのいさかいは多くなるもので、そういう家庭の子供たちが家で幸福だったとは言えないでしょう。

 ただ、伸びのび遊べる場所(都会では空き地、田舎では周囲の豊かな自然)があり、一緒に遊べる仲間がいて、それがストレス発散の場にもなれば、慰めにもなったということがあって、教育能力に欠ける家庭の子でも、昔は年上の子も下の子も一緒に遊んだりしたので、その中で自然に社会性を身につけていくという効果も期待できました。今はそういった部分がないか、あっても極端に貧弱化しているのです(地域の子供会なんかも、あっても今は親がかりで形骸化しているようです。僕が子供の頃は、それはほとんど子供の自主運営で、ちゃんと話し合って物事が決められ、中学生もきちんと小学生の意見を聞いてくれたし、今思えばあれは実にうまくできた民主主義学習の場だったなと思うのですが)。

 今は、親にゆとりがなければなおさら、わが子の子守をビデオやゲーム機器の類に委ねているという家庭が少なくないでしょう。もう少し大きくなって子供同士一緒に遊ぶといっても、めいめいが勝手にゲームをしているだけで、全然「一緒に遊ぶ」ことにはなっていなかったりするのです。若者が喫茶店やレストランにいるところを見ても、大方はスマホをいじっていて、デートの時でも同じことをしたりしているのは驚きです。それでよくコミュニケーションが成り立つなと不思議ですが、実のところはコミュニケーション能力の欠落をあれでカバーしているのでしょう。それがないと間がもたないのです。

 今はすでに親の世代がそれなのだから、幼時から親、とくに母親との対面コミュニケーションが不足したまま子供が育つことが多くなっているのでしょう。キレやすい子は言語表現能力に乏しいということは以前から言われていて、これは子供にとってはそれ自体がストレスですが、親自身がその能力に乏しい上に、ロクな言葉かけも行われないまま育つのではなおさらのことです。母親が語彙の豊かな人で、言葉かけも多く、その上本の読み聞かせなどもよくしてもらったという子供とは、小学校入学段階ですでに雲泥の差がついてしまっているのです。当然それは子供の学習能力にも大きな影響を及ぼすから、うまく言葉が出ない、勉強もよくわからない、ということになれば、荒れない方がむしろ不思議なのです。

 母子家庭で、母親がパートをいくつもかけもちしていて、ロクに子供と顔を合わせる時間もないという場合は別として、そうでなければそのあたりは、親の心がけ次第で大きな改善が見込めるものでしょう。僕は別にゲーム機器それ自体には反対しません。それを無理に禁止したのでは、子供が他の子供たちから孤立してしまう原因にもなるでしょう。何事も程度問題で、バランスをうまくとる必要があるということです。

 ついでにこの母子家庭の問題について言うと、安いパート仕事をいくつもかけもちして、生活費はつねに足りず、ろくに子供と接する時間もないという貧しい母子家庭の話はよくテレビのニュース番組などでも取り上げられますが、僕に一つ不可解なのは、父親には離婚しても養育義務はあるはずなので、なのに養育費も払おうとしなければ、子育てのサポートも全くしていないというのは、どういうことなのでしょう? それがあればもっと暮らしにも余裕ができるはずなのです。しかし、そのあたりのことを取り上げた報道を、僕はほとんど見たことがありません。「母子家庭の悲惨な境遇」を強調するのみ。けれども、母親だけに子育ての責任を負わせる方がむしろおかしいのです。

 そこらへん、欧米にはある一定のルールが今のわが国にはない。あっても守られていないので、夫のDVが原因の離婚の場合は別として、そうでない場合は、父子の交通がそれで杜絶してしまうというのも、双方にとって不幸です。むろん、それがきちんと機能しているケースはあって、子供は父親とも行き来があるし、父親の経済力に見合った支援も受けている(塾の生徒でも、今の父親は実父とは違うが、行き来はあるし、教育費などは実の父親が出してくれるという子がいました)。それだと子供は物心両面で深刻なダメージは受けないのです。離婚しても子育てでは協力するというのはあたりまえの話だと思われるのですが、なぜかそれが今の日本では「常識」になっていないのです。それほど元夫婦の憎しみと対立は深いということなのでしょうか? しかし、それは子供にとっては迷惑な話なのです。こういう問題は子供中心に考える必要がある。なぜそれができないのでしょう?(父親が事業に失敗したとか、失業したとかいうのなら、すぐには無理でも生活を立て直したときに応分の援助を始めればいいのです。それが生活の張り合いになるとも言えるでしょう)。

 以上、僕が感じた問題点をランダムに列挙するかたちになりましたが、問題点を把握すれば、対処の可能なところから着手して解決の方向に向かうことはできるので、まんざら無意味というわけではないでしょう。政治の無策は咎められて然るべきですが、それ以外のところでも考えるべきことはあって、そちらの方は個人レベルで対応が可能です。多少は参考になることもあるかと思い、書いてみた次第です。
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