コメント欄の“場外バトル”についての見解

2017.05.23.12:58

 東大五月祭で高橋まつりさんのお母さんを招いてのシンポジウムがあったという東大新聞の記事について書きかけていたのですが、昨日仕事の出がけにメールを見ると、二件入っていて、何なのだろうと思ったら、ブログへのコメントの通知でした。

ホスト:sp49-104-18-204.msf.spmode.ne.jp
********************
どこの塾の方ですか?暇そうですね。
私は延高の卒業生です。
延岡高校の方針に疑問を多く持たれてますが、卒業生がどれだけ延高が楽しかったと卒業後に話してるのか知っていますか?
生徒たちがどれだけ学校を楽しそうにしてるのか知っていますか?
現に高校中退数は圧倒的に少ないです。
生徒、卒業生など不快になるようなものはやめてください。


 もう一つは、

名前:5/22の名無しコメント
タイトル:5/22の名無しコメント
ホスト:KD114020212165.ppp.prin.ne.jp
********************
5/22のコメントで延岡高校卒業生が楽しいとか言ってる奴いますがノスタルジーにふけってるだけです!
課外=加害とmixiやTwitterやFacebookで書き込みしたり課外に反感を持ってる現役生や卒業生が沢山います!
どんどん延岡高校なり星雲や宮崎県内の普通科情報を祝子川通信で書いて下さい!


 投稿時間を見ると、15:07と16:56で、そのあとまた一件入ったようですが、「何だかねえ…」という感じなので、こちらからもリプライしておきましょう。

 ちなみに、僕が「撲滅」を目指しながらまだ果たせていない「朝課外」については、ネットに次のような笑えるサイトができています。

福岡の高校生「朝課外なくしてください」wマツコ会議で話題に!

 要するにこの傍迷惑な制度は延岡、宮崎県だけではないということですが、この中の、

朝課外全国共通化しようぜ 俺らの苦しみ全国民で分かち合おう? 朝課外はいいぞ? 眠いし寒いし頭働かないしおかしくなるぞ? やめられないぞ?

朝課外は九州特有なんすかまじすか、 朝6時半に家を出て帰宅が夜8時だったあの生活…4時間寝たら満足していた私…なんというブラック。笑

 なんてのは爆笑ものですが、上のコメント主に言わせれば、朝課外なんか全然問題ではない(むしろ大変有益?)ので、「生徒たちがどれだけ学校を楽しそうにしてるのか知っていますか?」ということになるのです。前に一人だけ、三年の年明けに朝課外がなくなったら、早起きの癖がついていたので調子が狂ったという生徒がいて、「おまえはアホか!」なんて他の生徒たちに野次られているのを見たことがありますが、寡聞にして僕は「朝課外が素晴らしい」という生徒の話は聞いたことがありません。十何年当地で塾をやっていて、その数はこのコメント主の知っている生徒の数よりはるかに多いと思いますが、「課外はクソ」という意見の方が圧倒的に多かったのです。

「現に高校中退数は圧倒的に少ないです」というのも、「中退数は圧倒的に少ない」のがむしろふつうなので、仮にそれが一割に達する高校があったとすれば、それは完全に異常な学校なので、逆に言うと、中退者が少ないからその学校には問題がないということには少しもならないということです。

「どこの塾の方ですか?暇そうですね」はご挨拶なので、いっぺん僕のところに直接言いに来たら? 無事で帰れるという保証は何もありませんが、そんな度胸ないでしょう? 自分がこういう曲解に基づく愚劣な投稿をして、そっちの方がよほどヒマなのではないかと思いますが、どんなものでしょう?

 以上ですが、こういうのは何かというと「自虐史観だ!」と怒り出し、「日本は素晴らしかった。悪いことなんか先祖は何もしていない」と強弁して過去の歴史を美化してやまないネトウヨと同じ精神構造で、愛校心というものをはき違えているのです。僕は「OB、OGが三人寄れば母校の悪口」というので有名な大学の出身ですが、だからといって愛校心がないわけではないので、そんなに単純で一体どうするの、と訊きたいくらいです。

 先のネットの記事を見てもわかるように、この朝課外というのは「九州限定(たぶん九州でも有名私立はやってないと思いますが)」で、にもかかわらず九州地方の受験生はとくに優秀で難関大合格率が高いとか、そんな事実は一切ないのです。むしろ地盤低下傾向にあるので、意味あるのか、ということです。2ページ目を見ると、「でも朝課外に来る学生もキツかっただろうけど何よりも朝課外をする先生たちもキツかっただろうと思う…お互い良いことあんまり無いような……」というコメントも出てきますが、これも僕が繰り返し指摘してきたことです(註:言い忘れましたが、あれは課外費をしっかり徴収しているので、先生たちは無料奉仕しているわけではありません。その手当てがいくらかは、前にここのコメント欄にどなたか書いておられました)。

 お母さんたちは早起きして弁当を作らねばならないし、生徒は慢性睡眠不足に陥るだけで学習能率はかえって低下する、というのではいいことなしだと僕は言っているのですが、それが違うのと言うのなら、どう違うのか、そこをきっちり説明して反論してもらわないと議論になりません(前に日向から通う生徒についての質問がありましたが、朝課外に間に合わせるために、彼らは特急に乗らねばならず、定期代とは別に、毎日300円、特急自由席券代がかかるのです。「馬鹿馬鹿しい出費」だと、彼らは言っていました)。

 何にせよ、上に紹介したサイトは面白くて笑えるので、ぜひクリックして見て下さい。冒頭のコメント主のような人は別として、「共感しまくり」だと思いますよ。

スポンサーサイト

かくて課外は存続する(2)

2017.04.21.10:45

 一年前に、「かくて課外は存続する~課外の『不受講届』について」という一文をここに載せました。

 それは、延岡高校はこれより先に法律違反の嫌疑を逃れるために課外(費用は別途徴収)の主催者をPTAに移していたのですが、それでも批判があるので全員に強要するのはまずいと、受講したくない生徒にのみ、「不受講届」なるものを出させることにしたという話を巡るものでした。しかし、そのやり方がいかにも姑息(配布が今年も4/10で提出締め切りが4/14と「考える時間」も異常に短い)で、これでは「『不受講届』を出す勇気のある保護者・生徒はほとんどいなかったことでしょう」と書きました。果たしてその通りになったようですが、今年はそれを出す勇気のある生徒がいたそうで、学校にとってそれは「想定外」だったので慌てたらしく、その生徒たちは学年主任の先生か何かに呼び出されて、考え直すよう「説諭」されたという話です(生徒曰く、「出る杭は打たれるんです」)。

「やっぱり…」と聞いて僕は笑ってしまったのですが、それなら初めからそんな通知出すなよと言いたくなります。そういう自覚は当校の先生たちにはないのでしょうが、これは本当は教育の根幹にかかわる重要な問題なのです。今は安倍政権の「忖度(そんたく)政治」が問題になっていますが、生徒たちが将来社会人になったとき、国家権力が憲法違反の自由侵害を行っているという批判を避けるために、国民に何かを一律強制する際、「それに従わない自由」があるという見せかけを作ったとします。しかし、ほんとは全員強制であり、従わない者は「非国民」として処罰されるとか、その反対表明によって著しい不利益を受けるということなら、「従わない自由」は空虚なタテマエでしかありません。人々はそう「忖度」して、自分の“自由意志”で「従う」ことにしたのだと、「従いたくない」本心を偽る。そういう国家を「全体主義」と呼ぶのですが、延岡高校のこういうやり方はそうしたことのいわば“予行演習”になり、全体主義国家の「忠実な臣民」養成に進んで貢献していることになるのです。それが「ふつう」で、異を唱えるのが許されないのは問題でも何でもない(実はここが問題!)のだという「刷り込み」を行っているのと同じになる。

 北朝鮮のような独裁国家ならともかく、民主主義国家においては「自分で考えて、主体的に判断し、行動できる人間になれ」と教えるのがふつうです(少なくとも高校生ともなれば)。それと反対の教育を行って、今は権力の意向が右だから右、今度は左だから左と、それを忖度して迎合するしか能のない人間をつくるのが教育なら、そんなものはない方が百はマシでしょう。そういう教育でできた“善良な”骨なしクラゲの大群は市民社会を破壊する。

 僕の言っていることがわかりますか? 延岡高校では在校生に「大学に合格した先輩方の有難いお話」を聞かせたりもします(文書で配布することもある)。「学校の方針に従っていれば間違いない」「課外と宿題をこなしていれば大丈夫」なんて紋切り型の話ばかり聞かされるのですが、あれも実態はヤラセなのです。「こういうのにまともに付き合っていたら受からないな」と思って自分であれこれ工夫して勉強して、難関大に合格しました、というような生徒にはお呼びがかからない。学校批判を平気でぶちそうな卒業生は具合が悪いからで、二番手三番手の駅弁国立の合格者より、ほんとはそういう生徒の方がずっと有益な話をしてくれるのですが、学校側は「注意深く吟味」して、そういう卒業生には話をさせないのです。これ、「延岡の常識」です。

 延岡高校では今年、現役国公立合格者が全体の七割近くにのぼったと、「過去最高」を自慢しているそうです。去年も「過去最高」だと言っていたので、今年はさらにそれを上回る「好成績」を示したというわけです(PTA会長名義で出された「不受講届について」と題された今年の配布文書にもこのことが取り上げられ、「その発展の大きな下支えとなっている」課外と讃えられている)。

 僕は去年、「近年稀に見る悪さ」だったと書きました。浪人勢がよかったものの、現役勢はとくに難関大の失敗率が顕著だったからです(当然そういう生徒は後期には受かるから、上のデータでは合格者にカウントされる)。今年はそれに輪をかけてひどかった。東大・京大・阪大はゼロ、九大も僅か二人、国立医学部は地域枠推薦の一人だけ、というのはここ十年来なかったほどの悪さなので、同学年の生徒たちは「上がいない」のだと苦笑していましたが、二年連続で“不作”が続いたのです(生徒たちの模試の成績からして、来年再来年は挽回しそうだと見られますが)。

 にもかかわらず、学校は二年連続で「過去最高」を更新したと誇らかに言う。今年の顕著な特徴は、推薦組がむやみと多かったことです。それは実に生徒数全体の三分の一近くに上った。わが零細塾ですら推薦進学が七人もいた(内訳は、国立四人、公立二人、私立指定校推薦一人)ので、こんなに推薦組が多かったことはかつてありません。今の私大は、有名どころでさえ各種推薦やエスカレーター組で入学者の五割前後を占めますが、国公立も推薦枠を拡大していて、その流れに乗ったのです。これが全員一般受験でガチンコ勝負をしていれば、かなり悲惨な結果になっていたことでしょう。「国公立合格が多いって、こういうカラクリだったんですね。私は騙されていました」と、他でもない推薦で中堅国立に合格した生徒の一人が言うので、「君の合格もその“騙し”に利用されるんだよ」と僕は笑ったのですが、推薦でカバーし、一般受験の合格者は下位国立で数を稼いだというのが実情で、どう見ても自慢になるような話ではないのです(これに対して、都会の名門公立高校などの現役進学率が高くないのは、第一志望の受験に失敗すれば、浪人して再チャレンジする生徒が多いからです)。

 柿などに豊作と不作の年があるように、子供にも学年によってそういうのがあるのだと、昔、僕の母親は言っていました。「どうも、おまえの学年は全国的に出来が悪いのではないか?」と真顔で言われた(おまえの出来が悪いのも「不作の一部」だという含意)のですが、たしかに、僕の同級生にロクなのがいないのは、オウムの教祖・麻原彰晃や現首相の安倍晋三が同学年であることからしても正しいように思われます(僕はひそかにそれに責任を感じているので、早くオウム以上に危険で有害な――それが認識できない人が多いのは憂慮すべきことです――安倍政権を倒さねばならないと思っているのですが)。

 何を言いたいのかというと、だから大学進学実績の良し悪しなども、生徒個人の資質にもよるので、いちがいに学校の指導の良し悪しでは決められないということですが、僕の知るかぎり、ああいう課外や過剰管理が生徒の学力の底上げに役立っているという証拠は何もない。むしろそれは自学自習のゆとりと意欲を奪って、伸びる芽をつんでしまっているのではないかという疑念の方が強いので、生徒たちを慢性睡眠不足に陥れる弊害も併せ考慮して、「取柄のない制度」だと繰り返し言っているのです。それなら平常授業の質とレベルを上げることに、学校側は注力すべきだと。

 あとは生徒の好きにさせればいい。勝手に自分で勉強するなり、塾に通うなり、させればいいのです(主体性のあるそういう生徒の方が大学入学後も伸びる)。「地方で塾や予備校がないから、学校がそれを肩代わりする」なんて昔言ってたらしい理屈はすでに崩壊しているのです。「経済的に貧しい家庭の生徒には不平等になる」という論理も成立しない。受験サプリ改めスタディサプリなんて廉価なネット予備校も存在するからで、パソコン一台あれば毎月千円程度の費用でそれが利用できるのです(テキスト代は別途かかるようですが)。

 ほんとのところ、ああいうのは大手スーパーの進出に続き、ネット通販の普及で価格で太刀打ちできない個人商店が潰れてしまったのと同じで、あおりを食って塾もどんどん潰れている(去年の統計によれば、他業種は減っているのに、塾の倒産・廃業だけは増えている)のですが、それは時代の趨勢というものなので仕方がない。「対面授業」のメリットと塾の個性で勝負するしかない。この商売も甘くないのです。ところが公務員教師が集まる学校の課外だけは、その必要性もないのに、実質強制で生徒に選択の余地を与えないわけで、こういうのは職権乱用と同じくそれ自体不正なことです。課外が必要と思うかどうか、アンケートを「学校への忖度は無用」と明言した上でとってごらんなさい。80%以上は「いらない」と答えるでしょう。これまでも生徒集会で何度も課外廃止に対する要望は出されました。それらは学校側から頭ごなし全部無視されて議題から外されたので、教育者としてこういう生徒対応は最悪ではありませんか? おまえらはナチスか、と言いたくなります。違うと言うのなら、それをわかるように説明してみなさい。できないでしょう。

 今のここら辺の公立高校というのは何なのか、と思います。幸いに今回転出しましたが、生徒をいわれなく「放射能」呼ばわりするような人権感覚ゼロの頭の悪すぎる教師(他にも余罪多数あり)がデカい面をしていたり、僕には理解しがたいことばかりです。宮崎県はおそらく、全国でも最も難関大進学者が少ない県の一つでしょう。どうしてそうなってしまうのかという理由の一つに、こうした非効率で理不尽な課外による長時間拘束や、生徒に対する「自由の抑圧」がある。何が不当であるかという感覚もマヒしているのではないかと思われるので、北朝鮮に疎開させられても無理なく適応できる人間を育てるのが目的だというのなら別として、根本から教育というものを考え直した方がいいでしょう。安倍政権には「権力には意向を忖度して文句を言わず、進んで服従する人材をつくる」というので表彰してもらえるかもしれませんが、そういう人材をいくら「輩出」しても、日本社会の明るい未来はつくれないのです。

新学期始まる

2017.04.12.13:55

 10日の高校の入学式は、今年は桜の開花が遅れたせいでちょうど満開の時期にさしかかったようですが、あいにくの雨でした。ともあれ、無事新学期が始まったわけで、新入生たちとその親御さんにはお慶び申し上げます。

 この季節には公立教員の人事異動も行われ、生徒たちはいい先生が転出すると残念がるし、嫌われ者の先生が転出すると「やったー」と大喜びするものですが、延岡高校の場合だと、このブログにも何度か書いた「問題のありすぎる」教師がやっと転出して、僕も生徒たち共々、安堵の胸を撫で下ろしました。定年までそのまま居座るのではないかとなかば諦めていただけに、県教委には感謝です。その差配は絶妙で、左遷の印象を与えないものだったので、ご本人も傷つかなくてすんだでしょう。新赴任地では“イメチェン”して、「生徒の人格無視のパワハラ教師」から「愛される先生」へと変身を遂げていただきたいものです。

 ともあれそれで延岡高校の英語科の主任は交代し、幸いに評判のいい先生がきてくれたようなので、いっとき変化に伴う多少の混乱はあるかも知れませんが、教材の問題も含め、いい方向に変わるだろうと僕は喜んでいます。生徒たちから「またあの先生が…」という訴えを聞かされて腹を立てることもなくなって、心安らかに指導に専念できるようになるでしょう。笑える話ならいくら聞かされてもいいが、心が凍りつくようなのは御免です。

 後は「課外」の問題だけで、朝課外(夕課外は三年のみ、部活引退後に始まる)が廃止されればめでたいが、そこまで期待するのは欲張りすぎというものでしょう。「課外をやめると生徒たちが怠けて大学進学にも悪影響を及ぼす」と思い込んでいる先生はいまだに少なくないようだからです。

 ただ、新一年生や受験生に言っておきたいのは、「それなら早く寝ろ」ということです。11時には寝て、朝は6時起きなら、7時間は確保できるから、慢性寝不足にならずにすむでしょう。睡眠時間には個人差がありますが、大体その程度は必要で、平均睡眠時間が4~5時間では脳のパフォーマンスは著しく落ち、学習効果は上がらない。これは科学的根拠のある話で、集中力も思考力も落ちるから、長時間机に向かっていてもそれに見合った成果が出ないのです。部活がハードで、宿題も多く、朝課外のせいで早起きもしなければならないとなると、十分な睡眠時間が確保できなくなって、一生懸命やっているつもりなのに成果が出ない、これは自分の頭が悪いからではないかと思うかも知れませんが、そうではないのです。慢性的な睡眠不足は色々な病気(身体的なものだけではなく、うつなども含まれる)の原因になりますが、学習能力を大きく低下させるのです。真面目な生徒はそれには気づかず、「こんなに努力してるのに何で…」と悩むのですが、そう思って無理を重ねれば重ねるほど、疲労を蓄積させて学習効果を下げることになりかねない。それは避けねばなりません。

 だから、初めから浪人を覚悟しているのならともかく、現役で、しかも推薦入試の類ではなく一般入試で希望の大学に入りたいという人は、部活も適度なものを選択し、宿題は多すぎるようなら、必要性を自分で判断してときには手抜きをするということも必要でしょう。勉強というのはただあてがわれたものをこなしていれば学力がつくというものではないので、自分の弱点を見つけてその都度それを補強するなど、主体的にやらねばなりません。忙しすぎると与えられた課題を受け身で機械的にこなすだけになってしまって、何がわかって、何がわからないのか、そのへんの自覚もなしにただやりっぱなしになってしまうので、そういうやり方では学力はつかないのです。

 疲れていると、自転車で坂道を上るのさえおっくうになるでしょう。あれと同じで、集中力を発揮して難しいことを考えたりするのは面倒になって、やることが自然なおざりに、機械的になってしまうのです。暗記するにしても、理解して暗記すれば残るものは多くなるが、その「理解する」という部分をすっ飛ばしてしまう。そういうやり方をしていたのでは知力は伸びず、従って学力もつかないのです(他に、学校のお勉強だけではなく、少しは本も読むことです。それが知力に及ぼす影響は、ふつうに思われている以上に大きい)。

 これは慢性的な睡眠不足に陥りがちな生徒たちに共通することなので、そこらへんはくれぐれも注意して下さいね。以上、新学期に際してのかんたんなアドバイスでした。

今日は卒業式

2017.03.01.18:39

 今日3月1日は、全国の多くの高校で卒業式が行われたことでしょう。

 僕も先日、延岡高校の三年生たちから、「先生も来てくださいよ」と言われました。わが子の卒業式にすら出たことがないのに、どういう資格で?ときくと、「来賓で」と言うので、「じゃあ、それで行って、祝辞にかこつけて、『愚かな虐待教育に耐えて、君らはよく頑張りました』って、長々学校への皮肉を並べることにしようか」と言うと、「それがいい!」と爆笑になったのですが、森友学園ではないが、あとで学校のホームページに、「意図的に学校の名誉を傷つけようとした反日左翼の陰謀」云々と書かれるかもしれません。

 それでも延岡高校は、ここ数年は革新的な校長先生のおかげで、無駄な拘束が減り、以前よりずっとマシにはなっていました。しかし、生徒たちに慕われたその先生もこの三月で三年生と一緒に「卒業」だというので、「そのあとは保守反動の校長が来て、再び暗黒時代に戻ってしまうかもね」と僕は冗談を言って生徒たちを脅しているのですが、県教委もそこらへんは考えているだろうから、たぶんその路線を引き継いでくれる人が来るでしょう。

 いつものとおり、今年もネットで有名大の英語の入試問題速報を見ながらあらためて思ったのですが、もっと生徒たちに余裕があれば、こういう話もしとけばよかったなと思うことがたくさんあって、入試の観点から見た場合でも、今の学校教育は(少なくとも当地の学校のそれは)ズレ過ぎているのです。こうした入試英文のおかげで僕は使用教材には困らず、楽しみながらそれを使った授業ができるのですが、現代社会・文明のタイムリーかつ多様な問題がほとんどすべて網羅されていると言っていいくらいで、陳腐・平板なセンター英文と違って、二次英語は内容的にも深みのある、刺激に満ちた話の宝庫です。ステレオタイプ的な思考に異論をさしはさむものも多いから、とくに面白い(小論文でも、僕は見てちょっと驚いたのですが、慶応法の今年のそれは、安保法制の騒ぎの時によく話題になった「立憲主義」の問題でした)。

 しかし、死ぬほど退屈な学校授業の予習と宿題に終われている生徒たちには、そんなものを面白がる余裕はあまりないわけで、余裕が十分あるのは学校の宿題を手早く片付けてしまえる一部のとくに優秀な生徒だけでしょう。そんなつまらないものに時間を潰されるくらいなら、今はネットで無料で見られる面白い英文記事(それがそのまま入試に出ることもある)や英語のドキュメンタリー(日本語字幕の他、英語字幕のものもある)なんかがたくさんあるから、学校をさぼってそういうのを見ていた方がずっと勉強になるし、文法も、僕がかねて「最悪教材」と呼んでいるあの無駄に量だけ多い『ベーシック・グラマー』なんてわけのわからないもの(この前、その間違いも指摘しておきました)につきあわされるより、自分で薄手の問題集でもやってマスターした方がよっぽど時間の節約になるし、効果的なのですが、内申の問題があるから、そうもいかないのです(ついでに言うと、今年の延岡高校は推薦での大学進学者が異様に多く、全体のほぼ三分の一を占めました。塾の方も、どういうわけだかその比率が今年はそれに輪をかけて高かったのですが、感心なことに大方は二月いっぱい、塾の授業につきあってくれました)。

 もう一つ、僕がかねて疑問に思っているのは「何でこんなに今の高校生は英作文が苦手なのか?」という問題です。応用が利かない。毎年、秋ぐらいからはその添削をしているのですが、個人差はむろん大きいとしても、「まあ、これぐらいになれば本番でも六割以上はとれるかな」というところまでもって行くのにはかなりの時間がかかる。延岡高校なんかは、毎回の定期テストの最後に自由英作があるのですが、あれはとにかく字数だけ書いとけば点がもらえるシロモノで、かえってそういう教育が災いしている。文法的に出鱈目でも、論理をなさず、内容がほとんどなくても、点数が与えられるからで、「考えずに書く」悪い癖がついてしまうのです。とにかく学校は「考えずにやる」悪い癖を生徒につけさせる名人です。それが後で生徒にとってはアダになることがどうしてわからないのでしょう?

 今の入試の英作文は、意見作文というのが主流になりつつあります。特定の問題を提示、あるいは参考文や図表など資料を示した上で、その問題についての自分の意見を英語で書かせるのですが、こういうのはそんな問題、あることすら知りませんでしたでは、別に高度なことは書く必要はないとしても、読むに値するものを書けるはずがなく、基本的な理解がないのでまるっきりピントの外れた意味不明文を書いたり、小学生にも劣るような無内容なことを並べる羽目になりかねません。それに加えて、文法ミスのオンパレードで、そもそも英文の体をなしていないということになると、思考力も社会的基礎知識も、学力も全部ありませんと、自己宣伝しているようなものなので、ほとんど零点でしょう。とにかく書くのは書いたから点がもらえるだろうと思うのは、あの定期試験の悪しき条件づけによるので、それならあんなものはなくした方が親切なのです(英文の添削というのは手間ひまが一番かかるもので、分量が多くミスも多いと、「ここをどう直して何を補えばまともな展開の文になるか?」なんて考え出すとキリがなく、一人分手直しするのでも一時間、二時間、平気でかかってしまうことがある。だからそれを全生徒に直接やるのはほぼ不可能でしょう)。

 今の企業は就職面接の際、「社会人基礎力」というのを見ようとするのだそうですが、大学入試でもそのあたりは同じで、ろくすっぽその意味を考えもせず、教科書知識の機械的丸暗記だけしてきたような受験生はほしくないわけです。それを材料に考える力があって初めて、知識は意味をなす。ところが、物量作戦で量だけ多く押しつけられると、その「考える力」が犠牲になるのです。その結果、学力も伸びず、入試でもはかばかしい点が取れないことになる。英作文は俗に英借文と言われるように、お手本になるような英文を一定数、その構造を理解しながら頭に入れて、それらを応用して英文を作ってみるというプロセスを経て進歩するものなのですが、基本的にこういうのは自分で意識してやっていないと駄目なものです(だから学校で例文暗記テストを繰り返せばいいという問題ではなく、自律的な姿勢の問題)。また、英文を一定量以上読めば、感覚として“文の据わり”のよしあしもわかってくるのですが、こうしたことにはすべてそれ相応の時間がかかり、精神的・時間的な余裕も必要になる。忙しいからと雑なことばかりやっていたのでは、学力は向上しないが、今の学校というところは生徒にそういうふうに仕向けているのです。問題はそこにある。

 一日は誰でも24時間で、限られているのだから、生徒たちに「考えたり、自分で調べたりするゆとり」をもたせるには無駄なものは極力省いて、時間の拘束も減らし、自分の時間を多く与える必要がある。塾のある生徒が学校で先生に、「どうして課外は必要なんですか?」ときくと、その先生は「課外がないと、おまえら勉強しないだろう」と答えたそうです。僕はそれこそ「自己責任」だと思うので、管理強制して、それに受け身で従っていたところで、どうせ高い学力なんか身につくわけはないのです。上に見たとおり、多忙に紛れてやることが雑になり、考えることをしなくなるだけ。そうなるといくら学校が鞭を振るっても、成績は頭打ちになり、やがて下降線を辿るのです。学校が平常授業でできるだけ質の高い授業を提供すべく努め、その上で生徒にゆとりを与えて自学自習を促すなら、結果はその反対の望ましいものになるでしょう。その方向への改革が続くことを僕は願っています。

 それでは、卒業生諸君、これまでご苦労様。大学に入ったら自由度が一気に増すので、それを善用し、よく学び、よく遊べを実践して、将来有為の人材となって下さい。国立の結果はまだ出ていませんが、残念ながら浪人となった人は、心機一転、勉強の仕方も変えて、もう一頑張りです。

延岡高校『ベーシック・グラマー』の「解説」の嘘について

2016.10.27.16:28

(これは、関係者の間ではかなりの騒ぎになりそうだからどうしようかな…とちょっと迷った記事ですが、「真実は人を癒す」ということわざもあるので、そう期待してアップすることにしました。少なくとも生徒たちのためにはなるでしょう。)

 前にこの英語教材(略称BG)については「早く使用をやめた方がいい」と書いたことがあります。生徒たちからも悪評ふんぷんですが、無駄に量ばかり多く、問題はワンパターンそのもので、やらされる側は「手だけ疲れる」と嘆き、それによって彼らの英文法理解が向上した形跡は何ら見られないからです。なかには「あればかりやらされているうちに、かえって文法がわからなくなってきた」と苦笑いする生徒もいて、それがとくによくできる生徒だったりするのは皮肉なので、にもかかわらず、入学後一年半の長きにわたって、英語の授業といえばほとんどあればかりで、そんな無駄なことをやっているから授業時間が足りなくなるのです。平板で退屈そのものなので、生徒の英語学習意欲も自然減退する。

 大体が、実践性に乏しすぎるので、入試にもよく出る文法の重要ポイント(たとえば、高校生がよく間違える現在分詞と過去分詞の使い分けの注意点など)は説明されていないし、近年出題が増加している語法に関してはほとんど全く触れられていない。あんなものを使い続けるのは作成者本人(英語科のボスご自慢の作だと聞いていますが…)の自己満足でしかありません。唯一の「長所」は、あれは先生たちには授業のとき使い勝手がいいということだけでしょう。むやみと問題量だけは多いので、その答え合わせをしていれば、何となく授業時間は埋まってしまうからです。膨大な枚数があるので、次の教材に悩まなくても済む。一年半はもつからです。

 塾として困るのは、それだけ文法ばかりやらされてきたのだから、せめて文法力がついていればいいが、全然そうではないことです。多くの生徒が受験学年になっても文法の基礎学力が不足しているので、三年になってやってきた生徒にももう一度文法を短期間でおさらいさせないといけない。入試と両にらみで、少ない時間でそれをやるのは大変なのです。

 だから、あんな時間を食うだけで効果のない教材、初めから使うな、と僕は言っているのですが、学校側は“手作り感”が売りだと思っているのかもしれません。しかし、僕はそのプリントに出てくる問題で生徒の質問には答えても、見にくいので解説の部分は真面目に読んだことがありませんでした。ヴィジュアル的にも不細工そのもので、お世辞にも見やすいとは言えないからです。別にふつうの参考書よりわかりやすい説明をしているのでもなさそうだし、わざわざ「手作り」の印象を与えても、それが何なんだ、という感じなので、生徒たちにもそれを有難がっている様子はまるでありません。

 ところが、去年、定期試験前に、それも範囲の一部だという「仮定法」の解説部分を何気なく見たら、「何?」という箇所があって、驚いてしまいました。それまでは単調すぎるのはたしかだとしても、まさか嘘まで書かれているとは思っていなかったので、これには正直驚きました。それで警戒モードで注意して見ていたら、すぐに同じ単元でもう一つ明白な間違いが見つかった。こういう迷解説を真に受けていたのでは、文法がわかるようにならないのも道理だな、とあらためて嘆息した次第です。

 それはどういうところかと言うと、「仮定法=事実に反することを表わす」として、次のような説明を加えているのです。

仮定法ではIf節を用いるが、If節を用いるのは、
①条件文 と ②仮定法 の二つである。
この区別をつけておこう!

①条件文
  「明日晴れれば、ハイキングに行きます」
 If it is fine tomorrow, we can go hiking.
明日の天気については、晴れも雨もわからない。つまり、事実がない。
  → 事実がないのだから、仮定もできない。これはただの条件文である。

②仮定法
  「今日晴れだったら、ハイキングに行けるのに」
 If it were fine today, we could go hiking.
今日の天気は晴れていないという事実がはっきりとわかる。
  → 事実があれば、仮定もできる。これは仮定法の文である。


「へえー、大先生にかかると、仮定法もこういう摩訶不思議な話になっちゃうんですね」と僕は思わず笑ってしまったのですが、いかがですか? 使われている英文そのものは正しい。しかし、説明が出鱈目なのです。

 仮定法が「事実に反する」場合に用いられるというのは正しいのですが、それはまた、「現在または未来についての可能性に乏しい想像や願望」にも用いられるのです。だから、「事実がないのだから、仮定もできない」というのは大嘘なので、上の例文を使えば、

If it should be fine tomorrow, we could go hiking.

 という文は文法的に十分可能なはずです。「今、雨が降っているし、明日も多分雨だろうが、もしも晴れてくれれば、ハイキングに行けるんだけどねえ」みたいな感じです。

 このshould、were to は「仮定法未来」というのに分類されることもあるので、「ここは仮定法過去について述べただけだ」と言い訳するかもしれませんが、それはかなり苦しい。というのも、If you got a million dollars, what is the first thing you would do? なんてのは「仮定法過去」を使っていますが、「“今後”百万ドル手に入ったら」ということなので、明白に未来を含んだ仮定なのです。大体、「事実がないのだから仮定もできない」なんて、僕は生まれて初めて聞く話なので、「今度の年末ジャンボで一億円当たったら」とか「もし彼女が僕のプロポーズにイエスと言ってくれたら」とか、ふつうに使われる仮定でしょうが。それはまだ「事実」としては存在しない未来に関わる仮定なのです。

 生徒たちにとっては、「未来や現在について述べるとき、どういう場合に条件法を、どういうときに仮定法を使えばいいのか?」がアクチュアルな疑問になるので、「事実がなければ条件文」というのは嘘を教えているのと同じになるのです。

 むろん、逆もまた真なりで、「事実がある」現在についての仮定でも、仮定法ではなく条件法を使う場合はあるのです。二例挙げておきましょう。

① If you mix red and yellow, you get orange.
② If he is in this town, he should come to see me.

 ①は「赤と黄色を混ぜればオレンジになります」という「当然の事実」を述べているので、これは「時」とは無関係。②は、彼が町にいるかどうかを話者は知らない(すなわち今のことだから事実はあるが、その確認が取れていない)ので、「いるとすれば」と推測の上、「それなら会いに来るはずだ」と言っているのです。十中八九いないだろうと思っているなら、If he were(or was)…と仮定法を使うでしょう(こういうのはいわゆる「開放条件」と「却下条件」の違いです)。かんたんに言えば、十分ありうる(あるいは確実にそうである)と思っているときは条件法を、ありそうもない(その可能性は低い)と感じているときは仮定法を使うのです(すでに「事実」のある現在にも、それはない未来にも、です)。条件法か仮定法かの使い分けのポイントはそこにあるので、「仮定法=事実に反することを表わす」だけで片づけられたのでは困る。こういうのは「常識」に属するので、上記ベーシック・グラマーの説明は、そもそも仮定法の何たるかをわかって書いているのか疑わしくなるような性質のものだということです(仮定法過去完了の場合には「過去の事実の反対」という理解でよい。過去についての仮定でも、上の説明のとおり事実が未確認で可能性が高いと見ていれば、条件法を使ってifが来ていても過去形のままということはあるのですが)。

 もう一つ、僕が??と思ったのは、先ほど触れた「shouldとwere toの使い分け」です。それに関してはこう書かれている。

should=「まずないと思われるが、ひょっとすると…」
were to=「絶対にありえない」


 この説明も間違いです。正しくは、should は「絶対にありえない」ことには使えないとされているのに対しwere to の方は実現の可能性を問題とせず、「両方に使える」ということです。たとえばセンター試験に、

If you were to fall from that bridge, it would be almost impossible to rescue you.

 という英文が文法問題で出たことがあります(下線部が設問箇所)が、あなたがあの橋から落ちることはまずないとしても、「絶対にありえない」話ではないのです。要するに、「お天道様が西から昇るようなことでもあれば、おまえの言い分を信じてやらあ」(この場合は一種の反語表現)みたいな文には、一般にshouldは使えないということにされている(しかし、実際にはそういうshouldの使用例も皆無というわけではない)だけで、were to を使った文にも、可能性のあるものはたくさんあるのです(だからそういう場合はどちらを使ってもいいことになる)。区別としては、were toは「実現可能性とは無関係に発想」しているのに対し、should は「実現可能性を念頭に置いて、可能性は低いが、仮にあったとすれば」という含みがあると説明されることがあって、僕も大体そんな感じかな、と思っています(これを「実現可能性の高低」だけで分けようとすれば、実際の英文を見て困惑する羽目になるでしょう)。

「ややこしい!」と高校生たちは文句を言うかも知れませんが、日本語のニュアンスだって外国人にはややこしいので、それは仕方がありません。それでも、ベーシック・グラマーのトンデモ解説よりはずっと納得がいくでしょう? 要は、BGの説明にあるような白黒分離的なものでは決してないということなので、無理に単純化して「明快」を気取ってみても、実際の運用からして明白な嘘なのだから、誤解と混乱を招くだけに終わるということです。

 仮定法に関しては以上ですが、もう一つ、僕はかねて延岡高校の生徒たちが「時制に弱い」ことを不思議に思っていたのですが、これは間違いとは言い切れないとしても、時制の項にも誤解を招きやすいことが書かれているのです。それは何かというと、「時制のイメージ」なるものを「過去」「現在」「未来」と直線上に“点”で示して「解説」している箇所があるのですが、

「時の流れ」を数直線で表した際、●の部分がその時制を表わす!
 どれも数直線上の一点であるところに注目!


とあって、ごていねいに「数直線上の一点であるところに注目!」には波線が引かれて強調されているのですが、何を根拠に「点」などと言っているのかがわからない。いわゆる「現在の習慣」や「真理・社会通念」など、現在形が使われるのですが、そのとき話者の頭にあるイメージは「点」ではないし、過去なども点ではなく、ある一定の幅をもつものとして考えた方がいい場合があるので、たとえば、センター試験の過去問に、

“ Have you ever seen that movie? ”
“ Yes. When I was in Tokyo, I (    ) it three times.”
① had seen ② have seen ③ saw ④ would see

 というのがあると、ほとんどの生徒は①か②を入れてしまうのです。それで僕はホワイトボードに時間の流れを示す線を引き、その上にwhen I was in Tokyoと書いて、対応部分を線上に長方形で示して、その中に〇を三つ入れ、「この〇はどの時制になる?」ときくと、生徒たちは「過去!」と即答して、問題はめでたく解決するのです(つまり正解は③)。

 これを僕は「三回見たことがある」という日本語訳の連想から間違えてしまうのかなと思っていたのですが、when I was a child など、そういうのは当然かなりの時間的な幅をもつので、点でだけ考えるとおかしなことになるよと教えるのですが、学校のこういうプリントの「解説」で、おかしな「点のイメージ」を植え付けるから混乱させられてしまったとも考えられるのです。さらに具合が悪いのは、先の説明の次に現在完了の図を示して、それは長方形になっているから、「幅があるのは完了形」と勘違いしてしまいやすいのでしょう。こういうのは「よけいなお世話」に属します。別の単元に、「論理的思考力があれば、かんたんに理解できる!」などと自慢げに書かれていたりするのですが、先の仮定法の見当外れ解説といい、とても緻密な思考力の持主が作っているとは思えない。やたらと話を単純化したがるところから、作っている人の頭の構造が割と「かんたんに」できているらしいことが推測できるのみです。

 ついでにもう一つ、上の「論理的思考力があれば…」というのは否定の項に出てくる名言(?)なのですが、そこにも、これは僕には「論理的思考力」が不足しているせいなのか、どうにも理解できない箇所があるのです。それは、

「no+単数名詞」=単数扱い「1つの~もない」
「no+複数名詞」=複数扱い「少しの~もない」


 とあるところで、名詞が単数なら単数扱い、複数なら複数扱いなのはわかりきった話ですが、「1つの~もない」と「少しの~もない」の意味の違いが分からないのです。どなたかわかる方、いらっしゃいますか? いるわけないと思うのですが…。

 一般に、この二つの違いは、「社会通念や期待」によって決まるとされていて、説明を加えるなら、むしろそのあたりのことについてでしょう。しかし、そのかんじんな説明は何もない。それで代わって説明を試みると、たとえば I have no child. とI have no children. の場合、どちらも表現としては可能でしょうが、後者の方がより一般的だろうと思います。これに対して、I have no wife. かI have no wives. かということになると、一夫多妻制の国ではともかく、前者が正しいとされるでしょう。むろん、その際、「私には一人の妻もいません」なんてのはヘンテコな訳なので、あっさり「私には妻はいません」とする。

 要するに、「何なの、それは?」というナンセンスなことだけ書いて、生徒の頭を無駄に混乱させ、かんじんな説明は何もないのです。それなら初めから書くなよと言いたくなる(実際こういう例示は、入試の見地からしても重要性に乏しいので、なくていいのです)。

 他にも、「入試には結構出るのに、何でこれの記述は省かれてるわけ?」と思う箇所や、「自分なら違う説明をするし、その方が正確でわかりやすいだろう」と感じられる箇所もあるのですが、そういうのは不備ではあっても大きな欠陥ではないと解釈して、ここでは触れないことにします。ともあれ、先に述べた仮定法や時制は入試にも頻出する最重要単元の一つなので、そこにすでに見たような、正しい理解を妨げるような性質の「もどき解説」が載せられているのだから、文法教材としては致命的と言って差し支えないでしょう。

 これの解説部分だけ集めたものを呆れたことに延岡高校では今の三年生全員に200円で強制的に買わせ、表紙には「Try again!! この一冊で『英文法』をマスター!」なんて書かれているのですが、こんな欠陥解説冊子で「マスター」なんてできるわけがないので、いかにもオヤジ的な駄ジャレを言わせてもらえば、作成教師のマスターベーション(自慰)以外の何ものでもないのです。あれで「英文法トラウマ」になった生徒たちは「見る気もしない!」と言っているので、「先生にあげます」ということでもらったのを見ながら、僕は今これを書いているわけで、この記事を書く役には立ったというだけの話なのです。

 今の延岡高校の三年生に聞けばわかりますが、彼らはこのおかしな文法プリントを長期にわたってやらされた上に、次から次へと色々なテキストを買わされ、それが大方は尻切れトンボ状態で、「やれって、こんなにたくさんある教材をどうやって終わらせるんですか?」と途方に暮れる状態になっているのです。やることが行き当たりばったりで、そこには何ら計画性というものがない。買わされた無駄な教材費だけでも相当額にのぼるでしょう。しかも、「こんなのよりもっと使いやすい問題集」があるといって、他のを買って自分で勉強している生徒は少なくないのだから、そういうのは「捨て金」になってしまうのです。

 塾としては学校の授業がお粗末な方が繁盛していいんじゃありませんか、と皮肉を言う人がいるかも知れませんが、傍迷惑なだけなのです。学校でセンターレベルの基礎をきちんと教え、二次試験レベルのことは塾が担当するというのならいいのですが、基礎も応用も少ない時間で教えなければならず、しかも彼らは長い授業時間で拘束されたうえ、多くの宿題を負った身なので、やりにくいことこの上なしなのです。「学校に妨害されている」としか思えない。これは生徒も塾も、です。

 あのプリントを作った先生の英語理解能力(人格的にも疑問符がつくのは、僕がこのコーナーで何度も取り上げた異常な、キレやすい教師が彼なのだといえば、それだけでおわかりでしょう)は疑わしいとしても、他の英語の先生が皆「彼以下」だとは考えられない(実際、優秀な先生がいるのも僕は知っています)ので、それなのになぜ上記のような「明白な誤り」を含んだプリントが使われ続けているのかといえば、たぶん先生たちもその「解説」の部分はロクに見ていないからなのでしょう。ボスから「これを使え」と言われているから仕方なく使っているだけで、馬鹿馬鹿しいから「解説」なんて見ていないのです(それをそのまま口移しで繰り返している場合には「学力のなさ」の証明になりますが)。学校内部のおかしな権力関係でそういうことになっているというのは嘆かわしいことで、そういうところからしても「生徒第一の指導」にはなっていないのです。

「よけいなお世話」ついでにもう一つ書かせてもらうと、もう何年も前ですが、僕は学校で生徒たちが市販の単語集を指定の上買わされているのを知っていたので、長文の授業の途中、「この単語は憶えておいた方がいいもので、君らの単語集にも出ていると思うけど」と言ったところ、それを見た生徒たちに「バッテンがついてます!」と言われたことがあります。聞けば、わざわざ「覚える必要のない単語」というのを指示して、それにバツを付けさせていたのです。それはかなりの数に上った。

 これもまた、「英語と入試のエキスパート」を自称するその英語科のボスが指示したようですが、今の単語集というのはたいていコンピューター分析も活用していて、「出ない単語」が入っているわけは基本的にないのです。そもそも、単語でも熟語でも、多く知っておいて損することはない。僕なども日頃、英文の本や記事を読んでいて語彙力の不足を痛感させられることが多いので、英語教師がそんなことをするというのが僕にはそもそも不可解なのですが、その単語など、よく出ることを知っているから、単語集でも確認してごらん、と言ったのです。皆で笑ったのは、同じようなことがその後何度も起きたことです。つまり、僕はよく出る重要単語だと思っているものが、学校の指示では「出ない単語」に指定されている。少なくともそういうことが何度か続いたのです。

 僕が塾で使っているのは二次の英語問題(多くが過去五年以内のもの)なので、それは「センターには出ない」という意味なのかもしれません。しかし、それなら、生徒たちは二次で討ち死にしろというのでしょうか? 実に有難い、助けになる「指導」です。

 一体何を根拠にその単語を選定しているのか知りませんが、何かその種のタネ本でもあるのかも知れません。そうして、市販の単語集より自分の方が信用できるということをアピールしたいがためにそんなことをあえてしているのでしょう。「やっぱり先生は凄い!」と思ってもらいたいのです。しかし、うちの塾に来ていた生徒は、それが全くの出鱈目だということを知って、「何なんだ、これは…」ということになってしまったのです。事実、目の前の入試問題に、「出ない」とされた単語がいくつも出ているわけですから(その年はたまたまですが、「類は友を呼ぶ」の法則で延岡高校三年のトップ10の生徒の半分がうちの塾に来ていたので、インパクトは大きかったのです)。

 下らない教材で無駄に時間を潰しておいて、こういうよけいなことはしてくれるのです。買わせる英単語集はコロコロ変わっているようですが、今でも同じようなことは続けているようなので、生徒諸君はそんなもの真に受けてはならないということです。

 以上ですが、僕が英語塾の一教師として怒っているのは、「しなくていいことをする」からなのです。何か特別なことをしろと要求しているのではない。むやみと量に頼るのではなく、良質なオーソドックスな教材(下手な“手作り”はもういいから、信用できる既製の出版物にして下さい)をえらんで、ていねいな授業を心がければいいのに、それをしないからなのです。

 学校の授業は一教師のつまらない自己満足や自己顕示欲のためにあるのではない。生徒のためにあるのだということを忘れないでいただきたいと思います。
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR