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終末と終末感(1)

2019.11.10.13:50

 令和の新天皇パレードが行われるという日にこんなものを書くのは不謹慎だと叱られるかもしれませんが、Robert Jay Lifton の Losing Reality という予約注文をしていた本が先月やっと出て、内容が予想していたのとかなり違っており、食い足りない感じがして拍子抜けしたのですが、これはサブタイトルが On Cults, Cultism, and the Mindset of Political and Religious Zealotry となっていて、併せて訳すと『現実喪失:カルトとカルティズム、政治的及び宗教的熱狂の思考様式』ぐらいになります。

 著者(精神科医であり、全体主義の研究者でもある)は、彼を大統領にしたアメリカのトランプ現象なども、この病的なカルト的熱狂の不幸な産物だとみなしているのですが、当然ながらオウム真理教などはこうしたカルトの典型的なものとして扱われる。他はナチスに、彼がこの方面の研究をするきっかけとなった毛沢東(今では西洋のこの方面の研究者には英雄どころか、稀代のサイコパスとみなされている)を指導者とした中国共産党の「思想改造」という名の洗脳などが取り上げられている。

 しかし、僕がここで書くのはこの本の紹介ではなくて、この本の中に繰り返し出てくる apocalyptic, apocalypticism という言葉をめぐって考えたことです。前者は「黙示録的な、終末論的な」で、後者は「黙示録的世界に対する期待」であり、キリスト教の「(ヨハネ黙示録に基づく)至福一千年説」を指す場合もあると辞書には解説されています。つまりこれは、あのアポカリプス(apocalypse)、ユダヤ・キリスト教の黙示録から派生した言葉なのですが、オウムの麻原などは「ハルマゲドン(英語では Armageddon)が近い!」と言い、実際はサリンを撒いて自作自演のハルマゲドンを起こし、それで「腐敗した古い世界」を“ポア”し、自分が王として君臨する「麻原王国」を作ろうとしたのです。それは麻原とオウムの幹部たちにとっては「至福の千年王国」になるはずだった。それによって僕らは救済(salvation)されるはずだったのです。

 古代ユダヤの昔から、「世界の終わり」は繰り返し語られてきました。それは「目前に迫った」ものとみなされたので、中世ヨーロッパでも、占星術か何かで「世界の終わりの日」が特定され、キリスト教聖職者たちは「悔い改めなさい」と呼びかけて回ったのです。そのときは大洪水で世界が滅びるという話でしたが、具合の悪いことに、その日は稀に見る快晴で、大洪水の影も形もなかったとのこと。しかし、興味深いのはちょうどその頃、コペルニクスが自分の居城で『天体の回転について』というその後有名になる著作の執筆に没頭していたらしいことで、それまでの天動説がそれによってひっくり返り、中世は終わりを迎えることになったのだから、別の意味で「世界が終わる」というのは正しかったわけです。

 この場合、キリスト教の聖職者たちが「悔い改め」を呼びかけたのは、キリスト教では世界の終わりにイエス様が再臨し、よい羊と悪い羊を分けて、よい羊は救済されて、天国に行けることになっていたからです。今は戦略を変えたようですが、キリスト教のカルトの一つ、エホバの証人はかつて、この「世界の終わり」をさかんに喧伝していました。僕も十代の末頃、1970年代の前半ですが、その勧誘に遭ったことがあって、「ものみの塔」という冊子を手にもった二十代のお姉さんに、「まもなく世界が終わります。あなたも早く悔い改めて、よい羊になりなさい!」と切迫した口調で言われて驚いたことがあったからです。お姉さんの説明では、そのときイエス・キリストが再臨して、「よい羊は天国に一緒に連れて行ってもらえる」という話でした。無能な大学受験浪人の、一族のブラック・シープであり、当時すでに「悪い羊」の自覚が十分にあった僕は、「それで、悪い羊の方はどうなるんですか?」とついついよけいなことをきいてしまいました。お姉さんは春風のような明るい嬉しげな口調で、「それは当然見殺しにされます!」と答えました。

 僕に釈然としなかったのは、「悪い羊」が助かりたい一心で「よい羊」に変わったとして、それはたんなる偽装であり、その打算的な反応それ自体が「悪い羊」の証拠なのではあるまいか、ということでした。お姉さんは、しかし、そういうややこしい話は苦手だったらしく、今度「偉い人」を連れてくるから、その人にそういうことは聞くようにと言って去りました。それからしばらくたって、お姉さんは「偉い人」の三十代男性を連れてやってきましたが、僕が「素朴な疑問」に基づいて色々突っ込み過ぎたせいか、すっかり気分を害して、「改心不能の邪悪な羊」の判定を受けたらしく、それきりになってしまったのです。

 当時の日本にも「世界の終わり」が近いと信じている人たちがいたということですが、もっと一般的になったのは、あの『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになった頃でした。その本によれば、1999年の7月に、世界は破滅することになっていたのです。それがいかに“普及”しているかを知ったのは、1990年頃、中学生相手の集団塾の校長というのをしていた頃で、僕はそこで英語と国語の授業を担当していましたが、あるとき中三用の国語のテキストに未来社会の話が出てきて、「2000年には、君らはいくつになってるのかな?」と言ったところ、妙なざわめきが教室に起き、ある男子が「センセイ、オレたちはその頃はもうみんな死んでるよ!」と叫んだのです。理由はやはりそのノストラダムスで、僕の前任者の校長(僕と同世代の三十代半ば)がその話をして、核戦争で地獄と化した有様を生々しく、詳細に物語ったというのです。彼は衛生観念の化け物みたいな人間で、チョークの粉を防ぐためにつねにマスクをしており(もちろん手袋をしないとチョークはつかまない)、管理好きの細かい人間で、だから生徒たちは校長が変わったとき、その雰囲気の変わりように驚いたようでしたが、ある日の授業をほとんどその話に費やしたというのです。なぜか楽しげな様子だったという話で、「でも、センセイ、塾の先生がふつうそんな話する?」と他の生徒が言ったので、「しないだろうね」と笑ったのですが、あれには根拠がないことを説明し、だからまだ世界は破滅せず、君らは無事に2000年を迎えられるだろうと言ったのです。

 それから阪神大震災が起き、オウム真理教事件が起きたわけですが、その次は古代マヤ予言とやらで、今度の滅亡年は2012年でした。あれについては塾でも(こちらは高校生ですが)話題になったことがあって、あれはマヤのカレンダーがそこで終わっているというのが根拠だったようですが、次の暦の周期の計算に取りかかる前に、古代マヤ国家が内紛や戦争で滅んでしまっただけの話だろうというのが僕の意見で、だからこれも心配ないと言いました。

 こういうふうに、ごく短期間を取り上げても、「世界の終わり」説は繰り返し出てきているわけです。これは心理学的な問題で、社会の閉塞感とも密接に関連すると思いますが、ここしばらくはあまりそういう話を聞かない。それがむしろ僕には不思議で、僕の見るところ、本物の「世界の終わり」は確実に近づいているように思われるのです。リアルになりすぎたから、逆にそれを口にするのを避けるようになったのか?

(用事があって出かけるので、続きは後日)

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正義の普遍性

2019.07.08.14:19

 この問題について論じるとなると、本一冊分のスペースが必要となりますが、ここは日韓のゴタゴタとからめて論じたいと思います。偏りや、不十分なところがあるのはそのためだとご理解ください。

 正義や悪は相対的な概念であって、絶対的なものなど何も存在しないという価値相対主義者の議論があります。その見地からすれば、今の韓国と日本の「醜い争い」は、双方が好都合な「正義」を主張しているだけで、「どっちもどっち」だということになるわけです。

 この問題に関しては、価値相対主義的な議論はかなりの説得力をもつ。国家間の政治的な対立は大方この類だと言ってよいので、それというのもそれぞれが「国益」に基づいて自分に好都合な「正義」を主張するからです。アメリカ・ファーストを唱えるトランプなど、自国の利益になりさえすればそれが「正義」なのだということで、その「正義」に「普遍性」の“外見”をまとわせることができるかどうかを気にかけたオバマのような中途半端な偽善者と較べるとずっと明快です。

 今の韓国政府の対応が僕の癇に障る最大の理由は、実はそこにあって、たとえば中国政府の場合だと、そのプロパガンダに踊らされる一部の無邪気な国民と違って、政府要人たちは自分たちの主張が「普遍的な正義」にかなうものだとは思っていません。あの目も当てられない「チベット侵略」でもそうですが、あれはまずかったと内心思っているから、あれほどダライ・ラマを警戒するのです。国内の民主化運動家に対する弾圧にしても、それが「普遍的な正義」にかなったことだとは、彼らは思っていない。共産党一党独裁を揺るがすものは全部潰して排除するということで、それらは多分に「戦略」的なものです。

 だからといって彼らがやっていることが許されるとは僕は毛頭思いませんが、彼らは自分の「正義」が相対的なものであることは自覚した上でそれをやっているように見える。韓国の場合はそこが違うので、文在寅の場合、とくにそれが顕著ですが、自分の頭の中にある主観的な価値判断がそのまま「絶対的正義」なのです。それが現実と衝突して様々なトラブルを引き起こすと、その現実を否定してそ知らぬ顔を決め込むか、相手を一方的に非難するかのどちらかになってしまう。

 たとえば、日本とは無関係な彼の国内経済政策にしても、彼が公約に掲げていた「所得主導成長」政策なるものはものの見事に失敗しました。最低賃金を上げて購買力を強化すれば、経済が活性化するというのは経済学理論の一つですが、経営体力の乏しい中小零細企業や自営業者は人件費増大の圧迫に耐えられないから、潰れたり、雇う人間を減らしたりして、雇用が逆に縮小する結果を生んだのです。労働分配率の低下は世界的な現象で、それがよろしくないというのは尤もですが、韓国の場合、「労働貴族」と呼ばれる大手労組があって、賃上げ・待遇改善のストや闘争を繰り返し(それも彼らにとっては「正義」なので)、その賃金や福利厚生のレベルは国際的に見ても高すぎると言われていますが、それは皮肉にも彼が同じように公約に掲げた「優遇政策をやめる」はずの財閥企業の労働者が多く加入する(教職員や公務員も含まれる)労組です。それが韓国の極端な経済格差を生み出す原因の一つになっているとされるのですが、財閥企業頼みの経済構造になっているのをそうかんたんに変えることはできないし、だいいちそうすれば、大手労組員の賃金が下がることにもなる。それでは反発必至で、政権が倒れるから、そちらはほっといて、中小零細だけが割を食う最低時給のみ上げて、事態を一層悪化させる結果となったのです(批判をよそに「大成功」と自画自賛にこれ努めているのは笑えますが、内心まずいことになったと思っているので、公務員を増やすことにしたが、それは「雇用指標だけ改善される粉飾雇用」〔韓国・中央日報〕にすぎず、財政を悪化させるだけで、何の解決にもなっていないのです)。

 こういうのを見ると、韓国という国は李氏朝鮮時代の「両班政治」から何ら変わっていないという気がします。国家の危機と民衆の苦難をよそに、重臣たちは派閥争いに明け暮れ、御大層な大義名分を振りかざして自己集団の利益を追求する。そして「王」は気位だけは高いが、申し分なく無能で無責任なのです。朝鮮日報は文在寅を高宗にたとえるコラムを掲載していましたが、なぜかそれはもう消されているので、「高宗に問うべき三つの罪」と題された同じ朝鮮日報の別の記事を引用しておきます。

 現在徳寿宮には、1905年9月に朝鮮を訪れた米国の高官級使節団に贈った高宗の写真が展示されている。11月に開幕した国立現代美術館の「大韓帝国の美術」展のため、113年ぶりに韓国へ戻ってきた遺物だ。高宗は黄竜袍(ほう)を着て紫の翼善冠をかぶり、皇帝の服装をしている。大韓帝国の皇室写真家だった金圭鎮(キム・ギュジン)が撮影したこの写真は、米国大統領セオドア・ルーズベルトの末娘アリスと共にやって来た実業家エドワード・ハリマンが米国ニューアーク博物館に寄贈したものを、今回借り受けた。高宗は当時、日露戦争の講和を仲介した米国の支援を期待し、21歳のアリス一行を極めて厚くもてなした。盛大な昼食会を開き、皇室の輿(こし)に乗せて案内した。アリス一行が朝鮮を離れる際には、高級なシナノキの箱に収めた写真を贈った。皇帝が治める独立国・大韓帝国を記憶してほしいという趣旨だった。
 だがアリスは冷静だった。「皇帝らしい存在感はほとんどなく、哀れで、鈍感な様子だった」。アリスの評価は、大韓帝国に向けられた外部の見方を率直に示すものだ。高宗が「米国の姫」にすがったその時、ゲームはすでに終わっていた。俄館播遷(露館播遷〈はせん〉=高宗が1896-97年にロシア公使館へ居を移して執政したこと)後に高宗が展開した親ロ政策は、英国・米国など大西洋勢力の警戒心を呼び起こした。この枠組みに乗った日本は、1902年に日英同盟を結び、日露戦争勝利の布石を打った。アリス訪韓の2週間前、ルーズベルト大統領が仲介したポーツマス条約が締結された。日本の韓半島(朝鮮半島)支配を認める条約だった。ルーズベルト大統領は「日本が大韓帝国を取ることを望む」と手紙にしたためるほど、大韓帝国を信用していなかった。高宗は、そんなことも知らずにルーズベルトの娘のスカートをつかんですがり付くほど国際情勢に疎かった。
 高宗は、日清戦争時は米国公使館、日露戦争時はフランス公使館へ避難しようとした。1884年の甲申政変の時は清の軍隊に救出され、1895年の明成皇后(閔妃〈びんひ〉)暗殺事件の後は「俄館播遷」でロシア公使館へと逃亡した。日露戦争直前には、中国の青島かロシアのウラジオストクに亡命するといううわさも流れた。何かあれば外国公使館への避難・亡命説が出回る国家指導者を、どこの国がきちんと認めてくれるだろうか。
 高宗は、国を生かせるチャンスを幾度も逃した。高宗の在位44年間は、韓中日3カ国が生存のため必死に近代化競争を繰り広げていた時代だった。だが、国家改革を急ぐよりも君主の威信を高めることに予算を注ぎこみ、甲申政変や東学革命(甲午農民戦争、1894)といった山場を迎えるたびに外国軍を引き入れた。日露戦争時は中立国宣言で危機をやり過ごそうとした。だが日本軍が進駐して紙切れと化した。自らを守る能力がない大韓帝国の中立国宣言は、世界の笑いものにしかならなかった。
 高宗が国力を結集して憲法と議会、近代的司法システムを整備し、国の存立を賭けて近代文明国へと転換していたなら、あれほど無力に植民地へと転落はしなかっただろう。だが高宗は、国家改造のため互いに手を携えるべき友好勢力の独立協会・万民共同会を弾圧した。下からの改革要求が君主権を侵害すると判断したからだ。皆が力を合わせても手に余る時期に、高宗は徹底して「味方と敵」を分ける陣営政治の先頭に立った。
 高宗が各国へ密使を送り、日本による主権侵害を暴露する秘密外交を展開したのは事実だ。だが、それだけだった。弱肉強食の時代に、無力な国を助けてくれる善意の隣人はいなかった。このところドラマや映画、展示などで見られる、高宗に「改革」「抗日」の色付けをして再評価する熱気は、事実を誤解させる危険性が高い。よその国の公使館に逃げていった道を、近代国家を夢見た「高宗の道」と美化しても、亡国へと導いた罪は軽くならない。日本による35年間の支配を呼んだ第1次の責任は、高宗に問うほかない〔金基哲(キム・ギチョル)論説委員 2019/02/06〕。


 辛辣だが冷静なこういう文章を書ける人がいるというのが、今の韓国にとっての最大の「希望」でしょう。国内的には民衆弾圧を繰り返し(その際も苦しくなると後先のことは考えず安易に外国の軍隊に頼る)、「事大主義」という名の節操のない右顧左眄の中で国際情勢をいっそう不安定化させ(日清、日露戦争が朝鮮がらみなのは周知のとおり)、外部的な信用を完全に失って、日本の植民地になるのを余儀なくされた、というのが真相なのです。困ったことになるとわが身大事ですぐ他国の公使館に逃げ込む(文在寅も、長女一家が「東南アジアに移住」したことが発覚してあちらでは騒ぎになったようですが)ような無責任な王の支配が続いていれば朝鮮民族がハッピーになれたかどうか、それは大いに疑わしいのです。

 それが外国の軍隊を使ったものであれ、当時の相次ぐ民衆弾圧の主体となっていたのは朝鮮の国家権力それ自身なのです。それがその後の日本支配下での「弾圧」よりマシなものであったとは言えないのは、資料を調べてみればすぐわかることでしょう。中国に侵略されて崩壊した「平和な仏教国」チベットとは事情が大きく異なる。ありていに言えば、当時の朝鮮国家は「最低のエスタブリッシュメント」によって運営されており、重税と賄賂が横行する中、庶民は困窮の極致にあったのです。

 ところが、上の朝鮮日報の記事にもあるように、「高宗に『改革』『抗日』の色付けをして再評価」し、「よその国の公使館に逃げていった道を、近代国家を夢見た『高宗の道』と美化」するようなことが平然と行われ、その分、日本は“悪の権化”の色彩をいっそう強くすることになっているのです。それが韓国の反日愛国市民団体の「正義」であり、文在寅の「正義」でもあるわけで、徴用工の場合でも、慰安婦の問題でも、日本の「極悪さ」が際立つようなストーリー作成が行われる。その後も日本は「無反省」(そうでないと困る)なので、過去の賠償や経済協力、謝罪の事実は可能な限り低く見積もられて、この「歴史ファンタジー」をこわすような異論は受け付けられなくなっているのです。

 それは「歴史認識の変化」という言葉で説明がつくようなものではない。「素晴らしい日本民族」のイメージに合わない歴史記述はすべて「自虐史観」だとするネトウヨ史観の上を行く「歴史修正主義」で、彼らは安倍政権の「歴史修正主義」を非難しますが、自分たちのそれがおよそ当を失したものであるという自覚はないのです。日本による朝鮮統治が申し分なく素晴らしい、思いやりに満ちたものであったとか、南京大虐殺は完全な作り話だとかいう珍説は、幸いに今の日本では優勢な「歴史認識」にはなっていませんが、韓国の場合はそうではなくなっているのです。若者は日本に好印象をもつ者が増えつつあると言っても、それは彼らが歴史的なことにはたんに無知・無関心だからで、アテにできる性質のものではない。

 日韓請求権協定でも、慰安婦合意でも、それは両国政府の「妥協の産物」です。それはわかりきった話なので、それぞれが国内的な反対世論を押えて歩み寄り、妥結にこぎつけたもので、だからこそそれには価値があるのです。しかし、文在寅的「正義」からすれば、だから悪いのです。「それでは世論が納得しない」と彼は言いますが、相手国にも世論があって、日本の政治家は当然ながらそれに配慮せざるを得ない。しかし、自分の「正義」からすれば、日本国内の世論は「間違い」なので、そんなものを顧慮する必要はないと彼は思っているのです。そして日本政府がこちらの主張の言いなりにならないと「正義は行われたことにならない」と考える。

「反日」で有名な政府寄りのハンギョレ新聞は、「日本の報復が『韓国政府の責任』というとんでもない主張」と題した社説(7.5)でこう述べています。

 強制徴用被害の賠償は、韓国政府の決定ではなく、韓国最高裁(大法院)の判決だ。経済と無関係な最高裁の判決を理由に経済報復を行うのは常識に反するもので、これが今回の事態の核心だ。日本メディアも、安倍政権が今月21日の参議院選挙で保守層を結集し、改憲を発議できる3分の2以上の議席を確保するため、“韓国バッシング”をしていると批判している。

 そんなことを書いている間抜けな「日本メディア」がどこに存在するのか知りませんが(大体、僕は安倍政権支持ではないので、それとこれとは話が別だと思っている)、「強制徴用被害の賠償は、韓国政府の決定ではなく、韓国最高裁(大法院)の判決だ」とのたまうが、それによって実質的に日韓請求権協定は反古にされ、韓国政府はそれを黙認したので、その関係を無視することが「常識に反する」ことだという反省は全くないのです(慰安婦合意の破棄の方は明確な「政府の決定」)。

 1980年代という比較的遅い時期に始まった韓国の「民主化運動」が文政権という“成果”を生み出し、だから前の政権でやったことは受け入れられなくなったから、不都合な協定や合意の類は一方的に破棄することにしたが、これは「正義」なので、文句を言うなと日本に向かって言うことは、昔の仕返しのつもりなのかもしれませんが、日本を植民地扱いしているのと同じになります。しかも、それは上に見たような客観性もヘチマもないご都合主義的な「修正歴史観」に基づくのです。

「経済報復」はすべきでない(朝日)とか、その規制は結局日本経済のためにもならない(毎日)とか言うメディアは存在します。経済的にはそれはむろんマイナスでしょう。しかし、国家間の信頼が深刻に損なわれたから、「友好国」扱いは見直すという意思表示で、それには意味があると僕は思っています。日本の場合、中国と違ってやり返してこないから、いくら勝手なことを言っても許されるという心理にノーを突きつけることになる。ここまで相手の対応がひどくなれば、それは致し方のないことでしょう。

 そろそろ話を正義の相対性に戻しましょう。僕は「正義はどれも相対的なもので、だから主張される正義はどれも等価値である」という議論には賛成しません。自分の立場しか考えない独りよがりの「正義」と、より公正で客観的・総合的な視点から考えられた「正義」には大きな違いがあって、後者の「正義」がもてるよう、人は努めるべきだと思うからです。

 その「総合的な視点」にもレベルがある。個人レベルから、地域レベル、民族レベル、国家レベル、人類レベル、さらには地球レベル、宇宙レベルといったふうにそれは拡大するのです。その拡大に応じて、下位の視点は相対化される。

 たとえば、英語にanthropocentrismという長い綴りの言葉があります。通例、「人間中心主義」と訳されますが、「自然環境は人間が利用するための存在である、もしくは人間が最も進化した存在であるという」(ウィキペディア)信念です。元々これはどこからやってきたのか? ウィキペディアの記事では、「ユダヤ・キリスト教の創造観」として、

 ユダヤ教、キリスト教の創造観は、旧約聖書の創世記に述べられている。その中で神は人間に対して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命じている。この「従わせよ」や「支配せよ」は緩やか過ぎる訳語であり、ヘブライ語の原語「kabash」は「鞭打って血を流してでも従わせる」といえるような強い言葉である。このように、「人間は自然を支配することを神から許されている」と信じてきたユダヤ・キリスト教が文明を築く中で、自然破壊が進んできた

 とあって、「神に似せてつくられた」人間は最高であって、自然の他のものは人間の利用に供されるためにのみ存在するという、人類的ジコチューの考え方なのです。それで目下人類は地球史上六回目の「生物大量絶滅」をひき起こし、気候変動、地球温暖化も進んで、自分の生存基盤を掘り崩すだけでなく、ジコチューが個人レベルでも深化して、ごく一部の人間による人類の奴隷化とも呼ぶべき現象が進行しているのですが、地球的、宇宙的レベルから言えば、こうした「人類ファースト」のありようは正しくないと批判されるわけです。

 元は「八百万の神」信仰の日本人も、今は完全にこの考えに毒されていますが、うちの息子は幼児の頃、彼はなぞなぞが好きでしたが、「地球で一番大きな生きものは何か?」と問いかけました。「今はもう恐竜はいないし、鯨だろうね」と答えると、違うという。じゃあ、何なのかときくと、向こうを指さして、「あの山」だと言いました。何で山なのかときくと、「たくさんの生きものを住まわせているから」と彼は満足げに答えました。海は流体でかたちをもたないから、彼は山と答えたのでしょうが、子供の感性からすると、自然はそれ自体が生きて脈動している存在なのです。「なるほどねえ」と笑ったのですが、そういう感性を現代人は失ってしまった。

 そういう見地からすれば、今の勝手放題の人類は「悪」でしょう。あるいは、自分を産んで育ててもらった母親を虐待して恥じるところのない馬鹿息子みたいなものです。生きるためには食わなければならないから、殺生はやむを得ないとはいえ、慎みも感謝の念もまるでないのです。このまま人類が滅びれば、それは「自業自得」と言うほかはない。

 核兵器は「抑止力」として必要だというような議論も、こうした視点からすれば愚の骨頂ということになるでしょう。ITがどうの、AIがどうのと言っているが、人類はいずれ生物としての自分を維持するための生産基盤を駄目にして、困窮する中、戦争になり、核爆弾を打ち合って絶滅するという可能性が大です。

 もう少し次元を下げて、人類的なレベルから「正義」を見ると、ブッシュ・ジュニアが9.11の後、アフガンを攻撃し、次に「まさかのイラク攻撃」に踏み切ったとき、彼はそれらの国を「ならず者国家」と呼んだのですが、「おまえが一番のならず者だろうが…」と僕は呟かずにはいられませんでした。9.11の「主犯」が、元はと言えばアメリカのCIAが「養成」したテロリスト、オサマ・ビンラディンだったというのはブラック・ジョークみたいなものですが、自分の言うことを聞かない他国のまともな政権をテロ支援で潰して軍事政権に変えるなどは第二次大戦後のあの国の得意技で、アメリカにはそれは「正義」だが、自分に向かってきたときだけ「悪」になるのです。アメリカの言う「テロとの戦い」ほどご都合主義的なものもない。オバマもドローンで「テロとの戦い」のためにたくさんの無関係な民間人を殺して名を馳せました(これは軍が勝手にやったことではないので、彼はリストを見ながら殺害対象を指示していた)が、それは「誤爆」や「不運な巻き添え」で、「意図的なものではなかった」から許されるというのがアメリカ政府の「論理」なのです。それもまた悪質なテロなのだという公正な視点は欠落している(にしても、ノーベル平和賞をもらったあの馬鹿は、一体いかなる「平和貢献」をしたのでしょう? 外見的にブッシュよりはマシに見えたからだとしか思えない)。

 こういうのと較べると、文在寅のやっていることなど、彼の没理性的でセンチメンタルな親北政策で、北朝鮮がさらに危険な存在になりかねないということを別にすれば、何でもないということになるかも知れません。従軍慰安婦も、徴用工も、それは日本による植民地化に付随して発生した事案で、こちらに“落ち度”があったのはたしかなのだから、少々の嘘や誇張は我慢すべきだということにもなるだろうからです(こう書くと、被害者の心のことは何も考えていないと批判されるかもしれませんが、文や「挺身協」改め「正義連」の「寄り添う姿勢」など、政治パフォーマンスにすぎないと僕は見ています。彼らが否定する『帝国の慰安婦』の著者にはそれがあると感じましたが)。

 そう考えれば、日本人もいくらか「寛大」になれるかも知れない。韓国と同じ論法で、日本人の方が「おたくの支配層が度外れに無責任・無節操だったから、国際情勢が不安定化して、こちらは二度も戦争に巻き込まれて、しなくてもいい植民地経営にまで乗り出すことになったのだ。それをどうしてくれる」とイチャモンをつけることもできそうですが、そんなことを言ったら戦争必至の事態にまで発展するでしょう。同じレベルに落ちてはいけない。しかし、先の朝鮮日報の記事は「高宗が国力を結集して憲法と議会、近代的司法システムを整備し、国の存立を賭けて近代文明国へと転換していたなら、あれほど無力に植民地へと転落はしなかっただろう」「日本による35年間の支配を呼んだ第1次の責任は、高宗に問うほかない」と、当時の朝鮮国家の為政者の無能・無責任をはっきり認めているのです。何もかも日本のせいにする(彼らが中国やロシアを非難しないのは不思議です)のとは違う醒めた視点がそこにはある。「当時の朝鮮民族は、ごく一部の売国奴は除き、一丸となって日帝と戦った」みたいな根拠不明のファンタジーを土台とされたのでは話し合いの余地はないが、こういう冷静な歴史認識がもてる相手となら、実りのある協議ができ、「またいつ話をひっくり返されるかわからない」という疑心暗鬼にもならなくてすむ。

 国の利害や国民感情の違いはあっても、冷静な歴史認識を土台として、どちらも「正義」と認めるような安定した和解に達することはできる。イデオロギーと感情先行の、「超」がつくほど独善的・主観的な今の韓国・文政権には、そうした態度が根本的に欠けているので、なおさらそれが困難になっているということに、韓国の人たちはどうして気づかないのでしょう? 日本製品の不買運動も起きて、「反日」機運は一段と盛り上がり、文政権の支持率も持ち直しているそうですが、「いたずらに他罰的で、自己幻想に酔って外部が見えない(見たくもない)」そういう一種独特な民族性が朝鮮半島国家の不安定性の背後にはあって、不幸な歴史の素因になってきたということを、彼らはどうして認識しないのでしょう。人には最大限の「思いやり」を要求するが、相手に振り向けるそれは全くないという人間ほど、幼稚で始末に負えないものはありませんが、今回の韓国の一連の対応はそれを示すものです。メンツから今さら譲歩もできないし、文在寅はアメリカが仲裁に乗り出すのを待っているという観測もありますが、何一つまともな対応はせず、それで事態が収拾不能になると外国公使館に逃げ込んだという高宗のDNAを文在寅は受け継いでいるように見える(苦し紛れ、中国に「反日連帯」を呼びかけるという手もありますが、実利的な中国は何の得にもならないので相手にしないでしょう)。北朝鮮に「侵略」される可能性を除けば、今は他国に侵略される恐れは幸いないが、別の「亡国」の危険がそこにはあるかもしれない。呑気に「反日」で盛り上がっている場合ではないかも知れないのです(日本としては、今後も文政権の「非常識」な反応は続くだろうから、それは織り込み済みで冷静な対応を続けることです)。

何が問題なのか?~日本社会に忍び寄る「人間崩壊」の足音

2019.06.02.20:03

 昨年の内閣府の調査では、中高年(40~64歳)の引きこもり(定職・収入がなく、夜間コンビニに行くなどの他はほとんど外出しない状態の人たち)が全国で推計61万3000人存在し、15~39歳の引きこもり数(約54万人)を上回っていることが判明して、社会にショックを与えました。

 もうだいぶ前の話ですが、精神科医の斉藤環氏が、「自分の体感としては、引きこもりは百万人はいる」と言っていたので、それが正しかったことがあらためて裏付けられたわけです。若い世代の引きこもりだけ調べていたから実態がわからなかっただけの話。

 むろん、これは深刻な問題です。彼らの多くは生活を親に頼っているので、中高年の引きこもりの場合には、親が資産家で遺産をたくさん残せば大丈夫としても、そうでなければ親が死に、年金収入がなくなってしまえば、たちまち生活に行き詰まる。生活保護しか手はないが、国家財政が逼迫する中、それは容易ではないし、そもそも「本来病気でもないものを何で税金で助けなければならないのか?」という市民レベルの反発が強くなる。

 そういうような「経済レベル」の問題として語られることが多いようですが、もっと深刻なのは、何でそんなに引きこもりが増えてしまったのかということと、それが日本人の精神情況のいかなる反映であるかという、そのあたりのことでしょう。

 先日の川崎市多摩区の登戸駅周辺で子供たちを襲った無差別殺傷事件の犯人、岩崎隆一(51歳)も、この「中高年引きこもり」に含まれますが、僕は次の記事を読んでかなりのショックを受けました。

岩崎容疑者、社会から孤立した姿浮かぶ 携帯も持たず

「携帯も持たず」というのは僕も同じで、「今どきそんな人いますか?」などとよく皮肉を言われますが、僕は24時間追い回されているようで、ああいうのが嫌いなので、固定電話とパソコンのメールだけで足りさせているのですが、この記事の中で驚いたのは、

 捜査関係者によると、事件後、県警が夫婦に岩崎容疑者の身元を確認しようとした際、接点が薄いため、岩崎容疑者の顔だけでは判断ができなかった。県警は最終的に、自宅などに残された指紋で本人確認をしたという

 というところです。一つ屋根の下で暮らしていながら、「顔だけでは判断できなかった」というのはかなりすさまじい。何十年も一緒に暮らしていて、顔もロクに知らなかったということになるからです。

 彼の場合は、小さいころ両親が離婚し、どちらにも引き取られることなく、父方の伯父の家に預けられて、そこで育てられ、学校にも行き、引きこもってからはずっとその家にいて、食事を与えられ、こづかいももらっていたという話で、父方の伯父の家に預けたということなら、実父との関係はどうなっていたのかと思いますが、母親も含め、そちらの情報は皆無です。事実上はその伯父夫婦が親代わりだったのでしょうが、生活を全面的に依存していても、顔もわからないというほど、人間関係は希薄になっていたわけです。

 離婚や経済事情の関係で、子供がどちらの親でもなく、父方の祖父母に育てられたというケースを、僕は個人的に二例知っています。祖父母が親代わりで、どちらも愛情を傾けて子育てならぬ“孫育て”をして、学校も出し、立派に育った。実の父親と祖父母(父親からは親)との関係も悪くなくて、当然その子供たちは実の父親(離婚していない場合は両親)とも十分な接触をもっていたのです。その祖父母はどちらも僕の親の世代ですが、第二の子育てに奮闘し、わが子を預けた子(その子たちにとっては父親)を「おまえの子だからお前が育てるのが当然」と言って拒絶するようなことはせず、必死に働いて育てて、その子たちも当然深い感謝の思いを抱くので、一人前になって結婚してからも足しげく祖父母の元を訪ね、それにまた子供ができると、今度はそのひ孫の成長を楽しみにするようになったのです。

 この祖父母たちはいずれも義務教育の学歴しかない人たちで、だからおかしな理屈はこねず、「こうなったからには仕方がない」とわが子を責めるのでもなく引き取って、徒手空拳、懸命に働いて、第二の子育てに奮闘したのです。僕の親の世代だと、そういう「強力な庶民」はいくらもいる。他人の子でも、おなかをすかせているような子を見ると、連れて帰って食事をさせずにはいられないような人たちです。素朴で、愛情のかたまりみたいなところがある。僕が自分の親の世代には偉い人が多いなと思うのは、そういうわけです。

 岩崎隆一の生い立ちには、しかし、孤立と孤独の影が早くからつきまとっている。両親との縁は完全に切れていたのでしょう。引きこもりになったとき、実の父親と伯父夫婦が相談したというようなことも当然なさそうです。情報がないのでわかりませんが、親がどういうかたちであれコミットしたことがあるという情報は絶無です。

 子供の頃、彼が情緒不安定だったというのはそういう環境からして当然です。学校の成績も芳しくなかったようで、どこにも自己肯定感の拠り所を見つけられないまま成長した。一時は仕事にも就いていたようですが、辞めてからは自らコミュニケーションの回路を断ち切るようになり、伯父夫婦と顔すら合わせなくなっていたから、上の記事のようなことになったのでしょう。同じ屋根の下に住み、おこづかいはもらっていても、心理的には「赤の他人」だったのです。心がつながった相手はこの世に一人もおらず、自分が何かの役に立っていると思えることも一つもなかった。思えば、これは恐ろしいことです。

 ただ、引きこもりそのものが親や、親代わりの人の「愛情不足」によるとは必ずしも言えないので、僕の知り合いには、両親がこの上なく善良で、愛情に富む人たちなのに、子供が大学を中退してから二十年以上引きこもっているケースもあります。それは怠惰とか利己的だというのとは違うので、最初の頃、誰か仕事を紹介してくれる人がいても、それで失敗して辞めたりすると紹介してくれた人に迷惑をかけてしまうとか、そういうことをむしろ気にしすぎたのです。もっとテキトーで無責任なら、そうはならない。

 最初の頃、僕などは人に迷惑のかけ通しで、勝手なことをやりすぎると親に怒鳴られたり、非難されることは無数にあってもほめられたためしは一度もないので、もっと気楽になるよう本人に言ったらどうですかと親に言ったことがあるのですが、生真面目すぎるとなかなかそうは行かず、長引くと周りも遠慮してその話題を避けるようになり、家庭自体がその面では社会から孤立するようになるのです。「心配でしょう」とも言えない。親が年老いていく中、心配なのは当然で、それは周りの忖度を超えたレベルのものだろうと思われるからです。子供は子供で、親に申し訳ない、どんなに情けなく思っているだろうと自責感を強める一方だろうから、なおさら社会復帰は困難になる。

 そんな中、親が思い余って子供を殺してしまう事件も起こる。

元農水次官、自宅で長男刺す 東京・練馬、容疑で逮捕 搬送先で死亡

 これなどはその典型例の一つでしょう。「近所の男性は妻と出掛ける姿をよく見掛けたといい、『10年ほど前に引っ越してきたと思うが、息子の姿は見たことがない』と驚いていた」というのは、その長男が世間とは隔絶した暮らしをしていて、父親は元高位高官であっただけになおさら、世間体の悪いそのことを気にしていたことが窺えます。

 にしても、どうしてこうまで引きこもりは増えてしまったのか? 冒頭の統計で見ても、それは115万人を超えているのです。引きこもりになった原因や経緯は人それぞれでしょうが、いくらなんでも多すぎる。僕はこれは社会全体の人間関係の稀薄化と、心の通じ合いが減っていることが遠因しているのではないかと思っています。別に引きこもってはいなくても、個人は心理的な孤立を深めていて、人のつきあいは表面的になる一方です。人間の社会というのは本来持ちつ持たれつの、迷惑の掛け合いの世界のはずですが、誰もが自己防衛に多忙で、それは裏側から見ると他人の粗探しに鵜の目鷹の目になっているということで、こういうありよう自体が人の心を凍りつかせ、積極的な心のつながりを回避させる方向に働くのです。それでは人が元気になるはずはない。

 僕は子供の頃、「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉を母親から教わりました。個人的な利害がなくても、不正なことで人が苦しんでいるのを見れば、その人のために戦ってこれを助けるのが人間というものだ、というふうに僕は解釈しました。彼女は子供の時から、娘らしくなく、友達がいじめられると悪ガキどものところにかたき討ちに行って、「この子に謝れ!」と迫り、目が青光りして不気味だったので、悪童どもも恐れをなして「もうしません」と約束させられたという話でしたが、母は元悪ガキの父ともども、立場の弱い人たちにはほんとに親切でした(むろん、それは「上から目線」のものではなかった)。その割にわが子に優しくないのは閉口でしたが、「人には親切にするものだ」ということを、昔の子供は大方親から教わったはずです。ところが今は、こういうのはたんなる「物好き」としか解釈されなくなって、「傍観」がスタンダードになったのです。僕は何かで人から相談を受けたとき、「そんな馬鹿な話があるか!」と本人以上に腹を立ててしまうことがよくあるのですが、他の人に言ったら「それほどのことかな?」と妙に“客観的”でクールな反応しか返ってこなかったという話で、たしかに、「善良な市民」でありながら、生きた感情があるのかなという感じの人が今は多い。自分が当事者になったときだけ大騒ぎするのはご愛嬌ですが、そういう人間に囲まれて生活していると、時々どうしようもない脱力感に見舞われることがあるのです。一口に言えば、今はハートのない人間がいくらか多すぎるのです。他者の境遇や運命にこれほど無関心になった時代もない。

 これは社会の「空気」で、人間はその「空気」から、食べ物からからだの栄養を取るのと同じように心の栄養をもらっていたのです。そちらの養分が乏しくなっているから、引きこもりもこんなに増えたのではないか? そんな気がするのです。

 昔、高校を卒業して上京した時、僕は新聞配達をしながら浪人していたという話は前にも書きましたが、着いて二、三日後に、こういうこことがありました。店であてがわれたアパートにいたところ、一つ年上の、宇都宮出身の、専門学校生の先輩がコカ・コーラのホームサイズとコップを二つ持ち、ギターを抱えてやってきて、コーラをコップに注ぐとそれを差し出して「飲め!」と言い、続けて吉田拓郎のフォークを歌い出したのです。二、三曲歌って、僕はそれを黙って聞いていましたが、突然やってきて、何でこの人は歌なんか歌っているのだろうと不思議でした(タオルで鉢巻をしているのも不思議だった)。そしたら、「おまえも知らない東京にいきなり出てきて、一人では淋しいだろうと思って」わざわざ来てくれたのだということがわかったのです。僕は高校の時から親元を離れていたので平気だったのですが、その優しい心根は十分伝わって、親切な人だなと思ったもので、その後もこの人と同じ専門学校生の人二人にはとくにお世話になったので、この人の将来の夢は「土建屋の親方」になることでしたが、めっぽう喧嘩も強い男気のある人だったので、面倒見のいい「親方」になったことでしょう。

 これを読んでいる皆さんも、自分の人生を振り返ったとき、「あそこであの人の親切に助けられたな」ということがいくつもあるでしょう。それは大きなことでなくても、そのときの思いやりや優しさがどれほど大きな助けになっていたか、後になるとわかるのです。もしもそういうことが何もなくて、いきなり顔に冷たい水を浴びせられるようなことばかりだと、人は生きられないのです。外部的な条件より、そちらの方が大きい。

 これと反対のこういうこともありました。今から三十年ほど前、関東のある塾の個別部門の教室の管理者をやっていたときのことですが、事務の子が学生講師の一人と連絡が取れなくなった、いくら電話しても出ないというのです。その教室の登録講師は四十人ほどいたから、代わりを見つけるのは別に難しくないが、本人がどうなったのか心配です。最初の採用面接のとき、喘息の持病があると言っていたので、ひょっとしたらと気になったので、同じ大学の仲間が二、三人いたので、あいつは大学に来ているのかと聞きました。ここしばらく全然見ていないという話です。ふだん仲良くつるんでいる割にえらく冷淡だなと少し驚きましたが、あいつのアパートがわかるかときくと、それはわかるというので、周辺地図を書かせました。その翌日、本部で幹部会議があるので、その帰りに寄ってみようと思ったのです。

 幹部連中は大体僕と同じ三十代が多かったので、その話をすると、三人ほどそれは大変だ、一緒に付き合うというので、その一人の車に乗ってアパートを探し当て、それぞれが外から窓を見たり、アパート名の下に出ている不動産屋の電話番号を控えたり、色々する中、僕はもう一人と一緒に二階に上って、部屋のドアをノックしました。いくらノックしても反応がない。外から窓を見ていた仲間が、豆電球はついているからいるのではないかと言いました。もう一人は郵便受けから必死に中を覗き込んでいる。仕方がない、こうなったら不動産屋に電話をして鍵を開けてもらうしかないという話になったとき、中で何かが動く気配がありました。「いるのか?」と呼ばわると、ゴソゴソ音がして、やっと彼が出てきました。一体何があったのか、喘息で倒れていたのでなかったとすれば、僕の世代の感覚では、大失恋をして部屋に引きこもってしまったか、ギャンブルにでも狂ってサラ金から大きな借金を作ってしまって取り立てから逃げているか、そんなところです。

 本人の話ではそのいずれでもない。出席日数が足りず、単位を落として留年するおそれが出てきて、それで引きこもってしまったというのです。拍子抜けした僕は、おまえはアホかと言いました。たかがその程度のことで引きこもる馬鹿がいるか。でも、と彼は言いました。バレたら親に怒られます。あたりまえだろうがそんなことは。そういうときは黙って怒鳴られ放題怒鳴られて、嵐が過ぎ去るのを待つしかないので、優しくいたわってくれる親がいたとすれば、そちらの方が病気です(また怒鳴った末に許してくれるのも親なのです)。とにかくつまらないことで引きこもるなと言い置いて帰り、翌日、塾に来ていた彼の仲間に一度あいつのところに行って、引っ張り出して酒でも飲みに行けと言ってお金を渡したのですが、こういうのでもほうっておけば、本物の引きこもりになりかねないのです。

 こういう「今どきの学生」(彼らももう五十前後になっているはずです)の仲間付き合いの淡泊さに僕は違和感を覚えたので、ついでに恥をさらすと、僕は学生の頃、女友達の一人に「月のものが来ない」と言われて、二ヶ月もそれがないというので、これはもう中退して結婚するしかないなと思ったことがあります。あるとき仲間二人にそれを話すと、数日後、その一人から下宿に電話が来て、中退しなくていいぞ、中絶費用は用意したと言われて、驚いたことがあります。彼らは中絶にかかる費用を調べ、「おまえ、いくらまで出せる?」と、仲間内で連絡を取り合って、必要な金額を集めたのです。僕には中絶などさせる気は毛頭なかったので、別に大学にも未練はないし、それでいいと思って話したのですが、彼らの気持ちは胸に応えた。ちょうどその翌日、今度は彼女から「来た!」という連絡が入って事なきを得たのですが、昔の学生の仲間付き合いというのはそういうものだったのです。

 人間関係からそういう要素がなくなったら、どうなるか。ちょっと足を踏み外せば、そのまま崖下まで真っ逆さま、ということになりかねないでしょう。だから人間のハートというのは、何よりの「安全装置」なのです。そういうのは周りに負担がかかるから、全部公的なセーフティ・ネットでカバーしろというのでは「人生意気に感ず」というところもなくなってしまうでしょう。そこには物質的な支援だけではない、「心の栄養」というものがあって、それが弱っている人には何よりの力づけになるのです。

 こういうのは「正当な理由」もクソもないので、ちょっと話はズレますが、前に僕は高校生の母親から、自分の息子の不行跡について長い話を聞かされているうちにだんだん不愉快になってしまったことがあります。その話には、自分がそのときどう対処したかという親側の話が入っていて、それは社会的地位の高い親らしい非の打ちどころのないものでしたが、「にもかかわらずあの子はまた」というわけです。僕は一通り話を聞いた後、「言いにくいのですが」と前置きして、「お母さんが、お父さんも正しいのはよくわかりましたが、子育てというのは、親が正しいことをいくら証明しても意味はないので、大事なのは子供がよくなることで、そうなれば、他のことはどうでもいいんじゃありませんか?」と言ってしまいました。親の失敗も、子供の失敗や逸脱も、共に許されるのです。要は子供が元気になり、自己肯定感がもてるようになり、成長してくれればそれでいいので、「正しい」と言えるのはそのことだけです。親が完璧でも、それで子供が潰れてしまっては意味はないので、親の仕事は教育評論家になることではないのです。これは元が賢いそのお母さんにはよく通じたようで、その後は対応が変わったのですが、おそらくこの母親には「世間」というものが前に立ちはだかっているように見えて、それに対して弁明しなければならないという感じで、僕にもそういう話し方になったのでしょう。しかし、下衆な世間はどうでもいいので、それで親子が共に不幸になったのでは、何にもならないわけです。

 老子に「大道廃れて仁義あり」という言葉がありますが、「大道」とはハートです。僕の見るところ、硬直した、また古くさい世間的な形式道徳を振りかざして他人のことをとやかく言いたがる人間にロクな奴はいません。自分がどんな立派なことをしているのかというと、自己防衛のためにアリバイ工作めいたことをしているだけで、人の助けになるようなことは何もしていない。逆に、その心ない底意地の悪さで人を苦しめているだけなのです。ハートがなければ何が正しいかもわからないので、形式的な教条主義にしがみつくしかなくなってそうなるのでしょうが、今はそういう人が増えていて、論理の飛躍を承知でいえば、だから孤立感を深めて、何かあると引きこもりになってしまう人もこんなに増えたのではありませんか。「心の栄養」を与えてくれるどころか、「吸血鬼」的な人が増えて、元気を奪われるのです。

 今の人間は概して表面的には「優しく」なっていますが、心は冷たいのです。心が冷たいから、表面上の「優しさ」でそれを取り繕おうとするのかもしれませんが、昔は見た目は乱暴で不愛想だが、何とも言えない優しさを内にもった人が少なくなかった気がするので、僕が助けてもらった、今でも記憶に残っている人たちの多くは、そういう人たちでした(先のコーラと吉田拓郎の先輩も、高校時代は「ヤンキーの頭目」だったのです)。彼らは人工甘味料みたいな笑顔は浮かべていなかった。今の乱暴な人たちというのはただただ粗暴でエゴイスティックなだけだったりするので、だからパワハラが問題になるのでしょうが。

 こういうのは、引きこもりが長引いて“重症化”している人の助けにはならないかも知れませんが、今少し親切な人が増えれば、引きこもりの予防効果はもつでしょう。善良な人、ハートのある人、勇気のある人の存在は、それ自体が励ましとなり、人の助けになるのです。自分の過去を顧みて、引きこもりになる危険性がなかった人はほとんどいないでしょう。あのとき、ああいう人がいてくれたおかげで潰れずに済んだ、と思うことはいくらもあるはずで、自分はそれほど弱くないのでそうはならないと言う人もいるかもしれませんが、その場合、その「強さ」というのがどこから出てくるかというと、やはりあなたに愛情や配慮を振り向けてくれる人に人生の節目節目で出会えたからこそ、なのです。

 それが欠けていると、最悪の場合、陰惨な無差別殺人や親子殺人となるわけで、回り回っていずれ社会に返ってくる。「情けは人の為ならず」という言葉も僕は子供の頃親からよく聞かされましたが、それは「情けをかけると人を甘やかすことになるので、ほっとけ」というやたら「自己責任」を言いたがる現代風の誤釈ではなく、「それは回り回って自分のところにもやって来るから、結局は自分のためにもなるのだ」という本来の意味でした。

 よく「日本人の劣化」が言われますが、最大の劣化点はそのあたりなのではないでしょうか? 「道徳」を他者の断罪に使うことしか知らない、ジコチューでハートのない人間が増えすぎたのです。助けられる側も、助けてもらってるのにそれにすら気づかず、挙句はおかしな「権利主張」と文句だけ言って寄越すので気が萎えた、というような話も耳にすることが昨今は少なくありませんが、あれやこれやで「人のことなど知ったことか」という態度が社会のベースとなったのでは、もはや人間の住む世界ではなくなる。根本原因はそのあたりにあるような気がするのですが、いかがなものでしょう?

意識と輪廻

2019.01.13.01:34

 年末から正月にかけて、面白い本を二冊読みました。

①『あなたの知らない脳~意識は傍観者である』(デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 ハヤカワ文庫)

②『ブッダが考えたこと~プロセスとしての自己と世界』(リチャード・ゴンブリッチ著 浅野孝雄訳 サンガ)

 ①は米国スタンフォード大准教授の神経科学者の本、②はオックスフォード大学のサンスクリット講座の主任教授を28年間にわたって務めたという英国仏教学の泰斗の本ですが、訳者の浅野孝雄氏はこの種の本を訳す人としては異例の、東大医学部卒のお医者さんで、脳科学の専門家です。どちらも訳文は達意で、読みやすい。①は科学読み物として面白く、僕が宣伝しなくても単行本が文庫化され、大いに売れているようですが、②は昨年4月に出たもので、テーマがあまり一般的ではないことと、頭も使わされるかなり大部な本なので、ロングセラーで少しずつ息が長く売れる、という性質の本でしょう(この一年で僕が読んだ本の中で一番刺激的で読み応えがあったのがこの本です)。

 拙文は書評を意図したものではありませんが、これは二つ並べて論じるというのは難しい組み合わせです。どちらも「意識」の問題を取り上げているが、畑が違うと、意識の定義も違ってくるからです。この言葉が面倒なものであることについては、『リターン・トゥ・ライフ』の訳者あとがきでも触れましたが、②のゴンブリッチ本の内部ですら、文脈によって異なる意味の「意識」が出てきて、その語義の理解は読者に委ねられているので、本当に厄介なのです。

 ①のサブタイトルになっている「意識は傍観者である」の意味は、僕らは通常、〈私〉という主人がいて、それが自分の行動や思考を指揮・監督していると思い込んでいるが、さにあらずで、それは広大な大洋に浮かぶ豆粒大の島のようなものにすぎない、ということです。人間の内蔵の働きなどは意識とは無関係に「自動運転」されているということは誰でも自覚しているでしょうが、脳の病変や損傷によって人間の「人格特性」と見られているものまで激変してしまうことがあることからして、脳とは分離独立した人格とか魂とかいったものが存在するかどうか疑わしい、という話も出てきて、著者の立場は中立的で、「脳のありようがすべてを決定する」というようないわゆる「唯脳論」ではありませんが、素朴な心身二元論を完全に否定するものだとは言えそうです。

 同じく②のサブタイトル、「プロセスとしての自己と世界」は、この本の内容全体を一語で言い表したもので、僕らに認識される「自己と世界」は、それ自体が一個の「プロセス」に他ならず、それ以上でも以下でもない、ということを言ったものです。仏教は元々この現象世界に「実体」的なものを認めませんが、自己も世界も「変化してやまないプロセス、意識の流れ」としてしか存在しないというのが全体のコンセプトです。

 しかし、そもそも「意識」とは何なのか? ①に出てくる「意識」の場合、それが何であるのかというような抽象的、哲学的議論は何も出てきませんが、僕らが「ああしよう、こうしょう、これは避けたい」とか思う場合、そこに「意識」が働いていると見なされるのですが、それはその思念と切り離せないもので、抽象化された「意識」ではありません。このことは②の議論ともつながってくる。「ブッダは、意識とはつねに何ものかについての意識だと言っている」(p.240)とあるからです。彼は意識というものをそのように捉えることによって、ウパニシャッド的な意識に関する教義を否定した、というか、別の現実的な意識理解をもたらした、というのです。

 ①のイーグルマンの「意識」の場合、そこに〈私〉、意識主体というものが措定されているのはたしかです。「ああしよう、こうしよう、これは避けたい」とあれこれ思う場合、それは〈私〉がそう思う、感じると理解されているのであり、名称はどうあれ意識主体となるものが無意識に前提されているのです。その場合の意識は「その思念と切り離せないもので、抽象化された『意識』ではない」と言いましたが、通常はその思念とは別の、抽象的な実体、自己が存在すると思われているのです。その「自己」が「意識」の中心にいて、それを所有しているのだと考える。

 ②の仏教的見地からすれば、こういうのは「妄想」なのですが、この文明社会はその「妄想」によって運営されている。デカルト先生も「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったではないか。意識や思考が存在するとすれば、そこには同時に必ずその担い手、主体が存在するはずだ。頭がおかしいのはおまえの方ではないか、と反撃されてしまうのです。

 さらにややこしいのは、仏教の場合、「輪廻」というものが“正式教義”として認められていて、その場合、何が輪廻するのかという問題が出てくることです。ピュタゴラスに遡る西洋神秘主義の伝統では「魂が輪廻」するのであり、霊魂は不滅とされるのですが、仏教が「そんなものはない」と言うのなら、じゃあ何が輪廻しているのか、そこをはっきり説明してもらわないと困る。無我だが、輪廻はあるなんて、わけのわからないことを言ってもらっては困るのです。「ないようで、あるのですよ」といった没論理の東洋的曖昧主義で納得するのは、ものを突き詰めて考えない人にかぎるでしょう。

 これに対するゴンブリッチ先生の回答は、いささか拍子抜けがするほどかんたんなものです。これは「不変の我は無い」または「不変の魂は無い」という意味なのだと。あったりまえでしょうが、そんなこと! 魂であろうと、人格であろうと、変化しないものはない。変化しないそういうものを措定して、わざわざそれを否定して見せるなど、全く馬鹿げたことに思われます。しかし、ウパニシャッドでは「恒久不変のアートマン」なるものが出てくるし、ブッダが相手をしていた当時の聴衆は、「個々人の核に、生から生へと輪廻する恒久的な実体がある」と信じていたので、それを否定しておく必要があったのだと、何かそんな感じのお話です。そうして先生はおっしゃる。

「仮に、無我の教義が個人の連続性の否定を意味するならば、それは道徳的責任の放棄という恐るべき結果を招くであろう。…(中略)…それは正しい解釈ではありえない。なぜなら仏教は、人々(あるいは他の生命)が死ぬと、自らの道徳的行為にふさわしい境地に生まれ変わると教えるからである。…仏教徒は無限に繰り返される一連の生に及ぶ、個人の連続性を信じている」(p.39)

「カルマの教え全体の要訣は、あらゆる個人は自分自身に対して責任を有すると説く点にある。ブッダの言葉を引けば、我々は『自らの行為の相続人』である。仮に我々が、他人の行為まで相続することとなったら、道徳体系のすべてが崩壊してしまうであろう」(p.283)


 うーむ。これはそれ自体としては全くご尤もなお話ですが、僕に一つ疑問なのは、西洋の輪廻説、ソクラテスやプラトンも信じていた魂の輪廻は、魂がそのプロセスで変化することを前提としていなかったのか、ということです。変化しなければ、輪廻それ自体が意味を失う。魂はそのプロセスで向上したり堕落したりする、それあってこその輪廻だからです。ゴンブリッジ式解釈では魂は「不変の実体」なのかも知れませんが、元々それはそういうものではないでしょう(そこに「本質」というものが措定されていて、それは「不変」と見なされていると言いたいのかもしれませんが…)。

 そうすると、どういうことになるか? 魂が元々「恒久不変性」をもたないとすれば、そう理解する方が自然だと僕には思われますが、輪廻するのは魂またはそれに相当するものだと言っても差し支えないことになり、仏教説も実質的には変わらないことになります。「無我」というと「我自体が存在しない」意味なのかと思ってしまいますが、ただ「変化しない我は存在しない」という陳腐きわまりない意味にすぎなかったということになってしまうのです。

 僕は仏教学者ではなく、仏教信者ですらないので、詳しいことはわかりませんが、本書全体の叙述の印象としては、「恒久不変」なものは「涅槃」(それについてはのちに触れます)以外にないとされ、類似点の指摘が一ヵ所出てきますが、ヘラクレイトスの「万物流転」的な徹底した見方――すべては因果関係の中で生起するプロセスである――をブッダはしていた、というような書きぶりなので、やっぱり「いかなる実体的なものも認めない」立場なのかなとも思えるので、そこらへん、いくらか釈然としない思いです。が、人の議論をなぞるのは僕は苦手で、ここまででも十分苦労しているので、ここから先、少し自由に自分の考えを書かせていただきます。

 僕の考えでは、輪廻するのは思考や感情・記憶の集合体で、「残念」という日常語が日本語にはありますが、その本来的な意味の「残った念」が輪廻するのです。そしてそれらをにかわのようにくっつけて、一つのかたまりにしているものは、ずっと続いてきた「私という思い」です。それは僕らの無意識の底に貼りついた感情で、それが「無明」というものなのだろうと僕は理解していますが、それによって形成された心的構造物が輪廻するのです(それは通常の意味ではネガティブなものだけではない。「やり残したこと」も当然含まれるはずだからです)。

 このゴンブリッジの本で、一つ非常に僕に有益で面白かったのは、対比的に使われるウパニシャッド、ヴェーダ思想の説明です。僕はそれをよく知らなかったのですが、何と自分の考えと似ているかと驚いたので、そのへんをちょっと引用させてもらいます。

「(『プリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』によれば)ブラフマンは意識(cit)として、全宇宙に遍満する」(p.172)

「ブッダは、意識とはつねに何ものかについての意識だと言っている。これは、意識は世界精神たるブラフマンに内在し、ゆえに、個人の魂であるアートマンにも内在するとする――これは究極的にブラフマンと同一であるから――『ウパニシャッド』の教義とは正反対である。…」(p.240)

「『ウパニシャッド』において、意識は外部にある何かについての意識ではなく、そのような意識〔が存在するため〕の前提条件であった。またそれは、真の存在と不可分に結び合っているから、ここでは存在論と認識論が一体となっている。意識とはつねに、何ものかについての意識でなければならないとする点において、ブッダに同意するかはともかく、存在論と認識論を分離している点では、ブッダの見解が我々にとって親しみやすいものであることに疑いはない。」(同上)


 この前の訳書のあとがきにもちょっと書いたのですが、僕はこんなふうに考えています。意識は元々世界に内蔵されていて、それが人間のレベルにまで脳が進化した時、その働きを初めて自覚的に感受できるようになったのだと。たとえば、蚊を叩こうとすると、彼らはその気配を敏感に察知するように見えます。僕の解釈では、これは世界が内蔵する意識のおかげでそうできるので、その普遍意識が蚊にも分け与えられていて、それが保護的な働きをしているのです。どの生物もその根源的意識のおかげをこうむっている。それが人間のように意識にのぼらないだけで、いわば「意識以前の意識」としてそれは作用しているのです。機械と生きものの違いはそこにある(そのうち機械‐ロボットにもそれと似た能力が付与されるかもしれませんが、これはその「気配」が物理的電気〔化学?〕的な何らかの信号として捉えられるようになった場合でしょう。その場合でも、生命体と機械では危険回避のシステムが異なっているだろうと僕は考えますが、長くなるのでそのへんの議論は割愛します)。

 上の引用文に照らせば、これは「ウパニシャッド的」です。この場合の「意識」は本来一つのものだと見なされているのですから(始原においては「意識は非二元的である」、そこには「いまだ主体と客体の分裂が見られないからだ」という記述もp.269に出てくる)。

 だから僕らの通常の意識も、上の引用文にある「前提条件」としてのその普遍的意識のおかげで成立するものと理解されるのです。どの宗教にもある神秘主義の伝統には、瞑想などで意識が個別性、相対性を離れてその根源的なレベルの自覚にまで達すると、途方もない絶対感、自由感が体験され、一神教文化では、その根源的なものは「神」と観念されるので、「われは神なり!」と叫んで不敬罪で捕らえられ、処刑されたりすることもあるのですが、それは意識のそういう性質によるのです。

 しかし、僕ら人間は意識のそういう性質を誤解してしまった。〈私〉が意識を持っているのだと思い込むのです。僕はたまに、塾の高校生に何かのついでに「君らは〈自分〉というものが存在していると思ってる?」と訊くことがあるのですが、ほぼ百パーセントがイエスと答えます。混乱させるとよくないので、それ以上の話はしないのですが、今の文明世界ではそれは自明のことで、多くの人たちにとってこの自分、〈私〉こそが「神聖犯スベカラザル実体(もちろんそれは変化成長するものと思われている)」と受け止められているのです。

 どうしてそうなってしまうのか? 僕らは一応肉体的に分離独立したからだをもっています。そして誕生と同時に名前をもらい、ずっとその名で呼ばれて、「君は可愛い」とか「おまえは頭がいい」とか言われながら育ち、人間の脳には一個の生命体として機能するための「統合ソフト」と思考の働きが備わっているので、自分の体、自分の能力、自分の性格、自分の家族、自分の学校・会社、自分の国…というふうに、すべてがmyという所有格付きで解釈されるようになる。社会によっても、脳によっても、十重二十重(とえはたえ)の条件づけを受けて「私という実体」(より正確に言えば、それが存在するという思い込み)が生まれるのです。そして本来誰のものでもないその普遍的な意識の働きを感受、自覚するとき、それも「私のもの」と解釈してしまう。そして防衛的な自意識が生まれ、それに支配された思考や感情の下、その働きを歪めたり、局限したりしてしまうのです。

 もう一つ、面白い文を引きます。これはヴェーダの「宇宙創成論」に触れたくだりです。

「アートマン(註:ここはブラフマンと同じ)は創造された世界に名と形を与えた後、その中に『つま先に至るまで』入り込む。こうして主体(意識とも言えよう)となった彼は、客体とともに自らのアイデンティティを認識し、最終的にそれに形を与える。…父が息子の中に生きているように、アートマンは名と形を与えられた我(self)において認知を行う。
 だが、名と形を通じての自己表現は、創造者が自己認識を続けることを可能にするだけではない。同時に、彼は身を潜めてしまい――あたかも、複数の異なる名と形に分割されたかのように――一つの全体として見られる能力を失う。こうして、名と形を与える行為はまた、認識を不可能に、あるいは、少なくとも困難なものとする」(p.271~2)


 いかがですか? これは寓話的な表現ですが、今僕が言ったことをよく説明してくれるものと思われるのです。それぞれのものに「名と形」を与えることによって、近視眼的な認識の過誤が起こり、「全体として見られる能力を失う」(根源者の側から見れば)ことになってしまうのです。それぞれの個物が自分を「分離独立した実体」だと思い込み、互いにそう主張し合って、分裂がひき起こされる。

 それは有害無益なことなので、ゴンブリッジ先生によれば、「実用主義者」のブッダはこういう誤解につながりやすいヴェーダ的思考原理そのものを廃棄しようとした、ということのようですが、仏教でも、時代がずっと下って大乗仏教になると(大乗非仏説というのがあって、それは正しいと僕も思いますが)、それは復活してしまう。たとえば禅では、「父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目」なんてことを言います。おまえの両親が生まれる以前の本来の自己を言え、と禅坊主は弟子に迫ったりするのですが、通常の理解だと、親が生まれる以前には当然自分はまだ存在しなかった。親が生まれてからもしばらくは存在しなかったので、父母がたまたま出会って結婚し、おぎゃあと産声を上げて初めて今の自分は出現したのです。しかし、そんなものは本当の自己ではない。むろん、前世でおまえは誰だったのかというようなことをきいているのでもないので、個別性を離れた、根源的な意識の自覚を、これは指しているのです。

 この場合、意識の座が「小我」から「大我(真我)」にシフトした、というようなことではそれはない。梵我一如と言いますが、アートマン(個我)とブラフマン(宇宙我)が合一したというわけでもないので、そういう捉え方をするなら、それは誤解だと言われてしまうでしょう。それは日常の思考習慣の産物にすぎず、その縛りから自由になってこれを見れば、そこに実体的なものは何も存在しないことが理解される。そしてその根源的なあるものの洞察によって、「実体としての自己が存在する」という思い込みそのものが脱落、消失するのです。それでノー・プロブレムであることがわかった。むしろそれで初めて「如実知見」、あるがままにものが見えた、ということになるのです。

 このとき、それによって自我人格が永久的に消えてしまって、神のようになる、ということにはならない。そういう「おとぎ話」を信じるのは、そういう体験が何もなくて観念と想像だけでものを考える人にかぎられます。そういう人はオウムの麻原や、この前僕がここで英文の長いスキャンダル記事を翻訳紹介したソギャル・リンポチェ(世界的ベストセラー『チベットの生と死の書』の著者)みたいなお粗末なグルに手もなく引っかかってしまうのですが、現実にそういうことはありえないのです。未熟な人間がたまさか神秘体験をして、その意味を誤解すると、ユングのいう病的な自我膨張が生じて、大方の場合、前より悪くなってしまう。それによって生じた夜郎自大なふるまいは早晩彼を破滅に追い込むでしょう。そうなると「悟らなくて幸せ」ということになってしまうのです。

 それがわからないのは憐れむべきことです。自我は本来一つの機能のようなものなので、それには持ち場があって、僕らはそれ抜きでは日常生活すらまともに送れない。それが自分というものの本質なのだという思い込みからよけいなものをあれこれまといつかせてしまうことが問題なので、そこから無用な感情的負荷を取り除いていくことが肝要なのです。禅で「悟後の修行」というものが重要視されるのもこの理由によるので、自我人格をその体験に基づく自覚を通じて陶冶する必要があるからです。自我人格そのものを消すのではなく、そこからよけいなものを取り除く。自我人格が消滅するのはそれが不要になったとき、つまり死ぬときです。

 それで何も問題はない。ゴンブリッジ先生が心配する「個人の無責任」もそれで防止できる。自我人格はこの社会における一つの「約束事」みたいなものです。仮にそれを実体として扱いましょうということで、それなら問題にはならない。

 こういう話は、しかし、あまり歓迎されません。「仮定としての自己」なんて怪しげなものしかないというのでは頼りなくて仕方がない。「でも、本当の自分というのはどこかにあるはずですよね?」という話になって、「さあ、やっぱりそんなものはないんじゃありませんか? あの精神分析なんかも、タマネギの皮むきと似ているので、サルにあれを投げ与えると、中に実が入っているはずだと思って、涙を流しながら必死に皮をむいていって、何もなかったのに気づいてキッキーと怒って皮を投げつけるそうですが、無意識も所詮はその『皮』の集まりで、そんなものをいくら分析しても埒は明かないのです」と答えると、大方のスピリチュアルな人は気を悪くするのです。それで、こんな頼りないネガティブな話しかできない奴は何の役にも立たないと判断して、ハイヤー・セルフ本などにまた戻ってしまう。

 この「仮定としての自己」という考え方については、本書にもよく似た説明が出てきます。

「彼らの考えでは、ブッダは個人的存在を、物質的要素(色)、快苦などの感覚(受)、統覚(想)、意欲(行)、意識(識)という、五つの要素に分解した。したがって『ジョンは部屋を出た』という言明が、仮に通常の意味において正しいとしても、それは便宜的にそうであるにすぎない。五蘊の特定の組み合わせが、ジョンという名前を冠することは、便宜的に合意されたことでしかないからだ。究極的には、部屋を出たのは五蘊の組み合わせにほかならないというのが、アビダンマの主張である」(p.305)

 僕も、別に五蘊(ゴウンと読む)がどうのといった理屈はこねませんが、同じような理解をしているので、こういう文章を読むと心強く感じるのです。日本人はことに権威に弱い人が多いので、今度から説明をするときは「お釈迦様もそう言ったそうですよ」と付け加えて、「権威付け」することにします。

 にしても、どうしてこういう話は受け入れられにくいのか? 僕らは観察したり、ものを考えたりするとき、そこに必ず何らかの主体――〈私〉――が存在するはずだと考えます。デカルト先生も言ったように、「われ思う」ということは、そこに「われが在る」証拠だというのです。しかし、これは後でつけた理屈にすぎません。デカルトはずば抜けて頭のいい人ですが、この点では彼はミスをしたのです。①の『あなたの知らない脳』にも、有名な「電気と磁気を統一する基本方程式を考え出した」マックスウェルが死の床で、あれを発見したのは「自分の中の何か」であって自分ではないと言った、という話が出てきます。「アイディアがどうやって浮かんだのかわからない、ただ降りてきたのだと認めている」というわけです。似たような体験をしたブレイクやゲーテといった文学者の例も挙げられている。その後で著者のイーグルマンはこう述べる。

「あなたの内面で起こることのほとんどがあなたの意識(註:これは通常の自己意識です)の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳の中で始動する意思決定に関しては、大部分を傍観しているのがベストだ。わかっていない細かいことに意識が干渉すると、活動の効率が落ちる。ピアノの鍵盤のどこに指が跳ぼうとしているのか、じっくり考え始めると、曲をうまく弾けなくなってしまう」(p.21)

 こういう話は誰でも経験として知っているので、「たしかに…」と思うでしょう。むろん、意図的な学習や訓練というものは勉強でも、仕事でも、スポーツでも必要です。よく「からだに覚え込ませる」と言いますが、正確には脳に新たなシナプスかニューロンか知りませんが、新たな配線が確立するまで鍛え、練習するのです。そうすると脳は「自動運転」でうまくやってくれるようになる。マックスウェルやゲーテは、それにふさわしい脳の機構を整えていたから、インスピレーションがやってきたので、僕らが「何でオレのところにはいいものが降りてこないんだ!」と文句を言っても、それはあちこちに木の生えた、草も伸び放題の凸凹の無秩序な原野にジャンボジェット機が降りられないのと同じです。迎え入れる準備ができてから、文句は言わなければならない。

 宮本武蔵の『五輪書』に、「見の目弱く、観の目強く」という言葉があったと記憶しています(順序が逆かもしれませんが)。それが剣の極意の一つだというのですが、今のイーグルマンの言う「意識」はこの場合の「見の目」です。「観の目」はこれに対して、自意識を排除した、「全体を観じる目」です。それはあれこれ忙しく思いはからう意識、〈私〉が居座っていると出現できない。一時的にせよ、それは消えてもらわなければならないのです。

 以上で、〈私〉、自意識というものが「なくもがなの妨害物」で、考えたり、観察したり、能力を高めて行動を円滑にする際には必要でないことがおわかりいただけたかと思うのですが、人が無意識に自分というものを探し、それにしがみつこうとするのは、それがないと不安に感じるからでしょう。でないと底なしの奈落に落ちてしまうような気がするのです。

 何か絶対的なものが、拠り所がほしい。仏教の場合だと、それが「涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)」です。これはものの本では「煩悩の火が消えた状態」とか、ゴンブリッチの本にも「悟りを得た人間の死をも意味する」といった説明が出てきますが、「をも」とあるとおり、これはそういった消極的な意味だけの言葉ではありません。

「我々の世界とは、われわれが経験するところのものだ。それは変化、生成、およびプロセスの世界である。それは我々の認知器官によって、構成、生成される。しかしながら、生成されることなく、本来的に存在するものがたった一つだけあり、それこそが涅槃である。それはたんに『現われる』のではなく、〈ある〉のだ」(p.306)

「比丘たちよ、生まれず、成されず、作られず、複合されないものが存在する。仮にそれが存在しないとすれば、生まれ、成され、作られ、複合されたこと(もの?)から逃れる道が、知られることもないであろう」(p.313~4)


 それは縁によって生起したり、変化したりする「条件づけられたもの」ではなくて、絶対的なものです。逆に言えば、その「条件づけられていないもの」を知ることなしには、「条件づけられたもの」を正しく知ることもできない。だから相対的なものに過ぎないもの(個我観念もその一つ)を絶対視してしまう過誤が生じるとも言えるので、仏教的な万物流転、プロセス論的な世界・人間理解は、それ自体矛盾した「すべては相対的なものにすぎない」という皮相な相対主義とは違って、裏に涅槃という「絶対的実在」に対する堅固な確信を秘めているのです。

 ウパニシャッド的に言えば、それは「ブラフマン」だということになるのでしょうが、それはいかなる意味でも個我観念の拡張や、その投影の産物ではない。それは何らかの「もの」や個体ではないので、僕らが通常認識できるのは、その作用、はたらきだけです。意識もそうなら、知性もそうなので、淵源にその絶対的なものがある。僕のようなひねたオヤジがこう言うのは口幅ったいのですが、愛や慈悲というものも、そこから出てくるのです。僕らが「よい働き」ができるのは、無用な自意識に災いされず、いわば「賢明にそれに所有される」ときだけなのです。

 それではその、涅槃でも、ブラフマンでも、「神妙不可思議なる空(くう)」でも、名称は何でもいいとして、絶対的なものはどうすれば洞察、体験されるのでしょう? そういう体験にもおのずと深浅というものがあるのでしょうが、僕は専門用語(?)を多用して誰が上だとか下だとか「悟りの較べっこ」みたいなことをしている人たちを見るとアホらしく思ってしまうので、その種の議論には関わりたくありません。一つだけ、僕の乏しい体験から言えることは、“自分”がそれを体得しようとか洞察しようとかしても、それは絶対に無理だということです。それはその種の悪戦苦闘の努力が破れたとき、初めて可能になる。〈私〉が〈真理〉に到達しようとか、それを所有しようとかするのですが、他でもないその思考習慣そのものが事の実現を妨げているのです。

 この点で僕が面白いと思っているのは禅の公案です。あれは通常の知的・観念的思考では解決がつかない奇妙な問いかけを行なって、いくら考えてもどうにもならないところまで人を追い込むためのものでしょう。そのとき人はその知的には解決不可能な問題に意識を張りつかせて、一種の強迫観念的状態、自家撞着に陥る。そして懊悩の日々が続いた後、ふとしたきっかけ、それは梅の香が鼻に触れたとか、池にドングリの実がぽちゃんと落ちる音が聞こえたとか、そういう何でもない日常的なことが多いようですが、そういう偶然のきっかけで、意識がそれを離れたとき起こるのです。そのとき出現する意識は、いわば「主(あるじ)のない意識」です。そのとき瞭然として事が明らかになる。そんな感じでしょう。それは科学者が問題を考えに考えた末、行き詰まり、もはや打つ手が見つからなくなったとき、ふとしたきっかけや夢うつつ、あるいは実際の夢の中でインスピレーションを得るのに似ています。それはつねに、通常の意識の〈外〉からやってくる、別元すれば、意識が〈悩める私〉を忘れ、それを離れたところで起こるのです(ついでに申し添えておくと、僕は別に公案禅を推奨しているわけではありません。盤珪が批判したように、それは「公案ごっこ」に堕する可能性があるので、それが「本物の疑団」にならなければ意味はないでしょう)。

 こうした体験は、その後それをどう解釈するかという問題が残っていて、僕にはそれで苦い経験があるのですが、ここでそんな面白くもない話をする気はありません。あのデカルト先生にしても、彼は有名な「炉部屋の一夜」である種の神秘体験、洞察体験をしたのです。それが彼の知性(普遍的なそれ)に対する全幅の信頼を生み出した。その霊妙完全なすがたが直覚された、いわばありありと“見えた”のです。そしてそれに支えられて彼は「あらゆるものを疑う」作業に乗り出したのですが、そこから先、「考える私」だの、循環論法だと批判される「神の証明」だの、いくらかスコラ的思弁に耽りすぎる結果になったのです。違う文化伝統の中に生まれていれば、体験(このゴンブリッジの本にも、ウィリアム・ジェームズの神秘体験についての記述が引用されていますが、本物のそれの場合、その洞察体験それ自体についての確信は揺るぎないものとして残る)の解釈も自ずと異なり、彼の思索はずいぶんと違った展開を見ることになったのではないかと、僕は思います。

 長くなりすぎたのでこれくらいにしたいと思いますが、最後に、輪廻の原因となるカルマについてのゴンブリッジの議論に触れて終わりにしたいと思います。怪しげな宗教では、この言葉を借用して、しばしば人の不幸や不運をダシに信者を脅します。「カルマの法則」は乱用されすぎているのであり、インドのようにそれを社会的に適用して、愚劣なカースト制度を作り、それを正当化するのに用いられることすらあります(仏教がインドで生まれたにもかかわらず、その後本国では衰退することになったのも、仏教思想がカースト的なものに対する根本的批判を含むものであったことが関係するでしょう)。

「実際のところ、人々はカルマの理論を後ろ向きに遡って当てはめようとする。ある人が病気に罹り、いかなる治療法も無効とわかった時、これは悪いカルマのせいに違いないと言い始めるのだ。ブッダ自身は、カルマの結果を、考えるべきでない四つの対象の一つであるとした。それについて考えることは、人の頭を狂わせるからである。おそらくこの警告は、まだ覚りを得ていない人々に向けられている。なぜなら、覚りにおいて生じる三種の知恵の第二は、衆生が行為の道徳的性質に応じて、いかに再生するかを見通す能力(天眼通)だからである。したがって、ブッダはカルマの働きをありありと見たのだが、それは我々には不可能なことだ。そして彼が見たことが、再生のプロセスを止滅するよりも火急のことはあり得ない、という確信をもたらしたのである」(p.58)

「それ(=カルマ)について考えることは、人の頭を狂わせる」というのは、言い得て妙だと思います。ブッダはそれを一種の物理学法則のようなものと見ていたようですが、その精妙なメカニズムを僕ら凡人は知りえず、当て推量でああだこうだと言っているだけなのです。中には自分はその「天眼通」を得ているのだと自称する教祖や霊能者もいるようですが、大方は思いつきの出鱈目を並べて、お布施を巻き上げるのに利用しているだけなので、そういうのに振り回されるようになると、混乱はさらに募り、目も当てられなくなってしまうのです。

 カルマの話ではありませんが、つまらない例を一つ挙げると、この前僕は自転車での通勤途中、ある「発見」をしました。仕事場まで信号が六つほどあるのですが、時によってやたら信号に引っかかるときと、奇蹟のように一つも引っかからず、スムーズにいくときとがあるのです。一体これはどういうわけだろう? 運がいいときと悪いときがあるのか? 僕はそういうことをあまり気にする方ではありませんが、あるとき、単純な理由に気づいたのです。最初の信号が青に変わった瞬間に出ると、僕が自転車をふつうにこぐときのスピードで行けば、うまい具合にその後が全部青で渡れるのです。それがずれるとうまく行かない。信号は機械的に切り替わるので、タイミング的にそれに合うかどうかだけの話だったのです。運気の上昇下降とは何ら関係がない。

 カルマについても、合理的に考えれば別の説明がつくことの方が多いので、何でもカルマのせいにしてしまうのは病気です。そういう人にかぎって、現実的な手立ては何も打たずに事態を悪化させるだけの対応をしていることが多いので、「悪しき宿命論」に陥るのです。早い話が景気がひどく悪化して、大量の失業者が出るようになると、あなたも失職する可能性が高くなる。それは別にあなたのカルマのせいではないので、原因は政府の経済政策の失敗にあるのです。「カルマ落とし」の儀式など執り行うより、政権を取り替えた方が早い。実際に失業したら、ハローワークに行けばよいだけです。

 これから入試シーズンで、今度の土日がセンター試験なのですが、学歴社会の今の日本においては、どの大学に入れるかはかなり大きく人生を左右する。僕は入試シーズンには訳本を出さないようにしていますが、これはそちらで運を使ってしまうと生徒たちに回す分が減るという迷信的思考によるものです。実際は無関係なのは知っていますが、気持ちの問題でそうしているだけです。

 去年、うちの塾で一人、センター直前にインフルエンザにかかった生徒がいました。別にそんなに流行っているわけでもないのに間抜けだなと笑ってしまいましたが、カルマ的思考にとりつかれた人なら、これは「悪いカルマ」のせいだと思うかもしれません。それで学校で一人だけ、わざわざ大阪まで追試を受けに行かなければならなくなったのです。一般に、センターは追試の方が難しいと言われています。しかし、僕は心配しませんでした。その生徒の学力レベルでは、多少の難易度の変化は影響しないからです。むしろ、二次のための追い込みが必要なこの時期、これは幸いするかもしれないと思った。インフルエンザは、治っても、感染の恐れがなくなるまで数日は学校を休まねばなりません。追試で移動するときも前後で休みが取れるでしょう。こんなことを言うと叱られそうですが、年明け後の学校の下手な授業はない方がずっとマシなので、その分自分の勉強ができるのです。それはその生徒にはプラスに働くでしょう。果たしてうまく行って、彼はその年学校で一番いい大学に合格し、後輩たちに崇め奉られることになったのです。

 人生、かくの如しです。十分な見込みがあったにもかかわらず、第一志望に落ちて泣く泣く第二第三志望の大学に行った場合でも、そこでその後の人生を決定づけるような先生や友人との喜ばしい出会いが待っているかもしれない。そういう場合は「悪しきカルマ」のせいではなく、「よいカルマの導き」だったということになるのです。「これで自分の人生は終わった」と思い込むような人にはそういう出会いは訪れないでしょうが。

 だから、カルマをそういう次元でとやかく言うことには意味がない。僕の理解では、カルマが重要なのはその深い道徳的側面と、その因果の射程をあの世と後世にまで延長するところにあります。先の引用文にもあったように、「カルマの理論を後ろ向きに遡って当てはめようとする」ことには意味がないのです。

 たとえば僕がハートのない不正直な人間で、しかし嘘と偽装能力には長けているので、陰で散々人を苦しめているが、うまく世間は欺き、かなりの成功を収めたとします。輪廻がなく、肉体の死と共に精神もきれいさっぱり消滅するのなら、僕はハッピーです。しかし、「厳粛なカルマの法則」があるとすれば、僕はいずれタダではすまなくなるので、恐ろしい報いが先に待ち受けているのです。それを恐れて、ということならたんなる打算になりますが、ともかくそう考えるなら、最初の動機はどうあれ、僕は少しはマシな人間になろうと努力するようになるでしょう。決して欺けない「何か」を、僕は気にかけるようになるのです。その「何か」は外部ではなく、僕らの心の奥深くにある。ブッダはつまり、良心に従って生きよと教えたのです。

 古代のバラモン教においては、「よいカルマ(行ない)」とは、祭祀を決められた手順に従って「正しく」行なうことでした。それは個人の生き方とは無関係な、外部的行為にすぎません(昔のキリスト教カトリックの「善」も、教会権力におとなしく従い、寄進をし、時に「十字軍」という名の殺戮行動に参加することでした)。ブッダはその意味を内面的な道徳に置き換えたのだというのが、ゴンブリッジ先生の説明です。今の時代も、世間道徳の多くはこのバラモンの祭祀行為に近いものになっています。人々は形式的なことにこだわり、心に愛のかけらもない人間でも、外面だけ取り繕っていれば紳士淑女として通り、裏で心ない仕打ちを重ねていても、自分は道徳的だと思い込めるのです。そうして鵜の目鷹の目で人の粗探しをして、形式倫理を振りかざしてしばしば人を非難するのですが、そうした浅ましいありようが「道徳的」でないのは明らかで、「カルマの法則」がそうした皮相な世間道徳、形式倫理に即して働くものではないのは自明の理と思われます。良心とはそうしたガラクタのことではない。カルマを恐れるなら、僕らは諸々の条件づけから自由になって、その良心が何であるかをまず知らなければならない。老子は「大道廃れて仁義あり」と言いましたが、その「大道」を発見して、それに従う努力をする必要があるのです。

 なかなか終わりにできませんが、最後の最後に、冒頭の①のイーグルマンの、人格や魂というものが独立した存在かどうか疑わしいという議論にあらためて触れておきましょう。脳に生じる異変が人格の変異とつながるのは、特殊な例を持ち出さずとも、長寿の時代、認知症の老人が増え、脳の萎縮が人格的な変貌までひき起こすのを身近に見るようになった今の僕らにはよくわかります。聡明で他者への思いやりや配慮に富んでいた人が、にわかに粗暴になったり、お金が盗まれるのではと被害妄想的になったりするのです。ときには別人格のように見えたりする。

 この場合、元のその人はどこに行ったのでしょう? それはたんなる偽装で、こちらが真の姿なのか? それとも人格というようなものがそもそも存在せず、脳がそのような幻像をつくり出していただけなのか?

 これは難しい問題で、どういう答え方をしてもそれは仮説にとどまるでしょうが、僕らの心や精神と呼ばれるものの働きがこの世界では脳の機能に依存しているのはたしかであるように思われます(古来の神秘主義では、心の座は脳ではなく、心臓やみぞおちにあるなどとも言われますが)。そして僕らの脳は、進化のプロセスで古いものに新しい部分が追加されるというかたちで大きくなった。昔、何かの本で、人間の脳の下にはワニの脳があるのだという話を読んだことがありますが、爬虫類が僕らの中には同居しているわけです。ネズミやサルもその中にはいる。人間的なものは大脳新皮質、とくに前頭葉に宿る。その部分が委縮すると、だんだん人間的なふくらみは失われてゆくわけです。

 前頭葉が社会生活上重要なのは、イーグルマンのこの本でも、「衝動抑制の弱さは、刑務所制度における犯罪者の大半がもつ顕著な特徴である」として、再犯防止のための「前部前頭葉トレーニング」なるものが提唱されていることからもわかります。老化に伴う脳の萎縮によって抑制が効かなくなり、「暴走老人」化する人がいるのも、同じ理由によるのでしょう。それによって別に「隠れた本性が露わになった」わけではない。人間としてまともに機能できなくなっただけなのです。

 仮に輪廻する魂があったとしましょう。僕は先に「何が輪廻するのか?」ということに関して自分なりの考えを書きましたが、その心的構造物を「魂」と呼んでも別に差し支えはないと思います。「カルマの法則」によれば、僕らのそれはそれぞれに見合った肉体と脳に宿るわけです。あなたの肉体と脳は、どういうふうにしてかは知りませんが、あなたの魂に見合ったものだから選択されたのです。但し、これは重要なことと思われますが、それは決定論的なものではない。脳は誕生後も成長し、また、高度な可塑性をもちます。なかばあなたの脳はあなたの魂が育てたものです。あなたが何に関心をもつか、またどれほどの意欲や愛情をもつかに、その成長・発達は大きく左右されるからです。子供の場合、これはそれ自体が大きく環境に左右されますが、カルマの影響が全体的なものだとすれば、環境的なものもそこには幾分かカウントされているのでしょう。

 こういうのは「取扱注意」な思想です。それは解釈の仕方によっては残酷なものにもなりうるからです。僕が冷たい見方でこういう話をしているのではない証拠に、少し自分のことを書かせてもらうと、子供の頃、僕は自分の脳には何か深刻な欠陥があるのではないかと思い悩みました。学校のお勉強には皆目興味がもてず、勉学意欲はまるで湧かないし、他の子供たちは自信満々ああだ、こうだ言っているように見えるが、僕には自分の考えに自信がもてるようなことは何一つなく、執拗な自己疑惑に悩まされ続けていたからです。健康な子供にはあるはずの自己に対する自然な信頼感というものが自分には欠けている。これは脳に欠陥があるからではないかと、実際にそう思ったのです(僕は十分な家庭的愛情に恵まれて育ったので、そちらに理由を見つけることはできません)。幸い自然豊かな田舎に育ったので、自然の中で夢中になって遊んでいるときだけはその不安を忘れられた。大人は概してこういうことには鈍感なもので、親も含めて周囲の大人たちはそういう少年のことを「喜怒哀楽丸出しの単純でわかりやすい子供」と見ていました。たしかにそういうところはあったので、ふつうの意味では別に陰気な子供ではなかったからです。

 しかし、あれは中2の頃だったかと思うのですが、居間に一人座って開け放った窓から庭をぼんやり見ていたとき、自分ははたち前に発狂して、精神病院送りになるだろうという考えが閃光のように頭に浮かび、絶望的な気分になりました。しばらくしてそれも忘れましたが、十代の末近くになったとき、現実的な脅威として、その恐怖は再び蘇ったのです。とくにその最後の二年間はすさまじいものでした。僕は精神科医やセラピストには一度もかかったことがありませんが、自分を持ちこたえるのがせいいっぱいだったのです。その間、僕はずっと生活費稼ぎのバイトをしなければならず、「抽象的煩悶」にばかり耽っているわけにもいかなかったのですが、なおさらイライラして喧嘩っ早くなり、ときに果し合いまがいのことまでやらかす始末で、そうした見た目の乱暴さのために、この時も「気の毒な病人」とは誰にも思ってもらえなかったのです。

 実際に脳に何か微細な器質的欠陥があってそうなったのかどうか、僕は知りませんが、僕が「厄介な脳」をもつ肉体に宿ったことは確かなので、それも何らかの「カルマ的な必然性」があったのだろうと思えば文句も言えないなと、そう考えているということです。もう一度同じことを繰り返せと言われれば、ご免こうむると、僕ははっきり言うでしょう。しかし、そのおかげでつかめたものもあるし、それは僕にはやはり必要なことだったのだろうと思うのです。

 話を戻して、脳の損傷や委縮などによって人格変容が起きた場合、魂はどうなっているのでしょう? それは物理的・肉体的な足場を失って、この世界での表現手段を失っただけで、その本体はまだそこに存在していると考えることもできます。それは不自由なまま、肉体から解放される日を待っているのです。むろん、だから安楽死が望ましいなどと言っているのではありません。自分の親が認知症が進んで正体不明になってしまった場合、子供はそれを悲しむでしょう。けれどもその背後にはまだ損なわれないあの愛しい親がいるのだと考えれば、いくらか慰めにはなるのではありませんか? そして肉体から旅立つ時、魂は再び若返り、想念体で気に入った年齢の姿をとり、あなたを見て微笑み、別れを告げるのです。僕はそんなふうに想像しています。

 えらく長くなってしまいましたが、これで一通りのことは書けたとして、パソコンのキーを叩く手を休めることにします。最後まで面倒な議論に付き合ってくださった方々には、お礼を申し上げます。

グルと権力に関する一考察

2018.09.19.17:02

 これは前回の記事の続きとしてお読みください。短くまとめときます。

 あの英文記事の翻訳を載せた翌日、たまたまでしょうが、こういうAFP電の記事がネットのニュースサイトに出ました。

・ダライ・ラマ、仏教指導者による性的虐待「90年代から知っていた」

 これは主に、前回紹介した「ソギャル・リンポチェ問題」を念頭に置いたもので、不祥事の中でもあれが一番痛かったのだろうと思いますが、善良なダライ・ラマはおかげで苦しい立場に置かれているのです。

 15日のここの記事に関して、このブログには「鍵付きコメント」という機能があるらしく、それは一般公開はされず、ブログの書き手にだけ読めるようになっていて、それでよくコメントを下さる方から、「師と弟子の関係、絶対服従という関係は、人間の中のとんでもないものを産むのだなあと」あらためて感じたというコメントを戴いたのですが、そのとおりで、オウムの暴走も、それなしではありえなかったものです。

 政治の分野では、英国アクトン卿の有名な、「絶対権力は絶対的に腐敗する(absolute power corrupts absolutely)」という言葉がありますが、今の安倍政権なども似たようなもので、今の自民党はカルトとさして違いはありません。小選挙区制の導入で、政権執行部が大きな権力をもちすぎるようになったのがまずかったなどとも言われていますが、それだけではなく、カルトの信者よろしく、ボスへの忠勤競争に励む多数の政治家や官僚がいるからこそ、その病的な体質は強化されるのです。これに左翼憎しで凝り固まった文化人やネトウヨが加わり、健康な批判精神はどこへやら、いつのまにかカルト国家のような様相を呈してしまった。そのうち名称も新たに治安維持法が復活して、今はネットデータの利用で「反乱分子」の特定も容易になっているから、以前にも増して「効率的」な「非国民」の逮捕、圧殺が行われるようになるかもしれません。

 僕は健康な民主社会の建設・維持には、誰にも、何にもよりかからない、自分の背骨で立つ個人が一定数以上いることが不可欠だと考えていますが、今の時代を見ていると、個人は弱くなるばかりです。矛盾しているなと思うのは、自己啓発セミナーの類でも、宗教でも同じですが、人々は「完全な自由」の幻想を抱いて、グルだの指導者だのに頼ろうとすることです。その結果どうなるかといえば、幹部になったとしても、グルまたは指導者の権威・権力を笠に着て、自分の暗い権力願望を満たすことにしかならないのですが、その自覚のない人が多すぎる。麻原やソギャル・リンポチェの場合、彼らの「悟り」なるものは「馬鹿悟り」にすぎず、その結果彼らの自我膨張はとめどがなくなって、信者たちはその圧政に苦しむことになったのですが、「悟っていない凡庸な人間には悟った人間のことはわからない」という陳腐な屁理屈で、冷静な認識・判断能力を自ら放棄することになってしまったのです。

 暴行、虐待、破廉恥行為の類にまで「グルの窺い知れぬ、深い隠された意図」を見るというのは、病気以外の何ものでもないと部外者は思い、またそれは正しいのですが、そう言う世間の人も、他の面では似たり寄ったりだったりするので、わが国は「特別な神の国」だというような妄想が今は結構力をもつようになっています。ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれたのは「過去の栄光」で、それも実はつまらない表面的な話だったりしたのですが、自己内部の不安と心細さが募る中、国家や民族に自己同一化して、無理にでもそれを偉大なものに仕立て上げ、自己肯定感を得ようとする人たちも少なくないのです。方向が違うだけで、それはカルト心理と類似性をもつ。そこに排他的な独善性が伴うのも同じです。

 人は群れる動物で、よくいえばそれは社会的動物だということになるのですが、何らかの集団に帰属することによって安心を得たがるという習性は、ときに非常に危険なものになります。「和して同ぜず」とはなかなかいかないもので、そこでは一切の批判が和を害するネガティブなものとして忌避されるということになりがちです。

 この点で、僕が「マンガみたいだな」と笑ったのは、いつぞや自民の吉田博美参院幹事長が、石破茂氏が総裁選ポスターに「正直、公正、石破茂」と大書したことに、「個人攻撃のようなことはやめてもらいたい」と注文をつけた、という話です。何でそれが「(安倍首相への)個人攻撃」になるのか? それは「もり・かけ問題」への当てこすりだと思ったからです。自民党の中には「野党と同じでけしからん!」という意見が強くあるとのことで、「もり・かけ問題」に示された首相の「不正直、不公正」(まともな判断力をもつ者なら、誰でもそう思います)をあげつらうがごときは、同じ自民党としては断じて許しがたいということなのです。マンガ以外の何ものでもないが、そういうことをいい年したオッサンが言っていて、マスコミもそれを怪しむことなく、そのまま報じるのです。カルトが教祖批判を禁じるのとそれは同じなので、完全に病的な組織です。

 石破氏もこれを無視できない。自民党というカルトの幹部の一人としては、そうならざるを得ないので、「何をわけのわからんことを言ってるのだ!」とは言えない。恐ろしいことになってるなと僕は思いますが、今の大方の日本人は思わないのでしょう。それが何よりこわい。今この国を支配しているのは、日本会議だの、神道政治連盟だの、読売、産経だのの多数の「翼賛機関」を背後にもつ、自民党という名の閉鎖的な復古的愛国主義的カルト政党なのです。それが創価学会という巨大宗教団体を背後にもつ公明党と連立を組んでいる。それが「憲法改正」を目論むということに僕は恐怖を覚えますが、皆さん覚えないのです。

 いわゆる「スピリチュアル」な人たちは麻原のオウムや、ソギャル・リンポチェのリグパのようなカルトに取り込まれ、「ポリティカル」な人たちは安倍自民のようなカルト政党に取り込まれる。むろん、宗教団体、政治団体のすべてが自閉的なカルトではなく、なかにはまともな風通しのいい団体もあるでしょうが、それは自立した個人としての自覚を失わない、自由な精神と必要な寛容さをもち、自身の権力欲に高度に自覚的である人たちがその中心にいる団体だけでしょう。僕に言いうることは、メンバーに「絶対服従」を誓わせるような組織や団体には決して近づくな、ということです。それはあなたを確実に不幸にするだけでなく、この社会に深刻な害毒をもたらす。それは現実を見れば誰にでもわかることでしょう。

 最後に、その「寛容さ」について一言申し添えておけば、安倍は例の杉田水脈議員について、「『まだ若いですから、そういったことをしっかり注意しながら仕事していってもらいたい』などと述べ、擁護する姿勢を示した」(ハフィントンポスト)そうですが、それは「寛容」などというものではない。安倍の顕著な特性として、自分を崇拝するネトウヨ議員にはつねに大甘で、批判的な人間にはつねに感情的な排斥的姿勢を示すことが挙げられます。それは未熟な宗教カルトの教祖と同じなので、「馴れ合い」をそれと混同してはならない。前に「安倍と麻原は同い年であるだけでなく、性格的にもよく似ている」と書きましたが、そう思って見ていれば、なるほどと腑に落ちることがこれからもいくらもあるでしょう。

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