ヤフーのニュースサイトに小出裕章さんに関する記事が出ているのを見ました。例によってヤフコメらしい下卑たコメントが下にいくつも出ていて(まともなのもありますが)、相変わらずだなと思いましたが、これはその元記事です。
・反原発のカリスマ・小出裕章氏 京大退職後は松本で反アベ活動
「反原発のカリスマ」などと呼ばれること自体、小出さんはうんざりでしょう。東北大震災に伴うあの悲惨な福島原発事故は、第二の敗戦のようなもので、あれで日本も変わるかなと思ったら、全く変わらなかった。小出さんならずとも失望するので、あの時点で国民投票をやっていれば、8~9割が「原発全廃」に賛成し、流れは変わっていたでしょうが、その決定をしたのは遠く離れたドイツ政府で、自民党政権はほとぼりが冷めるまで待つ作戦で、国民投票も回避し、いつのまにか再稼働容認になったのです。
事故の二年半後の2013年9月のIOC総会では、浮ついたことをせず震災復興に注力すべきだという声をよそに、安倍首相(当時)は自信たっぷり「アンダーコントロール」と言い、その後小泉進次郎の妻となった滝川クリステルが「お・も・て・な・し」とやって、2020年夏の東京オリンピック招致に成功し、それがコロナ禍で延期され、安倍二番煎じ政権の菅内閣は、今年の夏は何としても開催するつもりだという話ですが、こういうのは目の前の現実にきちんと向き合おうとしなかったバチが当たったのだと僕は思います。無観客で無理に開催したとしても、莫大な損失を出すことになるので、多額の税金を注ぎ込んで、経済効果すらマイナスだったということになる。馬鹿の見本みたいなものです。
原発の問題点は、事故が起きたら悲惨なことになる、そのときだけでなく、汚染が原因でその後がんを発症したり、半永久的に人が住めなくなる(そこにいた人たちは住居と故郷を失うことになる)ということだけでなく、高レベル放射性廃棄物の処理方法が存在せず、一体それをどうするのかというめどが全く立っていないことです。経済的に全くペイしないのも、廃炉(事故がなくても)の費用や、十年たってもいまだに見通しが立たないあの事故の後始末問題を見ただけでもわかります。今は溜まりに溜まったタンクの汚染水をどうするかという議論ばかりになっていますが、根本にあるのは「事故が起きても起きなくてもどうしようもない」その技術としての救い難さにあります。地震国の日本では地震のないフィンランドのオンカロみたいな核廃棄物の地下貯蔵施設を作ることもできない(それも問題含みなので、『10万年後の安全』というドキュメンタリーが作られたほどですが)。
小泉元首相は「私も『原発安全神話』に騙された」と言って、脱原発運動家になって、あちこちで講演活動などしているようですが、いくら呼びかけても政権と原子力ムラは鼻もひっかけず、今では原発反対を唱える人は「左翼」のひとことで斬って捨てられる有様です。今のように地球温暖化の問題が大きくなるとなおさらで、原発はなくても電力供給は大丈夫なことが全部の原発が止まったあのとき証明されてしまったのですが、原発維持派はCO2抑制を追い風に利用しようとする。あのとき、「これは地震国の日本には全く不向きだし、技術としても解決不能の問題を抱えているのだから、すっぱりやめて正しい選択をしよう」という決断をして国を挙げて取り組み、予算と人的資源を新技術の開発や、既存の自然エネルギー利用技術の刷新に振り向けていれば、日本人の能力からしてその方面で世界をリードする国になりえたかもしれなかったわけです(原発をもつ国々もそれに習う)。間違いなくそれは経済的にペイするし、日本人の誇りの源泉にもなりえた。それが、そんな面倒な疲れることはやめましょうということで、既存システムの温存に走り、代わりにオリンピックや万博を景気づけに…なんて時代錯誤なことしか考えられなかったわけだから、日本という国は「災い転じて福となす」千載一遇のチャンスを失ってしまったわけです。
個人の人生においても、やってたことが間違っていたとわかったら、過去のしがらみはどうあれ、それは捨てて、心機一転正しいことをやりましょうとなるはずで、そのとき困難に真摯に対応するか、逃げやごまかしに走るかによってその後の人生は大きく変わってきます。興味深いのは、見通しが立たないような困難な状況でも、過去にとらわれず、これと信じたことに思い切って賭ける人の道はいつのまにか開け、逆に過去のしがらみにとらわれたままごまかしに走る人は、その場は何とかなっても、後でツケが倍になって返ってきて、今度こそどうにもならなくなることが多いということです。日本政府と日本人はあの福島原発事故の後、後者を選択した。だからオリンピックもコロナでパーになるし、「失われた二十年」はそのまま三十年になりましたが、このままだとそれは四十年、五十年になりそうで、経済大国は今や昔、一人当たりGDPでもすでに韓国に抜かれたそうですが、いずれ貧しい国の一つにカウントされるようになってしまうでしょう。「何でも問題を先送りしているとああなりますよ」の見本みたいになるのです(今の日本を覆う無気力さも、あの問題にきちんと向き合わなかったことと何かしら関係するでしょう。「進取の気象」のなさを自ら証明してしまったのです)。
日本人はよくよく「核」とは悪縁がある。太平洋戦争の終わりに、日本はできたばかりのアメリカ製核爆弾の実験場にされ、広島、長崎と立て続けに原爆を落とされて、歴史上核爆弾を落とされた唯一の国になっているわけですが、あのときも軍と政府はまだ「本土決戦」なんて寝言に固執していて、本当のところ、あの戦争は前年の段階で100%敗北が確定していたのに、それを認めないから空襲で何十万人もの民間人が新たに死に、兵士もろくに補給もないまま次々南方に送られて、半ば以上は餓死させられる(当時まだ十代だった僕の伯父もその一人でしたが)羽目になるという、無駄な犠牲を強いられたのです(元々が山本五十六も言っていたように、勝ち目のない戦争だったのですが)。今の政府あたりにはその無責任で愚かなDNAが脈々と生きているようで、現実をシビアに認識して、必要な手を打つ心構えがない。既得権益層のことばかり思いやって、彼らと古くさいファンタジーを共有して、荒唐無稽な「作戦」を立案して、それで何とかなると思い込もうとする。不都合なことは大本営発表の嘘でごまかして、破滅に向けて突っ走っていたあの頃の集団無責任体制と同じです。彼らは「かんたんには変えられない」と分別くさい顔で言うが、大方の場合、変えようとしないから変わらないのです。政治家、官僚、財界、マスコミもグルになって、もうそれは駄目だということがわかっていても、惰性のように前と同じことを続けようとする。私らは真面目に一生懸命やってるんですと言いますが、それはとどのつまりは内輪の人間関係と利益を守るためなので、今は「上級国民」という言葉まであるそうですが、そちらのことばかりで、かつて戦地に送られる兵士や空襲にさらされる民間人(下級国民)にはその配慮が及ばなかったのと同じです。そこにはほんとの意味での公の観念はない。今は民主主義の世の中なので、国民全体に配慮しているフリだけはしなければならなくなったものの、その基本メンタリティは変わっていないので、それが付け足しめいたものになることは避けられないのです(原発は田舎にしかないので、事故が起きてもどのみち被害が直接自分に及ぶことはない)。
どう見ても原発は廃止すべきですが、いずれ近いうちに確実に来るとされる大地震の際、また似たような事故が起きてからそれはゆっくり考えましょうということなのでしょうか。福島原発のあの事故はまだしも幸運のおかげであの程度の被害範囲で済んだという話ですが、今度は神様も助けてくれないでしょう。さっきも言ったように、事故が起きようと起きまいとあれは問題ですが、起きれば悲惨で、それはコロナの比ではない。
最後に、小出さんの三年前の講演のURLを付けておきます。これは収録状態も画面も非常によくて、集中して見られる。後ろの方の議論が曲解されて「小出は北朝鮮の核は容認している」という難癖に悪用されているようですが、それは馬鹿げた論難です。自分とはいくらか政治的見解は違うが、いかにもこの先生らしい物言いだなと、僕は人としてのその誠実さにあらためて印象づけられました。小出さんは若者に期待を寄せているそうなので、一度も講演を聴いたことがないという若い人たちはぜひどうぞ。その上で「脱原発なんて絵空事だ」とうそぶく自称現実主義者たちの言うことが正しいかどうか、あらためて判断すればいいわけです。
・小出裕章「3.11から7年 放射能のいま…」2018.1.20
・反原発のカリスマ・小出裕章氏 京大退職後は松本で反アベ活動
「反原発のカリスマ」などと呼ばれること自体、小出さんはうんざりでしょう。東北大震災に伴うあの悲惨な福島原発事故は、第二の敗戦のようなもので、あれで日本も変わるかなと思ったら、全く変わらなかった。小出さんならずとも失望するので、あの時点で国民投票をやっていれば、8~9割が「原発全廃」に賛成し、流れは変わっていたでしょうが、その決定をしたのは遠く離れたドイツ政府で、自民党政権はほとぼりが冷めるまで待つ作戦で、国民投票も回避し、いつのまにか再稼働容認になったのです。
事故の二年半後の2013年9月のIOC総会では、浮ついたことをせず震災復興に注力すべきだという声をよそに、安倍首相(当時)は自信たっぷり「アンダーコントロール」と言い、その後小泉進次郎の妻となった滝川クリステルが「お・も・て・な・し」とやって、2020年夏の東京オリンピック招致に成功し、それがコロナ禍で延期され、安倍二番煎じ政権の菅内閣は、今年の夏は何としても開催するつもりだという話ですが、こういうのは目の前の現実にきちんと向き合おうとしなかったバチが当たったのだと僕は思います。無観客で無理に開催したとしても、莫大な損失を出すことになるので、多額の税金を注ぎ込んで、経済効果すらマイナスだったということになる。馬鹿の見本みたいなものです。
原発の問題点は、事故が起きたら悲惨なことになる、そのときだけでなく、汚染が原因でその後がんを発症したり、半永久的に人が住めなくなる(そこにいた人たちは住居と故郷を失うことになる)ということだけでなく、高レベル放射性廃棄物の処理方法が存在せず、一体それをどうするのかというめどが全く立っていないことです。経済的に全くペイしないのも、廃炉(事故がなくても)の費用や、十年たってもいまだに見通しが立たないあの事故の後始末問題を見ただけでもわかります。今は溜まりに溜まったタンクの汚染水をどうするかという議論ばかりになっていますが、根本にあるのは「事故が起きても起きなくてもどうしようもない」その技術としての救い難さにあります。地震国の日本では地震のないフィンランドのオンカロみたいな核廃棄物の地下貯蔵施設を作ることもできない(それも問題含みなので、『10万年後の安全』というドキュメンタリーが作られたほどですが)。
小泉元首相は「私も『原発安全神話』に騙された」と言って、脱原発運動家になって、あちこちで講演活動などしているようですが、いくら呼びかけても政権と原子力ムラは鼻もひっかけず、今では原発反対を唱える人は「左翼」のひとことで斬って捨てられる有様です。今のように地球温暖化の問題が大きくなるとなおさらで、原発はなくても電力供給は大丈夫なことが全部の原発が止まったあのとき証明されてしまったのですが、原発維持派はCO2抑制を追い風に利用しようとする。あのとき、「これは地震国の日本には全く不向きだし、技術としても解決不能の問題を抱えているのだから、すっぱりやめて正しい選択をしよう」という決断をして国を挙げて取り組み、予算と人的資源を新技術の開発や、既存の自然エネルギー利用技術の刷新に振り向けていれば、日本人の能力からしてその方面で世界をリードする国になりえたかもしれなかったわけです(原発をもつ国々もそれに習う)。間違いなくそれは経済的にペイするし、日本人の誇りの源泉にもなりえた。それが、そんな面倒な疲れることはやめましょうということで、既存システムの温存に走り、代わりにオリンピックや万博を景気づけに…なんて時代錯誤なことしか考えられなかったわけだから、日本という国は「災い転じて福となす」千載一遇のチャンスを失ってしまったわけです。
個人の人生においても、やってたことが間違っていたとわかったら、過去のしがらみはどうあれ、それは捨てて、心機一転正しいことをやりましょうとなるはずで、そのとき困難に真摯に対応するか、逃げやごまかしに走るかによってその後の人生は大きく変わってきます。興味深いのは、見通しが立たないような困難な状況でも、過去にとらわれず、これと信じたことに思い切って賭ける人の道はいつのまにか開け、逆に過去のしがらみにとらわれたままごまかしに走る人は、その場は何とかなっても、後でツケが倍になって返ってきて、今度こそどうにもならなくなることが多いということです。日本政府と日本人はあの福島原発事故の後、後者を選択した。だからオリンピックもコロナでパーになるし、「失われた二十年」はそのまま三十年になりましたが、このままだとそれは四十年、五十年になりそうで、経済大国は今や昔、一人当たりGDPでもすでに韓国に抜かれたそうですが、いずれ貧しい国の一つにカウントされるようになってしまうでしょう。「何でも問題を先送りしているとああなりますよ」の見本みたいになるのです(今の日本を覆う無気力さも、あの問題にきちんと向き合わなかったことと何かしら関係するでしょう。「進取の気象」のなさを自ら証明してしまったのです)。
日本人はよくよく「核」とは悪縁がある。太平洋戦争の終わりに、日本はできたばかりのアメリカ製核爆弾の実験場にされ、広島、長崎と立て続けに原爆を落とされて、歴史上核爆弾を落とされた唯一の国になっているわけですが、あのときも軍と政府はまだ「本土決戦」なんて寝言に固執していて、本当のところ、あの戦争は前年の段階で100%敗北が確定していたのに、それを認めないから空襲で何十万人もの民間人が新たに死に、兵士もろくに補給もないまま次々南方に送られて、半ば以上は餓死させられる(当時まだ十代だった僕の伯父もその一人でしたが)羽目になるという、無駄な犠牲を強いられたのです(元々が山本五十六も言っていたように、勝ち目のない戦争だったのですが)。今の政府あたりにはその無責任で愚かなDNAが脈々と生きているようで、現実をシビアに認識して、必要な手を打つ心構えがない。既得権益層のことばかり思いやって、彼らと古くさいファンタジーを共有して、荒唐無稽な「作戦」を立案して、それで何とかなると思い込もうとする。不都合なことは大本営発表の嘘でごまかして、破滅に向けて突っ走っていたあの頃の集団無責任体制と同じです。彼らは「かんたんには変えられない」と分別くさい顔で言うが、大方の場合、変えようとしないから変わらないのです。政治家、官僚、財界、マスコミもグルになって、もうそれは駄目だということがわかっていても、惰性のように前と同じことを続けようとする。私らは真面目に一生懸命やってるんですと言いますが、それはとどのつまりは内輪の人間関係と利益を守るためなので、今は「上級国民」という言葉まであるそうですが、そちらのことばかりで、かつて戦地に送られる兵士や空襲にさらされる民間人(下級国民)にはその配慮が及ばなかったのと同じです。そこにはほんとの意味での公の観念はない。今は民主主義の世の中なので、国民全体に配慮しているフリだけはしなければならなくなったものの、その基本メンタリティは変わっていないので、それが付け足しめいたものになることは避けられないのです(原発は田舎にしかないので、事故が起きてもどのみち被害が直接自分に及ぶことはない)。
どう見ても原発は廃止すべきですが、いずれ近いうちに確実に来るとされる大地震の際、また似たような事故が起きてからそれはゆっくり考えましょうということなのでしょうか。福島原発のあの事故はまだしも幸運のおかげであの程度の被害範囲で済んだという話ですが、今度は神様も助けてくれないでしょう。さっきも言ったように、事故が起きようと起きまいとあれは問題ですが、起きれば悲惨で、それはコロナの比ではない。
最後に、小出さんの三年前の講演のURLを付けておきます。これは収録状態も画面も非常によくて、集中して見られる。後ろの方の議論が曲解されて「小出は北朝鮮の核は容認している」という難癖に悪用されているようですが、それは馬鹿げた論難です。自分とはいくらか政治的見解は違うが、いかにもこの先生らしい物言いだなと、僕は人としてのその誠実さにあらためて印象づけられました。小出さんは若者に期待を寄せているそうなので、一度も講演を聴いたことがないという若い人たちはぜひどうぞ。その上で「脱原発なんて絵空事だ」とうそぶく自称現実主義者たちの言うことが正しいかどうか、あらためて判断すればいいわけです。
・小出裕章「3.11から7年 放射能のいま…」2018.1.20
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin
ネットのニュースサイトを見ていると、相変わらずコロナウイルス関係の記事ばかり目立ちます(株2万円割れをとやかく言うのもちらほら)が、今日は3月11日で、あの東北大震災、福島第一原発事故の日です。もちろん、あの事故は収束からはほど遠いので、あれだけ悲惨な事故が起きて、それでもまだ原発をやめず、経産省あたりは新規原発建設まで目論んでいるという話なので、「喉元過ぎれば…」で、とうの昔に“原子力ムラ”は息を吹き返しているようだし、この国のエスタブリッシュメントというのはほんとにこわいなと思います。言葉の真の意味での「責任感」といったものは、彼らにはないのでしょう。自分たちの権力と利権の防衛がすべてです。外国と違って、その闇を描く映画やドラマも製作されない。そういうのは社会の健全さを示すバロメーターの一つになると思うのですが。
僕は気になるニュースは「お気に入りバー」(名称が問題ですが)というのに登録しておいて、そのうち3分の1ぐらいはここの記事を書くとき使って、使ったら削除するというふうにしている(残り3分の2の半分ぐらいは消し忘れて残ってしまうので、増えて困る)のですが、次の記事は先日9日のものです。
・福島第一原発の汚染処理水の海洋放出の知られざるリスク「サンデーモーニング」が指摘した“不都合な真実”
これ、大問題ですよ。「処理後も基準の100倍以上というものもあり、全体で7割が規制基準を超えていることがわかった」のみならず、東電は「(生物への影響も小さい)トリチウム以外の放射性物質は除去できる」と言っていたが、「(汚染処理水に)トリチウム以外の物質が含まれていることが明らかになった」というのだから、またいつもの嘘が繰り返されていたわけです。
しばらく前に韓国の政治家と団体が虚偽の「放射能汚染マップ」を作って、日本非難に悪用している、といったニュースがありましたが、韓国の「反日無罪」だから日本攻撃の嘘は何でも許されるといった異常な体質はいい加減にしてもらわないと困るが、こういうのはそれとは違うわけで、こういうことをやっていたのでは、「おまえら、嘘言うな」ときっぱり物申すこともできなくなるわけです。それでなくても溜まり続ける汚染水をどうするのかについては世界の注目が集まっているのに、東電の虚偽体質は全く変わっていない。
こういうのは、元をただせば、あの「原発安全神話」に遡り、最初に嘘をつくと、居直りを交えつつ、嘘の上塗りを重ねるしかなくなるという、嘘つき特有の病理によって説明できるのですが、その元々の大嘘は完全に破綻したのだから、正直路線に切り替わっても不思議でないはずが、そうはならずに、まだ「組織防衛」にしがみついているのです。
日本の裁判所は、昔からそうなのですが、国策がらみになると組織犯罪には非常に甘い。次の記事は今日出たものです。
・原発事故9年、吉田所長の宿命と旧経営陣の無罪
「福島第一原発の事故をめぐっては、2度の検察審査会を経て、当時の勝俣恒久会長、武黒一郎副社長、武藤栄副社長の3人が安全対策を怠った業務上過失致死傷の罪で強制起訴されている」が、「2019年9月19日に東京地裁で無罪判決が言い渡された」のです。
この判決については、次のNHKのサイトに詳しい記事が出ています。下の方に「判決文の概要」が出ているので、そこをクリックしてご覧ください。
・詳報 東電刑事裁判
論点の中心は、法律学のいわゆる「予見可能性の法理」に基づいて処罰できるかどうか、だったのですが、
以上のとおり、本件発電所に10m盤を超える津波が襲来する可能性について被告人ら3名がそれぞれ認識していた事情は当時の知見を踏まえ、上記津波の襲来を合理的に予測させる程度に信頼性、具体性のある根拠を伴うものであったとは認められない。
したがって、被告人ら3名において、本件発電所の運転停止措置を講じるべき結果回避義務を課すに相応しい予見可能性があったと認めることはできない。
指定弁護士は、被告人らが、一定の情報収集義務を尽くしていれば、10m盤を超える津波の襲来は予見可能であった旨主張するけれども、被告人らが更なる情報の収集又は補充を行っていたとしても、上記津波が襲来する可能性につき、信頼性、具体性のある根拠があるとの認識を有するに至るような情報を得ることができたとは認められない。
ということで、無罪となったのです。しかし、上の記事では、「東電社内では福島第一原発の敷地内に15メートルの津波が到来するという具体的な予測データがあった」(事故の3年も前に)のであり、「この予測数値を当時の経営陣にあげていたのが吉田所長」だったとしているのです。しかし、防護策にカネがかかりすぎるとか、面倒だということで、結局それは握り潰されてしまった。吉田にしても、一応上には何度か言ってみたということで、「自らが抱いた危機感を経営陣に丸投げすると同時に、責任を転嫁しようとしたともいえる」わけですが、もしも彼が存命なら、割と正直率直な人柄だったので、自身の責任を回避することなく、そのときの詳しいやりとりを法廷で証言して、そうなれば判決も変わっていたのではないかというのが、この記事の趣旨でしょう。
この記事のとおりなら、上の判決理由は間違いであり、「予見可能性」は十分あったことになって、ほんとは有罪なわけです。それは韓国式の国民感情に影響されての「情緒判決」の類とは全く違うので、それこそが客観性のある「正しい判決」だったということになる。上の引用文より少し前には、
被告人ら3名は、条件設定次第では10m盤を超える津波が襲来するとの数値解析結果が出る、もしくはそのような津波襲来の可能性を指摘する意見があるということは認識しており、10m盤を超える津波の襲来を予見する可能性がおよそなかったとはいい難い。
しかしながら、一連の事実経過を踏まえて考えても、被告人ら3名はいずれも平成23年3月初旬までの時点においては、本件発電所に10m盤を超える津波が襲来する可能性について、信頼性、具体性のある根拠を持っているとの認識がなかったとみざるを得ない。
という曖昧な文言があって、「どっちなんだよ」と言いたくなりますが、吉田所長が出廷して、「自分はその危険性をずっと前に認識していたし、重く見たからこそ上に報告した」と証言していれば、裁判官も、彼ら経営幹部が「信頼性、具体性のある根拠を持っているとの認識がなかった」と認定することは、たとえそうしたくても難しかったでしょう。
それにしても、これは甘い判決です。高い地位にある人間には、それだけ重い責任が課せられる、というのが近代民主国家の大前提ですが、日本的権威主義の下では、そこまで罪が及ばないように、もっと下の段階で「泥をかぶる」のが美徳みたいになっています。これは、「偉い人」が執行猶予なしの懲役判決など受けると、その権威が損なわれて、モラル・ハザードが起き、青少年教育に悪影響を及ぼす、なんて無意識に思い込んでいるからなのかもしれません。それと、裁判官としても、自分たちも結局は「原発安全神話」に加担していたのだから、それは棚に上げて、彼らだけ非難するのは人間としてどうか、なんて個人的な“道徳感情”も作用していたのかもしれません。
むろん、それは無意識のことですが、日本人にはそういうところがある。これは韓国人とは正反対で、韓国の場合、歴代大統領のあの悲惨な末路を見てもわかるように、自分たちがやんやの喝采で大統領に押し上げていても、それが権力を失うと、安易に「新たな正義」を振りかざす側に自己同一化して、「水に落ちた犬」を叩くのに躊躇がないのです。それは自分が裏切られただけなので、自己の“善性”を証明するためにもなおさらそうしなければならないと思うからで、「悪は他者にあって自分にはない」と思いたがる性格がとくに強いからなのでしょう。日本人にもそういう幼稚な人はかなりいて、最近はそれが増えている気もしますが、国民性としては、「お互いさまというところがあるのだから、あんまり他者を悪く言うのはよくない」として、攻撃を抑制する性質が強い。
これは、それ自体としては日本人の美点でしょうが、そのためきっちりけじめをつけるべきところでも甘くなりすぎて、上に見た妙な権威主義と結びつくと、高位権力者に対してはとくに及び腰になってしまって、権力の腐敗や弛緩を助長してしまい、かえってモラル・ハザードの原因を作りやすいと言えるかもしれません。とにかく、上の判決ではそれで「予見可能性」の見立てが甘くなって、それを予防するのを怠った「不作為責任」の認定が回避されたわけです。こういうのは、西洋先進諸国ではまず考えられないことでしょう。そういういい加減なことをしていたのでは、社会システムに対する信頼感が決定的に損なわれると、裁判官ならなおさら、それを危惧するはずだからです。
あの原発事故のとき、今後の原発政策をどうするか、国民投票にかけるべきだという意見がかなり強くあったにもかかわらず、「原発廃止」が多数になるのを恐れて、自民に移った政府はそれをやろうとしませんでした。地震多発国の日本に原発を建てるということ自体、自殺行為に近いのだとわかったし、たとえ事故が起きなくても10万年も隔離しておかないといけない高レベル放射性廃棄物の処理場がどこにもないということにも、国民はあらためて気づかされた。プルサーマル計画とやらはとっくに破綻していて、もんじゅはカネ食い虫になっているだけ(言い繕うことができず、16年末ついに廃炉が決定)だし、ウランは百年ももたずに枯渇する。原発は電力単価を安くするなんてのも、実は嘘っぱちだったとわかったのです(あの福島原発事故のいつ終わるとも知れない膨大な後始末費も結局国民負担になる)。人的被害があの程度で済んだのは奇蹟みたいなものでしたが、周囲は人の住めないゴーストタウンになってしまったのです。次の大地震でまたどこかの原発がやられてメルトダウンしたら、日本はほとんど終わりでしょう。
これまでの原発政策の誤りに気づいて「脱原発」に明確に方向転換した小泉元首相のような人もいますが、彼の言うとおり、オルタナティブ電源の開発に資金と技術力を傾注すれば、日本人の能力からして大きな成果が期待できるので、将来その技術を海外に売ることもできるし、経済的にも大きな見返りがある。なのに、元に戻って、新規に原発をまた建てたり、海外にそれを売ろうなんて、アホなことを考えるとはどういうことなのか。
子供の教育を考えても、悪影響しかない。それは彼らを大きな危険にさらすだけでなく、日本というのはそういう国で、根本的なところは何も変えられないのだから、それにいくら問題があっても、逆らうのは無駄で、既存の権力構造やシステムの中でうまい汁が吸える立場になるよう、世渡りをうまくやるしかないのだと教えているのと同じだからです。そういう「後ろ向きの適応」しかできないのでは、労働生産性が先進国最低になってしまうのもわかるので、新しいアイディアややる気なんて、出てくる道理がないでしょう。老人ばかり増えて、生産・労働人口が減り、医療費と社会保障費の高騰の中で、何とかしのぐには生産性を上げるしかないのに、新陳代謝が止まってしまった産業界の中では、非正規を増やして人件費を抑えるだけで、旧態依然たる仕事を漫然と続ける。格差が拡大して、貧乏人が増えるばかりだから、購買力は落ちる一方で、モノもサービスも売れないから、余計に苦しくなるのです。
今回の新型コロナウイルス騒動はそれにさらに拍車をかけているのですが、大本がそれなのです。悲惨な原発事故が起きても、ああいう大地震はめったにないだろうから、しばらくは大丈夫だろう(大地震は必ず来ると地震学者たちが言っているにもかかわらず)というので、そのままの路線で行きましょうということになる。温暖化が進んで、この先大変なことになるでしょうが、そういうことに対しても、日本人の危機感は他国よりずっと乏しいようです。環境大臣の進次郎が国連の気候サミットで語った言葉、「気候変動のような大きな規模の問題に取り組むことは、楽しく、クールで、セクシーに違いない」なども、「具体性ゼロで、意味不明」と批判されましたが、何を言っていいかわからないから、受け狙いであんなつまらないことを言ったのでしょうが、日本の面積の半分が消えたオーストラリアの山火事にしても、アマゾン密林の危機にしても、極地の氷山の溶解にしても、アフリカの大旱魃(プラス僅かな農地へのバッタの大襲来)にしても、現実に起きていることと比していかにもノーテンキな軽い印象を与えたので、目の前のそういう現実に悩まされている人たちのところに行って、「いやあ、こういう問題に取り組むのは、楽しく、クールで、セクシーですね」と言えば、その場で張り倒されるでしょう。しかし、その深刻な影響はいずれ日本にもやって来る。挑戦は受けて立つというような「進取の気象」がかつてないほど乏しくなっているところに、です。
いくらか強引だと言われるかもしれませんが、福島原発事故のようなすさまじいことがあっても、しばらくたつとまるでそんなことは何もなかったかのようになってしまうこと、責任をとった人間は誰もおらず(あの大嘘こいた原子力ムラの東大教授なんかも、クビにもならず、そのままでしょう)、教訓が全く教訓にならず、ナアナアで済ませてすぐ元に戻ってしまう今の日本社会のありようが、日本人の道徳的退廃を助長し、困難に進んで立ち向かおうとする活力を奪っているのではないかということです。
思い起こせば、中止の可能性が高まっているあの東京オリンピックにしてからが、誘致運動のとき、「今、そんなことやっている場合か。震災地の復興にもっと力を入れろ」と反対する意見が多かったのです。安倍はIOCで、全然まだその気配がなかったのに「アンダー・コントロール」と澄まして言い、進次郎の新妻、滝川クリステルは「お・も・て・なし」とやったわけで、今思えば奇妙な因縁に思われます。にしても、この異様とも言える「空気のぬるさ」はどこから来ているのでしょうか? どなたか分析して下さい。
僕は気になるニュースは「お気に入りバー」(名称が問題ですが)というのに登録しておいて、そのうち3分の1ぐらいはここの記事を書くとき使って、使ったら削除するというふうにしている(残り3分の2の半分ぐらいは消し忘れて残ってしまうので、増えて困る)のですが、次の記事は先日9日のものです。
・福島第一原発の汚染処理水の海洋放出の知られざるリスク「サンデーモーニング」が指摘した“不都合な真実”
これ、大問題ですよ。「処理後も基準の100倍以上というものもあり、全体で7割が規制基準を超えていることがわかった」のみならず、東電は「(生物への影響も小さい)トリチウム以外の放射性物質は除去できる」と言っていたが、「(汚染処理水に)トリチウム以外の物質が含まれていることが明らかになった」というのだから、またいつもの嘘が繰り返されていたわけです。
しばらく前に韓国の政治家と団体が虚偽の「放射能汚染マップ」を作って、日本非難に悪用している、といったニュースがありましたが、韓国の「反日無罪」だから日本攻撃の嘘は何でも許されるといった異常な体質はいい加減にしてもらわないと困るが、こういうのはそれとは違うわけで、こういうことをやっていたのでは、「おまえら、嘘言うな」ときっぱり物申すこともできなくなるわけです。それでなくても溜まり続ける汚染水をどうするのかについては世界の注目が集まっているのに、東電の虚偽体質は全く変わっていない。
こういうのは、元をただせば、あの「原発安全神話」に遡り、最初に嘘をつくと、居直りを交えつつ、嘘の上塗りを重ねるしかなくなるという、嘘つき特有の病理によって説明できるのですが、その元々の大嘘は完全に破綻したのだから、正直路線に切り替わっても不思議でないはずが、そうはならずに、まだ「組織防衛」にしがみついているのです。
日本の裁判所は、昔からそうなのですが、国策がらみになると組織犯罪には非常に甘い。次の記事は今日出たものです。
・原発事故9年、吉田所長の宿命と旧経営陣の無罪
「福島第一原発の事故をめぐっては、2度の検察審査会を経て、当時の勝俣恒久会長、武黒一郎副社長、武藤栄副社長の3人が安全対策を怠った業務上過失致死傷の罪で強制起訴されている」が、「2019年9月19日に東京地裁で無罪判決が言い渡された」のです。
この判決については、次のNHKのサイトに詳しい記事が出ています。下の方に「判決文の概要」が出ているので、そこをクリックしてご覧ください。
・詳報 東電刑事裁判
論点の中心は、法律学のいわゆる「予見可能性の法理」に基づいて処罰できるかどうか、だったのですが、
以上のとおり、本件発電所に10m盤を超える津波が襲来する可能性について被告人ら3名がそれぞれ認識していた事情は当時の知見を踏まえ、上記津波の襲来を合理的に予測させる程度に信頼性、具体性のある根拠を伴うものであったとは認められない。
したがって、被告人ら3名において、本件発電所の運転停止措置を講じるべき結果回避義務を課すに相応しい予見可能性があったと認めることはできない。
指定弁護士は、被告人らが、一定の情報収集義務を尽くしていれば、10m盤を超える津波の襲来は予見可能であった旨主張するけれども、被告人らが更なる情報の収集又は補充を行っていたとしても、上記津波が襲来する可能性につき、信頼性、具体性のある根拠があるとの認識を有するに至るような情報を得ることができたとは認められない。
ということで、無罪となったのです。しかし、上の記事では、「東電社内では福島第一原発の敷地内に15メートルの津波が到来するという具体的な予測データがあった」(事故の3年も前に)のであり、「この予測数値を当時の経営陣にあげていたのが吉田所長」だったとしているのです。しかし、防護策にカネがかかりすぎるとか、面倒だということで、結局それは握り潰されてしまった。吉田にしても、一応上には何度か言ってみたということで、「自らが抱いた危機感を経営陣に丸投げすると同時に、責任を転嫁しようとしたともいえる」わけですが、もしも彼が存命なら、割と正直率直な人柄だったので、自身の責任を回避することなく、そのときの詳しいやりとりを法廷で証言して、そうなれば判決も変わっていたのではないかというのが、この記事の趣旨でしょう。
この記事のとおりなら、上の判決理由は間違いであり、「予見可能性」は十分あったことになって、ほんとは有罪なわけです。それは韓国式の国民感情に影響されての「情緒判決」の類とは全く違うので、それこそが客観性のある「正しい判決」だったということになる。上の引用文より少し前には、
被告人ら3名は、条件設定次第では10m盤を超える津波が襲来するとの数値解析結果が出る、もしくはそのような津波襲来の可能性を指摘する意見があるということは認識しており、10m盤を超える津波の襲来を予見する可能性がおよそなかったとはいい難い。
しかしながら、一連の事実経過を踏まえて考えても、被告人ら3名はいずれも平成23年3月初旬までの時点においては、本件発電所に10m盤を超える津波が襲来する可能性について、信頼性、具体性のある根拠を持っているとの認識がなかったとみざるを得ない。
という曖昧な文言があって、「どっちなんだよ」と言いたくなりますが、吉田所長が出廷して、「自分はその危険性をずっと前に認識していたし、重く見たからこそ上に報告した」と証言していれば、裁判官も、彼ら経営幹部が「信頼性、具体性のある根拠を持っているとの認識がなかった」と認定することは、たとえそうしたくても難しかったでしょう。
それにしても、これは甘い判決です。高い地位にある人間には、それだけ重い責任が課せられる、というのが近代民主国家の大前提ですが、日本的権威主義の下では、そこまで罪が及ばないように、もっと下の段階で「泥をかぶる」のが美徳みたいになっています。これは、「偉い人」が執行猶予なしの懲役判決など受けると、その権威が損なわれて、モラル・ハザードが起き、青少年教育に悪影響を及ぼす、なんて無意識に思い込んでいるからなのかもしれません。それと、裁判官としても、自分たちも結局は「原発安全神話」に加担していたのだから、それは棚に上げて、彼らだけ非難するのは人間としてどうか、なんて個人的な“道徳感情”も作用していたのかもしれません。
むろん、それは無意識のことですが、日本人にはそういうところがある。これは韓国人とは正反対で、韓国の場合、歴代大統領のあの悲惨な末路を見てもわかるように、自分たちがやんやの喝采で大統領に押し上げていても、それが権力を失うと、安易に「新たな正義」を振りかざす側に自己同一化して、「水に落ちた犬」を叩くのに躊躇がないのです。それは自分が裏切られただけなので、自己の“善性”を証明するためにもなおさらそうしなければならないと思うからで、「悪は他者にあって自分にはない」と思いたがる性格がとくに強いからなのでしょう。日本人にもそういう幼稚な人はかなりいて、最近はそれが増えている気もしますが、国民性としては、「お互いさまというところがあるのだから、あんまり他者を悪く言うのはよくない」として、攻撃を抑制する性質が強い。
これは、それ自体としては日本人の美点でしょうが、そのためきっちりけじめをつけるべきところでも甘くなりすぎて、上に見た妙な権威主義と結びつくと、高位権力者に対してはとくに及び腰になってしまって、権力の腐敗や弛緩を助長してしまい、かえってモラル・ハザードの原因を作りやすいと言えるかもしれません。とにかく、上の判決ではそれで「予見可能性」の見立てが甘くなって、それを予防するのを怠った「不作為責任」の認定が回避されたわけです。こういうのは、西洋先進諸国ではまず考えられないことでしょう。そういういい加減なことをしていたのでは、社会システムに対する信頼感が決定的に損なわれると、裁判官ならなおさら、それを危惧するはずだからです。
あの原発事故のとき、今後の原発政策をどうするか、国民投票にかけるべきだという意見がかなり強くあったにもかかわらず、「原発廃止」が多数になるのを恐れて、自民に移った政府はそれをやろうとしませんでした。地震多発国の日本に原発を建てるということ自体、自殺行為に近いのだとわかったし、たとえ事故が起きなくても10万年も隔離しておかないといけない高レベル放射性廃棄物の処理場がどこにもないということにも、国民はあらためて気づかされた。プルサーマル計画とやらはとっくに破綻していて、もんじゅはカネ食い虫になっているだけ(言い繕うことができず、16年末ついに廃炉が決定)だし、ウランは百年ももたずに枯渇する。原発は電力単価を安くするなんてのも、実は嘘っぱちだったとわかったのです(あの福島原発事故のいつ終わるとも知れない膨大な後始末費も結局国民負担になる)。人的被害があの程度で済んだのは奇蹟みたいなものでしたが、周囲は人の住めないゴーストタウンになってしまったのです。次の大地震でまたどこかの原発がやられてメルトダウンしたら、日本はほとんど終わりでしょう。
これまでの原発政策の誤りに気づいて「脱原発」に明確に方向転換した小泉元首相のような人もいますが、彼の言うとおり、オルタナティブ電源の開発に資金と技術力を傾注すれば、日本人の能力からして大きな成果が期待できるので、将来その技術を海外に売ることもできるし、経済的にも大きな見返りがある。なのに、元に戻って、新規に原発をまた建てたり、海外にそれを売ろうなんて、アホなことを考えるとはどういうことなのか。
子供の教育を考えても、悪影響しかない。それは彼らを大きな危険にさらすだけでなく、日本というのはそういう国で、根本的なところは何も変えられないのだから、それにいくら問題があっても、逆らうのは無駄で、既存の権力構造やシステムの中でうまい汁が吸える立場になるよう、世渡りをうまくやるしかないのだと教えているのと同じだからです。そういう「後ろ向きの適応」しかできないのでは、労働生産性が先進国最低になってしまうのもわかるので、新しいアイディアややる気なんて、出てくる道理がないでしょう。老人ばかり増えて、生産・労働人口が減り、医療費と社会保障費の高騰の中で、何とかしのぐには生産性を上げるしかないのに、新陳代謝が止まってしまった産業界の中では、非正規を増やして人件費を抑えるだけで、旧態依然たる仕事を漫然と続ける。格差が拡大して、貧乏人が増えるばかりだから、購買力は落ちる一方で、モノもサービスも売れないから、余計に苦しくなるのです。
今回の新型コロナウイルス騒動はそれにさらに拍車をかけているのですが、大本がそれなのです。悲惨な原発事故が起きても、ああいう大地震はめったにないだろうから、しばらくは大丈夫だろう(大地震は必ず来ると地震学者たちが言っているにもかかわらず)というので、そのままの路線で行きましょうということになる。温暖化が進んで、この先大変なことになるでしょうが、そういうことに対しても、日本人の危機感は他国よりずっと乏しいようです。環境大臣の進次郎が国連の気候サミットで語った言葉、「気候変動のような大きな規模の問題に取り組むことは、楽しく、クールで、セクシーに違いない」なども、「具体性ゼロで、意味不明」と批判されましたが、何を言っていいかわからないから、受け狙いであんなつまらないことを言ったのでしょうが、日本の面積の半分が消えたオーストラリアの山火事にしても、アマゾン密林の危機にしても、極地の氷山の溶解にしても、アフリカの大旱魃(プラス僅かな農地へのバッタの大襲来)にしても、現実に起きていることと比していかにもノーテンキな軽い印象を与えたので、目の前のそういう現実に悩まされている人たちのところに行って、「いやあ、こういう問題に取り組むのは、楽しく、クールで、セクシーですね」と言えば、その場で張り倒されるでしょう。しかし、その深刻な影響はいずれ日本にもやって来る。挑戦は受けて立つというような「進取の気象」がかつてないほど乏しくなっているところに、です。
いくらか強引だと言われるかもしれませんが、福島原発事故のようなすさまじいことがあっても、しばらくたつとまるでそんなことは何もなかったかのようになってしまうこと、責任をとった人間は誰もおらず(あの大嘘こいた原子力ムラの東大教授なんかも、クビにもならず、そのままでしょう)、教訓が全く教訓にならず、ナアナアで済ませてすぐ元に戻ってしまう今の日本社会のありようが、日本人の道徳的退廃を助長し、困難に進んで立ち向かおうとする活力を奪っているのではないかということです。
思い起こせば、中止の可能性が高まっているあの東京オリンピックにしてからが、誘致運動のとき、「今、そんなことやっている場合か。震災地の復興にもっと力を入れろ」と反対する意見が多かったのです。安倍はIOCで、全然まだその気配がなかったのに「アンダー・コントロール」と澄まして言い、進次郎の新妻、滝川クリステルは「お・も・て・なし」とやったわけで、今思えば奇妙な因縁に思われます。にしても、この異様とも言える「空気のぬるさ」はどこから来ているのでしょうか? どなたか分析して下さい。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
昨夜、半月ぶりにテレビを見ました。次の番組です。
・NHKスペシャル 廃炉への道 膨らむコスト~誰がどう負担していくか
ご覧になっていない方は、11月12日(土) 午前0時10分から再放送とあるので、そちらを見ていただくといいと思いますが、大体そんなものだろうとは思っていたものの、あらためてそのひどさには溜息が出ました。ろくに報道もされないまま、安倍政権下で東電の「免責」と天文学的な数字の各種後始末費用(合計13兆なんて数字が出ていましたが、それは最低で、今後もっと増えるのです)の国民負担強化が着々と進んでいるわけで、それでもなお原発再稼働は進めるということなのだから、政策というものは安倍政権がよく使う「国民の安全」だの、経済的合理性だのとは無関係に、強大なシステムがいったんできたら、それを解体することはできず、自動運動のようにして、既成システムの存続論理に基づいて決定される、ということでしかないのだろうということがわかります。
そういうやり方はモラルハザードをひき起こすだの、合理性は全くないだのと言っても無駄です。不都合なことは全部棚上げして、「脱原発なんて言っても、日本中の原発を全部廃炉にしたら、どれほどの費用がかかるかわかってるんですか?」などと別のことを言いかねない(それでも、全部合わせても福島原発事故一つの後始末よりずっと安く上がるはずなのですが)。具合の悪い既成事実は、先に作ってしまった方が勝ちなのです。
前にも何度か書きましたが、原発の皮肉な「取柄」は、そのおかげでわが国が「戦争のできない国」になってしまったことです。核ミサイルではなく、ただのミサイル(それは相応の破壊力をもつものであることは必要ですが)を原発めがけて打ち込めば足りる。北朝鮮でも中国でもいいが、二発ほど命中させれば、それでジ・エンドになるので、日本は阿鼻叫喚の地獄の中、滅亡することになるのです(ミサイルなど使わずとも、工作員を送り込んで稼働中の原発を機能不全に追い込み、人為的に事故を誘発する方がかんたんだという説もありますが)。
いや、だから防衛力を強化して、早く自衛隊を軍に昇格させて、アメリカにも媚びを売って、おたくがやらかす戦争には協力して兵を出しますから(イラク戦争の際もわが国は真っ先に支持を表明して、戦闘員としてではないが、自衛隊を送りましたぞ!)、万が一攻撃された時はよろしくお願いします、ということにしておかないといけないのだと言うのですが、「ミサイル迎撃システム」なんてものも実際は絵に描いた餅でしかないようだから、全体にナンセンスに近い(大金をかければそれが百発百中になるというような迷信話を僕は信じません)。それ以前にまた大地震が起きて、せっかく再稼働した原発が「想定外の事態」でまたぞろメルトダウンし、他国からの攻撃を待たずして国家崩壊に至る危険もなきにしもあらず、ですが。
危機管理というものは、最悪の事態を想定して、そこから作り上げるものですが、原発に関しては、この「最悪事態の想定」というものが無間地獄の様相を呈するので、初めからこんなものは作るべきでないという結論にならざるを得ず、それはそのまま原発否定につながるというので、見積もりはつねに甘いものになるのです。福島第一原発の事故が証明したのはまさにそのことだったのですが、わが国の政府とエスタブリッシュメントはそこから何も学ばなかった。「未曽有の」「想定外の」天変地異はめったに起こるものではないから、そんなことは忘れることにしようというので、例の「国土強靭化計画」なるものでも、原発事故の想定は外されているのです。何でも、それは「計算不能」だからだという。ほとんどマンガみたいな話ですが、運頼みの希望的観測にすがるのはオカルトまがいの成功本の読者だけではなく、政府そのものがそうなのです。靖国神社だの伊勢神宮だのに行って、安倍総理は何を「お祈り」しているのでしょうか? 私の首相在任中は大地震が起きませんようにとか、北朝鮮のミサイルが“間違って”本土かその近くに着弾し(但し、原発の近隣は除く!)、憲法改正に弾みがつきますようにとか、その類でなければ幸いです。
憲法改正より先に、まず原発問題で国民投票を行うべきでしょう。既成事実に弱い日本人の習性(それが「オトナの現実主義」だと妙な自慢をする人もいる)からして、存続派も一定数いるでしょうが、7割方は原発廃止に投票するだろうと僕は見ています。それがわかっているからそんなことはしないのだというのが見え見えですが、役立たずのアベノミクスなどより、脱原発技術投資の方が長い目で見て経済活性化にもずっと貢献するでしょう。ナショナル・セキュリティ、国家安全保障の見地からも、その方が有効なのです。
・NHKスペシャル 廃炉への道 膨らむコスト~誰がどう負担していくか
ご覧になっていない方は、11月12日(土) 午前0時10分から再放送とあるので、そちらを見ていただくといいと思いますが、大体そんなものだろうとは思っていたものの、あらためてそのひどさには溜息が出ました。ろくに報道もされないまま、安倍政権下で東電の「免責」と天文学的な数字の各種後始末費用(合計13兆なんて数字が出ていましたが、それは最低で、今後もっと増えるのです)の国民負担強化が着々と進んでいるわけで、それでもなお原発再稼働は進めるということなのだから、政策というものは安倍政権がよく使う「国民の安全」だの、経済的合理性だのとは無関係に、強大なシステムがいったんできたら、それを解体することはできず、自動運動のようにして、既成システムの存続論理に基づいて決定される、ということでしかないのだろうということがわかります。
そういうやり方はモラルハザードをひき起こすだの、合理性は全くないだのと言っても無駄です。不都合なことは全部棚上げして、「脱原発なんて言っても、日本中の原発を全部廃炉にしたら、どれほどの費用がかかるかわかってるんですか?」などと別のことを言いかねない(それでも、全部合わせても福島原発事故一つの後始末よりずっと安く上がるはずなのですが)。具合の悪い既成事実は、先に作ってしまった方が勝ちなのです。
前にも何度か書きましたが、原発の皮肉な「取柄」は、そのおかげでわが国が「戦争のできない国」になってしまったことです。核ミサイルではなく、ただのミサイル(それは相応の破壊力をもつものであることは必要ですが)を原発めがけて打ち込めば足りる。北朝鮮でも中国でもいいが、二発ほど命中させれば、それでジ・エンドになるので、日本は阿鼻叫喚の地獄の中、滅亡することになるのです(ミサイルなど使わずとも、工作員を送り込んで稼働中の原発を機能不全に追い込み、人為的に事故を誘発する方がかんたんだという説もありますが)。
いや、だから防衛力を強化して、早く自衛隊を軍に昇格させて、アメリカにも媚びを売って、おたくがやらかす戦争には協力して兵を出しますから(イラク戦争の際もわが国は真っ先に支持を表明して、戦闘員としてではないが、自衛隊を送りましたぞ!)、万が一攻撃された時はよろしくお願いします、ということにしておかないといけないのだと言うのですが、「ミサイル迎撃システム」なんてものも実際は絵に描いた餅でしかないようだから、全体にナンセンスに近い(大金をかければそれが百発百中になるというような迷信話を僕は信じません)。それ以前にまた大地震が起きて、せっかく再稼働した原発が「想定外の事態」でまたぞろメルトダウンし、他国からの攻撃を待たずして国家崩壊に至る危険もなきにしもあらず、ですが。
危機管理というものは、最悪の事態を想定して、そこから作り上げるものですが、原発に関しては、この「最悪事態の想定」というものが無間地獄の様相を呈するので、初めからこんなものは作るべきでないという結論にならざるを得ず、それはそのまま原発否定につながるというので、見積もりはつねに甘いものになるのです。福島第一原発の事故が証明したのはまさにそのことだったのですが、わが国の政府とエスタブリッシュメントはそこから何も学ばなかった。「未曽有の」「想定外の」天変地異はめったに起こるものではないから、そんなことは忘れることにしようというので、例の「国土強靭化計画」なるものでも、原発事故の想定は外されているのです。何でも、それは「計算不能」だからだという。ほとんどマンガみたいな話ですが、運頼みの希望的観測にすがるのはオカルトまがいの成功本の読者だけではなく、政府そのものがそうなのです。靖国神社だの伊勢神宮だのに行って、安倍総理は何を「お祈り」しているのでしょうか? 私の首相在任中は大地震が起きませんようにとか、北朝鮮のミサイルが“間違って”本土かその近くに着弾し(但し、原発の近隣は除く!)、憲法改正に弾みがつきますようにとか、その類でなければ幸いです。
憲法改正より先に、まず原発問題で国民投票を行うべきでしょう。既成事実に弱い日本人の習性(それが「オトナの現実主義」だと妙な自慢をする人もいる)からして、存続派も一定数いるでしょうが、7割方は原発廃止に投票するだろうと僕は見ています。それがわかっているからそんなことはしないのだというのが見え見えですが、役立たずのアベノミクスなどより、脱原発技術投資の方が長い目で見て経済活性化にもずっと貢献するでしょう。ナショナル・セキュリティ、国家安全保障の見地からも、その方が有効なのです。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
だろうな…と、次の朝日新聞電子版の記事を見てあらためて思いました。
・九電、川内原発停止要請に応じず 三反園知事「遺憾」
ポイントは、「経営安定に原発が欠かせない九電は、知事に原発を停止させる法的な権限がないほか、応じれば全国の他の原発の稼働にも影響を与えかねない、などとも考慮し、停止要請を拒む方針を固めていた」というところでしょう。
「経営安定に原発が欠かせない」というのは、長年かけてそういうシステムを作ってしまったからで、たとえていえば、オモテとウラの顔をもつある企業家ファミリーがいて、オモテの顔はカタギだが、裏稼業は泥棒マフィアで、そのウラをやめると経営が成り立たなくなる、というようなものです。泥棒のたとえはよろしくないと言われるかもしれませんが、国策として続けられてきた原発には多額の税金が投入されています。原発の建設と維持(立地自治体への補助金バラマキも含めて)、さらには廃炉にかかる費用を全額電気代に転嫁して回収しているわけではない。そうなると原発が割高なのは明白になってしまうからで、そのあたりは各種の名目で税金が使われるので、その点では税金を「泥棒」しているのと同じです。
こういうのは何も電力業界にかぎらない。自動車産業などでも、その普及・販促に必要な道路整備は国と自治体の税金で賄われる。その費用をメーカーが負担しているわけではないから、車の値段はそれを含んだものではないのです。大企業が多額の政治献金するのはそういう見返りがあるからで、ゼネコンの場合などは公共事業目当てだからそのあたり露骨でわかりやすいが、中には関係が見えにくいものもある。
原発の場合はとくに、事故が起きると悲惨なことになるので、この前の福島原発の事故の場合、あれでもまだ運がよかった方で、「東日本壊滅」も十分ありえたと言われています。いくつもの幸運な「偶然」が重なってあの程度ですんだという話ですが、それでも「収束」とはほど遠く、損害賠償額も天文学的な規模に達するので、ふつうの対応をすれば、東電はとうの昔に潰れているはずです。それがそうならないのは、「ふつう」でないインチキが行われているからで、マスコミはその「インチキの詳細」を暴いて、「こういうふうになっているんですが、こういうことが許されていいのでしょうか?」という問いかけを国民に行うべきでしょう。2020年の東京オリンピック誘致運動の際、われらが安倍総理は「アンダー・コントロール」と力強くお叫びになり、見事誘致に成功したわけですが、「そんなことやってる場合か!」という声は当時根強くあったはずが、最近はそんな声もほとんど聞かれず、五輪関係の土木事業のせいで、資材の値上がりと人手不足が起き、被災地の復興が思うように進まないという批判も片隅に追いやられ、オリンピックの主催国になることは「子供や若者に夢を与える」みたいなアホダラ経ばかりが幅を利かせているのです。
話を戻して、長期間原発が全面停止し、にもかかわらず電力供給には支障がなかったことから、あんなものは「なくてすむ」ことが明らかになりました。いや、そのせいで火力発電に頼り過ぎたから、原油輸入が増えて電力会社は赤字に苦しむことになったのだ、と言われるかもしれません。しかし、その火力発電も、今は発電効率を飛躍的に向上させる技術が開発されているのだという話で、同じ税金を使うなら、新型火力発電所の建設など、そちらに使えばいいのではないかと思うのですが、そうすると原発維持派には都合が悪いものだから、それはしないのです。これに太陽熱、風力、地熱、潮力発電など、うまくミックスし、従来からある水力発電も活用すれば、何も問題はなくなるはずです。日本人の「世界に冠たる技術力」をそちらの方面に投入すれば、経済活性化にもつながる。税金も正しく使われれば、誰も文句は言わないのです。あの「夢のプルサーマル計画」なんて、途方もない額の税金を投入して、成果はゼロに等しいわけでしょう? 迷夢もいいとこです。
むろん、そうして脱原発に舵を切ったところで、すでにして大量に蓄積され、どこにも行き場のない「高レベル放射性廃棄物」の問題はそのまま残ります。が、原発再稼働はそれをさらに増やすわけで、増やし続けてそれをどう始末するのか、何も考えていないらしいのは驚くべきことです。
僕に何より不可解なのは、今は地震の活動期に入っていて、今後大地震が起こる確率は高まるばかりで、従って事故の発生確率も高まると見込まれますが、それがわかっていて原発再稼働は「経済的利益にかなう」なんて、どうして言えるのかということです。安倍は「わが国の国民の安全を守る」なんて馬鹿のひとつ覚えみたいに言ってますが、原発の存在はそれを直接脅かしているのです。福島原発事故はその警告でした。それを警告と受け取らず、再稼働を続けてまた悲惨な事故が起きれば、自業自得だと言われても仕方がないでしょう。そういう愚かな人間は、神ですら見捨てる他ないのです。
上の朝日の記事に、「九電は避難計画見直しへの支援や、情報発信の強化などには応じる姿勢だ」と書かれていますが、福島の原発事故の教訓の一つは、「避難計画」がどうのという以前に、事故が起きてメルトダウンにつながるような事態になってしまうと、もう終わりだ、ということです。それはむしろ枝葉の問題に属する。それによる直接の死者は少なくてすんでも、原発事故は長期的かつ深刻な、責任の取りようがない問題を惹き起こすからです。
原発事故の恐ろしさはそこにあって、「人的被害を最小限に食い止めればいい」というような話ではない。それがわからない、あるいは、わかってもそのことには頬かむりするという安易さ・鈍感さ、なあに、大地震だの津波だの、そんなものはめったやたらと起こるものではないさ、起きたらアウトだけど、それはまたそのとき言い繕えばいい、的な感性が、原発それ自体と同じくらい危険なものであることを、どうして認識しないのでしょう? 「原発マフィア」という言葉がありますが、ほんとに連中はマフィアです。国家権力とマスメディアは永遠にその使い走りを続けるつもりなのでしょうか?
・九電、川内原発停止要請に応じず 三反園知事「遺憾」
ポイントは、「経営安定に原発が欠かせない九電は、知事に原発を停止させる法的な権限がないほか、応じれば全国の他の原発の稼働にも影響を与えかねない、などとも考慮し、停止要請を拒む方針を固めていた」というところでしょう。
「経営安定に原発が欠かせない」というのは、長年かけてそういうシステムを作ってしまったからで、たとえていえば、オモテとウラの顔をもつある企業家ファミリーがいて、オモテの顔はカタギだが、裏稼業は泥棒マフィアで、そのウラをやめると経営が成り立たなくなる、というようなものです。泥棒のたとえはよろしくないと言われるかもしれませんが、国策として続けられてきた原発には多額の税金が投入されています。原発の建設と維持(立地自治体への補助金バラマキも含めて)、さらには廃炉にかかる費用を全額電気代に転嫁して回収しているわけではない。そうなると原発が割高なのは明白になってしまうからで、そのあたりは各種の名目で税金が使われるので、その点では税金を「泥棒」しているのと同じです。
こういうのは何も電力業界にかぎらない。自動車産業などでも、その普及・販促に必要な道路整備は国と自治体の税金で賄われる。その費用をメーカーが負担しているわけではないから、車の値段はそれを含んだものではないのです。大企業が多額の政治献金するのはそういう見返りがあるからで、ゼネコンの場合などは公共事業目当てだからそのあたり露骨でわかりやすいが、中には関係が見えにくいものもある。
原発の場合はとくに、事故が起きると悲惨なことになるので、この前の福島原発の事故の場合、あれでもまだ運がよかった方で、「東日本壊滅」も十分ありえたと言われています。いくつもの幸運な「偶然」が重なってあの程度ですんだという話ですが、それでも「収束」とはほど遠く、損害賠償額も天文学的な規模に達するので、ふつうの対応をすれば、東電はとうの昔に潰れているはずです。それがそうならないのは、「ふつう」でないインチキが行われているからで、マスコミはその「インチキの詳細」を暴いて、「こういうふうになっているんですが、こういうことが許されていいのでしょうか?」という問いかけを国民に行うべきでしょう。2020年の東京オリンピック誘致運動の際、われらが安倍総理は「アンダー・コントロール」と力強くお叫びになり、見事誘致に成功したわけですが、「そんなことやってる場合か!」という声は当時根強くあったはずが、最近はそんな声もほとんど聞かれず、五輪関係の土木事業のせいで、資材の値上がりと人手不足が起き、被災地の復興が思うように進まないという批判も片隅に追いやられ、オリンピックの主催国になることは「子供や若者に夢を与える」みたいなアホダラ経ばかりが幅を利かせているのです。
話を戻して、長期間原発が全面停止し、にもかかわらず電力供給には支障がなかったことから、あんなものは「なくてすむ」ことが明らかになりました。いや、そのせいで火力発電に頼り過ぎたから、原油輸入が増えて電力会社は赤字に苦しむことになったのだ、と言われるかもしれません。しかし、その火力発電も、今は発電効率を飛躍的に向上させる技術が開発されているのだという話で、同じ税金を使うなら、新型火力発電所の建設など、そちらに使えばいいのではないかと思うのですが、そうすると原発維持派には都合が悪いものだから、それはしないのです。これに太陽熱、風力、地熱、潮力発電など、うまくミックスし、従来からある水力発電も活用すれば、何も問題はなくなるはずです。日本人の「世界に冠たる技術力」をそちらの方面に投入すれば、経済活性化にもつながる。税金も正しく使われれば、誰も文句は言わないのです。あの「夢のプルサーマル計画」なんて、途方もない額の税金を投入して、成果はゼロに等しいわけでしょう? 迷夢もいいとこです。
むろん、そうして脱原発に舵を切ったところで、すでにして大量に蓄積され、どこにも行き場のない「高レベル放射性廃棄物」の問題はそのまま残ります。が、原発再稼働はそれをさらに増やすわけで、増やし続けてそれをどう始末するのか、何も考えていないらしいのは驚くべきことです。
僕に何より不可解なのは、今は地震の活動期に入っていて、今後大地震が起こる確率は高まるばかりで、従って事故の発生確率も高まると見込まれますが、それがわかっていて原発再稼働は「経済的利益にかなう」なんて、どうして言えるのかということです。安倍は「わが国の国民の安全を守る」なんて馬鹿のひとつ覚えみたいに言ってますが、原発の存在はそれを直接脅かしているのです。福島原発事故はその警告でした。それを警告と受け取らず、再稼働を続けてまた悲惨な事故が起きれば、自業自得だと言われても仕方がないでしょう。そういう愚かな人間は、神ですら見捨てる他ないのです。
上の朝日の記事に、「九電は避難計画見直しへの支援や、情報発信の強化などには応じる姿勢だ」と書かれていますが、福島の原発事故の教訓の一つは、「避難計画」がどうのという以前に、事故が起きてメルトダウンにつながるような事態になってしまうと、もう終わりだ、ということです。それはむしろ枝葉の問題に属する。それによる直接の死者は少なくてすんでも、原発事故は長期的かつ深刻な、責任の取りようがない問題を惹き起こすからです。
原発事故の恐ろしさはそこにあって、「人的被害を最小限に食い止めればいい」というような話ではない。それがわからない、あるいは、わかってもそのことには頬かむりするという安易さ・鈍感さ、なあに、大地震だの津波だの、そんなものはめったやたらと起こるものではないさ、起きたらアウトだけど、それはまたそのとき言い繕えばいい、的な感性が、原発それ自体と同じくらい危険なものであることを、どうして認識しないのでしょう? 「原発マフィア」という言葉がありますが、ほんとに連中はマフィアです。国家権力とマスメディアは永遠にその使い走りを続けるつもりなのでしょうか?
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
僕はこれをさっきYahooのニュースサイトを見て初めて知ったのですが、大騒ぎになってしかるべきが、そんな様子がないのはガセネタだからなのでしょうか?
記事を一読した印象では、どうもそんなふうには見えないのですが、僕同様、ご存じなかったという方はぜひご覧ください。こんなところで「情報統制」したり、マスコミが報道を「自粛」したりしているのだとすれば、愚民政策もきわまれりで、この国はもう終わっているでしょう(数値の急上昇が記録された後、「福島県は、すぐに40ヵ所ものモニターを“機器調整中”とし測定を止め」たというのも、ほんとだとすれば信じられない対応です)。「お気に入り」に登録している小出裕章さんに関するサイト(「小出裕章・非公式まとめ」)を見ても、これに関するコメントは何も見当たりませんでした。
記事は順に、4月27日、28日のものです。
・周辺地域で線量が1000倍に急上昇! “フクイチ”で何かが起きている!?
・“フクイチ”で新たな恐怖! 海外の研究者や政府関係者が不安視、苛立つ最悪の「地底臨界」危機進行中?
記事を一読した印象では、どうもそんなふうには見えないのですが、僕同様、ご存じなかったという方はぜひご覧ください。こんなところで「情報統制」したり、マスコミが報道を「自粛」したりしているのだとすれば、愚民政策もきわまれりで、この国はもう終わっているでしょう(数値の急上昇が記録された後、「福島県は、すぐに40ヵ所ものモニターを“機器調整中”とし測定を止め」たというのも、ほんとだとすれば信じられない対応です)。「お気に入り」に登録している小出裕章さんに関するサイト(「小出裕章・非公式まとめ」)を見ても、これに関するコメントは何も見当たりませんでした。
記事は順に、4月27日、28日のものです。
・周辺地域で線量が1000倍に急上昇! “フクイチ”で何かが起きている!?
・“フクイチ”で新たな恐怖! 海外の研究者や政府関係者が不安視、苛立つ最悪の「地底臨界」危機進行中?