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全体主義の復活

2020.07.07(15:59) 736

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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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生命の悠久の旅

2020.06.16(16:30) 730

 おととい日曜の、とても6月半ばとは思えない猛烈な蒸し暑さには参りました。僕は寒いのは苦手ですが、暑さは割と平気なので、自室は「生涯クーラーなし」を貫こうと思っているものの、地球温暖化で「クーラーか、死か」という選択をそのうち迫られそうです。

 以上は無関係な前置きで、地球上の生命の起源について、東北大の研究者が新説を発表したそうです。河北新報オンラインの記事。

生命の起源は隕石衝突にあり? 東北大院、アミノ酸生成の仕組み解明

 地方新聞の記事などは短期間で消えてしまうことがあるので、念のため全文をコピペしておくと、

 生命誕生前の太古の地球で、隕石(いんせき)や小惑星の海洋への衝突がきっかけとなり、生命の材料分子となるアミノ酸が生成されたことが東北大大学院理学研究科の古川善博准教授(地球化学)らのグループの研究で明らかになった。生命の起源解明の手掛かりになる可能性がある。8日、英科学誌に発表した。
 隕石に含まれる鉄などの鉱物と、当時の大気中の主成分だった二酸化炭素や窒素が反応してアミノ酸が生じる仕組みを、模擬実験で解明した。古川准教授は「地球に普遍的に存在した大気成分から、生命を構成する分子が生成された可能性がある」と話している。
 研究グループは実験で、鉄などの鉱物と水、二酸化炭素や窒素を入れた金属容器に、秒速約1キロで金属を衝突させて化学反応を調べた。グリシン、アラニンの2種類のアミノ酸の生成を確認できたという。
 約46億年前に誕生した地球には無機物しかなかったと考えられており、生命の起源につながるアミノ酸など有機物の生成過程は詳しく分かっていなかった。宇宙空間から飛来した隕石などに、有機物が含まれていたとの学説もある。
 古川准教授らのグループは同じ研究論文で、約40億年前の火星の状態にも言及。地球と同様に二酸化炭素や窒素を含む大気で覆われ、海も存在し、隕石が衝突した時期もあったと考えられるため、「アミノ酸が生成していた可能性を示している」と指摘した。


 この記事には生命の誕生がいつだったかは書かれていませんが、一般には、「地球が誕生したのが約46億年前、生命の誕生は約 38億年前」とされています。その生命の素材となるものがアミノ酸なので、その生成のきっかけが「隕石や小惑星の海洋への衝突」だったのではないかという仮説です。その際生じた化学反応がアミノ酸を生み出したわけです。

 火星に生命が生まれていた可能性の指摘も興味深い。そこで先に生命が誕生、進化し、荒唐無稽と科学者たちには笑われそうですが、高度な進化を遂げた「火星人」が住めなくなる前にそこを脱出していて、今地球を訪れているエイリアンにはその子孫も含まれているかもしれないと想像してみると面白いでしょう(公式にはUFOもエイリアンも存在しないことになっていますが、エイリアン関係の研究書の訳本を出す準備をしている僕自身は、むろんそんな公式見解には同意していないわけです)。

 この生命誕生のミステリーについては、他に「パンスペルミア説」というのがあります。これにも様々な説があるのですが、一般的なのは、隕石とか彗星に「生命の胚芽」となるものが付着するとか、中に含まれるとかしていて、それが地球に飛来して生命進化が始まった、というものです。ウィキペディアでその項目を見ると、中には次のような説まであるという。

 1981年にはフランシス・クリックとレスリー・オーゲルが、高度に進化した宇宙生物が生命の種子を地球に送り込んだ、とする仮説を提唱した。「地球が誕生する以前の知的生命体が、意図的に『種まき』をした」とする説は「意図的パンスペルミア」と呼ばれている。これは、一般的なセンスではまるでサイエンス・フィクションのようにも聞こえる説ではあるが、クリックはこの説の生物学的な根拠を提示した。現在の地球上の生物ではモリブデンが必須微量元素と重要な役割を果たしているが、クロムとニッケルは重要な役割を果たしていない。しかし、地球の組成はクロムとニッケルが多く、モリブデンはわずかしか存在しない。これは、モリブデンが豊富な星で生命が誕生した名残だと考えることができる、としたのである。もうひとつの論拠として、地球上の生物の遺伝暗号がおどろくほどに共通したしくみになっているのは、そもそも「たったひとつの種」がまかれて、その種から地球上の全ての生物に変化していったのだ、と考えられる、としたのである。

 こういうのは「状況証拠」だけで犯人を特定しようとする警察みたいな感じで、論拠としてはちょっと弱いな、という感じですが、可能性としてはあり得ないことではない。何にしても、それから38億年もかけて生命はここまで進化したのです。その途中には何度も生物の大部分が死滅する危機が訪れた。一番新しいのは6600万年前のそれで、最近ではその原因は小惑星の衝突と、連鎖反応的に起きた一連の出来事によるということで大方の意見の一致を見ているようですが、恐竜たちはそれで絶滅し、そのとき地球上に存在していた生物の約75%が姿を消したとされているのです。

 あのまま「恐竜の天下」が続いていたら、現在の人類はありえなかったわけで、その頃恐竜たちにおびえながら暮らしていたネズミみたいな哺乳類(原猿類)が人類の先祖だと言われていますが、恐竜がいなくなったおかげで、彼らは勢力を拡大し、多様な進化を遂げることができるようになったのです。ここにも何度も書いているように、今はそれ以来の生物大量絶滅の時代です。今回のは人為的な要素が強いから、僕らはそれに対して全面的な責任があるのですが、このままそれが進んで人類も絶滅したとすれば、ポスト人類はどんな生物になるのでしょう? ゴキブリあたりは丈夫で、3億年も前からいると言われているので、彼らは今回も生き延びそうです。それで、人類絶滅後に特殊な進化を遂げて、ゴキブリ型知的生物が誕生することになる可能性も十分ある。彼らは何百万年後には高度な文明を発達させ、今の人類が恐竜を懐かしがるのと同じで「ヒト博物館」なんかを作って、「あんまり賢くなくて、自業自得で絶滅したけど、昔はこういう変わった生物が地球を支配している時代もあったのだ」とその新型ゴキブリのオトナは子供たちに教えるのです。子供たちの間では、「ヘンだけどカッコいい!」ということでヒトが大人気になるかも知れない。人間の子供に恐竜ファンが多いのと同じです。

 そんな、ゴキブリ型知的生物なんて、あるはずがないでしょうと笑う(女性の場合は強い嫌悪感を示す)人が多いでしょうが、それは想像力の貧困というものです。僕は今回エイリアン関係本を訳すにあたって、その方面の情報もあらためていくらか仕込んだのですが、エイリアンには、あのおなじみの目の大きなグレイや金髪のヒューマノイドだけでなく、爬虫類型とか、ゴキブリやカマキリみたいな昆虫型もいるらしいのです。それらは「知的生物」であるわけでしょう? はるか昔、文明以前の人類の前に、水陸両性の半魚人みたいな宇宙人が現われて、それが天文学や各種の技術・知識を教えた、なんて伝説をもつ民族までいる。「知的」と言えば哺乳類にかぎると決め込んで、イルカは知能が高いから、ポスト人類はイルカになるだろうなんてのは単純すぎるのです。大体、人類が絶滅する頃には、海も深刻に汚染されていて、デリケートなイルカたちの方が先に死滅してしまっている可能性の方が高い。その点、ゴキブリあたりだと…と僕は想像するのです。ゴキブリの美人とかイケメンとかはどういう基準になるのかわかりませんが、彼らの世界ではたぶんそういうのもちゃんとあるのです。それでゴキブリ型知的生物版『愛の不時着』が何百万年後には製作されて大人気を博すかもしれない。彼らの場合、パラグライダーなんか使わなくても飛べるので、別の凝った設定がまた必要になってくるとは思いますが…。

 話を少し戻して、いわゆる「真核生物」が出現したのが15億年前、多細胞生物の誕生が9~10億年前だったと言われています。哺乳類は2億2000万年前、霊長類は1億~7000万年ほど前。定義にもよりますが、ヒトに近い動物は600~500万年前に出現した。それから猿人、原人、旧人類(ネアンデルタール人はこれに分類される)と続いて、直接の祖先と言える新人類、ホモ・サピエンスが誕生したのが25~20万年前。学校の教科書などに出てくる世界最古のシュメール文明とか、エーゲ文明が生まれたのが紀元前3000年頃、今から5000年ほど前とされていて、こう見てくると、ものすごい時間がかかっているわけです。

 この最後の「文明発祥」については、その後の文明発達のスピードからして、それ以前に「何もなかった」とする期間が長すぎてむしろ不自然なので、プラトンの対話篇にも出てくるアトランティス伝説のようなものがあるし、実はそれ以前に人類は高度な文明に達したことが何度かあって、それが何らかの理由で破局的な崩壊を迎え、またゼロから始めるなんてことをやっていたのではないかとする説もあります。いわゆる「超古代文明」が実はあったのではないかという見方です。

 それはあっても不思議ではない(アトランティスの場合、あれは大きな島国家で、海中深く沈んだから証拠も見つけられないのだとされる)と僕も思うので、エジプトのピラミッドなんかにしても、大型トラックも重機も何もない時代に、人海戦術だけで、あんなもの作れるはずがない。子供の頃、隣が庄屋だった母方の先祖の屋敷があったところで、そこの入口の石段横の石垣の角石に大きな石が使われていて、そこに使われている石は全部、かなりの距離がある下の河原から運んだもので、昔の人には怪力が多かったから、その大きな石も一人で持ち上げたのだという話でした。山男の大人たちが集まって、こんな頑丈な石垣、組み上げるだけでも大変で、今ならとうてい作れないなという話をしているのを小学生のとき聞いたことがあるのですが、ピラミッドの石となると、そんなものの比ではないわけです。オカルト学説には、重力を操作して巨大な石を浮き上がらせる今は失われた特殊な高度技術があったのだという説がありますが、そうとでも解釈しないと、説明ができない。しかし、仮にそうだったとして、その高度技術はどこから来たのか? プラトンのアトランティス話も元はエジプトの神官が語ったものとして紹介されているので、先行する高度文明からそれは伝えられたものだったかもしれないわけです。

 こういうことをあれこれ想像するのは楽しい。ゴキブリに取って代わられるなんてのは少しも楽しくないと叱られるかもしれませんが、僕は「人類至上主義者」ではなく、そういう誤った思い込みが今見るような深刻な自然破壊をもたらして、人類存続の危機も招いたと考えているので、そんなことにはこだわらないのです。人類絶滅も悲劇ではない。最近は人の言うことなど何も聞かず、仲良くしようと思えばほいほいおだてるしか手がない「超」がつくほどジコチューの「自己愛人間」が激増しており、しかし、そういう人間のふるまいは(ご本人にはまるでその自覚がないが)申し分なく身勝手なので、まともな感覚をもつ人たちがそれに悩まされてうつ状態になるなんてことが多くなっていますが、こういうのは「人類至上主義」からさらに「自分至上主義」へと退化し、自分のこと以外は何も考えられないお粗末な手合いが増えているからで、38億年もの歳月をかけて出来上がったのがそういうグロテスクきわまりない生物だったというのは、自然に対してまことに相済まないことです。そういう人ばかりになれば、他者や自然との自然な心の通じ合いなんてものはこの世界から跡形もなくなってしまうでしょう。そうなると「人類絶滅」も理にかなっていると思わないではいられないのです。

 僕ら個人の人生は、悠久の進化の歴史からすれば、0.000000000000…1秒ぐらいのものにすぎません。この前、盤珪さんの話をご紹介しましたが、あれの公開しなかった第一部に、僕はこういうことを書きました。

 意識が遍在するように、生命(力)も遍在する。それがあなたや僕という有機体に浸透して、それに生命力を付与しているのです。肉体という生物機械が完全に壊れると、生命はそれを離れる。離れるだけで、それはなくなりはしないのです。
 主導権は自然もしくは宇宙の側にあって、僕の側にはない。僕が生命を所有しているのではなくて、生命の方が僕を一時的に所有しているのです。なのに、僕が「生きる主体」だと言えるのか? 僕は生命現象、自然現象の一部で、生きているのは生命であり、自然なのです。今生きている僕はその個別・具体的な表現の一つに過ぎない。


 ここで言う「生命」とは、生物学でいう「生命」、アミノ酸を基盤とするそれのことではないので、それを素材として生命現象を生み出す見えざる“ある力”のことです。これだけでは何を言わんとしているのか十分おわかりいただけないかもしれませんが、それが本質的な存在で、本気になって「自分とは何か?」をずっと辿って行けば、通常の自己は否定されて、そこに行き着くはずだ、というのが僕の立論です。意識や知性もその“ある力”に由来するので、それは個人の所有物ではない。教育や社会のおかしな条件づけのせいでそこをカン違いしてしまうから、何もかもが狂ってしまうのだというのが僕の基本的な考えです。

「日の下に新しきものなし」で、これは別に新奇な考えでも何でもないのですが、古代の人たちが洞察し、感じ取っていたそれを、現代人はすっかり忘れてしまった。これが個性の否定や全体主義につながるとすれば、それは完全な誤解によるので、そのあたりも心配だから、そうではないということをその後かなり詳しく説明しておいたのですが、ジコチューな人というのは例外なく浅薄で、機械的な反応パターンに落ち込んでいるので、かえって本来の豊かな個性を失ってしまうのです。当然、言葉の真の意味での自由なんてものももたない。そして自分も含めた、すべてのものを破壊するモンスターになってしまうのです。

 まだ間に合うかどうかは知りませんが、ここらへんでいい加減そのことに気づいて、いわゆる「意識のシフト」を起こさないと、種としてのヒトの存続自体が困難なものになってしまうでしょう。滅びた「超古代文明」が本当にあったのかどうかは知りませんが、今はグローバル文明の時代で、事実上単一の文明が地球全体を覆っています。だからローカルだったかつての文明の滅亡と違って、それは全的なものになってしまうわけです。

 少なくとも知能の観点からすれば、今の時点では、ヒトが地球上で最も進化した生物であることはたしかでしょう。38億年にわたって続いてきた生物進化の「汗と涙の結晶」として、今僕らはここにいるのです。しかし、それがやっていることは何なのか? 今、大量繁殖してアフリカやインドの農地を襲っているサバクトビバッタは、これも温暖化の影響の一つとして起きやすくなっているそうですが、深刻な問題として世界的なニュースになっています。あれは数が少ないときは「孤独相」と呼ばれ、おとなしく“節度”を弁えていて、行動半径も狭いが、異常繁殖すると「群生相」というのに変わって“凶暴化”し、筋肉が増え、体色も茶色っぽい緑からどぎつい黄色と黒に変わって、大集団を形成し、1日に100キロ以上も移動して、そこらじゅうの作物を食いつくしてしまうのだと言われています。

 これ、今の人類と似ていませんか? バイオマス(生物量)として巨大化したヒトという種は、どこかで性格的に狂ってきて、節度も配慮もヘチマもない凶悪な存在と化したのです。自然を徹底的に痛めつけた後は、利己性丸出しで同種族まで平気で食い物にするようになった。お上品ぶっても駄目で、実態はそうなのです。してみれば、僕ら人間にはバッタ並の知能しかないということになる。「万物の霊長」と己惚れるのはおこがましい。

 不安は悪いもののように言われていますが、それは間違いなので、神経症的なそれは別として、不安になるべきときに不安を感じないのはただの馬鹿です。古代ギリシャの哲人ソクラテスには「ダイモン(悪魔ではなくて神霊の意味)の声」が聞えたと言われていますが、それは彼に積極的に何かをしろと言うことは決してなかった。それはつねに「禁止」のかたちで彼に示されたのです。その真意を探ろうと、彼は一昼夜街路に突っ立ったままということも珍しくなかった。ときにはもっと長いこともあったようですが、周りの人はそれを知っていたので、ほうっておいた。これは、現代風に言えば、健康な不安の働きと言えるので、心の深い声が彼を立ち止まらせ、「何がいけないのか?」考えるよう仕向けたのです。

 最近は新型コロナのせいで、通常の活動ができず、僕らも立ち止まらざるを得なかったのですが、それがきっかけで自分の生き方を見直すようになったと言う人は結構いるようで、それは明らかにプラスの効用です。38億年の生物進化の歴史がなければ、僕らは今ここにいなかった。そこにいかなる意味があるのかとあらためて思いを致すのも無駄ではないかもしれません。絶滅してゴキブリ型知的生物に取って代わられる前に、地球生物進化のトップランナーとして、僕らヒトにはもっと他に考えるべきこと、為すべきことがあるのではないでしょうか?


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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盤珪禅師の「不生の仏心」について

2020.05.30(12:58) 728

 二年ほど前ですが、拙訳『偉大なる異端』(アーサー・ガーダム著 ナチュラルスピリット刊)を読んで感銘を受けたという北九州市に本部を置くさる団体の会長さんに、「翻訳よりも、自分で本を書くべきだ」と言われて、僕はそんなにおだてに乗りやすい方ではありませんが、一つ、自分自身の体験から学んだものとして、これだけは書き残しておきたいと思うことがあったので、『〈私〉からの自由』と題したものを書いたことがあります。全部で6万4千字ほどの文章で、薄手の本一冊分にはなる。論文調で書くと読む人が難しく感じるだろうと思い、ちょうどその頃月に一度、これもその人の勧めで地域のコミュニティセンターを借りて、オトナ相手の講座をやっていたので、そのときの口調を真似て第一部は講話形式、第二部はそれに対するQ&A、第三部は盤珪禅師についての話という三部構成にしたのですが、その人はそんなことを言うからには出版社と話がついているのだろうと思ったら、そうではなかったらしく、たぶんそのとき書いたものはその人が予期したようなものとはかなり違っていたのでしょう、反応も今一つで、元々僕の側に自分の本を出したいという積極的な思いがあったわけではないので、そのままになりました。

 それでそのまま忘れていたのですが、先日、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の最中、久しぶりに大学院生の息子とスカイプで話をしていて、それに関係する議論になりました。何がきっかけでそうなったのか、彼が僕には不案内なフーコーの話をしたあたりから哲学談議に入ってしまったのだと思いますが、カントのいわゆる「形而上学の不可能」に関する話になって、そこから「現象と実在」「体験そのものとその解釈や言語化の際に生じる厄介な問題」、さらには「そもそも意識とは何か?」という話に進んで、後で考えてみると、そこに書いたことと重なり合う部分が多かったので、そのときの議論の補いとして、彼に読ませてみることにしたのです(ちなみに、彼自身の専門は哲学ではなく、古代ギリシャ・ローマ史学です)。僕はわが子に自分の「思想」を吹き込んだり、特定の考え方を押しつけたりといったことは一度もしたことがありません。むしろそうならないよう用心してきたので、今後もそんなことをするつもりは全くないのですが、小さい頃は遊びの相手(この前書いた、失敗に終わったウシガエル捕獲作戦もその一つ)、高校生ぐらいになってからは議論の相手をして、だんだんそのレベルが上がってくるのを楽しんでいたのですが、たまたま議論がその方面に流れて、父親の思想のいわば「原点」的なものに触れることになって、彼はそれに大きな関心を示したのです。

 幸い、コピーが手元に一部あったので、それを送ったら、着いて数日後、メールで返事があって、面白かったので一晩で一気に読んだという話で、その感想がたんに字面を追ったのではない、観念的な理解では済まない厄介な部分を含むこともよく押さえた上での行き届いたコメントだったので、嬉しく思いました。最後に、「以上が僕の感想ですが、これを読み終えた後に、少し気分が楽になって自由に考えられるような気がしてきました。これはそれ自体が普段〈自分〉というものに囚われて生きていることの証みたいなものなので、あまり喜ばしいことではないかもしれませんが(笑)」とあって、僕はそれを人を悩ませるためではなく(途中でいくらか話がややこしくなるのは避けられないとしても)、「気分が楽になって自由に考えられる」助けにするために書いたので、大いに意を強くしたのです。これはひょっとしたら、頭の柔軟な若者には理解されるのではないか?

 それで、彼には第一・二部の方が面白かったようですが、そちらはこういうところに載せるには長すぎるので、最後の盤珪さんについての章だけ、少し手を入れてここで公開しておこうかという気になりました。これはそれだけ独立させても、理解に大きな支障はなく、伝記的な紹介も入っているし、盤珪禅師入門の役目ぐらいは果たせそうだからです。僕が面白いなと思うのは、今年に入ってから「拍手ボタン」というのをこのブログにつけたのですが、最初の「主客二元思考の克服」という文だけ、拍手が多くなっていて、政治的な与太話には僅かな拍手しか与えられていないことです。データからして、その拍手数はアクセスの数とは比例しないので、これは読者が何を期待してこのブログを見ているかを示すものかもしれません。つまり、「よけいなことばかり書くな」と言われているということです(涙)。人間には多様な側面があるので、「政治嫌いの政治的人間」というのも僕の一面なのですが。

 前置きが長くなりましたが、とにかくそういう由来の文章なので、読まれる方はそのつもりでお読み下さい。ちょうど前に書いたジョン・マックの翻訳の件で、無事版権が取得できたというしらせが入って、近々編集者とのやりとりに入れそうなので、ここに与太話を書く頻度もしばらくは減るでしょう。長文なのは、それを補う意味も含めてと、好意的にご解釈下さい。(尚、お読みになって疑問・ご質問等ありましたら、それには可能な範囲で誠実にお答えします。但し、それは真面目な、その方にとって切実な問いであることが要件です。「悟りごっこ」――ガーダムはそういうものに耽りたがる人をスピリチュアル・アスリートと呼びました――には僕は何の興味もないからです。)




 今回は「異端の禅僧」と呼ばれる、江戸時代の禅師、盤珪(ばんけい)さんについてお話しさせていただきます。この人を僕は「途方もなく偉い人」と尊敬しているのですが、それは別に僕が「異端」好きだからではありません(笑)。盤珪さんはお坊さん特有の「専門用語」を使わず、庶民にもわかる日常の平俗な言葉で教えを説き、その核となるものが「不生の仏心」なのですが、僕が「途方もなく偉い」と思う理由は、その教えを自ら生きた徹底ぶりと、人格的な高邁(こうまい)さにあります。

「とてもではないが、こういう人にはかなわないな」という人格の立派さがこの人にはあるので、僕など対抗する気がないからただ「偉い人」ですんでしまうのですが、もしもお坊さんでそれに張り合おうという人がいれば、絶望的な気分になってしまうかもしれません。いわゆる「悟った」人は今の世の中にもいるでしょうが、ここまで「身を持するに厳」な人はほとんどいない。外側だけそれを真似ようとすれば、窮屈になり、妙に底意地の悪い人になってしまうだけでしょう。現代人とは何か「人間の格」が違うという感じがするのです。

 それなら、僕ら現代の凡人には真似できないのだから、参考にもならないのではないかと思われるかもしれませんが、盤珪さんの教えそれ自体は「凡人にもわかる」ものだし、それを生かすことも分に応じてできる、と僕は考えています。盤珪さん自身がそう言っていたので、それを疑う理由はないのです。

 それで、その盤珪さんの教えについて今回はお話ししたいのですが、その前に、伝記的な事実についても少しご紹介しておきたいと思います。


 伝記的素描

 盤珪さんは元和八年、西暦で言うと一六二二年の三月八日に、この三月八日は旧暦なので、今なら四月一八日に当たると、ウィキペディアには出ていますが、播磨国揖西郡網干郷濱田村(現在の兵庫県姫路市網干区浜田)というところに生まれています。「父の姓は菅原氏、母は野口氏」と、『大法正眼国師盤珪琢大和尚行業曲記』にはある。幼名は母遅(もち)でした。ご本人は「もと四国浪人」という言い方をしていますが、生家は代々儒医の家柄だったらしく、盤珪さんはその五男四女の三男坊でしたが、十歳で父をなくしました。昔は数えで言うので関連文献では「十一歳」となっていますが、満で言うと十歳でしょう。それで今で言う母子家庭になったのですが、家督は長兄が継いだものと見られます。

 ご本人の回顧談によれば、盤珪さんは幼少の頃、かなりの利かん坊、腕白坊主だったようです。同時に死というものに強い恐怖心を抱いていたので、死に真似をしたり、誰かが死んだという話をすると、ぴたりと泣きやんだり、悪さをやめるということがあったようですが、『正眼国師逸事状』というエピソード集にもこういう話が出ています。昔は五月五日(今は「子供の日」ですが、当時は「端午の節句」と言った)に、男の子たちが川を挟んで二手に分かれて石つぶてを投げ合い、勝敗を競うという、今なら危険だし、野蛮すぎるというので禁止されること疑いなしの風習があったようですが、こういうとき、向こうに盤珪少年(こういう言い方をあえてさせてもらうと)の姿が見えると、相手の子供たちはその場所を避けたというのです。「蓋(けだ)し師勝たざれば則ち未だ敢て退かざるなり」と回りくどい漢文体で書かれているのがかえって可笑しいのですが、要するに、自分が勝つまでは決してやめない、そういう強情きわまりない子供であったことがわかるのです。極道の道に進めば、無敵のボスになる、そういうキャラです(笑)。『逸事状』の筆者があえてこの話を載せているのは、その「果敢勇烈」の気性が後年の仏道修行における峻烈さにそのままつながっていると言いたいがためのようです。

 さて、これは有名な話なのですが、盤珪さんがどうして出家して禅坊主になったのか、そのきっかけが面白いのです。十一歳の時、「師匠どり」をして、儒学の先生(そういう塾が当時はあって、庶民向けには寺子屋がありました)に漢文の素読を習うようになった。盤珪さんは腕白坊主だっただけではなく、神童の誉れも高かったと言われますが、ある意味これが「運の尽き」だったのです。ああいうのは初級が『小学』、上級が『大学』で、「具体から抽象へ」というふうにテキストの内容が仕組まれていたようですが、盤珪さんはこの『大学』の「大学の道は明徳を明らかにするにあり」という箇所に引っかかってしまった。この「明徳」とは何なのか? それで先生に聞くと、それは「性善」、人の本性が善であることだとか、「天の理」のことだとかあれこれ説明してくれるのですが、その「性善」だの「天の理」だのは実際のところどういうものなのですかと突っ込むと、あちこち聞き回っても、どの儒学者も明確な答えができない。ある先生が言うには、自分たちも口では文字の道理を説いているものの、本当のところは「明徳」が何であるかを知らないのだと。正直な先生です(笑)。それで、そういう難しいことは禅僧などの方がよく知っているだろうから、そちらに行って問え。

 それで盤珪さんはあちこち説法や講釈があると出かけて聞いて回ったのですが、一向埒(らち)が明かない。盤珪さんは親孝行な息子でもあったので、母親にもそれを教えて、納得して死ねるようにしてあげたいと願望していたのですが、聞きかじった話はできても、自分で得心した話ではないので、それも叶わない。

 とにかく、この「明徳」が盤珪少年にとっては最大の躓きとなって、先の『行業曲記』によれば、「此より疑情鬱結して、亡羊として切りに事業を排し、伶俜(れいへい)として方所なし、家兄その学業の就(な)らざるを喜ばずして師を放逐す」ということになってしまったのです。言葉がやけに難しいが、「亡羊」は「どうしていいかわからなくなって途方に暮れること」、「伶俜」は「落ち込んで一人ぼっち」ぐらいの意味です。そればかり気になって、お勉強も何も、全く手につかなくなってしまった。父親代わりの長兄は、そんな内面のことはわからないので、怒って盤珪さんを追い出してしまった、というのです。

 僕の場合は、前にお話したように、中学生の頃、1+1=2がなぜ正しいのか理由がわからないというので、それをきっかけに自分の頭に浮かぶ考えがすべて疑わしくなり、ひどい不安に陥りました。ことに頭を使おうとすると不安が倍加するので、その年齢ではどうしていいかわからず、相談できる人もいないので、元々学校の教科書勉強は面白くないので好きではありませんでしたが、勉強嫌いにいっそう拍車がかかって、高校進学さえ怪しくなってしまいました。川や山に逃避して遊んでばかりいたので、ただの怠け者にしか見えない。あまりにひどいと業を煮やした母親に「おまえには努力という一番大事な才能が欠けている」と言われてしまい、「やかましい!」と癇癪玉を破裂させるというようなことになったりしたのですが、盤珪さんの場合は対象が「明徳」なので、そのあたり僕よりずっと高級です(笑)。しかし、その強迫的なこだわり方には似たところがある。そこに引っかかって、他のことはロクに手がつかなくなり、それをずっと引きずってしまうのです。

 その間、色々なエピソードがあったようですが、長くなるのでそれは省くとして、盤珪さんは結局はこの「明徳」への疑問のせいで出家することになったのです。ここはウィキペディアをそのまま引用(但し、二箇所文字を修正)させてもらうと、「十七歳のとき、臨済宗妙心寺派随鷗寺(赤穂にあった)の雲甫和尚に参禅。ここで出家し、永琢という法名を与えられ、激しい修行に取り組む」という展開になるのです。

 それで修行に専念し、十九歳になると「諸方に歴参し、大方の知識を叩く」、つまり、あちこちに師と呼ばれる人を訪ね歩いて教えを乞い、厳しい修行(期間が誇張されていると思われますが、「五条の橋の下にも乞食四年」という記事まである)を重ねたのですが、自得するところがない。二十三歳になって、随鷗寺に戻り、雲甫和尚に泣いて窮状を訴え、どうすればいいですかと訊ねるのですが、和尚の方も「頭で考えただけではどうにもならない(擬せんとすれば即ち差〔たが〕う)」と教える他なく、それでいっそう座禅に打ち込むことになった。しかし、異常なほど烈しい修行を続けたために、病気になり、血痰まで出るようになって、ご本人が言うには、「おやゆびのかしら(頭)程なる血の痰がかたまって、ころりころりとまん丸に成りて出ました」というほどになるのですが、それでもまだ悟れない。あの「明徳」がどうしてもわからないのです。

 その時点では見る影もなく憔悴して、やせこけている。おまけに明らかな肺病です。それで見かねた周囲が庵室で養生しろと言うので、それに従ったが、このまま死んでも思い残すことはあまりないが、かんじんなあのことがわからずに死ぬのだけは情けないと、「明徳」にとりつかれて一途にそれを追い求めてきた永琢青年は思ったわけです。

 ところが、そうして死にかけたときに奇蹟が起きた。ある朝、うがいをしようとして外に出たとき、梅の香りがふと鼻を打った。その瞬間、「恍然として大悟す」ということになったのです。二十六歳の春です。疑念は消滅して、後年の禅師・盤珪がここに誕生した。病気も急速に快方に向かったのです。

 むろん、大事だったのはそこから先なので、禅の世界では一般に悟後の修行を「聖胎長養」と言って重視しますが、それからの修行の徹底ぶりがまた半端ではないのです。通常の座禅工夫、諸方歴参はもとより、再度「花子(こじき)隊に混入」し、「修心錬行」したことさえあったという記事が先の『逸事状』には見られます。他の文書と照らし合わせると、これは三十代半ばの頃と思われますが、三十歳頃、長崎在住の唐からの渡来僧・道者超元にその真価を認められ、すでにその方面では名が知られ始めているのに、功を誇るとか、自分を甘やかすということが全くない。そこらへんがふつうのお坊さんとは違うところなので、ご本人もこう述懐しています。これは『佛智弘済禅師法語』にある言葉で、大意を現代語訳しますが、「自分が二十六歳の時に体得した道理それ自体は、その頃と今とで、寸分の違いもない。しかし、ものを見る眼が透徹して、大法に通達し、大自在(自由)を得たことに関しては、当時と今とでは天地の隔たりがある」と。だからおまえたちも一片の悟りを得たことに満足せず、法眼成就の日を期して修行に努め励め、と弟子たちを激励したのですが、盤珪さんは明徳=不生の仏心をじかに洞察しただけでなく、長時間をかけてその「人格化」をはかり、いわば「生きた不生の仏心」になったのです。そこが並外れている。

 盤珪さんが日常生活上もどれほど厳格に身を持したかについては多くのエピソードがありますが、たとえばトイレに行ったとき、小の場合でもしぶきを散らして汚さないように大便所にしゃがんで用を済ませたとか、たいていは歩きだったが、やむなく駕籠に乗るときは駕籠かきの負担を減らすために蹲踞(そんきょ)の姿勢を取ったとか、女性が相談に訪れたときは、必ず弟子の誰かを隣室に控えさせ、あらぬ疑いが起きないようにしたとか、一番有名なのは、盤珪さんは若い頃の苛烈な修行がたたって病気がちだったので、それは大勢の人が集まる大結制のときのことだったようですが、味噌が悪くなった時があって、一番弟子の大梁という人が、皆はこれでも大丈夫だが、師の盤珪先生は病者ゆえ味噌があたっては大変なことになると、新しい味噌をつかせて盤珪さんにだけそれを食べさせたことがあった。盤珪さんはすぐその味の違いに気づいて、これは味がよいが、前の悪くなった味噌はもうなくなったから、皆にこれを出すようになったのかと給仕の僧に聞いたところ、いや、違います、こういうわけで禅師のだけ別にしろと言われたのですと答えたところ、盤珪さんは怒り、大梁を呼んで確認すると、「それならわしに何も食うなと言うのだな」と言って、そのまま部屋に閉じこもってしまった。いくら謝っても許してもらえず、師弟二人とも絶食したまま、七日もたってしまったので、ある信士が一同を代表してわびを入れることになり、禅師だけでなく大梁も何も食べていないのですと言うと、「自分はともかく、大梁が食べないのはよくない」とやっと顔を出して、許しが下り、その際、このすぐれた高弟に向かって、「よいか大梁、人の鑑となる師家がわずかでも私意をさしはさむようなことがあってはならぬ。おまえは私の身を思いやってそのようなことをしたのだろうが、それは私にとっては仇(あだ)になるだけだ。よく合点したか」と厳しく諭したというのです。差別を嫌う類似の話は他にもたくさんあるのですが、およそ徹底している。ふつうなら、師匠思いの弟子の心遣いとして、ほめられてもいいはずが、全然そうはならなかったのです。そこらのなまぐさ師匠だと、逆に特別扱いしてくれないことに怒る(笑)。

 盤珪というお坊さんはそういう人だったのですが、それでも最初「不生の仏心」の教えを説き始めた頃は、「外道かキリシタン」のように思われ、気味悪がって誰も人が寄りつかなかったそうです。そのシンプルな教えはふつうの坊さんが説くそれとは違う感じがしたからでしょう。それが晩年になると、宗派を問わず、僧俗多数の人々が群れをなして押し寄せ、対処に困るほどになった。「物には時節があるものでござる」と言っていますが、それは「時節」だけでなく、盤珪さんの成熟と人間的感化力の増大も関係していたでしょう。師弟の礼を取った人が計五万人いた、というのは誇張ではないようです。盤珪さんの没年は元禄六年九月三日(一六九三年一〇月二日)で、満七十一歳で亡くなったのですが、最後まで病をおして慈愛に満ちた応接を続けたのです。

「少し」のはずが長くなってしまいましたが、この他にも色々なエピソードがあって、僕は岩波文庫の『盤珪禅師語録』(鈴木大拙編校)を基にお話ししているのですが、そこにはいわゆる超能力を思わせる話や、不思議な話もたくさん含まれています。ご本人はきっぱりその手の能力は否定していますが、にもかかわらず、それ(未来予知の話が一番多い)はあったようです。また、これは超能力ではありませんが、中には西洋の聖フランチェスコを思わせるような逸話もあって、盤珪さんはあるとき、旅の途中で、大きな狼が近づいてくるのに出くわした。当時の日本にはまだオオカミがいたのです。その狼は盤珪さんの前に来ると大きく口を開けました。そのとき、盤珪さんはその口の中を覗き込むと、無造作に中に手を突っ込んだ。喉の奥に大きな骨が刺さっていたので、それを取ってあげたのです。狼は大いに喜んで、耳を垂れ、尻尾を振って感謝の意を表すると、姿を消した。以後、盤珪さんがその周辺を通りかかると、目的地まで必ず護衛したと言われています。狼の弟子までいたわけです(笑)。他にも、「讃海」とあるのは瀬戸内海だろうと思うのですが、盤珪さんが乗った船がそこを渡っているとき、朝日を受けて金色に輝く巨大な海亀が海面に姿を見せて、数里(一里は約四キロ)にわたって並走したとか、子供の頃の水難事故で視力を失ったが、その際龍が乗り移って驚くべき聡明さと才能を得た青年が、涙を流しながら熱心に盤珪さんの説法に耳を傾けていた話なども出てくるので、こういうのはたんなる荒唐無稽な伝説の類だと思われるかもしれませんが、この龍の話など、他でもない盤珪さん自身が、「渠(かれ)は龍なり。仮に体を溺子にかりて以て聴法す」とその正体を霊視で見抜いていたのだから、信憑性はあるのです(これは、盤珪さんがその熱心な青年に「汝いまだ畜生道を脱せず」と厳しい言い方をしたのを不審に思った人が後で理由を聞いたときの返事です)。ただ、そういうことを詳しくお話ししていると、キリがなくなります。

 さて、前置きが長くなったので、少し早いですが、一度ここでトイレ休憩を取ります。ここのコミュニティセンターの男子トイレの小用の便器の上には、「一歩前へ!」と書かれているので、男性の方は盤珪さんみたいに大の方へ行かなくてもいいが、その指示を守って、こぼさないようにして下さい(笑)。


「不生の仏心」とは何か

 ここでやっと本題に入りますが、盤珪さんの「不生の仏心」とは何なのか? よく「不生不滅」と言いますが、それは生まれることも滅することもない、永遠の存在を指すのに用いられます。盤珪さんが言うのもこれで、「不生」といえば「不滅」はそれに含まれるから、後ろは略したというのです。その永遠不滅の「仏心」がすべての人には生まれつき備わっている。それに目覚め、それに従って生きよ、というのが盤珪さんの教えです。他のことは何もいらないのだと。

 では、その「仏心」とはどういうものなのか? それは知恵と慈悲(愛)の結晶またはエネルギー体みたいなもので、それ自体で完璧です。それは絶対的に信頼しうるものです。ところが人間はそれがわからなくなっている。というのも、後天的に生じた自我というものに頭も心もやられてしまって、自分がそれだと思い、意識の置き所を間違えてしまったからです。現代風に説明すれば、そういうことになります。

 だから、無用な「我のはからい」を捨てさえすればいいのだということになる。そうすると「霊明な仏心」の働きが自然に輝き出るようになる、というのです。そうなると、たとえ周りの人全員が黒を白だと言い張るようなことがあっても、そういうことには騙されなくなって、正しい判断ができるようになる。それが徹底すれば「人を見る眼(まなこ)が開ける」のだとも言っています。

 シンプルそのものです。僕らは日常、自分で殊更そうしようと意識しなくても、各種の音や声を聴き分け、物を見分け、様々な臭いをかぎ分けることができる。これは霊妙な「不生の仏心」が生まれつき備わっている証拠で、事の是非善悪もそれに備わった叡知の働きで弁別することができる。そこにおかしな我というものを持ち込むからその働きが狂うのだと。

 これに対して、江戸のある儒者がこう訊ねたとのこと。なるほどご尤もなお話ですが、人間は死ぬと、いくら話しかけても返事はせず、目はものを見ず、耳も聞こえなければ、香りもわからなくなる。不生不滅ならなぜそうなってしまうのですかと。

 これに対して盤珪さんは、次のように答えたということです。以下、『盤珪佛智弘済禅師御示聞書』に出てくる、そのときの返事の意訳です。

「これは一見したところ、尤もな批判のようであるが、実はそうではない。むしろそれによっていっそう不生の教えの道理が通るので、それはこうである。
 人間のこの体というものは、地水火風(物質的諸元素)を一時的に借り集めてできたものなので、生滅の法則に従って、やがては消えてなくなる。これに対して心は不生なものなので、肉体は朽ちて灰や土となっても、一緒に消えてなくなることはない。ただ、生じた肉体を一時の家として宿り、体が生きている間はそれを道具として様々な働きを見せるが、それが滅すると、住家がなくなるので、その働きも消える。ただそれだけの話であって、一心は元より一心なのであり、そうした物質現象を超えた次元に存在する。だからこそ不生不滅と言えるのだと」

 この「一心は元より一心」のところは盤珪さんの言葉そのままで、「一心は元よりの一心でござるによつて、不生滅」と原文にあります。この「一心」は「個別の魂」のようなものを指して言っているのではなくて、絶対的な、僕らが共通してもつ「一心」のことです。それは「不生滅」であると、盤珪さんは確信していたのです。

 こういうのは僕が先にお話しした話と似た話ではないかと思われる人もいらっしゃるでしょう。人だけではない、「蚊や草木にも意識の保護がある」というような話をしましたが、それもこの「一心」の働きと見ることができるからです。そういうものとして自覚されているかどうかは別として、それはこの宇宙に沁み渡った途方もないエネルギーで、働きを通じてその存在がわかるのです。実際、用語に違いがあるだけで前にお話したのと内容はほぼ同じです。僕と盤珪さんの決定的な違いは、僕と違って盤珪さんはそれを生き、深く体得した偉人だったということです。それが人間としての大きな違いを生んだので、「理」のレベルではそんなに違わないのです。

 これは別に盤珪さんを侮辱したことにはなりません。盤珪さん自身がよく、「この中には一人も凡夫はござらぬ」と言って、誰でもそれに気づくことができる、と言っていたからです。僕にわかったということは、当然皆さんにもわかる。盤珪さんも言うように、こういうことはむしろ無駄に知識が多い人ほどわからなくなるのです。それは知識が自尊心のつっかえ棒みたいになっているからで、その犬も食わない卑小な自尊心をまず叩き潰すことが先決なのですが、それには必死に抵抗して、新たな「知のアクセサリー」を増やすことだけに熱心になる。これでまた人に能書きを垂れるときの材料が増えた、というようなものです(笑)。それは誤解にきまっているから、聞かされる方は迷惑なのですが、余計なことをするなと言っても聞かない。盤珪さんはそういうのを「脇かせぎ」と呼んでいますが、そういう人に欠けているのは言葉の真の意味での正直さです。じかにわが心を見ようとしないから発見がなく、真実に辿り着かない。


 短気の直し方

 話を戻して、ここからは盤珪さんの応接の仕方を少し具体的に見てみたいと思います。そうすると「不生の仏心」という言葉の含みがもっとよくわかり、それをただの知解からもっと深いレベルに浸透させるのにも役立つでしょう。なまくらな僕にとっても、それは勉強になるのです。

 この岩波文庫本の最初に出てくる話は、「短気」についてのものです。ある僧が、自分は生まれつき短気で、師匠にはよくそれで叱られ、自分でもこれは悪いことだと思うので直したいと思うのですが、何しろ生まれつきなので直りません。どうすれば直るでしょうかと盤珪さんに相談するのです。

 これに対して盤珪さんは、そなたは面白いものをもって生まれついたものだな。直してやるから、今ここにその「短気」とやらを出してみなさいと言います。いや、今はないので、何かの時にひょっとそれが出てしまうのです、と僧は答える。

 それならそれは生まれつきではない、と盤珪さん。それはそなたが何かの縁に遭遇して自分から仕出かしているもので、わが身の贔屓ゆえに、向こうのものに取り合って、我意を立てようとして、勝手に仕出かすもので、それを「生まれつきの性格」というのは、親に責任を転嫁する大不孝者と言うべきだ。親が産みつけたのは「不生の仏心」だけで、他のものは何も産みつけていない。迷いというものはすべてわが身の贔屓から出るもので、自分から仕出かしておいて、それを生まれつきというのは愚かなことである。仕出かさなければいいだけの話で、そうすれば短気なんてものはなくなるのだ。そなたの短気が出るのは、誰か相手の者がそなたの気に逆らうようなことを言ったりしたりしたとき、用もないのに自分の思惑を立てようとして、それに取り合い、自分から短気を出すからで、わが身の贔屓をせず、相手に取り合わず、我意を立てさえしなければ、そんなものが出る幕はない。そなたはおそらく、小さい頃から周囲の人が短気を出すのを見習い、聞き習いして、無意識に自分の中にそれを取り込んでしまったのだろう。そしてそれが気癖となってしまい、生まれつきだと思うようになった。それは愚かなことなので、このことの非をよく理解して、今後長く短気を出さないようにさえすればよい。短気を出してから直そうとするのはよけいなことで、初めから出さなければ直す短気というものはなくなってしまう。短気だけではない、およそ迷いというのはすべてそういうもので、親が産みつけたものはただ「不生の仏心」一つで、他には何もないのだということをよく信得して、まず三十日間その状態でいれば、自然とそれができるようになる。不生の仏心一つですべては整うということをよく納得し、その状態でいれば、そのまま活き仏になるというものではないのか。

 そういうことを、原文はもっと繰り返しが多いのですが、諄々と説くのです。どういう相談を持ち込まれても、大体言ってることは皆同じだと言ってよい。だから「知的」な人には物足りなく思えるかも知れず、実際このときも、ある「出雲の俗人」が居合わせて、「お示しが少し軽すぎるのではありませんか?」と言うのですが、「お手前が仏心を何でもないものと思って、腹を立ててはそれを修羅道に仕替え、我欲を出しては餓鬼に仕替え、愚痴を出かしては畜生に仕替え、いとも安易につまらない種々のものに仕替えてしまうのが軽すぎるのだ」と逆襲されてしまうのです。軽いどころか、それは重いのだ。だからこそ皆の衆は仏心でいられずに、迷いに明け暮れることになる。しかし、重いといっても、この仏心の道理をしっかり腹に入れて迷いに引きずり回されなくなれば、骨も折らず、軽く、心やすく、活き仏でいられるようになるのだと。


 修行のポイント

「不生の仏心」が何かをよく理解するためには、この点も重要です。それがわかりそうなものをいくつか見てみましょう。

 ある人(僧侶とは書かれていない)がこうたずねました。修行に励もうとしますが、どうしても進むより退く方が強くなってしまって、悩んでいます。どうすれば退かないようになるでしょうか?

 盤珪さんの答。不生の仏心でいなさい。そうすれば、進むこともしりぞくことも不要になる。不生の人は進退にはあずからないので、常に進退を超えているのだと。

 この場合、質問した人は、自分という実体が別にあると思っていて、それが進歩したり、退歩したりしていると思っているのです。まずそこが間違っていて、その地平に終始していたのでは、盤珪さんの言う「不生の仏心」には永遠に行き着かない。それを手放せ、と言えば、また〈誰が〉それを手放すのかという話になってしまいそうですが、それは前にお話ししたことを思い出していただければ、おわかりかと思います。個別の自分が「不生の仏心」を取り込んで豊かになるとか、そういう話ではないのです。それがあると思っている間は、「進退にはあずからぬ」不生の心はわからない。盤珪さんの言葉で言えば、そのとき人は本来の心を離れ、「一心を二心にしてしまう」過誤に陥っているのです。

 この話の後、有名な禅の公案の一つ、「百丈野狐」の話(「因果をくらまさず」というあれですが、ここは直接関係がないので説明はカットします)で悩んでいるという僧侶が登場します。長年それで骨を折っているが、いまだによくわからない、どうすればいいかご教示ください、というのです。

 盤珪さんはこれに対して、「自分のところではそのような古法具(ふるほうぐ)の詮索はしない」と答えます。他のところでも公案を無用の長物視するような発言はいくつも出てくるのですが、公案を重視する臨済宗のお坊さんがそんなことを平気で言うというのは面白い。盤珪さんによれば、しかし、そういう疑念をわざわざでっち上げて、それに頭を悩ませるというのはよけいなことなのです。それは盤珪さんがかつて苦しんだ「明徳とは何か?」のような本物の疑問ではない。作為的な、あてがわれたニセの疑問にすぎない。となると、それは「仏心を疑団に仕替えさせ」ることで、「人に毒を食わせる」ことでしかない。公案の狙いというのは、僕の理解するところでは、頭でいくら考えても解決のつかないような問題を修行者に吹っ掛けて、行き詰まらせ、その「考える自分」そのものを崩壊させるところにあるのでしょう。そのとき洞察が生じるというものですが、盤珪さんに言わせれば、そういう回りくどいことをするより、じかにそこにあるものを指し示してあげる方がいいのです。

 公案擁護派のお坊さんたちは、いや、それでは大事なことはわからない、長年の思考習慣の罠を破って心の深い自覚に至らせるにはそういうテクニックも必要なので、指し示すだけでかんたんに悟れるなら、誰も苦労はしないのだと。

 僕も四十前後の頃、「百尺竿頭進一歩」(ヒャクシャクカントウに一歩を進む、と読む)という、昔何かで読んだ言葉を突然思い出して、それが頭に貼りついて困ったことがあります。禅坊主でもないのに全く余計なことですが(笑)、「オレに死ねと言うのか?」といくらか被害的になって、というのも、竿の先っぽに立っていて、そこからさらに踏み出せば、物理学の法則によって、転落して死んでしまうからです。むろん、それでビルの屋上にのぼって、そこから足を踏み出すなんて自殺行為はしなかったのですが、それとは違うが、心理的には何か似たようなことが必要なのだとはわかっていた。それまではよく自覚していなかった無意識の隠れた恐れや抵抗が残っていて、それを突破しないと先には進めないなと感じていたのです。そこを脱け出るのに数年かかった。地獄のような鬱の数年で、ずいぶんと人にも迷惑をかけてしまいました。むろん、これは禅の坊さんたちが言っているのとは違う意味での解釈でしょうが、そういうことは僕にはどうでもよかったので、妙なものを思い出してしまったものですが、それはたしかに公案の用は果たしてくれたのです。

 話を戻して、だから公案も役に立つことはあるが、下手をするとそれは際限もない観念の遊戯に落ち込んでしまうことがある。盤珪さんの言う「脇かせぎ」になってしまうことはあるでしょう。ああいうのは師匠がよほど偉くないと駄目です。

 次に、「戒律」の問題です。これは子供たちの学校で言えば「校則」のようなものです(笑)。最近はそのようなものが多すぎるようで、僕も塾で生徒たちから「容儀検査」なるものの話を聞いて、やれ前髪が眉にかかっているだの何だの、よくもそんなアホらしいことやってるなと、自分は一度も経験したことがないものだから呆れるのですが、律僧の比丘(びく=お坊さん)がこういう質問をしたという記録があります。

 私どもはつねに二百五十戒を保つようにしていて、これで成仏を遂げようとしているのですが、これはよいことでしょうか、それとも悪いことでしょうか?

 盤珪さん。「それは悪いことではなく、よいことでしょう。しかし、最上とは言いかねる。元々律というのは悪比丘のために作られたもので、まともな僧侶は初めからそんなことはしない。酒を飲まない者には飲酒(おんじゅ)戒はいらず、盗みをしない者には偸盗(ちゅうとう)戒はいらず、嘘をつかない者には妄語戒はいらない。だから戒をたくさん立てて、それを守っていると触れ回るのは、自分たちが悪比丘の集団だと宣伝しているようなもので、自慢にはならない。不生の仏心のままでいれば、初めから戒を守るの、破るのといった沙汰はなくなる。不生の見地からすれば、枝葉末節の事柄で、論じるに足りないことである」と。

 一般世間のことでも、ごく一部の不心得者のおかげで、法律だの規則だのが増え、規制がどんどん強化されます。まともな人間を基準にしていない(笑)。それで、あれこれ不自由、不便なことが増えるが、それで社会がよくなるなんてことはまずないのです。かえって主体性のない人間が増えて、規制しないと何をしでかすかわからないというので、さらに規則や法律が増え、いっそう窮屈になる。「不生の仏心」を信頼していない(笑)。

 これはずっと前に読んだもので、記憶が定かではないのですが、たしかダライ・ラマの自伝だったかと思います。中国に侵略される以前のチベットのお話です。あるとき、どこかの村で夫婦喧嘩の果て、夫が妻を包丁で刺し殺すという事件が起きた。それは一大ニュースとなって、国中が震撼したというのですが、その程度のことで「震撼」するというのは、いかに当時の仏教国チベットが平和であったかということです。日本を含めたいわゆる先進国では、そのようなことはニュースにもならない。少なくともその程度のことで「震撼」する人は誰もいないのです(笑)。当時のチベットのことを僕はよく知りませんが、あそこはおっとりした国で、社会の法律・規則の類もそんなに厳しくはなかったはずです。だから外部的な規制に頼りすぎるというのは、何かが根本的に間違っているのです。

 だいぶ詰め込んだ話をしてしまったので、皆さんお疲れでしょうから、ここでまた一息入れます。盤珪さんというのは割と心理学関係で注目する人が多いような気がするのですが、最後に「心理学的な見地から見たその教え」ということで、僕が気づいたことをお話ししたいと思います。


 雑念の払い方

 これに関して取り上げたいのは、「雑念の払い方」に関する、こういう話です。これは先の『御示聞書』の番号11の付いた箇所で、岩波文庫本の21~22ページ、「師示衆曰」(「師、衆に示して曰く」と読みます)で始める段落の意訳です。盤珪さんがすぐれた心理学者でもあったことがよくわかる一文です。

「人は身びいきから迷いを起こす。たとえば隣の人同士が喧嘩をしたとして、それが自分に無関係なら、どちらの言い分に理があるということを正しく分別して、腹を立てるということはない。自分のことならそうはいかず、すぐに頭に血をのぼらせてしまう」

 これは皆さんどなたにも覚えがありますよね? 自分のことを言われると心がザワザワっとしてきて、次の瞬間、もう「不生の仏心」どころではなくなっているのです(笑)。それはともかく、ここからが盤珪さんの説明の素晴らしいところです。

「仏心は霊明なものなので、自分のこれまでの思考や感情の痕跡をすべて影としてとどめている。その影に引っかかり、それに執着するからまた迷いを起こしてしまう。しかし、それは影にすぎない。念(思い)は底にあって起こるものではない、つまり、霊妙な仏心それ自体に所属するものではなくて、それに映る影であり、その影に対する自我の反応にすぎない。従って、念に実体はない。だからその種の反応は起これば起こるまま、消えれば消えるままにして、いちいちそれに取り合わなければいいだけである。そうすれば迷いは生じない。それに執着して引きずられさえしなければ、たとえ念が群がり起こっても、ないのと同じになる。少しも妨げにはならないので、努力して抑圧したり、排除したりしなければならない念というものは一つもなくなるのである」

 盤珪さんの言う「仏心」は完全なものなので、逆にそのことが災いして、あらゆるものを影として映し出してしまう。無知な僕らはそれに引っかかってしまうというわけです。影だけ見て悩み、葛藤して、かんじんなそれを映す明鏡の存在には思い至らない。鏡それ自体は見えないからです。そこに気づけ、と教えてくれているので、こんな適切なアドバイスはめったにないと、僕は感心します。尚、おまえはかなり恣意的に訳しているのではないかと言われるかもしれませんが、そんなことはないので、僕は翻訳屋のはしくれとして、ふだんできるだけ意味が明確な、わかりやすい文にする努力はしていますが、その際、内容を歪めるようなことがあってはならないと戒めているので、「念に実体はない」というあたりも、原文は「もとより念に実体はありはしませぬよつて」となっているので、何ら恣意的ではないのです。

 もう一つ、こちらは『法語』の番号12、文庫本の100ページのところです。今のところと直接内容的につながっています。

「世俗のある人がたずねた。『念が底にあって起こるものではないというのはわかりましたが、次から次へとそれが起こってやむことがなく、不生になれません』
 盤珪さんがこれに答えて言うには、『生まれたときは不生の仏心だけだが、成長するにつれて周りの人の誤った心の使い方を見習って無意識に条件づけられてしまい、いつのまにか本来なかった迷いの心を身につけてしまって、迷いが達者になってしまうのだ。しかし、迷いは心本来のものではないがゆえに、〈本体は迷いのない不生の心である〉という自覚を強くもつなら、無用な念は消滅するものである。たとえば酒好きの人がいたとする。病気になって酒が飲めなくなると、自然に禁酒になる。その後酒を飲む機会があれば、また飲みたい気持ちは起こるが、そう思うだけで飲まなければ、何の問題も起きなくなる。迷いの念もこれと同じである。思いが起これば、起こるまま、やむままにして、それに動かされて行動に移らず、またそれを嫌って無理に抑圧したりしなければ、妄念はいつのまにか不生の心の中に消え去ってしまうものである』」

 さらにもう一つ、同じテーマです。やはり『法語』の7、文庫98ページ。

「ある人がたずねた。『起こる念を振り払おうとすると、またその後から別の念が生じて、果てしのないことになってしまいます。これはどのようにすれば防げるでしょうか』
 盤珪さんが答えて言うに、『起こる念を払おうとするのは、血で血を洗うようなものである。初めの血は落ちても、また別の血がついて、汚れがなくなることはない。こういうことをしてしまうのは、心が本来迷いのない不生不滅のものであることを知らないからである。念を実体視して、それにいちいち取り合うから、それにからめとられて念の相続が起き、果てしなく輪廻することになる。念は仮に生じた現象にすぎないということを知って、それに自己同一化したり、逆にそれを嫌って排除したりすることなく、起こるまま、やむままにするがよい。不生の心と念との関係は、鏡とそれに映る映像の関係と同じである。鏡はその映る影によって汚染されることはない。それをよく自覚するがいい。そうすれば鏡より何万倍も精妙で明るい仏心は、その光の中に影を消し去ってくれるだろう。この道理をよく納得すれば、念はいくら起きても妨げにはならないのである』」

 現代語訳だけで、もう説明の要はないと思えるのですが、「盤珪心理学」がふつうの心理学や精神分析と大きく異なるところは、意識と無意識、分析する主体と分析される対象といった二元的な対比がそこにはないことです。意識的な自己が無意識を探求して、そこから何かを取り込むとか、分析によって自己のあり方を修正するとか、そういったものではないのです。そうしたことはむしろ事態を複雑化、悪化させるだけだと見る。


 自己理解の要諦

 次のものは、今ご紹介した『法語』12の次の13の訳です。それに続けて同19と、二つ並べてみます。

「ある僧がたずねた。「煩悩や妄想を鎮めることができません。どのようにすればそれができるでしょうか」
 盤珪さんが答えて言う。『妄想を鎮めようと思うのもまた妄想である。妄想は本来存在しないものだが、自分があれこれ分別するところから生まれるのである』」

「ある俗人がたずねた。『先年、雑念が起きるのをどうすれば止められるかとおたずねしましたところ、念は起こるまま、やむままにせよとの仰せでした。その後そのお教えに従いましたが、起こるまま、やむままになりません」
 盤珪さんが答えた。『そなたは起こるまま、やむままにする方法が何かあると思っているから、それができないのだ』」

 どちらも同じことの指摘ですが、僕らは内面の問題でも、無意識に「自分」と「問題」とを分けて、前者が後者を解決するという図式で考えます。そこらへんは江戸時代も今も変わりがないわけです。しかし、「問題を解決する自分」という観念それ自体が問題なのだと、盤珪さんは教えるのです。それ自体が「妄想」の一部なのだと。「方法」が出てくるのも同じ理由によります。「私」が「念」を消そうとすると、「どうやって?」という問題が必ず出てくるからです。心の中で「私」という妄想と、取り除くべき「念」とが戦っている。妄想と妄想との間の熾烈な戦いです。

 ある意味、ここが最重要ポイントです。真面目な人は自分の心の中を眺めてこう言います。「私の中にこのような醜い思いがあってはならない」と。それで取り除こうとするのですが、それはその人の自己イメージを傷つけるからです。私の心の中は高貴なもの、美しいもので溢れていなければならないのです。皆さん苦笑しておられますが、ここにおられる方は正直な人たちなので、僕らの心の中は実際はその逆であることの方が多いということをよくご存じなのでしょう。

 さて、どうしてそういうことになってしまうのか? 理由はかんたんで、それは他でもないその「私」、自己イメージそのものが利己的で醜いものだからです。「美しい私」などというものは存在しません。あると思ったとすれば、それはたんなる自己欺瞞です。美や愛というものは個人の所有物ではなく、所有しようという意識が働くときには消えてしまう、あるいは変質して歪んでしまうものだからです。しかし、「私」という観念には必ずこの所有欲と排他性が伴います。ゆえに「美しい私」は存在しえないのです。

 そうした自己観念それ自体が、心に醜いものをつくり出す元凶なのです。さらに言えば、その醜いものが、それを消そうとして葛藤する思いが、その矛盾した感情が、「私」というものの実際の中身なのです。「私」がそれを消し去れるわけがない。そうしようとすればするほど、事態は複雑化するのです。「血で血を洗う」結果になってしまう。

 盤珪さんは、そういうことをやめろと教えてくれているのです。盤珪さんは今述べた「私」と、それがつくり出す各種の妄想・煩悩を鏡に映る影にたとえました。そして、それを映し出す、その背後にある鏡こそが「心の本体」であると言うのですが、どうして僕らにそれが認識できないのかといえば、「私」という観念に基づいてそれを捉えようとするからです。その場合、捉えられるのはそこに映った影のみで、それを相手に悪戦苦闘するだけになってしまう。「念と念とで相撲とる」(盤珪さんの和歌より)という不毛な事態に落ち込んでしまう。第一部でもお話ししたように、「私」という限定されたものに無限定なもの、絶対的なものは理解できません。その錯誤に気づいて、そこから意識を解放することが必要なのです。

 それが盤珪さんの言う「気づき」なので、僕は別のところで「主語のない意識」という表現を使ったこともあるのですが、「私」以前に存在するその意識でもって、誰がと問うことなく、ただ眺めるのです。それは可能だと、僕は最初のお話で申し上げました。理由も説明しました。「私」自体がたんなる観念、妄想なのです。一個の生命体として機能できるように、僕ら各人の脳には「統合ソフト」のようなものが備わっています。それは「機能」であって「実体」ではないと、そのとき申し上げました。しかし、思考が肉体の見かけ上の独立性をモデルとして、その「機能」にすぎないものを「実体」に祭り上げてしまい、その架空の自己に感情的に自己同一化して、意識がそこに張りついてしまうところから種々の混乱が始まるのです。けれども、幸いなことに僕らはそれが倒錯であることに気づくことができる。盤珪さんの言う「不生の仏心の霊明な働き」ゆえにそれが可能なのです。そのとき「実体」視されていたもの(=自己)は感情の重しを取り除かれて、元のたんなる「機能」に戻る。それはもはや「妄想の発生源」であることをやめる。そのとき影も消え始める。浮かんでも、それらが深く根づくことはなくなるのです。

 盤珪さんのこうした教えは、僕らが盤珪さんのようなすぐれた人格者にならなくても、役に立ちます。それによって僕らは無用の苦悩・葛藤から解放され、心はその分軽くなり、頭もよく働くようになって、以前より知恵も出るようになるでしょう。この根本的な真実をつかんでいるかどうかは大きな違いです。盤珪さんはくだけた調子の和歌もいくつか詠んでいるのですが、「死んで世界によるひるくらせ〔夜昼暮らせ〕、それで世界が手に入るぞ」という自在の境地までは行かなくても、「いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす」苦しさからは、理解の度合いに応じて解放されるでしょう。僕が盤珪さんの話を持ち出したのは、何よりこのあたりのことをお伝えしたかったからです。ご清聴、ありがとうございました。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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新型コロナをきっかけに考えたこと

2020.04.05(18:08) 708

 前回のブラックジョークは全然受けなかったようで、日本ではこういうのはやっぱり駄目だなとあらためて思ったのですが、今回は真面目に書きます。途中から議論がどこに行くのかわからなくなりますが、僕にはいろんな話を混ぜてしまう悪癖があるので、そこはまあ我慢して下さい。

 言うまでもなく、今回の新型コロナで一番困るのは、「いつまで続くかわからないこと」です。調べてみると、SARS(重症急性呼吸器症候群)のときは7~8カ月(2002年11月に流行が始まって、2003年7月に終息)と比較的短かったが、あれは潜伏期間や発症初期の患者の感染力は低かったと言われ、だから発症して肺炎の症状が本格化した患者を隔離すれば大体感染の拡大は食い止められたのが、今回のコロナはさしたる自覚症状がないレベルでも感染力をもつとされ、症状が重くなった患者を隔離すればいいということにはならないので厄介です。どこに感染者がいるかわからない不安な状況の中で地域や社会全体が「活動自粛」を強いられる。

 非常事態宣言を出すかどうかで日本政府は苦悩しているようですが、医療関係者には「早く出してほしい」と言う人が多いようです。仮にイタリアのような「感染爆発」の事態になると、医療体制が崩壊してしまうと、それを危惧しているようだからです。今のように軽症者まで入院させていたのではベッドが足りなくなるのはあたりまえで、それには、コロナの影響でガラガラになっているホテルを借り上げて、そこに一時隔離するというような対応を取ればいいのだという意見があって、僕もそう思います(それでも人手不足は否めないでしょうが)。

 政府がそれを出し渋っているのは、何より「経済の落ち込み」を心配しているからでしょう。しかし、今のような状態がずっと続くと、ヘビの生殺しのようなもので、ダメージを受けている業種はずっとそのままで、終息の見通しも全く立っていないので、動きようがないまま「コロナ死」する羽目になるのです。中途半端な「自粛」の呼びかけそれ自体が経済への深刻な打撃になっている。全然、「打撃を緩和」することにはなっていないのです。

 そもそも、経済はその前からはっきり落ち込みの兆しを見せていた。次の記事は「コロナショックで金融パニックより不動産市況の暴落を危惧すべき理由」と題された、ダイヤモンド・オンラインの小宮一慶氏の文章からの引用ですが、

 日本経済の現況を表す数字はどれも「コロナショック」により急速に悪化しています。しかし、この影響を見る際は注意しなければなりません。先ほど見た日銀短観でも分かりますが、正しくは、日本経済はコロナ禍以前の2019年から徐々に下降気味であり、10月1日の消費増税により一気に減速したところを、「コロナショック」が直撃したと認識すべきです。

 とあるように、「弱り目に祟り目」のコロナ騒動だったのです。他に、アメリカの株式バブルも、コロナがはじけるきっかけを与えたので、「コロナ本家」の中国もそれ以前から経済減速が確実視されていた。だから世界全体にとって同じようなことが言えそうなので、これは僕には西洋中世のペスト禍を思い起こさせます。それはたんに膨大な死者を出したにとどまらず、行き詰まりに達していた中世社会システムにとどめを刺す結果をもたらしたのです。

 むろん、今回の新型コロナはペストほど致死率の高いものではありません。しかし、それは経済のグルーバル化と移動手段の発達によってあっという間に全世界に広がり、それでなくても焼きが回っていた今の資本主義システムに深刻な機能不全をもたらしているのです。見た目にも衰弱した感染者が感染源になるというのなら、SARSのときのように隔離して治療すれば足りるが、「元気な感染者」がどこにいるかわからないというような状況では封じ込めは難しいから、なおさら影響は大きいし、長引く。

 折しも、地球温暖化による様々な災害が顕在化しているところです(この前のオーストラリアの大規模な山火事や、アフリカ、インド、パキスタン、そして次は中国への襲来が予測されているサバクトビバッタの異常繁殖なんかも、それが直接関係する。日本でも、異常気象は頻発して「常態」化しつつあるので、異常気象の定義自体が怪しいものになってしまった)。極地の氷山の崩落、氷河の消失、アマゾン密林の消滅、砂漠化の拡大、海洋汚染の深刻化とあれこれ重なれば、食糧生産そのものが落ち込んで、いずれ億単位の餓死者が出て、これに気候変動による大規模な自然災害が重なって、世界経済が壊滅的な状態になってしまう可能性もある。これまで密林の奥深くや、氷で閉ざされたツンドラの中に眠っていた未知のウイルスが、他の動物を介してヒトに感染し、パニックをひき起こすことも十分あると考えられている。海面上昇で多くの都市が水没するなんて話も、これに追加されるわけです。

 後で振り返ると、あの新型コロナウイルス騒ぎは「序章」に過ぎなかったということになるかもしれません。これは「終わりの始まり」だということです。コロナ一色になっている今はそんな話は忘れられたみたいになっていますが、上のような話の他にも、南海トラフ大地震をはじめとする大地震が近い将来、日本を襲う可能性は大いにあるわけでしょう? いっぺんに来られたらひとたまりもありません(それと関連してまた原発事故など起きれば最悪)が、小出しに来られてもその打撃にははかり知れないものがあるのです。

 何にしても、早く終息の見通しが立たないと困りますが、長引いている間に、僕らは「ポスト資本主義」について真面目に考えてみた方がいいかもしれません。というのも、すでに見た気候変動や自然災害の他に、そういった外的な問題が何もなくても、今の資本主義システムは深刻な内部矛盾をはらんだものになっているからです。

 これは前にも一度どこかに書いたことがあるような気がするのですが、学生時代、僕は心理学者ユングの「ヨーロッパの女性」と題された講演録を読んでいて、ショックを受けたことがあります。それは日本教文社から出ていたユング著作集第四巻『人間心理と宗教』に収録されているので、ヒマがある人は図書館ででも借りて読んでみられるといいと思いますが、そこには時代相応の彼の人種的その他の偏見もかなり混じっているとしても、ユングらしい鋭い洞察が入っていて、これは女性の社会進出と意識変化に伴って生じるであろう伝統的な結婚制度の崩壊または変容について述べているのですが、二十代初めの僕にショックだったのはそのメインの話ではなく、ローマ帝国の崩壊について述べた彼の意見でした。

「キリスト紀元がはじまる前後のイタリアで総人口の五分の三を占めていたのは、人間の形体をもっているものの市民権をもたず、物品同様売買の対象にもなった奴隷たちでした。すべてのローマ人は奴隷に囲まれて生活していました。そしてその結果、奴隷とその心理とが古代イタリアの全土に氾濫し、ローマ人たちは一人の例外もなく、無意識のうちに、精神的には奴隷にひとしい者になり下がってしまいました。つまり、奴隷の雰囲気の中で暮らしていた彼らは、無意識裡の影響を受けて、奴隷の心理に感染してしまったのです。…(中略)…ウェルギリウスの牧歌第四には、ローマ帝国の中に瀰漫(びまん)していたいちじるしいまでの憂愁と救済への憧れが感動的な筆致で描き出されていますが、かかる風潮は奴隷の影響の直接的な結果と見てよいのです」(p.274~5 濱川祥枝訳 一部訳語改変)

 ローマ帝国が分裂、崩壊へと至ったプロセスは単純ではありませんが、学校の教科書では、今でもそうかどうかは知りませんが、「ゲルマン人の大移動」とセットになっていて、それが崩壊の引き金を引いたことになっていました。ユングの見立てでは、しかし、「奴隷的心情」の伝染・蔓延で市民が無気力化し、内面的にすでに崩壊していたから、そうした外圧にもちこたえられなかった、ということになるのです。

 これも前に書いたことがありますが、今のこのグローバル文明とやらでは、古代の奴隷制が不気味に装いを変えただけで復活しつつあるように見えます。今は若者でも、いや、むしろ若者ほど、自由感は乏しくなっているでしょう。既成のシステムの中に何とかして自分のポストを見つけないと人生終わりになってしまうみたいに感じて、座席が減るばかりの椅子取りゲームに勝ち残るのに必死で、「このインチキなシステムそのものをぶち壊して、新しいものを作るのが自分たちの仕事だ」なんて思っている若者はごくごく少数でしょう。やはり手堅いのは公務員か、いや、人手不足の今は民間の大企業の方が給料も福利厚生もいい、なんて話になって、その“外側 ”に出て考えることはあまりしないのです。とにかく非正規になるのだけは避けたい、云々。

 これにはむろん、慢性不況の「失われた30年」が関係していて、昔より生活レベルはずっと上がっていると、貧乏だった昔を知っている僕などは思いますが、広々とした将来見通しのようなものは何もないのです。日本の一人当たりGDPが世界26位になってしまったなんてニュースがあって、その後それは韓国にも抜かれてしまったと報じられました。国全体のGDPは依然として世界第3位ではあるものの、いつまでその座にいられるかはわからず、労働生産性の低さはさらに有名で、イタリアより下になっているという話で、その“斜陽度”は際立っているから、なおさらそうなるのでしょう。

 しかし、問題はそれだけではない。キーワードは「格差」で、GDP世界第一位のアメリカがその典型ですが、一部の富裕層に資産が集中し、経済成長の果実もすべてそこに吸収されて、中間層は没落し、労働者は賃金奴隷に等しいものになって、貧富の差がひたすら拡大するというようなあり方が「世界標準」になりつつあるからです。都市部と、製造業が衰退して荒廃の一途を辿る地方とのコントラストも鮮明になっている。生産にも文化にも何ら貢献することがない「金融マフィア」と呼んでいい連中がマネー・ゲームに興じて、それが経済を操り、翻弄し、やり損なって損失が出た場合は税金で補填させ、というような勝手放題をやっているのも問題です。庶民層はそうした利己的・無責任な行動のあおりを食っていっそう貧困化が進むということになる。これはどう見てもまともではありません。中国のような一党独裁国家は例外として、資本主義と民主主義政体はセットになっていますが、後者は機能せず、アメリカなど、共和党と同じく民主党も大企業や投資会社、産業団体などから献金を受けて、その利害に合わせて政策決定が行われ、法律の改悪も進むので、実質的には民主主義でも何でもない。Change!を合言葉に大統領に当選したオバマなども、「相も変わらぬウォールストリート政権」と揶揄されたように、何の変化も生み出せず、一般有権者の政治への絶望感は深まっていたから、それが横紙破りのトランプ選出につながったのです。オバマもクリントンも、「リベラル」はたんなる商標にすぎず、既成システムに取り込まれて「うまい汁を吸う」エリートにすぎないことが見透かされてしまった。

 程度の差こそあれ、こういうのは世界的な問題でしょう。日本の大企業も、「国際競争力をつけるため」と称して、賃上げを抑えて、内部留保を増やし、収益の労働分配率は下がり続けている。正社員(学生時代読んだ民法のテキストには、「法律上、社員とは株主のことであって、いわゆる正社員なるものは、法律上はたんなる労務者にすぎない」とあられもないことが書かれていましたが)はまだいいとして、派遣やアルバイトなどの非正規が増え続けているので、同じ労働者の中でも格差が大きくなりすぎている。そうした中、いつ非正規と取り替えられるかわからないということになると、正社員の側としても、それがこわくて職場がブラック化しても文句が言えないわけです。むろん、大企業は全体のごく一部で、日本の場合、全雇用者の7割は中小零細企業の従業員です。毎年出るボーナス情報は、大企業と親方日の丸の公務員のそれにすぎないので、ああいうのは中小零細企業に勤める人にとっては目の毒であり、「別世界の話」なのです。

 労働者はすべて「賃金奴隷」であるとしても、賃金が低くて憲法に言うところの「文化的な最低限度の生活」もままならない人が激増しているとなれば、本物の奴隷と大して変わるところがない。年収が600万もあれば、今の日本では明らかにいい方(平均が420万で、実質的な平均と言える中央値は360万)ですが、それでも長時間労働を強いられ、家のローンに生活費と子供の教育費で大半が消えるとなると、心の余裕もなくなって、「賃金奴隷」的な性質は免れなくなる。大企業を外して、中小零細企業の社員と、派遣やパート・アルバイトの平均年収を出せば、それは悲惨なものとなるでしょう。しかし、人数的には後者の方が多いのです。

 それで、今後もこういう傾向がずっと続いたとしましょう。この文明世界には怨嗟の声が満ち満ちることになる。先のユングの引用にあった「総人口の五分の三(60%)」という奴隷の数は、今現在と較べても決して多いものではないということになるでしょう。法律的には奴隷ではないが、何の余裕もない低賃金労働者は実質的に奴隷と同じなのです。それがこのままだと先進国でも8割近くに達する可能性がある。若者はそのとき、何としてもその2割の中に入らねばと必死になるのでしょうか? 一部の財閥企業に若者が殺到する韓国なんかはすでにそうなっているように見えますが、読んでいてお気づきになったかどうか、これ自体が奴隷特有の心理なのです。

 安倍政権への追従と忖度に懸命な霞が関の高級官僚たちも完全に「奴隷の心理」になっていると言えるでしょう。彼らは下の者には威張り散らすが、これも奴隷根性のなせるわざなのです。自由な人間は他者を尊重するすべを知っているが、それを知らないわけですから。

 文明世界全体がそうなっているところに、これから各種のウイルスや天変地異、大災害が次々襲ってくると予測されるのです。当然経済情勢も悪化するが、権力と結んだ富裕層は自分の取り分を減らすまいとするから、下の層はより貧困化が進む。それではもつはずがない。ゆるぎない公正の観念をもつ、誇り高い自由人、時と場合に応じて拒絶も協力も自由にできるシチズンがいなければ、そうした難局に立ち向かい、それを克服することはできないでしょう。僕は大統領就任後、見るたびに顔つきが卑しくなっていくオバマを見ていてよく思ったのですが、あの手のエリートがいくらいても役には立たないのです。かえってこの腐ったシステムの闇を深くするだけ。独立自尊の気概をもつ誇り高い庶民がいなくなったのと同じく、権力の乱用を自制しつつ、それをよいことに使えるエリートもいなくなった。「ぼくの契約相手は国民」と言っていた正統派の公務員、赤木俊夫さんのような人は、不正を強要された挙句、ああいうことになったのです。

 形骸化の度合いがどんどん強まっているとはいえ、今の世界の多くの国は成人にはすべて選挙権を認める民主主義国家です。マスコミも発達しているし、今なら個人がネットで直接声を上げることもできる。理論上は、おかしなことをやらかす政治家は選挙で落とせるわけです。また、政策や立法化のプロセスは不透明ですが、これもおかしなところが見えれば、マスコミはちゃんとそれを調べて報道する義務がありますが、反対して潰すことができる。そうすれば、この社会システムとその運用の仕方を変えてゆくことは十分できるということになります。

 去年、大学を出て新聞記者になった元塾生と話をしていて、新聞も今は部数の落ち込みで深刻な危機に陥っていますが、むしろ若手の方が危機感があって、旧態依然たる上層部は使いものにならなかったりするようですが、今の若い人の欠点の一つは無茶ができないことで、無茶ができないから突破力もないのではないかという話になったことがあります(彼自身は、一見地味だがよい記事を書く、調査報道の重要さを認識するすぐれた記者です)。

 たとえば、と言って、僕は高校の話をしました。最近はかなり改善してきましたが、ここの「延岡の高校」コーナーの記事にあるように、「それは何なの?」ということが多くて、僕は見ていてイライラさせられたのですが、生徒たちが話し合って団結すれば、学校と正面から渡り合って解決できるはずのことがいくつもあるように見え、自分が高校生のときなら、そうしたのではないかと思うことが多かったのです。とくにあの朝課外なんて、全員でボイコットしてしまえばいっぺんに解決がつく。それで教師側がとやかく言ってくれば、切り返して論破して、それでおしまいです。いっとき波風は立つが、その程度のことは大したことではない。ところが、不満はあって陰でボソボソ言うだけで、それができないというのは何なのか? パワハラ・暴言教師の類にしても、正面からクレームをつければ、相手は引き下がらざるを得ないのです。但し、生徒が一人孤立したかたちでやっても相手は学校という権力を背景にしているのだから負けてしまう。そういうので、僕は負けたことがありませんが、言い合っているのは僕と教師でも、当時は背後にクラスメートたちの暗黙の支持があったので、教師は聞き入れざるを得なかったので、せいぜいが職員室に帰ってから、担任に「あの生意気な生徒は何だ!」と当たり散らすのが関の山だったのです。朝課外なんて非常識なものはその高校にはありませんでしたが、仮に導入しようとしても、生徒側が一致団結して阻止したにきまっているので、僕は下の学年の左翼政治思想にかぶれた「運動(その背後に日教組の問題教師がいた)」には共感できなかったので、そういうのには賛同しかねましたが、常識や合理的思考に基づいて「これはおかしいのではないか」ということには声を上げて、それは通るのが当たり前だと思っていました。

 そういう感覚が今の高校生には乏しい。それは君らのときからそうだったよねと言ったのですが、考えてみれば、これは今の社会全体について言えることで、若者だけの問題ではありません。なぜだかわからないが、既成のシステムなり決まりには、抵抗しても無駄で、馬鹿を見るだけだという諦めというか、無力感が先立つのです。権力者が専横なふるまいを見せても事なかれ主義的に受け入れる。

 こういうのも「奴隷心理」の一つと言えるので、初めから抵抗は無駄だと思っていたら、変えたりはねのけたり、できるわけがありません。選挙のたび、「清き死票」を入れに行くことが続いているので、僕もいい加減イヤになることがあるのですが、投票率が5割を切ることは珍しくとも何ともなくなっているので、これは半分以上の人が参政権を放棄していることになります。これは組織票が多い自民・公明の連立政権にとっては甚だ好都合なことですが、魅力のある野党候補がいないこともさることながら、投票率が上がること自体が政権政党にとっては大きなプレッシャーになることを考えると、やはりまずいでしょう。それは「政治不信を象徴している」なんて言っても、彼らには痛くもかゆくもないのです。前に、今は「オリンピックじいさん」になっている森喜朗が総理大臣だった時、「無党派層は(投票日に)家で寝ててくれ」と言ったというので、非難にさらされたことがありましたが、それが彼らのホンネなのです。

 政策についてはどうか? このうち新法について言うと、国会が立法府で、法律はそこで作られるのですが、その法案は官僚たちによって作文され、内容決定のプロセスにはしばしば利害関係者の「魔の手」も入り込んでいます。最もそれが露骨なのはアメリカで、例の「オバマ・ケア」なども、保険会社、製薬会社の回し者がその法案作成に関与して、すっかり骨抜きにされてしまったのだと伝えられますが、議員たちも専門用語たくさんの法案の中身をほとんど理解しないまま、それを通してしまうのです。国会での「審議」なるものは形骸化していることが多い。

 日本の例を一つ挙げましょうか。昨年10月1日、「改正水道法」なるものが施行されました(成立・公布はその前年12月)。国会に提出されたその「改正案」なるものは次のとおりです。

水道法の一部を改正する法律案

 皆目意味がわかりませんが、国会議員の先生たちにもわからないでしょう。ところがこれが大問題で、政策コンサルタントの室伏謙一氏が次のような批判を書いています。

水道法改正が「民営化」でないばかりかタチが悪い理由

「水道民営化」と誤解する人も多いが、これはいわゆる「民営化」ではない。しかし、実態は「民営化」よりもタチが悪いものだ。

 として、その説明をしてくれているのですが、その説明自体がわかりやすいとは言えない。しかし、そのポイントは次のようなところでしょう。

 民間企業が「オイシイ」ところだけもっていき、尻拭いは住民の負担や税金。これが水道コンセッション問題の本質というところであろう。
 要するに、民営化ではないが、「困ったときの公的資金」とばかりにリスクを極力地方公共団体に寄せることができる分、民営化よりタチが悪いということだろう(むろん、インフラごと民間に売り渡す民営化など論外であるが…)。

 要するに、それはたんなる「業務の民間委託」とは違うので、(金融資本とグルになった「水メジャーと呼ばれるグローバル企業」が入り込んで)国民の生命に関わる大事なインフラを金融投機の対象にしようという話であり、言ってみれば「インフラの金融化」である。


 僕がこれで「ついに日本もアメリカに追いついたな」と笑ったのは、「水道などの公共部門で民営化を推進している内閣府民間資金等活用事業推進室で、水道サービス大手仏ヴェオリア社日本法人からの出向職員が勤務していることが29日、わかった」(朝日 2018.11.29)と報じられたことです。「この日の参院厚生労働委員会で、社民党の福島瑞穂氏が指摘し、推進室が認めた」ということだったのですが、「同室は『浜松市なら問題だが、内閣府はヴェオリア社と利害関係はない。この職員は政策立案に関与しておらず、守秘義務なども守っている』として」それを斥けたとのこと。アメリカあたりでは全くありふれたことなので、「だから日本は遅れているのだ。サヨクは黙れ!」で片づけられたのです。

 この件で思い出されるのは、南米のボリビアで、水道民営化による値上げに抗議して住民が暴動を起こし、それを撤回に追い込んだという有名な事件です(それに関するドキュメンタリーを僕は見たことがあります。ウィキペディアにも「コチャバンバ水紛争」としてそれについての詳しい記事が出ている)。他の国でも、いったん民営化したものの、水道料金の暴騰や不祥事で、公営に戻されたものが多い。つまり、水まで食い物にする「グローバル企業」の悪だくみはすでに十分明らかになっているのに、何でそんな売国奴的なことを今頃あえてするのか、ということです。

 これにはあの麻生、副総理の麻生がからんでいて、「麻生 水道」で検索すると、「怒りの告発」みたいな記事(中にはいくらか怪しげなものもある)がたくさん出てきますが、もう一人、揺るぎない民営化推進論者で、非正規雇用の激増にも大貢献した、「アメリカ資本の使い走り」として有名なあの竹中平蔵(派遣会社パソナ取締役会長)あたりも一枚噛んでいることがわかって興味深いのです。とにかく、こういう連中が水道法の改悪に邁進して、新法ができ、去年10月、正式に施行されたのです。日本も素敵な国になった。

 しかし、今のところ日本の自治体で公営水道をやめるというところはほとんどないので、これにはネットのそうした多くの記事も関係しているだろうと思います。多くの住民が「コンセッションだか何だか知らないが、それはとんでもなさそう」だと思って、大反対が起きるだろうことを自治体は察しているからです。だからおかしなものが成立しても、騒ぎ立てることによって、その実施を思いとどまらせることはできる。「草の根民主主義」もまんざら捨てたものではないことがわかるのです。

 要するに、何を言いたいのかと言えば、投票行動によって「おかしなことをすると落とすぞ」と政治家に脅しをかけ、今のマスコミのていたらくは嘆かわしいものですが、ネットを通じて個人でマスコミがあまり取り上げないことでも発信して、行政・立法について物申して、それで賛同者が増えれば、それは無視できないものになるので、かなりのプレッシャーを与えることができるということです。

 それには諦めや無力感という「内なる奴隷心理」と戦わねばならない。誰か強力な、「おまえらは何も考えなくていい、黙ってオレについてこい」と言ってくれるようなリーダーが出現して、導いてくれればいいのにと思うことは、「奴隷メンタリティ」そのもので、それはヒトラーの再来を願望するのと同じです。その結果、どうなるかと言うと、僕らは前よりもっとひどい「奴隷状態」に落ち込むことになってしまうでしょう。

 それには国民の方も勉強しなければならない。枝葉末節的なことに目を奪われ、「木を見て森を見ず」の衆愚政治に落ち込まないようにするにはそれしかありません。僕はときたま塾の生徒たちに、「今の君らは幸せだよ」と冗談めかして言うことがあるのですが、それは他の貧しい国々や、政情不安でいつ命を失うかもしれない国の人々よりは問題があってもマシだという意味ではなく、今の社会、この文明は崩壊しかけているからです。若い頃、僕は「このインチキな社会は変えないと駄目だな」と思いましたが、一体どうしたものか方法がわからなかった。僕は左翼でも右翼でもなく、そもそも政治イデオロギーというものを信じませんでしたが、ああでもないこうでもないと考え続けているうちに無駄に年だけ食ってしまった。そもそも相手が強大過ぎて、太刀打ちできるはずもなかったのですが、今は完全な行き詰まりに達していることが誰の目にも明らかになりかけているので、その分、変化への抵抗も少なくなっているはずです。最大の困難は、「では、どう変えるか?」ということで、その方向性、ヴィジョンですが、「完全崩壊」までにはまだ少し時間がありそうなので、今のうちにしっかり勉強して、たんに後ろ向きに沈みかけた泥船に適応するのではなく、その代わりになるものを模索してもらいたいのです。全体的なヴィジョンは天才でも無理でしょうが、「ここはこう変える必要がある」という意見を持ち寄ってその実現の方途を考えれば、いい青写真ができるかも知れない。

 コロナで活動の自粛を強いられている今は、それを考え始めるきっかけにできるのではないかと思うので、大学生なんかはとくにそうでしょう。問題山積の今、考える材料はそこらじゅうにあって、今ここに書いたことにも「今の文明や社会の何が問題か?」ということの一端は示されているはずです。今の若い子たちの悪い癖として、自分ではろくすっぽ考えないまま、「じゃあ、どうすればいいんですか?」と安易かつ反射的に訊く点が挙げられます。それも奴隷化への傾斜を示すもので、かつて哲学者の田中美知太郎は、人生いかに生くべきかという問いに対する答えは、自動販売機にコインを入れれば商品が出てくるようなものではないと言いましたが、それにかぎらず、問題という名に値する問題はすべて、かんたんに答が出ないからこそ問題なのです。こういうのは「センター試験病」みたいなもので、人間は悩むべきときには悩まねばならない。それが自由な人間の特性でもあるのです。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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主客二元思考の克服

2020.01.01(01:24) 678

 まずは、新年明けましておめでとうございます。

 この原稿は年をまたいで書いています。正月休みに入る前から、前にちょっとここにも書いたことのあるエイリアン本が、まだ確定ではありませんが、版権が取れれば出してもらえそうな雲行きになったので、それならと、何ヶ月かぶりに訳文をいじり直していて、本文は一通り全部終わったのですが、これは読者がちゃんと読んでくれれば、自己観や世界観に根本的な変化(いわゆるパラダイム・シフト)をひき起こしそうな、深みのあるいい本だなとあらためて思うと同時に、題材からして異様で、一般的な見地からすれば「非常識」そのものなのに、大学教授が気張って書いたものだから扱いや記述が学問的すぎて難しく感じる読者が多いだろうから、売れないだろうな(笑)という感じがして、いくらか複雑な心境になりました。

 ある程度は売れてくれないと引き受けてくれた出版社に迷惑をかけてしまうので、ほんとは笑いごとではない。訳す方としても、僕は元々売れるかどうかではなく、紹介しておくべきだと思った本をえらんで訳しているのですが、経済的な余裕があってやっているわけではないので、労力比では毎回大赤字で、こんなしんどいことはそろそろ限界だなという感じです。こんなことを言うと、「それなら初めから、そんな割に合わないことしければいいじゃないか?」と言われるかもしれません。ご尤もですが、世の中にはしておきたいと思ったことが「割に合わないこと」ばかりという人間も存在するので、口幅ったい言い方をするなら、文化というものはそういう酔狂で自己犠牲(?)を厭わぬ人間が一定数いなければ衰退するのです。

 僕の仕事の場合にはジャンルもいくらか特殊で、この前は生まれ変わりの話だったし、その前は大昔、ヨーロッパ中世のキリスト教異端宗派の話で、しかもそれが半分は「霊界通信」と来ていたから、よけい悪条件が重なったのですが、今度の場合にはエイリアンによる誘拐話(大方の人には荒唐無稽に見える)なのだから、それがますますエスカレートした感じです。どれも見た目は特殊だが、人間理解、世界理解の点で普遍的なテーマを扱っていて、ふつうの人にも「関係ないように見えて実は大いに関係がある」のですが、世間の人はそうは思ってくれないから、千部、二千部売るのも大変になってしまうわけです。

 このブログの読者には、僕が別にオカルトおたくでないのは十分おわかりでしょう。政治談議でも、教育の話でも、いくらか思想的な議論でも、そこにオカルト的な要素は入れていない。学生時代から、僕はよく仲間に「おまえの頭の中は一体どうなっているんだ?」と言われました。哲学でも、政治でも、文学でも、科学や心理学、法学部の学生だからたまにはする法律論議でも、僕はふつうに正統とされる文献を読んでいて、だからそこは問題ないのですが、一軒の建物にたとえるなら、この家には「地下室」があって、そこにはオカルト的なものがあれこれ雑然と置かれていたのです。彼らはそこが不可解だと言った。

 面白いのは、上記三冊の本の著者がすべて精神科医で、近代合理主義教育を受け、いわゆる唯物的科学思想の中で育って、その方面でも優秀で、順調なキャリアを築いてきた人たちだったことです。ところが、彼らは途中で不可解なことを言う患者に遭遇する。それで持ち前の誠実さと研究心からそれを調べてゆくうちに、そのリアリティを否定できなくなって、以前の唯物論的合理主義を放棄して、新たなパラダイムを模索しなければならなくなり、その果てに全く違う世界が見えてきたことを報告することになったのです。

 僕の場合も、家の上部構造と地下室の関係がどうなっているのか、その整理統合にはそれなりに苦労しました。今はちゃんと階段がついて、自由に上と下を行き来できるようになったのですが、それはそうかんたんなことではなかった。

 しかし、なぜオカルトが出てくるのか? occult という言葉は、神秘とか超自然と訳されますが、「隠れて見えないもの」を意味し、元々それはそこに存在していたものです。ところが、文明は特定の思考様式や見方によって自然や世界を切り取るようになって、それに適合しないものは頭から否定したり、抑圧したりするようになる。だからそれは地下に潜らざるを得なくなるのですが、文明が強要するその世界観、人間観はありのままの世界や現実とイコールではなく、一面的なものにならざるを得ないので、多かれ少なかれ無理が生じます。そしてその一面的な世界観に基づく人間の活動は全体性に立脚していないがゆえに偏頗な、破壊的なものになってしまう。内面的にも、人は内部に深刻な分裂と葛藤を抱えた存在となり、それが社会に混乱や対立を生み出すのです。

 深刻な自然破壊の問題でも、利己主義的な弱肉強食的格差社会の問題でも、機能不全に陥った学校教育の問題でも、全部このことが関係する。僕は今の文明はこのままではあと百年ももたず、いずれ悲惨なことになって、人類は破滅の坂道を転げ落ちることになるだろうという暗い見通しをもっていますが、これは対症療法的な対応では防ぐことはできず、根本の考え方、今の人間の感性のありようそのものが変わらないとどうにもならないだろうと考えています。だからこそ、一面的に否定排除してしまったもの、「隠れて見えなくなっているもの」に目を向け直して、それらを取り込んだとき、どういうふうに世界の見え方が変わるか、観念としてではなく、実感を伴うそれとして、体験する必要があるのです。

 これらの本はそうした方向へ「意識を変える」手助けになる。僕はそう思って紹介しているのですが、それでも、今回のET本など、それと何の関係があるのだと思う人がいるかもしれません。ネットには「古代の宇宙人」なんてサイトもあって、この本にも先祖が宇宙からやってきた存在だったという伝承をもつブラジルの少数民族の話がでてくるのですが、興味深いのは、そういうものとは無縁に育った、物質的科学主義の総本山のようなアメリカの一般市民たちが、エイリアンとの遭遇体験を通じて、それまでの世界観、自己観を粉砕されて、一時的に大混乱に陥るが、そこから脱け出たとき、それまでとは全く違う理解を獲得して、それが古代の神秘主義やシャーマニズム、さらには禅の悟りにも似た「覚醒」を体験することが活写されていることです。ひとくちに言えば、彼らはそれを通じて失われていた自然や宇宙とのつながり・一体感と、自己の全体性を回復する。彼らの多くが環境問題に強い関心を示すようになるのも、そのためなのです。

 先の大戦後十年目に生まれた僕自身は、ものすごい山奥に育って、同じ分校に通っている同級生の中には、まだ電気が引かれていない集落の子たちもいました。そして当時は昔の習俗がまだ色濃く残っていて、明治生まれの僕の祖母などは、旧暦(太陰暦)に基づいて一年を送っていたほどです(おばあちゃんっ子だった僕は、その祖母から昔話や不思議な話をたくさん聞かされた)。当然ながら、周囲には豊かな自然があって、子供の頃の僕の感覚では、自然と自分は別のものではなくて、自分は自然の一部だという感覚がはっきりあった(カレンダーに頼らずとも、風の匂いだけで季節の推移を的確につかむことができた)。自然の中で遊んでいると通常の自意識は消え、だからくつろげて楽しかったのですが、こういうのは少数民族の暮らしと同じで、学校という窓口を通して近代文明的なものへの適応を強いられ、無理してそれに適応して、文明的なものの考え方と合理性を身につけたのですが、違和感はずっと残って、後で考えてみると、それがさっきの「地下室」をつくらなければならない理由になったのです。

 その意味で、都会生まれの人より内面の分裂が自覚されやすかったということですが、この分裂それ自体はたぶん皆に共通するもので、それが妙な息苦しさの原因ともなれば、文明の暴走の原因ともなっているのです。従って、根本にあるその分裂に気づいて、これを修復し、全体性を取り戻さないと、文明の軌道を変えることもできない。

 その手助けになりそうなことを僕はしたいのですが、成功しているとは言いがたいので、たぶん成功しないまま死ぬことになるでしょう。何十人か、あるいは何人かでも、「あれは役に立った」と言ってくれる人がいれば、もって瞑(めい)すべしです。

 ところで、さっきネットのニュースサイトを見ていたら、面白い記事がありました。

京大総長が「ゴリラは人間より偉大」と語るワケ

「21世紀に入り、人間は五感により身体で共鳴する感性と、情報を扱う脳が分かれてしまった。もともとその2つは切り離すことができないものとして人間は機能させていたんです。でも今、身体と脳の分離が始まっています」(p.2)

「人間に残された唯一の能力は、見えないものを見る力。データにないものを考える力と言っていい。人間はその力をもっと働かせるようにならないと、データに動かされる存在になってしまう」(P.3)

「人間は環境を客観視したがゆえに、自らの手で環境をいくらでもつくり変えられると思ってしまった。それゆえに地球環境は破壊され、人間自体もその環境に侵されている。もしかすると主客を分けるという考え方は間違っていたんじゃないか。主客合一という考え方に則り、自然との調和を図るべきではないかと考えているんです」(p.5)

「人間がゴリラやチンパンジーと比べて、脳も大きくなって優秀になったと思うかどうか。僕は人間がそんなに優秀になったとは思わない。ゴリラの方が偉大だと思えることはある。人間はゴリラの住処を遠く離れて、南極や北極にも住めるようになった」
「でもそれで人間は幸福になったのかと言われれば、そんなに幸福になっていないですよ。地球の環境をダメにしてしまって、その責任を今取りきれないでいる。人間自体もそういう人為的な環境にどんどん侵されて、汚染され、いろんな薬が必要になり、どんどん精神的にも病んでいるのは、決して進化とは言えないと思いますね」
「それは、人間の身体を狩猟採集時代に置き去りにしたまま、知能部分だけを発達させてしまった結果だと思うんですね」(p.6)


 かなり適当に抜き出しましたが、これはむろん、オカルトとは関係のない議論で、問題とされているのは「AI社会における人間のありうべき姿」です。しかし、問題意識は僕のそれと多くの共通点をもっていて、AIは近現代文明の当然の帰結として生まれてきたものですが、人間の頭の働き方自体がAIに似てきている。情報化、言語化されていないものは存在を無視され、存在しないことにされ、自身のその基準を疑問視することもない(機械にはそんなことはできません)。人間の言葉というのは元々、そこに含みと奥行きがあって、本を読むのでもそれはその人と付き合うのと同じで、いい本なら「行間を読む」ことができなければ本当の理解はできないのですが、それをたんなる「情報」としてしか受け取らず、さらには独り合点でそこに我意を投影して、とやかく言うのが当然の権利のように思い込むに至ったのです。

 AIと違って人間には感情があるから、よけい始末に負えない。また、言葉や文章をたんなる情報として扱うようになるのと同時に、自然や人間を含めて、他者はすべてモノになってしまった。人間関係がうまく行かなくなったのもそのためで、「主客の分離」というのは、必然的に孤立したエゴイズムを生み出します。自分があって、その外側に自分以外のものがあるという見方、観念は、それ自体が自己の絶対視と、自己中心性を生み出すからです。そこには「感情」はあっても「情緒」はない。先日も、除夜の鐘がうるさいという苦情が増えて、それを取りやめるお寺が続出しているというニュースがありましたが、あの鐘の音というのは、虫の声や蛙の声と同じで、脳細胞を透過してゆくような不思議な心地よさをもつものですが、それは自分が周囲の自然と一体化し、それに溶け込むようなくつろいだ感性がもてる場合の話で、意識と言えば硬直した自意識しか知らないような人にとっては、それはたんなる侵害、騒音でしかないのでしょう(そういう人にかぎって、自分が立てる騒音には無神経なものですが、それも同じ自己中心性の産物です)。

 こういうのは控えめに言っても病気ですが、それがそろそろ臨界点に達しているのです。これは近代西洋文明がもたらした必然的な帰結と言えるので、「主客合一という考え方に則り、自然との調和を図るべきではないか」という山極学長の意見に僕は完全に同意します。そもそもの話、「主客合一」的な理解の中にしか、真の自己理解も、世界理解もありえない(デカルト先生のあれは、前にも一度書いたことがあるような気がするのですが、哲学的天才には似合わぬたんなる「推論のミス」でしかありません)。僕がさっき言った「全体性の回復」というのは、それを観念のレベルではなくて、感性のレベル(山極学長の言葉で言えば「身体」レベル)で取り戻すことです。これは考え方の違いというより、それが自然の中に生まれた人間の本来のありようなので、そちらが“正しい”のです。

 うまくゆけば、半年後ぐらいには出せると思うのですが、僕が今出そうとしている「エイリアン本」の結論も、まさにそういうことなのです。これを読まれて興味をお持ちになった方は、出るときにはここでも告知しますので、ぜひお買い求めになって、出版社に損をさせてしまうのではないかという僕の懸念の払拭にご協力ください。

【付記】関係ないことですが、笑えたので一言。保釈中の日産の元会長ゴーン氏が違法にレバノンに出国していて、保釈を取り消されたというニュースがありました。何でも、木箱の中に隠れて監視の目をかいくぐったのだとか。トロイの木馬ならぬ、ゴーンの木箱です。大晦日にこのニュースとは面白いので、除夜の鐘代わりに、ゴーン、と鳴ってくれたわけです。彼のやってることを見ると煩悩それ自体なので、裁判所は罰として、彼を鐘の中に入れて、108回ゴーンと鳴らしてやるといくらかそれが浄化されて、行いが改まるかもしれません。

※ 前に「拍手ボタンもないのでは読む張り合いがない」というメールをいただいたことがあったので、年が改まったところで付けることにしました。よろしくどうぞ。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


論考
  1. 全体主義の復活(07/07)
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  5. 主客二元思考の克服(01/01)
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