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UFO・エイリアンとフォークロア

2021.06.11(17:50) 840

(『エイリアン・アブダクションの深層』を買ってくれた人向けに、続けてこちらも載せておくことにします。ちなみに、さっきアマゾンのサイトを見てみたら、何と星一つのマークがついていて、その人は何か気に食わないことがあってそうしたのだろうと、そのレビューを見てみようとしたら、それは見当たらない。アマゾンも今は悪質なものを防ぐために最低限の検閲はしているようなので、それに引っかかったのかもしれません。僕は自分の本で人にレビューを書いてくれと頼んだことなどは一度もありませんが、あのままだと全く売れなくなって、社に大損害を与えてしまうことになりかねないので、一筋縄ではいかず、書きにくい本ですが、どなたかまともなレビューを書いてくれる人が出現するのを期待しています。公正に見て、いくら何でもあの本が星一つということはないはずだからです。)


 この問題の否定論者たちが皮肉めかした口調でよく言うのは、「何で彼らは白昼堂々と姿を現わさないんだ? たとえばニューヨークやパリ、東京の上空などで一度10分間ほどでもUFOの航空ショーを見せ、大勢の人がそれをスマホ撮影などすれば、われわれもその存在を認めるだろう」といったものです。

 これは支持派のひそかな願望でもあって、「いるのかいないのかわからないような紛らわしい出現の仕方をするから、証拠が不十分だといってわれわれは笑いものにされて、馬鹿にされるのだ」と思っている人は少なくないはずです。

 僕も時々そう思うことがあります。紛らわしいことこの上ないやり方を彼らはしているように見えるので、なぜそうしないのかと。おそらくこれには人間の側に及ぼす心理的影響に対する懸念もあるのでしょう。とくに政治家や軍関係者たちはそれを「安全保障上のとてつもない脅威」と見なして、映画『インディペンデンス・デイ』みたいに「エイリアン退治」に乗り出しかねない。これは人類全体の危機だとして、軍事費を増額し、非常事態宣言を発するなどの騒ぎになりかねないのです(そういうのは人々の鬱積した不満の好都合なはけ口としても利用できる)。恐怖や猜疑心の強い、攻撃的な動物であるこの地上の生物とはそうかんたんに平和で友好的な関係は築けない…。彼らはそんなふうに思っているのかもしれません。

 このUFO、エイリアン問題には一括りにはできない多様な側面があります。しかし、まずはいたって現実的、世間的な側面から入りましょう。UFOやエイリアンとの遭遇事件には様々なものがあるようですが、南ア、ジンバブエで起きたアリエル・スクール事件(1994年)や、Netflixの「未解決ミスタリー」のシリーズ1の5番目、「バークシャーにUFO出現」というよくできたドキュメンタリーで取り上げられているアメリカ、マサチューセッツ州の事件(1969年)など、これだけ多数の、相互に矛盾の少ない、かつ具体的な目撃・体験証言があれば、ふつうなら誰もその現実性を疑うようなことはないでしょう。しつこく「否定し難い科学的・物理的証拠を見せろ!」と迫ることもない。どう見ても彼らが嘘をついたり、正気を失っているようには思えないからです。にもかかわらずそれが受け入れられないのは、出来事が特殊なため、「そんなことはありえない」とする今の科学的マテリアリズムに支配された文明社会特有の激しい心理的抵抗があるからです。

 僕にはそれは馬鹿馬鹿しいことに思えるのですが、それがSFとして発表されたり、オカルト界隈で、あくまでその内部で盛り上がったりするのはいいが、それがこの社会全体で容認されるべき現実の出来事であると主張したりすると、とたんに猛烈な敵意と侮蔑にさらされるのです。ハーバード大教授ジョン・マックのアブダクション研究が激しい批判というより非難を招いたのも、このあたりのことが関係するでしょう。彼はこの問題をキワモノ扱いせず、学問界、科学界にも真面目に受け取られるべきものだと主張したのです。それが何よりまずかった。それはオカルト愛好者のサークル内部にとどめられるか、さもなければ精神病理学の対象として扱われるか、されなければならなかったのです。

 僕に不思議なのは、UFOやエイリアンが存在して、それが地球を遠慮がちに訪問していたとして、一体何が不都合なのかということです(彼らが地球の植民地化を目論んでいるなんてのは妄想に類した話でしょう)。科学的に説明不能だといっても、その科学はまだ発達途上のものにすぎず、それが未熟なものであるということは科学者自身に自覚されている(それで何でもわかると思っているのは二流三流の学者だけです)。その程度のことで僕自身の世界観は揺るがないし、不安に陥ることもない。いつもどおり仕事するし、エイリアンに会えば、挨拶ぐらいはするでしょう。自分が誘拐されて宇宙船のベッドに縛りつけられて検査などされるのはできればご免こうむりたいが、そういう話を聞いても、その人が頭のしっかりした正直な人なら、それはたぶんほんとなのだろうと思うでしょう。Youtube でアリエル・スクールの可愛い子供たちがインタビューを受ける映像を見て、彼らが作り話をしているなどとは僕には毛頭思えませんでした。Netflix で正直そうな老婦人が語るのを見たときも、これは嘘なんかつく人ではないだろうと確信がもてた。彼らにはそんな作り話をしなければならない動機や必然性は何もないのです。彼らが遭遇したUFOやエイリアンがどこから来たかは謎ですが、起きたことは起きたのだと彼らは言っているので、それが合理的に説明がつくかどうかはまた別の話です。

 小林秀雄が菊池寛(かなりの霊感体質だったように見える)の幽霊話について、こういう面白い話を書いています。文芸春秋社の講演旅行で、それとは知らず幽霊が出るというので地元では有名な旅館に泊まり(それを買い取った経営者が事業挽回のきっかけにしたいと運動した結果そこに決まったことがのちに判明)、文庫を読みながらうたた寝してしまったとき、菊池は息が苦しくなって目を覚ましたのですが、見ると一人の見知らぬ男が自分の上に馬乗りになって首を絞めている。その異様な姿を見て、これは人間ではないなとすぐ気づいたので、「いつから出ている?」と訊いたというのです。幽霊が存在するか否かと言うような議論はヒマ人のすることで、彼はそんなことには何の興味もなかった。出たものは出たのだから、そうなった以上、必要なのはいつから出ているかと問うことだけだ。こういう人を本当のリアリストという、と書いていましたが、僕も同じ意見です。説明できないから、あるいはそれが自分の世界観に反するから否認するというのは、精神のひ弱さを証明するものでしかない。

 僕がUFOやエイリアンと同じく、幽霊も存在するだろうと思うのは、信じるに値する目撃・遭遇譚がたくさんあるからです。幽霊はその性質からして、前者以上に物質的証明は困難です。何しろそれは基本的に物質とは呼び難い存在なのだから。たしかに「幽霊の正体見たり枯尾花」式の目の錯覚はいくらもあるでしょう。しかし、それで全部が片付くわけではないので、それはUFO遭遇事件も同じなのです。

 昔は幽霊以外にも色々なものが存在するとされていました。たとえば、僕の田舎には集落ごとに氏神様があって、隣の集落の下手(しもて)にある大きなそれのご本尊は黒龍だとされていました。そこの氏神様のお祭りでは、子供には楽しい宝探しなどのイベントがあるので、僕は毎年のように出かけていたのですが、そのとき祖母から聞いた話によれば、それを篤く信仰するおばあさんがいて、それは祖母のよく知っている人でしたが、あるとき氏神様の社に参拝して、どうぞ一度でいいから姿をお見せ下さいと一心に祈ったのです。すると、しばらくたって巨大な黒龍が現われて、その胴体が谷の向こう岸にまで届いて、その重みで木々がみしみしと音を立てた。それでそのおばあさんは仰天すると共に、そこのご本尊が黒龍様だと知ったと言う話で、祖母が付け加えて言うには、他の霊能者が別々に見ても、皆あそこは黒龍だという。だからそれは間違いのない話だというので、小学生の僕はそのアナコンダも逃げ出すほどの巨大な黒蛇を想像して戦慄したのですが、祖母はそれに何の疑いももっていませんでした。他方、僕の実家に隣接する氏神様は白龍で、これも見立てが一致している。前に男女二人組の布団売りが来て、男性の方が商売そっちのけでそちらの方に行ってしまい、戻ってきて、「あれはどえらい神様やから、大事にせんといかん」と母に言ったので、母はむっとして、そんなこと、言われんでもわかっとると答えたそうですが、相方の女性が言うには、この人は“見える”人で、それは出まかせではないと力説したそうです。

 こういう一種の霊獣もしくは半神的存在の場合、異界の存在で、ふつうの人には見えず、通常の物質的なからだはもたないように見えますが、そのおばあさんの「木々がみしみし音を立てた」という話からして、そのときは物質化していたのだろうと思われるのです。祖母は明治生まれの人でしたが、昭和生まれの僕の父(婿養子で、その黒龍様の集落の出身だった)も、ふだんは可愛げがないくらい実際的な人間でしたが、知らない土地で車を走らせていても近くに神社があるとすぐにわかるという人で、あるとき助手席の僕に、それは高校生の頃だったと思いますが、ああいうものは昔の人がきちんとそれとわかって建てたのだから、人間の都合で勝手に動かしたりするものではないと言いました。父にそういう面があるのを知って僕は驚いたのですが、一万くれるというのなら、一晩お墓で寝てくるぐらいはいつでもするが、神社だけはご免こうむると言ったこともありました。小柄な体に似ず肝の据わった人でしたが、あれだけはこわいと言うのです。

 こういう話は、現代人には馬鹿馬鹿しく思われるかもしれませんが、ついこないだまで、人々はそれを何の屈託もなく受け入れていたので、それで過度に迷信的になるなどのことはなく、僕の祖母も父も、安定感があって、現実的判断力にすぐれた人でした。ところが今の偏頗な科学主義は、異様なほどそういうことに非寛容になっているのです。それがかえっておかしなカルトにはまる人を増やしてしまったのではないかとさえ思える。何でもないことを異常視し、消毒を利かせすぎるから、本能的直観力も鈍り、ミソとクソの区別もつかない人を増やしてしまったのです。

 そろそろ話を戻しましょう。そういうわけで僕はUFOの目撃談などを日常現実の中にときおり割り込んでくる説明不能の事象の一つとして受け入れているのですが、それは幽霊や精霊、各種の風変わりな霊的存在(西洋の牧神パンや日本の天狗など)の目撃話と基本的に変わらない。UFOの違う点は、それがメカニックな外観をもつ乗り物で、エイリアンも防護服か体にぴったりしたスーツのようなものを着ていたりして著しく“現代的”になっているらしいことです。これの中間にあるものは有名な「ファティマの奇蹟」の「踊る太陽」(「1917年10月13日、集まった約七万人の群衆は雨に濡れていたが、太陽が狂ったような急降下や回転を繰り返し猛烈な熱で彼らの服は乾いてしまった」とウィキペディアにはある)のようなもので、当時は空飛ぶ円盤という観念はまだなかったからそれは「太陽」とされたわけで、今ならUFOと解されるのがふつうでしょう。そこにカメラクルーがいて(当時だと無理な話ですが)、一部始終が録画されていれば重大証拠とされたでしょうが、それでも保守的な科学者たちはそれは大群衆によって引き起こされたヒステリー的な集団幻想で、その思い込みがあまりにも激しかったために、それが映像としても捉えられたのだ、というような、それ自体迷信的なこじつけをするかもしれません。そういう頑なな態度の方がよっほど病的ですが、彼らはそうは思わず、かえって正常な人の判断の方を病的なものと決めつけて嘲るのです。そこにあるのは感情的反発だけで、何の合理性もない。

 エイリアンにも色々あるようで、その中には昔の牧神(それは人をぎょっとさせる蹄のついた脚や悪魔的な外観をもつが、治癒的な力も示した)のような異界からやってきたものと解釈する方が妥当なものもあるように見えます。心理学者ユングの言うような、集合的無意識の中にある元型の外部世界への投影として説明できそうなものもある。しかし、先に見たアリエル・スクールの子供たちや、バークシャーのUFO遭遇事件などの場合、それは明らかに物質的、この世的な性質のもので、それはこの宇宙のどこかからやってきた異星人に違いなさそうに見える。言えることは、マックもその説明には苦慮したようで、パトリック・ハーパーの「ダイモン的リアリティ」なんて言葉を援用しているのですが、こうした現象は多面的で、一義的な説明を拒んでいるということです。

 ところが、現代人はこうした曖昧さを許容できない。何でも物質的な観点からきれいに説明できないと、「そんなこと、あるはずがない」と頭ごなし決めつけるのです。人間も、この世界も、それほど単純なものではない。こういう反応は今の科学的物質主義と、それによってつくられた世界観が偏頗かつ一面的なもので、それゆえ人が大きな不安をもつようになったことと関係するでしょう。先に小林秀雄の言葉を引用しましたが、彼はあれとは別のところで、民族学者・柳田国男の学者の域を超えた神秘家的な豊かな感性について触れた後で、最近はお化け(妖怪)の話なんかすると、そもそもお化けなんてものは存在するのでしょうかと言ってみたり、にやりと笑って見せるなど、自分はそんな迷信深い人間ではないということを示したがる人がやたらと増えた。こういうのは「自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けている」結果だと柳田は書いていると紹介した後で、「懐中にあるものとは、私たちの天与の情(こころ)」のことなので、それを否定するような偏頗な教育は不安を募らせ、人を狂わせるだけだと述べています。そこで槍玉に挙げられているのは戦後の唯物史観に基づく教育ですが、今の唯物的科学もそこは全く同じなのです。

 だから、僕がこの問題について言いたいことはこういうことです。今の物質科学でそれが説明可能かどうかを真偽判断の基準にすること自体が問題なので、それはたんなる科学の側の思い上がりにすぎないと。通常僕らは総合的な見地から真偽を判断します。常識を弁えた精神的に健康な人や、嘘などおよそつきそうもない正直な子供たちが間違いのない実体験として語ることなら、それが日常現実的にはありえないことに思われても、本当に起きたことなのだろうと受け入れるのが良識ある人のすることでしょう。この世は元来不思議に満ちていて、死者の霊が危険を知らせに生者の許を訪問することもある。そういうことは昔からよく知られていることです。UFOやエイリアンの出現もそれと似た非日常的な現実で、その種のことでは実験室での再現などはもとより不可能なのだから、あらゆることにそれを求めるのでは、僕らがこの人生で体験する貴重な出来事の大半は虚偽として否定されてしまうことになる。そういう物質科学の専横を人々は許す気でいるのか? 僕自身は拒否するので、説明がつかなければ、説明のないままで、それが説明可能になるまで待てばいいのです。あるいは、それが可能になるように自分の世界観の方を修正する努力をすればいい。それが知的誠実さをもつ人間のやるべきことです。

 僕らは今でも日常的にはニュートン物理学の世界に暮らしています。学校でも相変わらずそれを教え、たいがいのことはそれで足りるが、それはアインシュタインの相対性理論によって根本的な理論的修正を迫られた。絶対空間、絶対時間の観念は今は虚偽のものとされているのです。そしてアインシュタインの相対性理論は、量子物理学の挑戦を受け、量子の不思議な動きは変数理論などでは説明がつかず、これも理論的な屋台骨を揺るがされている。科学の領域ではすでにそうなっているのに、各種の超常現象やUFOはいまだにニュートン物理学的な平板な世界観から裁かれ、否定されているのです。これは実にふざけた話なので、およそ徹底性を欠いている。何の権利あってそんなエラそうなことをしているのか。

 僕は現代人の心がやせ細って彩りを失い、たえず不安にさいなまれ、一面的・機械的な屁理屈を際限もなくこね回して利口ぶる以外に能がなくなったのは、狭い物質科学の尺度によって多くの人間的に重要なものが否定、抑圧の憂き目にあっていることと大いに関係があると思っています。それで虚ろな心を抱えたまま、このUFO問題などでも、自分たちを虐待している当の科学の専制の方に与して、体験談を語る人たちを嘲るのです。それは自分がいじめに遭うことを恐れて、いじめっ子に追従し、たえずそのご機嫌をとって、一緒にいじめ行為に加担する子供たちの心理とよく似ています。自分の胸に手を当ててよく考えるなら、その不毛な心のメカニズムは理解されるようになるのではありませんか? 真に科学的な態度というのは未知に心を開いたもので、そういうものではないはずです。


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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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臨死体験時の幻像と現実世界

2021.06.10(17:51) 839

(先日、突然思い立って、文章を書き始めました。これはその第二章に当たるもので、昨日散歩の途中思いついて、半日ほどかけて書き上げたものです。最初の章は「脳が意識を生み出すのではなく、意識が脳をつくり、使っている」と題したもので、それはかつては多重人格、今は解離性同一性障害と呼ばれる患者の脳が興味深い反応を示していることが確かめられたという英文記事をヒントに書き始めたもので、タイトルどおり、常識とは逆の結論になっています。第三章は「UFOとエイリアン」になる予定で、そこでも“非常識”なことを書くことになるだろうから、全体が世間常識に反するものばかりになりそうですが、前後はつながっているとしても、ある程度独立して読めるので、二番目のこれが一番受け入れられやすい議論かなと思ったので、公開して読者の反応を見てみたいと思いました。異論、反論、ご質問等あれば、それがちゃんとしたものであるかぎり誠実にお答えしたいので、お寄せいただければ幸いです。後でそのやりとりも追記として書き加える予定です。)


 臨死体験というのは心肺停止などの、通常は臨終と解される状態となった人たちが蘇生した際に語る不思議な体験ですが、それには色々なヴァリエーションがあって、暗いトンネルを抜けて光あふれる美しい世界に出て、そこで亡くなった人たちや神的、天使的存在に出会うとか、日本式のそれでは三途の川を渡って、お花畑のようなところに出て、やはりそこで亡くなった知り合いに会ったとか、様々に語られます。その結果、あの世の存在を確信して、心穏やかになり、その後の生き方が変わったと言う人も多いとされる。

 これについては科学の側からの反論があって、そういう話は人によっても文化によってもしばしば大きな違いがあるところから、客観的な実在とは考えられず、睡眠時の夢のようなもので、脳が紡ぎ出す幻像のようなものだろうというのです。げんにそれは幻覚誘発剤のようなものを使ったときにも生じるので、両者には多くの類似点がある、云々。

 それよりも僕が面白いと思うのは、意識不明の状態で横たわっていたにもかかわらず、そのとき病室やその周辺でどんなことが起きていたか、意識を回復してからつぶさに説明する人がいて、その描写の正確さが医師や看護師、家族などを驚かせることがあるという話です。そうした現象が、ウィキペディアの「臨死体験」の項では次のようにまとめられています。

 臨死体験中には体外離脱現象が起こることが知られている。全身麻酔や心拍停止で意識不明となった時に、体験者は気が付くと天井に浮かび上がっており、ベッドに横たわっている身体を見下ろしたり、ドクターの側で手術中の様子を客観的に眺めている自分に気付く。そうした体験は現実世界以上の強烈なリアリティーが伴うため、幻想ではないと語る者も多い。こうした体外離脱中には幻覚的な体験が起こることもあるが、現実世界で起きた出来事を体験者が後に正確に描写できる事例も珍しくない。

 マイケル・セイボムの研究では、臨死体験者たちが体外離脱中に観察した治療室の蘇生場面を描写した結果、専門医のカルテの記述と一致し、研究者のセイボム自身を驚かせている。彼が調査したある臨死体験者は、治療者が行った施術の詳細や、メーター計器の針の数値、道具の色や形、物理的視野に入らなかった物品までもを描写できている。その描写は臨死体験者ごとに個別的で、専門医であるセイボムから見ても間違いの殆ど無いものであった。

 キンバリー・クラークによる研究にも同様の例がある。心臓麻痺により病院の2階に運ばれたマリアは、体外離脱を起こし病院から抜け出した後、病院の3階の窓の外にあるテニスシューズを確認し、意識回復後に医師に報告した。医師が確認をしに3階に上がったところ、マリアの描写はシューズの色や形・細かな状態にいたるまで正確であることが判明した。この「マリアとテニスシューズの例」は有名な体験例となった(後に立花隆が、テニスシューズはマリアのいる病室などからは全く見えなかったことを確認している)。

 体外離脱中には「天的な世界に入った」後に「何らかの境界線を感じ引き返した」とする証言も多い。また、知覚や感覚の拡大が起こる事も多く「一度に周りの風景を360度見ることが出来た」「生前に手足を切断された者が体験中は四肢を取り戻していた」といった報告をする者もいる。


 こうした対外離脱と解される現象それ自体、前章で述べたように意識が脳から独立した存在であることを示唆していますが、こちらの場合は、現実に起きたことと一致しているという裏付けがあることから、たんなる「幻視」として説明し去ることはできないわけです。

 むろん、だからといってその人が見た「あの世」の光景も全部客観的な実在だと主張することはできないでしょう。そちらに関しては今のところ検証のすべがないからです。しかし、そもそもこの「客観的実在」というのは何なのでしょう?

 僕自身は臨死体験はしていませんが、次のような奇妙な夢を見て、「この世界も実は一個の夢のようなものなのではないか?」と思ったことがあります。

 もう二十何年も前の話ですが、冬のある日、コタツに足を突っ込んだまま寝てしまったことがあります。しばらくして目を覚ますと、同じ体勢でいたのですが、どうもおかしいなと思うところがありました。部屋は同じに見えたが、カーテンの色や模様が異なっているのです。寝たままの姿勢でふと横を向くと、そこに目覚まし時計がある。四角い形で、蓋の一面に中の時計がくっついていて、開けてそれを立てることができるようになっている、そうすると横から見ると三角形になる、昔よくあったあの時計です。学生時代、たしかに僕はそれを所持していました。しかし、それはこわれてとうの昔に捨ててしまっていて、今の部屋にあるはずがない。何だかこれはおかしい、これは夢なのだと気づいたので、何か文字の書いてある紙片も散らばっていたので、それも手に取って見てみました。文字はたいそう美しくエレガントであるものの、読んでみると内容は支離滅裂です。僕はそのとき、カーテンといいその紙片の文字といい、人間の無意識というのは美的センスは十分で洗練されているが、知的な合理性とは無縁、またはそういうことに無頓着なのかもしれないと考えました。

 夢の中でこれは夢だと気づき、そう考えたので、これはいわゆる明晰夢の一つだということになりますが、次に僕はこれが夢であることを証明してやろうと思いました。夢なのだから、そう見えても実体はないはずだから、その時計を握ってみれば、それはぐにゃりと潰れるか消えるかしてしまうだろう。そんなふうに思って、意志力をふりしぼり、その時計に手を伸ばし、思いきり握ってみたのです。すると、驚いたことに輪郭どおりの硬質の感覚が手のひらにはっきりあった。僕は強いショックを受けて、そのまま意識を失いました。そしてしばらくたって目覚めると、今度はカーテンも元に戻っていて、今度はほんとに目が覚めたのがわかったのですが、手のひらにあの感触ははっきり残っていました。むろん、その時計はすでにそこにはなく、周囲に似たかたちのものもない。

 飛び抜けて嬉しいことがあったときなど、よく「自分の頬をつねる」と言います。つねって痛みがあれば、それは夢ではなく現実だという証明になると思ってそうするわけですが、僕は夢が夢であることを証明しようと同じ伝で時計をつかんだら、物理的な明確な感触があって逆に驚いてしまったのです。どうもそういうことでは「客観的実在」の証拠にはならないらしい。

 そもそもの話、客観的実在なるものがあるかどうかが疑わしいので、僕らのこの世界というのは五感を通じて伝えられた神経信号が脳によって処理された結果、それとして感知されるものです。歯医者さんに行って虫歯を抜いてもらったことがある人は、麻酔がまだ効いているのを忘れて、帰りに缶ジュースなど買って、飲もうとしてこぼしてしまった経験があるでしょう。顎の神経がマヒしているから勝手が全然違ったのです。

 また、量子物理学の知見によれば、少なくともミクロの領域では主観と客観は明確に区別できない。観察者と観察されるものは未分離で、観察が観察されるものに影響を及ぼしたり、現象が現象として確定するのは観察という意識による行為があってのことだなどと言われる(詳しくはその方面の本をお読み下さい)。僕らは自分の存在とは無関係に、自分の意識や心からは独立したものとしてこの周辺世界が存在すると思い、げんに朝起きたときは、寝る前と同じ世界が周囲にあるのだから、それは間違いないと思うのですが、この世界全体が集合的な夢の産物ではないと、どうして言えるのでしょう?

 夢の話をもう一つすると、夢ではしばしば予測不能のストーリーが展開されます。僕はしばらく前、夢の中である人物が言うことを聞いて驚き、憤慨したのですが、それは僕には決して考えつくこともできないような話で、僕の夢は僕の無意識の産物であるはずですが、少なくともユングの言う個人的無意識の領域からはそんなものは出てくるはずがないと思えるようなものでした。それはこの現実世界で起こること以上に、僕には意外なことで、一体あれはどこから出てきたのだろうと、目覚めてしばらく考え込んでしまったほどです。それは現実のこの世界で遭遇する見知らぬ人間の言うことと同じくらい、またはそれ以上に不可解で、「他者的」なものに思えたのです。その夢の世界そのものが僕の心からは独立したもので、そこに自分がたまたまいたという感じしかしなかった。つまり、この世界と同じかそれ以上に、それは「外在的」なものと感じられたのです。

 夢と現実との一番大きな違いは、明晰夢の場合には「これは夢」だという意識が働いているとはいえ、意識の明確さという点で全然違うことです。明晰夢の場合、一定程度のコントロールが夢にも及ぶことが知られていますが、この現実世界ではそのコントロールはもっと大きい。「この世はままならない」と言われるくらいで、それも高が知れているものだとはいえ、自由意志を人はもっていると考えられ、また感じられているのです。

 そして夢よりずっと、この現実世界は安定している。物質世界にはいまだ発見されていないものも含めて各種の科学的法則があり、それに従って生成していると考えられているのです。それは僕らの意識には明確に外在的なものと感じられる。だからそれは夢や幻覚などとは全く違う「客観的」な世界だとみなされるのです。

 しかし、前の章で僕らの通常の意識は解離性同一性障害の多数の人格がそれぞれ固有の意識や記憶、感情をもっているのと同じで、一つの宇宙的意識からすれば無数の乖離人格がもつ限定された意識のかけらのようなものにすぎないのではないかという考えがあることを紹介しましたが、この世界、宇宙全体がその根源的な一つの意識が紡ぎ出す巨大な夢に他ならないのではないかという見方も成立しうるのです。

 それは乖離した僕らの意識からすれば、外在的で、先の僕の夢体験のように、自分の意識や内面とは関わりのない自立した存在であるように思える。しかし、意識の座が自分の側からその宇宙意識の側にシフトすれば、様相はガラリと変わる。そのときこの世界はヒンズー教に言うリーラ、神の遊戯のようなものとして捉えられるかもしれません。この宇宙全体が「ブラフマンの夢」なのです。

 今の理論物理学には多元宇宙論というものがあって、それは僕の手に負えるようなものではありませんが、無数の宇宙が同時存在して、それは微妙に次元が異なるとか、またはそれぞれが気泡のようなもので隔てられていて、互いの存在を知らない可能性があるなどというのは面白い考えです。宇宙意識、ブラフマンの夢にも多様なヴァリエーションがあるということになり、それは僕らが夜見る夢が多種多様なのと似ています。

 臨死体験者が見る「あの世」の光景も、これと似た理由で多種多様なのかもしれない。それはその人の個人的な無意識と集合的無意識、さらには人間的なそれよりさらに根源的な意識が重なり合うところから紡ぎ出された「もう一つの現実」なのかもしれないのです。臨死体験者にはそれはこの現実世界と同じほどリアルに感じられる。それはこの世界が「客観的現実」だと考える人からすれば幻覚にすぎないと思えたとしても、実は「客観的現実」なるものは存在せず、この世界それ自体が宇宙的無意識が紡ぎ出す一つの夢に他ならないとすれば、これと較べてそちらはリアリティの度合いが低いとは言えなくなるのです。

 こういう見方が受け入れ難いのは、僕らの中の実体思考というものが非常に根強いものだからです。この世界は、周囲の事物や人は、明らかに僕らの意識とは独立して存在しているように見える。前に失くしたと思ったものが部屋のどこかから出てきて大喜びしたなどという経験は誰にでもあるでしょう。そのとき自分がそこにしまい忘れていたことを初めて思い出すので、それはあれからずっとそこに「客観的に」存在していたに違いないのです。僕らの意識にその存在が依存しているわけではない。これは自明に思われます。

 それは、しかし、あくまでも僕らの表層意識にとっては、です。無意識にはその記憶は保持されていて、それはそこになければならないものとされているから、そこを見たときそれは再発見されなければならないのです。そうでなければ意識の秩序は崩壊する。同様にこの宇宙の神羅万象は、僕らの意識、理解からすればその大部分が未知のものですが、それもまた僕らの限定された、先の言葉で言えば「乖離人格的意識」からすればそうだというだけで、根源的な意識からすればそうではない。仮に意識がa,b,c,d…というふうに層になって展開されているのだとすれば、dのレベルの意識にはcの意識の層にあるものは未知であり、cの意識にはbの層にあるものは未知なのです。しかし、それぞれの層にあるものはいわば「そうでなければならない」ものとして意識に保持されているのであり、それは静的、固定的なものではないとしても、必然的なものとして下位意識に“発見”、受容されるのです。その場合、dレベルの意識にはcの意識の層にあるものが「客観的実在」に、cの意識にはbの層にあるものが「客観的実在」のように見える。そしてaに辿り着いたときに初めて、それが自らが紡ぎ出している「夢」であることが自覚されるのです。

 日常現実でも、僕らが見ているものは異なります。いわゆる思い込みの激しい主観的な人の場合、狭い個人的な価値観や感情に支配されずに意識の明晰さと柔軟性を保持している人には受け入れがたいような偏った主張をすることが珍しくありません。上の伝でいえば、彼らはdの世界からさらに後退してしまって、eの世界にいるのです。それよりさらに悪化すれば、fの世界となり、いわゆる妄想患者のそれになってしまう。

 それらが同価値で、等しく尊重されねばならないとは僕は思いません。見ているものが人それぞれに違うと言っても、人間的意識の見地からして、eやfの人のそれは明らかに歪んだものであることはたしかでしょう。それは感情的混迷によって意識の明澄さが奪われた結果生じた歪んだ認識でしかないと解されるからです。この世界が一種の夢だと言うときでも、こうした理解は排除されない。寝ているときの夢と違って、この世界の夢は明瞭な意識(より次元の高い意識からすれば不明瞭なものかもしれないが)に映じたもので、通常の病的妄想とは違うからです。妄想に支配される人が大部分になれば、この世界は一個の悪夢と化してしまうでしょうが(それについては後に章を改めて論じることになるでしょう)。

 ここで述べてきた考えは、哲学では idealism、観念論と呼ばれるものの一つで、何ら目新しいものではありません。しかし、これはそうした書物に基づいて発想されたものではなく、自分で考えていったらそちらの方が理解の枠組みとしては道理にかなっているように思えるようになったということなのですが、いかがなものでしょう?



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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今や国民病となった「うつ」の治し方

2021.06.02(19:12) 836

 今の日本で明るい話題と言えば、大谷翔平選手のアメリカ大リーグでの破格の大活躍と、大坂なおみ選手の快進撃ぐらいでしたが、大坂選手は最近様子がおかしいなと思っていたら、実はうつに苦しめられていた、という話です。

大坂選手、全仏から棄権表明 2018年からうつ病に

 今は「コロナうつ」という言葉があるくらいで、いつまで続くともしれない緊急事態宣言による規制+自粛要請と、菅政権の順序が逆の「五輪開催強行のためのコロナ対策」の迷走に対するイライラなど、ストレスの材料ばかりで、今や日本人の大半がうつ傾向にあると思われます。この他にも、明瞭に意識化されないまでも、いずれ確実に起こるとされる大地震や、地球温暖化に伴う異常気象の頻発や予想される不測の事態、コロナでさらに悪化した慢性不況の先行きに対する不安などもある。集合的無意識レベルでも不安や葛藤の圧は強まるばかりなので、うつ要因には事欠かないのです。

 それに加えて、前回ここに書いた、無用な課外や大量の宿題で疲労困憊状態に追い込まれる高校生たちの話のような、個別事案があちこちに転がっているのです。何だか知らないが、緊張や不安、疲労、イライラの材料が増えるばかりになっている。

 大坂なおみ選手について言えば、トップアスリート特有の高いパフォーマンスを期待される重圧がつねにあった上に、元々内向的かつ繊細で、おかしな質問までされる記者会見の類は苦手だった。うつが募るにつれなおさらそれが苦痛になっていたわけですが、そうした個人的事情は知られていなかったので、会見拒否をして批判され、規則で罰金を課され、今後出場停止の処分が下される可能性もあるという脅しまで受ける羽目になった。彼女にかぎらず、この社会では個人の内面とは無関係に外部から要求されることがつねにたくさんあって、それに従わないとたちまちバッシングの嵐にさらされ、今の時代はとくにそれが甚だしい感じですが、それがまたうつに苦しむ人に追い打ちをかける結果になるのです。

 今回彼女はそれをはっきり口に出して言い、しばらくコートを離れて休養を取ると宣言したわけですが、こういうのはよほど勇気がなければできないことです。たいていは倒れてしまうところまで無理をし続けて、そのときは事態は深刻になりすぎているから、最悪の場合、自殺に追い込まれる。そうでなくても再起するのは大変になってしまうのです。

 僕もうつに苦しめられた経験がありますが、あれはかなり恐ろしいもので、何より恐ろしいのはどこからも力が出てこなくなるということです。また、うつ的な傾向が高まっているときにかぎって精神的な打撃になるようなことがいくつも起きるもので、何か自分を叩き潰そうとしている見えない巨大な悪意が作用しているようにさえ感じられる。その場合、元気なときのように跳ね返す力も失っているから、殴られっぱなしのボクサーみたいになってしまうのです。

 当然そうなると、生活上要求されるあれこれの要請にも応えられなくなって、他の人たちにはそんなことはわからないものだから、「何をやってる!」とか、あれこれ非難されるもので、見た目にも鼻っ柱が強く、「あいつだけは殺しても死なない」なんて言われていた人間の場合、なおさらそうなりやすい(このタイプの人は同情されるより非難される方がマシだと思って黙っていることが多い)。そうしてたいていの場合、仕事にも支障が出たり、やめざるを得なくなったりする(そういうときはそれが直接の原因でなくてもそれまであった仕事の契約が解除されたりといったことも起きやすい)から、経済的にも事態はどんどん悪化して、二進も三進も行かないところまで追い込まれてしまうのです。

 だから、経済的理由の自殺などにもうつが大きく関与していることが多いはずで、経済的困難がうつを発症させるということはむろんありますが、うつで現実にうまく対処できないようになっているから、ずるずると経済的にも追い込まれてしまう、ということになりやすいのです。悪化のきっかけになった最初の対応にうつがすでに関与していて、その後も下手な対応を重ねて事態を悪化させるのです。そういうときは、自分に鞭打って転職活動に励んだりしても、うまく行かないことが多いでしょう。条件もぴったりのいいところがやっと見つかったと思って喜んだら、そこが最悪の人間関係の職場だったとか、うつの人はなぜだかそういうところをえらんでしまうのです。

「下手の考え休むに似たり」と言いますが、うつ状態の頭でいくら考えてもいいアイディアは出てこないものなので、そういうときは開き直りが一番大事です。周りの人に事情を説明して、「ちょっと待ってくれ。今自分はこれこれこういう状態にあって、ウルトラマンの胸のランプがピコピコ点滅しているような状態だから、使い物にならないのでしばらく休ませてくれ」と言って、気分転換に全く違ったことをしたりなどする。そうすれば、周りも事情が分からないままとやかく言ったりはしなくなるでしょう。

 しかし、うつの人にはそれもうっとうしく、大きな負担に感じられて、そのまま一人で問題を抱え込んでしまうので、事態を一層悪化させてしまうことが多いのです(僕もそうでしたが)。結局、それでは傷口を広げて後々よけい人に迷惑をかけてしまうことになるので、大坂なおみ選手のあれはいいお手本になるでしょう。だから「なおみ方式」は推しです。

 しかし、うつが治らなかったらどうしようという不安はそのときもあるでしょう。これも「なるようになるさ」と開き直ってしまうのがいいので、うつが根付いてしまうのは悶々として、葛藤がずっと続くからです。でなければいずれ元気は回復する。真面目な人ほど治りにくいのは、「いつまでこんなことはしていられない」という焦りや罪悪感が強く働くからで、怪我をしたとき、傷口を気にして何度も見たりしていると治りが遅くなるのと同じで、取り越し苦労がかえって回復を遅らせるのです。

 むろん、何か特定できる理由がある場合は、その問題を意識化して、それに伴う感情的もつれを解消しておく必要はあるでしょう。その理由は人によって様々で、それまで自分では意識していなかったが無理を重ねすぎたとか、何か深刻なトラウマになるような事件があったとか、いわゆるミッドライフ・クライシス(中年危機)などの場合、意識ではその自覚がないが、それまでの生き方が本当は行き詰まっていて、それを大きく転換しろという深い内面からの促しが関係しているとか、子供や若者の場合、それまでは親や教師の言うことを聞く「よい子」で、その期待に沿うよう一生懸命頑張ってきたが、自分の正直な思いは犠牲になっていて、それが限界に達していることのシグナルだとか、色々ありえます。

 僕自身はある程度心理学や精神病理学方面の知識はあったので、精神科医やセラピストのところに行っても言われることは大体わかっていると思って、自己治療をあれこれ試みたのですが、それで軽減した面はかなりあったとしても、これという決め手になるような原因は発見できませんでした。たぶん一番大きかったのは、それを僕は「内なる世間」と呼んでいるのですが、周りからは好き勝手やってきたように見えても、それがまだ頑固に自分の中に居座っていて、それが妨害になって思い切ったことが十分にできていなかったということの発見でした。

 それで、極限まで行った末に破れかぶれになり、関大徹というお坊さんの書いた『食えなんだら食うな』という面白い本がありましたが、あの伝で、やりたいことをやって飢えて死ぬならそれは結構なことなので、今後は結果を思い煩うことなく、したいことをしてやろうと思ったら、外部環境は最悪でしたが、心境に変化が生じたのです。

 人にはそれぞれ置かれた立場というものがあります。学生でも、サラリーマンでも、自営業者でも、子育て奮闘中の主婦でも、やらなければならないこと、責務と感じられることがあって、最低限の義務も果たせないようでは生きている価値はないと感じて、その自責の念がよけい苦しさを募らせるのです。

 文明というのは便利なものですが、反面、それは人を十重二十重(とえはたえ)の拘束の中に置くものでもあって、辺境に住む、昔ながらの狩猟採集民的な生活を送っている少数民族などを調査すると、皆明るくて、精神病やうつなどは皆無であることが知られています。統合失調症のような深刻な精神疾患ですら、文明病であることがわかるのです。

 さっき、うつで「何より恐ろしいのはどこからも力が出てこなくなるということ」だと書きましたが、これは「生命力の枯渇」現象だと言ってよいので、なぜそんなことが起きるのでしょう? ヒトは生物であり、生物はこの世界に遍満する生命エネルギーの表現です。個々の生物には当然、旺盛な生命力が備わっているはずですが、うつというのは、本来自分に備わっているはずのそれが感じられなくなってしまうという異常な事態です。

 この宇宙が無機的な物質の寄せ集めの世界ではなく、生命エネルギーに浸されたダイナミックな有機的宇宙だとすれば(僕はそう思っていますが)、それが入ってこなくなるよう内側からブロックしてしまっているから活力が枯渇してしまうわけで、要はそのブロック、障壁がはがれ落ちてしまえばいいのです。

 そのブロックはどうして形成されるのか? 生命力旺盛な小さな子供の場合、まだ自我の鎧をまとっておらず、だから彼らは傷つきやすいのですが、それゆえに天真爛漫で、元気でもあるのです。文明の条件づけによって自我人格が成長し、成長するにつれてその鎧はどんどん厚くなっていって、型にはまりすぎた面白みのないオトナになり、それに伴って生気の乏しいロボットみたいになってしまう。それがこの文明世界では実際に起きていて、うつになるとその生気の欠如は本人にも深刻なものとして自覚されるのですが、それは急に始まったものではなく、臨界点に達したから顕在化しただけなのだとも言えるでしょう。

 おそらくうつ解消の最大のヒントはこのあたりにあるので、手前味噌になるのを承知で言わせてもらうと、この前出したジョン・マックの訳書『エイリアン・アブダクションの深層』の重要なメッセージの一つはそのことで、そこに出てくる北米のシャーマン、セコイア・トゥルーブラッドの言葉に代表されるように、現代人には「自分に再び傷つきやすくなることを許す」ことが必要になっているのです。多くのアブダクション体験者は、エイリアンとの遭遇という異常な事件をきっかけに、自我人格の崩壊というある意味最も恐ろしいことを経験し、そこから全く違った世界観、自己観に到達する。彼らの自我の鎧はそれで剥ぎとられてしまって、ヒリヒリするような「傷つきやすい状態」に置かれ、同時に失われかけていた強い生命感覚が蘇るのです。甲冑をまとったままで生命を感じることはできず、自然と触れ合うこともできない。人との深い心の通じ合いもそれでは不可能なのです。

 そうしたことがエイリアンに遭遇でもしないと可能にならないということは、いかに今の文明社会が病んでいるかの裏返しです。そういう読み方をしてくれた読者がどれくらいいるかは知りませんが、びっくり仰天のエイリアンとの遭遇それ自体より、そちらの方が本質的なものだと著者は感じたわけで、焦点はそうした意識の変容、感受性の変化の方に合わされているのです。

 犬や猫などのペット愛好家たちは、彼ら相手だと自我障壁なしに安心して接することができ、それによって癒される感じがするから、世話などあれこれ面倒なことはあってもペットを飼うのでしょう。心身症の子供たち相手のアニマル・セラピーというのもありますが、あれも原理は同じで、よけいな自意識の妨害なく、心(プシュケ)、生命レベルでの交流がそこでは無理なく行われるから、彼らは元気を取り戻すのです。

 これは、ふだん意識化されていないが、自我意識というものがどれほど今の文明人にとって大きな妨害、桎梏になってるかを物語るものです。それがマックの本に出てくるアブダクティたちが言う「生命は一つ」という感覚の感受を妨げている。いや、そんなことはわかっていると言っても、それは頭の先で考えた観念レベルのものでしかないのです。

 その実感は失われている。それは今の文明社会が総がかりで行なっている「人は個別の実体で、独立した意識主体である」という条件づけの産物です。今はやりの「自己責任論」なども狭小な自我意識を前提としたもので、そんなもので人は道徳的になどなるはずはないのですが、それがわからないのはこの前提をいっぺんも疑ってみたことがないからです。

 うつに悩む人も、無意識にこの「自己責任」観念の中でもがいているのです。そして、何とかして自分を立て直さなければならないという思いが、先に言ったブロックを強化して、いっそう生命の枯渇感を募らせるという悪循環に陥るのです。だからその外に出なければならないが、“自分が”そうしなければならないと思ったとたん、それは不可能になるのです。それは禅の公案みたいなものなのです。

 こう書くと、「何だかそれができない自分を責められているような気がする」と言う人がいるかもしれません。今は何を言ってもやたらその種の反応が多いのですが、これはそれ自体がうつメンタリティの特徴なので、だから今はうつが国民病になっていると言ったのです。しかし、それは僕の本意ではない。うつで衰弱しているときに高度な哲学的思考なんかできるはずもないので、ここで言いたいのは、「自分で何とかしなければならない」という思いをいったん捨てなさい、ということです。それは自責感情を強化してしまうだけなので、自分というものを忘れることが大切なのです。

「人の世の中は助け合いだ」と言いますが、それは別の言い方をすれば「迷惑のかけ合いだ」ということです。個々の人が孤立化し、非寛容になってあれこれ非難し合うようになり、非難されまいとして過剰に防衛的になっているのが今の世の中ですが、これは間違いなので、今は親子、家族の間ですら妙に水くさくなって心配させまい、迷惑をかけてはならないと頑張ったりするのです。しかし、家族や友人というのは本来、迷惑をかけるために存在するようなものです。自我意識の垣根が今ほど高くなかった昔は、もっと気楽に迷惑をかけることができた(それで無遠慮にボロクソ言われることはあっても)。うつになって迷惑をかけざるを得なくなったということは、その自我の垣根を越えて人に助けてもらわざるを得なくなったということで、自尊感情は傷つくかもしれませんが、その自尊心は個我意識に基づくもので、もっと広い意識の地平に出るためには、それは乗り越えられねばならないものなのです。エイリアンに誘拐されるのも、うつになるのも、そのきっかけを提供する試練のようなものです。

 だからうつになったときは緊張を解いて、人に助けを求めてよい。何もかも自分で処理し、解決しなければならないと思うことは一種の傲慢です。小さな子供のように、苦しいときは苦しいと正直に言ってよいのです。そうすると、それに応じて助けてくれる人は必ず現れる。その人のことを気にかけ、何としても助けようとする人の愛情が、心の中に流れ込んでくるのです。そのとき、枯渇しかけていた生命力が自分の中に再び蘇ってくることが経験されるでしょう。ブロックが崩れかけているのです。僕もうつで追い込まれてもう駄目かと思ったとき、何人かの人に助けられ、その中には助ける義務など全くないのに惜しみない援助をしてくれた、世間的には赤の他人と言える人もいたのですが、その人は「あなたは自分の力を社会のために使わねばならない」と言いました。そのとき僕はわが身の始末すらできないのに、社会のために使う力など自分のどこにあるのかと奇怪に思いましたが、その人は頑として「ある」と言いました。よくうつの人にうかつに励ましの言葉などかけてはならないと言いますが、事情を知った上で自分が信じてもいない自分の力を信じてくれる人がいるということは、立ち直る際の大きな支えになったのです。

 大坂なおみ選手の場合はスタープレイヤーで、しばらくコートを離れても経済的な心配などはないものの、だからといって楽なわけではないでしょう。18年頃からということは、相当長く続いているので、軽度のものではないはずだからです。しかし、彼女には家族や恋人、理解のある選手仲間、そして多くのファンがいる。引退説もあるようですが、テニスは彼女の天職だろうから、充電すればまた元気になって情熱も蘇り、カムバックできるのではないかと思います。

 僕らふつうの無名人の場合には、無遠慮な好奇の目にはさらされない代わり、うつによる生活面の打撃などはいっそう深刻なものにならざるを得ない。しかし、理解し支えてくれる人が周囲にいてくれたおかげでうつの長いトンネルを抜けて再び活躍できるようになったという人はたくさんいる。それがリセットのいい機会となって、仕事を変えたり、同じ仕事を続ける場合でも、心の持ち方が変化したので、取り組み方がそれ以前とはガラリと変わったということもよく聞く話です。ほとんどの場合、そこにはいい方向への変化がみられる。

 まとまりが今一つで、うつに悩む人の助けになったかどうかはわかりませんが、思うことを書いてみました。
 



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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China may Trigger Catastrophic Disasters in the near future

2021.05.24(18:25) 831

 と、英語で書いてみましたが、日本語に訳せば、「中国は近い将来、破局的な大惨事の引き金を引くことになるかもしれない」です。その catastrophic disasters というのはむろん、第三次世界大戦も含みます。

 これは次の記事を読んでいるとき、なぜか英文のかたちで僕の頭に浮かんできたもので、理由はよくわかりません。書いていくうちにそれはわかるだろうと思います。

武漢のウイルス研究所員、19年秋に通院か 米紙報道

「習近平のポチ」と呼ばれるテドロス事務局長率いるWHOはこの前、「今頃になってか…」と多くの人を呆れさせましたが、ようやく中国に調査団を派遣して、「結局のところ、よくわからない」という無意味な結論の報告書を出したそうですが、この記事は今世界を大混乱に陥れているコロナウイルスが中国の武漢にあるウイルス研究所から流出したものであった可能性をあらためて示すもので、疑惑が再燃することになったのです(今の中国の場合、それは生物兵器研究と無関係ではないでしょう)。

 ただ、情報機関は研究者らが実際に何の病気にかかったのか把握できておらず、新型コロナの起源については中国から来たという事実以上の確たる情報はないという

 とあるように、明確な証拠となるものではないから、結局うやむやなまま終わってしまうでしょう。「中国武漢のウイルス研究所の研究者3人が2019年11月に病院で治療が必要になるほど体調を崩していた」ことは明らかではあっても、その研究者や関係者たちに聞き取り調査をして、それがコロナウイルスの症状と類似のものであったか、確認はできないからです。仮に中国共産党政府がそれを許可したとしましょう。しかし、その場合は、「違う症状だった」と証言するようあらかじめ命じられているはずで、それに逆らえば彼ら(とその家族)の命はない。あれは今でもそういう国だからです。だから真相は永遠に藪の中。

 中国があちこちで時代錯誤の「帝国主義的」侵略・兆発行為を繰り返しており(ウイグル人弾圧などはジェノサイド認定された)、それについてはここで繰り返し書くには及びませんが、新たにレーガン時代のスター・ウォーズ構想にでもとりつかれたのか、盛んにロケットなんかも打ち上げています。今月9日にも、「大型ロケット『長征5号B』の残骸がモルディブ近くのインド洋に落下」して、中国当局は「残骸の大部分が大気圏への再突入で燃え尽きたと説明している」が、「米メディアによると、残骸は4月29日に打ち上げられた長征の基幹部分で、全長約30メートル。残骸が大きいため大気圏で燃え尽きない恐れが指摘されていた」(日経5/9「中国ロケット残骸、インド洋に落下 米軍も確認」より)というものです。宇宙空間をゴミだらけにしようと、残骸がどこに落ちようとおかまいなし。

 ほぼ同時期に、火星への探査機も打ち上げ、それは着陸に成功した。次は「皆様のNHK」の5/23記事です。

 中国の国営メディアは、今月15日に火星に着陸した中国の探査機から、22日、初めて探査車が地表に降ろされ、調査を始めたと伝えました。火星表面の調査に成功するのは、アメリカに次いで2か国目です。
 中国の火星探査機「天問1号」は、今月15日に中国の探査機として初めて火星への着陸に成功しました。
 国営の中国中央テレビは、着陸機に搭載されていた探査車「祝融号」が、日本時間の22日昼前、初めて火星の地表に降ろされ、調査を開始したと伝えました。
 探査車は、重さが240キロあり、高性能のカメラや、地下探査のためのレーダー、それに地表の成分を検出する機器などが備えられているということです。
 そして、太陽電池を電源に6つの車輪で走行しながら、今後、火星の地形や地質の構造、地表の物質などを調査することにしています。
 火星表面の調査に成功するのはアメリカに次いで2か国目で、中国メディアは「この分野におけるアメリカの独占を打ち破った」などと伝えています。


 火星着陸には高度な技術が必要だとされ、研究者も育てず、科研費も極限まで削っている今の金欠日本だとそんなことは到底無理なのだそうで、中国が自慢するのも当然ですが、最後の一文からもわかるとおり、アメリカへの対抗心丸出しです。実利主義的な中国がたんなる「学術研究」のためにそんなことをするとは思えないので、地上のみならず、宇宙での覇権も確立して、それを世界制覇につなげたいという中国共産党の野心が背後にあることは確実と思われます。

 もう一つ、少し前の中国問題グローバル研究所所長、遠藤誉博士の次のような記事も僕は興味深く読みました。

習近平さえいなくなれば中国共産党は良くなるのか?

 詳しくはクリックして直接お読みいただくとして、僕が注目したのは次の箇所です。

 中央党校では、このようなことを教えないのかと、逆にあまりの「党賛美の純粋培養」の中で党員幹部を育てていることに驚きを禁じ得ない。

 韓国もファンタジーに近い嘘の歴史を学校で教え込んでいて、それが日韓関係がいつまでたっても悪くなるばかりの大きな理由の一つ(政治家はその洗脳教育を土台に反日煽動で支持率を高めようとする)ですが、中国共産党政府は、一般国民に通常の学校で洗脳教育を施しているだけでなく、上の引用にも出てくる幹部養成のための「中国共産党中央党校」なるものがあって、ウィキペディアの「概要」にはこうあります。

 中央党校の幹部養成コースは短期および長期があり、その対象も末端の県書記クラスから中央委員・閣僚クラスまで多岐にわたっている。中央・地方の党幹部、政府幹部が一定期間、党校に研修に来ることもある。このため、人によっては複数回「入校」し研修を受けることがある。また、年間のコースに参加することは、中央幹部候補生であり、校長との知己、同窓などの人脈が今後のキャリアのうえで重要となる。中央党校の研修コースは、別に大学の学部および大学院に相当する研修コースもある。

 日本でもその明るいキャラクターでかなりの人気があった華春瑩報道官なども、一時姿を消したと思ったら、この中央党校で「研修」を受けていたそうで、その後報道局長に昇進したことは記憶に新しいところです。そこで「党への忠誠」を新たにしたわけで、その洗脳教育はおよそ徹底している。

 上の遠藤博士の記事でも触れられているように、毛沢東はスターリンを楽に上回るほどの悪辣な独裁者で、今は西洋では「政治家の皮をかぶった大量殺人者、サイコパス」として精神病理学の研究対象にもなっているほどですが、70年代中頃までは全然違った伝えられ方をしていた。げんに僕は高校生のとき、「中国版ガンジー」みたいな彼の伝記(誰のものか忘れましたが、西洋人の書いた本の翻訳)を読んだ記憶があるので、共産党はともかく、毛沢東は偉い人だったのだなと思ったほどです。しかし、それは全くの嘘の皮だった。今の日本でも次のような本は入手可能です(古本で安く買えるが、これはいい本です)。

『中国がひた隠す毛沢東の真実』

 それで、習近平はこの毛沢東をお手本としていて、たいそう尊敬しているのだというから、始末に負えない感じですが、こういう過去の歴史的事実は今の中国では完全なタブーになっているわけです。毛沢東がサイコパス丸出しの異常殺人者であったことなど教えるわけもなく、幹部たちもそれと反対のことを教えられ、信じているのです。

 中国共産党は、拷問と洗脳技術では非常に高度なものを持っていて、これは“伝統的”なものです。その研究ではRobert Jay Liften が有名で、この人はオウム真理教の研究もして本を書いていますが、元々は Chinese Communist Thought Reform(中国共産党の思想改造)の非人間性とそのひどい実態についての研究で有名になった人です。それはほとんど悪魔的と言ってよい。それはずっと続いているので、ウイグル人に対するそれなどもたんなるその手荒な応用にすぎないのです。

 話を戻して、今の日本人には中国の国を挙げてのそうした洗脳教育の深みは実感できない。それに逆らう人たちは中国国内にもいますが、それは文字どおり命がけのプロテストなのです。ベースが違うので、遠藤博士などはそれを織り込んだ上で書いておられるわけですが、それは観念的、イデオロギー的なネトウヨたちの議論とは根本的に違うところから出ていると僕は見ています。そのおぞましさが伝わらないことを博士はもどかしく感じているのではないでしょうか。

 アメリカもひどいことを第二次世界大戦後さんざんやってきて、近くはアフガンとイラク相手のそれがある(いずれも国際法上は完全な違法)わけですが、それでも言論・報道の自由は担保されているので、隠されていたこともそのうち外に出てくる。共産党一党独裁の中国では、しかし、それはないのです。かつ、今も見たように、洗脳教育がおよそ徹底している。戦前の日本の皇民教育と同じか、もっとひどいと言っていいので、そういう国がアメリカと覇権を争う超大国にのし上がったのです。人口規模だけでいえば、3億3千万に対し、14億4千万もいる。これから急速に人口の高齢化が進むと見られていますが、それで国内的な舵取りが難しくなって、国民の不満が鬱積すると、共産党しかないので通常の政権交代も起きず、求心力を維持するのに外部への敵意を煽り立てる方向に行きやすい。ウイグル人相手の蛮行にしても、内部の中国人はその実態など何も知らされていないから、外部からの批判はたんなる不当な非難だと感じられる。台湾問題も、東・南シナ海の領有問題も、中国共産党流の洗脳教育が効いていれば、どれも「不当な言いがかり」なのです。

 かつて日本が関東軍の暴走に引きずられてどんどんおかしな方向に行ってしまい、国際的な孤立を深めて日中戦争、太平洋戦争の泥沼に引き込まれていった背景には、圧倒的な民衆の支持があり、それは皇民教育という名の洗脳の賜物であったことは、ネトウヨは認めないかもしれませんが、大方の日本人が認識していることです。客観的な現実認識など、そこには存在しなかった。今の中国にもそれと似たところがあって、同じ時代に生きてはいても、呼吸している社会の空気は全然違うのです。

 僕は予言者でも霊能者でもないので、今後どういうことが起きるのか、具体的なことはわかりませんが、富強を誇る共産党独裁国家の中国が、今後の世界最大の危険因子になることだけはたしかでしょう。そのポイントは幹部まで「純粋培養」教育で育てるその洗脳ぶりと、それによって生じる彼らの現実認識の深刻な歪みです。世におかしな mind-set ほど恐ろしいものはありません。人類が滅びるとすれば、外部的な要因の前にそれがあったからだと言えるでしょう。心のありようほど恐ろしく、また強力なものは他にないのです。

 僕自身は今の文明世界全体が病的な mind-set に支配されていて、中国が暴走するしないにかかわらず、いずれ終わりになってしまうので、それを変えなければならないと思っていますが、それはまた別の話なので、ここには書きません。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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少数民族抹殺の歴史と生の意味

2021.04.20(12:40) 822

 先日、ピエール・クラストル著『大いなる語り―グアラニ族インディアの神話と聖歌-』(毬藻充訳 松籟社 1997)という本をネットで取り寄せて、おとといの晩、それを読んでいたら、色々な思いが群がり起こってきて、寝つけなくなりました。昔から、枕元のスタンドをつけて催眠剤代わりに本を読むのは僕の習慣なのですが、時々本の選択に失敗して、徹夜で読んでしまう羽目になるので、今回も同じ愚を犯したわけです(洋書だと早く眠くなるのではとそちらにするときもあるのですが、それだと夢の中で英文の続きが出てきて悩まされることがある)。どうも六十代の老人らしくなくて困ります。

 まず、この本をどうして取り寄せたのかという経緯からお話しすると、しばらく前に本を整理、というか、あまりにもあちこちに本が散らばりすぎているので、それを片づけていて、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』(山上浩嗣訳/西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013)が、読みかけて中断したままになっていたことに気づいて、それを読んだのですが、その中に「付論」として、シモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルの関連文章が入っていて、ヴェイヌは若い頃、面白いと思って何冊か読んでいたのですが、ピエール・クラストルという人は知らない。しかし、その文が面白かったので、註を見ると、政治人類学なるものの専門家だという。それでネットで調べると、その筋では有名な人で、1977年に43歳の若さで交通事故で亡くなっている。学者としてはこれからというところで残念です(今度上梓する訳本の著者、ジョン・マックも交通事故で亡くなっていますが、こちらは74歳でした)。

 ついでに、この『自発的隷従論』ですが、訳者がつけた註の充実ぶりにはびっくりで、西谷修氏の解説もいいものだし、まさに「学芸文庫」の名に値するという感じで、僕は割と注釈の類も細かく読むほうなのですが、読みながらこれは凄いなと唸ってしまったほどです。原著者としても、こういう訳本を作ってもらえれば本望でしょう。妙な言い方をするなら、本文よりも訳註や解説の方が面白かったぐらいです。

 話を戻して、それでこのクラストルという人の本を探したら、訳が何冊か出ていて、一番手っ取り早く読めそうなのが冒頭の本だったので、取り寄せてみたのです。新本を注文したのに届いたのは97年1月の初版だったので、24年たってもまだ残っているということはあまり売れなかったということですが、これはインディアンもので題材が一般受けしない上に、研究書なのでそう珍しいことではなく、本の価値とは関係がない(前にイギリスに本を注文したら、40年前に出た初版が届いたので、感動したことがある)。これは同じ話の複数バージョンを紹介していたり、読み物としては退屈なところもありますが(動物が登場する子供向けの昔話の趣もあって、笑える箇所もある)、あちこちに考えさせるところがあって、僕自身は非常に面白く読みました。薄い本だなと思ったのですが、本文は二段組になっているので、全142頁の本にしてはボリュームがある。1500円(税別)という定価は、従って良心的です(ついでに言うと、文化を重視するなら書籍には消費税をかけないようにすべきです)。

 僕がこれを注文したのには他にも理由があって、それはアメリカインディアンの文化に関するものだったからです。訳者の毬藻氏によれば、このグアラニ族とは今のカイオワ族と呼ばれる人たちだという。それだと聞いたことがあると言う人が多いでしょう。これはその神話と聖歌を収録し、それに解説を加えたものなのです。

 僕は文化人類学には疎く、その方面はあまり読んだことがないのですが、ものすごい山奥に育って、遊びと言えば狩猟採集民生活を無意識に模倣するようなものばかりだった上に、祖母の溺愛を受けて育ち、その祖母は明治生まれで、旧暦に従って古来の祭礼を執り行いながら一年を送っているような人で、たいそう信心深かった上に、学校教育とほとんど無縁だった人にはときにあるように、驚異的な記憶力の持主だったので昔話(それは近代合理主義的な見地からすれば、荒唐無稽なものを多数含んでいた)をたくさん聞かされ、幼時環境の影響力は大きいので、そういうのが全部合わさって、シャーマニズム的な感じ方、考え方に親近感を覚える素地ができたのかもしれません。

 たぶん一番変わっているのは、祖母は通常の神様仏様の他に、妙見様という土俗宗教(それは北斗七星と関係する)を熱心に信仰していたのですが、その関係で、僕は小学校を卒業するまで必ず月に一回、第一日曜だったと記憶しているのですが、温泉町にあるみすぼらしい建物のその妙見様に連れて行かれ、そこの主人である巫女さん(無欲な人でしたが、すぐれた霊能の持主とされていた)のご祈祷を受けさせられていたことです。祖母はよく「おまえは氏神様の申し子だから」と言っていて、その割に泣き虫で体躯が貧弱だったので、特別に霊界からの加護(?)を仰ぐ必要があると考えていたのかもしれません。本人は親の目を逃れてアイスやお菓子を買ってもらえるのが嬉しくてそれに従っていただけで、子供心にもそんな話は信じられなかったし、実際的で合理主義的な両親も害はないだろうということで口出ししなかっただけなのですが、今思えばこういうのはシャーマニズムそのものです。

 ついでに笑い話をすると、そのうち牙のような大きな八重歯が口の両側、しかもかなり上にはえてきて、それに上唇が引っかかって口が開けにくくて困るので、そう母に訴えると、おまえは人間の子供ではないから、そんな動物の牙みたいなのがはえてくるのだと、それを逆手にとって面白半分に言う始末でした。歯医者の先生は「そのうち下に降りてくるから大丈夫」と保証しましたが、全然そうはならず、しまいにはどちらも虫歯になって抜く羽目になり、それでやっと「人間の顔」になったのです。その牙と妙見様が関係あったのかどうかは知りません(息子にも特大の八重歯があるのですが、幸いなことにそれは片方だけです)。

 話を戻して、当然の流れとして、成長すると共に僕はそういう世界から離れて「文明化」されていったのですが、子供時代の環境というのは恐ろしいもので、今のこの物質主義的・合理主義的な文明社会にはどうにもなじめないところがあって、自分の原始性のようなものを強く自覚せざるを得なくなりました。そこから異端的なものや少数民族などに親近感をもつようになって、その中には当然、アメリカインディアンに対する同情と共感のようなものも含まれていたのです(だから、インディアンを悪者にした昔の西部劇なんか見ると、不当だと腹を立ててしまう)。

 もう一つ、今回の『エイリアン・アブダクションの深層』には、南米、北米のシャーマンが出てきます。二人とも西洋白人との混血ですが、その伝記的記述を読んでいて、彼らが今もなおどれほど悲惨な状況に置かれているか、あらためて胸に迫ってきたので、そういうこともあって、これはぜひ読んでみたい本だと思ったのです。

『自発的隷従論』の中に収められたクラストルの「自由、災難、名づけえぬ存在」から少し引用させてもらうと、彼は「あらゆる権力は抑圧的であり、〈区別〉を伴うあらゆる社会には――その社会が自然に反するものであり、自由を否定するものであるかぎりにおいて――〈絶対悪〉が宿っている」というのですが、そこから次のような見解を述べるのです。

…原始社会は、いかにして不平等、〈区別〉、権力関係を生じさせないように機能していたのか、いかにして災難を回避するに至ったのか、いかにしてそれが始まらないようにしたのか…。(中略)…原始社会が国家なき社会であるのは、そうした社会が、そもそも国家の出現によって特徴づけられる成熟した段階に達することができないからではなく、国家という制度を拒否しているからである。原始社会が国家を知らないのは、そんなものを望まないからであり、部族が族長制と権力とを分離したままで維持されているのは、族長が権力の保持者となることを望まないから、つまり、族長が君主となるのを拒否するからである。服従を拒否する社会、これこそが原始社会である。(『自発的隷従論』訳書p.206)

 僕は前にアーサー・ガーダムの『偉大なる異端』を訳しました。それは中世のキリスト教異端カタリ派の歴史と思想(オカルトに分類されるようなものも含む)を扱ったものですが、こういうのはカタリ派の権力観と驚くほどよく似ているのです。カタリ派にはパルフェと呼ばれる聖職者と平信徒の区別は明確なものとして存在しましたが、それは自由を否定し、組織を階層化させるような性質のものではまるでなかったので、それは基本的に個人の自発性に基づく平等な共同体だったので、当時としては例外的に、男女差別もなかったのです(シモーヌ・ヴェイユがカタリ派に親近感をもったのもこうした理由によります)。それは当時人気を博して西洋世界に燎原の火のように広がり、これを大きな脅威と感じたローマカトリックによる大弾圧を受けて滅んだのですが、カトリックの方は厳格なヒエラルキーをつくり、配下と信者に絶対的な服従を要求し、国家という権力装置も丸ごと肯定して、これを従えようとしたのです。その結果、異様な国際神権政治が出現し、通常の弾圧に加え、幾度も十字軍なるものを編成して組織的殺人に明け暮れ、その規模はナチスを顔色なからしめるほどのものだったのですが、カタリ派がもしも同じような権力構造を志向する宗教団体だったなら、それに対抗しえたかもしれない。しかし、素朴な原始キリスト教徒的な在り方をよしとした彼らは、断固それを拒んだのです。

 アメリカインディアンたちが西洋白人にひどい目に遭わされ、抵抗むなしく敗れ去ったのも、彼らの社会が基本的に権力や階層秩序をもたず、約束や信義に基づく平等な社会を形成していたからです。白人たちの際限もない物欲・権勢欲や、言葉を目的達成のためのたんなる便利な道具としか見なさない(従って平気で嘘をつく)態度は、彼らの知らないものだった。善良な人間が貪欲なサイコパス集団にしてやられたのと同じで、土地(土地所有という厚かましい観念自体が彼らにはなかった)を気前よく貸し与えたら、自分たちが追い出され、殺される羽目になったのです。

『大いなる語り』の訳者、毬藻氏は、訳者あとがきで南北アメリカ大陸のインディオたちがどれほど悲惨な運命を辿らされたか、今もどれほど過酷な状況に置かれているかを1993年の朝日新聞の連載記事を引用しながら簡潔に述べています。

「絶望のインディオ居留地」と題されたその連載記事をさらに読み進んでいくと、数日後にこんな数字に出会う。先住民の血と悲憤で刻まれた野蛮の数字である――白人の入植が始まる以前のインディオの人口は、およそ600万人と推定されるが、今世紀〔註:20世紀〕に入ってからだけでも100以上もの部族が抹殺され、ここ七年間に確認された見接触部族のうち33の部族が消滅した。現在、ブラジルに残されたインディオは、187部族、25万人であり、「白人と接触した400年間でわずか4%」に激減した。そして「過去20年間に、インディオのために戦った運動家が114人も殺されている」…。1500年にブラジルが「発見」されて以後、土地を強奪され、奴隷化され、伝染病をまきちらされ、命と文化と自然を奪われてきた忌まわしい暴力と野蛮の歴史の果てには、申し訳程度に与えられた居留地と、過去仕込まれた居留地での自殺〔前の部分で、インディオ居留地での若者を中心とした自殺率は非インディオ社会の100~150倍にも達することが触れられている〕しか残されていないとでもいうのだろうか。…(中略)…アマゾンのインディオのある酋長は、インディオが滅びることは、地球が滅びることであると言っていた。このままで行くと2075年には、地球上の熱帯林は完全に消滅すると推計されている。(『大いなる語り』訳書p.137~8)

 事情は北米でも同じです。その一端は映画『ウインド・リバー』にも示されている。他にもオーストラリア、南アフリカ、ニューカレドニア、ポリネシア等々の先住民など、全部合わせれば、それはナチスによるユダヤ人虐殺の規模をはるかに超えるのです。あれは第二次大戦中で、かつ短期間に大々的に行われたから見えやすかったのですが、こちらはそうではなかったから忘れられやすいということにすぎません。

クラストルは集団虐殺(génicide)という言葉では表現できない現実が厳然としてあり、この現実は異民族文化抹殺(ethnocide)という言葉によってしか表現されないものだと言う」と、毬藻氏は書いておられますが、今の中国がウイグル人相手にやっていることなども、これと全く同じでしょう。それに関する記事を一つ。

収容所では性暴力や拷問も横行……「中国最大の国際的汚点」ウイグル問題で難民が続出

 中国の「同化政策」なるものは、「異民族文化抹殺」の別名なので、それはかつて侵略したチベット相手にもやってきたことです。それと「集団虐殺」の両方を同時にやっているので、世界から非難されるのは当然ですが、他の国の多くも、実は自分の入植先で同じようなことをやってきたということです。だからといって中国がそれを引き合いに出すのは、強盗殺人犯が「おまえらも似たようなものだから何も言うな」と居直るのと同じなので、そんなもの、まともに相手にする必要はありませんが、自分たちの罪を否定することはできないのです。

 思えば日本にとっての韓国問題も、彼らは並外れてしつこい上に、約束は守らないし、嘘や誇張も平気で並べ立てると僕らは腹を立てるわけですが、かつての日本統治時代、それで彼らの物質次元の生活はおしなべてお粗末な大韓帝国当時よりはマシになったという事実があったとしても、異民族の植民地にされて、その支配に従うことを強要されたということ自体、愚かな自国政権にひどい目に遭わされるのとはまた別の、強い屈辱感を伴うものだったのでしょう。

 古代においては朝鮮半島国家は日本の先輩格で、多くの文化や技術を日本にもたらしました。それは事実で、帰化人も多くいて、当時は関係も良好だったのです。支配・被支配の関係などはなかった。なのに、李氏朝鮮500年の停滞した愚政の果てに、そうした優位性はすっかり失われ、近代化にも大きな後れを取って、かつては教える相手だった日本の植民地にされ、その支配に甘んじる羽目になってしまった。そこに働く強い屈辱感ゆえに、事実認識においても冷静さを欠くことになって、日本人から見れば、明らかな行き過ぎと感じられるようなああいう態度になってしまうのかもしれません。当時の大韓帝国はかなりひどい国でした。それは為政者、支配層が駄目だったからですが、それを言われるとなおさら腹が立つというのは、民族感情としては理解しうることです。駄目な親でも、自分が言うのはいいが、他人から指摘されると腹が立つというのと同じです。植民地支配を受けるということは、民族の自立を奪われるのと同じで、「おかげで君たちは前よりはマシな生活ができるようになったのだ」などと言われると、そこに一面の真理があればなおさら、屈辱感は増すのです。独立を自力で勝ち取ったわけではないということも不快な材料の一つで、中国の場合には、共産党の手柄ではないとしても、正面から抗日戦争を戦ったという自負があるが、韓国にはそれもないのです。だから心情的になおさら屈折してしまう。

 僕はネトウヨ的な、「日本人は常に紳士だった」説には与しませんが、中国が今ウイグルの人たち相手にやっていることと較べれば、まだしも「紳士的」だったかもしれません。しかし、他国を植民地支配するということは、個別具体的な対応以前に、その地の人々にとっては侮辱的であり、人としての尊厳を害するものであるということは否定できません。実際にあったことならともかく、作り話までして非難するのはやめてもらいたいと思うのは人情ですが、やはりそこはよく考えてみなければならないなと、あらためて思った次第です。

 クラストルの場合は、そこにとどまらない。国家の成立を社会進化の必然とする考え方自体に彼は異を唱えて、インディオたちの社会は「未開」だったのではなく、国家というシステムが人間の自由と平等を根底的に侵害する危険な罠だということを見抜いていたがゆえに、意志的にそれを拒んでいたのだとするのです。それがラ・ボエシの言う「自発的隷従」を生み出して、人々はあえて権力による圧政を欲するがごとき習性をつくり出してしまった。「脱自然化」の結果、「自由への意志が隷従への意志へと変化しているような新たな人間」の出現を見たとするのです。

 上下関係を前提とした儒教道徳などはこの国家体制的支配と強い親和性をもっていたわけですが、老荘思想はこれに対する強力なアンチで、しかし、それはそれと正面から戦おうとするものではない。そういうこともまた「もう一つのさかしら」のように見なされて、せいぜいそこからドロップアウトして生きるすべを教えるようなものになって、だから中国の専制国家体制はずっと続いたのです(今のあれも共産主義「王朝」でしかない)。

 というより、それはいったん作ってしまうとどうにもならなくなってしまうような性質のものなのかもしれません。たとえそれが民主主義政体に移行しても、権力の基本構造は変わらず(同じ隷従心理に支えられているがゆえに)、忖度と追従が幅を利かせて、内部の人々は自由への恐怖と敵意をもち続けたままになる。またその民主主義なるものも、国家の異分子と見なされた人たちには適用されず、民主主義国家を自任するアメリカにおいてさえ、インディオたちへの暴虐は見過ごされるままになったのです。日本でも、アイヌや沖縄の人たちに対する差別(それは米軍基地問題を見てもわかる)は歴然として存在する。その存在自体が目に入らない、あるいは目に入れようとしない無意識のメンタリティが存在するのです。それが「自発的隷従」とセットになっている。

 これは難問です。いまさら〈国家以前〉には戻れないし、かといってこのまま何もしないのでは、社会に満ちる閉塞感と呪詛は募るままになって、いずれ自壊する。今の環境危機は内部のそれの合わせ鏡みたいなもので、今現在でもすでに崩壊寸前なのです。

『エイリアン・アブダクションの深層』第三部の終わりのところで、「なぜアブダクティたちはセラピストといる時よりもシャーマンと一緒にいる時の方が快適に感じるのか」という問題に関して、「シャーマニズムでは、あらゆる人の道が独自なのです」という、アーティストでシャーマニズムの研究家でもあるアンドレア・プリチャードの言葉が引用されているのですが、今の文明社会の中では大多数の人が自由と共に本来はもっていたはずの「独自性」を奪われ、その結果「なくて七癖」程度の、それ自体型にはまりすぎた表面的な個性を主張し、競い合うという不毛な状態に陥っているのです。インディオたちにはその種の「個性」の主張などはない。それはそんなことを必要としない各自の独自性があらかじめ認められ、感得されているからで、そこにある「個の尊重」の意味合いは全く違うのです。

 一つだけ、関連個所を引用すると、それは子供の命名の際の態度にも表れます。今の日本ではキラキラネームなるものが大はやりだそうですが、そうでなくても親個人が思いついた名前をつけ、字画の吉数で漢字を決めるのがふつうで、そこにはそれ以上の意味はありません。それは「個人の嗜好」のレベルを出ず、何か大きな宇宙的なものから与えられた存在論的意味合いなどというものはないのです。しかし、グアラニ族にとってはそうではない。

 未開社会のあらゆる部族と同じように、グアラニ族にとっても、子供の誕生は、その生物学的な意味や社会学的な含意から大きくはみ出るものである。それは、徹頭徹尾、超自然的なもの、メタ社会的なものの管轄に属している。生殖、つまり子供の身体を生産する行為は別にして、その他残りのすべてのこと、すなわちこの身体にその人格的な規定を割り当てることは、神々の自由な活動に依存しているのである。たとえば、この身体に住みつきにやってくる魂――〈住みつく言葉〉――の出生地の探求、子供が持つことになる正確な名前の探求は、賢者=シャーマンによって行われる。子供は、いわば生気のない空間――身体――として存在しており、この空間がアイブ――言語――の小片によって住みつかれ、生気を与えられるのだ。この小片が、この子供にとっては彼のフィエエンを、つまり彼の〈住みつく言葉〉、彼の魂を構成しているのである。どのような名前が与えられるかは神々によって選ばれるのであり、名前が与えられることによって生者は個人に姿を変えるのである。名前を読み取り、それを言うのはシャーマンの仕事であるが、彼はこの子供の正体を探求する上で間違いを犯すことはできない。なぜなら名前――テリ・モアン――とは「〈言葉〉の流れが・高まる・ように・させる・もの」であるからである。名前は、身体に残された神の徴であり、刻印であり、神の生である。(『大いなる語り』訳書p.104)

 何たる厳粛さ! 生のスタート時点で、個々の子供はそれほどまでに注意深い扱いを受け、その名前に与えられる意味合いも深いのです。物質環境的にはどれほど今の文明人が恵まれていようと、そこに聖性が認められることはない。言葉は魂の等価物であるがゆえに、彼らは言葉を大切に扱うのですが、ここでは名前とはその子の魂の呼称なのです。それは聖なる神の、全的な霊性の一片であり、それによってその子は聖なる全体と――当然自然とも――つながっている。それは現代文明人のいわゆる「個性」などというものではない。存在論的な深い意味合いと共に、彼らは部族、共同体に受け入れられるのです。それが空虚なものであるはずがない。

 若者のいわゆる「自分探し」なども、そんなことはナンセンスだと嘲る人は少なくありませんが、「自分の魂の名前がわからない」から起きることで、「自分が何者なのかわからない」という不安は生涯ずっとつきまとうのです。そこで多くの人はその心理的補償として成功を追い求め、権力や地位、名声、あるいは財力が何より重要なものになってしまうのですが、そのためには通常、追従や迎合、忖度が不可欠になるので、悲しいかな、自由でも、独自性をもつ存在でもなくなってしまうのです。今の文明世界では権力それ自体、「自発的隷従」の末に辿り着くポストなのです。僕はいわゆる成功本の類は読んだことがありませんが、そこには必ず、むろんもっと見栄えのいい言葉に置き換えられているでしょうが、その重要性が説かれているはずです。権力を手にして堕落するというより、そこに至るプロセス自体が堕落への道なのです。そして頂点に立ってわがもの顔にふるまっても、その内面の虚しさは癒されない。この文明機構そのものがその意味で、人間のスポイルシステムなのです。そこでは「自由」という言葉も、「個性」という言葉も深刻な歪曲をこうむっている。だからそれが本当は何であるかを、僕らは知らないのです。

 何という空虚な、馬鹿げた世界に自分は暮らしているのだろうと、あなたは思ったことがありませんか? これは自分を高しとして他を見下すというようないい気なものではない、もっと魂の底冷えを感じさせるようなものとしてです。ここには何か生のエッセンスというものが欠けている。生きているうちに魂との親しい結びつきを失ってしまった、あるいはそれなしの存在になってしまったような感覚です。

「なぜわれわれは、美しく身を飾った者であり、神々に選ばれたものであるのに、欠陥、未完成、不完全性に病んだ生活に委ねられているのか?」グアラニ族の思想家たちが、いやがうえにも認めねばならない苦く明白な事実、それは次のことである。われわれは、自分たちが天上にいる人びとの生を生きるに値する存在であると知っているのに、いまここで病んだ動物の生を生きる羽目に陥っているのだ。われわれは神々であることを望んでいるのに、われわれは人間でしかない。われわれの欲望が目指すもの、それはイウイ・マラ・エイン――〈悪なき大地〉――である。われわれがそこから逃れられないように定められている空間、それはイウイ・ムバエメグア――〈悪しき大地〉――である。いったいどうしてこんなことがありうるのか? どうしたらわれわれは、われわれの真の本性を再び取り戻し、空気のように軽やかな身体の健康を回復し、われわれの失われた国を取り戻すことができるのか? われらの父ナマンドゥが支配している七つの天空まで声が届くように、われわれの声に力が浸み込まんことを! われわれの言葉に美が浸み込まんことを!(同書p.14)

 これはラディカルだが、力強い思考、叫びです。しかし、一番そのひどい空間、〈悪しき大地〉に深くはまり込んでいるのは、僕ら今の文明人ではないのか? そういう自覚すらないとしたら、それは一層悲惨なことではないのか? 僕がこの「未開部族」の思想に関する本を読みながら強く思ったのは、そのことです。未開なのは一体どっちなのだ?

 長くなったのでこれでおしまいにしますと言えば、結論がどうなるか知りたかったのに無責任だと言われるかもしれませんが、かんたんな結論なんてあるはずがありません。重要なのは問題の所在を突き止めることで、僕個人は心情的には若い頃からアナキズム(無政府主義)に一番親近感を抱いていたのですが、それが現実的な解決策とは思えなかった。端的に言えば、人間はそこまで成熟していないのです。しかし、このラ・ボエシが言う「自発的隷従」社会を何とかしないことにはどうしようもないので、まず〈病識〉を獲得することから、僕らは始めるべきでしょう。

 まだお読みになっていない方で、興味のある人は、以下にアマゾンのURLをつけておきますので、機会があれば読んでお考えになってはどうかと思います。

『自発的隷従論

『大いなる語り』



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


論考
  1. UFO・エイリアンとフォークロア(06/11)
  2. 臨死体験時の幻像と現実世界(06/10)
  3. 今や国民病となった「うつ」の治し方(06/02)
  4. China may Trigger Catastrophic Disasters in the near future(05/24)
  5. 少数民族抹殺の歴史と生の意味(04/20)
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