一炊の夢

2017.06.08.12:27

 最近このブログは安倍政権の低劣さを難じるのに多忙で、おかげですっかり「品格」を下げてしまったので、今回は口直しのつもりで、もっと中身のある話を書かせてもらいます。塾で生徒たちの相手をしていても、今は「国語力不足」が少々目立ちすぎるように思われるので、高校生の国語の勉強にも役立つよう、読みを誤りやすい漢字にはマメにルビを振ることにして(このブログを読んで無茶苦茶なオッサンだと誤解する人もいるようですが、僕は元来“教育的配慮”に満ちた人間なのです)。

「人生の儚(はかな)さのたとえ」などと言われるこの「一炊(いっすい)の夢」、別名「邯鄲(かんたん)の夢」とも言いますが、僕は『荘子』の中にある話だと思っていたら、それは「胡蝶の夢」の方で、こちらは「唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)の故事の一つ」だとウィキペディア(「邯鄲の枕」の項)の説明には出ています。

 僕は、しかし、『枕中記』というのは読んだ記憶がないので、若い頃、それを紹介している何かの本で読んだのでしょう。二十代三十代の頃は、食うために働くのが億劫(おっくう)で仕方がなく、霞(かすみ)を食って生きられる仙人になれば衣食に心を労する必要がなくなると、仙術関係の本にまで手を伸ばしていたので、その中のどれかに出てきた話だったのでしょう。ともかくそれは非常にimpressiveだったので、脳中に強く刻印されたのです。

 上記ウィキペディアの紹介文はいくらか簡潔すぎるので、次の親切なサイトの記述(詳しく知りたい方は、クリックして読んで下さい)なども参照して補足すると、それは概略、次のような話です(この話、冒頭部の設定に関しては各サイトの説明に相当違いがあって、どれが正しいのか僕にはわからないのですが、それは本質的なことではないので、適当にミックスします)。

中国故事街

 昔、呂翁(りょおう)という神仙の術を会得した道士がいて、趙の都、邯鄲(かんたん)への道中、ある宿屋に投宿した際、たまたま一人の貧しい青年(二十代半ば?)と出会った。彼は名を盧生(ろせい)と言い、人生の目標も定まらぬまま故郷を離れようとしているところだった。青年は僅かな田畑しかもたないわが身の貧しさを嘆いて、こう言った。
「男子として生まれたからには、出世栄達(しゅっせえいたつ)して権力や名声の快を味わい、富を積んで美しい妻をめとり、子宝にも恵まれて、華美で充実した私生活も経験するのが本懐(ほんかい)というものでしょう。私は、しかし、かつて学問を志した身であるにもかかわらず、世に出る機会に恵まれず、辺鄙(へんぴ)な田舎で、百姓仕事をしながら貧しいその日暮らしをしている有様です。未来に希望もない。何たることでしょう!」
 そんな愚痴を並べているうちに、何だか急に眠くなってきた。宿の主人は黍(きび)を蒸していて、その匂いがする。そのとき道士は、「これを使うといい」と言って、変わった青磁の枕を差し出した。それを使うと夢が叶うという。早速その枕に頭を載せると、端に円い穴が開いており、それに目をやると中に吸い込まれそうになって、次の瞬間、気づくと盧生は自分の家の前にいた。それから彼の人生は一変した。まもなく豊かな家の出の美しい娘を嫁にもらって、派手な生活ができるようになると、進士に推挙されて合格し、都に出てとんとん拍子で出世した。ところがその声望が高く、大臣を脅かすほどになると、これが災いして、あらぬ噂をまき散らされ、辺境に左遷される憂(う)き目にあった。
 しかし、数年して中央に呼び戻されると、いかんなくその実力を発揮し、大臣の地位にまでのぼりつめた。実務能力に識見・人格を兼ね備えた大人物との評価は、しかし、同じ大臣仲間の嫉妬を買い、皇帝に対して謀反(むほん)を画策(かくさく)していると誣告(ぶこく)する者があり、追いつめられた彼は自殺を考えるほどであったが、妻と献身的な宦官(かんがん)に助けられ、流罪(るざい)だけで済んだ。
 数年後、それが冤罪(えんざい)であったことが判明すると、再び呼び戻され、王様の覚えもめでたく、五人の息子たちも次々出世して、いずれも名家の娘を妻にもらい、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)、内も外も申し分のない状態となった。孫の数も十指に余るまでになった。
 しかし、やがて老いが迫ってきた。病気がちになり、何度も辞職を申し出たが、愛顧ゆえに皇帝はなかなかこれを許さず、最後に上奏文を出したときには、よく養生するようにと懇切なお達しがあったが、ほどなく死がやってきた。

 …というところで、気づいてみると、そこは元の宿で、枕元には道士の呂翁が座っていた。さっき主人が蒸していた黍はまだ蒸し上がっていなかった。ごくわずかな間に、波乱万丈の長い一代の人生を夢に見たのだと知り、廬生は驚いたが、それは道士のしわざであると思われた。廬生は呂翁に「人生の栄枯盛衰(えいこせいすい)すべてを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。


 というようなお話なのですが、いかがですか? これはたんなる夢というより、廬生の「ありうる人生」だったのかも知れません。彼にとってそれは十分にリアルで、強い実感を伴っていた。彼はたしかに、自分の願望に沿った一つの長い、明確な人生を生きたのです。違いは、ふつうは死んで目覚めたときはあの世だが、これはこの世にいるままで、一つの人生がつかの間の夢として、フルバージョンで経験された。それだけです。

 これはそんなに突飛な話ではありません。死者の、「あの世」の側から見れば、僕らのこの世界はおそらく一つの「夢」なのです(たしか心理学者のユングも、この世界は「死者の夢の投影」だというようなことを言っていたように思います)。生まれるということは一つの夢の中に入ることであり、死とは、それから覚めることだと考えても別におかしくはない(後で述べるように、その「死後の世界」もまた一つの夢なのですが)。

 これは人にもよるようですが、夜中に夢を見ているとき、意識が二重になっていて、これは夢だと知りながら夢を見ていることがあるでしょう? 少なくとも僕はそういうことをよく経験するのですが、それでも夢は十分にリアルなのです。面白い夢だと、途中で目が覚めても、もう一度続きを見ようとして眠ると、それが続くことがある。夢もある程度はコントロールが利くのです。

 僕が見た夢の中で最も強烈だったのは、二つあるのですが、一つは人を殺してしまった夢です。どういうわけでそうなったのか、部屋で揉み合ううちに誤って相手の男を殺してしまったのですが、慌てて死体を押し入れに隠したあと、大変なことになってしまった、これをどうやってバレないようにするかと考えているうちに、心臓がバクバクし、そこで目覚めたのですが、目覚めてからもしばらくはそれが夢だとは思えず、夢だったとわかったときは心底安堵して、珍しく神に感謝する気になったものです。これは乱暴な自分に対する一種の警告のように感じられたので、以後いくらかは行いを慎むようになりました(いくら夢の中の出来事とはいえ、自首するという“正しい”考えがそのとき思い浮かばなかったのは、僕の遺憾とするところです)。

 もう一つは、冬、こたつに足を突っ込んで寝てしまった後、途中で目が覚めたのですが、見えている部屋が微妙にいつもと違うのです。カーテンの色や柄も割と洒落(しゃれ)ているし、置いている物もいつもと少し違う。これは夢だなと思ったので、僕はそれが夢であることを証明してやろうと思いました。何か書かれた紙片がすぐそばの畳の上にありましたが、手に取って見ると文字は美しいが書かれていることは支離滅裂で、「無意識というやつは審美的には意識よりずっとすぐれているが、知能はかなり低いな」なんて思ったものです。ふと見ると近くの壁際に、昔もっていたが、今はないはずの、貝みたいに蓋ができて、使うときはパカッと開いて、横から見ると三角形になるようなかたちで立てる目覚まし時計がありました。僕は手を伸ばして、それをつかもうとしました。これは夢なのだから、実体はなく、つかめばグシャッといくはずだ、それでこれが夢であることを証明できる、そう思ったのです。そしてつかんだのですが、見える形どおりのはっきりとした硬質の感覚が手のひらにあったので、「夢なのに、これは何だ!」とひどくびっくりして、そのまま意識を失いました。そうして、次に目が覚めたときは、今度は間違いなく元の部屋で、ほんとに目が覚めたのだなとわかったのですが、手のひらのその感覚はまだ残っていました。もちろん、その時計はそこにはなく、つかんだとき似たような感触を残すものも存在しなかったのです。

 それで僕は、夢だということに夢の中で気づいて、それが夢だと自分に証明するつもりでああやったのに、あんなにはっきりした感覚があるなんてどういうことだ、この世界も実は似たようなものかも知れないと考えたのです。

 この世界というのは、僕らの五官と脳の働きによって、こういうものとして感じ取られ、認識されているもので、哲学者のカントではないが、「物自体」は認識できません。周囲にある硬い物も、原子レベルでいえば運動体です(ミクロレベルからすれば、この世界全体が量子の飛び交う相互融通の不思議な世界なのです)。歯医者に行って、麻酔を打たれた後、まだその効き目が残っているときに、うっかりジュースなど飲むと、こぼしてしまいます。浪人時代、新聞配達をしていて、代わりがいないので四十度近い熱の下、無理して配達していたら、途中でそこらのビルが皆大きく曲がって波打っているのが見えて驚いたことがあるのですが、そのときはいくら目を凝らしても曲がって見えた(ちなみに、その当時の僕の視力は両眼2.0でした)。身体条件が変われば周囲のものも変わって見えるのです。そうして、意識を失うと、世界は消滅する。後でその間何があったか、周りの人が説明してくれて、へえ、そうだったんですかということになってそれが記憶に取り込まれて連続した経験として再構成されるのですが、端的に言えば、その間、自分と共に世界も消えていたのです。ということは、毎晩僕らは眠るたびに「世界を消滅させている」のです。目が覚めると意識も戻って、再びこの世界体験が再開される。連続したものだと、いわば「脳に思い込まされている」だけなのです。

 だからこれも一種の夢には違いない。ふつうの夢よりは安定していて、かつ、ふつうの夢よりは意志による明確なコントロールを及ぼしやすいというだけの話です(註:理屈っぽくなるのでそのへんの詳しい議論は割愛しますが、脳の働きの結果意識または心が生まれるのではなくて、意識が先にあって、それが脳に一時的に宿ると言った方が正確でしょう。その場合、意識は脳の規制を受けるので、この世が「実在」に見えるわけです)。

 人生はままならないというのが大方の人の実感なので、仮にこれが夢の一種だとしても、どうしてもう少しマシな夢が見られないんだ、と皮肉を言う人がいるかもしれません。人類の歴史は戦乱続きで、今も世界中でテロだの内紛だのが頻発しています。一見平和な日本でさえ、自殺率は先進国の中ではトップ、アジアでも韓国に次ぐ高さです。僕らはこの夢をいわば「シェア」しているわけですが、この世に生まれるということは「地獄の共同夢」の中に生まれ落ちるというのと同じです。

 僕は安倍政権に腹を立てていますが、一体何だってあんな低レベルの総理とさもしい取り巻きが自国の政治を壟断(ろうだん)するという悪夢を見なければならないのか? 隣国にはあの見苦しい刈り上げデブが独裁する北朝鮮(大金使って花火みたいにミサイルばかり打ち上げやがって、自国の民の困窮を思え!)なんていう、サイアク国家がどうして存在するのか? この夢にはなにゆえもっと聡明で公正な政治家が出てこないのだ? これが自分に見合った夢だとでも言うのか?

 残念ながら、おそらくはそうなのでしょう。今は多元宇宙論というのがあって、それでは無数の宇宙が存在することになっていますが、その宇宙とは夢のことであり、僕らはそれぞれの意識(これはむろん無意識と呼ばれる領域も全部含みます)に見合った宇宙に生まれ出るのです。あの世や天国、地獄といっても、それもまたもう一つの宇宙=夢であり、生死のサイクルの中で僕らは無数の夢の中を行き来しているのです。仏教の「六道輪廻(りくどうりんね。ロクドウという読みもあります)」という考えは、それを言い表したものだと考えてもよい。人の意識はそうした「夢のサイクル」の中を経巡(へめぐ)っているのです。

「こういうのはもうたくさんだ。そんな夢なんかもう一切見たくない!」とお釈迦さんは考えたとも解釈できる。そこで彼は意識の中身を、その痕跡(こんせき)、残滓(ざんし)がゼロになるまで抹消し、「夢を見る余地がない」状態にすればよいと考えた(それがいわゆる「涅槃(ねはん)」です)。古代ギリシャの哲人にも「存在しないことは存在することに優る」と言った人がいましたが、似たようなことを考えた人はたくさんいるのです。冒頭の「廬生の夢」は、世間的な見地からすれば、色々あったにせよ「成功例」に入るでしょうが、彼はその有為転変(ういてんぺん)を夢を通じて存分に味わって、「経験してみれば、うらやましがるほどのものではない」と悟ったのです。三島由紀夫がその小説のタイトルにも使った「天人五衰」という言葉は、「天人(てんにん)」というのは天上に生まれ変わって神々となった存在ですが、そこで清らかな生活を送り、驚くべき長寿を保つが、それでも老衰は避けられず、そのときの苦しみは筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい、ということを言ったものです。要するに、いいことづくめの「夢」なんてものはない。それはこの世の基準からすればうらやましいものだが、貧しい農夫の廬生が位人臣(くらいじんしん)を極める夢を見て、「大したことない。別の煩わしさと苦労があるだけだ」と思ったのと同じで、バージョンアップした夢も、たかが夢なのです。

 幼児の中には、生まれてくる前にいた場所の話をする子もいます。そこにはこの世みたいな生活の苦労はなく、思うだけで行きたいところにも行けるが、いかにも天国らしい単調な音楽が流れている全体にかなり退屈なところで、そこでは人の個体の大きさがてんでマチマチなのだという話なんかは面白いが、「大きな岩みたいな神様」がいて、その神様と話をしてから、宇宙を猛スピードで下って、気がついたらお母さんのおなかの中に入っていた、なんて言うのです。そうすると、あんたは志願してこの世界に来たのかときくと、「たぶんそうだと思う」なんて、淡々とした口調で言う。保育園だか幼稚園だかの友達の○○君もそこにいたので、ボクよりちょっと早くこの世に来たのだという。

 してみれば彼らは、いわば「ボランティア志願」してこの世に来たのです。その「あの世」描写からして、彼らは「天使」の一種だったと思われるので、一番道理にかなった解釈は、この地獄にも似た世界の夢を、もう少しマシな夢に変えるためにやってきたのだということになるでしょう。そのために彼らはあえて「夢のグレード」を下げる決断をしたのです。その際には「神様」のアドバイスも、むろんあったのでしょうが。

 お母さんたちはわが子からそういう話を聞くと、けっこう厳粛(げんしゅく)な気分になって、大切に育てなければならないと思うのですが、かんじんのその「元天使」がだんだんこの世の悪風に染まって堕落し、天使の面影を失ってしまうのは遺憾(いかん)なことで、その「自覚」を呼び起こそうと、昔あんたはこういう話をしていたのだと言っても、本人はすっかり忘れていて、「そんなの、知らんわ」なんて言われてしまうのです。かくして「天上界から来たボランティア要員」たちも、この悪夢の世界の一部となってしまう。

 そういう“高尚”な意図からこの世に生まれてくるのか、それともそれが意識の中身に見合っていたからそうなったのか、たぶん両方あるのでしょうが、いずれにせよ僕らは悪夢の部類に属するこの世界という夢の中にいて、右往左往させられているわけです。

 夜間夢を見ていて、その最中に「これは夢だ」と意識できるのと同じく、この世界も一種の夢なのだと自覚することはできます。そう思えば、この世界もいくらか耐えやすいものになるのはたしかでしょう(自殺が問題の解決にならないのは、これまでの記述からもおわかりかと思います)。そうして、先にも言ったように、ふつうの夢と違って、この世界はかなりの程度コントロールが可能です。心の持ち方や意志、努力次第で変えられる部分もかなりある。今の状況を見るかぎり、このままだとこの地球世界は本格的な「地獄の夢」になる可能性が高いが、避けられる可能性もあるのです。

 冒頭の「廬生の夢」に話を戻すと、今の物欲まみれの中国人たちは先人が残したこういう教訓をすっかり忘れ去っているように見えますが、僕がこの話を面白いと思うのは、廬生はこの夢の中の人生で、別に悪事を働いたわけではないということです。彼は有能な人間がさらされがちな周囲の嫉妬や怨嗟(えんさ)によって危地に追いやられただけで、それは世間によくある自業自得の苦難ではない。そうしていずれも誤解は解けて、権力に返り咲き、最後には世間的には幸福な境遇の中で死を迎えるのです。

 なのに、廬生はもうそれを魅力的なものだとは思わなくなった。悪事は働かなくとも、彼には出世栄達の強い野心がありました。それが苦難を引き寄せる誘因になったというだけでなく、そうした出世栄達の野心それ自体が虚しいものだと理解したのです。

 若いときは誰でも多かれ少なかれ野心的なものです。今はそういうものが全くない「草食系」の若者もけっこういるのかも知れませんが、そういう若者はエネルギーの総量自体が乏しいということもあるでしょう。あるいは廬生みたいに、そういうことは前世(それも一つの夢です)で十分経験したので、その手の野心はもう卒業したのかも知れません。

 何にせよ、そういう野心がなくなったとき、人には何が残るのでしょう? 権力や名誉心から自由な探求心や、芸術衝動、苦しむ人たちへの同情、自分のもてる能力を使ってこの悪夢のような世界をもう少しよいものにしたいという願いは残るでしょう。田舎に戻った廬生はもはや貧しさを嘆くこともなく、日々の畑仕事に勤(いそ)しみながら、それまで気づくことのなかった自然との交感や、他者との何げない心のふれあいに大きな喜びを感じるようになったかもしれません。

 いずれにせよ、世間的な野心や権勢欲が人から大事なものを奪い去り、人々の間のそのぶつかり合い、せめぎ合いがこの世界の夢を地獄じみたものにしていることはたしかです。芸術や文化、科学の領域ですら、おかしな虚栄心、名誉欲が災いして、その正常な営みを害しているケースはよく見られるので、これは外見だけではわからない。逆に巨万の富を築きながらも、物欲から自由な、無私の心をもつ実業家というのも存在するでしょう(このことはあまり理解されていないようですが、野心というものは、成功という結果にこだわりすぎるがために、逆に情熱や果敢な行動力の発露を妨げてしまうこともあるのです)。

 今のやることなすことロクでもない卑しい安倍政権なんてのは論外ですが、政治家にもおかしな能書きは垂れず、本当に世のため人のためを思って冷静な判断をしつつ、面倒な実務や交渉事を辛抱強くやろうとする、statesmanの名に値するすぐれた人は存在しうるでしょう。個人的なコンプレックスの補償を権力や名声、財力に求めたりせず、低級な野心から自由に仕事をする人は、分野を問わず今でもいるはずで、またいてくれないと困ります。

 そういう廬生的な悟りを得た人こそ、今のこの世界には必要です。どうせ死ぬまでは、僕らはこの世界という「迷夢」からは逃れられない。ならば、せめてこの夢をもう少しマシな夢にできるよう共に協力して努める他はないので、世間的な栄枯盛衰の夢を見させて、人々にその虚しさを悟らせる「呂翁の枕」が仮に商品化できるなら、それは真に有益なことでしょう。

 何? おまえはそういう枕を開発して一儲けしたいのではないかって? たしかにそれは魅力的な話ですが、その場合はその儲けをちゃんと社会還元して、いいことに使いますよ。まずもってそれを塾商売や翻訳仕事の赤字補填(ほてん)に流用することだけは、大目に見てもらわねばなりませんが…。

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安倍首相の苦境に学ぶ“スピリチュアルな妻”への対処法

2017.04.02.12:51

「アッキード事件」は沈静化の兆しがなく、最新の週刊誌もこぞってこの問題を取り上げていますが、昭恵夫人と籠池妻とのメールのやりとりが公開されて、その中にやたら「神がかった」表現が出てくるというので、昭恵夫人のスピリチュアリズムへの入れ込みぶりにも関心が向けられているようです。

 メールに出てくるその表現というのは、「全ては必然であると思います」「神様は全てご覧になっています」「なんでこんなことになってしまったのか、神様は何を望んでいるのでしょう」「祈ります」「私には祈ることしかできません」「神様はどこに導こうとしているのか」等々(とくに「祈り」は頻出する)で、森友学園事件をはじめとする今回の夫人がらみの一連の不祥事は、別に「神様」は関係ないので、要は昭恵夫人の無責任かつ軽薄な「口利き」の乱発が引き起こした公害みたいなものではないかと大方の人は考えると思いますが、「神様に呼ばれた」と思っている夫人には、そうした口利きもすべて「神様のお導き」に従ったものだということになって、こういう事態になっても、それは「神の与え給うた試練」という解釈になってしまうのでしょう。だから「今はじっと我慢の時です。私もまだまだ追い詰められるのかもしれませんが、お互い頑張りましょう」というような籠池妻への呼びかけとなって、自分の愚かな行為を反省するとか、表に出てきて責任を取ろうというような方向には行かないのです(「私も修行。来月私の親しい人が教育勅語の本を出します。今はそういうときなのでしょう」なんて言葉も出てくることからして、その「神様」は「戦前教育の復活」を望むネトウヨ的な「神」のようですが…)。

 これには神様も大弱りで、「わしはおまえに、そんなアホなことしろと言った覚えは全然ないぞ」とあごひげをしごきながら渋面をつくっているかも知れません。昭恵夫人にしてみれば、しかし、今回の窮地も自分が馬鹿なことをしたからではなく、「神に選ばれし者」ゆえに与えられた試練で、より大きな、人知ではうかがい知れない「神の経綸」――というような言葉は昭恵夫人には難しすぎるだろうからわかりやすく言い直すと、「神様の大きな計画」の一部なのです。それは昭恵夫人のさらなる「成長」のために仕組まれている。「いや、わしにはそんな計画は全くないよ」と神様は即答しそうですが、昭恵夫人のような“スピリチュアル”な人にはそれは「ある」ことになっているのです。

 別の解釈をすれば、昭恵夫人は総理夫人という社会的地位を乱用して、森友学園の他にもあれこれ社会的公正を害するような口利きをしていたので、籠池夫妻はたしかに「ふつう」ではありませんが、こういう事件でもなければ、彼女は今後も無自覚に「善意」でそういうことを続けていたでしょう。そこで神は、そうした彼女の愚行にストップをかけるために、警告の意味で、彼女に今回の事件を贈ったのです。「ええ加減にせんかい!」と神様は言いたかったのだと、そのようにも解釈できるでしょう。

 おそらく“スピリチュアル”な解釈としては、そちらの方が正しい。僕はふだんそんな話は全くしませんが、「スピリチュアル系」の本の訳者の一人でもあって、たぶん昭恵夫人より数十倍はその方面に精しいでしょう。ただ、僕は科学や常識を尊重するので、「ありがとう」を一万回唱えれば金運がよくなり、ガンも治って、大学にも合格するとか、頭痛がしてくるような何とか教祖の支離滅裂話(今どきのカルト教祖の話にはよく科学用語が出てきて、「量子力学」がどうのと言ったりしますが、それは実は量子力学とは何の関係もなかったりするのです)に「感動」したりはしないし、「祈りを向ければ水の波動が上がって放射能が防げる」みたいなたわけた話も、それがどれほど深刻な害悪を及ぼしたかの一通りの歴史的知識もあるので、教育勅語や国家神道が素晴らしいとも思わないわけです。「日本文化」なるものを大麻と結びつけて、「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』ことだ」なんて飛躍しすぎた論理に同意することもない。

 けれども、昭恵夫人みたいな人は今の日本にはけっこういるのです。とくに女性に目立つ気がするので、「ビビッと来た」とか「私には直感的に『これだ』ってわかるんです」とか、よしあしの基準がそうしたたんなる主観であったりする。いい年をしたおばさんにかぎってそうだったりするので、中には「私にはエゴがないので、そういうので苦しんでいる人のことがわからないんです。『宇宙の法則』があって、私はそれに従って生きているだけなので、うまく行くんです」なんて、周りの人間がいいとこどりばかりしたがるその人の尻拭いにどんなに苦労させられているかにはおかまいなしに真面目な顔でそう言ったりするので、どん引きになってしまうのですが、昭恵夫人もこの類のお幸せな人なのでしょう。

 この種の人は複雑な社会システムとか、人間の悪の側面(自分のそれもむろん含めて)とかが全然見えていないので、事の善悪は大方自分のフィーリングで決まってしまう。論理立てて物事を考えることもしない(できない)ので、相互に連絡のない矛盾した行動を取っても平気で、単純なだけに愛すべき人物に見え、「まあ、あの人は天然ですから…」ということで周りからは大目に見られることが多いのですが、高い社会的地位などに就けると大変なことになりかねず、それが今回の「アッキード事件」の本質なのではないかと思います。「地獄への道は善意で舗装されている」ということわざは彼女のためにあると言ってもいいくらいですが、問題は、この種の穿った言葉の意味を、この手の人たちに理解させることは非常に困難だということです。

 そう理解すれば、今回の件に関しては、安倍首相は同情に値する。一般家庭の主婦ならたんなる奇行や「余計なお世話」から起きた小さなトラブルで済んだものが、総理夫人の地位にあったから、影響力も大きくて、おおごとになってしまったのです。今までは原発問題や沖縄基地問題で政府の方針に反するような行動を取り、「家庭内野党」ということで好意的に受け取られ、それが安倍政権への風当たりを小さくする効果をもたらすということで首相には好都合な側面もあったので放置していたのでしょうが、それは「たまたま」で、よく考えられた行動などでは全然なかったのです。

 こういう「神がかり妻」にはどう対応すればいいのか? よく夫婦の一方がカルト宗教に入れ込んで家庭が崩壊したというような話を聞きますが、昭恵夫人の場合には、その軽信ぶりと性格からしてそうなるおそれは大いにあるとはいえ、何か特定の団体に入れ込んだというようではまだないようです。だから、ふだんからコミュニケーションが取れていれば、「神様のおつかいとはいっても、そういうのは君の思い込みにすぎないということもあるのだから、良識というものを忘れずに、それに一致することをよく心がけていないと、善意のつもりでも悪事の片棒を担いでしまうおそれは十分ある。それを忘れないようにして、何かするときはこちらにも必ず事前に相談するようにね」と優しく諭すこともできたでしょう。森友の件は、夫もネトウヨで元は夫婦そろってその教育勅語教育を賞讃していたようだから、夫人の方は当然夫の支持が得られたものと思って行動して、それがこういう悲惨な結果になったと言えるので、要はどちらも幼稚すぎたということになってしまいそうですが、夫人がどういう人間なのかということを夫として知らなさすぎたとは言えるでしょう。

 稲田朋美防衛相もそうですが、安倍首相にはどうも、「独善的なところがあって、ちょっと生意気だが、幼稚であんまり賢くない」女性が気に入るという性格的弱点があるようです。妙にカルトがかっているという点も、この二人には共通する。そしてどちらも、一時はよかったが、後では政権に大きなダメージを与えることになった。男性にとって、女性は多かれ少なかれ不可解な存在で、同性の品定めはできても異性のそれは難しいものですが、「失敗したなあ…」というのが今の偽らざる心境ではないでしょうか。こういうのも、しかし、「神様の試練」なので、ここはごまかさずに誠実に事態に対処する他ないでしょうね。そうすれば夫婦共々、もっと「成長」できるのではないでしょうか。それこそが「神様の意図」だと、昭恵夫人流に考えれば言えるのではないかと思います。

個よ、もっと強くなれ~アッキード事件ともからめて

2017.03.21.11:26

 実に四半世紀ぶりに、河合隼雄の本を読みました。『私が語り伝えたかったこと』(河出文庫)。僕は三十七、八までユングの本をかなり読んでいて、「どうもちがうな…」と思って、あるときからぷっつり読まなくなってしまったのですが、その関係で河合隼雄の本も、「消毒の効きすぎたユング」なんて失礼なことを言いながら読んでいたのですが、自分が生来の理屈屋であるせいか、理論的な本は食い足りない気がして、『カウンセリングの実際』のような本の方が陰影があって面白く読めました。

 僕がユングその人に関心を失ったのは、彼の理論体系それ自体が「壮大なフィクション」に他ならないのではないかという気がしてしまったためで、こんなことを言うとユング派の先生やその信奉者の人たちを怒らせてしまいそうですが、それは僕の独断なので、別に論争しようという気などはないのです。しようにも、大方のことを忘れてしまった。

 それでも、これを本屋の棚でたまたま見つけたときは懐かしい感じがして、買って読んでみようという気になったので、ざっと目を通したのですが、その中にこういう箇所があって、あらためて面白く思いました。

 それは「父性」に関するところで、二か所ほど出てくるのですが、日本では元々父性的なものは弱かった、という話です。「最近よく言われる父親の復権は打開策にならないんでしょうか?」というインタビュアーの問いかけに対して、河合氏はこう答える。

 日本の昔の父親は怖かったけれども、世間に恥ずかしいということで怒っていた。個性なんか全然考えていないんです。ところがヨーロッパでは、世間が何であろうと、わが家の考えを通すんだと頑張るのが父親なんですよ。自分の子供のために世間と戦う、これが父親なんですよ。
 極端な例をあげれば、国中が戦争しようというときに、うちの子は戦争に行かせない、おれは戦争反対だということを叫ぶことができるのが父親なんです。ところが日本の父親は、右へならえで「もう今は戦争の時代だ、行け!」でしょう。
 つまり、怖い父親が強い父親とはかぎらないんです。要するに、弱いから世間の言うとおりやっているんだから。日本にあるのは、父性の強さではなく、母性社会の中の強い父親なんです。
 だから、日本では父親の復権なんて言えない。そんな父親はいなかったんだから、父性の創造というべきです。みんなで創り出していこうじゃないかというぐらいの気持ちにならないといけないですね。(p.70)


 もう一ヵ所引用させてもらうと、

 …怖いのと強いのは違うんですよ。日本の軍人を見たらよくわかります。部下を叱りつけたりする怖さはあったけど、敵が攻めてきたときにきちんと判断して勝つ術なんていうのはあまり考えられない。それは上に言われたとおり、決まりきったことばかりしていたから。日本の軍隊は、一人ひとりの兵隊は強かったけれども上のほうがボケててね。
 つまり、この場合はこれでいくのだという判断、それが父性なんです。よし、おれはこれだ、というのはちゃんと言えるというのがね。判断して決断して実行する、これ、日本人は一番下手なんじゃないでしょうか。たとえば、赤か黒かを決めるときに、おれは黒だと決めて、子どもが「なんでお父さん赤にしないの」と言えないとダメなんです。そのときに「おれが黒だと言ったらそうなんだ、みんなやかましい」と言うのではなくて、これこれこういうことだから黒なんだと説明しないといけないのですよ。論戦を許容して勝ってしまうというのが父性なんです。日本のはやたら頭ごなしですよね。

 ――それと世間をいつも気にしている。

 そう、後ろ指をさされないようにと。西洋の父親というのは、世間はそうかもしれない、でも自分はこうなんだ、と言う。それが父の強さ。そのときに怖いとか怖くないとかは問題外です。僕はよく言うんですが、僕らの父親はみんな弱かった、だからばかな戦争したんだ、と。戦争だって突撃するのが強いと思ったら大間違い。突撃と言われたときに、なぜ突撃しなければいけないのかと言えることが、強いということなんです。日本人は自分で決めたら非民主的、とよく言うでしょう。それは違うんです。西洋のリーダーはパチッと決める。だってみんなでそのリーダーを選んだのだから。ところが日本では〔誰もが〕世間のあり方で言っているわけです。そこでうろちょろやっている。これからは変わらなければなりません。だからこれからの父親は大変なのです。でも、子どもが鍛えてくれます。(p.88~90)


 この最後の「子供が鍛えてくれる」というのは、この後説明が出てくるのですが、子どもが何か買ってくれと言ったとき、買わないと答えると、必ず何で買ってくれないのかと突っ込まれる。そこで理由を説明して子供を納得させねばならないからです。ごまかすのではなくて、きちんと正面から対応する。すると子どもは、自分を一人前に扱ってくれたという嬉しさを感じる。親の本気さ、誠実さも感じ取るわけです。

 僕がなぜこれを長々引用したのかと言うと、むろん共感したからですが、最近の森友事件をはじめとするドタバタを見ていて、このことの重要さをあらためて痛感したからです。

 周りをつねにお友達や子分で固めないと安心できない――これはそれ自体が不正の温床になる――「幼稚なガキ」としか言いようのないネトウヨ総理と、軽薄な思いつき、思い込みだけで「職権乱用」して憚らないKY女房はもとより困ったものですが、彼らの暴走がどうして可能になったのかといえば、その周辺が全部、ジャーナリストの菅野完氏がいみじくも命名したような「全自動忖度(そんたく)機」になっていて、「そんな馬鹿な話、聞くわけにはいきませんな」と突っぱねる見識と度胸のある人間がまるっきりいなかったからです。突っぱねるどころか、勝手に忖度して、進んでその意を迎えようとする。だからこういう「不透明」なことだらけになってしまうわけで、相手が北朝鮮の金正恩ならすぐ殺されてしまうから、傍からなぜそんなことをするんだとはかんたんには言えませんが、殺される気遣いはないのだから、官僚であれ、側近であれ、良識に基づいてまともに職務を果たせ、と言えるわけです。それで税金から給料をもらっているのだから。クビになるとか左遷がこわいなんてのは言い訳にならない。その程度の覚悟はもって仕事に臨むのがまともな職業人というものだからです。一体どこにキ●タ●をぶら下げているのかわからない。

 これはマスコミについてもいえることで、情報はつかんでいながら、調べもせずそのまま放置して、「書いても安全」という事態にならないと書かない。お偉方は首相との「お食事会」に嬉々としてはせ参じて、そのご機嫌を取り結ぶ。それで下に向かっては、陰に陽に「批判自粛」を促すのです。「今は政治の安定が何より重要な時期だから」などと、尤もらしい能書きを垂れて。権力の腰巾着が「社会の木鐸」とは笑わせるので、ネットのせいだけでなく、だから新聞も売れなくなるのです。

 先の引用にからめて言えば、今の父親たちは「ほんとは弱かった昔の父親」よりもっと弱くなっているということです。これでは子供たちにしめしがつかないとは、彼らは考えない。アホな戦前教育の復活などで世の中がよくなるのなら、誰も苦労はしないわけで、そういうのは「浦島太郎の経済学」と揶揄されたアベノミクスよりさらに悪いわけです。

 あるいは、こういうことも考えられます。貧弱な個しかもちえない人間にとって、「権威の枠組み」としての教育勅語的な道徳は好都合なものなのだと。それは子供たちに対しても、個人の資格で対応することを免除してくれるからです。そういうものがなくなって個人は大変になった。ロクな社会常識を持ち合わせない人間(これは年配の人にもいる)が増殖し続けたこともそれと関係するでしょう。その外枠のおかげで昔は明確な個などなくても何とかやっていけたのが、そうはいかなくなったからです。弱い個人は外部的な参照枠が何かないと自らを省みることすらできない。

 しかし、あの戦争で特徴的だったのは、どこを探しても明確な責任者がいなかったということです。「空気の忖度」があるばかりで、「おれが決めた」という人がどこにもいない。制度上の責任者も、制度からすればそうなるが、実は自分で決断していないのです。

 それがあの戦争の最大の教訓だったと思うのですが、「あの方がよかった」と言う人たちがこんなに増えたのは、人は誰でもそれなりの自己格闘の上に個というものを獲得するのですが、そういう面倒なことはやりたくないから、無意識にそっちに戻りたがっているということなのではないのでしょうか。

 僕は自分の人生は自分で完結しなければならないと考えています。自己内面の問題にも、自分でそれなりの決着をつけねばならない。そう思っています。だから、親の夢や願望の実現を子供に託すとか、そういうことが全く理解できないので、わが子であれ、塾の生徒であれ、子供たちには自分を「独立した人格」として育て、確立できる人間になってもらいたいと思っているのですが、これはべつだんきれいごとではなく、それが個人の幸福に益するだけでなく、世の中をよくする一番の近道でもあると思っているからです。

 先の引用文に照らせば、どうしてそうなるかということはおわかりいただけるでしょう。明確な個というものがなければ、組織や社会の健全性は保てない。それがないとどうなるかということを、先の悲惨な大戦や、今回の一連の馬鹿げた騒動はよく物語っているのです。

 河合隼雄はもちろん、単純な西洋的個人主義の崇拝者ではありません。彼は神話や伝統の重要性についてもどこかで語っていたと思うのですが、それは「強い個人」と相反するものではなく、あくまで主体的・内面的につかみとられたそれなのです。ステレオタイプの教義・信条をそのまま取り込んで、それに自己同一化して、支配されるというのとは違う。教育勅語を暗記させるなんてこととは、次元の違う話なのです。

 やっぱり、「強い個」をもつ人間を育てないと駄目だなと、僕はあらためて思ったのですが、いかがですか? それなくしては、この国はもう立ち行かなくなる。おかしな滅私奉公教育ではなく、その逆の柔軟で強靭な個を、です。こう言えば、エゴイズムの奨励だとすぐ受け取るような人間理解の底の浅さこそ、実は一番の問題なのかも知れないのですが。

二つの十字軍

2016.11.26.22:00

 最近、僕は二冊の本を買いました。一冊は延岡の書店にも置かれていたもの(ついでに言うと、僕が読みたいと思う本はめったにこちらの本屋にはない)で、リチャード・エンゲル著『中東の絶望、そのリアル』(冷泉彰彦訳 朝日新聞出版)です。原題はAND THEN All HELL BROKE LOOSE-Two Decades in the Middle East となっているから、それに近い感じで訳すと、『かくして地獄の釜の蓋は外れてしまった―中東の二十年』ぐらいになるでしょうか。P.18~19にこうあります。

 私の知る限り、独裁者に支配されていた中東世界は、怒りに満ち、抑圧されていて、芯から腐っていた。振り返ってみると、その頃の中東は、凝った印象的な造りで、外観は丈夫に見えたが中は老朽化して傾いている家々のようだった。そして、その中身といえばシロアリとカビだらけだった。空洞を抱えた木々のようなもので、外側からは強く見えた国でも、僅かな一押しで倒されたのは、そのためだ。
 つまりジョージ・W・ブッシュ大統領が、そこに一撃を加えたからだった。6年間の軍事戦略で、ブッシュ政権はイラクを侵略し、占領し、恐ろしいほど間違った統治を行い、1967年以来続いた体制を倒した。ブッシュが中東の最初の一軒の家を破壊した後、やがてオバマが登場した。オバマは、中東での冒険主義に反対する米市民によって選ばれた大統領だ。だが、そのオバマは一貫性のない政治判断でさらに多くの政治体制を崩壊させたのだった。
 オバマ大統領は、民主主義の名において起こった、2011年のカイロの反乱を奨励した。そして、アメリカの協力者だったムバラクを見捨てた。さらにリビアの反乱軍を軍事的に支援した。そのくせシリアでは迷いを見せて行動を起こさなかった。何度も一線を越えた判断が試されたが、約束は守られなかったのだ。その結果、決定的に信頼が損なわれた。ブッシュの過剰なまでの介入主義、そしてオバマの臆病さと一貫性のなさは、相乗効果を発揮して中東を完全に破壊した。


 それについてはこの本ではかんたんにしか触れられておらず、かつその軍事行動は「成功」だったとされていますが、ブッシュはこれに先立ってアフガニスタン攻撃も「9.11の報復」として行っていたので、それでタリバンをいったんは追い出したが、彼らはまた戻ってきて、状況は以前にも増して深刻なものになっていると伝えられます。たとえば、次の記事。

【AFP記者コラム】米軍進攻から15年、希望を失ったアフガニスタンの今

 この『中東の絶望、そのリアル』という本の優れているところは、単にリアルタイムで中東の戦場にいた記者の報告というにとどまらず、歴史的な経緯を詳しく説明してくれているところです。だから、上記の引用に続いて、「スンニ派とシーア派の対立を引き起こしたのはアメリカではない。その対立は、アメリカ独立宣言の千年前から存在している」という言葉が続く(第一次世界大戦後の英仏両国による勝手な「切り取り」にも触れられている)のですが、問題はブッシュ政権もオバマ政権も、そうした歴史的経緯と中東の入り組んだ宗派・部族対立の現実には驚くほど無知なまま、そこに愚かな首の突っ込み方をしてしまった、という点にあります。その結果、彼らが自負する「民主主義の福音」(今のアメリカにそんなものがあるかどうか自体疑問ですが)を行き渡らせるどころか、逆に地獄図絵を出現させてしまうことになったのです。

 IS(イスラム国)の出現と拡大にも、アメリカは大きな貢献をした。というか、上に見たアメリカの相次ぐ愚行がなければ、今のあの「テロリスト国家」は存在しなかったのです。そのあたりの皮肉な因果関係の説明は直接この本に当たってお読みいただくとして、アメリカは「ブッシュ教皇の十字軍」と、「リベラル・オバマの優柔不断」によって、自国の威信の喪失のみならず、中東の地下からあまたの悪霊悪鬼を呼び覚まし、そこを地獄に変えたのです。

 その後のディティールはともかく、「これはえらいことになってしまうぞ」と、僕はアメリカのアフガン攻撃の当初から思っていました。私事ながら、僕が最初の訳書『二つの世界を生きて』を出したのは2001年12月ですが、その本の「訳者あとがき」を書き終えたのは9月10日で、例のテロ事件の前日でした。それから本になるまでの間に、アメリカはアフガン攻撃を始め、深刻な懸念を覚えたので、「アメリカ・テロ事件を受けての追記」を書き加えた。精神科医の自叙伝と何の関係があるのかということになりますが、書かずにはいられなかったのです。僕はそこに、単純に「憎悪によって憎悪に報いる」こういうやり方をしていたのでは「『テロの根絶』どころか、かえって逆の結果を招いてしまう羽目になる」「一つのテロ組織を潰しても、また別のテロ組織が出現する。シンパシーがある限り、テロ組織は生き延びる。すなわち、類似の『災難』はまたアメリカを襲いうる。厳密にはそれは『災難』ではなく、自ら蒔いた種なのだ」と書きました。

 その時点では、まさかイラクまで攻撃するとは思ってもみなかったので、そうなったときはしんから呆れたのですが、とにかく以来、中東は壊滅的と言える混乱の連鎖に陥り、世界中にテロが蔓延するようになってしまった。アルカイダがさらにバージョンアップして強力化したような、「国家」を主張するISまで出現した。「いや、少し時間がかかっているだけで、いずれISも叩き潰す」と言うかも知れませんが、仮にそうなったとして、中東に、世界に平和は戻りますか? 今の状態ではISとの「和解」なんてものは不可能で、潰すまでやり続けるしかないでしょうが、その後の混沌たる状態を誰が収束させるのでしょう? シリアはロシアの意向もあることだし、元通りアサド政権に担当させる? 結構な話です。エジプトも「ムバラクのときよりひどい」と言われる軍事政権をそのまま容認し、混乱の続くイラクはシーア派、スンニ派、クルド人の三つ巴の対立・紛争をそのままにしておく? カダフィ亡き後、事実上の無政府状態が続いているリビアは? 要するに、問題は悪化しこそすれ、何一つ解決しないままで、火掻き棒の役目を果たして混乱を引き起こした無責任なアメリカは、もう中東イシューにはウンザリしている。そこで新たに選出された大統領が、あのドナルドダック…ではなかった、ドナルド・トランプなのです。

 この本の著者、リチャード・エンゲルは、そのあたりどう見ているのか?

 私は、これから数年の間に、中東の多くの国で改めて有力者による独裁が成立してゆくのではないかと見ている。IS、スンニ派とシーア派の流血、トルコ人によるクルド族への敵意、アラブ人とペルシャ人の代理戦争、そうした一連の悲惨な対立に取って代わる者として、新しい独裁者は、姿を現してくるだろう。そして新たな独裁者は、いったん権力を握って体制を固めた後には、往年の独裁者たちよりも悪質な統治を行うだろう。…(中略)…新たな独裁者は、ここ数年の混沌を解決するためには必要だということを理由に、国民の権利を奪うだろう。「往年の混沌状態を改めたいのなら、自由を諦めよ」というわけだ。
 しかし、こうした独裁者候補たちの前途は容易ではない。多くの独裁者たちが登場するだろうが、全員が生き残るとは限らない。ここまで古い体制を壊してきた混沌のエネルギーは、そうは簡単に収束しない。ISの支持者たちは、自分たちが確保した足場を死守するためには命を賭して戦うだろう。新たな指導者が登場する前に、そして混沌状態が沈静化する前に、まだまだ多くの殺戮が待ち構えている。(P.314~15)


 中東の次の十年で、激しい暴力が横行することは間違いない。だが、その暴力の多くは局地的な派閥抗争が主となるだろう。アメリカのイラク進攻のような大規模なことは起きず、おそらくアメリカ人の関心も薄れるのではないだろうか。2015年、私が国際会議のためにアメリカに戻った時、私は人々が中東に関してほとんど気にかけていないことに気づいた。アメリカ人にとって中東は、ただひたすら流血があふれている場所であり、利害関係の対象ではなくなっていた。そして、中東に関するニュースを新聞で読むのも、テレビニュースで聞くのも、もう嫌気がさしていた。とにかく、もう関わりたくないというのだ。(P.324)

「なるほど」と思う見方です。イランの核問題に関連して、次のような不気味なことも書かれています。

…仮にイランの合意が崩れるか、あるいは軍備拡大競争につながるのであれば、アメリカは知らず知らずの間に、自分がその穴に戻っていることに気づくだろう。そうなれば、地域におけるイランのライバルであるサウジアラビアは自身で核開発計画に乗り出すか、別の国から核兵器を導入するだろう。その場合に、最も可能性があるのはパキスタンだ。それとは別に、ISやアルカイダによる大規模攻撃は、アメリカをイスラム世界での新たな戦争に引っ張り出すことを可能にする。中東は磁石だ。そして、アメリカはそこに簡単に引き寄せられる因果があるのだ。(P.325)

 僕に一つ不思議なのは、この本は出てからすでにかなりの日数が経過していて、この手の本にはアマゾンにすぐレビューが出そうなのに、まだ一件のレビューもないことです。読むのにそう時間がかかる本でもない。引用文でおわかりのように、訳文も明快そのもので、内容も優れているのに、何でかなと思うのですが、理由の一つは、そこに「救い」が見出し難いことにあるのかも知れません。第9章の「増殖するISの残忍」には、悪辣という言葉では足りない、彼らの冷酷無残な所業も書かれている。

 これほど深刻な惨害と混乱の引き金を引いてしまったブッシュとの会見にも短く触れられていますが、その驚くべきノーテンキぶりには失笑を禁じ得ないので、かつてナチスのアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントは、小心で几帳面、上からの命令には忠実に従う、自分の行為がどれほど深刻なものであるかを想像する能力を全くもたない彼の「小物公務員」ぶりに驚いて、「悪の凡庸さ」について書きましたが、ブッシュの場合にはその驚くべき軽薄さ、思慮のなさが、ヒーローぶりたがる彼の幼児性と相まって、「悪魔の器」としての条件を満たしたのです。自ら考える能力をもたない下っ端公務員的な人間と、あり余る支援を与えても、ことごとく失敗してきた万事にイージーな名家の道楽息子が、ユダヤ人ホロコーストと、それに優るとも劣らない中東の大混乱を引き起こした。そうしてブッシュの尻拭いは、「秀才」のオバマがやらされることになったのですが、彼は机上の空論は得意でも、冷徹な現実認識と決断力に欠けていたのです。

 目下のところ、中東の事件は僕ら日本人にとってはよそ事です。「戦乱に巻き込まれた一般庶民はお気の毒に」ということでしかない。アメリカとの「同盟」のよしみに、自衛隊を戦場に派遣するようなことにでもなれば、わが国でもイスラム過激派によるテロは現実のものとなるでしょうが。

 イスラム過激派はアメリカの介入を「十字軍」とみなしていますが、それはアメリカ政府のメンタリティとしてはまさにそうだったので、しかしそれは、「自由と民主主義」をもたらしたのではなく、かえって人々により多くの不自由と圧政をもたらす(それも命があったらの話ですが)皮肉な結果となっている、あるいはなるであろう見通しなのです。

 もう一つ、本物の過去の「十字軍」を扱った本が出て、それは『異端カタリ派の歴史~十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』(ミシェル・ロクベール著 武藤剛史訳 講談社選書メチエ)です。おそろしく分厚い本で、768ページもある。しかも、余白を減らして詰めているので、実際の頁数以上のボリュームがあるのです。定価が税抜き3100円というのは破格の安さで、僕はこれを関東の知人からメールをもらって早速取り寄せたのですが、ようやく半分読んだところです。

 僕に奇妙に思われたのは、6月に『偉大なる異端~カタリ派と明かされた真実』という訳書を出したばかりだったからです。僅か5か月の間を置いて、日本人にとってはマイナー中のマイナーとも言えるカタリ派関係の本が二冊出た。このロクベールという人は、『偉大なる異端』の第14章「諸家のカタリ派解釈」で最後に言及されている著者(そこでは「ロックベール」という表記になっている)で、そこで言及されているのは同じ著者の『カタリ派の叙事詩』第一巻で、「それは非常な明晰さをもって書かれている。著者はデュベルノワ氏に師事しており、これはそれ自体、正確さと誠実さの保証となるものである」と称賛されているのですが、この『異端カタリ派の歴史』は全5巻となったその『カタリ派の叙事詩』を完成させた後、集大成として書かれた本である由。

 訳文も読みやすい、すぐれたもので、僕は大喜びしたのですが、『偉大なる異端』では略述されているに過ぎないその歴史が、背景、その前後も含めて、実に克明に描かれている。『偉大なる異端』の方は思想、信仰面に重点が置かれ、著者と「カタリ派の霊」との霊界通信(!)まで含まれているので、内容的にバッティングはしないのですが、僕の注文を言えば、先にこちらを出してくれていれば、人名や地名の表記に苦労させられたので、どんなに訳出作業で助かったか、また、歴史関係の註釈はこちらを典拠にしてできたのにと、それが少し残念です。

 しかし、それはぜいたくというもので、僕はこの本の出版を素直に喜びたいのですが、それにつけても今の日本で何でカタリ派なのか、というところはあって、奇妙な偶然です。僕のオカルト的解釈によれば、これは「危機が迫っている」ことの証しです。暗黒時代の到来を前に、「カタリ派についての学び」が意味を帯びてくるということで、これらの訳書は連続して出ることになったのだろうという気がしないでもないのです。

 来週中には全部読み終えるだろうから、何かとくに書きたいことがあればそれはそのとき書きますが、先に上げた『中東の絶望…』と連続して読んだために、僕の頭の中では今の中東の人々の苦難と、昔のラングドックの人々の難儀が重なって見えてきて、実に妙な気分になってしまったのです。平和をもたらさず、かえって殺戮と混乱をもたらす十字軍。大きく違うところは、当時の異端審問は迫害するカトリックの側からなされたのに対し、今のそれは、十字軍側のアメリカではなくて、ISなどのイスラム原理主義者が土地の住民に対して行うもので、その異常な独善性と偏狭さ、冷酷さは両者に共通していますが、そのあたりは「弱者が弱者を虐待する」というかたちで、さらにいびつで陰惨なかたちになっていることです。

 にしても、人間というのは何と進歩しない生きものでしょうか。カタリ派はグノーシス主義と同じく、「この物質世界の王は神ではなく悪魔である」と見たのですが、今の世界もそれを地で行っていて、それが改まる気配はない。そしてこの世界を地獄にしてしまう連中は、しばしば「神の使徒」「正義の使徒」を自任する人たちなのです。自称「正義」や「真理」が「内なる悪魔」を解放する口実となるのを人間はいつになったらやめるのか。むろん、それは人間の利己性や権力欲、党派心とつねに連携しているのですが、そのことには無自覚なのです。これに「その他大勢」組の気弱な日和見主義の安易さが加わって、地獄は完成する。今ではさらに「市場」を神と仰ぎ、戦争でも災害でも金儲けのチャンス、あるいは損害の原因としか見ない「心なし」の投資家たちの一団が加わったのです。

 そもそも人間の良心とは何なのか? しばらく前に僕はハンナ・アレント著『責任と判断』(中山元訳 ちくま学芸文庫)を、これまたネットで取り寄せて読んだのですが、彼女の議論は「学問的」すぎてふつうの人には難解すぎるので、そこらへんを引用や照会ぬきのわかりやすい言葉で論じる思想家がそろそろ出てきてくれてもいい頃だと思います。それとも、僕が知らないだけで、すでにそういう人はいるのでしょうか? 下らない成功本や「何事も気持ちのもちよう次第」みたいな気休め本の類は山とありますが(ああいうつまらない本が多すぎるから、棚がいっぱいになってしまって、いい本が出ても田舎の本屋の棚には並ばず、読者のレベルも低下するのです)、そういう本質的な議論にはとんとお目にかからないのです。今の日本の若い人たちには、平和が一応続いている今のうちに、そこらへんの勉強をしっかりして、自分なりの考えをもてるようになっておいてもらいたいと思うのですが。

性善説と性悪説、または悪の起源について

2016.09.17.16:55

 今でも高校の倫社では「性善説=孟子」「性悪説=荀子」というふうに教わるようです。それで試験では、「同じ儒教でも〔A〕は性善説を唱え、これを批判して〔B〕は性悪説を唱えた」とあって、それぞれのカッコに適する人物名を書き込むとか、下の選択肢からえらぶとかするのでしょう。

 実際的な見地からすれば、このような試験問題が解けたところで何がわかったことにもならないので、僕も高校生の頃、倫社の先生が「性悪説を唱えたきわめてユニークな思想家」だと言っていたのを憶えていたので、後年『荀子』と名のつく本を読んでみたことがあるのですが、全体の印象は「きわめてオーソドックスな儒教思想家」というもので、「何だ、孟子も荀子もそんなに変わらないじゃないか?」と思ったものです。「人の性は悪、その善なるものは偽(これは「虚偽」ではなく「人為的・後天的」の意味)なり」というところと、孟子への対抗心から彼の性善説を「これ然らず」と否定してみたところが、誇張されたのでしょう。

「わたし性善説、あなた性悪説」というような血液型占いみたいな分類も無意味で、人の何をもって「本性」とするのか、それによって見解も変わってくるわけです。現実の人間世界のこの醜い(なかには「美しい」と言う人もいますが)ありようからすれば、性悪説の方が正しいと思われますが、それは人が自分の「よき本性」に目覚めていないからで、それがわかれば悪人も善人に変わるのだ、と言われたりします。しかし、そういうのは孟子派の人や仏教の坊さんたちの言うことで、荀子的見地からすれば、「悪しき本性」の方が人間の“地”だということになって、それを矯正することを怠るからこういう有様になるのだ、ということになるのです。

 僕自身はどちらの立場をとるのか? 「この世界は悪魔がつくった」という中世キリスト教異端カタリ派の紹介者の一人であるからして、当然性悪説の方でしょうと言われそうですが、そのカタリ派でもスピリット、人間に備わった霊的本性は絶対善なので、カタリ派はむしろ性善説に属するでしょう。悪魔の所産であるこの物質世界の一部である肉体と結合することによって、人は悪しき性質を帯びるのです。荀子は人間の感覚的欲望、自我に根差す嫉妬心や、保身や名誉、権力への渇望などを人間の本性と見て、だから「性悪」だと言ったのですが、カタリ派的に言えば、それは物質世界に汚染されたところから生じるものなのです。心は肉体=物質世界と、スピリット(霊)の中間にある。だから「たましいは善と悪の戦場である」と言われるのですが、その見地からすれば、人間の心には善と悪が同居しているのです。

 人間の心を図式化して言えば、スピリット(絶対善)→たましい(両者の混合)→自我(悪)みたいになるでしょうか。このスピリットは、仏教でいう「不生の仏心」みたいなものなので、悟ったと言う坊さんは、もしもそれが本当なら、それが人の本質であると深く自覚したということです。しかし、それは例外で、大方の人は感情的・感覚的に自我の方にidentifyしているから、そのレベルでは性悪説をとった方が正しいだろうとは言えそうです。それは荀子の言うように「教化」されないと「まとも」にはならないのです。

 かんたんに言えば、人間はスピリットにおいては善、自我においては悪だということになる。人の心にはその両方があるから、「本性」という言葉で両方を括ると、どっちに中心を置くかで性善説と性悪説に分かれるわけです。

 スピリットだけで自我がない人はいないし、逆に、自我だけでスピリットはないという人もいない。自己というものをどの次元で理解するかによってその判断も変わってくるわけですが、肉体の個別性に合わせて、自己を個別に独立したものと観念するなら、スピリットは永遠に理解できない。それはたしかです。「私」という意識を離れたとき、初めてそれは感知・洞察される可能性をもつからです。

 したがって、こういうことになる。僕やあなたがスピリットのレベルでは「善」だといっても、それは“私の”スピリットが善であるという意味ではないので、そのスピリットは万人共通のものであるがゆえに絶対的なものなのですが、ただスピリットはスピリットなのであって、そこに私やあなたの沙汰はないのです。誰もそれが「自分のもの」だとは言えない。そこには自我のような個別性はないので、個別の自我の次元では、僕らは多かれ少なかれお粗末な存在なのです。それを自覚していないと、本物の馬鹿になってしまう。

 学生の頃読んだ詩人ポール・ヴァレリィのいわゆる「テスト氏」ものの中に、『エミリー・テスト夫人の手紙』というのがあって、今手許にその本がないのでたしかめようがないのですが、その中に「あの人の目は世界よりほんの少し大きい」という箇所があったと記憶しています。僕らは「世界よりほんの少し大きい」目をもつ必要がある。自我はその世界の中にすっぽり呑み込まれているが、それをはみ出す部分に「自由」は生まれるからです。自我に同一化している意識にはそれがない。それがないまま、自己肯定感をもとうとすれば、僕らは自我のもつおぞましさ、愚劣さを決して正視することはできないでしょう。そうすれば、自己肯定感を破壊されてしまうからです。

 そのヴァレリィが五十代になってアカデミー・フランセーズの会員になったことを、『幸福論』で有名な哲学者のアラン(彼は生涯リセの一教師にとどまった)は批判しましたが、アラン自身、ある晩自分がアカデミーの会員に選出される夢を見たという。正直にそんな話を書くところがいかにもこの人らしいが、それを見させたものは彼の自我であり、それがもつ低級な俗物根性、名誉欲だと彼は見たのです。だから彼はそうしたものに警戒を怠らず、「精神の手綱」を奪われるようなことがあってはならないと考えた。世の中には人一倍自我執着が強く、日常的に嫉妬や名誉心に鼻づらを引き回されていながら、「自我の消滅」なんて大仰なことをむやみとお説教したがる人がいますが、そうした自己欺瞞、厚顔無恥ほどこの哲人が嫌ったものはなかったので、自分の中の何がそんなことを言わせているのかという自覚が、その種の人には欠落しているのです(ヴァレリィ自身、こんなことを書いていました。「私は愚か者の意識がいかなるものであるかを知らない。が、賢者の意識は愚劣に満ちている」と)。

 自意識過剰の若者が皮相浅薄で、ときに邪悪な「自己の中身」に悩むのは当然です。そしてそれは、そこから目をそむけるよりはずっといい。しかし、意識がその次元に貼りついて、その状態のままそれを何とかしようとしても、それはできない相談です。もちろん、そんなことはわかっています。だから私は意識を「低次の自我」から「高次の自己」へとシフトさせようと日夜骨折っているのです、云々。しかし、気をつけなければならないのは、誰にでもたまさか神秘体験の類が生じて、何か別次元のものが見えたような気がするときはありますが、それを誤読して、自分がエラくなったような錯覚に陥ると、「低次の自我」が「高次の自己」に変装して現われるのに騙されて、前よりもっと悪くなってしまうことがあることです(いわゆる「自我インフレ」が起きてしまうので)。

 これも今手許に本がないので正確さは保証できませんが、昔読んだ『今昔物語』にこんな話がありました。京都のある山に一人のお坊さんがいて、日夜お経を唱えながら僧坊にこもって修行に打ち込んでいた。ある猟師がそれを尊いことと思い、折に触れ物を届けていたが、その猟師に、ある日僧はこんな話をした。自分も修行が進んだと見えて、最近は夜な夜な白象に乗った尊い菩薩様が現われるようになった。今夜もきっと現れるだろうから、おまえも今宵はここに泊まって、その神々しいお姿を拝んでいくがよいと。果たして、夜も更けた頃、その白象にまたがった菩薩は庭に現われた。燦然と輝くその姿! それを見た猟師は部屋に取って返すと、猟銃を持ち出してそれを一撃した。何という罰当たりなことをするのだと激怒するお坊さんに、彼はこう答えた。もしもあれが本物なら、徳高いすぐれたお坊さんには見えても、私のような殺生をなりわいとする卑しい者には見えるはずがない。私に見えるということはあれはニセモノで、何かが化けてたぶらかしているのに違いないと。翌朝、弾が当たったその現場を調べてみると、そこには血が点々としていて、それを辿っていくと、一匹の古狸の死体があった。そういう話です。これを寓話と見れば、古狸(自我)が白象に乗った菩薩(高次の自己)に変装して現われたにすぎなかったのです。「正気の猟師」が象徴するのは、「殺生を生業とする自己の卑しさ」に対する率直な自覚です。

 僕らはこの猟師の正直さを見習うべきでしょう。彼は生活のためにその後も猟師を続けたでしょうが、生活に必要な以上の命を奪うことはしなかった。己の卑しさへの自覚が慎みとなり、モラルを生み出すのです。おそらく今の時代なら、そのお坊さんは高次の悟りを得た人で、だからそのような「奇蹟」も現わせるのだと、世人の崇拝を受けるでしょう。それでみんなして、古狸に化かされる羽目になるのです。この古狸を背後で操るものこそ、カタリ派の言う「悪魔」に他なりません。白象が見えるほど「高級になった」皆さんは、彼に手を引かれつつ、地獄への道を天国へのそれと錯覚したまま進むことになるのです。

 それにしても、この「悪魔」の正体とは何なのか? 擬人化されたツノをはやした悪魔は、あごひげをはやした神同様ナンセンスですが、その起源は人間にとっては永遠の謎です。僕は最近、若い頃読んだプロティノスを久しぶりに少し読み返しているのですが、その西洋人特有の理屈のくどさ、細かさには閉口するものの、昔読み飛ばした個所で「なるほど」というところがあったので、脇道の脇道になりますが、それを書いてみます。

 彼の存在論は「絶対善」である「一者(ト・ヘン)」に始まり、「一者→知性(ヌース)→たましい→自然(ピュシス)」というふうに下ってきて、下位のものは上位のものを仰ぎ見ることによって向上するという図式になるのですが、この「たましい」というのは、先に僕が使った言葉でいえば、「スピリットを核としてもつソウル」ぐらいの意味です。だから次のような、常識的に考えると不可解な記述も出てくる。

「生物はこれに生命を吹き込むことによって、自分(=たましい)がこれを生物たらしめたのであって、地のはぐくむところのものも、海のやしなうところのものも、空中にすむものも、天にある聖なる星も、みなしかりである。また太陽を太陽たらしめているのも自分ならば、この大きな天を天たらしめているのも自分なのであって、自分が宇宙の秩序をつくり、自分がこれに規則正しい運行を与えているのである」(「三つの原理的なものについて」田中美知太郎訳)

 この「自分=たましい」はいわゆる「宇宙霊魂」と呼ばれるものです。どうしてそれが人間の「たましい」の側からして「自分」なのかと言えば、人間のそれも宇宙霊魂の一部だからで、その「正しい自覚」に立てば、そのように言えるというわけです。これはだから、別に誇大妄想患者のたわごとではない。

 そしてこの「たましい」はすぐれた知恵をもつが、それはその上位の「知性」からすれば、それの「影像(ようぞう)」にすぎないもので、さらにその上には究極的存在である「一者」がある(「あるとかないとかの沙汰を超えたもの」なので、もはやそれは通常の意味での「存在」の範疇には入らない?)という構造になるのですが、人間がもつ知性も、同じプロセスで「上から」下ってきたものです。私の知性、あなたの知性というようなものはない。それは私のスピリット、あなたのスピリットがないのと同じです。

 だから、「自己肯定感の欠如」に悩む人は、無理に「自我肯定感」をもとうとするのではなく(そんなことはそれ自体病的なことなので)、そうした「正しい自覚」を回復すればいいということになるわけですが、なぜそれが難しくなったのか? 同じ「三つの原理的なものについて」の冒頭で、そのあたりはこう述べられています。少し長いが、引用しておきましょう。これは最初の段落の全文です。

「はてしていったい何ものが、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのであろうか。自分はかしこから分派されたものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのは、いったい何であろうか。むろんそれは、あえて生成の一歩を踏み出して、最初の差別を立て、自分を自分だけのものにしようと欲したから、それがたましいにとってそのような不幸のはじめとなったのである。特にこの自分勝手にふるまいうることのよろこびというものは、一度たましいがこれをおぼえたと見えてから、その自己主動性の濫用というものはすでにはなはだしいものがあったのであって、たましいは逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまったのであって、自分がかしこから出てきた者であるということすら識らぬにいたったのである。それはちょうど小児が、生後間もなく父の手許から引き離されて、長い間遠方で育てられたために、父が誰であるか、自分が何者であるかを識らないようなものである。かくて、もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで、他を尊び、何でもむしろ自分以外のものに驚嘆し、これにこころを奪われ、これを称美し、これに頼り、自分が軽蔑して叛き去ってきたところのものからは、できるだけ自分を決裂離反させるにいたったのである。したがって、かのものをまるで識らないということについては、自分を卑しんで、この世の事物を尊ぶということが、その一因であるということになってくる。すなわち他のものが追求され、驚嘆されるということは、同時にまたこれを追求し、これに驚嘆する者が、自己の劣悪を承認することだからである。しかしながら、自分を、生じ来たり、亡び去るもろもろの事物より劣ったものだと決めて、自分を何よりも無価値な可死物であると考え、他のものをむしろ価値ありとしているのでは、思いを神の本性や能力に致すことは決してできないであろう」(同上)

 プロティノスはグノーシス派を批判しましたが、こういうところはグノーシスと全く同じです。ハンス・ヨナスが指摘したように、彼の思想は「本質的にグノーシス的」なのです。その未熟な、悪しきところを取り除いたグノーシス派と、言えばいえるかも知れませんが。

 この「たましいの堕落」に関する描写は、キリスト教神話の「天使の堕落(それによって彼は悪魔となった)」と似ているし、この前訳が出たガーダムの『偉大なる異端』をお読みになった方は、「第十八章 創造」に描かれたアイオーンのそれとよく似ていると思われたでしょう。僕らの個別のたましいは、自らの本性(=スピリット)を忘れた堕天使に等しいので、これらは同じことを語ったものと理解して差し支えないでしょう。

 にしても、僕に不可解なのは、どうして天使またはたましいは、そのような「過誤」を犯すことになったのかということです。キリスト教の神話によれば、それは天使の驕慢によるものだとされています。それが忘恩と自由の濫用、ある種の「無知と盲目性」を招いたのです。しかし、それなら、なぜ天使は驕慢に落ち込んだのか? 僕としてはむしろ、天使またはたましいがそうした方向に傾くその背後にこそ、悪魔的な力が働いていたのだと、そのように見たくなります。つまり、天使が堕落して悪魔になったというより、彼をそう仕向けた「何か」こそ、真の黒幕、“本物”の悪魔なのだという解釈です。つまり、悪魔は天使以前に、あるいはそれが生まれると同時に出現した。

 人間世界の悪については、もっと単純な、神話的でない説明が可能だと言われるでしょう。それは動物的な本能に発するもので、人間には個体の維持とその勢力拡張への本能的衝動が元々あるが、意識が発達するにつれ、肉体の個別性に対応した内面的な個別の実体があると考えるに至り、その優劣を競う争いが始まって、物欲、権力欲、名誉欲、いずれもが桁外れに強化されたのです。保身本能と恐怖がこれに混じり合って、裏切り・虚言などの悪徳も拡大する。別に形而上的な悪や悪魔を考えなくとも、十分説明は可能だということです。元々の自己保存本能に加えて、自我意識に由来する様々な劣性感情が、この人間世界に悪をはびこらせるのだと。

 しかし、それでもなお、僕は疑問に思うのです。冷静に考えるなら、「個別の自己」なるものは明らかに妄想です。ヴァレリィはデカルトをもじって、「私はときどき考える、ゆえに私はときどき存在する」と皮肉を言いましたが、熟睡しているときは「私」は存在しません。眠っているときでなくとも、意識がどこかへ行ってしまうことはある。僕はかつてあるところで、川の流れの音を聴いているうちに、意識がその音にくっついて行ってしまう、という奇妙な経験をしたことがあります。ある刺激があったのをきっかけに、意識はあわてて僕のからだに戻ってきたのですが、それは足元から縦に波をかぶるようにしてぴしりという音を立ててからだに降りかかり、その瞬間、ものすごい勢いで音が開け放った窓の外に飛んでいくのを目撃しました。文字通り、それが「見えた」のです。意識が「留守」にしていた間、僕は立ったまま意識を失っていたので、その間の自分に関する記憶はゼロでした。意識の見地から言えば、音が存在していたのであって、僕は存在しなかったのです。

 僕はデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」自体に懐疑的です(若い頃彼を愛読した僕は、今でもあんなに頭のいい人はめったにいないと感服しているのですが、これはそういう尊敬心とは別の話です)。それは事後の推論に基づいてつくられた論理すぎないのであって、考えているとき、考える主体というものがそこに存在するのかどうかは疑わしい。ただ思考の流れがそこにあると見た方が本当らしく思われる。少なくとも創造的な思考にはそれがあてはまるでしょう。犬は走っているとき、「われ走る、ゆえにわれあり」なんて思っていないでしょう。そのような自意識をもっていると、何かにけつまずいて転倒するのがオチです。

 意識がこの肉体に即(つ)き、脳中枢と一体化するとき、その身体反応と脳に宿った記憶や思考のもろもろが「自己のもの」と観念され、「私」が出現する。それはスイッチを押すたびについたり消えたりする電球みたいなものです。常住的な自己が存在すると思うのは、脳の記憶保持機能と統括機能のおかげで、前の情報が保存され、身体的な統合性が維持されているからです。だから電球がつくたび、あたかもつねに自己は存在していたかのような錯覚をもつ。パソコンが自意識をもてば、“彼”は同じことを主張するでしょう。おまえの主観は間違っていて、製造後に、事後的なものとして生じたにすぎない自己観念は幻想だと教えても、彼は聞き入れない。うるさいので三日ほど使わずにおいて、スイッチを入れると、また同じことを主張して、それを認めてやらないと機嫌が悪くてまともに働いてくれないので、僕らは仕方なく、パソコンの「独立した人格」を認めて尊重するふりをして見せるのです。これと似たような話。

「でも、そういうのって、可愛いじゃありませんか?」と今どきの女子中高生あたりなら言いそうです。ただの無機的な機械を相手にしているより張り合いがある。名前をつけて下さいというので、パソコンだから「パー君」にしたらと言うと、そんなのは駄目です、だって「パー」というのは日本語では「馬鹿」という意味じゃありませんか、ボクがそんなことも知らないと思っているんですかと、ムキになって反論する。そういうところが「可愛い」というわけです。高い学習機能をもつこのパソコンは、使ううちにどんどん利口になって、時々は主人の使い方にケチをつけたり、書いている文章に辛辣なコメントを加えたりするようになる。ユーザーは怒って、そういう生意気な態度をとるなら叩きこわして、あんたを抹殺することもできるんだから、と言うと、パソコンは、どうかそれだけはやめて下さいと哀願する。どこかに不具合が生じると、「お医者さんに連れて行ってください」と自ら修理を願い出るのですが、彼は何より機械がこわれて「自分が死ぬ」ことを恐れているのです。

 身体や思考・記憶と自己同一化した人間の意識もこれと似ていて、先のプロティノスの文には、「もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで」とありますが、この私は肉体と共に滅びるものだと思っていて、プロティノスのいうそうした「自己の劣悪」への恐怖が、自己の肉体を含む外界への執着、物欲、名誉欲、権力欲等々を生み出して、それらを「所有」することによって「自己の貧しさ」を無意識に補償しようとするのです。いや、私は「たましいの不滅」を信じているからそんなことはありませんと言っている人も、大方はその恐怖のゆえにそんな観念にしがみつこうとしているだけで、無意識を支配しているのは依然としてその恐怖なのだから、そうした諸々の悪徳は依然として健在なのです。

 僕は先に、今昔物語の話のところで、正気なのは坊さんではなく猟師の方で、それが象徴するのは、「『殺生を生業とする自己の卑しさ』に対する率直な自覚」だと書きました。それと矛盾するのではないかと言う人がいるかも知れないので、そのあたりのことも手短に説明しておくと、この猟師の場合には高度な自覚が少なくとも潜在的にはあって、それとの対比で今ある自己が「卑しいもの」として感じ取られていたのですが、プロティノスがここでいう「自己の劣悪」は、それと自覚のない劣悪、いわば「閉じ込められた劣悪」であって、だからこそ問題なのです。

 ここで話を元に戻して、僕が先に不思議だと言ったのは、個別の肉体に対応するものとして存在するという「実体としての自己」の観念それ自体が、見てきたように「万物の霊長」を自負する人間にはふさわしからぬお粗末なものだということです。生物学的に見ても、社会学的に見ても、自我という機能には一定の重要な役割がある。それがなければ僕らは自分の身を守ることができないし、社会的に責任ある行動をとることもできない。けれども、それは「機能」として見れば足りるのであって、「実体としての自己」と見て、これをなかば絶対視して固執するところに、「人類の不幸」は始まるのです。

 それは単純に、ヒトの知能が低いから生じた錯覚にすぎないのか? それも悪魔が裏で糸を引いていて、そういう錯覚、幻想を人間が抱くよう仕向けたその結果なのではないかと言えば、「あなたという人はほんとに悪魔が好きなんですね」と冷笑されるかもしれません。

 仏伝、お釈迦様の伝記には、魔王・波旬(はじゅん)がゴータマ・シッダルタに執拗につきまとい、一族の妖魔の類を総動員して、その成道を妨げようとするさまが描かれています(悪魔は「こいつは危険な奴だ!」と早くから目をつけていたのです)。度重なる襲撃・誘惑にもかかわらず、とうとう悟られてしまって、魔王は肩を落としてとぼとぼと立ち去るのですが、その姿はもの哀しげで、どことなくユーモラスです。悪魔は元々が仏教語だそうですが、こうした仏伝の背後にある思想は、僕が今言った見方とさして違わないのです。悪魔が何より恐れたのは、上記の自己観念を幻想として破棄し、そこからきれいさっぱり離脱されてしまうことで、そうなると自分の支配力が失われてしまうからです(ましてやそれを他の人間に教えて回るとなれば、彼の王国の屋台骨が揺らぐ恐れがある)。心理学者たちは、これを内面的な自己格闘を擬人化して描いたものだと解釈する方を好むようですが、それは下手をすると事態の矮小化になるでしょう。悪魔(仮に実在するとすれば)にとってはその方が好都合でしょうが。

「天使の堕落」にしても、「自我の実体視」にしても、その背後に神ならぬ悪魔の「見えざる手」が存在し、今も存在すると考えるのは、著しくグノーシス的、カタリ派的です。宇宙の森羅万象には光と、空間に秩序を与え、物質を結晶化させ、生命を育む「神または善のエネルギー」が浸透し、他方にこれに抵抗してその働きを妨げ、あるいは歪めようとする「悪魔または悪のエネルギー」が存在して、両者がくんずほぐれつの熾烈な戦いを演じている。その縮図、小宇宙が人間の内面とそれが作り出すこの世界だと、それらの思想は見ていたのです。

 しかし、なにゆえに悪または悪魔は存在するのか? それは「永遠の謎」だと先に書きましたが、西洋のジョーク集によく出てくるように、仮に「善しかない」天国(天国というのは定義上そういうもののはずです)があったとすれば、それはかなり退屈なものでしょう。皆が善しか思わず、行わず、妙なるハープの調べが流れる中、たえず神を讃美して、不安も恐怖もなく、病気も死もなくて、悪しき欲望はもてないものの、何でも思いどおりとなれば、かえって何をする気もなくなってしまう。単調きわまりなくて、地獄の方が恐ろしくはあるが、刺激的なだけまだマシだということになりかねないので、しばらく滞在する分にはいいかもしれないが、長期滞在は人間的な感覚からすれば、ご免こうむりたくなるのです。

 やはり抵抗というものがなければ面白くない。重力の抵抗、空気の抵抗、水の抵抗、そうしたあれこれの抵抗があってこそからだは鍛えられ、何事も思い通りには運ばないからこそ、精神力は鍛えられる。勧善懲悪ドラマには、よくもこんな悪党がいるなと思うような邪悪で強力な悪者が登場して、善玉ヒーローは苦労の末これをやっとのことうち破るのですが、貧弱な悪党だけでは、ヒーローの引き立て役としては不十分です。障害が小さいと、ヒーローやヒロインもその分小粒になってしまう。人間の諸々の美徳は、諸々の悪徳とその誘惑をしりぞけてこその美徳なので、でなければそれは美徳ではないのです。危険に敢然と立ち向かうヒーローも、死への恐怖をしりぞけるがゆえに、その勇気と豪胆を賞讃されるのであって、万人に恐怖がなければ、それは美徳たりえないのです。

 困難や障害を作り出し、行く手を阻もうとする悪魔は、従って、この世界には不可欠な存在だということになります。彼がいないと、この世界は(人間は)気の抜けたコーラみたいになってしまう。豆腐もにがりがなければ作れない、というわけで、神と悪魔は実は裏で結託している。悪魔が元は天使だったという神話は、そうした観点からすれば意味深長で、彼はあえて汚れ役を引き受けたのです。だから、僕らが悪魔の誘惑や脅しにたやすく屈し、彼の軍門に下って、その惨めな使い走り(情けないことにその自覚すらなくて大威張りだったりする)と化すとき、楽屋で彼は舌打ちしている。どいつもこいつも、ちょっとおだてたり、脅したりするとイチコロで、少しも張り合いがない。全くもってロクな奴がいないなと嘆いているので、悪魔の本心は別のところにあるのです。仮に全人類がそのたくらみを斥けることに成功したとすれば、彼は「お役御免」で、そのときは晴れて元の天使の姿に戻ることができる。それが当初彼が神と交わした密約です。おそらくその暁には、この物質宇宙それ自体が何らかの変容を遂げ(オカルト的に言えば「物質の振動レベルが上がって」)、今のこの世界は消え去るのでしょう。むろん、それは嘆くべきことではなく、喜ばしいことなのだと思われるのですが。

 ヒトという種に残された時間があとどれくらいあるのか、僕は知りませんが、それに失敗すれば、また他の生物をえらび出して、一から始めることになる。それは目下進行中の史上第六番目だという生物の「大量絶滅」以後の話になるのでしょう。この大量絶滅、人為的な要因で生じているという意味では「史上初」だそうですが、「あきまへんで、この生物は…」という神と悪魔のヒソヒソ話が、僕らの知らないどこかで交わされていたとしても不思議ではありません。これなら恐竜の方がまだなんぼか見所があったという結論になりかけていたとしても、怪しむには足りないのです。

 真面目な話がジョークで終わって恐縮ですが、以上は悪の起源に関する僕の「神話」です。お粗末さまでした。(尚、一つプロティノスに関して付け加えておけば、彼は悪を「素材」に由来するものと見ています。「自然」はヌース(知性)を背後にもつ「たましい」によって「形相と秩序(生命も)」が与えられたものですが、それ以前の、その素材となるものがこれです。現代科学の言う「暗黒物質(ダーク・マター)」なるものがそれと関係するのかしないのかは知りません。「色荷も持たない」ということは、その不可解な物質は光の浸透を全く受けていないということだろうから、プロティノスが考えた「素材」に近い感じはしますが、こういうのは素人の手に負える話ではありません。尚、最新の学説では、恐竜の絶滅は巨大隕石の衝突ではなく、この暗黒物質の作用によるものだという話になっている由。暗黒物質、恐るべし、です。)
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