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校則をなくした校長先生の言い分

2019.04.11.18:27

 先日、面白い記事を見つけたので、ご紹介しておきます。

校則が消えた理由

 これは親御さんたちや生徒、最後に、いくら言ってもわからない頭のカタすぎる今どきの学校先生たちにも、必読の記事です。

 この校長先生のおっしゃることはいちいちご尤もという感じで、すべて良識にかなっていますが、学校というのはそれが最も通じにくいところなので、こういうことが公立中学で実現したというのは一つの驚きです(校長先生が10年変わらないというのも今は珍しい)。

 しかし、東京世田谷区の区立中だというところに、謎を解く一つの鍵があるような気が僕はしたので、ご存じかどうか、世田谷区の今の区長は元衆院議員の保坂展人氏で、保坂展人氏と言えば、かつて「内申書裁判」で有名になった人なのです。それはどういう事件であったのか、ウィキペディアの記事でかんたんにおさらいしておきましょう。

(麹町)中学在学中、当時世間を席巻していた学園闘争の影響を受け、「麹町中全共闘」を校内に結成。機関紙「砦」の発行やビラ配り、大学生ML派による集会への参加等、積極的な運動を行っていた。そうした学生運動をしていた事実について中学校での内申書に書かれ、高校受験の面接では面接官からの質問が思想にまつわるものに集中。受験した全日制高校は全て不合格であったため、東京都立新宿高等学校定時制に進学した(のちに同校を中退)。
 なお、自身が学生運動をしていた経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害されたとして千代田区と東京都を相手どり、国家賠償法に基づき、損害賠償請求訴訟を起こした。一審・東京地裁は慰謝料請求を認めたが、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、保坂側が敗訴。最高裁判所に上告したが、最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではないことは明らか」として上告を棄却した(麹町中学校内申書事件)。


 というものです。内申書にはどういうことが書かれていたかと言うと、

 担任教諭は内申書の「基本的な生活習慣」「公共心」「自省心」の欄にC評価(三段階の最下位)を付けるとともに、備考欄に「文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行った。大学生ML派の集会に参加している」等の原告の学生運動に関する経歴を記述した。

 ということなので、担任の先生は半端でなくこの生徒(=保坂氏)を嫌っていたのです。「秩序」最優先の教師にはこの種の生徒は許しがたい。保守的な最高裁は訴えを退けましたが、保坂氏が受験した高校をことごとく落とされたのは間違いなくこの悪意ある人物評が関係するので、憲法の「思想、信条による差別」に当たるとするのがその後の通説的理解になっているはずです。サヨク嫌いの人たちは「そんな奴、落として当然ではないか!」と言うかもしれませんが、そういう人も「当該生徒にはネトウヨ的な偏向が顕著に認められる」と書かれて落とされたら、文句を言うでしょう。違いますか?

 ちなみに、今は内申書の開示請求ができるので、生徒の露骨な悪口を人物評価欄に書く教師はあまりいないはずです。それが可能になったのも、元はと言えば、この裁判が関係するので、これは明らかにその後の社会にプラスの影響を及ぼしたのです。

 保坂氏は僕と同世代(同じ1955年の生まれですが、早生まれの僕より学年は一つ下)ですが、中学でそういう活動をするというのは、早熟で多感な、頭のいい子だったからでしょう(幼稚な僕などはひたすら野良で遊んでいた)。昔はそういう政治少年もいたので、大学時代の僕のクラスメイトには、高校時代、中核派の活動家として政治活動をやりすぎて退学処分を受け、その後土木関係の飯場を転々としていたが、一念発起して大検(今の高卒資格認定試験)を受けて大学受験資格を取り、さらに勉強して25歳で大学に入ったというのがいました。えらくクソ真面目な男に見えたので、そんな過去があったとは思えないほどでしたが、のちに良き大人となる人にも、心の振幅が大きい十代の頃はそういう「逸脱」がありうるので、保坂氏や彼はその見本のようなものでしょう。保坂氏はその後政治家になったわけですが、そのクラスメイトは五年後、30歳で司法試験に合格し、検事を経てその筋では割と有名な人権派の弁護士になりました(僕が彼に関して憶えているのは、ふだんおとなしいし、毛色が違ってつきあいもあまりないのに、クラスの飲み会でからまれたことがあって、「今の法曹界にはおまえのようなアウトローが必要だ!」と耳元でがなり立て、熱心に司法試験の受験を勧められたことがあったことです。「おまえのようなアウトローが…」と何度も繰り返すので、僕はだんだん腹が立ってきました。アウトローというのは日本語に訳せば「無法者」です。おまえみたいな元左翼過激派の、退学処分を食らったような奴に無法者呼ばわりされる筋合いはない、と言い返したのですが、彼の目に当時の僕はどんなふうに見えていたのだろうと、今考えると可笑しくなります)。

 話を戻して、東京の世田谷区はその保坂氏が区長を務める地域です(2011年以降、現職)。だからリベラルと寛容の空気があって、こういう先生が、10年もの長きにわたって区立中学の校長を務めるなんてことも可能になったのではないかと思われたので、それは言及しておくだけの価値があると思って書いたのです。

 もう一つ、記事の筆者の前屋毅氏についても、この人は画面の右に出ていますが、『ブラック化する学校』(青春新書インテリジェンス)という著書がおありのようで、画面をクリックすると、好意的な書評が並んでいて、面白そうです。今は読まねばならない本がたくさんあって手が回りませんが、いずれ僕も読んでみるつもりです。皆さんもまだの方はぜひどうぞ。

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心愛ちゃん虐待死事件に見る「亡国の兆し」

2019.02.08.02:39

 やっといくらかゆとりができたので、久しぶりに書きます。

「千葉女児虐待」「野田小4女児死亡」事件などとして連日ニュースで取り上げられているこの問題の恐ろしさは、そこにまともなオトナが一人も出てこないということです。モンスター・クレイマーを兼ねたイカレポンチのDV男を父親にもったがために、虐待の果てに殺されるしかなかったこの10歳の少女は、死ぬとき何を想ったのでしょう。ここは恐ろしい世界だ、どこに訴えても誰も助けてくれない。神様、あなたはどこにいるのですか?――そう思わなかったでしょうか?

 彼女はまず学校の、「ひみつをまもりますので、しょうじきにこたえてください」と保証されたいじめアンケートなるものに、家庭での度重なる虐待を訴えたわけです。以下はNHKのニュースサイト(2/1)からの引用。

 千葉県野田市で小学4年生の女の子が死亡し、傷害の疑いで父親が逮捕された事件で、亡くなった栗原心愛さんは、おととし11月、当時通っていた小学校で行われたいじめのアンケートに父親から暴力を受けていると回答し、担任に助けを求めていました。その直筆の回答のコピーを野田市の教育委員会が、1日、公表しました。
このアンケートには匿名でも回答できましたが、心愛さんは「栗原心愛」とみずから名前を記入していました。
 また、自由記述欄では、しっかりとした字で「お父さんにぼう力を受けています。夜中に起こされたり、起きているときにけられたりたたかれたりされています。先生、どうにかできませんか。」と書いていました。
 このほか回答用紙の欄外には、当時の担任が心愛さんから聞き取った内容として、「お母さんはみかたしてくれるが父は保護者だといって母のいうことをきかない。おきなわでは、お母さんがやられていた。きのうたたかれた あたま、せなか、首をけられて今もいたい」とか、「なぐられる 10回(こぶし)」などという書き込みも見られます。
 教育委員会は去年1月、父親からの強い要求を拒みきれずにコピーを渡していましたが、その際は担任が欄外に書いた記述は消したうえで渡したということです。
 今回、公表した理由について野田市教育委員会は「心愛ちゃんがお亡くなりになるという痛ましい事件が起き、父親が虐待を認めないなかで、心愛ちゃんの名誉のためには、心愛ちゃんの『いじめにかんするアンケート』の回答の写しを公表することが必要であると判断した」としています。


 全く、アホか…。「心愛ちゃんの名誉のためには」というノーテンキそのものの言い草にはつくづく呆れるので、父親にそのコピーを渡した時点で「ひみつをまもります」はあっさり反故にされていたわけです。しかも、虐待の主にそれを渡したというのだから、これ以上悪いことはない。
 
 アンケートを見て驚いた担任は、報告を上に上げ、校長や教頭もそれを知った。それはただちに市教委に伝えられた。そこで「県柏児童相談所は、回答内容などから虐待の可能性が高いと判断し、アンケートを行った翌日の11月7日から12月27日まで、心愛さんを一時保護した」(千葉日報1/31)。この辺までは問題がなかったわけです。

 しかし、児相や教委からの聞き取りに対して、父親の栗原勇一郎(41)は虐待行為を全面的に否定した。これはむしろ「ふつう」のことでしょう。「悪うございました」と素直に頭を下げるような人間なら、そもそもそんな非道下劣なことはしないはずだからです。

 にしても、虐待の当事者である父親にコピーを渡すなどという「絶対にしてはならないこと」をどうして彼らはしたのか? お役人の口癖は「規則ですから」です。それはこういうときにこそ使うべき言葉で、「規則ですからお見せできません」と言い張ればよかったのです。なぜそうしなかったのか、上記千葉日報の記事では、次のような「事情」によるのです。

 一時保護の解除後に行われた三者会談〔引用者註:1月12と15日、二回行われた〕で、勇一郎容疑者は出席した校長や担任、市教委職員らに「名誉毀損(きそん)」「訴訟を起こす」「異議を申し立てる」などと威圧的態度で主張。アンケートの閲覧と複写を要求し、「家族を引き離された気持ちが分かるか」「解除はもう暴力がないということだろう」などとどう喝したという。
 厳しい要求に押し切られるように市教委は児相に連絡せず、独断で渡した。担当者は「重篤な危機感がなかった。渡すことで(心愛さんに)どのような影響があるか引っかかったが、(父親の)恐怖で追い詰められていた。私の判断で、守れる命を守れなかった。取り返しのつかないことをした」と悔いた。


 この「担当者」、別の記事によれば、正式の肩書は「野田市教育委員会・学校教育部次長兼指導課長」なのだそうで、ただのヒラではない。一説によれば、校長の経験もあるいい年したおっさんなのです。勇一郎の恫喝がそれほど激しかったから恐怖に駆られてつい渡してしまったという話ですが、保身大事のお役人心理からすれば、「名誉毀損で訴える」だの「異議を申し立てる」だのと脅されると、仮にそうなった場合、責任を問われるのは自分なので、大変なことになるとパニックになったのでしょう。私の今までの順調なキャリアが…というわけです。一応親から聞き取りはした。父親は虐待はしていない(今後も当然しない)と言っているし、それは嘘に決まっているが、一通り形式的な順序を踏んだ対応はしたのだから、言い訳はできる。別の記事によれば、

 対応した校長や市教委職員はいったんは拒否。しかし、勇一郎容疑者らは三日後、「アンケートを両親に見せていい」との内容を心愛さんが手書きで記したとする同意書を市教委に示し、改めて開示を要求。「娘が書いた」との母親の説明を信じ、心愛さんに直接確認しないまま、市教委指導課の矢部雅彦課長らがコピーを渡した(東京新聞2/1)

 とされているので、本人の「同意書」もあることだし、母親も娘がたしかに書いたと言っているのだから、申し開きもできるのではないかと考えたのです。今これを渡しさえすれば、この恐ろしいモンスター・クレイマー(父親)から解放される…。たぶんその一心だったのでしょう。可哀想な子供のことなどはどこかへ消し飛んでしまったので、後になってから「私の判断で、守れる命を守れなかった。取り返しのつかないことをした」などと言っても全く無意味なのですが、フヌケ役人の悲しいさがで、そういうことになってしまったのです。

 この事件で深刻なのは、上の記事には「厳しい要求に押し切られるように市教委は児相に連絡せず、独断で渡した」とありますが、その「児相」、児童相談所もまた、甚だアテにならない存在だったことがその後判明したことです。どういうわけでか?

 千葉県野田市で小学4年生の栗原心愛さん(10)が死亡した事件で、柏児童相談所は5日に会見を開き、逮捕された父親が嘘の手紙を示した可能性を認識しながら心愛さんを自宅に返していたことを明らかにした。
「お父さんに叩かれたというのは嘘です。小学校の先生に聞かれて思わず言ってしまいました。お父さん、お母さん、妹にたくさんの迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。ずっと前から早く4人で暮らしたいと思っていました。児童相談所の人にはもう会いたくないので来ないでください。会うと嫌な気分になるので今日でやめてください。お願いします」
 心愛さんが書いたものとして、父親の勇一郎容疑者が柏児童相談所に示した手紙。手紙を見せた後、勇一郎容疑者は「これ以上家庭を引っかき回さないでほしい。これ以上引っかき回すようなことをする場合、児童相談所という組織としてではなく、職員個人として訴える。名誉毀損も検討している」と圧力をかけたという。児童相談所側は「この場で心愛さんを帰すことはできない」として、会議で検討することを伝え面会を終えた。
 柏児童相談所の二瓶一嗣所長は会見で「基本的には父親に書かされている可能性が高いと認識していた」と説明したが、面会が行われたわずか2日後の去年2月28日に、心愛ちゃんを自宅に戻すことを決定。そして、3月上旬に心愛さんは自宅に戻った。3月19日には児童相談所の職員が小学校を訪問し心愛さんと面会したが、心愛さんから手紙に関する決定的な事実を聞いたという。
「本児(心愛さん)が小声で『言っていいのかな?』と(児相職員に)話をしている。『親族に頼んで、お母さんしかいないときにアパートに連れて行ってもらったりしていた』と。そのときに父から母にメールがあり『本児にこういう手紙を書くように』と内容を伝えていて、本児がそれを見ながら書き写した」
 勇一郎容疑者から強要されて手紙を書いたことを認めていた心愛さん。児童相談所の担当者が「じゃあそこに書いてあったのは心愛さんの気持ちとは違う感じ?」と聞くと「でもお父さんとお母さんに早く会いたい。一緒に暮らしたいと思っていたのは本当のこと」と答えたという。手紙の内容への疑いが確信に変わってもなお、児童相談所は適切な対応をせず、その後も心愛さんと面会することなく対応を学校に委ねていた。(AbemaTIMES 2/6)


 時系列に沿って言うと、児相による「一時保護」は2017年の11月7日から12月27日まで、市教委がコピーを渡したのが翌2018年1月15日です。しかし、この記事では「去年2月28日に、心愛ちゃんを自宅に戻すことを決定。そして、3月上旬に心愛さんは自宅に戻った」とあって、それなら2017年12月28日から2018年3月上旬までの間、彼女はどこにいたのか、という疑問が出てきます。「市や親族らのサポートを得られる見込みになった」として一時保護は解除されたそうなので、親族の誰かに預けるかたちになっていたのでしょう。

 先の東京新聞の記事によれば、「同課は勇一郎容疑者にアンケートのコピーを渡したことを市上層部や柏児相に報告しておらず、周知したのは1月24日に心愛さんの遺体が発見された後だった」そうなので、市教委の課長らは「知られては具合が悪い」というのでアンケートを父親に渡してしまったことを隠し、児相はその重大な事実を知らず、その児相は児相で、「お父さんに叩かれたというのは嘘です」という心愛ちゃん自筆のそれが父親に書かされたものだという確信を得た後でも、何もしなかったのです。

 オトナの側のわが身大事の保身と事なかれ主義が少女を殺した。母親もその後逮捕されたそうですが、DV夫の完全な支配下に置かれていた彼女に、娘を救い出すことなどハナから期待できなかったはずで、今さら逮捕してどうするのだという気がします。

 にしても、この栗原勇一郎という男はサラリーマンだったそうですが、よくもこういう畜生以下のクズにサラリーマンが務まるものだと、それが僕には不思議なので、会社では全く別の顔を見せていたのでしょうか? DV男には外面(そとつら)のいい奴が多いと聞きますが、この男もそうだったのでしょうか?

 たしかにこういうきちがいは何をしでかすかわからないとしても、僕の経験則上、女性や子供に暴力をふるうような奴に喧嘩の強い人間は一人もいません。度胸もないので、甘やかされた座敷犬のように際限もなくキャンキャン吠えたてるだけです。だからビビる必要は何もないわけで、女性の場合は仕方ないとして、大の男が何人もいてこの程度の奴一人にも対抗できないというのは男の恥ではないかと思うのですが、いかがなものでしょう? つまらないことで事を構えるのはただの馬鹿ですが、かんじんなときには男はからだを張らねばなりません。別に殴り合いが強くなければならないということはない。「訴える」と息巻けば、「どうぞお好きなように。勝手にいくらでも訴えて下さい」と言ってやればよく、「何を!」ということで暴力を振るわれれば、もっけの幸い、警察に暴行届を出せばいいわけです。それで相手を刑務所にぶち込むことができる。別にそれで殺されるほどのことはないわけです。その程度の覚悟もなくてオトナが務まるか。

 この事件の場合、心愛ちゃんのからだのあざなど、虐待の証拠は十分にあった。最初のアンケートに書かれた内容が真実でないと疑う証拠は何もなく、逆に、父親が本人に書かせた文はどれも疑わしいものだった。DV父に虚偽の申し立てをするこういう腐れが多いことも、プロならよく知っていたはずです。だから事は十分にシンプルだったのに、面倒を避けたがる当事者意識のないオトナどもが問題をややこしくしただけなのです。そして一人の少女を見殺しにした。

 僕は長く塾商売をしていますが、塾内で子供同士のいじめを発見したときは放置したことは一度もないし、保護者から持ち込まれる学校をめぐるあれこれの相談(なかにはかなりとんでもないものも含まれる)にもいつも誠実に対処してきたつもりです。前に塾の生徒の一人が学校から塾に来る途中、コンビニで出くわした三人組のヤンキーにからまれて連れ去られるという珍事件が起きたことがあって、そのときは報せを受けて即座に救助に駆けつけた。塾は勉強を教えるところですが、塾生の身の安全を守る責任が塾にはあるので、それを忘れたことはないのです。仮に刃物をもった暴漢が塾に乱入するというような事件が起きれば、僕は命がけで生徒を守るでしょう。それは何も特別なことではなく、あたりまえの話なのです。

 話を戻して、「先生、なんとかできませんか」という心愛ちゃんのアンケートに対して、彼らはこう答えたということです。

「それはできないのよ。なぜって、君のおとうさんって、あれこれややこしい人で、僕ら公務員はみんなそういう人が苦手ですからね。『親権の侵害だ!』とか『訴える!』とか凄まれると、マスコミに被害者のふりして垂れ込まれたりすると責任を問われて困るって不安が先に立って、何もできなくなってしまうわけ。君のおとうさんが君に無理に書かせた文をもってきて、『この前のあれは嘘です。家に戻りたい』ってそこに書いてあったら、ふつうはそんなの信じる方が馬鹿だけど、信じたふりをして君を家に返せば、面倒なあのおとうさんの相手、もうしなくてすむでしょう? それで一応『必要な対応はした』って申し訳も立つし、他の仕事も色々あって忙しいから、そういうときはそうするのよ。君はまだ子供だからわからないだろうけど、オトナになると、とくに公務員になると、そういうふうにしないとしんどくてやっていけないのよ。君がそれで殺されるかも知れないと内心わかってても、今の世の中ってそういうものなのよ。だから期待されると困るので、ああいうアンケートなんかも、君らを助けるためにあるんじゃなくて、『ちゃんといじめや虐待を把握するためにやってます』って世間に向けてアピールすることが隠れたほんとの目的なんですからね。そういうオトナ世界の事情、ちゃんとわかってもらわないと…。正直なところ、君のおとうさんのような親をもった不幸な子供の場合、もうそれでおしまいなのよ。今度生まれ変わってくるときは、もっとマシな国と時代に生まれてくるよう、関係者一同陰ながらお祈りしています」云々。

 冗談ではなく、今の日本はそういう国になっているわけです。こういうクソみたいなオトナがやっていることを、子供たちはよく見ていて、自分もオトナになったらああいうわが身大事で他はどうでもいいというなおざり対応をするのが「ふつう」なのだと学習する。政治家先生の大嘘も、忖度役人の「記憶にございません」も、学校のいじめ自殺事件のたびに繰り返される「いじめとは認識していなかった」も、今回の不祥事も、根は同じなのです。

 どこに人間としてのハートや気概があるのか? こういうのはもはや人間の世界とは言えません。仏教には「六道輪廻」という考えがあって、僕らは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つのうち、今は上から2番目の「人間道」に一応いることになっているのですが、それはいつのまにか修羅と畜生、餓鬼の入り混じった世界に格下げされていて、心愛ちゃんの場合には、どこにもまともな対応をしてくれる人を見つけられず、地獄そのものと化していたのです。

 この分では、われらが日本民族が滅びる日もそう遠くはないはずです。そういう危機感が欠落したまま、やれ組織がシステムの欠陥がどうのといった呑気な「説明」をしている人が少なくないのは、それ自体が驚くべきことではないかと、僕には思われるのです。

 最後に一言。今どきの公務員は辻褄合わせの下らない書類仕事にばかり多忙になっているようですが、子供を守る仕事を任されながらそれができないのなら、たんなる月給泥棒なので、さっさと依願退職しろ! それが世のため人のためというものです。



「校則を守るのは当然」87.9%?

2018.10.09.14:15

 まずは、次の内田良氏のブログ記事をお読み下さい(こちらは図が省かれていますが、一ページで読めるので便利だと思ってえらびました。図も見たい方は記事の一番下の「この記事を筆者のサイトで読む」をクリックしてください)。

校門圧死事件から30年――理不尽すぎる「ブラック校則」の闇が深くなっている

 あの1990年7月の不幸な事件のとき、僕は勤務していた関東の某塾の月刊通信にコラムを連載していて、それについて「鉄製門扉の恐怖」と題して書いた記憶があるのですが、今考えると当時僕は35歳だったわけで、まだ若かったわけです。詳しい記事の内容は憶えていないのですが、そのクレイジーな校則と運営のあり方に驚き、事件以前にそのようなことが行われていたこと自体が異常であり、問題だと書いたのはたしかだと思われます。その点、今と考えはほとんど違っていないわけです。

 このブログには裁判で有罪判決を受けた教師の手記の一節が紹介されています。

「私ははっきり言って校門事件当時は、校門を閉鎖して遅刻生徒を取り締まることは正しいと信じて疑わなかった。しかしこうして尊い生徒の生命が失われてみると、他に方法はなかったのだろうかと考えさせられることがある。(略)当時そんなことを考える余裕は私にはなかった。気がつくとそういうシステムの中に嵌め込まれ、そうすることが教師として当然の義務のように思い込まされてきた。(略)私は決められたことを忠実に実行しただけであった。」――『校門の時計だけが知っている』(草思社、1993年、240-241頁)

 何かナチスの裁判で、強制収容所の運営に当たっていた職員の釈明を読まされているかのようです。実際、彼らも同じようなことを言ったのです。自分はきまりに、上からの命令に忠実に従っていただけで、私自身に判断が委ねられていたわけではない、従って、私に責任はない、というアレです。

 今でも大学生の就職面接などでは、「あなたは理不尽なことにも耐えられますか?」なんて訊かれることがあるそうで、そういう場合は「はい、大丈夫です」が“正解”のようですが、そこで「『理不尽』って、それはどういう種類のものを指して仰ってるんですか?」と面接官に逆質問して、議論になって相手をやり込めたりすると、落とされるのでしょう。稀にジャーナリズム関係では、それが評価され、「君は面白い」と内定がもらえることもあるかもしれませんが、それは相手が相当懐の深い人物の場合にかぎられるので、あくまで例外でしょう。

 校則に話を戻して、その規定と運用はあくまで「合理性」のあるものでなければなりません。上の事件の場合、「登校時の遅刻取り締まりのために、校門付近で教師3名が指導をおこなっていた。『○秒前!』とハンドマイクでカウントダウンしながら、午前8時30分のチャイムとともに、1人の教師が鉄製の門扉をスライドさせて閉めようとした。そこに、女子生徒1人が駆け込んでいった。教師は気づかずに門扉を押していったため、女子生徒は頭部を挟まれ、死亡する結果となった」わけですが、「間に合わなければグラウンド2周のペナルティが科せられる」ことになっていたので、その女子生徒は必死だったのです。

 そもそも何でそんな奇怪な「指導」が行われていたのか、当時僕はそのこと自体に驚いたのですが、「鉄製の門扉」を閉めるようなことこそしていないものの、今でも高校では教師たちが校門付近で遅刻の見張り番をしている光景は珍しくないようです。当地の普通科高校の場合だと、朝課外というのがあるので、それは7時半かそこいらでもっと時間が早いのですが、遅刻すると教師に問責され、嫌味を言われたりするのです。そういう過剰な管理は、僕の世代だと経験した人は稀だと思います。小中高通じてです。

 今では小学校などでも、登校すると校長先生が校門の前に立っていて、「おはよう」と生徒一人一人に声かけをするなんてことがあるそうで、そういう場合、その校長先生は「教育熱心な、優しい先生」だと保護者からも高い評価を受けるのです。いちいちそんな面倒なことまでやる必要はないだろうと薄気味悪く感じるのは、年配のオヤジにかぎられるということなのかも知れません。僕が校長なら老子風の「無為にして化す」をモットーに、ふだんいるのかいないのかわからないようにしておいて、問題が起きた非常事態にだけ登場し、迅速果敢な行動によって速やかに問題を解決に導くよう努めるでしょう。教師全般に言えることですが、今はその逆の、ふだんはあれこれ口やかましいが、問題が起きるとそれから逃げて、隠蔽しか能がなく、かんじんなときは何の役にも立たない、という学校管理者がいくらか多すぎやしませんか。力の置き所がずれているのです。

 話を戻して、僕がこの内田氏のブログを読んで一番ショックだったのは、後半部分です。

 興味深いデータを一つ紹介したい。
 福岡県の高校2年生を対象に、2001年、2007年、2013年と3時点にわたって実施された調査の結果である。「学校で集団生活をおくる以上、校則を守るのは当然のことだ」という質問への回答は、3時点で大きく変化している【図2】。
 全体(男子・女子)の傾向として、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という肯定的な傾向が、2013年では87.9%に達している。大多数の生徒が校則を守ることは当然と考えている。しかもそれは2001年の68.3%から、約20%もの大幅な増加である。さらには「どちらかといえばそう思う」はほとんど変化がなく、「そう思う」というより積極的な回答が増えている。
 この結果を踏まえて今日の中高生における校則への感受性を想像すると、複雑な思いになる。なぜなら、非合理または理不尽な校則が今日も通用している一方で、生徒らはそれらの校則を守るべきと考えている可能性が見えてくるからである。


 どうしてそうなるのか、その「理由」についての考察は見当たりませんが、小中学生ならともかく、調査対象になっているのは、自主的な判断能力がもてるようになっているはずの年齢に達した高2の生徒たちです。これは管理する学校の側から見れば、「望ましい」ことでしょう。それは内容についての是非を問わず、「規則だから受け入れる」という態度の伸長を示すものだからです。

 少なくとも当地の高校の先生たちを見ているかぎり、システムに埋没して旧習墨守に陥り、常識的な個人としての判断力に基づいてそれを再検討し、改めるべきは改めようという姿勢をもつ人は非常に少ないように思われます(これは校則ではないが、課外制度などもその一つです)。僕はそれを、元々学校の先生になりたがるような人は個が貧弱で、それを組織にもたれたかかることによってカバーしようとする(従って「集団統制」的なものに初めから親近性がある)心性の持主が多いからなのではないかと疑っている(塾の生徒を見ていても、思考の自由度の高い生徒が教員を志望することはめったにない)のですが、学校の管理強化が進む中、中は典型的な「タコツボ社会」になっていて、こんなことを言うと「失礼な!」と叱られそうですが、ナチズム的順応性が高い世界になっているのです。

 昔は、ことに高校レベルになると、個性的な面白い先生がかなりいました。そういう人には「なり損ね」が多くて、パイロットになり損ねて仕方なく物理の先生になったとか、作家になり損ねて現国の先生になったとか、そういう先生たちは頭もよくてゆとりがあり、悪ガキの突っ込みにも柔軟な臨機応変の対応ができて、「これは相手の方が一枚上だわ」ということで、かえって生徒を承服させることが多かったものです。

 上記の「校則は守るのが当然」という回答の増加は、早い段階から管理統制が進む中、生徒もそれに取り込まれて、管理への順応が進んだ、ということなのかも知れません(「管理」と「保護」は違いますが、そこらへんの区別もついていない)。僕は学校の入学式や卒業式で君が代を歌わされたという経験は一度もなく育った人間ですが、今はそれが当たり前で、「何で君が代を歌わされるのが問題なんですか? あれは国歌ですよ」なんて言う生徒もいますが、僕らのときは学校の校歌だったので、それすら僕はロクに憶えていませんでしたが、国歌であれ、校歌であれ、全員起立して斉唱するなんてのは僕の趣味には合わないので、そういうのに「感動」したためしはないのです。むしろそういうありようには居心地の悪さしか感じず、「早く終わってくれ」としか思わなかった。これは生まれつきの感受性のようなもので、集団の名において何か統制的な行動を強いるとか強いられるとかするのが嫌いなのです(北朝鮮のマスゲームのようなものは見ただけで寒気がする)。当然ながら、集団で行う大がかりな宗教的な儀式の類も好まない。その「神聖な荘厳さ」に感動するというようなことはないので、それはバッハのミサ曲を好むというようなこととは別に矛盾しないので、そちらは大丈夫なのです。あれはもって回った仕掛けによる統制とは何ら関係がない。

 そういう個人的な好みで他を断罪するな、と言われるかもしれませんが、今の日本人は今少し集団というものに用心した方がいい。人間は群れる動物、社会的動物なので、組織や集団なしに社会生活は成り立ちません。だから僕はそういうものを否定する者では決してないのですが、集団というのはその性質上、個を無化したがる強い傾性をもっています。だから統制を強めすぎると、健康な個が育たなくなり、それが集団の暴走や圧政に結びつきやすくなるのです(そういうものにブレーキをかけるのはつねに健康な個人だということは説明せずともおわかりでしょう)。かつての「愛国」は「鬼畜米英」とセットになっていたし、今のネトウヨの「愛国」は「中韓敵視」とセットになっている。大きな戦争が起きればジ・エンドの、またボーダーレスになっている今のこの時代、どうせ教えるなら「愛地球」を教えればいいので、よきコスモポリタン(地球市民)を増やすことこそ望ましいことでしょう。今さら学校で君が代や日の丸を強制するというのは何のためなのか? 問題は、教師も生徒もそういうことは何も考えずにそうしていることで、無考えにそういうものを受け入れることと、理不尽な校則にも無感覚になって、「とにかくきまりは守らなきゃ」ですませてしまう安易さは根本で通底しているように思われるのです(冒頭の記事では「下着の色が決められている」なんてものまであるとされていますが、そういうのはヘンタイが作った校則としか思えないので、完全なビョーキです。「私は白しかはかないからかまわない」と言う生徒は、問題の所在がどこにあるのかわかっていないのです)。

 今の子供には反抗期がない、とよく言われます。そのこともこれには関係しているかもしれないので、オウムの幹部たちの多くはこの「反抗期のない子供」でした。反抗期がないと手がかからず、従順で、親や学校の教師には好都合ですが、オウムの幹部たちは麻原に逆らえなかっただけではなく、麻原の烈しい社会憎悪と無意識で共振する部分を内部にもっていて、無自覚なだけにそれがいっそう危険なものになったと見ることができます。今のブラック企業の社員たちも、会社には逆らえず、その理不尽に耐えながら、ネットに中傷の投稿をしてうさ晴らしするしか能がないという人がかなりいそうです。

 むろん、これは昔と比べて子供に理解のある親が増えたということもあるかも知れません。僕自身は型のごとく、自分の父親と対立し、顔を合わせるたびに喧嘩になっていたのですが、高校を卒業して上京する前夜、「人に逆らうな。とくに目上の人に」という訓戒を与えられ、それにカチンと来て、「別に好きで逆らっているんじゃない。下らんことを言う奴がいるからだ」と答えて、「それが悪い!」とまた叱られたのですが、自分の息子とは幸いそういう関係にはなりませんでした。彼は母親とは小学生の頃から派手な口喧嘩をよくやっていて、「お母さんは意味わからん!」で始まるそのやりとりは見ていて面白く、この前はこう言っていた。その前はこう言った。今度はまた別のことを言っていて、その間の連絡が何もなく、相互に矛盾しているということをロジカルに指摘するのです。痛いところを衝かれた母親は、「まあ、この子は何て性格の悪い、恐ろしい子なんでしょう。そんな大昔のことまで憶えているなんて!」と憤慨し(「大昔」といっても、僅か数ヵ月前のことでしかないが、子育てに多忙な母親はそんなことは忘れているのです)、そのへんまではいいとして、「あんたのそういう素直でない、邪悪な性格はお父さんに似たのよ!」と突然火の粉が降りかかって来たりするから困るのです。息子は物忘れが激しく、どこかに出かけて忘れ物をせずに帰るということの方が稀だったので、母親としては心労が絶えなかったのですが、それは明らかに父親からの遺伝なので、そのあたりは一緒に謝罪するしかありませんでした。そういう役回りで、父親から「勉強しろ」と言われることもない(彼は祖母から自分の父親がどんなに「勉強しないダメな子」だったかを詳しく聞いていたので、言っても説得力がなかった)し、父子の対立は少なくてすんだのです。

 大体が、今の父親というのは昔と違って家父長的な権威はもっていないので、それだけ子供としては反抗する理由も乏しくなっているわけです。それも反抗と言えるほどの反抗を子供が見せなくなった理由の一つかも知れず、それなら「進歩」と言えるが、それ以上のものがそこにはあって、波風が立つことに子供が本能的な強い恐怖を抱くとか、親の反応が暖簾に腕押しで、「言っても無駄」だと思うから子供が何も言わなくなったということになると、明らかにそれはよくない兆候です。学校の校則の類も、生徒から話を聞いていると、「たしかにそういう教師が相手だと言うのもアホくさくなるだろうな…」という印象を受けることが多いので、習い性となって、とにかく現にあるものは受け入れた方がエネルギーのロスがなくていい、という心理になり、それでは仕方なく諦めているということになって、それを認めるのは嫌なので、心理学でいう合理化機制が働いて、「積極的に受け入れている」と思いたがるようになり、それがそうした調査結果にも反映している、ということなのかも知れません。

 何にしても、それは好ましい兆候ではないという点で、内田氏と僕の見解は一致します。以前内田氏は誰かとの対談で、今のブラック企業の増加は、それに抗えない若者の増加とも関係しているので、そうなってしまう大きな理由の一つはあの学校の部活(今のそれはブラック度が高くなっている)にあるのではないか、ということを話していたように記憶しています。僕もそういう因果関係はありそうに思うので、今の子供たちのこういう「長い物には巻かれろ」式メンタリティが強化されると、それはブラック企業の支えとなるだけでなく、先々危険な国家統制にも唯々諾々と従い、そうしない人間を「非国民」呼ばわりして攻撃するようなことにもなりかねないと危惧するのです。彼らはそれを「集団の和」という言葉で正当化し、それを一種の「道徳的罪悪」として弾劾するようになる。頭からの校則肯定と同じで、その内容の是非は問わない。それを無視したり、逆らったりすること自体が罪悪視されるのです。

 むろん、僕はそれが杞憂であってほしいと願います。しかし、国家主義丸出しの統制好きで、イエスマンばかり集めたがり、批判する人間には権力を乱用して容赦のない圧迫や嫌がらせを加える安倍政権がこれほどまでに“肯定的”に扱われて(若い世代の支持が最も高い)、最長不倒内閣になるというのは、そういう不幸な未来を暗示するものであるかのように感じられるのです。

そういうことに無感覚であることは、いずれ自分の身に跳ね返ってくる。「こういうきまりになっているから」と、その「きまり」それ自体が何のためにあるのかには頑なに答えようとせず(そもそもちゃんと考えたことがないので、明確な答となるものをもっていない)、それが不当なことであるという自覚もなく、反対は組織権力で抑え込もうとする学校の教師を、子供たちは絶対に見習ってはいけません。それは個としての自殺であり、そういうことの果てにやってくるのは、詩人ポール・ヴァレリィの予言した「巨大な蟻塚」に似た非人間的な統制社会でしかないのです。そのときに「しまった!」と思っても、もう遅い。それだけは忘れないようにしてもらいたいと思います。


嘘つきほど「道徳」を説きたがる

2018.10.07.13:08

 英語にモラライザー(moralizer)という言葉があります。文字どおりには「道徳を説く人」で、英和辞典には「道学者」という訳語が添えられていることが多いのですが、要は「お説教屋」です。政治家にはstatesman と politician の使い分けがあって、後者には侮蔑的なニュアンスがある(だから「政治屋」と訳したりする)が、この moralizer にも同種の響きがあります。試しにこれをネットで検索してみると、moralize の説明として、

to tell other people your ideas about right and wrong behavior, especially when they have not asked for your opinion(他人に、特にそれを求められてもいないときに、行動の善悪についての自分の考えを説くこと)

 というのがあって、when 以下がゴチックで表示されていて、この言葉はnegative connotation をもつと書かれているので、僕だけの主観ではないことがわかります。

「教育勅語には普遍的な価値がある」なんてことを言い、学校の道徳授業で使わせたいという保守政治家の先生たちはこの典型です。別に教育勅語を持ち出さなくても、正規に道徳という科目まで設けて、子供たちに道徳についての能書きを垂れないと気がすまないというのは全部この類でしょう。「いや、今の子供たちは、家庭の教育力が落ちていて、ほんとにひどいのがいるんですよ」と反論する先生たちもいるかも知れませんが、学校の教師というのは他方で平気で嘘をついたり、自己欺瞞が甚だしかったりするので、結局のところは、「道徳というのは、自分のことは棚に上げて偉ぶって見せたり、他人を非難するために使うものだ」ということを実物教育する結果にしかならないのです。それで世の中がよくなったら、そちらの方がよっぽど不思議です。

 実際、サイコパスや自己愛性人格障害の人間は、しばしばこの通りのことをします。他者をそれで非難し、弱らせ、支配するための道具として使うのです。僕はそういう人間を何人も知っています。彼らは超がつくほど利己的で、ハートが全くない(病的な自己愛の延長としてペットを溺愛したりはする)ので、言葉の真の意味で「不道徳」なのですが、そんな自覚はまるでない。彼らは自分を「道徳的」に見せることには熱心なので、ご本人が言うことだけ聞いていると立派な人に見える。しばらく前に足立朱美の事件がありましたが、実の父親と弟を謀殺しながら、彼女は「親孝行娘」「弟思いの優しい姉」を熱心に演じ、自作の怪文書(結局それで墓穴を掘ることになった)でそれを強調したのです(一方で、自分の犯行を疑った弟の妻の「不道徳性」を激しく罵りながら)。

 今の自民党や日本会議に連なる文化人先生方が推奨する「道徳」に、最も敏感に反応し、肯定するだろうと思われるのは、足立朱美のような人間です。彼らは知識的にはそうした「道徳」に欠けるところはない。むしろ熱心なその提唱者でもあるのですが、中身はそれとは全く別なのです。ネットで他者の揚げ足取りに熱心になり、「正義」を装って「道徳的弾劾」にふけるのも、足立朱美のように殺人まで犯すことはないでしょうが、精神構造的には似たタイプの人たちでしょう。

 しばらく前に、僕はある人が歴史的人物を引き合いに出し、「正直」や「胆力」等々の精神的美徳について能書きを垂れているのを見て呆れたことがあります。僕はその人物の内実をよく知っているので、「それって、あなたに欠けているものばかりでしょ?」と思わず突っ込みを入れたくなったのですが、何らかの権威を引き合いに出して、その尻馬に乗って無用なお説教を垂れるのはその人の得意技なのです(そういうふうにしておくと、それは間違いだと指摘された時でも、「いや、あれは紹介しただけで、私が言っていることではありません」と言い訳できる)。僕はそれを一種の病気とみなしていますが、世間の評価や名声がほしくて、虎の威を借りて無責任な能書きを垂れたがる悪癖は治らないようです。

 この前、ここにソギャル・リンポチェのスキャンダルについてのかなり長い英文記事を翻訳紹介しましたが、彼などもそのひどい内実が知られていないうちは、「悟ったチベット仏教のグル」、いわゆる spiritual teacher として西洋で大きな尊敬を集めていたのです。わが国でも彼の『チベットの生と死の書』はベストセラーになっていたので、それを読んでこれは偉い人だと思っていた人たちは「そんなのありですか?」と唖然とさせられたでしょうが、あの本は、直接の引用はありませんが、僕が今度出す訳本(こちらの作業は完了したので、年内には出ると思いますが)の参考文献一覧にも書名が出ていて、担当編集者の女性に、そのスキャンダル記事をブログに紹介したので読んでみて下さいと言ったら、読んでやはり唖然とさせられたようでした。彼の破廉恥漢ぶりには本に序文を寄せたダライ・ラマも閉口させられたようですが、全く、紛らわしいことこの上ない時代です。

 保守派の皆さんのお好きな孔子によれば、名実が一致しないのは世が乱れる元です。そうなると名分は空虚な美辞麗句にすぎなくなって、道徳はたんなる形式と化して、信用を失い、世は乱れ放題になるのです。今はまさにそういう時代で、不道徳な人間が道徳をやたら口にし、子供たちにそれを教えるべきだと主張するのは、その乱れをいっそうエスカレートさせることにしかならないでしょう。安倍なんて、「もり・かけ問題」でどれだけ嘘をついたか、あの恥さらしの下村博文なんかも同様です。そういう連中が愛国だの道徳だのを説くというのは、子供たちに「口でだけエラそうなことを言ってれば、あとは何をしてもいい」と教えるのと同じです。つかまりそうになったら権力を悪用して関係方面に圧力を加え、それを阻止すればいいので、それができるのが「成功者」というものだと。

 昔の自民党の政治家たちは、そこらへんは今と較べてずっと“謙虚”だったように思います。つまり、自分が道徳的でないことはよく承知していたので、人にエラそうに道徳を説くようなことはなかったのです。某法務大臣など、「政治家に倫理を求めるのは、八百屋で魚をもとめるのと同じ」だと語って、マスコミに叩かれましたが、言い得て妙だと、僕はむしろそれを評価していました。同じく「この程度の国民ならこの程度の政治家」だと言ったのも、たしかに言えてると笑ったので、彼は「真実を愛する」政治家ではあったのです。

 僕が奇怪に思うのは、今はつまらないことにはえらく厳格だということです。前にもちょっと書きましたが、昨今は「差別語」への検閲が異常に厳しくて、僕のこのブログなんかはそんなことはおかまいなしに書いていますが、ごく自然な日本語でも、「差別だ!」と弾劾されるのです。だから「めくら滅法」「つんぼ桟敷」「びっこを引く」なんて昔からある言葉(言うまでもなく、それらは差別を意図したものではありません)も本にするときにはご法度なのだと言いましたが、「はげ頭」や「未亡人」も駄目だということになると、首を傾げざるを得ない。

「そんなもの、ギャアギャア言う方がどうかしているので無視できませんか?」と編集者に言うと、やはり社にクレームが来ることが予想されるのだという。本の最後に、「本文中、一部不適切な訳語がありますが、これは訳者が編集者の言うことを聞かずに勝手に使用したもので、社に責任はありません。抗議は直接訳者宛にお願いします」と、メールアドレス添付の断り書きをつけるなんてのはどうですか、と言うと、微笑されるのみ(ついでにお断りしておくと、ナチュラルスピリット社長のブログに出てくる「厄介な訳者」は僕のことではありません)。仕方がないので、訳文を工夫して、別の表現に変えましたが、「ハゲ頭」と言っても、例の豊田元議員の「このハゲェー!」というのとは違い、それは文中では無邪気な子供の言葉で、ここはそれでないとユーモラスな持ち味が出せない。未亡人まで差別語だというのは理解し難いが、「未来をうしなった人」と読めるのでけしからん、ということなのでしょうか? 通常そんな穿った意味で使う人はいないので、傷つく人がいるとすれば、それは被害妄想としか思えないのですが…。

 仮に僕がハゲだったとして、僕はハゲと言われてもべつだん傷つかないと思いますが、いちいちそういうことに敏感に反応して「深く傷つく」人に配慮すべきだというのは「道徳的」なことなのか? 今はそういうことにやたらやかましいくせに、ヘイトスピーチの類は逆に増えているので、問題をはき違えているとしか思えないのです。文章には文脈や全体の印象というものがあって、差別かどうかはそれを見て判断すべきだと思うのですが、それは無視して、部分に、言葉だけに反応する。全くもってやりにくい時代です。そういうつまらない言葉狩りでこの社会がより「道徳的」になることはありえないと思いますが、事実そうなってはいないのです。同じ伝で人や会社に些細なことで難癖つけるモンスター・クレイマーの類や、差別語満載のヘイトスピーチにふける腐れが増えただけ。

 結局、学校の道徳教育やら、重箱の隅をつつき回るような書籍の「差別語」検閲では、この社会の道徳性が上がることはないのです。むしろ逆効果になるので、そういうことはやめた方がいい。保守派の政治家先生や文化人の皆さんが“実質的”に道徳的なら、残念ながらそうは思えませんが、子供たちはそこから自然に学ぶでしょう。そうでないから言葉で無理じい徳目を教えてカバーしようとしても、それは孔子大先生も言ったように世の乱れを拡大することにしかならないのです。

 そのわかりきったことがどうしてわからないのか、僕には不思議でならないのですが、今の保守派たちのそれは、国民をかつてのように権力に従順なタブーまみれの“臣民”にして、自分たちの勝手放題に文句が出ないようにしたいと、そういうことなのでしょうか? たぶんそうなのでしょうね。

科研費と憲法改正

2018.10.03.14:32

 新たにノーベル医学・生理学賞を受賞した京大高等研究院特別教授、本庶佑氏関連の記事がたくさん出ていますが、今の政府のやり方では、いずれ日本人の受賞者は一人もいなくなってしまうだろうという懸念が同時に語られています。全体に科学研究費が削られ、かつ「選択と集中」なんてアメリカの軍事作戦みたいな名称の予算配分が行われているからです。どういう研究から大発見が生まれるかはわからない。なのに、お役人が「あそこが有望そうだから、見込みがなさそうな他は削って、そこに資金を集中投入しましょう」なんてことばかりやっていると、アテが外れて、どれも駄目ということになりかねないからです。

 前に『週刊東洋経済』が「大学が壊れる」という特集を組んだことがあります。それは2018年2月10日号ですが、それは「日本の科学研究は過去十数年で量、質ともに競争力を急激に落とした」という一文から始まっています。「04年、国立大学は独立行政法人となり、『競争原理』の導入へと大きく舵を切った。具体的には、国は国立大学へ定期配分する基盤的予算(運営費交付金)を年々削減、研究者は公募・審査を通じた官民の競争的資金制度でおカネを調達する形へと移行した」のですが、「競争の恩恵に浴したのはもっぱら最新鋭設備や人材の豊富な一部のトップ大学」だけで、「国立大学の資金格差が広が」り、「中堅層の大学を没落させることになった」のです。その結果、論文数が減り、高引用科学論文数の世界シェアも大きく落ち込み、「一人負け」状態になって、急激に伸びた中国とは好対照になった。

 この記事には地方の中堅国立大の極端な研究費削減による惨状なども紹介されているのですが、僕がそれを見て思ったのは、経済のいわゆる「トリクルダウン説」です。日本ではマック竹中こと竹中平蔵なんかがその提唱者で、一部の富裕層を減税などで助ければ、彼らが気前よくカネを使うようになって、貧乏人もそのおこぼれに預かり、経済は力強い回復を遂げるであろう、というあれです。むろん、全然そうはならなかったのですが、何かそれと似ている。こういうやり方はまた、海のものとも山のものともわからない基礎研究をないがしろにして、目先の実利が見込まれる研究だけに資金が集中することにもつながるでしょう。

 こうした動きは、人文系学部を軽視する安倍政権下のあの「大学改革」なるものとも連動しているので、今は「地域創生学部」とか何とか、意味不明の名称の学部がたくさんできていますが、「実用性のある、役に立つ学部を作らないと予算を減らすぞ」と脅されて、そういうふうになってしまったわけです。哲学だの歴史だの、文学だの、そういう不要不急なことを勉強する学部は何の役にも立たないので、地方の国立なんかは「地域おこし」の学部を作って、手っ取り早く地域の活性化に貢献するようにしろ、というお達しなのです。

 こういうのも科学で基礎研究をなおざりにするのと似ている。今の時代に一番必要なのは、総合的な視点、根底的な理解に基づいて、テクノロジーや政治経済、社会問題を捉え直す能力です。全体的な視野がなければ、現象を正しく理解したり、技術を適切に使うことはできない。一見迂遠な、役に立たないことが実は長い目で見れば一番役に立ったりするので、今の安倍政権程度のオツムではそれが理解できないのはわかりますが、そのかんじんなことが文科省のお役人たちにも理解できていないのは情けないことです。予算削減一筋の財務省の言いなりになっているのかも知れないが、その程度のことも説得できないのでは存在意義が疑われても仕方はないのです。地域の強みや特性を活かせるのも、「総合・普遍」の視点あればこそなので、それがなければ何をやっても成功せず、たんなる自慰行為に終わるのです。

 話をいったん戻して、次は毎日新聞の記事です。

本庶氏、基金設立へ 賞金で若手研究者支援

 先の東洋経済の記事でも、同じノーベル賞受賞の大隅良典、梶田隆章、益川敏英の3氏が、余裕のなさすぎる、目先の利益重視、競争一辺倒の今の日本の研究環境の劣化に苦言を呈していますが、結局は皆さん、同じことを言っているのです。斜陽の経済大国としてはやむを得ないことだと言われるかもしれませんが、「貧すりゃ鈍する」で、知恵も同時に失ったのでは仕方がない。「急がば回れ」というのは真実なのです。大体「よくもそんな無駄なことにカネを使ってるな」ということが、今の日本には多すぎる。国でも自治体でも、それは同じなのです。そういう無駄を削れば、研究や教育予算を元に戻すことはそんなに難しくないでしょう。

 政治力というのは、本来、そういうところにこそ発揮されるべきですが、「憲法改正」の妄執にとりつかれた安倍は、第4次政権で、「秋の臨時国会への自民党改憲案の提出に改めて意欲を示した」(読売新聞)のだそうで、「憲法改正の『旗振り役』となる自民党憲法改正推進本部長に下村博文元文部科学相を起用した。党の最高決定機関を束ねる総務会長にも加藤勝信氏が就任し、首相は改憲を巡る重要ポストに側近2人を配置して議論の加速化を狙う」(毎日新聞)という話です。

「またあのアホの下村か…」と、彼の文科相時代の数々の愚行(上の無益な「大学改革プラン」策定時の大臣であった他、国立大の学長を集めた会合で、「大学の入学・卒業式では国旗掲揚、日の丸斉唱が望ましい」なんて右翼演説をぶった)を思い出して、思わず笑ってしまいましたが、仮にこれが実現するとすれば、国会でのそのドタバタに、国民投票にかかる費用、「改正」実現の暁にはそれに関連する諸経費、合計すれば莫大なものになるでしょう。その内容はといえば、あちこちにいらざる「愛国心」などの文言をちりばめるとしても、メインは「自衛隊を明記」することで、別に今さら「明記」しなくても、自衛隊の存在は国民に認知されているのだから、何用あってそんなことをするか、ということになります。アメリカの戦争に助太刀しやすくなるように、また中国の軍事力のさらなる拡大に口実を提供するといったこと以外に「効果」は何もなさそうですが、安倍晋三の心理としては、とにかく「自分の手で憲法改正した」という“実績”を残したいわけで、改正それ自体が目的なのでしょう。「偉大な祖父も成し得なかったことを出来が悪いと言われた孫の自分がやった」という個人的なコンプレックスの補償をそこに求めているわけで、「もり・かけ問題」とはまた違った種類の「政治の私物化」が行われるのです。

 そういう下らんことにカネとエネルギーを使う余力があるのなら、もう少しマシなことに使え。いくらか強引は承知で言わせてもらうと、この際だから科学者たちは「憲法改正より科研費にカネを回せ!」という運動でも起こしたらいかがですかね? 実際、それがどんなに意味に乏しいものでも、あれにはカネがかかり、それは全部税金なのです。ロクな議論もなく、数の力で無理やり成立させるとなれば、「意味に乏しい」どころか明白に「有害」なものになる可能性が高い。大学の国家統制も進んで、科学者たちはなおさら「研究の自由」を失う結果になるでしょう。

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