今の日本で明るい話題と言えば、大谷翔平選手のアメリカ大リーグでの破格の大活躍と、大坂なおみ選手の快進撃ぐらいでしたが、大坂選手は最近様子がおかしいなと思っていたら、実はうつに苦しめられていた、という話です。
・大坂選手、全仏から棄権表明 2018年からうつ病に
今は「コロナうつ」という言葉があるくらいで、いつまで続くともしれない緊急事態宣言による規制+自粛要請と、菅政権の順序が逆の「五輪開催強行のためのコロナ対策」の迷走に対するイライラなど、ストレスの材料ばかりで、今や日本人の大半がうつ傾向にあると思われます。この他にも、明瞭に意識化されないまでも、いずれ確実に起こるとされる大地震や、地球温暖化に伴う異常気象の頻発や予想される不測の事態、コロナでさらに悪化した慢性不況の先行きに対する不安などもある。集合的無意識レベルでも不安や葛藤の圧は強まるばかりなので、うつ要因には事欠かないのです。
それに加えて、前回ここに書いた、無用な課外や大量の宿題で疲労困憊状態に追い込まれる高校生たちの話のような、個別事案があちこちに転がっているのです。何だか知らないが、緊張や不安、疲労、イライラの材料が増えるばかりになっている。
大坂なおみ選手について言えば、トップアスリート特有の高いパフォーマンスを期待される重圧がつねにあった上に、元々内向的かつ繊細で、おかしな質問までされる記者会見の類は苦手だった。うつが募るにつれなおさらそれが苦痛になっていたわけですが、そうした個人的事情は知られていなかったので、会見拒否をして批判され、規則で罰金を課され、今後出場停止の処分が下される可能性もあるという脅しまで受ける羽目になった。彼女にかぎらず、この社会では個人の内面とは無関係に外部から要求されることがつねにたくさんあって、それに従わないとたちまちバッシングの嵐にさらされ、今の時代はとくにそれが甚だしい感じですが、それがまたうつに苦しむ人に追い打ちをかける結果になるのです。
今回彼女はそれをはっきり口に出して言い、しばらくコートを離れて休養を取ると宣言したわけですが、こういうのはよほど勇気がなければできないことです。たいていは倒れてしまうところまで無理をし続けて、そのときは事態は深刻になりすぎているから、最悪の場合、自殺に追い込まれる。そうでなくても再起するのは大変になってしまうのです。
僕もうつに苦しめられた経験がありますが、あれはかなり恐ろしいもので、何より恐ろしいのはどこからも力が出てこなくなるということです。また、うつ的な傾向が高まっているときにかぎって精神的な打撃になるようなことがいくつも起きるもので、何か自分を叩き潰そうとしている見えない巨大な悪意が作用しているようにさえ感じられる。その場合、元気なときのように跳ね返す力も失っているから、殴られっぱなしのボクサーみたいになってしまうのです。
当然そうなると、生活上要求されるあれこれの要請にも応えられなくなって、他の人たちにはそんなことはわからないものだから、「何をやってる!」とか、あれこれ非難されるもので、見た目にも鼻っ柱が強く、「あいつだけは殺しても死なない」なんて言われていた人間の場合、なおさらそうなりやすい(このタイプの人は同情されるより非難される方がマシだと思って黙っていることが多い)。そうしてたいていの場合、仕事にも支障が出たり、やめざるを得なくなったりする(そういうときはそれが直接の原因でなくてもそれまであった仕事の契約が解除されたりといったことも起きやすい)から、経済的にも事態はどんどん悪化して、二進も三進も行かないところまで追い込まれてしまうのです。
だから、経済的理由の自殺などにもうつが大きく関与していることが多いはずで、経済的困難がうつを発症させるということはむろんありますが、うつで現実にうまく対処できないようになっているから、ずるずると経済的にも追い込まれてしまう、ということになりやすいのです。悪化のきっかけになった最初の対応にうつがすでに関与していて、その後も下手な対応を重ねて事態を悪化させるのです。そういうときは、自分に鞭打って転職活動に励んだりしても、うまく行かないことが多いでしょう。条件もぴったりのいいところがやっと見つかったと思って喜んだら、そこが最悪の人間関係の職場だったとか、うつの人はなぜだかそういうところをえらんでしまうのです。
「下手の考え休むに似たり」と言いますが、うつ状態の頭でいくら考えてもいいアイディアは出てこないものなので、そういうときは開き直りが一番大事です。周りの人に事情を説明して、「ちょっと待ってくれ。今自分はこれこれこういう状態にあって、ウルトラマンの胸のランプがピコピコ点滅しているような状態だから、使い物にならないのでしばらく休ませてくれ」と言って、気分転換に全く違ったことをしたりなどする。そうすれば、周りも事情が分からないままとやかく言ったりはしなくなるでしょう。
しかし、うつの人にはそれもうっとうしく、大きな負担に感じられて、そのまま一人で問題を抱え込んでしまうので、事態を一層悪化させてしまうことが多いのです(僕もそうでしたが)。結局、それでは傷口を広げて後々よけい人に迷惑をかけてしまうことになるので、大坂なおみ選手のあれはいいお手本になるでしょう。だから「なおみ方式」は推しです。
しかし、うつが治らなかったらどうしようという不安はそのときもあるでしょう。これも「なるようになるさ」と開き直ってしまうのがいいので、うつが根付いてしまうのは悶々として、葛藤がずっと続くからです。でなければいずれ元気は回復する。真面目な人ほど治りにくいのは、「いつまでこんなことはしていられない」という焦りや罪悪感が強く働くからで、怪我をしたとき、傷口を気にして何度も見たりしていると治りが遅くなるのと同じで、取り越し苦労がかえって回復を遅らせるのです。
むろん、何か特定できる理由がある場合は、その問題を意識化して、それに伴う感情的もつれを解消しておく必要はあるでしょう。その理由は人によって様々で、それまで自分では意識していなかったが無理を重ねすぎたとか、何か深刻なトラウマになるような事件があったとか、いわゆるミッドライフ・クライシス(中年危機)などの場合、意識ではその自覚がないが、それまでの生き方が本当は行き詰まっていて、それを大きく転換しろという深い内面からの促しが関係しているとか、子供や若者の場合、それまでは親や教師の言うことを聞く「よい子」で、その期待に沿うよう一生懸命頑張ってきたが、自分の正直な思いは犠牲になっていて、それが限界に達していることのシグナルだとか、色々ありえます。
僕自身はある程度心理学や精神病理学方面の知識はあったので、精神科医やセラピストのところに行っても言われることは大体わかっていると思って、自己治療をあれこれ試みたのですが、それで軽減した面はかなりあったとしても、これという決め手になるような原因は発見できませんでした。たぶん一番大きかったのは、それを僕は「内なる世間」と呼んでいるのですが、周りからは好き勝手やってきたように見えても、それがまだ頑固に自分の中に居座っていて、それが妨害になって思い切ったことが十分にできていなかったということの発見でした。
それで、極限まで行った末に破れかぶれになり、関大徹というお坊さんの書いた『食えなんだら食うな』という面白い本がありましたが、あの伝で、やりたいことをやって飢えて死ぬならそれは結構なことなので、今後は結果を思い煩うことなく、したいことをしてやろうと思ったら、外部環境は最悪でしたが、心境に変化が生じたのです。
人にはそれぞれ置かれた立場というものがあります。学生でも、サラリーマンでも、自営業者でも、子育て奮闘中の主婦でも、やらなければならないこと、責務と感じられることがあって、最低限の義務も果たせないようでは生きている価値はないと感じて、その自責の念がよけい苦しさを募らせるのです。
文明というのは便利なものですが、反面、それは人を十重二十重(とえはたえ)の拘束の中に置くものでもあって、辺境に住む、昔ながらの狩猟採集民的な生活を送っている少数民族などを調査すると、皆明るくて、精神病やうつなどは皆無であることが知られています。統合失調症のような深刻な精神疾患ですら、文明病であることがわかるのです。
さっき、うつで「何より恐ろしいのはどこからも力が出てこなくなるということ」だと書きましたが、これは「生命力の枯渇」現象だと言ってよいので、なぜそんなことが起きるのでしょう? ヒトは生物であり、生物はこの世界に遍満する生命エネルギーの表現です。個々の生物には当然、旺盛な生命力が備わっているはずですが、うつというのは、本来自分に備わっているはずのそれが感じられなくなってしまうという異常な事態です。
この宇宙が無機的な物質の寄せ集めの世界ではなく、生命エネルギーに浸されたダイナミックな有機的宇宙だとすれば(僕はそう思っていますが)、それが入ってこなくなるよう内側からブロックしてしまっているから活力が枯渇してしまうわけで、要はそのブロック、障壁がはがれ落ちてしまえばいいのです。
そのブロックはどうして形成されるのか? 生命力旺盛な小さな子供の場合、まだ自我の鎧をまとっておらず、だから彼らは傷つきやすいのですが、それゆえに天真爛漫で、元気でもあるのです。文明の条件づけによって自我人格が成長し、成長するにつれてその鎧はどんどん厚くなっていって、型にはまりすぎた面白みのないオトナになり、それに伴って生気の乏しいロボットみたいになってしまう。それがこの文明世界では実際に起きていて、うつになるとその生気の欠如は本人にも深刻なものとして自覚されるのですが、それは急に始まったものではなく、臨界点に達したから顕在化しただけなのだとも言えるでしょう。
おそらくうつ解消の最大のヒントはこのあたりにあるので、手前味噌になるのを承知で言わせてもらうと、この前出したジョン・マックの訳書『エイリアン・アブダクションの深層』の重要なメッセージの一つはそのことで、そこに出てくる北米のシャーマン、セコイア・トゥルーブラッドの言葉に代表されるように、現代人には「自分に再び傷つきやすくなることを許す」ことが必要になっているのです。多くのアブダクション体験者は、エイリアンとの遭遇という異常な事件をきっかけに、自我人格の崩壊というある意味最も恐ろしいことを経験し、そこから全く違った世界観、自己観に到達する。彼らの自我の鎧はそれで剥ぎとられてしまって、ヒリヒリするような「傷つきやすい状態」に置かれ、同時に失われかけていた強い生命感覚が蘇るのです。甲冑をまとったままで生命を感じることはできず、自然と触れ合うこともできない。人との深い心の通じ合いもそれでは不可能なのです。
そうしたことがエイリアンに遭遇でもしないと可能にならないということは、いかに今の文明社会が病んでいるかの裏返しです。そういう読み方をしてくれた読者がどれくらいいるかは知りませんが、びっくり仰天のエイリアンとの遭遇それ自体より、そちらの方が本質的なものだと著者は感じたわけで、焦点はそうした意識の変容、感受性の変化の方に合わされているのです。
犬や猫などのペット愛好家たちは、彼ら相手だと自我障壁なしに安心して接することができ、それによって癒される感じがするから、世話などあれこれ面倒なことはあってもペットを飼うのでしょう。心身症の子供たち相手のアニマル・セラピーというのもありますが、あれも原理は同じで、よけいな自意識の妨害なく、心(プシュケ)、生命レベルでの交流がそこでは無理なく行われるから、彼らは元気を取り戻すのです。
これは、ふだん意識化されていないが、自我意識というものがどれほど今の文明人にとって大きな妨害、桎梏になってるかを物語るものです。それがマックの本に出てくるアブダクティたちが言う「生命は一つ」という感覚の感受を妨げている。いや、そんなことはわかっていると言っても、それは頭の先で考えた観念レベルのものでしかないのです。
その実感は失われている。それは今の文明社会が総がかりで行なっている「人は個別の実体で、独立した意識主体である」という条件づけの産物です。今はやりの「自己責任論」なども狭小な自我意識を前提としたもので、そんなもので人は道徳的になどなるはずはないのですが、それがわからないのはこの前提をいっぺんも疑ってみたことがないからです。
うつに悩む人も、無意識にこの「自己責任」観念の中でもがいているのです。そして、何とかして自分を立て直さなければならないという思いが、先に言ったブロックを強化して、いっそう生命の枯渇感を募らせるという悪循環に陥るのです。だからその外に出なければならないが、“自分が”そうしなければならないと思ったとたん、それは不可能になるのです。それは禅の公案みたいなものなのです。
こう書くと、「何だかそれができない自分を責められているような気がする」と言う人がいるかもしれません。今は何を言ってもやたらその種の反応が多いのですが、これはそれ自体がうつメンタリティの特徴なので、だから今はうつが国民病になっていると言ったのです。しかし、それは僕の本意ではない。うつで衰弱しているときに高度な哲学的思考なんかできるはずもないので、ここで言いたいのは、「自分で何とかしなければならない」という思いをいったん捨てなさい、ということです。それは自責感情を強化してしまうだけなので、自分というものを忘れることが大切なのです。
「人の世の中は助け合いだ」と言いますが、それは別の言い方をすれば「迷惑のかけ合いだ」ということです。個々の人が孤立化し、非寛容になってあれこれ非難し合うようになり、非難されまいとして過剰に防衛的になっているのが今の世の中ですが、これは間違いなので、今は親子、家族の間ですら妙に水くさくなって心配させまい、迷惑をかけてはならないと頑張ったりするのです。しかし、家族や友人というのは本来、迷惑をかけるために存在するようなものです。自我意識の垣根が今ほど高くなかった昔は、もっと気楽に迷惑をかけることができた(それで無遠慮にボロクソ言われることはあっても)。うつになって迷惑をかけざるを得なくなったということは、その自我の垣根を越えて人に助けてもらわざるを得なくなったということで、自尊感情は傷つくかもしれませんが、その自尊心は個我意識に基づくもので、もっと広い意識の地平に出るためには、それは乗り越えられねばならないものなのです。エイリアンに誘拐されるのも、うつになるのも、そのきっかけを提供する試練のようなものです。
だからうつになったときは緊張を解いて、人に助けを求めてよい。何もかも自分で処理し、解決しなければならないと思うことは一種の傲慢です。小さな子供のように、苦しいときは苦しいと正直に言ってよいのです。そうすると、それに応じて助けてくれる人は必ず現れる。その人のことを気にかけ、何としても助けようとする人の愛情が、心の中に流れ込んでくるのです。そのとき、枯渇しかけていた生命力が自分の中に再び蘇ってくることが経験されるでしょう。ブロックが崩れかけているのです。僕もうつで追い込まれてもう駄目かと思ったとき、何人かの人に助けられ、その中には助ける義務など全くないのに惜しみない援助をしてくれた、世間的には赤の他人と言える人もいたのですが、その人は「あなたは自分の力を社会のために使わねばならない」と言いました。そのとき僕はわが身の始末すらできないのに、社会のために使う力など自分のどこにあるのかと奇怪に思いましたが、その人は頑として「ある」と言いました。よくうつの人にうかつに励ましの言葉などかけてはならないと言いますが、事情を知った上で自分が信じてもいない自分の力を信じてくれる人がいるということは、立ち直る際の大きな支えになったのです。
大坂なおみ選手の場合はスタープレイヤーで、しばらくコートを離れても経済的な心配などはないものの、だからといって楽なわけではないでしょう。18年頃からということは、相当長く続いているので、軽度のものではないはずだからです。しかし、彼女には家族や恋人、理解のある選手仲間、そして多くのファンがいる。引退説もあるようですが、テニスは彼女の天職だろうから、充電すればまた元気になって情熱も蘇り、カムバックできるのではないかと思います。
僕らふつうの無名人の場合には、無遠慮な好奇の目にはさらされない代わり、うつによる生活面の打撃などはいっそう深刻なものにならざるを得ない。しかし、理解し支えてくれる人が周囲にいてくれたおかげでうつの長いトンネルを抜けて再び活躍できるようになったという人はたくさんいる。それがリセットのいい機会となって、仕事を変えたり、同じ仕事を続ける場合でも、心の持ち方が変化したので、取り組み方がそれ以前とはガラリと変わったということもよく聞く話です。ほとんどの場合、そこにはいい方向への変化がみられる。
まとまりが今一つで、うつに悩む人の助けになったかどうかはわかりませんが、思うことを書いてみました。
・大坂選手、全仏から棄権表明 2018年からうつ病に
今は「コロナうつ」という言葉があるくらいで、いつまで続くともしれない緊急事態宣言による規制+自粛要請と、菅政権の順序が逆の「五輪開催強行のためのコロナ対策」の迷走に対するイライラなど、ストレスの材料ばかりで、今や日本人の大半がうつ傾向にあると思われます。この他にも、明瞭に意識化されないまでも、いずれ確実に起こるとされる大地震や、地球温暖化に伴う異常気象の頻発や予想される不測の事態、コロナでさらに悪化した慢性不況の先行きに対する不安などもある。集合的無意識レベルでも不安や葛藤の圧は強まるばかりなので、うつ要因には事欠かないのです。
それに加えて、前回ここに書いた、無用な課外や大量の宿題で疲労困憊状態に追い込まれる高校生たちの話のような、個別事案があちこちに転がっているのです。何だか知らないが、緊張や不安、疲労、イライラの材料が増えるばかりになっている。
大坂なおみ選手について言えば、トップアスリート特有の高いパフォーマンスを期待される重圧がつねにあった上に、元々内向的かつ繊細で、おかしな質問までされる記者会見の類は苦手だった。うつが募るにつれなおさらそれが苦痛になっていたわけですが、そうした個人的事情は知られていなかったので、会見拒否をして批判され、規則で罰金を課され、今後出場停止の処分が下される可能性もあるという脅しまで受ける羽目になった。彼女にかぎらず、この社会では個人の内面とは無関係に外部から要求されることがつねにたくさんあって、それに従わないとたちまちバッシングの嵐にさらされ、今の時代はとくにそれが甚だしい感じですが、それがまたうつに苦しむ人に追い打ちをかける結果になるのです。
今回彼女はそれをはっきり口に出して言い、しばらくコートを離れて休養を取ると宣言したわけですが、こういうのはよほど勇気がなければできないことです。たいていは倒れてしまうところまで無理をし続けて、そのときは事態は深刻になりすぎているから、最悪の場合、自殺に追い込まれる。そうでなくても再起するのは大変になってしまうのです。
僕もうつに苦しめられた経験がありますが、あれはかなり恐ろしいもので、何より恐ろしいのはどこからも力が出てこなくなるということです。また、うつ的な傾向が高まっているときにかぎって精神的な打撃になるようなことがいくつも起きるもので、何か自分を叩き潰そうとしている見えない巨大な悪意が作用しているようにさえ感じられる。その場合、元気なときのように跳ね返す力も失っているから、殴られっぱなしのボクサーみたいになってしまうのです。
当然そうなると、生活上要求されるあれこれの要請にも応えられなくなって、他の人たちにはそんなことはわからないものだから、「何をやってる!」とか、あれこれ非難されるもので、見た目にも鼻っ柱が強く、「あいつだけは殺しても死なない」なんて言われていた人間の場合、なおさらそうなりやすい(このタイプの人は同情されるより非難される方がマシだと思って黙っていることが多い)。そうしてたいていの場合、仕事にも支障が出たり、やめざるを得なくなったりする(そういうときはそれが直接の原因でなくてもそれまであった仕事の契約が解除されたりといったことも起きやすい)から、経済的にも事態はどんどん悪化して、二進も三進も行かないところまで追い込まれてしまうのです。
だから、経済的理由の自殺などにもうつが大きく関与していることが多いはずで、経済的困難がうつを発症させるということはむろんありますが、うつで現実にうまく対処できないようになっているから、ずるずると経済的にも追い込まれてしまう、ということになりやすいのです。悪化のきっかけになった最初の対応にうつがすでに関与していて、その後も下手な対応を重ねて事態を悪化させるのです。そういうときは、自分に鞭打って転職活動に励んだりしても、うまく行かないことが多いでしょう。条件もぴったりのいいところがやっと見つかったと思って喜んだら、そこが最悪の人間関係の職場だったとか、うつの人はなぜだかそういうところをえらんでしまうのです。
「下手の考え休むに似たり」と言いますが、うつ状態の頭でいくら考えてもいいアイディアは出てこないものなので、そういうときは開き直りが一番大事です。周りの人に事情を説明して、「ちょっと待ってくれ。今自分はこれこれこういう状態にあって、ウルトラマンの胸のランプがピコピコ点滅しているような状態だから、使い物にならないのでしばらく休ませてくれ」と言って、気分転換に全く違ったことをしたりなどする。そうすれば、周りも事情が分からないままとやかく言ったりはしなくなるでしょう。
しかし、うつの人にはそれもうっとうしく、大きな負担に感じられて、そのまま一人で問題を抱え込んでしまうので、事態を一層悪化させてしまうことが多いのです(僕もそうでしたが)。結局、それでは傷口を広げて後々よけい人に迷惑をかけてしまうことになるので、大坂なおみ選手のあれはいいお手本になるでしょう。だから「なおみ方式」は推しです。
しかし、うつが治らなかったらどうしようという不安はそのときもあるでしょう。これも「なるようになるさ」と開き直ってしまうのがいいので、うつが根付いてしまうのは悶々として、葛藤がずっと続くからです。でなければいずれ元気は回復する。真面目な人ほど治りにくいのは、「いつまでこんなことはしていられない」という焦りや罪悪感が強く働くからで、怪我をしたとき、傷口を気にして何度も見たりしていると治りが遅くなるのと同じで、取り越し苦労がかえって回復を遅らせるのです。
むろん、何か特定できる理由がある場合は、その問題を意識化して、それに伴う感情的もつれを解消しておく必要はあるでしょう。その理由は人によって様々で、それまで自分では意識していなかったが無理を重ねすぎたとか、何か深刻なトラウマになるような事件があったとか、いわゆるミッドライフ・クライシス(中年危機)などの場合、意識ではその自覚がないが、それまでの生き方が本当は行き詰まっていて、それを大きく転換しろという深い内面からの促しが関係しているとか、子供や若者の場合、それまでは親や教師の言うことを聞く「よい子」で、その期待に沿うよう一生懸命頑張ってきたが、自分の正直な思いは犠牲になっていて、それが限界に達していることのシグナルだとか、色々ありえます。
僕自身はある程度心理学や精神病理学方面の知識はあったので、精神科医やセラピストのところに行っても言われることは大体わかっていると思って、自己治療をあれこれ試みたのですが、それで軽減した面はかなりあったとしても、これという決め手になるような原因は発見できませんでした。たぶん一番大きかったのは、それを僕は「内なる世間」と呼んでいるのですが、周りからは好き勝手やってきたように見えても、それがまだ頑固に自分の中に居座っていて、それが妨害になって思い切ったことが十分にできていなかったということの発見でした。
それで、極限まで行った末に破れかぶれになり、関大徹というお坊さんの書いた『食えなんだら食うな』という面白い本がありましたが、あの伝で、やりたいことをやって飢えて死ぬならそれは結構なことなので、今後は結果を思い煩うことなく、したいことをしてやろうと思ったら、外部環境は最悪でしたが、心境に変化が生じたのです。
人にはそれぞれ置かれた立場というものがあります。学生でも、サラリーマンでも、自営業者でも、子育て奮闘中の主婦でも、やらなければならないこと、責務と感じられることがあって、最低限の義務も果たせないようでは生きている価値はないと感じて、その自責の念がよけい苦しさを募らせるのです。
文明というのは便利なものですが、反面、それは人を十重二十重(とえはたえ)の拘束の中に置くものでもあって、辺境に住む、昔ながらの狩猟採集民的な生活を送っている少数民族などを調査すると、皆明るくて、精神病やうつなどは皆無であることが知られています。統合失調症のような深刻な精神疾患ですら、文明病であることがわかるのです。
さっき、うつで「何より恐ろしいのはどこからも力が出てこなくなるということ」だと書きましたが、これは「生命力の枯渇」現象だと言ってよいので、なぜそんなことが起きるのでしょう? ヒトは生物であり、生物はこの世界に遍満する生命エネルギーの表現です。個々の生物には当然、旺盛な生命力が備わっているはずですが、うつというのは、本来自分に備わっているはずのそれが感じられなくなってしまうという異常な事態です。
この宇宙が無機的な物質の寄せ集めの世界ではなく、生命エネルギーに浸されたダイナミックな有機的宇宙だとすれば(僕はそう思っていますが)、それが入ってこなくなるよう内側からブロックしてしまっているから活力が枯渇してしまうわけで、要はそのブロック、障壁がはがれ落ちてしまえばいいのです。
そのブロックはどうして形成されるのか? 生命力旺盛な小さな子供の場合、まだ自我の鎧をまとっておらず、だから彼らは傷つきやすいのですが、それゆえに天真爛漫で、元気でもあるのです。文明の条件づけによって自我人格が成長し、成長するにつれてその鎧はどんどん厚くなっていって、型にはまりすぎた面白みのないオトナになり、それに伴って生気の乏しいロボットみたいになってしまう。それがこの文明世界では実際に起きていて、うつになるとその生気の欠如は本人にも深刻なものとして自覚されるのですが、それは急に始まったものではなく、臨界点に達したから顕在化しただけなのだとも言えるでしょう。
おそらくうつ解消の最大のヒントはこのあたりにあるので、手前味噌になるのを承知で言わせてもらうと、この前出したジョン・マックの訳書『エイリアン・アブダクションの深層』の重要なメッセージの一つはそのことで、そこに出てくる北米のシャーマン、セコイア・トゥルーブラッドの言葉に代表されるように、現代人には「自分に再び傷つきやすくなることを許す」ことが必要になっているのです。多くのアブダクション体験者は、エイリアンとの遭遇という異常な事件をきっかけに、自我人格の崩壊というある意味最も恐ろしいことを経験し、そこから全く違った世界観、自己観に到達する。彼らの自我の鎧はそれで剥ぎとられてしまって、ヒリヒリするような「傷つきやすい状態」に置かれ、同時に失われかけていた強い生命感覚が蘇るのです。甲冑をまとったままで生命を感じることはできず、自然と触れ合うこともできない。人との深い心の通じ合いもそれでは不可能なのです。
そうしたことがエイリアンに遭遇でもしないと可能にならないということは、いかに今の文明社会が病んでいるかの裏返しです。そういう読み方をしてくれた読者がどれくらいいるかは知りませんが、びっくり仰天のエイリアンとの遭遇それ自体より、そちらの方が本質的なものだと著者は感じたわけで、焦点はそうした意識の変容、感受性の変化の方に合わされているのです。
犬や猫などのペット愛好家たちは、彼ら相手だと自我障壁なしに安心して接することができ、それによって癒される感じがするから、世話などあれこれ面倒なことはあってもペットを飼うのでしょう。心身症の子供たち相手のアニマル・セラピーというのもありますが、あれも原理は同じで、よけいな自意識の妨害なく、心(プシュケ)、生命レベルでの交流がそこでは無理なく行われるから、彼らは元気を取り戻すのです。
これは、ふだん意識化されていないが、自我意識というものがどれほど今の文明人にとって大きな妨害、桎梏になってるかを物語るものです。それがマックの本に出てくるアブダクティたちが言う「生命は一つ」という感覚の感受を妨げている。いや、そんなことはわかっていると言っても、それは頭の先で考えた観念レベルのものでしかないのです。
その実感は失われている。それは今の文明社会が総がかりで行なっている「人は個別の実体で、独立した意識主体である」という条件づけの産物です。今はやりの「自己責任論」なども狭小な自我意識を前提としたもので、そんなもので人は道徳的になどなるはずはないのですが、それがわからないのはこの前提をいっぺんも疑ってみたことがないからです。
うつに悩む人も、無意識にこの「自己責任」観念の中でもがいているのです。そして、何とかして自分を立て直さなければならないという思いが、先に言ったブロックを強化して、いっそう生命の枯渇感を募らせるという悪循環に陥るのです。だからその外に出なければならないが、“自分が”そうしなければならないと思ったとたん、それは不可能になるのです。それは禅の公案みたいなものなのです。
こう書くと、「何だかそれができない自分を責められているような気がする」と言う人がいるかもしれません。今は何を言ってもやたらその種の反応が多いのですが、これはそれ自体がうつメンタリティの特徴なので、だから今はうつが国民病になっていると言ったのです。しかし、それは僕の本意ではない。うつで衰弱しているときに高度な哲学的思考なんかできるはずもないので、ここで言いたいのは、「自分で何とかしなければならない」という思いをいったん捨てなさい、ということです。それは自責感情を強化してしまうだけなので、自分というものを忘れることが大切なのです。
「人の世の中は助け合いだ」と言いますが、それは別の言い方をすれば「迷惑のかけ合いだ」ということです。個々の人が孤立化し、非寛容になってあれこれ非難し合うようになり、非難されまいとして過剰に防衛的になっているのが今の世の中ですが、これは間違いなので、今は親子、家族の間ですら妙に水くさくなって心配させまい、迷惑をかけてはならないと頑張ったりするのです。しかし、家族や友人というのは本来、迷惑をかけるために存在するようなものです。自我意識の垣根が今ほど高くなかった昔は、もっと気楽に迷惑をかけることができた(それで無遠慮にボロクソ言われることはあっても)。うつになって迷惑をかけざるを得なくなったということは、その自我の垣根を越えて人に助けてもらわざるを得なくなったということで、自尊感情は傷つくかもしれませんが、その自尊心は個我意識に基づくもので、もっと広い意識の地平に出るためには、それは乗り越えられねばならないものなのです。エイリアンに誘拐されるのも、うつになるのも、そのきっかけを提供する試練のようなものです。
だからうつになったときは緊張を解いて、人に助けを求めてよい。何もかも自分で処理し、解決しなければならないと思うことは一種の傲慢です。小さな子供のように、苦しいときは苦しいと正直に言ってよいのです。そうすると、それに応じて助けてくれる人は必ず現れる。その人のことを気にかけ、何としても助けようとする人の愛情が、心の中に流れ込んでくるのです。そのとき、枯渇しかけていた生命力が自分の中に再び蘇ってくることが経験されるでしょう。ブロックが崩れかけているのです。僕もうつで追い込まれてもう駄目かと思ったとき、何人かの人に助けられ、その中には助ける義務など全くないのに惜しみない援助をしてくれた、世間的には赤の他人と言える人もいたのですが、その人は「あなたは自分の力を社会のために使わねばならない」と言いました。そのとき僕はわが身の始末すらできないのに、社会のために使う力など自分のどこにあるのかと奇怪に思いましたが、その人は頑として「ある」と言いました。よくうつの人にうかつに励ましの言葉などかけてはならないと言いますが、事情を知った上で自分が信じてもいない自分の力を信じてくれる人がいるということは、立ち直る際の大きな支えになったのです。
大坂なおみ選手の場合はスタープレイヤーで、しばらくコートを離れても経済的な心配などはないものの、だからといって楽なわけではないでしょう。18年頃からということは、相当長く続いているので、軽度のものではないはずだからです。しかし、彼女には家族や恋人、理解のある選手仲間、そして多くのファンがいる。引退説もあるようですが、テニスは彼女の天職だろうから、充電すればまた元気になって情熱も蘇り、カムバックできるのではないかと思います。
僕らふつうの無名人の場合には、無遠慮な好奇の目にはさらされない代わり、うつによる生活面の打撃などはいっそう深刻なものにならざるを得ない。しかし、理解し支えてくれる人が周囲にいてくれたおかげでうつの長いトンネルを抜けて再び活躍できるようになったという人はたくさんいる。それがリセットのいい機会となって、仕事を変えたり、同じ仕事を続ける場合でも、心の持ち方が変化したので、取り組み方がそれ以前とはガラリと変わったということもよく聞く話です。ほとんどの場合、そこにはいい方向への変化がみられる。
まとまりが今一つで、うつに悩む人の助けになったかどうかはわかりませんが、思うことを書いてみました。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin
と、英語で書いてみましたが、日本語に訳せば、「中国は近い将来、破局的な大惨事の引き金を引くことになるかもしれない」です。その catastrophic disasters というのはむろん、第三次世界大戦も含みます。
これは次の記事を読んでいるとき、なぜか英文のかたちで僕の頭に浮かんできたもので、理由はよくわかりません。書いていくうちにそれはわかるだろうと思います。
・武漢のウイルス研究所員、19年秋に通院か 米紙報道
「習近平のポチ」と呼ばれるテドロス事務局長率いるWHOはこの前、「今頃になってか…」と多くの人を呆れさせましたが、ようやく中国に調査団を派遣して、「結局のところ、よくわからない」という無意味な結論の報告書を出したそうですが、この記事は今世界を大混乱に陥れているコロナウイルスが中国の武漢にあるウイルス研究所から流出したものであった可能性をあらためて示すもので、疑惑が再燃することになったのです(今の中国の場合、それは生物兵器研究と無関係ではないでしょう)。
ただ、情報機関は研究者らが実際に何の病気にかかったのか把握できておらず、新型コロナの起源については中国から来たという事実以上の確たる情報はないという
とあるように、明確な証拠となるものではないから、結局うやむやなまま終わってしまうでしょう。「中国武漢のウイルス研究所の研究者3人が2019年11月に病院で治療が必要になるほど体調を崩していた」ことは明らかではあっても、その研究者や関係者たちに聞き取り調査をして、それがコロナウイルスの症状と類似のものであったか、確認はできないからです。仮に中国共産党政府がそれを許可したとしましょう。しかし、その場合は、「違う症状だった」と証言するようあらかじめ命じられているはずで、それに逆らえば彼ら(とその家族)の命はない。あれは今でもそういう国だからです。だから真相は永遠に藪の中。
中国があちこちで時代錯誤の「帝国主義的」侵略・兆発行為を繰り返しており(ウイグル人弾圧などはジェノサイド認定された)、それについてはここで繰り返し書くには及びませんが、新たにレーガン時代のスター・ウォーズ構想にでもとりつかれたのか、盛んにロケットなんかも打ち上げています。今月9日にも、「大型ロケット『長征5号B』の残骸がモルディブ近くのインド洋に落下」して、中国当局は「残骸の大部分が大気圏への再突入で燃え尽きたと説明している」が、「米メディアによると、残骸は4月29日に打ち上げられた長征の基幹部分で、全長約30メートル。残骸が大きいため大気圏で燃え尽きない恐れが指摘されていた」(日経5/9「中国ロケット残骸、インド洋に落下 米軍も確認」より)というものです。宇宙空間をゴミだらけにしようと、残骸がどこに落ちようとおかまいなし。
ほぼ同時期に、火星への探査機も打ち上げ、それは着陸に成功した。次は「皆様のNHK」の5/23記事です。
中国の国営メディアは、今月15日に火星に着陸した中国の探査機から、22日、初めて探査車が地表に降ろされ、調査を始めたと伝えました。火星表面の調査に成功するのは、アメリカに次いで2か国目です。
中国の火星探査機「天問1号」は、今月15日に中国の探査機として初めて火星への着陸に成功しました。
国営の中国中央テレビは、着陸機に搭載されていた探査車「祝融号」が、日本時間の22日昼前、初めて火星の地表に降ろされ、調査を開始したと伝えました。
探査車は、重さが240キロあり、高性能のカメラや、地下探査のためのレーダー、それに地表の成分を検出する機器などが備えられているということです。
そして、太陽電池を電源に6つの車輪で走行しながら、今後、火星の地形や地質の構造、地表の物質などを調査することにしています。
火星表面の調査に成功するのはアメリカに次いで2か国目で、中国メディアは「この分野におけるアメリカの独占を打ち破った」などと伝えています。
火星着陸には高度な技術が必要だとされ、研究者も育てず、科研費も極限まで削っている今の金欠日本だとそんなことは到底無理なのだそうで、中国が自慢するのも当然ですが、最後の一文からもわかるとおり、アメリカへの対抗心丸出しです。実利主義的な中国がたんなる「学術研究」のためにそんなことをするとは思えないので、地上のみならず、宇宙での覇権も確立して、それを世界制覇につなげたいという中国共産党の野心が背後にあることは確実と思われます。
もう一つ、少し前の中国問題グローバル研究所所長、遠藤誉博士の次のような記事も僕は興味深く読みました。
・習近平さえいなくなれば中国共産党は良くなるのか?
詳しくはクリックして直接お読みいただくとして、僕が注目したのは次の箇所です。
中央党校では、このようなことを教えないのかと、逆にあまりの「党賛美の純粋培養」の中で党員幹部を育てていることに驚きを禁じ得ない。
韓国もファンタジーに近い嘘の歴史を学校で教え込んでいて、それが日韓関係がいつまでたっても悪くなるばかりの大きな理由の一つ(政治家はその洗脳教育を土台に反日煽動で支持率を高めようとする)ですが、中国共産党政府は、一般国民に通常の学校で洗脳教育を施しているだけでなく、上の引用にも出てくる幹部養成のための「中国共産党中央党校」なるものがあって、ウィキペディアの「概要」にはこうあります。
中央党校の幹部養成コースは短期および長期があり、その対象も末端の県書記クラスから中央委員・閣僚クラスまで多岐にわたっている。中央・地方の党幹部、政府幹部が一定期間、党校に研修に来ることもある。このため、人によっては複数回「入校」し研修を受けることがある。また、年間のコースに参加することは、中央幹部候補生であり、校長との知己、同窓などの人脈が今後のキャリアのうえで重要となる。中央党校の研修コースは、別に大学の学部および大学院に相当する研修コースもある。
日本でもその明るいキャラクターでかなりの人気があった華春瑩報道官なども、一時姿を消したと思ったら、この中央党校で「研修」を受けていたそうで、その後報道局長に昇進したことは記憶に新しいところです。そこで「党への忠誠」を新たにしたわけで、その洗脳教育はおよそ徹底している。
上の遠藤博士の記事でも触れられているように、毛沢東はスターリンを楽に上回るほどの悪辣な独裁者で、今は西洋では「政治家の皮をかぶった大量殺人者、サイコパス」として精神病理学の研究対象にもなっているほどですが、70年代中頃までは全然違った伝えられ方をしていた。げんに僕は高校生のとき、「中国版ガンジー」みたいな彼の伝記(誰のものか忘れましたが、西洋人の書いた本の翻訳)を読んだ記憶があるので、共産党はともかく、毛沢東は偉い人だったのだなと思ったほどです。しかし、それは全くの嘘の皮だった。今の日本でも次のような本は入手可能です(古本で安く買えるが、これはいい本です)。
・『中国がひた隠す毛沢東の真実』
それで、習近平はこの毛沢東をお手本としていて、たいそう尊敬しているのだというから、始末に負えない感じですが、こういう過去の歴史的事実は今の中国では完全なタブーになっているわけです。毛沢東がサイコパス丸出しの異常殺人者であったことなど教えるわけもなく、幹部たちもそれと反対のことを教えられ、信じているのです。
中国共産党は、拷問と洗脳技術では非常に高度なものを持っていて、これは“伝統的”なものです。その研究ではRobert Jay Liften が有名で、この人はオウム真理教の研究もして本を書いていますが、元々は Chinese Communist Thought Reform(中国共産党の思想改造)の非人間性とそのひどい実態についての研究で有名になった人です。それはほとんど悪魔的と言ってよい。それはずっと続いているので、ウイグル人に対するそれなどもたんなるその手荒な応用にすぎないのです。
話を戻して、今の日本人には中国の国を挙げてのそうした洗脳教育の深みは実感できない。それに逆らう人たちは中国国内にもいますが、それは文字どおり命がけのプロテストなのです。ベースが違うので、遠藤博士などはそれを織り込んだ上で書いておられるわけですが、それは観念的、イデオロギー的なネトウヨたちの議論とは根本的に違うところから出ていると僕は見ています。そのおぞましさが伝わらないことを博士はもどかしく感じているのではないでしょうか。
アメリカもひどいことを第二次世界大戦後さんざんやってきて、近くはアフガンとイラク相手のそれがある(いずれも国際法上は完全な違法)わけですが、それでも言論・報道の自由は担保されているので、隠されていたこともそのうち外に出てくる。共産党一党独裁の中国では、しかし、それはないのです。かつ、今も見たように、洗脳教育がおよそ徹底している。戦前の日本の皇民教育と同じか、もっとひどいと言っていいので、そういう国がアメリカと覇権を争う超大国にのし上がったのです。人口規模だけでいえば、3億3千万に対し、14億4千万もいる。これから急速に人口の高齢化が進むと見られていますが、それで国内的な舵取りが難しくなって、国民の不満が鬱積すると、共産党しかないので通常の政権交代も起きず、求心力を維持するのに外部への敵意を煽り立てる方向に行きやすい。ウイグル人相手の蛮行にしても、内部の中国人はその実態など何も知らされていないから、外部からの批判はたんなる不当な非難だと感じられる。台湾問題も、東・南シナ海の領有問題も、中国共産党流の洗脳教育が効いていれば、どれも「不当な言いがかり」なのです。
かつて日本が関東軍の暴走に引きずられてどんどんおかしな方向に行ってしまい、国際的な孤立を深めて日中戦争、太平洋戦争の泥沼に引き込まれていった背景には、圧倒的な民衆の支持があり、それは皇民教育という名の洗脳の賜物であったことは、ネトウヨは認めないかもしれませんが、大方の日本人が認識していることです。客観的な現実認識など、そこには存在しなかった。今の中国にもそれと似たところがあって、同じ時代に生きてはいても、呼吸している社会の空気は全然違うのです。
僕は予言者でも霊能者でもないので、今後どういうことが起きるのか、具体的なことはわかりませんが、富強を誇る共産党独裁国家の中国が、今後の世界最大の危険因子になることだけはたしかでしょう。そのポイントは幹部まで「純粋培養」教育で育てるその洗脳ぶりと、それによって生じる彼らの現実認識の深刻な歪みです。世におかしな mind-set ほど恐ろしいものはありません。人類が滅びるとすれば、外部的な要因の前にそれがあったからだと言えるでしょう。心のありようほど恐ろしく、また強力なものは他にないのです。
僕自身は今の文明世界全体が病的な mind-set に支配されていて、中国が暴走するしないにかかわらず、いずれ終わりになってしまうので、それを変えなければならないと思っていますが、それはまた別の話なので、ここには書きません。
これは次の記事を読んでいるとき、なぜか英文のかたちで僕の頭に浮かんできたもので、理由はよくわかりません。書いていくうちにそれはわかるだろうと思います。
・武漢のウイルス研究所員、19年秋に通院か 米紙報道
「習近平のポチ」と呼ばれるテドロス事務局長率いるWHOはこの前、「今頃になってか…」と多くの人を呆れさせましたが、ようやく中国に調査団を派遣して、「結局のところ、よくわからない」という無意味な結論の報告書を出したそうですが、この記事は今世界を大混乱に陥れているコロナウイルスが中国の武漢にあるウイルス研究所から流出したものであった可能性をあらためて示すもので、疑惑が再燃することになったのです(今の中国の場合、それは生物兵器研究と無関係ではないでしょう)。
ただ、情報機関は研究者らが実際に何の病気にかかったのか把握できておらず、新型コロナの起源については中国から来たという事実以上の確たる情報はないという
とあるように、明確な証拠となるものではないから、結局うやむやなまま終わってしまうでしょう。「中国武漢のウイルス研究所の研究者3人が2019年11月に病院で治療が必要になるほど体調を崩していた」ことは明らかではあっても、その研究者や関係者たちに聞き取り調査をして、それがコロナウイルスの症状と類似のものであったか、確認はできないからです。仮に中国共産党政府がそれを許可したとしましょう。しかし、その場合は、「違う症状だった」と証言するようあらかじめ命じられているはずで、それに逆らえば彼ら(とその家族)の命はない。あれは今でもそういう国だからです。だから真相は永遠に藪の中。
中国があちこちで時代錯誤の「帝国主義的」侵略・兆発行為を繰り返しており(ウイグル人弾圧などはジェノサイド認定された)、それについてはここで繰り返し書くには及びませんが、新たにレーガン時代のスター・ウォーズ構想にでもとりつかれたのか、盛んにロケットなんかも打ち上げています。今月9日にも、「大型ロケット『長征5号B』の残骸がモルディブ近くのインド洋に落下」して、中国当局は「残骸の大部分が大気圏への再突入で燃え尽きたと説明している」が、「米メディアによると、残骸は4月29日に打ち上げられた長征の基幹部分で、全長約30メートル。残骸が大きいため大気圏で燃え尽きない恐れが指摘されていた」(日経5/9「中国ロケット残骸、インド洋に落下 米軍も確認」より)というものです。宇宙空間をゴミだらけにしようと、残骸がどこに落ちようとおかまいなし。
ほぼ同時期に、火星への探査機も打ち上げ、それは着陸に成功した。次は「皆様のNHK」の5/23記事です。
中国の国営メディアは、今月15日に火星に着陸した中国の探査機から、22日、初めて探査車が地表に降ろされ、調査を始めたと伝えました。火星表面の調査に成功するのは、アメリカに次いで2か国目です。
中国の火星探査機「天問1号」は、今月15日に中国の探査機として初めて火星への着陸に成功しました。
国営の中国中央テレビは、着陸機に搭載されていた探査車「祝融号」が、日本時間の22日昼前、初めて火星の地表に降ろされ、調査を開始したと伝えました。
探査車は、重さが240キロあり、高性能のカメラや、地下探査のためのレーダー、それに地表の成分を検出する機器などが備えられているということです。
そして、太陽電池を電源に6つの車輪で走行しながら、今後、火星の地形や地質の構造、地表の物質などを調査することにしています。
火星表面の調査に成功するのはアメリカに次いで2か国目で、中国メディアは「この分野におけるアメリカの独占を打ち破った」などと伝えています。
火星着陸には高度な技術が必要だとされ、研究者も育てず、科研費も極限まで削っている今の金欠日本だとそんなことは到底無理なのだそうで、中国が自慢するのも当然ですが、最後の一文からもわかるとおり、アメリカへの対抗心丸出しです。実利主義的な中国がたんなる「学術研究」のためにそんなことをするとは思えないので、地上のみならず、宇宙での覇権も確立して、それを世界制覇につなげたいという中国共産党の野心が背後にあることは確実と思われます。
もう一つ、少し前の中国問題グローバル研究所所長、遠藤誉博士の次のような記事も僕は興味深く読みました。
・習近平さえいなくなれば中国共産党は良くなるのか?
詳しくはクリックして直接お読みいただくとして、僕が注目したのは次の箇所です。
中央党校では、このようなことを教えないのかと、逆にあまりの「党賛美の純粋培養」の中で党員幹部を育てていることに驚きを禁じ得ない。
韓国もファンタジーに近い嘘の歴史を学校で教え込んでいて、それが日韓関係がいつまでたっても悪くなるばかりの大きな理由の一つ(政治家はその洗脳教育を土台に反日煽動で支持率を高めようとする)ですが、中国共産党政府は、一般国民に通常の学校で洗脳教育を施しているだけでなく、上の引用にも出てくる幹部養成のための「中国共産党中央党校」なるものがあって、ウィキペディアの「概要」にはこうあります。
中央党校の幹部養成コースは短期および長期があり、その対象も末端の県書記クラスから中央委員・閣僚クラスまで多岐にわたっている。中央・地方の党幹部、政府幹部が一定期間、党校に研修に来ることもある。このため、人によっては複数回「入校」し研修を受けることがある。また、年間のコースに参加することは、中央幹部候補生であり、校長との知己、同窓などの人脈が今後のキャリアのうえで重要となる。中央党校の研修コースは、別に大学の学部および大学院に相当する研修コースもある。
日本でもその明るいキャラクターでかなりの人気があった華春瑩報道官なども、一時姿を消したと思ったら、この中央党校で「研修」を受けていたそうで、その後報道局長に昇進したことは記憶に新しいところです。そこで「党への忠誠」を新たにしたわけで、その洗脳教育はおよそ徹底している。
上の遠藤博士の記事でも触れられているように、毛沢東はスターリンを楽に上回るほどの悪辣な独裁者で、今は西洋では「政治家の皮をかぶった大量殺人者、サイコパス」として精神病理学の研究対象にもなっているほどですが、70年代中頃までは全然違った伝えられ方をしていた。げんに僕は高校生のとき、「中国版ガンジー」みたいな彼の伝記(誰のものか忘れましたが、西洋人の書いた本の翻訳)を読んだ記憶があるので、共産党はともかく、毛沢東は偉い人だったのだなと思ったほどです。しかし、それは全くの嘘の皮だった。今の日本でも次のような本は入手可能です(古本で安く買えるが、これはいい本です)。
・『中国がひた隠す毛沢東の真実』
それで、習近平はこの毛沢東をお手本としていて、たいそう尊敬しているのだというから、始末に負えない感じですが、こういう過去の歴史的事実は今の中国では完全なタブーになっているわけです。毛沢東がサイコパス丸出しの異常殺人者であったことなど教えるわけもなく、幹部たちもそれと反対のことを教えられ、信じているのです。
中国共産党は、拷問と洗脳技術では非常に高度なものを持っていて、これは“伝統的”なものです。その研究ではRobert Jay Liften が有名で、この人はオウム真理教の研究もして本を書いていますが、元々は Chinese Communist Thought Reform(中国共産党の思想改造)の非人間性とそのひどい実態についての研究で有名になった人です。それはほとんど悪魔的と言ってよい。それはずっと続いているので、ウイグル人に対するそれなどもたんなるその手荒な応用にすぎないのです。
話を戻して、今の日本人には中国の国を挙げてのそうした洗脳教育の深みは実感できない。それに逆らう人たちは中国国内にもいますが、それは文字どおり命がけのプロテストなのです。ベースが違うので、遠藤博士などはそれを織り込んだ上で書いておられるわけですが、それは観念的、イデオロギー的なネトウヨたちの議論とは根本的に違うところから出ていると僕は見ています。そのおぞましさが伝わらないことを博士はもどかしく感じているのではないでしょうか。
アメリカもひどいことを第二次世界大戦後さんざんやってきて、近くはアフガンとイラク相手のそれがある(いずれも国際法上は完全な違法)わけですが、それでも言論・報道の自由は担保されているので、隠されていたこともそのうち外に出てくる。共産党一党独裁の中国では、しかし、それはないのです。かつ、今も見たように、洗脳教育がおよそ徹底している。戦前の日本の皇民教育と同じか、もっとひどいと言っていいので、そういう国がアメリカと覇権を争う超大国にのし上がったのです。人口規模だけでいえば、3億3千万に対し、14億4千万もいる。これから急速に人口の高齢化が進むと見られていますが、それで国内的な舵取りが難しくなって、国民の不満が鬱積すると、共産党しかないので通常の政権交代も起きず、求心力を維持するのに外部への敵意を煽り立てる方向に行きやすい。ウイグル人相手の蛮行にしても、内部の中国人はその実態など何も知らされていないから、外部からの批判はたんなる不当な非難だと感じられる。台湾問題も、東・南シナ海の領有問題も、中国共産党流の洗脳教育が効いていれば、どれも「不当な言いがかり」なのです。
かつて日本が関東軍の暴走に引きずられてどんどんおかしな方向に行ってしまい、国際的な孤立を深めて日中戦争、太平洋戦争の泥沼に引き込まれていった背景には、圧倒的な民衆の支持があり、それは皇民教育という名の洗脳の賜物であったことは、ネトウヨは認めないかもしれませんが、大方の日本人が認識していることです。客観的な現実認識など、そこには存在しなかった。今の中国にもそれと似たところがあって、同じ時代に生きてはいても、呼吸している社会の空気は全然違うのです。
僕は予言者でも霊能者でもないので、今後どういうことが起きるのか、具体的なことはわかりませんが、富強を誇る共産党独裁国家の中国が、今後の世界最大の危険因子になることだけはたしかでしょう。そのポイントは幹部まで「純粋培養」教育で育てるその洗脳ぶりと、それによって生じる彼らの現実認識の深刻な歪みです。世におかしな mind-set ほど恐ろしいものはありません。人類が滅びるとすれば、外部的な要因の前にそれがあったからだと言えるでしょう。心のありようほど恐ろしく、また強力なものは他にないのです。
僕自身は今の文明世界全体が病的な mind-set に支配されていて、中国が暴走するしないにかかわらず、いずれ終わりになってしまうので、それを変えなければならないと思っていますが、それはまた別の話なので、ここには書きません。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
先日、ピエール・クラストル著『大いなる語り―グアラニ族インディアの神話と聖歌-』(毬藻充訳 松籟社 1997)という本をネットで取り寄せて、おとといの晩、それを読んでいたら、色々な思いが群がり起こってきて、寝つけなくなりました。昔から、枕元のスタンドをつけて催眠剤代わりに本を読むのは僕の習慣なのですが、時々本の選択に失敗して、徹夜で読んでしまう羽目になるので、今回も同じ愚を犯したわけです(洋書だと早く眠くなるのではとそちらにするときもあるのですが、それだと夢の中で英文の続きが出てきて悩まされることがある)。どうも六十代の老人らしくなくて困ります。
まず、この本をどうして取り寄せたのかという経緯からお話しすると、しばらく前に本を整理、というか、あまりにもあちこちに本が散らばりすぎているので、それを片づけていて、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』(山上浩嗣訳/西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013)が、読みかけて中断したままになっていたことに気づいて、それを読んだのですが、その中に「付論」として、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの関連文章が入っていて、ヴェイヌは若い頃、面白いと思って何冊か読んでいたのですが、ピエール・クラストルという人は知らない。しかし、その文が面白かったので、註を見ると、政治人類学なるものの専門家だという。それでネットで調べると、その筋では有名な人で、1977年に43歳の若さで交通事故で亡くなっている。学者としてはこれからというところで残念です(今度上梓する訳本の著者、ジョン・マックも交通事故で亡くなっていますが、こちらは74歳でした)。
ついでに、この『自発的隷従論』ですが、訳者がつけた註の充実ぶりにはびっくりで、西谷修氏の解説もいいものだし、まさに「学芸文庫」の名に値するという感じで、僕は割と注釈の類も細かく読むほうなのですが、読みながらこれは凄いなと唸ってしまったほどです。原著者としても、こういう訳本を作ってもらえれば本望でしょう。妙な言い方をするなら、本文よりも訳註や解説の方が面白かったぐらいです。
話を戻して、それでこのクラストルという人の本を探したら、訳が何冊か出ていて、一番手っ取り早く読めそうなのが冒頭の本だったので、取り寄せてみたのです。新本を注文したのに届いたのは97年1月の初版だったので、24年たってもまだ残っているということはあまり売れなかったということですが、これはインディアンもので題材が一般受けしない上に、研究書なのでそう珍しいことではなく、本の価値とは関係がない(前にイギリスに本を注文したら、40年前に出た初版が届いたので、感動したことがある)。これは同じ話の複数バージョンを紹介していたり、読み物としては退屈なところもありますが(動物が登場する子供向けの昔話の趣もあって、笑える箇所もある)、あちこちに考えさせるところがあって、僕自身は非常に面白く読みました。薄い本だなと思ったのですが、本文は二段組になっているので、全142頁の本にしてはボリュームがある。1500円(税別)という定価は、従って良心的です(ついでに言うと、文化を重視するなら書籍には消費税をかけないようにすべきです)。
僕がこれを注文したのには他にも理由があって、それはアメリカインディアンの文化に関するものだったからです。訳者の毬藻氏によれば、このグアラニ族とは今のカイオワ族と呼ばれる人たちだという。それだと聞いたことがあると言う人が多いでしょう。これはその神話と聖歌を収録し、それに解説を加えたものなのです。
僕は文化人類学には疎く、その方面はあまり読んだことがないのですが、ものすごい山奥に育って、遊びと言えば狩猟採集民生活を無意識に模倣するようなものばかりだった上に、祖母の溺愛を受けて育ち、その祖母は明治生まれで、旧暦に従って古来の祭礼を執り行いながら一年を送っているような人で、たいそう信心深かった上に、学校教育とほとんど無縁だった人にはときにあるように、驚異的な記憶力の持主だったので昔話(それは近代合理主義的な見地からすれば、荒唐無稽なものを多数含んでいた)をたくさん聞かされ、幼時環境の影響力は大きいので、そういうのが全部合わさって、シャーマニズム的な感じ方、考え方に親近感を覚える素地ができたのかもしれません。
たぶん一番変わっているのは、祖母は通常の神様仏様の他に、妙見様という土俗宗教(それは北斗七星と関係する)を熱心に信仰していたのですが、その関係で、僕は小学校を卒業するまで必ず月に一回、第一日曜だったと記憶しているのですが、温泉町にあるみすぼらしい建物のその妙見様に連れて行かれ、そこの主人である巫女さん(無欲な人でしたが、すぐれた霊能の持主とされていた)のご祈祷を受けさせられていたことです。祖母はよく「おまえは氏神様の申し子だから」と言っていて、その割に泣き虫で体躯が貧弱だったので、特別に霊界からの加護(?)を仰ぐ必要があると考えていたのかもしれません。本人は親の目を逃れてアイスやお菓子を買ってもらえるのが嬉しくてそれに従っていただけで、子供心にもそんな話は信じられなかったし、実際的で合理主義的な両親も害はないだろうということで口出ししなかっただけなのですが、今思えばこういうのはシャーマニズムそのものです。
ついでに笑い話をすると、そのうち牙のような大きな八重歯が口の両側、しかもかなり上にはえてきて、それに上唇が引っかかって口が開けにくくて困るので、そう母に訴えると、おまえは人間の子供ではないから、そんな動物の牙みたいなのがはえてくるのだと、それを逆手にとって面白半分に言う始末でした。歯医者の先生は「そのうち下に降りてくるから大丈夫」と保証しましたが、全然そうはならず、しまいにはどちらも虫歯になって抜く羽目になり、それでやっと「人間の顔」になったのです。その牙と妙見様が関係あったのかどうかは知りません(息子にも特大の八重歯があるのですが、幸いなことにそれは片方だけです)。
話を戻して、当然の流れとして、成長すると共に僕はそういう世界から離れて「文明化」されていったのですが、子供時代の環境というのは恐ろしいもので、今のこの物質主義的・合理主義的な文明社会にはどうにもなじめないところがあって、自分の原始性のようなものを強く自覚せざるを得なくなりました。そこから異端的なものや少数民族などに親近感をもつようになって、その中には当然、アメリカインディアンに対する同情と共感のようなものも含まれていたのです(だから、インディアンを悪者にした昔の西部劇なんか見ると、不当だと腹を立ててしまう)。
もう一つ、今回の『エイリアン・アブダクションの深層』には、南米、北米のシャーマンが出てきます。二人とも西洋白人との混血ですが、その伝記的記述を読んでいて、彼らが今もなおどれほど悲惨な状況に置かれているか、あらためて胸に迫ってきたので、そういうこともあって、これはぜひ読んでみたい本だと思ったのです。
『自発的隷従論』の中に収められたクラストルの「自由、災難、名づけえぬ存在」から少し引用させてもらうと、彼は「あらゆる権力は抑圧的であり、〈区別〉を伴うあらゆる社会には――その社会が自然に反するものであり、自由を否定するものであるかぎりにおいて――〈絶対悪〉が宿っている」というのですが、そこから次のような見解を述べるのです。
…原始社会は、いかにして不平等、〈区別〉、権力関係を生じさせないように機能していたのか、いかにして災難を回避するに至ったのか、いかにしてそれが始まらないようにしたのか…。(中略)…原始社会が国家なき社会であるのは、そうした社会が、そもそも国家の出現によって特徴づけられる成熟した段階に達することができないからではなく、国家という制度を拒否しているからである。原始社会が国家を知らないのは、そんなものを望まないからであり、部族が族長制と権力とを分離したままで維持されているのは、族長が権力の保持者となることを望まないから、つまり、族長が君主となるのを拒否するからである。服従を拒否する社会、これこそが原始社会である。(『自発的隷従論』訳書p.206)
僕は前にアーサー・ガーダムの『偉大なる異端』を訳しました。それは中世のキリスト教異端カタリ派の歴史と思想(オカルトに分類されるようなものも含む)を扱ったものですが、こういうのはカタリ派の権力観と驚くほどよく似ているのです。カタリ派にはパルフェと呼ばれる聖職者と平信徒の区別は明確なものとして存在しましたが、それは自由を否定し、組織を階層化させるような性質のものではまるでなかったので、それは基本的に個人の自発性に基づく平等な共同体だったので、当時としては例外的に、男女差別もなかったのです(シモーヌ・ヴェイユがカタリ派に親近感をもったのもこうした理由によります)。それは当時人気を博して西洋世界に燎原の火のように広がり、これを大きな脅威と感じたローマカトリックによる大弾圧を受けて滅んだのですが、カトリックの方は厳格なヒエラルキーをつくり、配下と信者に絶対的な服従を要求し、国家という権力装置も丸ごと肯定して、これを従えようとしたのです。その結果、異様な国際神権政治が出現し、通常の弾圧に加え、幾度も十字軍なるものを編成して組織的殺人に明け暮れ、その規模はナチスを顔色なからしめるほどのものだったのですが、カタリ派がもしも同じような権力構造を志向する宗教団体だったなら、それに対抗しえたかもしれない。しかし、素朴な原始キリスト教徒的な在り方をよしとした彼らは、断固それを拒んだのです。
アメリカインディアンたちが西洋白人にひどい目に遭わされ、抵抗むなしく敗れ去ったのも、彼らの社会が基本的に権力や階層秩序をもたず、約束や信義に基づく平等な社会を形成していたからです。白人たちの際限もない物欲・権勢欲や、言葉を目的達成のためのたんなる便利な道具としか見なさない(従って平気で嘘をつく)態度は、彼らの知らないものだった。善良な人間が貪欲なサイコパス集団にしてやられたのと同じで、土地(土地所有という厚かましい観念自体が彼らにはなかった)を気前よく貸し与えたら、自分たちが追い出され、殺される羽目になったのです。
『大いなる語り』の訳者、毬藻氏は、訳者あとがきで南北アメリカ大陸のインディオたちがどれほど悲惨な運命を辿らされたか、今もどれほど過酷な状況に置かれているかを1993年の朝日新聞の連載記事を引用しながら簡潔に述べています。
「絶望のインディオ居留地」と題されたその連載記事をさらに読み進んでいくと、数日後にこんな数字に出会う。先住民の血と悲憤で刻まれた野蛮の数字である――白人の入植が始まる以前のインディオの人口は、およそ600万人と推定されるが、今世紀〔註:20世紀〕に入ってからだけでも100以上もの部族が抹殺され、ここ七年間に確認された見接触部族のうち33の部族が消滅した。現在、ブラジルに残されたインディオは、187部族、25万人であり、「白人と接触した400年間でわずか4%」に激減した。そして「過去20年間に、インディオのために戦った運動家が114人も殺されている」…。1500年にブラジルが「発見」されて以後、土地を強奪され、奴隷化され、伝染病をまきちらされ、命と文化と自然を奪われてきた忌まわしい暴力と野蛮の歴史の果てには、申し訳程度に与えられた居留地と、過去仕込まれた居留地での自殺〔前の部分で、インディオ居留地での若者を中心とした自殺率は非インディオ社会の100~150倍にも達することが触れられている〕しか残されていないとでもいうのだろうか。…(中略)…アマゾンのインディオのある酋長は、インディオが滅びることは、地球が滅びることであると言っていた。このままで行くと2075年には、地球上の熱帯林は完全に消滅すると推計されている。(『大いなる語り』訳書p.137~8)
事情は北米でも同じです。その一端は映画『ウインド・リバー』にも示されている。他にもオーストラリア、南アフリカ、ニューカレドニア、ポリネシア等々の先住民など、全部合わせれば、それはナチスによるユダヤ人虐殺の規模をはるかに超えるのです。あれは第二次大戦中で、かつ短期間に大々的に行われたから見えやすかったのですが、こちらはそうではなかったから忘れられやすいということにすぎません。
「クラストルは集団虐殺(génicide)という言葉では表現できない現実が厳然としてあり、この現実は異民族文化抹殺(ethnocide)という言葉によってしか表現されないものだと言う」と、毬藻氏は書いておられますが、今の中国がウイグル人相手にやっていることなども、これと全く同じでしょう。それに関する記事を一つ。
・収容所では性暴力や拷問も横行……「中国最大の国際的汚点」ウイグル問題で難民が続出
中国の「同化政策」なるものは、「異民族文化抹殺」の別名なので、それはかつて侵略したチベット相手にもやってきたことです。それと「集団虐殺」の両方を同時にやっているので、世界から非難されるのは当然ですが、他の国の多くも、実は自分の入植先で同じようなことをやってきたということです。だからといって中国がそれを引き合いに出すのは、強盗殺人犯が「おまえらも似たようなものだから何も言うな」と居直るのと同じなので、そんなもの、まともに相手にする必要はありませんが、自分たちの罪を否定することはできないのです。
思えば日本にとっての韓国問題も、彼らは並外れてしつこい上に、約束は守らないし、嘘や誇張も平気で並べ立てると僕らは腹を立てるわけですが、かつての日本統治時代、それで彼らの物質次元の生活はおしなべてお粗末な大韓帝国当時よりはマシになったという事実があったとしても、異民族の植民地にされて、その支配に従うことを強要されたということ自体、愚かな自国政権にひどい目に遭わされるのとはまた別の、強い屈辱感を伴うものだったのでしょう。
古代においては朝鮮半島国家は日本の先輩格で、多くの文化や技術を日本にもたらしました。それは事実で、帰化人も多くいて、当時は関係も良好だったのです。支配・被支配の関係などはなかった。なのに、李氏朝鮮500年の停滞した愚政の果てに、そうした優位性はすっかり失われ、近代化にも大きな後れを取って、かつては教える相手だった日本の植民地にされ、その支配に甘んじる羽目になってしまった。そこに働く強い屈辱感ゆえに、事実認識においても冷静さを欠くことになって、日本人から見れば、明らかな行き過ぎと感じられるようなああいう態度になってしまうのかもしれません。当時の大韓帝国はかなりひどい国でした。それは為政者、支配層が駄目だったからですが、それを言われるとなおさら腹が立つというのは、民族感情としては理解しうることです。駄目な親でも、自分が言うのはいいが、他人から指摘されると腹が立つというのと同じです。植民地支配を受けるということは、民族の自立を奪われるのと同じで、「おかげで君たちは前よりはマシな生活ができるようになったのだ」などと言われると、そこに一面の真理があればなおさら、屈辱感は増すのです。独立を自力で勝ち取ったわけではないということも不快な材料の一つで、中国の場合には、共産党の手柄ではないとしても、正面から抗日戦争を戦ったという自負があるが、韓国にはそれもないのです。だから心情的になおさら屈折してしまう。
僕はネトウヨ的な、「日本人は常に紳士だった」説には与しませんが、中国が今ウイグルの人たち相手にやっていることと較べれば、まだしも「紳士的」だったかもしれません。しかし、他国を植民地支配するということは、個別具体的な対応以前に、その地の人々にとっては侮辱的であり、人としての尊厳を害するものであるということは否定できません。実際にあったことならともかく、作り話までして非難するのはやめてもらいたいと思うのは人情ですが、やはりそこはよく考えてみなければならないなと、あらためて思った次第です。
クラストルの場合は、そこにとどまらない。国家の成立を社会進化の必然とする考え方自体に彼は異を唱えて、インディオたちの社会は「未開」だったのではなく、国家というシステムが人間の自由と平等を根底的に侵害する危険な罠だということを見抜いていたがゆえに、意志的にそれを拒んでいたのだとするのです。それがラ・ボエシの言う「自発的隷従」を生み出して、人々はあえて権力による圧政を欲するがごとき習性をつくり出してしまった。「脱自然化」の結果、「自由への意志が隷従への意志へと変化しているような新たな人間」の出現を見たとするのです。
上下関係を前提とした儒教道徳などはこの国家体制的支配と強い親和性をもっていたわけですが、老荘思想はこれに対する強力なアンチで、しかし、それはそれと正面から戦おうとするものではない。そういうこともまた「もう一つのさかしら」のように見なされて、せいぜいそこからドロップアウトして生きるすべを教えるようなものになって、だから中国の専制国家体制はずっと続いたのです(今のあれも共産主義「王朝」でしかない)。
というより、それはいったん作ってしまうとどうにもならなくなってしまうような性質のものなのかもしれません。たとえそれが民主主義政体に移行しても、権力の基本構造は変わらず(同じ隷従心理に支えられているがゆえに)、忖度と追従が幅を利かせて、内部の人々は自由への恐怖と敵意をもち続けたままになる。またその民主主義なるものも、国家の異分子と見なされた人たちには適用されず、民主主義国家を自任するアメリカにおいてさえ、インディオたちへの暴虐は見過ごされるままになったのです。日本でも、アイヌや沖縄の人たちに対する差別(それは米軍基地問題を見てもわかる)は歴然として存在する。その存在自体が目に入らない、あるいは目に入れようとしない無意識のメンタリティが存在するのです。それが「自発的隷従」とセットになっている。
これは難問です。いまさら〈国家以前〉には戻れないし、かといってこのまま何もしないのでは、社会に満ちる閉塞感と呪詛は募るままになって、いずれ自壊する。今の環境危機は内部のそれの合わせ鏡みたいなもので、今現在でもすでに崩壊寸前なのです。
『エイリアン・アブダクションの深層』第三部の終わりのところで、「なぜアブダクティたちはセラピストといる時よりもシャーマンと一緒にいる時の方が快適に感じるのか」という問題に関して、「シャーマニズムでは、あらゆる人の道が独自なのです」という、アーティストでシャーマニズムの研究家でもあるアンドレア・プリチャードの言葉が引用されているのですが、今の文明社会の中では大多数の人が自由と共に本来はもっていたはずの「独自性」を奪われ、その結果「なくて七癖」程度の、それ自体型にはまりすぎた表面的な個性を主張し、競い合うという不毛な状態に陥っているのです。インディオたちにはその種の「個性」の主張などはない。それはそんなことを必要としない各自の独自性があらかじめ認められ、感得されているからで、そこにある「個の尊重」の意味合いは全く違うのです。
一つだけ、関連個所を引用すると、それは子供の命名の際の態度にも表れます。今の日本ではキラキラネームなるものが大はやりだそうですが、そうでなくても親個人が思いついた名前をつけ、字画の吉数で漢字を決めるのがふつうで、そこにはそれ以上の意味はありません。それは「個人の嗜好」のレベルを出ず、何か大きな宇宙的なものから与えられた存在論的意味合いなどというものはないのです。しかし、グアラニ族にとってはそうではない。
未開社会のあらゆる部族と同じように、グアラニ族にとっても、子供の誕生は、その生物学的な意味や社会学的な含意から大きくはみ出るものである。それは、徹頭徹尾、超自然的なもの、メタ社会的なものの管轄に属している。生殖、つまり子供の身体を生産する行為は別にして、その他残りのすべてのこと、すなわちこの身体にその人格的な規定を割り当てることは、神々の自由な活動に依存しているのである。たとえば、この身体に住みつきにやってくる魂――〈住みつく言葉〉――の出生地の探求、子供が持つことになる正確な名前の探求は、賢者=シャーマンによって行われる。子供は、いわば生気のない空間――身体――として存在しており、この空間がアイブ――言語――の小片によって住みつかれ、生気を与えられるのだ。この小片が、この子供にとっては彼のフィエエンを、つまり彼の〈住みつく言葉〉、彼の魂を構成しているのである。どのような名前が与えられるかは神々によって選ばれるのであり、名前が与えられることによって生者は個人に姿を変えるのである。名前を読み取り、それを言うのはシャーマンの仕事であるが、彼はこの子供の正体を探求する上で間違いを犯すことはできない。なぜなら名前――テリ・モアン――とは「〈言葉〉の流れが・高まる・ように・させる・もの」であるからである。名前は、身体に残された神の徴であり、刻印であり、神の生である。(『大いなる語り』訳書p.104)
何たる厳粛さ! 生のスタート時点で、個々の子供はそれほどまでに注意深い扱いを受け、その名前に与えられる意味合いも深いのです。物質環境的にはどれほど今の文明人が恵まれていようと、そこに聖性が認められることはない。言葉は魂の等価物であるがゆえに、彼らは言葉を大切に扱うのですが、ここでは名前とはその子の魂の呼称なのです。それは聖なる神の、全的な霊性の一片であり、それによってその子は聖なる全体と――当然自然とも――つながっている。それは現代文明人のいわゆる「個性」などというものではない。存在論的な深い意味合いと共に、彼らは部族、共同体に受け入れられるのです。それが空虚なものであるはずがない。
若者のいわゆる「自分探し」なども、そんなことはナンセンスだと嘲る人は少なくありませんが、「自分の魂の名前がわからない」から起きることで、「自分が何者なのかわからない」という不安は生涯ずっとつきまとうのです。そこで多くの人はその心理的補償として成功を追い求め、権力や地位、名声、あるいは財力が何より重要なものになってしまうのですが、そのためには通常、追従や迎合、忖度が不可欠になるので、悲しいかな、自由でも、独自性をもつ存在でもなくなってしまうのです。今の文明世界では権力それ自体、「自発的隷従」の末に辿り着くポストなのです。僕はいわゆる成功本の類は読んだことがありませんが、そこには必ず、むろんもっと見栄えのいい言葉に置き換えられているでしょうが、その重要性が説かれているはずです。権力を手にして堕落するというより、そこに至るプロセス自体が堕落への道なのです。そして頂点に立ってわがもの顔にふるまっても、その内面の虚しさは癒されない。この文明機構そのものがその意味で、人間のスポイルシステムなのです。そこでは「自由」という言葉も、「個性」という言葉も深刻な歪曲をこうむっている。だからそれが本当は何であるかを、僕らは知らないのです。
何という空虚な、馬鹿げた世界に自分は暮らしているのだろうと、あなたは思ったことがありませんか? これは自分を高しとして他を見下すというようないい気なものではない、もっと魂の底冷えを感じさせるようなものとしてです。ここには何か生のエッセンスというものが欠けている。生きているうちに魂との親しい結びつきを失ってしまった、あるいはそれなしの存在になってしまったような感覚です。
「なぜわれわれは、美しく身を飾った者であり、神々に選ばれたものであるのに、欠陥、未完成、不完全性に病んだ生活に委ねられているのか?」グアラニ族の思想家たちが、いやがうえにも認めねばならない苦く明白な事実、それは次のことである。われわれは、自分たちが天上にいる人びとの生を生きるに値する存在であると知っているのに、いまここで病んだ動物の生を生きる羽目に陥っているのだ。われわれは神々であることを望んでいるのに、われわれは人間でしかない。われわれの欲望が目指すもの、それはイウイ・マラ・エイン――〈悪なき大地〉――である。われわれがそこから逃れられないように定められている空間、それはイウイ・ムバエメグア――〈悪しき大地〉――である。いったいどうしてこんなことがありうるのか? どうしたらわれわれは、われわれの真の本性を再び取り戻し、空気のように軽やかな身体の健康を回復し、われわれの失われた国を取り戻すことができるのか? われらの父ナマンドゥが支配している七つの天空まで声が届くように、われわれの声に力が浸み込まんことを! われわれの言葉に美が浸み込まんことを!(同書p.14)
これはラディカルだが、力強い思考、叫びです。しかし、一番そのひどい空間、〈悪しき大地〉に深くはまり込んでいるのは、僕ら今の文明人ではないのか? そういう自覚すらないとしたら、それは一層悲惨なことではないのか? 僕がこの「未開部族」の思想に関する本を読みながら強く思ったのは、そのことです。未開なのは一体どっちなのだ?
長くなったのでこれでおしまいにしますと言えば、結論がどうなるか知りたかったのに無責任だと言われるかもしれませんが、かんたんな結論なんてあるはずがありません。重要なのは問題の所在を突き止めることで、僕個人は心情的には若い頃からアナキズム(無政府主義)に一番親近感を抱いていたのですが、それが現実的な解決策とは思えなかった。端的に言えば、人間はそこまで成熟していないのです。しかし、このラ・ボエシが言う「自発的隷従」社会を何とかしないことにはどうしようもないので、まず〈病識〉を獲得することから、僕らは始めるべきでしょう。
まだお読みになっていない方で、興味のある人は、以下にアマゾンのURLをつけておきますので、機会があれば読んでお考えになってはどうかと思います。
・『自発的隷従論』
・『大いなる語り』
まず、この本をどうして取り寄せたのかという経緯からお話しすると、しばらく前に本を整理、というか、あまりにもあちこちに本が散らばりすぎているので、それを片づけていて、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』(山上浩嗣訳/西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013)が、読みかけて中断したままになっていたことに気づいて、それを読んだのですが、その中に「付論」として、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの関連文章が入っていて、ヴェイヌは若い頃、面白いと思って何冊か読んでいたのですが、ピエール・クラストルという人は知らない。しかし、その文が面白かったので、註を見ると、政治人類学なるものの専門家だという。それでネットで調べると、その筋では有名な人で、1977年に43歳の若さで交通事故で亡くなっている。学者としてはこれからというところで残念です(今度上梓する訳本の著者、ジョン・マックも交通事故で亡くなっていますが、こちらは74歳でした)。
ついでに、この『自発的隷従論』ですが、訳者がつけた註の充実ぶりにはびっくりで、西谷修氏の解説もいいものだし、まさに「学芸文庫」の名に値するという感じで、僕は割と注釈の類も細かく読むほうなのですが、読みながらこれは凄いなと唸ってしまったほどです。原著者としても、こういう訳本を作ってもらえれば本望でしょう。妙な言い方をするなら、本文よりも訳註や解説の方が面白かったぐらいです。
話を戻して、それでこのクラストルという人の本を探したら、訳が何冊か出ていて、一番手っ取り早く読めそうなのが冒頭の本だったので、取り寄せてみたのです。新本を注文したのに届いたのは97年1月の初版だったので、24年たってもまだ残っているということはあまり売れなかったということですが、これはインディアンもので題材が一般受けしない上に、研究書なのでそう珍しいことではなく、本の価値とは関係がない(前にイギリスに本を注文したら、40年前に出た初版が届いたので、感動したことがある)。これは同じ話の複数バージョンを紹介していたり、読み物としては退屈なところもありますが(動物が登場する子供向けの昔話の趣もあって、笑える箇所もある)、あちこちに考えさせるところがあって、僕自身は非常に面白く読みました。薄い本だなと思ったのですが、本文は二段組になっているので、全142頁の本にしてはボリュームがある。1500円(税別)という定価は、従って良心的です(ついでに言うと、文化を重視するなら書籍には消費税をかけないようにすべきです)。
僕がこれを注文したのには他にも理由があって、それはアメリカインディアンの文化に関するものだったからです。訳者の毬藻氏によれば、このグアラニ族とは今のカイオワ族と呼ばれる人たちだという。それだと聞いたことがあると言う人が多いでしょう。これはその神話と聖歌を収録し、それに解説を加えたものなのです。
僕は文化人類学には疎く、その方面はあまり読んだことがないのですが、ものすごい山奥に育って、遊びと言えば狩猟採集民生活を無意識に模倣するようなものばかりだった上に、祖母の溺愛を受けて育ち、その祖母は明治生まれで、旧暦に従って古来の祭礼を執り行いながら一年を送っているような人で、たいそう信心深かった上に、学校教育とほとんど無縁だった人にはときにあるように、驚異的な記憶力の持主だったので昔話(それは近代合理主義的な見地からすれば、荒唐無稽なものを多数含んでいた)をたくさん聞かされ、幼時環境の影響力は大きいので、そういうのが全部合わさって、シャーマニズム的な感じ方、考え方に親近感を覚える素地ができたのかもしれません。
たぶん一番変わっているのは、祖母は通常の神様仏様の他に、妙見様という土俗宗教(それは北斗七星と関係する)を熱心に信仰していたのですが、その関係で、僕は小学校を卒業するまで必ず月に一回、第一日曜だったと記憶しているのですが、温泉町にあるみすぼらしい建物のその妙見様に連れて行かれ、そこの主人である巫女さん(無欲な人でしたが、すぐれた霊能の持主とされていた)のご祈祷を受けさせられていたことです。祖母はよく「おまえは氏神様の申し子だから」と言っていて、その割に泣き虫で体躯が貧弱だったので、特別に霊界からの加護(?)を仰ぐ必要があると考えていたのかもしれません。本人は親の目を逃れてアイスやお菓子を買ってもらえるのが嬉しくてそれに従っていただけで、子供心にもそんな話は信じられなかったし、実際的で合理主義的な両親も害はないだろうということで口出ししなかっただけなのですが、今思えばこういうのはシャーマニズムそのものです。
ついでに笑い話をすると、そのうち牙のような大きな八重歯が口の両側、しかもかなり上にはえてきて、それに上唇が引っかかって口が開けにくくて困るので、そう母に訴えると、おまえは人間の子供ではないから、そんな動物の牙みたいなのがはえてくるのだと、それを逆手にとって面白半分に言う始末でした。歯医者の先生は「そのうち下に降りてくるから大丈夫」と保証しましたが、全然そうはならず、しまいにはどちらも虫歯になって抜く羽目になり、それでやっと「人間の顔」になったのです。その牙と妙見様が関係あったのかどうかは知りません(息子にも特大の八重歯があるのですが、幸いなことにそれは片方だけです)。
話を戻して、当然の流れとして、成長すると共に僕はそういう世界から離れて「文明化」されていったのですが、子供時代の環境というのは恐ろしいもので、今のこの物質主義的・合理主義的な文明社会にはどうにもなじめないところがあって、自分の原始性のようなものを強く自覚せざるを得なくなりました。そこから異端的なものや少数民族などに親近感をもつようになって、その中には当然、アメリカインディアンに対する同情と共感のようなものも含まれていたのです(だから、インディアンを悪者にした昔の西部劇なんか見ると、不当だと腹を立ててしまう)。
もう一つ、今回の『エイリアン・アブダクションの深層』には、南米、北米のシャーマンが出てきます。二人とも西洋白人との混血ですが、その伝記的記述を読んでいて、彼らが今もなおどれほど悲惨な状況に置かれているか、あらためて胸に迫ってきたので、そういうこともあって、これはぜひ読んでみたい本だと思ったのです。
『自発的隷従論』の中に収められたクラストルの「自由、災難、名づけえぬ存在」から少し引用させてもらうと、彼は「あらゆる権力は抑圧的であり、〈区別〉を伴うあらゆる社会には――その社会が自然に反するものであり、自由を否定するものであるかぎりにおいて――〈絶対悪〉が宿っている」というのですが、そこから次のような見解を述べるのです。
…原始社会は、いかにして不平等、〈区別〉、権力関係を生じさせないように機能していたのか、いかにして災難を回避するに至ったのか、いかにしてそれが始まらないようにしたのか…。(中略)…原始社会が国家なき社会であるのは、そうした社会が、そもそも国家の出現によって特徴づけられる成熟した段階に達することができないからではなく、国家という制度を拒否しているからである。原始社会が国家を知らないのは、そんなものを望まないからであり、部族が族長制と権力とを分離したままで維持されているのは、族長が権力の保持者となることを望まないから、つまり、族長が君主となるのを拒否するからである。服従を拒否する社会、これこそが原始社会である。(『自発的隷従論』訳書p.206)
僕は前にアーサー・ガーダムの『偉大なる異端』を訳しました。それは中世のキリスト教異端カタリ派の歴史と思想(オカルトに分類されるようなものも含む)を扱ったものですが、こういうのはカタリ派の権力観と驚くほどよく似ているのです。カタリ派にはパルフェと呼ばれる聖職者と平信徒の区別は明確なものとして存在しましたが、それは自由を否定し、組織を階層化させるような性質のものではまるでなかったので、それは基本的に個人の自発性に基づく平等な共同体だったので、当時としては例外的に、男女差別もなかったのです(シモーヌ・ヴェイユがカタリ派に親近感をもったのもこうした理由によります)。それは当時人気を博して西洋世界に燎原の火のように広がり、これを大きな脅威と感じたローマカトリックによる大弾圧を受けて滅んだのですが、カトリックの方は厳格なヒエラルキーをつくり、配下と信者に絶対的な服従を要求し、国家という権力装置も丸ごと肯定して、これを従えようとしたのです。その結果、異様な国際神権政治が出現し、通常の弾圧に加え、幾度も十字軍なるものを編成して組織的殺人に明け暮れ、その規模はナチスを顔色なからしめるほどのものだったのですが、カタリ派がもしも同じような権力構造を志向する宗教団体だったなら、それに対抗しえたかもしれない。しかし、素朴な原始キリスト教徒的な在り方をよしとした彼らは、断固それを拒んだのです。
アメリカインディアンたちが西洋白人にひどい目に遭わされ、抵抗むなしく敗れ去ったのも、彼らの社会が基本的に権力や階層秩序をもたず、約束や信義に基づく平等な社会を形成していたからです。白人たちの際限もない物欲・権勢欲や、言葉を目的達成のためのたんなる便利な道具としか見なさない(従って平気で嘘をつく)態度は、彼らの知らないものだった。善良な人間が貪欲なサイコパス集団にしてやられたのと同じで、土地(土地所有という厚かましい観念自体が彼らにはなかった)を気前よく貸し与えたら、自分たちが追い出され、殺される羽目になったのです。
『大いなる語り』の訳者、毬藻氏は、訳者あとがきで南北アメリカ大陸のインディオたちがどれほど悲惨な運命を辿らされたか、今もどれほど過酷な状況に置かれているかを1993年の朝日新聞の連載記事を引用しながら簡潔に述べています。
「絶望のインディオ居留地」と題されたその連載記事をさらに読み進んでいくと、数日後にこんな数字に出会う。先住民の血と悲憤で刻まれた野蛮の数字である――白人の入植が始まる以前のインディオの人口は、およそ600万人と推定されるが、今世紀〔註:20世紀〕に入ってからだけでも100以上もの部族が抹殺され、ここ七年間に確認された見接触部族のうち33の部族が消滅した。現在、ブラジルに残されたインディオは、187部族、25万人であり、「白人と接触した400年間でわずか4%」に激減した。そして「過去20年間に、インディオのために戦った運動家が114人も殺されている」…。1500年にブラジルが「発見」されて以後、土地を強奪され、奴隷化され、伝染病をまきちらされ、命と文化と自然を奪われてきた忌まわしい暴力と野蛮の歴史の果てには、申し訳程度に与えられた居留地と、過去仕込まれた居留地での自殺〔前の部分で、インディオ居留地での若者を中心とした自殺率は非インディオ社会の100~150倍にも達することが触れられている〕しか残されていないとでもいうのだろうか。…(中略)…アマゾンのインディオのある酋長は、インディオが滅びることは、地球が滅びることであると言っていた。このままで行くと2075年には、地球上の熱帯林は完全に消滅すると推計されている。(『大いなる語り』訳書p.137~8)
事情は北米でも同じです。その一端は映画『ウインド・リバー』にも示されている。他にもオーストラリア、南アフリカ、ニューカレドニア、ポリネシア等々の先住民など、全部合わせれば、それはナチスによるユダヤ人虐殺の規模をはるかに超えるのです。あれは第二次大戦中で、かつ短期間に大々的に行われたから見えやすかったのですが、こちらはそうではなかったから忘れられやすいということにすぎません。
「クラストルは集団虐殺(génicide)という言葉では表現できない現実が厳然としてあり、この現実は異民族文化抹殺(ethnocide)という言葉によってしか表現されないものだと言う」と、毬藻氏は書いておられますが、今の中国がウイグル人相手にやっていることなども、これと全く同じでしょう。それに関する記事を一つ。
・収容所では性暴力や拷問も横行……「中国最大の国際的汚点」ウイグル問題で難民が続出
中国の「同化政策」なるものは、「異民族文化抹殺」の別名なので、それはかつて侵略したチベット相手にもやってきたことです。それと「集団虐殺」の両方を同時にやっているので、世界から非難されるのは当然ですが、他の国の多くも、実は自分の入植先で同じようなことをやってきたということです。だからといって中国がそれを引き合いに出すのは、強盗殺人犯が「おまえらも似たようなものだから何も言うな」と居直るのと同じなので、そんなもの、まともに相手にする必要はありませんが、自分たちの罪を否定することはできないのです。
思えば日本にとっての韓国問題も、彼らは並外れてしつこい上に、約束は守らないし、嘘や誇張も平気で並べ立てると僕らは腹を立てるわけですが、かつての日本統治時代、それで彼らの物質次元の生活はおしなべてお粗末な大韓帝国当時よりはマシになったという事実があったとしても、異民族の植民地にされて、その支配に従うことを強要されたということ自体、愚かな自国政権にひどい目に遭わされるのとはまた別の、強い屈辱感を伴うものだったのでしょう。
古代においては朝鮮半島国家は日本の先輩格で、多くの文化や技術を日本にもたらしました。それは事実で、帰化人も多くいて、当時は関係も良好だったのです。支配・被支配の関係などはなかった。なのに、李氏朝鮮500年の停滞した愚政の果てに、そうした優位性はすっかり失われ、近代化にも大きな後れを取って、かつては教える相手だった日本の植民地にされ、その支配に甘んじる羽目になってしまった。そこに働く強い屈辱感ゆえに、事実認識においても冷静さを欠くことになって、日本人から見れば、明らかな行き過ぎと感じられるようなああいう態度になってしまうのかもしれません。当時の大韓帝国はかなりひどい国でした。それは為政者、支配層が駄目だったからですが、それを言われるとなおさら腹が立つというのは、民族感情としては理解しうることです。駄目な親でも、自分が言うのはいいが、他人から指摘されると腹が立つというのと同じです。植民地支配を受けるということは、民族の自立を奪われるのと同じで、「おかげで君たちは前よりはマシな生活ができるようになったのだ」などと言われると、そこに一面の真理があればなおさら、屈辱感は増すのです。独立を自力で勝ち取ったわけではないということも不快な材料の一つで、中国の場合には、共産党の手柄ではないとしても、正面から抗日戦争を戦ったという自負があるが、韓国にはそれもないのです。だから心情的になおさら屈折してしまう。
僕はネトウヨ的な、「日本人は常に紳士だった」説には与しませんが、中国が今ウイグルの人たち相手にやっていることと較べれば、まだしも「紳士的」だったかもしれません。しかし、他国を植民地支配するということは、個別具体的な対応以前に、その地の人々にとっては侮辱的であり、人としての尊厳を害するものであるということは否定できません。実際にあったことならともかく、作り話までして非難するのはやめてもらいたいと思うのは人情ですが、やはりそこはよく考えてみなければならないなと、あらためて思った次第です。
クラストルの場合は、そこにとどまらない。国家の成立を社会進化の必然とする考え方自体に彼は異を唱えて、インディオたちの社会は「未開」だったのではなく、国家というシステムが人間の自由と平等を根底的に侵害する危険な罠だということを見抜いていたがゆえに、意志的にそれを拒んでいたのだとするのです。それがラ・ボエシの言う「自発的隷従」を生み出して、人々はあえて権力による圧政を欲するがごとき習性をつくり出してしまった。「脱自然化」の結果、「自由への意志が隷従への意志へと変化しているような新たな人間」の出現を見たとするのです。
上下関係を前提とした儒教道徳などはこの国家体制的支配と強い親和性をもっていたわけですが、老荘思想はこれに対する強力なアンチで、しかし、それはそれと正面から戦おうとするものではない。そういうこともまた「もう一つのさかしら」のように見なされて、せいぜいそこからドロップアウトして生きるすべを教えるようなものになって、だから中国の専制国家体制はずっと続いたのです(今のあれも共産主義「王朝」でしかない)。
というより、それはいったん作ってしまうとどうにもならなくなってしまうような性質のものなのかもしれません。たとえそれが民主主義政体に移行しても、権力の基本構造は変わらず(同じ隷従心理に支えられているがゆえに)、忖度と追従が幅を利かせて、内部の人々は自由への恐怖と敵意をもち続けたままになる。またその民主主義なるものも、国家の異分子と見なされた人たちには適用されず、民主主義国家を自任するアメリカにおいてさえ、インディオたちへの暴虐は見過ごされるままになったのです。日本でも、アイヌや沖縄の人たちに対する差別(それは米軍基地問題を見てもわかる)は歴然として存在する。その存在自体が目に入らない、あるいは目に入れようとしない無意識のメンタリティが存在するのです。それが「自発的隷従」とセットになっている。
これは難問です。いまさら〈国家以前〉には戻れないし、かといってこのまま何もしないのでは、社会に満ちる閉塞感と呪詛は募るままになって、いずれ自壊する。今の環境危機は内部のそれの合わせ鏡みたいなもので、今現在でもすでに崩壊寸前なのです。
『エイリアン・アブダクションの深層』第三部の終わりのところで、「なぜアブダクティたちはセラピストといる時よりもシャーマンと一緒にいる時の方が快適に感じるのか」という問題に関して、「シャーマニズムでは、あらゆる人の道が独自なのです」という、アーティストでシャーマニズムの研究家でもあるアンドレア・プリチャードの言葉が引用されているのですが、今の文明社会の中では大多数の人が自由と共に本来はもっていたはずの「独自性」を奪われ、その結果「なくて七癖」程度の、それ自体型にはまりすぎた表面的な個性を主張し、競い合うという不毛な状態に陥っているのです。インディオたちにはその種の「個性」の主張などはない。それはそんなことを必要としない各自の独自性があらかじめ認められ、感得されているからで、そこにある「個の尊重」の意味合いは全く違うのです。
一つだけ、関連個所を引用すると、それは子供の命名の際の態度にも表れます。今の日本ではキラキラネームなるものが大はやりだそうですが、そうでなくても親個人が思いついた名前をつけ、字画の吉数で漢字を決めるのがふつうで、そこにはそれ以上の意味はありません。それは「個人の嗜好」のレベルを出ず、何か大きな宇宙的なものから与えられた存在論的意味合いなどというものはないのです。しかし、グアラニ族にとってはそうではない。
未開社会のあらゆる部族と同じように、グアラニ族にとっても、子供の誕生は、その生物学的な意味や社会学的な含意から大きくはみ出るものである。それは、徹頭徹尾、超自然的なもの、メタ社会的なものの管轄に属している。生殖、つまり子供の身体を生産する行為は別にして、その他残りのすべてのこと、すなわちこの身体にその人格的な規定を割り当てることは、神々の自由な活動に依存しているのである。たとえば、この身体に住みつきにやってくる魂――〈住みつく言葉〉――の出生地の探求、子供が持つことになる正確な名前の探求は、賢者=シャーマンによって行われる。子供は、いわば生気のない空間――身体――として存在しており、この空間がアイブ――言語――の小片によって住みつかれ、生気を与えられるのだ。この小片が、この子供にとっては彼のフィエエンを、つまり彼の〈住みつく言葉〉、彼の魂を構成しているのである。どのような名前が与えられるかは神々によって選ばれるのであり、名前が与えられることによって生者は個人に姿を変えるのである。名前を読み取り、それを言うのはシャーマンの仕事であるが、彼はこの子供の正体を探求する上で間違いを犯すことはできない。なぜなら名前――テリ・モアン――とは「〈言葉〉の流れが・高まる・ように・させる・もの」であるからである。名前は、身体に残された神の徴であり、刻印であり、神の生である。(『大いなる語り』訳書p.104)
何たる厳粛さ! 生のスタート時点で、個々の子供はそれほどまでに注意深い扱いを受け、その名前に与えられる意味合いも深いのです。物質環境的にはどれほど今の文明人が恵まれていようと、そこに聖性が認められることはない。言葉は魂の等価物であるがゆえに、彼らは言葉を大切に扱うのですが、ここでは名前とはその子の魂の呼称なのです。それは聖なる神の、全的な霊性の一片であり、それによってその子は聖なる全体と――当然自然とも――つながっている。それは現代文明人のいわゆる「個性」などというものではない。存在論的な深い意味合いと共に、彼らは部族、共同体に受け入れられるのです。それが空虚なものであるはずがない。
若者のいわゆる「自分探し」なども、そんなことはナンセンスだと嘲る人は少なくありませんが、「自分の魂の名前がわからない」から起きることで、「自分が何者なのかわからない」という不安は生涯ずっとつきまとうのです。そこで多くの人はその心理的補償として成功を追い求め、権力や地位、名声、あるいは財力が何より重要なものになってしまうのですが、そのためには通常、追従や迎合、忖度が不可欠になるので、悲しいかな、自由でも、独自性をもつ存在でもなくなってしまうのです。今の文明世界では権力それ自体、「自発的隷従」の末に辿り着くポストなのです。僕はいわゆる成功本の類は読んだことがありませんが、そこには必ず、むろんもっと見栄えのいい言葉に置き換えられているでしょうが、その重要性が説かれているはずです。権力を手にして堕落するというより、そこに至るプロセス自体が堕落への道なのです。そして頂点に立ってわがもの顔にふるまっても、その内面の虚しさは癒されない。この文明機構そのものがその意味で、人間のスポイルシステムなのです。そこでは「自由」という言葉も、「個性」という言葉も深刻な歪曲をこうむっている。だからそれが本当は何であるかを、僕らは知らないのです。
何という空虚な、馬鹿げた世界に自分は暮らしているのだろうと、あなたは思ったことがありませんか? これは自分を高しとして他を見下すというようないい気なものではない、もっと魂の底冷えを感じさせるようなものとしてです。ここには何か生のエッセンスというものが欠けている。生きているうちに魂との親しい結びつきを失ってしまった、あるいはそれなしの存在になってしまったような感覚です。
「なぜわれわれは、美しく身を飾った者であり、神々に選ばれたものであるのに、欠陥、未完成、不完全性に病んだ生活に委ねられているのか?」グアラニ族の思想家たちが、いやがうえにも認めねばならない苦く明白な事実、それは次のことである。われわれは、自分たちが天上にいる人びとの生を生きるに値する存在であると知っているのに、いまここで病んだ動物の生を生きる羽目に陥っているのだ。われわれは神々であることを望んでいるのに、われわれは人間でしかない。われわれの欲望が目指すもの、それはイウイ・マラ・エイン――〈悪なき大地〉――である。われわれがそこから逃れられないように定められている空間、それはイウイ・ムバエメグア――〈悪しき大地〉――である。いったいどうしてこんなことがありうるのか? どうしたらわれわれは、われわれの真の本性を再び取り戻し、空気のように軽やかな身体の健康を回復し、われわれの失われた国を取り戻すことができるのか? われらの父ナマンドゥが支配している七つの天空まで声が届くように、われわれの声に力が浸み込まんことを! われわれの言葉に美が浸み込まんことを!(同書p.14)
これはラディカルだが、力強い思考、叫びです。しかし、一番そのひどい空間、〈悪しき大地〉に深くはまり込んでいるのは、僕ら今の文明人ではないのか? そういう自覚すらないとしたら、それは一層悲惨なことではないのか? 僕がこの「未開部族」の思想に関する本を読みながら強く思ったのは、そのことです。未開なのは一体どっちなのだ?
長くなったのでこれでおしまいにしますと言えば、結論がどうなるか知りたかったのに無責任だと言われるかもしれませんが、かんたんな結論なんてあるはずがありません。重要なのは問題の所在を突き止めることで、僕個人は心情的には若い頃からアナキズム(無政府主義)に一番親近感を抱いていたのですが、それが現実的な解決策とは思えなかった。端的に言えば、人間はそこまで成熟していないのです。しかし、このラ・ボエシが言う「自発的隷従」社会を何とかしないことにはどうしようもないので、まず〈病識〉を獲得することから、僕らは始めるべきでしょう。
まだお読みになっていない方で、興味のある人は、以下にアマゾンのURLをつけておきますので、機会があれば読んでお考えになってはどうかと思います。
・『自発的隷従論』
・『大いなる語り』
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
今回は床屋政談とは全然違う話を少し――。タイトルを見て「何?」と思われた方が少なくないでしょうが、これは現代文明人が信じていることとはほとんど正反対です。世間の大方の人は「この自分は確かに存在するが、神が存在するかどうかは大いに疑わしい」と思っているだろうからです。
ことに日本人の場合、キリスト教やイスラム教のような一神教の文化圏には入らないので、八百万神(やおよろずのかみ)信仰のメンタリティはまだ幾分か残っているとはいえ、唯一にして絶対の創造主という考え方自体、クリスチャンやムスリムになっている人たちは別として、初めからないのだと言う人もいます。
しかし、そういう神観念が初めからないとは言えない。たとえば、言うことを聞かなくなってきた生意気盛りの男の子に、「誰も見てなくたって、神様はちゃんとあんたのやることを全部見てるんだからね!」と母親が脅すと、不思議に効き目があるなんて話は割とよく耳にするからです。その場合、その子の頭の中にあるのは、八百万神のどれかではなく、何か一神教的な性質の神様でしょう(閻魔大王のようなイメージかもしれませんが)。人間の頭の中には元々そういう観念が内蔵されていると考えてもよさそうです。
しかし、洋の東西を問わず、現代式の教育を受けると、何てあれそういう神観念は未開で幼稚なものであるとみなされるようになって、「ふふん、神だって?」という態度を取ることが知的であることの証しみたいになってしまうのです。神の存在は証明できません。神はその性質上、かたちをもたず無限定な存在だと考えられるからで、それは証明の対象にはなりえないものだからです。かつて大昔に絶滅したと言われていたシーラカンスが捕獲されたときみたいに、それをつかまえて「これが神だ!」とは言えないのです。またそれは通常の二元主義的な知性(理性)には認識できないので、パスカルのように信じるか信じないかの「賭け」を提案する人も出てくるわけです。パスカル自身は神を信じる方に賭けると言ったのですが、今の物質主義全盛時代の科学者たちの大部分は違うので、「疑わしきは存在せず」ということで、神は存在しないという結論が出されてしまった(不明なことについては判断を保留するのが真に「科学的」な態度と言えるので、こうした決めつけは甚だ「非科学的」なものなのですが)。
また、今の人間社会を見ているかぎり、神が存在しているとはとうてい思えない。それでなくとも不完全で欠陥の多い制度やルールはしばしば悪用され、権力をもつ人間がそれを使って弱い立場の善良な人たちを搾取または虐げるとか、卑劣な人間がまともな人を陥れるとかいったことは日常茶飯で、政治やビジネスの世界と来た日には、これでもかというほど醜悪な事例で充満しているのです。神などというものは、ここには全く関与していないとしか思えない。悪人が栄え、善人が滅びるのは人間世界のつねと言ってよいので、神はこの人間社会の建設と運営には参加していないのです。尤もらしい綺麗事を並べ立てる人間はたくさんいるとしても、大方の場合、それは自分の醜悪な実態を覆い隠すためで、その言行不一致は甚だしく、そういう虚偽が大手を振ってまかり通るということ自体、この世界が神とは無縁であることを証拠立てています。
僕自身は「神は存在する」派なのですが、そういうことは認めざるを得ない。前にも書きましたが、僕は遠からずこの文明は崩壊するだろうと思っていて、それに伴う大混乱で人類は絶滅の瀬戸際に追い込まれるかもしれません。そうなったとしても、神は存在するのか? それは存在するので、人間の自業自得でそうなったのを、神のせいにすることはできないだろうと僕は思っています。
心理学者のユングがかつて、「あなたは神を信じますか?」と問われて、I know と答えたという話は割と有名です。それで質問者は驚いたというのですが、この話のポイントはもちろん、相手が神を信じるか否かと訊いたのに対して、彼が「自分は神が存在することを知っている(だから今さら信じる必要はない)」と答えたところにあります。彼は見えざる心の探究者であり、その著作を読めばわかるように、学者である以前に一種の mystic(神秘主義者)だったので、その神がどんなものであったのかは知りませんが、何か自得するところがあって、確信めいたものをもっていたのでしょう。
僕も神の問題というのは、信じるか信じないかの問題というより、知るか知らないかの問題ではないかと思います。僕も僕なりに「神を知る」体験はしたことがあるので、だからこの世界がどんなに絶望的なものになっても、自分が悲惨な状況で死ぬことになっても、その確信が揺らぐとは思えないのです。
僕の知る神はむろん、人格神の類ではありません。それは擬人化を拒絶した一つのエネルギー体のようなもので、完全無比な知性を備え、宇宙の森羅万象に浸透し、生命を育む力です。それはそれ自体、この物質宇宙を超越した存在で、それゆえ永遠不滅です。
残念なのは、それで僕が日々感謝の思いでいっぱいになり、生きとし生けるものに惜しみない愛情を注ぐ、というようなことにはなっていないことです。むしろこの世界にウンザリしていることの方が多いので、それは心がけが悪くて、自分が神とは無縁のこの人間世界に一部になり果てているからです。宗教世界のひどい腐敗堕落もよく知っている。権力あるところには悪魔が住まうのがつねで、宗教家を仰ぎ見るにはあまりにもその裏側を知りすぎている。歴史的に言っても、宗教団体というのはこの世界に対して善よりも悪の方を多く行ってきたのです。一例を挙げると、キリスト教カトリックはかつて十字軍なるものを組織して、組織的かつ非道な大虐殺を何度も行ってきました。あのイエスの愛の教えからどうしてそういうものが導かれるのか、さっぱりわからないのですが、ローマ法王は世界最大のマフィアのボスみたいなものだったのです。そういう過去の歴史をいくらかでも知っている人間には、現ローマ法王が愛だの平和だのについて鹿爪らしいことをいくら語っても、素直にそれに耳を傾けることは難しくなる。実録映画『スポット・ライト』に描かれたような、おぞましい教会神父による子供たちへの性的虐待やその組織的な隠蔽なども、いまだに続いているのです。そんなところに神がいるはずはない。
葬式仏教も同じで、ソロバン勘定第一の生臭坊主のお経の功徳が死者の霊に及ぶとはとうてい思えない。だからそんな形式にすぎないものはなしで済まそうという動きが起きてくるのは必然で、坊さんが尊敬されなくなったのは、一般の人々の不信心の拡大のせいという以前に、彼らの行いが悪すぎ、人品骨柄の卑しい坊主が多すぎたことの結果なのです。前に僕は父の法事で、菩提寺の坊さんが「わが臨済宗は浄土宗などの他力と違って自力だから高級なのだ」と自慢するのを聞いて、この坊さんは自力というものを根本から誤解しているなと呆れた(捉え方の違いだけで、自力も他力も本質的には同じなのです)のですが、仏道修行などというものは何ら行われていないことがよくわかるので、彼は福祉サービスの会社を作ったり、ビジネスには熱心でなかなかに有能であるようでしたが、宗教者としての中身はゼロに等しいのです。日本の仏教が衰退するのも道理だと、あらためて思ったものです(「あの世の沙汰もカネ次第」を地で行く、お布施の金額で戒名のランクが変わるシステムもお笑いですが)。
僕は前に「エイリアン本」を訳しているという話をしました。十日ほど前、編集者との細かいやりとりも全部終わって、やっとのこと僕の手を離れたので、後ひと月ぐらいで出版の運びになるかなと思うのですが、このハーバード大医学部教授(その後交通事故で死去)の本の特徴の一つは、エイリアンとの遭遇や彼らとのやりとりを通じて、体験者たちの大部分が「神を知る」体験に導かれていることを詳述している点です。それはむろん、彼らがエイリアンを神だと思い込んだというような単純な話ではありません。エイリアンとの遭遇をきっかけに、彼らは通常の自己観念や世界観を粉砕され(「木っ端みじんにされる」といった言い方がよく出てくる)、通常の時間や空間の観念も疑わしいものになって、こうしたことはそれ自体が恐ろしい体験なのですが、別の次元へと導かれて、そこに新たな神と世界の見取り図を発見するにいたるのです。
これは「元々そこにあったもの」で、彼らが妄想したものでも発明したものでもありません。今のこの文明世界による十重二十重(とえはたえ)の条件づけが脱落したとき、それが姿を現すのです。その意味で、これは昔の宗教家や神秘主義者たちが発見したものと、非常によく似ている。古代の叡知がエイリアンたちの媒介によって再発見されるというところが面白いので、だからこそ僕はこれを翻訳紹介しておきたいと思ったのですが、元は「ふつう」だった人たちが、それによって大変身を遂げるのです。「すべての道はローマに通ず」とはよく言ったものです。
常識からするとんでもない話が続出するので、この種の本は心のオープンな人でないと受け入れがたいだろうと思いますが、大学付属の病院に精神科を創設し、臨床現場を大事にする優れた精神科医でもあった著者は辛抱強くそれに付き合って、理論的な考察も加え、十年かけた研究の成果をこの本にまとめたのです(訳書では無用と見た箇所や反復は少し削りましたが、それでも本文554頁、全体で630頁の分量になってしまった)。これはたんなるエイリアン本ではなく、いずれ「スピリチュアリズムの古典」の一つになるだろうと僕は思っていますが、だからただ変わった話を紹介しただけの本ではないのです。
彼らの多くはそれによって「神を知る」体験をしたと書きましたが、昔の神秘家たちの体験同様、ここでも明確に示されているのは、通常の自我意識が崩壊させられないと、神は認識されないということです。つまり「私が実在する」と思っている間は、神は姿を現さないのです。僕は前に特異なキリスト教観想者、バーナデット・ロバーツさんの本を一冊訳したことがあるのですが、彼女はこのあたりの事情を端的にこう述べています。
「人間はそもそも神によって創られたものであるゆえ、その中心は神の中にあるのですが、私たちは往々にしてこのことを忘れています。それは人間の要であり、それなくしては人間は存在できないでしょう。しかし人間は、この中心を自己に置き換えてしまいました。これは実質的に、自分を神にしようとすることです。それによって、本来的な中心だった神が見えなくなっています。しかし、暗夜での(体験)のように、恩寵によってこの自己が取り払われたとき、人はもう一度、自分の真の中心は神だということを知ります」(『神はいずこに』日本教文社 2008 p.44-45)
エイリアンとの遭遇体験は、自分のコントロールが全く及ばず、人間よりはるかに高度なテクノロジーをもつ生物に宇宙船に連れ去られたりする様々な体験を含むのですが、それによって「万物の霊長」的なプライドをズタズタにされるだけでなく、その異次元との往還体験を通じて、それまで信じていた「自己」というものが実は甚だ頼りない、非本質的なものであったことに気づかされます。これはそれまで自明視していた地面が崩壊して、奈落に落ち込むような途方もない恐怖を伴うもので、上記の本に出てくる「魂の暗夜(元々は「十字架の聖ヨハネ」と呼ばれる聖人の言葉)」に匹敵するものなのですが、それによって「偽りの自己」への執着を手放したとき、彼らが根源とか、聖なるもの、一者、故郷、存在の根底、神などと呼ぶものが初めて姿を現し、これこそが本当にリアルなものだと自覚するのです。そしてエイリアンたちは、それを自分に教えるメッセンジャーであったと受け止められるようになる。
むろん、人によってその解釈には違いもあるのですが、最大公約数的に言うと、そういうことが起こるので、通常の自分も、世界も、目の前で崩壊してしまうのです。著者は禅の「大死」という言葉も援用していますが、禅の公案の場合だと、頭でいくら考えても理解できないような難題を吹っかけられます。これはそれを理解し、解決しようとする「自分」それ自体を行き詰まらせ、崩壊させるのが目的(そのとき初めて全く違った世界が視界に現われる)なのですが、エイリアンは現代西洋版公案のような役目を果たすのです。エイリアンとのやりとりにしてからが、禅問答みたいなところがあって、直接的なわかりやすい答え方は決してしてくれないのですが、彼らはトリックスターでもあれば、禅匠でもあるのです。
そのあたりはその訳本が出たら直接お読みいただくとして、「私は存在するが、神は存在しない」という感性は、だからごく自然なものだということです。私が木っ端みじんにされるか、それをすっかり忘れ去っているとき、突然の「神の顕現」が生じる。そうなったとき初めて、「神は存在するが、私は存在しない」ということがわかるようになるので、「私は存在する」と思っていて、それが実質上その人の「神」になっているかぎり、真の神は認識できないのです。こういうのはどこかあの「だまし絵」に似ているかもしれません。視点のシフトによって、見えてくるものが変わるのです。
こう言うと、「何を未熟なことを言っているか。私もなければ神もない。あるのは無だけじゃ」と悟ったと称する禅宗のお坊さんには叱られるかもしれませんが、そういうのは言葉の表面にとらわれて、本質が見えていない(従って、悟ったどころではない)人の言うことにすぎないので、この訳書でも、巻末註にその議論が出てきて(p.599)、「実際、現代の物理学者と天文学者は、『無』がある意味では万物の根源だということを証明する発見を報告し始めている」として、その興味深い学説を要約しているのですが、洞察体験を経た、たんなる理屈だけの神学者でないキリスト教の宗教家たちは、それを「神」と呼んでいたのです。聖書の字面に拘泥して神を擬人化するアメリカあたりの幼稚なキリスト教原理主義者たちとはそのあたり理解の次元が違うので、気をつけて物は言わないと自分が恥をかくだけに終わるでしょう。
先の『神はいずこに』(ちなみに原題は、The Path to No Self で、直訳すれば『無自己への道』です)からの引用にもあったように、現代の文明人は「この中心を自己に置き換えてしまい、「実質的に、自分を神に」してしまったので、かつてはあった自分が自然の一部だという正常な感覚も失われ、それはたんなる搾取の対象と化して、際限もない破壊をひき起こし、人間世界内部でも、これほどひどいエゴイズムと混乱、対立、差別を蔓延させる原因となったのは、少し反省してみれば誰にでもわかることでしょう。17世紀の思想家ホッブズは「人は人にとっての狼である」と述べ、「自然状態においては、万人の万人に対する闘争は避けられない」と主張したのですが、この「自然状態」というのは、「私は存在するが、神は存在しない」という意識の地平で捉えられた「自然状態」で、空虚な観念としての「神」しかもちえなくなった人間の「ありのまま」の姿を指すものです。
それで彼は「社会契約説」なるものを唱え、主権を国家に委ねて国民を服従させるべしと説いたのですが、こういうのはどう転んでも成功しないので、その後民主主権、法治国家と進んでも、昔よりはいくらかマシになったというだけで、問題の根本的解決にはつながらなかったのです。元がジコチューの集まりになりかけたところに、節度のない商業主義が「あんたが大将」と顧客をおだてて、それを商売に利用しようとばかりしてきたのだから、世間一般にも「私は神」感覚は募るばかりで、僕は子供と話をするのは好きでも、大人を相手にするときはウンザリさせられることが多いのですが、それはつまらないヨイショ合戦をすることが必要不可欠なマナーみたいにされてしまっているからです。ホンネで話ができない。お互いのエゴを持ち上げ合うことが「人を尊重」することだと勘違いしているのです。つまらない見栄やプライドなど犬も食わないと思いますが、酒でも飲まないとそういう余分な虚飾や防衛が外れないとは、何と不便なことでしょう。コミュニケーションというのは相手をおだてることとは違うのです。それはかえって心の通じ合いの妨げになる。
しばらく前に、僕は近くのスーパーでこういう経験をしました。夜の七時ぐらいだったのですが、まず入り口近くで好物の袋詰めみかんを買って、さらに進むと、ある一角に弁当が並んでいて、「半額」の札が貼ってある。ふつうのから揚げ弁当と、その隣によく似た山賊揚げ弁当というのがあって、から揚げが三つ、山賊揚げの方は四つぐらいあったのですが、買ってみようかと思ったものの、違いがわからない。から揚げなら無難だろうと、それを手に取ったら、横から「あっちの(山賊揚げの)方がいいですよ」という声が聞えた。顔を上げると、傍らに五十代と思しき女性(今だから当然マスク姿)が立っていて、もちろん知らない人ですが、僕に教えてくれているようだったので、「味が違うんですか?」ときくと、「違います。あれはレンジでチンすると、外はカリカリ、中はジューシーで、とってもおいしいんです」とお答えになる。「でも、それなら何でこんなに売れ残ってるんですかね?」とさらに訊ねると、「みんな、知らないんですよ」といわくありげな顔でおっしゃる。「だまされたと思って買ってみてください」というので、「じゃあ、そうします」とそれに替えたのですが、店員でないのは明らかだし、一体あの人はどういう人なんだろうと、後で考えると可笑しくてならなかったのですが、そのやりとりは僕には愉快なものだったので、ちゃんと人間的なコミュニケーションが成立していたのです。それがまずくても、僕は腹は立てなかっただろうと思いますが、その人の言ったとおり、それはほんとにおいしかったので、たいへん親切なアドバイスをしてくれたことになります。その場でそういうやりとりをした後、その人は風のように消え去ったので、その後顔を合わすこともなかったのですが、それは愉快な記憶として残ったのです。
昔、こういうこともありました。息子が小学校高学年ぐらいのときだったと思いますが、二人でとんかつ屋に行って、食事を済ませ、レジで支払いをしていたとき、相手の店員の女性が、僕の傍らに立っている息子の顔を見て、「あっ、ボクのおかわり忘れてた!」と叫んだのです。そこはご飯のおかわりが自由で、大食いの彼はいつも三回ぐらいおかわりしていた(親としてはいくらかバツが悪かった)のですが、一度そのままになってしまって、別の店員に頼み直したことがあったのですが、その忘れた人がその店員さんだったわけです。彼女は息子の顔を見た瞬間、そのことを思い出した。「いや、あのあと頼み直したから大丈夫です」と笑ったのですが、その正直な反応が印象的で、父子はそれに好感をもったのです。そのときも人間的なコミュニケーションが成立しているというたしかな感覚があった。マニュアル化されたロボットみたいな対応ばかりだと人間を相手にしているという感じがしないので、僕にはそれは不愉快なのですが、こういう人に会うとほっとするのです。
こういう脱線話がその前の議論と何の関係があるのかと不可解に思われる人がいるでしょうが、関係はあるのです。というのも、こういうやりとりにはおかしな自意識は全く絡んでいないからです。「私」と「私」が向き合って、互いのそれを意識し合って会話しているのではない。そんな面倒なものは抜きにやりとりが行われ、だから自然な心の通じ合いというものが成立するのです。こちらにそんな気は少しもなくとも、ただちに相手の「私」が顔を出して、その後も言葉の表面的なやりとりは続いても、コミュニケーションはすでに終わってしまっているということは少なくありませんが、そういうやりとりは人を消耗させるだけなのです。「私」は吸血鬼に似ている。従って、つねに意識が「私」を離れられないような人は、そのことによって自分も相手も疲れさせるだけなのです。商談は成立するかもしれないが、それはコミュニケーションではない。
人を尊重するのとその人の「私」を尊重する(持ち上げる)のとは全く違ったことなのですが、「私は存在するが、神は存在しない」時代の人間にはそのことがわからない。人の本質とは他でもない、その「私」だと思い込んでいるからです。それがたんなる吸血鬼にすぎないことを理解していない。
思うに、高度な洞察や自覚はなくても、人が「私」を離れ去って、人や動物や自然と交流するとき、真の交流はそれでなければ不可能ですが、人は神的な息吹に触れていて、愛や自由といったものの体験が可能になるのです。「私」という吸血鬼はそれを殺してしまう。知恵や洞察力といったものも、意識がその吸血鬼にはりついているかぎり、決してその人の元にはやってこない。だから、「私は存在する、存在するのはこの私だけだ」的メンタリティの持主は、その人のIQとは無関係に、つねに利己的で愚かになるのです(それが行くところまで行ったのがあの「自己愛性パーソナリティ障害」という病気です)。
今の文明社会の致命的な欠陥は、この「私=吸血鬼人格」を人間存在の中核と見なして、それに基づいてすべてが運営されていることです。そしてそれによって不可避的に生じる度の過ぎたエゴイズムを、法や世間道徳によって規制しようとする。そんなことがうまくいくはずがない。合法的な悪と偽善がはびこるだけで、根本の利己性は少しも変わらないからです。そもそもそれは虚偽の人間理解です。虚偽を土台とすれば、すべては虚偽になるしかない。ホッブズの言葉をもじれば、そういう社会では人は万人に対する吸血鬼になるほかなくなるのです。それで愛の欠乏に悩んだ挙句、利己的な自己愛とナルシシズムをさらに強化するだけに終わるというのでは、この人間世界は地獄になるしかなくなるのです。
今の人間世界は、すでにそうなっているのではありませんか? それなら、そういうものが滅びるのは必然です。それこそ「神の摂理」と言うべきで、つまらない「私」を神の地位にのぼらせて、真の神が認識できなくなったことの、それは自然な結末なのです。神が存在しないがゆえにそうなるのではない。根本的な人間性、自己のありようを誤解して、巨大な妄想体系をつくり上げてしまったことが原因なのです。
しかし、「神は存在するが、私は存在しない」ということを人はどうすれば理解するようになるのでしょう? 今の時代だと、エイリアンに誘拐されるショッキングな体験でもしないと、そんなことは起きないのでしょうか? 現代人は寝ても覚めてもその「私」と一緒で、僕はこれまであの手この手で、自明視されているそうした「私」が実は虚偽でしかないということを説いたり示唆したりする本の翻訳紹介に努めてきたのですが、成果が上がったようには全く思えないので、徒労感は募るのみです。
これは一つには、大事な「私」が否定されれば途方に暮れてしまうと思うからでしょう。実際のところは、そのときは途方に暮れる主体は存在しないので、何も困らないのですが、それがどういう事態なのか想像できないのです。むろん、社会に暮らす個体の認識票のようなものとしての私、一個の生命体として機能するための主体としての自己はその場合も残るので、そうでなければ困る(私は存在しないのだから、自分のやったことには何の責任もないという屁理屈になりかねない)のですが、その場合、意識がそれに日常的に自己同一化することはなくなるので、余分な自意識なしに考え、感じ、行動することが可能になって、それはずっと快適なあり方なのですが、それがどういうものなのか、わからないのです(「私は考える、ゆえに私は存在する」とデカルト先生は言いましたが、それは後付けの理屈なので、「考える」ことは「私」以前に成立しているのです。有名な川端康成の『雪国』の冒頭は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ですが、そう認識する主体は意識にはなく、しかし、それは明晰この上ない記述なのです)。
ふつうの人に一番わかりやすいのは、さっき挙げた二つの幾分こっけいなエピソードのような例かもしれません。そこには自意識は何ら関与していないと言いましたが、そういう何でもないやりとりの場合、人は「私」抜きでコミュニケーションを取り合っているのです。そしてそれは珍しくとも何ともないことなので、「私」のない意識を人々は実際に体験していて、そのとき存在するのは一つのフィールド(場)なのです。その中で心の交流が行われて、それが人を賦活する働きをもつのはなぜなのかと問うなら、人は神の認識に一歩近づくことになるかもしれません。それは「私」が意識に不在であるとき、何か暖かなものが心に流れ込んでくるということを示すものだからです。その源泉となっているものは何なのか? それはエゴとエゴが激しく「共感」し合っているときの騒々しいものとは全く違うので、もっと穏やかで落ち着いた、しかし心の栄養が補給されているような感じのものなのです。「私」がいないとき、そこに顔を出すものがあって、「私」がそれをつかまえようとしても、それは無理な話なのですが、意識が「私」に焦点化するのをやめて、何かの拍子に向こう側に完全にシフトしたときに、瞭然として見えてくるものがある。それはユングの言う「集合的無意識」の類ではないので、もっとはるかに大きくてクリアなものです。
「私」が一個の虚構、幻想にすぎないことを哲学的に論証することはできますが、僕がこの頃思うのは、いくらそんなものを示してみても、それは観念でしかなく、大方の場合無用な誤解を招くだけに終わるということです。体験を前提としないと、理解は成立しない。そしてその体験は、今言った日常的な体験と地続きのところにあるが、それを反省的に捉えようとするとき、それは自意識的なものになってしまう、つまり、「私」がそれを認識しようとする構えにどうしてもなってしまうので、うまく行かないのです。
ロバーツさんは「恩寵」という言葉を使っていますが、僕もこれはそう呼ぶしかないものだと思います。それを捉え、理解しようとして完全に行き詰まった「私」を神が憐れんで、意識をそこから引き離し、神が自らを顕示するというようなかたちで、それは起きるだけなのです。たまさかそういうことが起こっても、往々にして人間はその意味するところを誤解してしまう(だから生悟りで愚かな増上慢に陥る人はいくらでもいる)のですが、その体験そのものは失われないので、自らその解釈の誤りを修正する機会は与えられる。いずれにせよ、その「体験」は万人に開かれていて、神はそれを辛抱強く待ち続けていると言えるかもしれません。神の愛はいつも僕らを取り囲んでいるが、無意識に深く根付いた「偽りの神(「私」)」の信奉ゆえに、僕らはそれに気づかないだけかもしれないのです。
ことに日本人の場合、キリスト教やイスラム教のような一神教の文化圏には入らないので、八百万神(やおよろずのかみ)信仰のメンタリティはまだ幾分か残っているとはいえ、唯一にして絶対の創造主という考え方自体、クリスチャンやムスリムになっている人たちは別として、初めからないのだと言う人もいます。
しかし、そういう神観念が初めからないとは言えない。たとえば、言うことを聞かなくなってきた生意気盛りの男の子に、「誰も見てなくたって、神様はちゃんとあんたのやることを全部見てるんだからね!」と母親が脅すと、不思議に効き目があるなんて話は割とよく耳にするからです。その場合、その子の頭の中にあるのは、八百万神のどれかではなく、何か一神教的な性質の神様でしょう(閻魔大王のようなイメージかもしれませんが)。人間の頭の中には元々そういう観念が内蔵されていると考えてもよさそうです。
しかし、洋の東西を問わず、現代式の教育を受けると、何てあれそういう神観念は未開で幼稚なものであるとみなされるようになって、「ふふん、神だって?」という態度を取ることが知的であることの証しみたいになってしまうのです。神の存在は証明できません。神はその性質上、かたちをもたず無限定な存在だと考えられるからで、それは証明の対象にはなりえないものだからです。かつて大昔に絶滅したと言われていたシーラカンスが捕獲されたときみたいに、それをつかまえて「これが神だ!」とは言えないのです。またそれは通常の二元主義的な知性(理性)には認識できないので、パスカルのように信じるか信じないかの「賭け」を提案する人も出てくるわけです。パスカル自身は神を信じる方に賭けると言ったのですが、今の物質主義全盛時代の科学者たちの大部分は違うので、「疑わしきは存在せず」ということで、神は存在しないという結論が出されてしまった(不明なことについては判断を保留するのが真に「科学的」な態度と言えるので、こうした決めつけは甚だ「非科学的」なものなのですが)。
また、今の人間社会を見ているかぎり、神が存在しているとはとうてい思えない。それでなくとも不完全で欠陥の多い制度やルールはしばしば悪用され、権力をもつ人間がそれを使って弱い立場の善良な人たちを搾取または虐げるとか、卑劣な人間がまともな人を陥れるとかいったことは日常茶飯で、政治やビジネスの世界と来た日には、これでもかというほど醜悪な事例で充満しているのです。神などというものは、ここには全く関与していないとしか思えない。悪人が栄え、善人が滅びるのは人間世界のつねと言ってよいので、神はこの人間社会の建設と運営には参加していないのです。尤もらしい綺麗事を並べ立てる人間はたくさんいるとしても、大方の場合、それは自分の醜悪な実態を覆い隠すためで、その言行不一致は甚だしく、そういう虚偽が大手を振ってまかり通るということ自体、この世界が神とは無縁であることを証拠立てています。
僕自身は「神は存在する」派なのですが、そういうことは認めざるを得ない。前にも書きましたが、僕は遠からずこの文明は崩壊するだろうと思っていて、それに伴う大混乱で人類は絶滅の瀬戸際に追い込まれるかもしれません。そうなったとしても、神は存在するのか? それは存在するので、人間の自業自得でそうなったのを、神のせいにすることはできないだろうと僕は思っています。
心理学者のユングがかつて、「あなたは神を信じますか?」と問われて、I know と答えたという話は割と有名です。それで質問者は驚いたというのですが、この話のポイントはもちろん、相手が神を信じるか否かと訊いたのに対して、彼が「自分は神が存在することを知っている(だから今さら信じる必要はない)」と答えたところにあります。彼は見えざる心の探究者であり、その著作を読めばわかるように、学者である以前に一種の mystic(神秘主義者)だったので、その神がどんなものであったのかは知りませんが、何か自得するところがあって、確信めいたものをもっていたのでしょう。
僕も神の問題というのは、信じるか信じないかの問題というより、知るか知らないかの問題ではないかと思います。僕も僕なりに「神を知る」体験はしたことがあるので、だからこの世界がどんなに絶望的なものになっても、自分が悲惨な状況で死ぬことになっても、その確信が揺らぐとは思えないのです。
僕の知る神はむろん、人格神の類ではありません。それは擬人化を拒絶した一つのエネルギー体のようなもので、完全無比な知性を備え、宇宙の森羅万象に浸透し、生命を育む力です。それはそれ自体、この物質宇宙を超越した存在で、それゆえ永遠不滅です。
残念なのは、それで僕が日々感謝の思いでいっぱいになり、生きとし生けるものに惜しみない愛情を注ぐ、というようなことにはなっていないことです。むしろこの世界にウンザリしていることの方が多いので、それは心がけが悪くて、自分が神とは無縁のこの人間世界に一部になり果てているからです。宗教世界のひどい腐敗堕落もよく知っている。権力あるところには悪魔が住まうのがつねで、宗教家を仰ぎ見るにはあまりにもその裏側を知りすぎている。歴史的に言っても、宗教団体というのはこの世界に対して善よりも悪の方を多く行ってきたのです。一例を挙げると、キリスト教カトリックはかつて十字軍なるものを組織して、組織的かつ非道な大虐殺を何度も行ってきました。あのイエスの愛の教えからどうしてそういうものが導かれるのか、さっぱりわからないのですが、ローマ法王は世界最大のマフィアのボスみたいなものだったのです。そういう過去の歴史をいくらかでも知っている人間には、現ローマ法王が愛だの平和だのについて鹿爪らしいことをいくら語っても、素直にそれに耳を傾けることは難しくなる。実録映画『スポット・ライト』に描かれたような、おぞましい教会神父による子供たちへの性的虐待やその組織的な隠蔽なども、いまだに続いているのです。そんなところに神がいるはずはない。
葬式仏教も同じで、ソロバン勘定第一の生臭坊主のお経の功徳が死者の霊に及ぶとはとうてい思えない。だからそんな形式にすぎないものはなしで済まそうという動きが起きてくるのは必然で、坊さんが尊敬されなくなったのは、一般の人々の不信心の拡大のせいという以前に、彼らの行いが悪すぎ、人品骨柄の卑しい坊主が多すぎたことの結果なのです。前に僕は父の法事で、菩提寺の坊さんが「わが臨済宗は浄土宗などの他力と違って自力だから高級なのだ」と自慢するのを聞いて、この坊さんは自力というものを根本から誤解しているなと呆れた(捉え方の違いだけで、自力も他力も本質的には同じなのです)のですが、仏道修行などというものは何ら行われていないことがよくわかるので、彼は福祉サービスの会社を作ったり、ビジネスには熱心でなかなかに有能であるようでしたが、宗教者としての中身はゼロに等しいのです。日本の仏教が衰退するのも道理だと、あらためて思ったものです(「あの世の沙汰もカネ次第」を地で行く、お布施の金額で戒名のランクが変わるシステムもお笑いですが)。
僕は前に「エイリアン本」を訳しているという話をしました。十日ほど前、編集者との細かいやりとりも全部終わって、やっとのこと僕の手を離れたので、後ひと月ぐらいで出版の運びになるかなと思うのですが、このハーバード大医学部教授(その後交通事故で死去)の本の特徴の一つは、エイリアンとの遭遇や彼らとのやりとりを通じて、体験者たちの大部分が「神を知る」体験に導かれていることを詳述している点です。それはむろん、彼らがエイリアンを神だと思い込んだというような単純な話ではありません。エイリアンとの遭遇をきっかけに、彼らは通常の自己観念や世界観を粉砕され(「木っ端みじんにされる」といった言い方がよく出てくる)、通常の時間や空間の観念も疑わしいものになって、こうしたことはそれ自体が恐ろしい体験なのですが、別の次元へと導かれて、そこに新たな神と世界の見取り図を発見するにいたるのです。
これは「元々そこにあったもの」で、彼らが妄想したものでも発明したものでもありません。今のこの文明世界による十重二十重(とえはたえ)の条件づけが脱落したとき、それが姿を現すのです。その意味で、これは昔の宗教家や神秘主義者たちが発見したものと、非常によく似ている。古代の叡知がエイリアンたちの媒介によって再発見されるというところが面白いので、だからこそ僕はこれを翻訳紹介しておきたいと思ったのですが、元は「ふつう」だった人たちが、それによって大変身を遂げるのです。「すべての道はローマに通ず」とはよく言ったものです。
常識からするとんでもない話が続出するので、この種の本は心のオープンな人でないと受け入れがたいだろうと思いますが、大学付属の病院に精神科を創設し、臨床現場を大事にする優れた精神科医でもあった著者は辛抱強くそれに付き合って、理論的な考察も加え、十年かけた研究の成果をこの本にまとめたのです(訳書では無用と見た箇所や反復は少し削りましたが、それでも本文554頁、全体で630頁の分量になってしまった)。これはたんなるエイリアン本ではなく、いずれ「スピリチュアリズムの古典」の一つになるだろうと僕は思っていますが、だからただ変わった話を紹介しただけの本ではないのです。
彼らの多くはそれによって「神を知る」体験をしたと書きましたが、昔の神秘家たちの体験同様、ここでも明確に示されているのは、通常の自我意識が崩壊させられないと、神は認識されないということです。つまり「私が実在する」と思っている間は、神は姿を現さないのです。僕は前に特異なキリスト教観想者、バーナデット・ロバーツさんの本を一冊訳したことがあるのですが、彼女はこのあたりの事情を端的にこう述べています。
「人間はそもそも神によって創られたものであるゆえ、その中心は神の中にあるのですが、私たちは往々にしてこのことを忘れています。それは人間の要であり、それなくしては人間は存在できないでしょう。しかし人間は、この中心を自己に置き換えてしまいました。これは実質的に、自分を神にしようとすることです。それによって、本来的な中心だった神が見えなくなっています。しかし、暗夜での(体験)のように、恩寵によってこの自己が取り払われたとき、人はもう一度、自分の真の中心は神だということを知ります」(『神はいずこに』日本教文社 2008 p.44-45)
エイリアンとの遭遇体験は、自分のコントロールが全く及ばず、人間よりはるかに高度なテクノロジーをもつ生物に宇宙船に連れ去られたりする様々な体験を含むのですが、それによって「万物の霊長」的なプライドをズタズタにされるだけでなく、その異次元との往還体験を通じて、それまで信じていた「自己」というものが実は甚だ頼りない、非本質的なものであったことに気づかされます。これはそれまで自明視していた地面が崩壊して、奈落に落ち込むような途方もない恐怖を伴うもので、上記の本に出てくる「魂の暗夜(元々は「十字架の聖ヨハネ」と呼ばれる聖人の言葉)」に匹敵するものなのですが、それによって「偽りの自己」への執着を手放したとき、彼らが根源とか、聖なるもの、一者、故郷、存在の根底、神などと呼ぶものが初めて姿を現し、これこそが本当にリアルなものだと自覚するのです。そしてエイリアンたちは、それを自分に教えるメッセンジャーであったと受け止められるようになる。
むろん、人によってその解釈には違いもあるのですが、最大公約数的に言うと、そういうことが起こるので、通常の自分も、世界も、目の前で崩壊してしまうのです。著者は禅の「大死」という言葉も援用していますが、禅の公案の場合だと、頭でいくら考えても理解できないような難題を吹っかけられます。これはそれを理解し、解決しようとする「自分」それ自体を行き詰まらせ、崩壊させるのが目的(そのとき初めて全く違った世界が視界に現われる)なのですが、エイリアンは現代西洋版公案のような役目を果たすのです。エイリアンとのやりとりにしてからが、禅問答みたいなところがあって、直接的なわかりやすい答え方は決してしてくれないのですが、彼らはトリックスターでもあれば、禅匠でもあるのです。
そのあたりはその訳本が出たら直接お読みいただくとして、「私は存在するが、神は存在しない」という感性は、だからごく自然なものだということです。私が木っ端みじんにされるか、それをすっかり忘れ去っているとき、突然の「神の顕現」が生じる。そうなったとき初めて、「神は存在するが、私は存在しない」ということがわかるようになるので、「私は存在する」と思っていて、それが実質上その人の「神」になっているかぎり、真の神は認識できないのです。こういうのはどこかあの「だまし絵」に似ているかもしれません。視点のシフトによって、見えてくるものが変わるのです。
こう言うと、「何を未熟なことを言っているか。私もなければ神もない。あるのは無だけじゃ」と悟ったと称する禅宗のお坊さんには叱られるかもしれませんが、そういうのは言葉の表面にとらわれて、本質が見えていない(従って、悟ったどころではない)人の言うことにすぎないので、この訳書でも、巻末註にその議論が出てきて(p.599)、「実際、現代の物理学者と天文学者は、『無』がある意味では万物の根源だということを証明する発見を報告し始めている」として、その興味深い学説を要約しているのですが、洞察体験を経た、たんなる理屈だけの神学者でないキリスト教の宗教家たちは、それを「神」と呼んでいたのです。聖書の字面に拘泥して神を擬人化するアメリカあたりの幼稚なキリスト教原理主義者たちとはそのあたり理解の次元が違うので、気をつけて物は言わないと自分が恥をかくだけに終わるでしょう。
先の『神はいずこに』(ちなみに原題は、The Path to No Self で、直訳すれば『無自己への道』です)からの引用にもあったように、現代の文明人は「この中心を自己に置き換えてしまい、「実質的に、自分を神に」してしまったので、かつてはあった自分が自然の一部だという正常な感覚も失われ、それはたんなる搾取の対象と化して、際限もない破壊をひき起こし、人間世界内部でも、これほどひどいエゴイズムと混乱、対立、差別を蔓延させる原因となったのは、少し反省してみれば誰にでもわかることでしょう。17世紀の思想家ホッブズは「人は人にとっての狼である」と述べ、「自然状態においては、万人の万人に対する闘争は避けられない」と主張したのですが、この「自然状態」というのは、「私は存在するが、神は存在しない」という意識の地平で捉えられた「自然状態」で、空虚な観念としての「神」しかもちえなくなった人間の「ありのまま」の姿を指すものです。
それで彼は「社会契約説」なるものを唱え、主権を国家に委ねて国民を服従させるべしと説いたのですが、こういうのはどう転んでも成功しないので、その後民主主権、法治国家と進んでも、昔よりはいくらかマシになったというだけで、問題の根本的解決にはつながらなかったのです。元がジコチューの集まりになりかけたところに、節度のない商業主義が「あんたが大将」と顧客をおだてて、それを商売に利用しようとばかりしてきたのだから、世間一般にも「私は神」感覚は募るばかりで、僕は子供と話をするのは好きでも、大人を相手にするときはウンザリさせられることが多いのですが、それはつまらないヨイショ合戦をすることが必要不可欠なマナーみたいにされてしまっているからです。ホンネで話ができない。お互いのエゴを持ち上げ合うことが「人を尊重」することだと勘違いしているのです。つまらない見栄やプライドなど犬も食わないと思いますが、酒でも飲まないとそういう余分な虚飾や防衛が外れないとは、何と不便なことでしょう。コミュニケーションというのは相手をおだてることとは違うのです。それはかえって心の通じ合いの妨げになる。
しばらく前に、僕は近くのスーパーでこういう経験をしました。夜の七時ぐらいだったのですが、まず入り口近くで好物の袋詰めみかんを買って、さらに進むと、ある一角に弁当が並んでいて、「半額」の札が貼ってある。ふつうのから揚げ弁当と、その隣によく似た山賊揚げ弁当というのがあって、から揚げが三つ、山賊揚げの方は四つぐらいあったのですが、買ってみようかと思ったものの、違いがわからない。から揚げなら無難だろうと、それを手に取ったら、横から「あっちの(山賊揚げの)方がいいですよ」という声が聞えた。顔を上げると、傍らに五十代と思しき女性(今だから当然マスク姿)が立っていて、もちろん知らない人ですが、僕に教えてくれているようだったので、「味が違うんですか?」ときくと、「違います。あれはレンジでチンすると、外はカリカリ、中はジューシーで、とってもおいしいんです」とお答えになる。「でも、それなら何でこんなに売れ残ってるんですかね?」とさらに訊ねると、「みんな、知らないんですよ」といわくありげな顔でおっしゃる。「だまされたと思って買ってみてください」というので、「じゃあ、そうします」とそれに替えたのですが、店員でないのは明らかだし、一体あの人はどういう人なんだろうと、後で考えると可笑しくてならなかったのですが、そのやりとりは僕には愉快なものだったので、ちゃんと人間的なコミュニケーションが成立していたのです。それがまずくても、僕は腹は立てなかっただろうと思いますが、その人の言ったとおり、それはほんとにおいしかったので、たいへん親切なアドバイスをしてくれたことになります。その場でそういうやりとりをした後、その人は風のように消え去ったので、その後顔を合わすこともなかったのですが、それは愉快な記憶として残ったのです。
昔、こういうこともありました。息子が小学校高学年ぐらいのときだったと思いますが、二人でとんかつ屋に行って、食事を済ませ、レジで支払いをしていたとき、相手の店員の女性が、僕の傍らに立っている息子の顔を見て、「あっ、ボクのおかわり忘れてた!」と叫んだのです。そこはご飯のおかわりが自由で、大食いの彼はいつも三回ぐらいおかわりしていた(親としてはいくらかバツが悪かった)のですが、一度そのままになってしまって、別の店員に頼み直したことがあったのですが、その忘れた人がその店員さんだったわけです。彼女は息子の顔を見た瞬間、そのことを思い出した。「いや、あのあと頼み直したから大丈夫です」と笑ったのですが、その正直な反応が印象的で、父子はそれに好感をもったのです。そのときも人間的なコミュニケーションが成立しているというたしかな感覚があった。マニュアル化されたロボットみたいな対応ばかりだと人間を相手にしているという感じがしないので、僕にはそれは不愉快なのですが、こういう人に会うとほっとするのです。
こういう脱線話がその前の議論と何の関係があるのかと不可解に思われる人がいるでしょうが、関係はあるのです。というのも、こういうやりとりにはおかしな自意識は全く絡んでいないからです。「私」と「私」が向き合って、互いのそれを意識し合って会話しているのではない。そんな面倒なものは抜きにやりとりが行われ、だから自然な心の通じ合いというものが成立するのです。こちらにそんな気は少しもなくとも、ただちに相手の「私」が顔を出して、その後も言葉の表面的なやりとりは続いても、コミュニケーションはすでに終わってしまっているということは少なくありませんが、そういうやりとりは人を消耗させるだけなのです。「私」は吸血鬼に似ている。従って、つねに意識が「私」を離れられないような人は、そのことによって自分も相手も疲れさせるだけなのです。商談は成立するかもしれないが、それはコミュニケーションではない。
人を尊重するのとその人の「私」を尊重する(持ち上げる)のとは全く違ったことなのですが、「私は存在するが、神は存在しない」時代の人間にはそのことがわからない。人の本質とは他でもない、その「私」だと思い込んでいるからです。それがたんなる吸血鬼にすぎないことを理解していない。
思うに、高度な洞察や自覚はなくても、人が「私」を離れ去って、人や動物や自然と交流するとき、真の交流はそれでなければ不可能ですが、人は神的な息吹に触れていて、愛や自由といったものの体験が可能になるのです。「私」という吸血鬼はそれを殺してしまう。知恵や洞察力といったものも、意識がその吸血鬼にはりついているかぎり、決してその人の元にはやってこない。だから、「私は存在する、存在するのはこの私だけだ」的メンタリティの持主は、その人のIQとは無関係に、つねに利己的で愚かになるのです(それが行くところまで行ったのがあの「自己愛性パーソナリティ障害」という病気です)。
今の文明社会の致命的な欠陥は、この「私=吸血鬼人格」を人間存在の中核と見なして、それに基づいてすべてが運営されていることです。そしてそれによって不可避的に生じる度の過ぎたエゴイズムを、法や世間道徳によって規制しようとする。そんなことがうまくいくはずがない。合法的な悪と偽善がはびこるだけで、根本の利己性は少しも変わらないからです。そもそもそれは虚偽の人間理解です。虚偽を土台とすれば、すべては虚偽になるしかない。ホッブズの言葉をもじれば、そういう社会では人は万人に対する吸血鬼になるほかなくなるのです。それで愛の欠乏に悩んだ挙句、利己的な自己愛とナルシシズムをさらに強化するだけに終わるというのでは、この人間世界は地獄になるしかなくなるのです。
今の人間世界は、すでにそうなっているのではありませんか? それなら、そういうものが滅びるのは必然です。それこそ「神の摂理」と言うべきで、つまらない「私」を神の地位にのぼらせて、真の神が認識できなくなったことの、それは自然な結末なのです。神が存在しないがゆえにそうなるのではない。根本的な人間性、自己のありようを誤解して、巨大な妄想体系をつくり上げてしまったことが原因なのです。
しかし、「神は存在するが、私は存在しない」ということを人はどうすれば理解するようになるのでしょう? 今の時代だと、エイリアンに誘拐されるショッキングな体験でもしないと、そんなことは起きないのでしょうか? 現代人は寝ても覚めてもその「私」と一緒で、僕はこれまであの手この手で、自明視されているそうした「私」が実は虚偽でしかないということを説いたり示唆したりする本の翻訳紹介に努めてきたのですが、成果が上がったようには全く思えないので、徒労感は募るのみです。
これは一つには、大事な「私」が否定されれば途方に暮れてしまうと思うからでしょう。実際のところは、そのときは途方に暮れる主体は存在しないので、何も困らないのですが、それがどういう事態なのか想像できないのです。むろん、社会に暮らす個体の認識票のようなものとしての私、一個の生命体として機能するための主体としての自己はその場合も残るので、そうでなければ困る(私は存在しないのだから、自分のやったことには何の責任もないという屁理屈になりかねない)のですが、その場合、意識がそれに日常的に自己同一化することはなくなるので、余分な自意識なしに考え、感じ、行動することが可能になって、それはずっと快適なあり方なのですが、それがどういうものなのか、わからないのです(「私は考える、ゆえに私は存在する」とデカルト先生は言いましたが、それは後付けの理屈なので、「考える」ことは「私」以前に成立しているのです。有名な川端康成の『雪国』の冒頭は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ですが、そう認識する主体は意識にはなく、しかし、それは明晰この上ない記述なのです)。
ふつうの人に一番わかりやすいのは、さっき挙げた二つの幾分こっけいなエピソードのような例かもしれません。そこには自意識は何ら関与していないと言いましたが、そういう何でもないやりとりの場合、人は「私」抜きでコミュニケーションを取り合っているのです。そしてそれは珍しくとも何ともないことなので、「私」のない意識を人々は実際に体験していて、そのとき存在するのは一つのフィールド(場)なのです。その中で心の交流が行われて、それが人を賦活する働きをもつのはなぜなのかと問うなら、人は神の認識に一歩近づくことになるかもしれません。それは「私」が意識に不在であるとき、何か暖かなものが心に流れ込んでくるということを示すものだからです。その源泉となっているものは何なのか? それはエゴとエゴが激しく「共感」し合っているときの騒々しいものとは全く違うので、もっと穏やかで落ち着いた、しかし心の栄養が補給されているような感じのものなのです。「私」がいないとき、そこに顔を出すものがあって、「私」がそれをつかまえようとしても、それは無理な話なのですが、意識が「私」に焦点化するのをやめて、何かの拍子に向こう側に完全にシフトしたときに、瞭然として見えてくるものがある。それはユングの言う「集合的無意識」の類ではないので、もっとはるかに大きくてクリアなものです。
「私」が一個の虚構、幻想にすぎないことを哲学的に論証することはできますが、僕がこの頃思うのは、いくらそんなものを示してみても、それは観念でしかなく、大方の場合無用な誤解を招くだけに終わるということです。体験を前提としないと、理解は成立しない。そしてその体験は、今言った日常的な体験と地続きのところにあるが、それを反省的に捉えようとするとき、それは自意識的なものになってしまう、つまり、「私」がそれを認識しようとする構えにどうしてもなってしまうので、うまく行かないのです。
ロバーツさんは「恩寵」という言葉を使っていますが、僕もこれはそう呼ぶしかないものだと思います。それを捉え、理解しようとして完全に行き詰まった「私」を神が憐れんで、意識をそこから引き離し、神が自らを顕示するというようなかたちで、それは起きるだけなのです。たまさかそういうことが起こっても、往々にして人間はその意味するところを誤解してしまう(だから生悟りで愚かな増上慢に陥る人はいくらでもいる)のですが、その体験そのものは失われないので、自らその解釈の誤りを修正する機会は与えられる。いずれにせよ、その「体験」は万人に開かれていて、神はそれを辛抱強く待ち続けていると言えるかもしれません。神の愛はいつも僕らを取り囲んでいるが、無意識に深く根付いた「偽りの神(「私」)」の信奉ゆえに、僕らはそれに気づかないだけかもしれないのです。
祝子川通信 Hourigawa Tsushin
これについては一度書こうと思っていたのですが、あのおかしなトランプ騒動(その後も彼は執拗かつ自分勝手なI won!主張を続けているようで、呆れ果てますが)の相手をしているうちに遅れました。
最初のユタ州の「モノリス」の画像を見たとき、ステンレス製のあれはモロ「地球起源」だろうなと思って、それが可笑しかったのですが、ミステリー・サークルにニセモノが次々出現したのと同じで、その後各地に同種のものが出現するという事件が起きました。違いは、ミステリー・サークル(ちなみにあれは和製英語で、元々は crop circles とか crop formations などです)の場合は、説明困難なホンモノが先にあって、ニセモノが後で続々出現したが、今回のあれは、初めからニセモノしかなかったことです。
次はニューズウイーク誌によるそのモノリスの「まとめ」です。
・世界各地に出現したモノリスを全部知ってますか?
「モノリス」というのは、言わずと知れたアーサー・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に出てくる謎の構造物で、それがサルたちに作用して突然変異を促し、人類の誕生を見た、ということが示唆されているあれです。
ついでに言うと、ビデオもDVDもなかった昔は、あの映画は「幻の名作」とされていて、上映している映画館もなく、僕が初めて見たのは、大学の学園祭の理工学部の会場ででした。そこの学生たちがどうやってかフィルムを入手し、学園祭で上演すると知って、仲間とそれを見に行ったのですが、実に感銘深かった。同じキューブリック監督のブラック・コメディ『博士の異常な愛情』は高田馬場の旧作映画の上映館に何度もかかっていて、出るたびに僕はそれを見に行って笑っていたのですが、この映画はそれまで見る機会がなかった(『時計じかけのオレンジ』は浪人のとき、銀座の外れにある映画館で見ていた。アナーキーな内面を抱えた十代末の不良少年には浸透力の強い作品でした)。
今はDVDがかんたんに入手できる時代で、その分有難味が減ったのですが、『アラビアのロレンス』なんかも、当時は幻の映画とされていて、なかなか見られなかったのです。だから見に行くときはワクワクしながら、構えて見に行ったので、それだけでも受けるインパクトが違う。製作者側も、昔は作る張り合いがあったのではないかという気がします。
話を戻して、だからあのモノリス騒動は初めからニセモノ感が歴然としていて、その方面に詳しい人ほど白けたのではないかと思われるのですが、ああいうので宇宙人やUFOが全部嘘だと思うようではいけません。この手の話にはガセネタが多すぎるので、信憑性の高い話まで全部頭ごなしニセモノ扱いされて、嘲笑の対象にされるのは憂慮すべきことです。同じニューズウイークの過去記事(2020.6.16)には次のようなものもあります。
・銀河系には36のエイリアン文明が存在する?
これは何らかの具体的証拠に基づくものではなく、あくまで科学的推論によって導き出されたものにすぎませんが、この広大な宇宙に知的生物はヒトしかいないと思い込むことの方が迷信的なので、エイリアンがいない方がむしろ不思議なのです。そして、次のことが何より重要な指摘です。
銀河に存在する知的文明とコミュニケーションを取ることはできなくても、彼らの存在から学べることはあると研究チームは言う。ほかの生命体がどれだけ生き残ったかを知ることで、私たち人類の今後についてのヒントが得られる可能性があるのだ。
研究チームは、種の絶滅を予想するのは難しいが、地球上ではかなり規則的なペースで種の絶滅が起きていると指摘する。知的生命体に関して言えば、「文明が自然消滅するよりも、自滅する可能性の方が高い」と彼らは言う。
「おそらく知的生命体の重要な特徴は、自己破壊の能力を備えていることだ」と研究チームは分析している。「遠距離通信を可能にする〔ほどの、という意味か?〕テクノロジーを開発できるなら、自己破壊する能力もあるということになる。地球上では、差し迫って考えられる2つの可能性は兵器による自己破壊と、気候変動によって地球が居住不可能になることだ」
とうとう越年してしまいそうですが、今度出すジョン・E・マックの訳本(ゲラが今日届くのですが、正確な時間がわからなので、これを書きながら待っている。ちなみに、前に400頁超と言ったのは僕の読み違いで、判型に流し込んだら600頁を超えてしまったという話です)には、類似の話がエイリアン自身が語った話として出てくるので、彼らの中にはその「生物科学スーツ」を脱いで、その戦慄すべきおぞましい姿を見せ、「これが君たち自身の未来の姿なのだ」と警告する者まで登場する。全体として言えば、彼らは人類が自滅の道を転げ落ちながら、それを全く自覚していないことを憂慮しているので、その危機感のなさを嘆いているのです。今は地球史上第6番目の生物大量絶滅の時代に入っていて、これは人類がひき起こしたものであるという意味では初めてのものですが、自分で存続の基盤を掘り崩しているのと同じなので、このままでは遠くない将来人類が自滅する可能性は非常に高い。彼らが「ハイブリット・プロジェクト」なるものを進めている(それがどの次元または領域におけるものなのかは不明だと、マックは繰り返し述べていますが)のも、人類絶滅後のことを考えてその遺伝子を保存しておく必要があると、彼らが考えているからです。そこまで事態は切迫している。
これが大袈裟な話だと言う人は、単純に科学的推論の能力と、自分の経験則から自由な想像力が欠けているだけだと、僕は思っています。今まで無事だったから今後も無事だろうと思っているだけなのです。このまま行けば、あと数十年で地球上の熱帯雨林の大半と海のサンゴ礁が絶滅すると言われていますが、それがどれほど深刻な結果をもたらすか、ある程度の科学的知識と想像力さえあれば容易に想像はつきます。自然の領域を犯しすぎたことからする新種のウイルスの出現なども続くでしょう。何度も言うようですが、日本国内だけを見ても自然破壊は深刻なレベルに達しているので、僕が子供の頃、昭和30年代にはまだあったような豊かな自然は、もはや日本には存在しないのです。その最大の失敗は、政府と農水省が推進したスギ・ヒノキの全国植林政策の失敗です。それはやめ時を知らなかったので、かつては豊かな原生林が生い茂っていた奥山まで杉の森に取って代わられてしまった(しかも、採算が取れないという理由からそのまま放置の荒れ放題)。生物多様性が失われた上に、崖崩れなどの災害も激増する。それで河川が荒れたところに、無意味な砂防ダムなどの土木工事が追い打ちをかけ、生態系はすっかり破壊されてしまったが、それは今もずっと続いているのです。それで森と河川が荒廃すれば、それは海にも及んで、沿岸漁業が大打撃を受けるので、げんにそうなっているのです。
国際的な視点でいえば、漁業の機械化・大型化で、海洋資源は激減している。汚染の度合いも深刻化して、海水温の上昇でサンゴも死ぬ(それは魚たちが大事なすみかを失うということです)。陸上では、浅薄な経済政策のために発展途上国を中心に森林伐採が進み過ぎたのに加えて、温暖化の急激な進展で、自然発火による大規模火災(あれは恐ろしいもので、すぐ手が付けられなくなる)も激増して、近年の森林消滅のスピードは驚くべきものになっています。気候変動による農産物への打撃なども年々増え、いずれ人類は生物としての存続基盤を根こそぎ失ってしまうことになるでしょう。そこに至るまでのプロセスで、経済的な行き詰まりから国家間の摩擦も増え、それが戦争につながると、後はドミノ倒しみたいなもので、核兵器が使われるようになるのも時間の問題、大混乱のうちにこの人類文明は自滅することになりかねない。政治がそれを救うとは僕は思いません。それはトランプのようなどうしようもないサイコのデマゴーグを熱烈支持するような愚かな人間がこんなにも多いことからして十分想像がつきます。人を見る能力、知的レベルの下がり方もすさまじいのです。
宇宙人でなくとも、今の人類がアホすぎるのはわかります。僕は宇宙人による地球侵略なんてSFは信じません(彼らのテクノロジーからしてそれは容易なことなので、その気があればとっくにやっている)が、人類より利口な彼らが、この浅ましい生物の行状を見かねて、警告に訪れているというのは十分ありそうなことです。人類のこの「宇宙的愚行」は何らかのかたちで宇宙全体に深刻な影響を及ぼし、彼らにはそれを阻止しなければならない理由があるのかもしれない。彼らは、しかし、正面からコミットするのは差し控えて、あくまで人類が「自主再建」する方向で注意を促しているのです。先にも見たように、なかには自分の惑星を居住不能にしてしまった経験をもつエイリアン種族もいて、同じ過ちをさせまいと思っているのかもしれない。小泉元首相の言葉ではないが、「宇宙人もいろいろ」なのかもしれないのです(そうなると悪玉もいるだろうということになるかもしれませんが)。
マックのこの本では、宇宙人は人類と違って、根源的な宇宙的知性との直接的コンタクトを保持していて、そこから働きかけているのだと言う人も出てきます(というか、そう思う人が大半)。要するに、彼らは人類よりずっと「神に近い」のです。
今は神というのは最もはやらないものの一つですが、僕は時々、ヒトの肉体の構造を頭に思い浮かべて、誰がこんな見事な生物機械をつくったのだろうと不思議に思うことがあります。これは他の生物についても同じですが、地球にある素材を使って、これほどのものをつくり上げるというのは実に驚くべきことです。単純なものからより複雑にものへと、40億年もかけて、自然はそれをつくってきたのです。あらゆる生物には魂が宿っているとすれば、魂は宿る生命体に応じて使える機能も増え、ヒトのレベルに達して初めて、明確な意識と言語がもてるようになった。認知症は脳の萎縮によってひき起こされますが、それは魂がそれによってこの世界で活動する機能を大きく毀損されたことを意味します。それほど人体というものはデリケートで、高度なものなのです。
ヒトの胎児は、母親の胎内にいる10ヶ月でその生物進化のプロセスを辿り直すと言われています。だからある時点では、僕らは魚類であり、爬虫類でもあったのです。そして生まれるときはヒトとしての機能をすべて備えたものにまで進化している。僕はわが子が猛烈な勢いでそこらを這い回っていた頃のことをよく憶えています。彼は書斎の引き戸を開けて入ってくると、膝立ちになって両手をパッと広げました。それは「だっこしろ」という合図で、こちらの都合はお構いなしですが、抱き上げないわけにはいかないのでそうして、目を合わせていると、不思議な気がしました。「こいつは何もかもわかってるな」というはっきりとした感じがあって、妙なバツの悪さを感じたからです。そこには宇宙的な知性が宿っている。いわばそこには全知があったのです。
人間の成長のプロセスというのは妙なもので、逆にそこから遠ざかってしまうのです。ことに今の文明社会の教育と条件づけには有害なものが多くて、幼児の頃はあった全知のまなざしは損なわれ、その意識は愚かしい自我意識の制限を受けた狭小なものになってしまう。オトナになるとなくもがなのガラクタ知識で頭はいっぱいになって、顔つきまで浅薄で卑しい、あるいは邪悪なものになって、幼時のあの聖なるまなざしは失われ、トランプみたいなのは極端な例としても、揃ってトラブルメーカーになり、この文明社会をさらに歪んだものにしてしまうのです。魂の乗物としての人体の高度な機能はそれによって損なわれる。40億年の進化の精華を、人類は誤用しているのです。根源的な知性とのコンタクトを失った人間に知恵の輝きなんてものが期待できるわけはない。狡猾で浅薄、近視眼的な打算あるのみで、人類は地球最大の害虫と化してしまったのです。何たる悲劇でしょう。
宇宙人がこれを見て憂慮していることはわかります。このままでは自然による壮大な進化の実験はみじめな失敗に終わってしまう。問題なのは、人が他の生物まで全部犠牲にしてしまうことで、まだ地球の寿命からして、生物に貸し与えられた時間はかなりあるから、ヒトが消え去るだけなら、もう少しマシな生物を進化のフロントランナーとして生み出して、先を続けられるが、今の人類の愚行はこれを全部台無しにしかねないのです。一億光年の彼方で開かれているETたちの惑星会議ではこれが議題になっていて、強硬派は「あのアホな生物だけ抹殺したらどうか」と言い、穏健派は「いや、チャンスを与えてやらないとかわいそうではないか」と反論して、後者が優勢だからこうなっているのかなという気はしますが、今のままではトホホの結果に終わってしまいそうで、穏健派ETたちの立場も苦しいものになってしまうでしょう。
映画のあのモノリスは地球外生命体が地上の進化に介入していたことを示唆していますが、僕も若い頃、皮肉な理由からたぶんそうなのだろうと考えていました。「皮肉な理由」というのは、人間はできそこないの生物としか思えなかったからで、自然が自然に生み出した生物にしては問題が多すぎるので、これはそれ以外の力が作用したからではないかという疑問をもったからです。宇宙人がサルを遺伝子操作の対象に選んで、そこに自分の遺伝子を挿入して、ヒトという新種の生物を作り出した。だからこんな不調和な、内部矛盾を多く抱えた生物ができてしまったので、彼らは知能が高く、高度なテクノロジーはもっていても、神ではないので、計算違いのことが生じてこうなってしまったのではないかという気がしたのです。つまり、人類の欠陥、邪悪さや愚かさは、「宇宙人のせい」というわけです。
それで彼らは、自責の念と、それを失敗に終わらせたくないという思いが混じる中、地球を頻繁に訪れて、それとなくサポートするとか、警告するなどしている。そういうことではないかと思ったのです。
仮にほんとに人間と彼らとのハイブリッド(混血児)が作れるということなら、それは遺伝子的適合性があるからで、元々今の人間には彼らの遺伝子が入っていたからだということになる。いや、彼らは未来からやってきた人類の子孫で、全然宇宙人などではないのだと、マックの本にも出てくる南アのシャーマン、クレド・ムトワは主張しています(尤も、彼は全部の宇宙人がそうだとは考えていないようでもある)が、SF小説並に、時間の謎を解明すれば、時間はたんなる幻想であり、過去にも未来にも旅はできるのだということなら、それもありえないことではない。しかし、過去にうかつに介入すれば、やはりSF並に奇怪な結果になってしまうでしょう。
僕は今は、宇宙人が進化に介入していなくても、ヒトという生物が自然の産物として生まれることはありえただろうと思っています。生物進化のプロセスでは色々な生物が生まれて、しかし先が続かず、そのまま消えてしまったものも多数あるようだからです。元々進化のプロセスはリスキーなものであり、固定的、安定的なものではない。それは試行錯誤の連続であり、自然も失敗はするのです。
どちらなのか知りませんが、いずれにせよ問題なのは、ヒトという生きものが地球全体に対して大きな力をもちすぎてしまったということです。だから失敗されては全体が迷惑する。他の生物たちも道連れにされて滅んでしまうからです。
要するに、事は自業自得では片づかない。人間がテクノロジーの発達に見合った内面的進化を遂げれば、これほどひどいことにはならなかったでしょう。事実としては、しかし、内面的進歩どころか、退歩に陥ったのです。哲学者のオルテガはかつて『大衆の反逆』の中で、文明の精華が先人たちの大変な努力の積み上げの産物であることを忘れ、それらを元々周囲にあったもののように当然視して、それに対する一片の感謝もリスペクトもなく、野蛮人のように我が物顔にふるまう「大衆」の出現を問題視しましたが、それ以前に、人間は昔の人がもっていた自然に対する畏怖や感謝の思いを忘れたのです。愚昧さは、従って、二重になっている。そこから極端な自己中心性が生まれる。この点、トランプのような箸にも棒にもかからない超ジコチューが世界最大の国家の大統領になったというのは象徴的です。僕ら今の人類は皆、多かれ少なかれトランプなのです。駄々っ子のような後先考えないその攻撃性も同様。
現代人は、生態学者であり、すぐれた文筆家でもあったレイチェル・カーソンの言う a sense of wonder を失ってしまった。自然に接して、その中で無心に遊ぶとき、鋭敏な子供の心にはそれは自然なものとして湧き上がるもので、それは自他の別を知らない魂レベルでの自然との交流の中では必ず生まれるものです。古人の場合は、長じてもそれを忘れることがなかった。それが彼らの正気を深いところで担保し、自制を生み出していたのだと言ってよいでしょう。文明人は、しかし、自然とのそうした絆を失って、自然はたんなる搾取すべきモノでしかなくなってしまった。すべての狂いの根源はそこにあるのではないかと、僕は思います。
外部の自然を尊重する心を失えば、人は自己内部の自然をそれと認識して、それを大切にすることもできなくなる。また自然を搾取の対象としてしか見られなくなることと、人間社会内部において他者を利用すべきモノとしてしか見なくなることへは、僅か半歩の距離でしかありません。蹂躙に次ぐ蹂躙で、「魂の圧殺」とでも呼ぶべき事態が生じ、その空虚感、不全感から、物欲、娯楽などの気晴らしへの欲求、外部的な富の蓄積や権力への衝動、一義的に外部的な安全を求める心性が強化され、テクノロジーはただただそういうものに奉仕するだけのものになってしまった。そして、気づいたら今のようなブレーキの利かない文明の状況になってしまっていたのです。
今はお手軽なハウ・ツーばかりが求められる時代ですが、正気を失った人間にああしなさい、こういう方法があるなどといくら言っても、何の役にも立ちはしないので、根本のそこの部分が変わらないとどうしようもない。また、新たなテクノロジーが開発されて環境への負荷が大幅に低減しても、人間の自己中心性、飽くことのない物欲や権力欲がそのままなら、別の新たな問題が生まれてしまうでしょう。その新テクノロジー自体が誤用され、それが強力なものであればあるほど、大きな破壊の原因となりかねない。
これは、道徳の問題である以前に、正しい自己認識、世界認識ができなくなっていることに原因があるのだと僕は考えています。人間は自然の子供、宇宙の子供です。禅では「父母未生(ブモミショウと読む)以前本来の面目」なんて言いますが、「おまえの両親が生まれる前の本来の自分を知れ」ということです。通常、自分が生まれる前には自分は存在しない、ましてや自分の親が生まれる前に自分が存在したはずはない、と思うでしょう。大方の人にとっては自我が自分です。悪魔にからかわれてそう思い込むようになっているだけだとは考えない。しかし、現代文明ではそれがあらゆる方面で思考の基盤になっていて、世俗化した制度宗教が空虚な神学を振りかざすだけになって信を失った今は、自我が神となったのです。キリスト教でもヒンズー、イスラム教でも、はたまた仏教の仏でも、そこで信じられている神はたんなる自我の投影物にすぎない。だからその神が自分に奉仕してくれないと見ると、たちまち信仰はぐらつくのです。そんなもの、真の神とは何の関係もない。
そういうのは自己認識の錯誤にすぎませんが、昔の人ならもっていた自然との内的なつながり、星辰を神々と見るような深い感受性が失われてしまって、それらをたんに自己外部にある物質と見るようになってしまったことから生じたものです。魂や霊といったものですら、たんなる観念の玩弄物であり、自我投影の産物でしかなくなった。自我が思考のフィクションでしかないことを理解しないかぎり、それを視座、拠点としてあらゆるものを眺めることは避けられない。それは人類が罹患した病気、最悪の病なのです。
ここが改まらないかぎり、今の人類はどうしようもない。このまま自然破壊、自己破壊を続けて、地上のあらゆる生物を巻き添えに自滅するしかなくなるでしょう。その害は宇宙にまで及ぶ。各種の宇宙ゴミを排出しているのみならず、一部の科学者と政治家たちは火星移住まで真面目に考えているからです(他に「スター・ウォーズ計画」なるアホなものまでありました)。公害を宇宙規模にまで拡大しようとしているわけで、こんな傍迷惑で頭の悪い生物は他に存在しません。宇宙人、ETたちに救いようのないアホだと思われるのは当然でしょう。それが可能なだけの十分なテクノロジーを保持しながら、彼らが人類駆除を行なわないでいるその寛大さは、真に称賛に値します。
今はコロナで世界中が右往左往させられているわけですが、人類がこの地球環境に加えてきた深刻すぎる害悪を思うなら、連続殺人犯が懲役一年の刑で済ませられている程度のものでしかないので、自然も並外れて寛大なのです。
だからいい加減にしないといけないわけで、僕が今回この本を翻訳しておきたいと思ったのは、エイリアンに誘拐されたなんて途方もない話は野次馬根性にアピールするだろうと思ったからでは全然なくて(日本人は元々この方面への関心は乏しい)、宇宙人の側が事態を非常に深刻視しているらしいこと、また、エイリアンと遭遇して戦慄させられた人たちが、上に見てきたような狭小な自己観念、世界観を粉砕されて、全く違った深い自己理解、世界理解に目覚めたことがよく伝えられているからです(それが宗教的な神秘体験がもたらすものとよく似ているのはたんなる偶然ではない)。そうした異常な体験は深刻なトラウマになりますが、それを乗り越えたとき全く違う眺望が生まれるのです。ETたちはおそらく、アブダクティたちのそうした世界理解が広まることを期待しているでしょう。問題の根本がどこにあるかということを彼らは洞察していて、たんにUFOに好奇心を募らせるという程度のことでは何も変わらないことを理解しているのです。
と書いたところで、タイミングよく荷物が届いたので、いったん外出して用を済ませたら、校正にとりかかって、訳者あとがきを書いてからでもすでに半年が経過してしまったので、できるだけ早く読者にお届けできるようにしたいと思います。「ヤバい時代になったな」と今の文明社会に危機感をもっておられる方々には、興味深く読んでいただけるだろうと思います。
最初のユタ州の「モノリス」の画像を見たとき、ステンレス製のあれはモロ「地球起源」だろうなと思って、それが可笑しかったのですが、ミステリー・サークルにニセモノが次々出現したのと同じで、その後各地に同種のものが出現するという事件が起きました。違いは、ミステリー・サークル(ちなみにあれは和製英語で、元々は crop circles とか crop formations などです)の場合は、説明困難なホンモノが先にあって、ニセモノが後で続々出現したが、今回のあれは、初めからニセモノしかなかったことです。
次はニューズウイーク誌によるそのモノリスの「まとめ」です。
・世界各地に出現したモノリスを全部知ってますか?
「モノリス」というのは、言わずと知れたアーサー・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』に出てくる謎の構造物で、それがサルたちに作用して突然変異を促し、人類の誕生を見た、ということが示唆されているあれです。
ついでに言うと、ビデオもDVDもなかった昔は、あの映画は「幻の名作」とされていて、上映している映画館もなく、僕が初めて見たのは、大学の学園祭の理工学部の会場ででした。そこの学生たちがどうやってかフィルムを入手し、学園祭で上演すると知って、仲間とそれを見に行ったのですが、実に感銘深かった。同じキューブリック監督のブラック・コメディ『博士の異常な愛情』は高田馬場の旧作映画の上映館に何度もかかっていて、出るたびに僕はそれを見に行って笑っていたのですが、この映画はそれまで見る機会がなかった(『時計じかけのオレンジ』は浪人のとき、銀座の外れにある映画館で見ていた。アナーキーな内面を抱えた十代末の不良少年には浸透力の強い作品でした)。
今はDVDがかんたんに入手できる時代で、その分有難味が減ったのですが、『アラビアのロレンス』なんかも、当時は幻の映画とされていて、なかなか見られなかったのです。だから見に行くときはワクワクしながら、構えて見に行ったので、それだけでも受けるインパクトが違う。製作者側も、昔は作る張り合いがあったのではないかという気がします。
話を戻して、だからあのモノリス騒動は初めからニセモノ感が歴然としていて、その方面に詳しい人ほど白けたのではないかと思われるのですが、ああいうので宇宙人やUFOが全部嘘だと思うようではいけません。この手の話にはガセネタが多すぎるので、信憑性の高い話まで全部頭ごなしニセモノ扱いされて、嘲笑の対象にされるのは憂慮すべきことです。同じニューズウイークの過去記事(2020.6.16)には次のようなものもあります。
・銀河系には36のエイリアン文明が存在する?
これは何らかの具体的証拠に基づくものではなく、あくまで科学的推論によって導き出されたものにすぎませんが、この広大な宇宙に知的生物はヒトしかいないと思い込むことの方が迷信的なので、エイリアンがいない方がむしろ不思議なのです。そして、次のことが何より重要な指摘です。
銀河に存在する知的文明とコミュニケーションを取ることはできなくても、彼らの存在から学べることはあると研究チームは言う。ほかの生命体がどれだけ生き残ったかを知ることで、私たち人類の今後についてのヒントが得られる可能性があるのだ。
研究チームは、種の絶滅を予想するのは難しいが、地球上ではかなり規則的なペースで種の絶滅が起きていると指摘する。知的生命体に関して言えば、「文明が自然消滅するよりも、自滅する可能性の方が高い」と彼らは言う。
「おそらく知的生命体の重要な特徴は、自己破壊の能力を備えていることだ」と研究チームは分析している。「遠距離通信を可能にする〔ほどの、という意味か?〕テクノロジーを開発できるなら、自己破壊する能力もあるということになる。地球上では、差し迫って考えられる2つの可能性は兵器による自己破壊と、気候変動によって地球が居住不可能になることだ」
とうとう越年してしまいそうですが、今度出すジョン・E・マックの訳本(ゲラが今日届くのですが、正確な時間がわからなので、これを書きながら待っている。ちなみに、前に400頁超と言ったのは僕の読み違いで、判型に流し込んだら600頁を超えてしまったという話です)には、類似の話がエイリアン自身が語った話として出てくるので、彼らの中にはその「生物科学スーツ」を脱いで、その戦慄すべきおぞましい姿を見せ、「これが君たち自身の未来の姿なのだ」と警告する者まで登場する。全体として言えば、彼らは人類が自滅の道を転げ落ちながら、それを全く自覚していないことを憂慮しているので、その危機感のなさを嘆いているのです。今は地球史上第6番目の生物大量絶滅の時代に入っていて、これは人類がひき起こしたものであるという意味では初めてのものですが、自分で存続の基盤を掘り崩しているのと同じなので、このままでは遠くない将来人類が自滅する可能性は非常に高い。彼らが「ハイブリット・プロジェクト」なるものを進めている(それがどの次元または領域におけるものなのかは不明だと、マックは繰り返し述べていますが)のも、人類絶滅後のことを考えてその遺伝子を保存しておく必要があると、彼らが考えているからです。そこまで事態は切迫している。
これが大袈裟な話だと言う人は、単純に科学的推論の能力と、自分の経験則から自由な想像力が欠けているだけだと、僕は思っています。今まで無事だったから今後も無事だろうと思っているだけなのです。このまま行けば、あと数十年で地球上の熱帯雨林の大半と海のサンゴ礁が絶滅すると言われていますが、それがどれほど深刻な結果をもたらすか、ある程度の科学的知識と想像力さえあれば容易に想像はつきます。自然の領域を犯しすぎたことからする新種のウイルスの出現なども続くでしょう。何度も言うようですが、日本国内だけを見ても自然破壊は深刻なレベルに達しているので、僕が子供の頃、昭和30年代にはまだあったような豊かな自然は、もはや日本には存在しないのです。その最大の失敗は、政府と農水省が推進したスギ・ヒノキの全国植林政策の失敗です。それはやめ時を知らなかったので、かつては豊かな原生林が生い茂っていた奥山まで杉の森に取って代わられてしまった(しかも、採算が取れないという理由からそのまま放置の荒れ放題)。生物多様性が失われた上に、崖崩れなどの災害も激増する。それで河川が荒れたところに、無意味な砂防ダムなどの土木工事が追い打ちをかけ、生態系はすっかり破壊されてしまったが、それは今もずっと続いているのです。それで森と河川が荒廃すれば、それは海にも及んで、沿岸漁業が大打撃を受けるので、げんにそうなっているのです。
国際的な視点でいえば、漁業の機械化・大型化で、海洋資源は激減している。汚染の度合いも深刻化して、海水温の上昇でサンゴも死ぬ(それは魚たちが大事なすみかを失うということです)。陸上では、浅薄な経済政策のために発展途上国を中心に森林伐採が進み過ぎたのに加えて、温暖化の急激な進展で、自然発火による大規模火災(あれは恐ろしいもので、すぐ手が付けられなくなる)も激増して、近年の森林消滅のスピードは驚くべきものになっています。気候変動による農産物への打撃なども年々増え、いずれ人類は生物としての存続基盤を根こそぎ失ってしまうことになるでしょう。そこに至るまでのプロセスで、経済的な行き詰まりから国家間の摩擦も増え、それが戦争につながると、後はドミノ倒しみたいなもので、核兵器が使われるようになるのも時間の問題、大混乱のうちにこの人類文明は自滅することになりかねない。政治がそれを救うとは僕は思いません。それはトランプのようなどうしようもないサイコのデマゴーグを熱烈支持するような愚かな人間がこんなにも多いことからして十分想像がつきます。人を見る能力、知的レベルの下がり方もすさまじいのです。
宇宙人でなくとも、今の人類がアホすぎるのはわかります。僕は宇宙人による地球侵略なんてSFは信じません(彼らのテクノロジーからしてそれは容易なことなので、その気があればとっくにやっている)が、人類より利口な彼らが、この浅ましい生物の行状を見かねて、警告に訪れているというのは十分ありそうなことです。人類のこの「宇宙的愚行」は何らかのかたちで宇宙全体に深刻な影響を及ぼし、彼らにはそれを阻止しなければならない理由があるのかもしれない。彼らは、しかし、正面からコミットするのは差し控えて、あくまで人類が「自主再建」する方向で注意を促しているのです。先にも見たように、なかには自分の惑星を居住不能にしてしまった経験をもつエイリアン種族もいて、同じ過ちをさせまいと思っているのかもしれない。小泉元首相の言葉ではないが、「宇宙人もいろいろ」なのかもしれないのです(そうなると悪玉もいるだろうということになるかもしれませんが)。
マックのこの本では、宇宙人は人類と違って、根源的な宇宙的知性との直接的コンタクトを保持していて、そこから働きかけているのだと言う人も出てきます(というか、そう思う人が大半)。要するに、彼らは人類よりずっと「神に近い」のです。
今は神というのは最もはやらないものの一つですが、僕は時々、ヒトの肉体の構造を頭に思い浮かべて、誰がこんな見事な生物機械をつくったのだろうと不思議に思うことがあります。これは他の生物についても同じですが、地球にある素材を使って、これほどのものをつくり上げるというのは実に驚くべきことです。単純なものからより複雑にものへと、40億年もかけて、自然はそれをつくってきたのです。あらゆる生物には魂が宿っているとすれば、魂は宿る生命体に応じて使える機能も増え、ヒトのレベルに達して初めて、明確な意識と言語がもてるようになった。認知症は脳の萎縮によってひき起こされますが、それは魂がそれによってこの世界で活動する機能を大きく毀損されたことを意味します。それほど人体というものはデリケートで、高度なものなのです。
ヒトの胎児は、母親の胎内にいる10ヶ月でその生物進化のプロセスを辿り直すと言われています。だからある時点では、僕らは魚類であり、爬虫類でもあったのです。そして生まれるときはヒトとしての機能をすべて備えたものにまで進化している。僕はわが子が猛烈な勢いでそこらを這い回っていた頃のことをよく憶えています。彼は書斎の引き戸を開けて入ってくると、膝立ちになって両手をパッと広げました。それは「だっこしろ」という合図で、こちらの都合はお構いなしですが、抱き上げないわけにはいかないのでそうして、目を合わせていると、不思議な気がしました。「こいつは何もかもわかってるな」というはっきりとした感じがあって、妙なバツの悪さを感じたからです。そこには宇宙的な知性が宿っている。いわばそこには全知があったのです。
人間の成長のプロセスというのは妙なもので、逆にそこから遠ざかってしまうのです。ことに今の文明社会の教育と条件づけには有害なものが多くて、幼児の頃はあった全知のまなざしは損なわれ、その意識は愚かしい自我意識の制限を受けた狭小なものになってしまう。オトナになるとなくもがなのガラクタ知識で頭はいっぱいになって、顔つきまで浅薄で卑しい、あるいは邪悪なものになって、幼時のあの聖なるまなざしは失われ、トランプみたいなのは極端な例としても、揃ってトラブルメーカーになり、この文明社会をさらに歪んだものにしてしまうのです。魂の乗物としての人体の高度な機能はそれによって損なわれる。40億年の進化の精華を、人類は誤用しているのです。根源的な知性とのコンタクトを失った人間に知恵の輝きなんてものが期待できるわけはない。狡猾で浅薄、近視眼的な打算あるのみで、人類は地球最大の害虫と化してしまったのです。何たる悲劇でしょう。
宇宙人がこれを見て憂慮していることはわかります。このままでは自然による壮大な進化の実験はみじめな失敗に終わってしまう。問題なのは、人が他の生物まで全部犠牲にしてしまうことで、まだ地球の寿命からして、生物に貸し与えられた時間はかなりあるから、ヒトが消え去るだけなら、もう少しマシな生物を進化のフロントランナーとして生み出して、先を続けられるが、今の人類の愚行はこれを全部台無しにしかねないのです。一億光年の彼方で開かれているETたちの惑星会議ではこれが議題になっていて、強硬派は「あのアホな生物だけ抹殺したらどうか」と言い、穏健派は「いや、チャンスを与えてやらないとかわいそうではないか」と反論して、後者が優勢だからこうなっているのかなという気はしますが、今のままではトホホの結果に終わってしまいそうで、穏健派ETたちの立場も苦しいものになってしまうでしょう。
映画のあのモノリスは地球外生命体が地上の進化に介入していたことを示唆していますが、僕も若い頃、皮肉な理由からたぶんそうなのだろうと考えていました。「皮肉な理由」というのは、人間はできそこないの生物としか思えなかったからで、自然が自然に生み出した生物にしては問題が多すぎるので、これはそれ以外の力が作用したからではないかという疑問をもったからです。宇宙人がサルを遺伝子操作の対象に選んで、そこに自分の遺伝子を挿入して、ヒトという新種の生物を作り出した。だからこんな不調和な、内部矛盾を多く抱えた生物ができてしまったので、彼らは知能が高く、高度なテクノロジーはもっていても、神ではないので、計算違いのことが生じてこうなってしまったのではないかという気がしたのです。つまり、人類の欠陥、邪悪さや愚かさは、「宇宙人のせい」というわけです。
それで彼らは、自責の念と、それを失敗に終わらせたくないという思いが混じる中、地球を頻繁に訪れて、それとなくサポートするとか、警告するなどしている。そういうことではないかと思ったのです。
仮にほんとに人間と彼らとのハイブリッド(混血児)が作れるということなら、それは遺伝子的適合性があるからで、元々今の人間には彼らの遺伝子が入っていたからだということになる。いや、彼らは未来からやってきた人類の子孫で、全然宇宙人などではないのだと、マックの本にも出てくる南アのシャーマン、クレド・ムトワは主張しています(尤も、彼は全部の宇宙人がそうだとは考えていないようでもある)が、SF小説並に、時間の謎を解明すれば、時間はたんなる幻想であり、過去にも未来にも旅はできるのだということなら、それもありえないことではない。しかし、過去にうかつに介入すれば、やはりSF並に奇怪な結果になってしまうでしょう。
僕は今は、宇宙人が進化に介入していなくても、ヒトという生物が自然の産物として生まれることはありえただろうと思っています。生物進化のプロセスでは色々な生物が生まれて、しかし先が続かず、そのまま消えてしまったものも多数あるようだからです。元々進化のプロセスはリスキーなものであり、固定的、安定的なものではない。それは試行錯誤の連続であり、自然も失敗はするのです。
どちらなのか知りませんが、いずれにせよ問題なのは、ヒトという生きものが地球全体に対して大きな力をもちすぎてしまったということです。だから失敗されては全体が迷惑する。他の生物たちも道連れにされて滅んでしまうからです。
要するに、事は自業自得では片づかない。人間がテクノロジーの発達に見合った内面的進化を遂げれば、これほどひどいことにはならなかったでしょう。事実としては、しかし、内面的進歩どころか、退歩に陥ったのです。哲学者のオルテガはかつて『大衆の反逆』の中で、文明の精華が先人たちの大変な努力の積み上げの産物であることを忘れ、それらを元々周囲にあったもののように当然視して、それに対する一片の感謝もリスペクトもなく、野蛮人のように我が物顔にふるまう「大衆」の出現を問題視しましたが、それ以前に、人間は昔の人がもっていた自然に対する畏怖や感謝の思いを忘れたのです。愚昧さは、従って、二重になっている。そこから極端な自己中心性が生まれる。この点、トランプのような箸にも棒にもかからない超ジコチューが世界最大の国家の大統領になったというのは象徴的です。僕ら今の人類は皆、多かれ少なかれトランプなのです。駄々っ子のような後先考えないその攻撃性も同様。
現代人は、生態学者であり、すぐれた文筆家でもあったレイチェル・カーソンの言う a sense of wonder を失ってしまった。自然に接して、その中で無心に遊ぶとき、鋭敏な子供の心にはそれは自然なものとして湧き上がるもので、それは自他の別を知らない魂レベルでの自然との交流の中では必ず生まれるものです。古人の場合は、長じてもそれを忘れることがなかった。それが彼らの正気を深いところで担保し、自制を生み出していたのだと言ってよいでしょう。文明人は、しかし、自然とのそうした絆を失って、自然はたんなる搾取すべきモノでしかなくなってしまった。すべての狂いの根源はそこにあるのではないかと、僕は思います。
外部の自然を尊重する心を失えば、人は自己内部の自然をそれと認識して、それを大切にすることもできなくなる。また自然を搾取の対象としてしか見られなくなることと、人間社会内部において他者を利用すべきモノとしてしか見なくなることへは、僅か半歩の距離でしかありません。蹂躙に次ぐ蹂躙で、「魂の圧殺」とでも呼ぶべき事態が生じ、その空虚感、不全感から、物欲、娯楽などの気晴らしへの欲求、外部的な富の蓄積や権力への衝動、一義的に外部的な安全を求める心性が強化され、テクノロジーはただただそういうものに奉仕するだけのものになってしまった。そして、気づいたら今のようなブレーキの利かない文明の状況になってしまっていたのです。
今はお手軽なハウ・ツーばかりが求められる時代ですが、正気を失った人間にああしなさい、こういう方法があるなどといくら言っても、何の役にも立ちはしないので、根本のそこの部分が変わらないとどうしようもない。また、新たなテクノロジーが開発されて環境への負荷が大幅に低減しても、人間の自己中心性、飽くことのない物欲や権力欲がそのままなら、別の新たな問題が生まれてしまうでしょう。その新テクノロジー自体が誤用され、それが強力なものであればあるほど、大きな破壊の原因となりかねない。
これは、道徳の問題である以前に、正しい自己認識、世界認識ができなくなっていることに原因があるのだと僕は考えています。人間は自然の子供、宇宙の子供です。禅では「父母未生(ブモミショウと読む)以前本来の面目」なんて言いますが、「おまえの両親が生まれる前の本来の自分を知れ」ということです。通常、自分が生まれる前には自分は存在しない、ましてや自分の親が生まれる前に自分が存在したはずはない、と思うでしょう。大方の人にとっては自我が自分です。悪魔にからかわれてそう思い込むようになっているだけだとは考えない。しかし、現代文明ではそれがあらゆる方面で思考の基盤になっていて、世俗化した制度宗教が空虚な神学を振りかざすだけになって信を失った今は、自我が神となったのです。キリスト教でもヒンズー、イスラム教でも、はたまた仏教の仏でも、そこで信じられている神はたんなる自我の投影物にすぎない。だからその神が自分に奉仕してくれないと見ると、たちまち信仰はぐらつくのです。そんなもの、真の神とは何の関係もない。
そういうのは自己認識の錯誤にすぎませんが、昔の人ならもっていた自然との内的なつながり、星辰を神々と見るような深い感受性が失われてしまって、それらをたんに自己外部にある物質と見るようになってしまったことから生じたものです。魂や霊といったものですら、たんなる観念の玩弄物であり、自我投影の産物でしかなくなった。自我が思考のフィクションでしかないことを理解しないかぎり、それを視座、拠点としてあらゆるものを眺めることは避けられない。それは人類が罹患した病気、最悪の病なのです。
ここが改まらないかぎり、今の人類はどうしようもない。このまま自然破壊、自己破壊を続けて、地上のあらゆる生物を巻き添えに自滅するしかなくなるでしょう。その害は宇宙にまで及ぶ。各種の宇宙ゴミを排出しているのみならず、一部の科学者と政治家たちは火星移住まで真面目に考えているからです(他に「スター・ウォーズ計画」なるアホなものまでありました)。公害を宇宙規模にまで拡大しようとしているわけで、こんな傍迷惑で頭の悪い生物は他に存在しません。宇宙人、ETたちに救いようのないアホだと思われるのは当然でしょう。それが可能なだけの十分なテクノロジーを保持しながら、彼らが人類駆除を行なわないでいるその寛大さは、真に称賛に値します。
今はコロナで世界中が右往左往させられているわけですが、人類がこの地球環境に加えてきた深刻すぎる害悪を思うなら、連続殺人犯が懲役一年の刑で済ませられている程度のものでしかないので、自然も並外れて寛大なのです。
だからいい加減にしないといけないわけで、僕が今回この本を翻訳しておきたいと思ったのは、エイリアンに誘拐されたなんて途方もない話は野次馬根性にアピールするだろうと思ったからでは全然なくて(日本人は元々この方面への関心は乏しい)、宇宙人の側が事態を非常に深刻視しているらしいこと、また、エイリアンと遭遇して戦慄させられた人たちが、上に見てきたような狭小な自己観念、世界観を粉砕されて、全く違った深い自己理解、世界理解に目覚めたことがよく伝えられているからです(それが宗教的な神秘体験がもたらすものとよく似ているのはたんなる偶然ではない)。そうした異常な体験は深刻なトラウマになりますが、それを乗り越えたとき全く違う眺望が生まれるのです。ETたちはおそらく、アブダクティたちのそうした世界理解が広まることを期待しているでしょう。問題の根本がどこにあるかということを彼らは洞察していて、たんにUFOに好奇心を募らせるという程度のことでは何も変わらないことを理解しているのです。
と書いたところで、タイミングよく荷物が届いたので、いったん外出して用を済ませたら、校正にとりかかって、訳者あとがきを書いてからでもすでに半年が経過してしまったので、できるだけ早く読者にお届けできるようにしたいと思います。「ヤバい時代になったな」と今の文明社会に危機感をもっておられる方々には、興味深く読んでいただけるだろうと思います。