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コロナウイルスと自然

2020.05.28(15:06) 727

 本題に入る前に、まずはこの「文春砲第二弾」予告記事です。こちらでは週末にならないと本屋に入荷しませんが、関東・関西ではもう出ていることでしょう。

元雀荘店員が証言「多い時は週3回」 黒川前検事長は10年以上前から「賭博常習犯」だった

 安倍はあの「訓告」処分も、「内閣ではなく、検事総長が決めたものを了承しただけ」と例によって大嘘こいていました。都合のいいことは何でも自分の手柄にするのに、都合が悪くなると必ず責任を他になすりつける。法的にもそれはありえないので、何でこの男はこの期に及んでまだこんなみっともないことをやっているのでしょう? 「私が決めたこと」と言えば猛批判にさらされると恐れるからでしょうが、それでいっそう「男を下げる」結果になるということがわかっていないのです。これが会社の社長や上司なら、部下は誰もついていかないでしょう。日本株式会社は倒産必至です。それはともかく、この記事は、

 今回、黒川氏は国家公務員法上の懲戒処分とならず、法務省内規に基づく訓告処分とされたことが「甘すぎる」と批判を浴びている。だがそもそも、人事院が示す国家公務員の懲戒処分の指針では、賭博をした職員は「減給または戒告」、常習的に賭博をした職員はさらに重い「停職」とされており、「常習性」の有無は一つの焦点だ。5月22日の衆院法務委員会で、黒川氏の賭けマージャンの常習性を追及された森雅子法相が「常習とは一般に賭博を反復累行する習癖が存在すること。そのような事実は認定できなかった」と「常習性なし」と答弁。安倍内閣は、この「常習性なし」を根拠に、黒川氏を訓告処分にとどめたのだ。

 と前置きした上で、「常習性なし」どころではなかったという「雀荘元店員」の次のような“決定的”証言を引き出しているのです。

 黒川氏は10年以上前から、新橋や虎ノ門、時には渋谷にまで足を延ばして、雀荘に足しげく通っていたことが分かった。黒川氏がよく訪れていた雀荘の元店員は、一切報じられていない産経の賭けマージャン仲間、A、B両記者の実名も知っており、こう証言した。

「黒川さんは、週に1~2回、多い時には週3回もいらっしゃいました。いつもBさんが予約を入れるのですが、Bさんが急な取材でドタキャンになることもあった。Aさんが一緒のことも多かった。休日に、ゴルフ帰りの黒川さんたちがマージャンをやりたがって、特別にお店を開けたことも何度もありました。風営法上、午前0時を過ぎての営業は出来ないのが建前ですが、照明を落として午前2時頃まで暗がりの中で続けることもありました。点数を取りまとめていたのはBさんでした」


「やっぱり…」という感じで、一連の報道を見て彼に「常習性」がなかったと信じる人は世間にはいなかったと思いますが、安倍官邸のみはそう信じて、「訓告」にとどめたのでした。辞表を提出したので、「自己都合退職」となって、退職金はいくらか減った(安倍は「減額」と言いましたが、これもそう見せかけたいための嘘で、規定が違うだけなのです)ということでしたが、「訓告」の優しい対応のおかげで5900万は確保できたということで、黒川氏は恩に着て、今後も安倍政権の「不都合な真実」をバラしたりはしないでしょう。安倍政権は子供たちの「道徳教育」にもとりわけ熱心で、道徳を学校の正科にまで昇格させたのですが、素晴らしい題材を提供して下さったもので、僕が学校の先生なら、これを使って、「安倍政権が広めようとしている道徳は、通常の道徳とは正反対である」ことを子供たちに説明するでしょう。マルクスをもじって言えば、それは「逆立ちした道徳」であり、ニーチェ流に言えば、「道徳は死んだ」という宣言に他ならないのです。

 むろん、下々の者は手厳しく罰せられるのですが、権力に親近する者はそれを免除されるのであり、「君たちは出世すれば、悪事を働いても処罰を受けることがなくなる。それは不道徳ではなく、“道徳の超越”と理解されるべきだ」と苦し紛れ説明されるでしょう。お勉強まるで駄目の安倍晋三は杜撰なネトウヨ本しか読んだことがなくて、マルクスやニーチェを読んだことは一度もない(読んでも理解できない)と思いますが、これはある意味で安倍版「超人」思想であり、安倍流「アウフヘーベン」(これも安倍は知らないだろうが、ヘーゲル哲学の用語)なのです。伝統的な日本語ではこれを何というかと言えば、「身勝手」とか、「ただの出鱈目」と呼ばれるのですが…。ほんま、ええ加減にさらせよ。

 この件は以上として、ここからが本題で、次の記事は非常に興味深いものでした。

・コロナ危機は「自然界の逆襲」人類がグローバル依存から脱却すべき理由

 見た目がこわそうなので、どっかのやーさんか、アングラ劇の主宰者、またはヘビメタのミュージシャンか何かだと思うかもしれませんが、この五箇公一(ごか・こういち)氏はれっきとした「生物多様性の専門家であり、国立環境研究所の生物学者」なのです。

〔ウイルス〕流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱です。アフリカ、中南米、中国の奥地など未開の地において、土地開発や農耕地の拡大による自然破壊、動物の乱獲、密猟、売買などが繰り返されることによって、自然界に埋もれていたウイルスと人間が接触するチャンスが必然的に増えてしまいました。

今回の新型コロナウイルスの場合は、コウモリか絶滅危惧種のセンザンコウ(中国ではその肉が珍味とされ、汚職役人の接待に使われたりする他、ウロコが漢方薬の原料として高値で売買される)を媒介としてヒトに移り、その後突然変異によって数種のタイプに分かれたと見られています。

 しかもこのグローバル社会では、人間が東西南北をあっという間に移動できる。都市部では人が密集していて、ウイルスが一旦侵入すれば爆発的に広がりやすい環境が整っています。新型コロナウイルスはまさに、そうした時代の流れに乗って瞬く間に世界中に広がりました。
 人間社会にとってみれば、ウイルスは恐ろしい病原体であり、疎ましい存在です。それゆえに今までは「排除するべきもの」としてしか捉えられてきませんでした。
 しかし冷静に考えてみれば、彼らは人間が地球上に登場する何億年も前から生態系のなかで生き続けており、野生動物とともに進化を繰り返してきました。それは彼らにも自然界における存在意義がちゃんとあるからなんですね。


 ふむふむ。元はと言えば、ウイルスの方が生物としては「先輩」なわけです。つまり、相応なリスペクトが必要だということになる。しかし、今の人間にそういうものは全くない。それで「新型コロナウイルスを含む新興感染症は、まさに人間に対する『自然界の逆襲』と捉えるべき事態です」と述べ、これは多くの人が漠然と感じていることだと思いますが、

 これからは「自然共生社会」の本質を見つめ直し、人はこれ以上野生生物の世界に立ち入ってはいけないことを改めて認識すべきです。かつての共生関係を保ってきた人間社会と自然界の間のゾーニングを取り戻すことが必要なのです。世界全体が独占主義的な考え方を捨て、自然共生を図り、持続的な社会構造へとパラダイムシフトをすることが求められます。

 と結論づけるのです。異議なし! かつての日本はどうであったか?

 日本は現在、資源の大半を海外から輸入している資源依存大国です。しかしかつてはそうではなく、この狭い島国で約1万年もの間、自立して生活してきた国だったのです。
 歴史上特に注目すべき循環型社会を維持していたのが江戸時代です。地方ごとに独自の経済構造を持ち、江戸を中心に緩やかにつながる地方分散型社会では、隔離された環境の中で資源を回す知恵があった。それでいて完全に外部を遮断するわけではなく、大陸とも適度に交流していたため、文化も隆盛を極めました。
 生物の世界には、それぞれの環境に適応した集団が分散して生息することで、どこか1つの集団が潰れたとしても他の集団からの供給が働き、種全体としては生き残れるという個体群構造があります。
 江戸時代もまた、地域ごとに最も適応度の高い社会を作り、経済を分散させることによって全体の適応度を上げていました。ところが、いま世界中で進行しているのは、地方分散型社会とは真逆の、画一化としてのグローバル化社会です。
 これは生き物の世界に置き換えて考えると非常にまずい状況です。全ての遺伝子がミックスされると変異(個体ごとの形質の違い)がなくなり、突発的な環境の変化とともに種が絶滅する恐れがあります。リーマンショックで世界中が一気に混乱に陥ったのと同じ構図です。
 グローバリゼーションの弊害は、何か問題が起きると全体が潰れかねない経済の脆さです。社会全体の持続性を高めるためには、グローバル化とは異なる方角に舵を切らなくてはなりません。


 これも、その通りだと思われます。少し脱線させてもらうと、この前も塾の生徒にたまたまそういう話をしたのですが、今は自然界の多様性が失われているだけでなく、人間の個としての多様性も乏しくなっています。昔は、今ほどサラリーマンが多くなかったので、親の職業も様々でした。商店などでも個人の自営が多かったし、農業、漁業、林業と、親が従事する仕事も様々だった。これは公務員やサラリーマンが悪いと言っているのではありません。ただ、今はそれが多くなりすぎ、子供の感性や考え、発想の仕方は親の職業、仕事の形態からもかなり大きな影響を受けますが、親がみんなサラリーマンになると、それだけ子供たちの個としての多様性も貧弱化するのです。

 三十代の頃、僕は関東である塾の個別指導部門の総管理者(肩書は「主任カウンセラー」というよくわからないものだった)をしていて、最盛期には二つの教室で、七、八十人の学生(院生も含む)講師がいました。見ていて面白いなと思ったのは、その考え方や発想、感性から大体の親の職業がわかる気がしたことで、「君の実家は自営だろう」ときくと、そういうのはほぼ100%当たっていた。何でわかるんですかときかれても、説明は難しいが、父親がきこりで、家がいわゆる第二種兼業農家だった僕が気づかないままその影響を受けていたのと同じで、発想や意識の働き方からして、何となく推測がついたのです。中には親が公立学校の先生なのに、それらしくないのもいましたが、その父親に昔教わったことがあるという別の講師や事務の子に聞くと、それは自由な雰囲気の先生で、権威主義的な型にはまった感じがなかったという話で、なるほどと納得したこともありました(にもかかわらず、その人はのちに市の教育長にまで出世して、ある中学で暴力のもみ消し事件が起きたとき、保護者たちの通報に対して迅速な対応をとり、隠蔽を企てた校長に厳しい懲戒処分を行なった)。

 これに、何番目の子かなんてことも絡んできて、もって生まれた素質はもちろんですが、複雑な個性が織りなされるので、長子と末っ子は違うなんて俗信も、根拠はかなりあるなとその頃観察しながら思ったのですが、何にせよ、親が事務公務員やサラリーマンばかりになれば、子供たちの個性の多様性もそれだけ乏しくなるのは確かだと思われたのです。自営でも、フランチャイズの店長と完全な独立自営とでは大いに異なるでしょう。

 今回のコロナでは、その乏しくなった自営が大打撃を受けているので、さらに減ってしまうのではないかと、僕はそれを危惧しているのですが、これが自然となると、その地域の多様性はすでに深刻に損なわれている。前に何度も書きましたが、それはあの農水省の愚かしい全国植林奨励政策で、やめどきを知らなかったために、各地の豊かな原生林の大部分が消滅したのです。もしもそれが残っていれば、沿岸漁業がこれほどまでに深刻な打撃(漁師さんに聞けばそれはわかります)を受けなかっただけでなく、観光資源としても、種の多様性の宝庫としても、はかり知れない価値をもちえたでしょう。しかし、そうはならずに、崖崩れの多発と、花粉症患者の激増を招くだけになったのです。コンクリによる無残な護岸工事や、河川の無用な砂防ダム建設も目に余るもので、僕の田舎の川なんて、元は素晴らしい渓流だったのに、面影を全くとどめていません。山も川も死んでしまった。見渡す限りのスギ山で、年中景色は同じ、川に行っても昔の十分の一も魚はいないという惨状です(十分の一は控えめな数値です)。しばらく前には台風による集中豪雨でその杉山が巨大な地滑りを起こし、川がせき止められて、大惨事が起きそうになった。その後始末の工事がまた、生態系への配慮もクソもない、無考えにカネだけかけたものと来ているから、言葉を失うのです。国破れて山河ありと言いますが、戦争に負けても豊かな山河は残っていた(それが子供たちを育ててくれた)のが、経済がゼロ成長になった今、かつてはあったその豊かな山河そのものが死にかけているのです。こういうの、何と言えばいいのか。地方消滅は人口に関して言われたものですが、生きた自然に着目するなら、それに劣らぬ惨事がすでに起きているのです。

 暗い話をしてごめんなさい、という感じですが、十年ほど前に高千穂のさる山林主が杉山を伐採して、そこに元々はあった各種の広葉樹の苗を植え直すという試みに、ボランティアで参加したことがあります。こういうのは原生林復興の企てで、それはその人が全部自腹で苗を買って行なったものですが、農水省あたりは罪ほろぼしにそういうことを全国規模で実施することを検討すべきでしょう。「浦島太郎の経済学」と揶揄されるアベノミクスは従来路線の経済発展(もう終わっている)を継続しようと腐心するもので、お話にならないので、彼ではなく今後の政権に期待するしかありませんが、日本の自然復興のプロジェクトを真剣に考え始めるべき時です。これからの地方振興というのは、そこにミニ都会を作り出すことではない。自然の復興を含めたその地域独自の産業、文化を取り戻すことです。

 コロナでテレワークがあらためて注目されていますが、地方に居住して子育てをしながら、東京の会社の仕事をするということも今は可能になっているわけです。文化的なことではそれはさらに容易になっているので、パソコン一台あればできることが今は多い。僕のような兼業翻訳屋でも、メールに添付して原稿を東京の出版社に送って、編集者とパソコンで、たまには電話でやりとりして、僕は古くさい人間なので、最後に紙に印刷されたもので最終チェックするから、一度や二度は宅配便の世話にもなりますが、大方は距離に関係なく秒速でやりとりできるので、どこにいようと違いはないのです。編集者が北海道で、こちらは九州、会社は東京と分かれていても、業務に支障はない。その意味ではほんとに便利になっているので、塾なんかでも、僕はそんなこと今さらやるつもりはありませんが、各地に散らばった生徒とパソコンで授業をすることができるでしょう。同じやり方でカウンセリングや講演もできるわけです。これは、都会に住んでいなくてもできることがたくさんあるということで、地場産業従事者にそういうやり方で仕事をする人を加えれば、地方人口を維持して、活気をもたらすことはできる。そういうことが、今回のコロナ騒動であらためてわかったわけです。黒川氏と記者たちみたいに、“3密”で賭け麻雀をやらないと人間関係が保てないというものでもないでしょう。どうしてもそうしたければ、地元の人間とすればいいわけです。

 上の記事に「資源の大半を海外から輸入している資源依存大国」とありますが、これには食料自給率の低さも含まれるので、かろうじてコメだけは自給できているが、僕が子供の頃よく見かけた小麦畑なんて、今はほとんどありません(調べてみると、その自給率は僅か14%にまで低下している)。茶畑は今もちゃんとあって、これはほぼ自給できているのでしょうが、昔はたくさんあった桑畑なんかも、今はないでしょう(子供たちはあの桑の実を夢中になって食べ、口の周りを紫色にして、お互いの顔を見て笑い合った)。なんで桑畑がかつてはたくさんあったかと言うと、その葉でカイコを飼っていたからです。僕の家でもシーズンには一間をカイコにあてて、そこでカイコたちがバリバリ、バリバリ音をたてながら葉を食べていたことをよく憶えているので、それはなかなかの壮観だったのですが、日本は当時、世界一の繭生産国だったのです。しかし、1969 年(昭和44 年)に中国にその座を奪われ、「輸入は1972年(昭和47 年)に10 万俵を越し,日本はいまや生糸輸入国になった」(大日本蚕糸会の資料による)のです。シルクの需要は今もあるのだから、無用の産業になったわけではない。綿花も、昔は日本でも栽培されていたので、僕は小学校に上がったばかりの頃、隣の伯母の家で、伯母が手回しの木でできた器具で綿の部分だけ分離させる作業をしているのを見物していたことがあります。こういうのも、今は輸入頼みになっているわけです。

 こう見てくると、昔の日本の農家では四季折々、実に色々なものが栽培され、作られていたことがわかるのですが、経済合理性には合わないということで、国際分業の流れの中で、どんどんモノカルチャー化していき、気づいてみたら、食糧自給率ですら37%という惨状に陥ったのです。子供たちの自然との付き合いもどんどん減っていった。イタドリやワラビ、ゼンマイなどの山菜も、延岡あたりにはまだいくらもあるのですが、子供たちはそれが食べられるものであることすらロクに知らないのです。今はビワが実をつけていて、スーパーの地産地消コーナーには出ていますが、近くにあるビワの実はなりっぱなし、落ちっぱなしです。もう少しするとヤマモモのシーズンですが、あれは学校の校庭や公園など、たくさん植わっていて、おいしい実をつけるにもかかわらず、誰も見向きもしない。僕はあれを食べないと夏を迎える気分になれないので、今でも毎年木に登ってあれを取って食べている(学校の中に入ると不審者扱いされるので、おいしそうなのがあってもそれができないのは残念)のですが、「今どき、そんなことをするのはあんたぐらいだ」と笑われてしまうのです。近くの公園の下にグミの木が一本あって、僕はあの渋みのある実が好きなので、それもこっそりとって食べたりしているのですが、枝が伸びるとすぐ切られてしまうのは、周囲にあれを取って食べる人が誰もいないからでしょう。昔からあった色々な魚の捕り方もほとんど知らないし、こういうのでは万が一のときのサバイバル能力はゼロではないかと思われるのですが、誰もそんな心配はしないのです(僕はわが子には、遊びを通じてひととおりのことは教えましたが)。これでは、田舎にいてもいる意味があるのか疑わしいので、「心は都会人」なのです。上の記事にある「画一化」は、こういうところにもはっきり出ている。昔の田舎の子供は、たしかに勉強面では大いに遅れていたが、他に都会の子供にはない色々な強みがあった。今は、ただ勉強が遅れているだけで、他に大した取柄はないのだと言えば、叱られるでしょうか。

 話を戻して、今は家畜の飼料も大部分は輸入なので、国家の独立性、自律性を維持したいと思えば、そこらへんも考える必要がある。先進国で日本ほど自給率が低い国は他にありません。かつては自給率が低かったあのイギリスですらほぼ70%にまで回復しているのです。これは緊急事態で貿易が止まれば、まっ先に潰れるのが日本だということを意味します。

 今は農学部人気が高くなっていて(上の記事の五箇公一氏も京大農学部の出身である由)、これは子供たちが無意識に忍び寄る危機を感じ取っているということなのかも知れませんが、グローバリズムはほどほどにして、上記の文にもある江戸時代の循環型経済・生産システムや、国内拠点の分散化、多様化を真剣に考えるべきときが来ていて、経済の活性化も、そうした方向を考えるとき初めて可能になるのかもしれません。同時に、ウイルス対策はもとより、アマゾン密林の急激な消失や、世界のサンゴ礁の絶滅(前にも書きましたが、このまま温暖化が進めばあと30年で完全に消える)など、国際協力が必要な問題は増えているのだから、利己的な自己防衛心理から「自立」を考えるだけでは失敗する。トランプみたいなのはまるっきり駄目だということです(覇権主義的な習近平の中国も困りものですが)。

 僕が環境問題で気になるのは、生活感覚、いわば肌レベルで、この問題を感じることが減っているのではないかということです。何度も言いますが、今は地球史上第6番目の生物大量絶滅のさなかにあります。科学者たちは繰り返し警告を発していますが、これまでとの違いは、それが人間の活動によってひき起こされたものであるということです。日本はそれとは関係ないみたいに思っている人が多いでしょうが、先にも書いたように、これはげんに国内でも進行していることなので、僕は科学者ではないので、データはもちませんが、原生林が消えて山は破壊され、川も、きれいな水が流れているので昔と変わらないと思うかもしれませんが、そこに潜ってみると、魚を初めとする水中生物が、数も種類も激減していることが感じ取れるのです。数年前、僕は故郷の川で魚を捕ってみました。昔はウジャウジャいたのが、これほどひどい状態になったのかと驚きましたが、そのとき注目したのはハゼの種類で、昔は何種類もいたのに、一時間以上もかけて、たった一種類しか見つからなかった。山も同じで、植生が貧弱になっただけでなく、生きものそのものが少ない。クワガタなんかも激減しているのです。あれほどたくさんいたヘビも少ない。谷なんかは面白いもので、そこに特有のタイプのエビとか貝がいたのですが、そこまでは調べませんでしたが、人工林による山の荒れ具合からして、おそらくそれらも消えているでしょう。何もかもが変わってしまったので、僕はただひたすら悲しかったのですが、こういうのはおそらく全国的な現象で、よく行く延岡の河川などでも、昔のことは知らないのですが、明らかに魚の個体数が少ない。ニホンウナギなどは久しい以前に絶滅に近いレベルにまで減っていますが、昔は放流なんかしなくても、ものすごい数がいたのです。

 こういったことに僕は恐怖を感じるので、だから生物大量絶滅の話もリアルなものとして受け止められるのですが、子供の頃生活の中で自然と接触することが少なければ、そうした変化が実感されることもないわけです。自然がもつ神秘に畏敬を感じることもない。そうした神秘は子供には最も強く感じ取られるもので、見えざる神々がそこにはいるのです。そうした感受性が消えてしまえば、それはもうたんなる経済的な資源、搾取の対象でしかなくなって、結果として今全世界で起きているような度の過ぎた自然破壊が起きるのです。

 そこらへんの感受性の問題があると思われるのですが、こういうのはアウトドア・レジャーの類とは性質が違います。「自然を愛する」と称してどこかに出かけて大音量で下品な音楽をかけ、バーベキューパーティを開いて、むやみと周囲を踏み荒らし、ゴミはそこらに平気でまき散らしてくるといった、それ自体が自然破壊の一つに他ならないことをしても害になるだけで益はない。野生動物をペットとして飼い、持て余すとそこらに捨てに行って、おかげでアライグマだのカミツキガメだのが勝手に繁殖して、生態系にもそこに住む人たちにも大迷惑をかけるといったことも同様です(大体、そんなものを売るな)。しかし、そういう馬鹿が今は掃いて捨てるほどいるわけです。

 僕は親御さんたちに、子供に自然と接する機会をできるだけ多く与えてもらいたいと思うのですが、もっと違うやり方があるので、やたらお上品になる必要はないが、子供を連れて行って遊ばせていれば、自然にそれがどういうものかはわかるようになるものです。根本のその感受性が狂ったり、やせ細ったりすれば、真に健全な共生思想はもてなくなってしまうでしょう。まずはそこから始めるのが一番効果的かなと思ったりします。ものを考える際、土台となるのはその人のもつ感受性だからです。

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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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米国防省、UFO映像を本物と認定

2020.04.28(18:04) 715

 コロナで塾を休みにした関係で、最近僕は世間の人並に割と早寝早起きになって比較的「健康的な生活」を送れるようになっているのですが、今朝ネットのニュースサイトを見ると、目立つところに次のような記事が出ていました。

米国防総省、「UFO映像」3本を公開 正体不明と結論

 3本のうち1本は2004年11月、残る2本は15年1月に撮影された。いずれも白黒の映像で、30~75秒ほどの長さ。物体が海上を高速で飛んだり、空中で回転したりする様子が撮影されている。
 国防総省は声明で「過去に流出した映像の真偽や、映像に続きがあるのかなどの臆測を取り除くために公開に踏み切った」と説明。問題の物体については「依然として正体不明のままだ」と結論付けた。


 この記事に出ているのは「画像」だけで「動画」ではないので、Youtube を足して検索してみると、驚いたことに、「皆さまのNHK」の動画付きニュース記事が出てきました。かねて僕は「全然見ていないのに、勝手に高い視聴料をとりやがって!」と腹を立てているのですが、あの人畜無害、突っ込みゼロで、メディアとして何の役にも立っていないように見えるNHKですら取り上げたというのは、それ自体がニュースかもしれません。

“UFO映像” 米国防総省が公開 “物体が何かは不明”

 この映像をめぐってはこれまで、アメリカの有力紙ニューヨーク・タイムズなどが独自に入手したとして伝えていました。
 映像を公開した理由について国防総省は「出回っている映像が本物かどうかや、ほかに何か隠しているのではないか、という人々の誤解を解くためだ」と説明し、写っている物体が何なのかは依然わかっていないとしています。
 アメリカ海軍では長年、正体がわからない飛行物体が目撃された場合、「不可解な現象」として記録に残してきませんでしたが、経験豊富で信頼できる多くのパイロットから目撃情報が寄せられていることから、去年、正式に記録に残すための報告手順を定めたガイドラインを作成しています。
 アメリカではFBI=連邦捜査局も過去にUFOの目撃情報などを調べていたことが明らかになっていますが、地球外の物体が特定されたケースは確認されていません。


 最後の「地球外の物体が特定されたケースは確認されていません」というところが、いかにも「皆さまのNHK」らしいところで、要するに、「世間ではこれをUFOなどと呼んでいますが、たんにこういう不可解なものが撮影されたというだけの話で、これが“地球外の物体”だとは当局も言っていないし、私たちもこれがUFO映像だなどとは決して言いません」ということなのです。じゃあ、何なのだ? 中国かロシアの最新秘密兵器なのか? いや、ですから、不明だと申し上げているわけで、今の人類のテクノロジーではこんな猛スピードで不可解な動き方をする飛行物体はまず考えられないと言っても、それがただちに宇宙人の乗物だとは言えないわけでして、観測気球や自然現象の類、または目の錯覚ではないとしても、それがただちに……。もうええわ、受信料、利子つけて返せよ。

 話を戻して、米海軍はこれをUAP(Unidentified Aerial Phenomena)、「未確認航空現象」と呼んで、世間で「宇宙人の乗物」視されているUFOとは“差別化”をはかっているのですが、長く公式にUFOを否定してきた手前もあって、同じ用語を使うのには抵抗があるのでしょう。flying object(飛行物体)というふうに言ってしまうと、その「物質的な実在性」を認めることになってしまうので、それは避けたい。しかし、そうなるとあれは「霊現象」なのかということにもなって、かえってオカルト風味が強くなってしまうのですが、そこまでは考えていないのでしょう。それが明確な物質現象でないのなら、カメラやレーダーにもそれが把捉されるというのが不可解ですが、量子物理学では物心二元論が成立し難くなっているので、そのうち、何としてもそれを否定したい科学者が、「脳内の幻想が外部の物質世界に投影されて、それが集団幻想のレベルにまで高まった場合、レーダーのような機械装置も反応してしまい、通常の物理現象のような外観を呈することがある」というような説明をしてくれるかもしれません。

 しかし、それはあくまで集団幻想の産物なので、「実際には存在していない」というわけです。それなら、あんたが見ているこの物理世界自体、あんたの肉体も含めて、脳内現象の産物なのでほんとは存在しないのだと言いたくなりますが、こういうのはいくらか高級な議論なので、理解されないかもしれません。絶対的なリアリティの見地からすれば、本当は空間も時間も存在しない(あのカント大先生も「(脳の)先験的な認識形式に規定されているから、通常の理性には“物自体”は認識できない」と言いました)。従って、この物理宇宙自体が二次的な実在性しかもたないと言えるので、森鷗外の「かのように哲学」ではないが、仮の約束として、「実在するかのように」しないと社会生活が営めず、下手するとわけがわからなくなって発狂する人も出てくるので、一応この物理世界は「実在」するものとして扱われるというだけの話なのです。この世があればあの世もあって、かつ、その「あの世」も一つではない。それはそのとき意識がどういう構成体、形態に宿るかによって、それに規定されて認識のあり方、見える世界も異なってくるからで、その意味ではUFOや宇宙人が別次元の世界からの訪問者である可能性もあるわけです。彼らはどのようにしてか、その異次元間通行を可能にするテクノロジーを開発した。映画『アバター』のように、彼らはこの世界にアバターを使って侵入し、従って宇宙船も宇宙人も、それは彼らの本体ではなくて、この物理世界に適合するよう作った乗物や乗員にすぎず、意識の投影によってそれを動かしているのかもしれない。彼らはそこにいるかのように見えるが、実際は違うのです。

 そういうこともありうると僕は思っているので、この謎だらけの現象はそのようにも解釈できるのです。だから、「生命が存在する惑星」を今の物質科学の流儀でこの宇宙で探し回って、それが見つからないから、宇宙人なんてものは存在しないと結論づけても、それは一面的なものでしかなく、「あいつらは頭が悪いな」と彼らは思うかもしれない。

 しかし、異次元宇宙からやってきているのだとすれば、彼らは何のためにそんなことをしているのか? 僕は「宇宙人の侵略」みたいなSFを一種の被害妄想心理の産物と見なして信用していませんが、おそらくそういうつまらないことのために彼らは面倒なことをして訪問しているのではなく、この物質宇宙、ことに地球という惑星には、その中で生物が進化し、それに宿った意識が進歩成長するという重要な意義があって、にもかかわらず、ヒトという地球生物のフロント・ランナーはそれを自覚せず、自然破壊を加速させて、意識にとっての「貴重な体験学習の場」を破壊し、生物が自然な進化を遂げるための期間を急速に縮めている。彼らはそれを憂慮していて、「あんたら、そういうことをやっとったんではあきまへんで」と、関西弁でそう言うかどうかは知りませんが、アラートを発して、「まともな生物としての自覚を促す」作業をやっているのではないかと思われるのです。

 軍事施設周辺でとくに目撃情報が目立つのも、深刻な環境破壊に加えて、核戦争をおっ始めるなんてことになると、人類が自滅するのは自業自得としても、他の生物にとっては傍迷惑この上なく、おそらくそれは宇宙全体、そのメカニズムは不明ですが、異次元の宇宙にまで深刻な悪影響を及ぼして、「宇宙的大惨事」になると彼らは考えているのかもしれません。「万物の霊長」なんて自惚れているが、半端でなくジコチューで頭が悪いこの生物に彼らは手を焼いている(今や火星にまでその魔の手を伸ばそうとしている、何てことだ!)。エイリアンたちの多次元宇宙評議会(地球の「国連」に相当)ではこれまで幾度となくこの「有害な生物」が議題にのぼっていて、「一刻も早く駆除すべきだ!」というタカ派の意見も出ているが、「愚かなのはたしかだが、学習の機会を奪うのはよろしくない」と言う穏健派の意見が今のところは勝っていて、「幸いにしてWKY0028考案のアバターは『グレイ』と呼ばれて、あの攻撃的で未熟な生物の間でも『親しみがわく』として好評を博しており、あれを使うと聞く耳をもつ者もいるようだから、もう少し様子を見ようではないか」ということになっているのではないかと、僕は想像するのです。

 これはかなり説得力のある見方ではないかと、勝手に思っているのですが、どんなものでしょう? 前に僕は「エイリアン・アブダクション現象」を扱った本を訳していると書きましたが、それは準備万端整っているものの、版権申請を行なったというしらせはもらったものの、契約が正式に成立したという連絡はまだ届いていないので、「コロナ休み」の今が編集者とのやりとりには一番好都合なのですが、そこで止まったままです。

 こういうニュースも出ていることだし、早く出せないかなと思うのですが、この段階に来たらもう書いてもいいかなと思うので書くと、それはアラビアのロレンスの評伝でピューリッツア賞を受賞したこともある、ハーバード大学医学部教授(当時)ジョン・E・マックの遺作になった本です。彼の専門は精神医学で、この方面の第一作『アブダクション』は訳が出ていたのですが、十年にわたる研究の集大成と言えるこちらの訳はまだ出ていなかった。日本の出版界の特徴の一つとして、UFO関係、エイリアン・アブダクション(いわゆる「第四種接近遭遇」)研究関連の本は驚くほど翻訳の点数が少ない。低級な冷やかし本の方は訳されているのに、です。それを僕は参考文献一覧の、日本語訳補充作業をしていてあらためて痛感させられたのですが、この問題はたんなる好奇の対象として扱われるべきではない明確な理由があるのです。その訳書が出れば、それがおわかりになるでしょうが、上に冗談めかして書いたことは、それも踏まえてのことです。

 ちなみに、マック教授はこの一連の研究でハーバード大教授の地位を追われそうになりました。そのあたりについては訳者あとがきでかなり詳しく説明しておきましたが、その理由は、彼が直接多くの体験者から面接調査を行なって、ほとんどの人が精神的にも安定した健常者だし、それはたんなる「新たな精神医学的病態(妄想や幻覚)」ではなくて、「何らかの意味でリアルな現実的体験」であることはたしかだとして、真面目に研究しようとしたところにありました。それが保守的な一部のハーバードの同僚たちには不快で、査問委員会にかけるよう大学側に働きかけ、これは現代アメリカ版「異端審問」のようなものだったのですが、そのやり口が姑息だったので、内外から逆批判を浴びて、追放には失敗した。腹の虫がおさまらなかった彼らはその後、若手の女性研究者に中傷本を書かせて、それを大学の出版局から出版した。その中傷本の愚劣さについてもあとがきで触れておきましたが、そちらは日本語訳が先に出ていたので、この訳書はそのあたりの誤解も解くことになるだろうと思っています。

 こういうふうに、日本ではこの方面の研究の紹介の仕方が不十分なだけでなく、アンフェアなかたちにもなっているわけです。頭ごなし「そんな奇怪な現象はありえない」と決めつけている人には何を言っても無駄でしょうが、今は大手メディアにもUFO関連のこういう記事が出るようになり、アメリカ軍当局も「不可解な航空現象」の存在を正面から認めるようになっているのだから、それを幻覚や誤認、妄想の類と決めつけることはもはや困難になった。興味のある方はその訳書が出たらお読み下さい。日本語訳タイトルとしては、これは僕が考えたもので、それが通るかどうかはまだわかりませんが、『エイリアン・アブダクションの深層』を予定しています。実際にその奇怪な現象の背後には何があるのかという「深層」を究明しようとしたものだからです。「こんな変わった話もあるんですよ」といったたんなる漫然たるエピソードの寄せ集めではない。僕はそんなものには興味がないので、それがエイリアンとは無縁に暮らす人たちにも根本的な世界観、人間観の問い直しを迫るものだからこそ訳す気になったのです。その本によれば、エイリアンたちは深刻な環境破壊に非常に心を痛めている。それが人類にとっても自殺行為であることがなぜわからないのか、彼らは憂慮にたえかねて、政治指導者に言っても「安全保障」がどうのといって聞かないので、一般人への働きかけを強化して、「草の根」運動を喚起しようとしているようです(アメリカで一番報告が多いのは、よくも悪くもそれが現代物質文明の中心地だからでしょう)。

 だから、環境保護運動の活動家には、彼らがそれを公に認めているかどうかは別として、アブダクション体験者がかなりの数含まれている。じゃあ、そんな本を頼まれもしないのに訳すおまえのところにもエイリアンは来ているのかって? 「皆さまのNHK」の真似をするようですが、そのあたりはご想像にお任せします。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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塾のことでおたずねの方に

2019.10.19(11:41) 661

 しばらく前に、このブログの鍵コメント欄(一般公開はされず、当方にだけ読める)を通じて質問された方(中学生のお子さんがいるお母さん)がいらっしゃるのですが、返信しても反応がないところを見ると、何らかの理由で届いていないのだろうと思われます。同じやり方で結構ですので、末尾にご自分のメールアドレスを記入して送っていただけませんか? そうすればメールを間違いなく送れると思いますので。または、このブログはコメントではなく、メールを送ることもできますので、そちらをご利用いただくかです。それならかんたんに返信できます。

 今のこういうのは、色々ある分、便利なようで不便なところもあって、僕のようなアナログ人間にはストレスフルです。こちらは無視しているわけではないのに、そう思われてしまうでしょう。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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『リターン・トゥ・ライフ』発刊のおしらせ

2018.11.04(12:45) 609

 ジム・B・タッカー著『リターン・トゥ・ライフ』が間もなくナチュラルスピリット社から発売されます。皆さん、買ってくださいということで、今回はそのCMをさせてもらうことにします。

・リターン・トゥ・ライフ 近刊予告

 まず、僕がどうしてこの本を訳すことになったかということですが、前回、ガーダムのカタリ派についての本、『偉大なる異端』を同社から出してもらった後、続けて未訳の『湖と城』の訳書を出してほしいという読者からの要望が僕のところに直接数件寄せられました。アマゾンのレビューにも同じことを書いてくださっている方がいますが、今の日本にも数は少ないが根強いガーダム・ファンがいて、あの本は複数の前世探索の物語なので、何であれを訳さないのだということなのだと思います。

 しかし、あれは分量が半端でなく多いし、商業出版として出すのは大変です。『偉大なる異端』にしてからが、僕が十年も訳稿を死蔵していたのは、日本人には縁遠い中世キリスト教の異端宗派の歴史・思想と、「霊界通信」によるオカルティズムが奇妙な具合に合体した本など、今の日本の出版界では出すのが絶望的に困難だと見ていたからです。いくら内容的にはいいのだと言っても、一般受けしない。あれはひとえにナチュラルスピリット社の今井社長の英断によるので、それは採算を考えての決断ではなかったでしょう。そこにもってきて、売れ行きが大いに心配される『湖と城』をまた出してくれなどとは、いくら面の皮の厚い僕でも言えないわけです。

 だからその要望には応じられませんが、その代わり同じ生まれ変わり関係の本で一つ、もっと広い読者層が期待できて、「これは信頼が置ける」というのを探して、出しておきたいと考えたのです。それは証拠調べが厳格なもので、強い説得力をもつものでなければなりません。頭ごなし「そんなものはない」と決めつける人には何を言っても無駄だとしても、良識と道理に則って物を考える懐疑派の人たちになら通じるようなものです。

 ニューヨークタイムズのベストセラーにも入ったタッカー教授のこの本は、その条件を満たすものと思われたので、出版年度も新しい(2013年)し、日本の読者に紹介するのには最適と考えられました。版権取得の報が入ったのは去年の11月頭だったので、ちょうど一年たって訳書として世に出る運びとなったのです。

 内容に関しては、ナチュラルスピリットの上記ホームページの説明を見ていただければ、大体のところはお分かりになるだろうと思います。第八章に量子物理学に関するかなり専門的な議論が出てくるので、一般読者、ことに文系の人はそのあたり難儀させられるだろうと思いますが、著者の議論で一部不完全に思われるところについては訳者あとがきで補足しておいたので、細かい部分にはわからないところがあっても、議論の流れ、全体の趣旨だけ汲み取っていただければ、大きな支障はないでしょう。それ以前の箇所は、具体的な事例を扱ったものなので、読んで理解に骨が折れる箇所はないと思います。びっくりさせられるような話がかなりたくさん出てくるので、そのあたりは読まれてのお楽しみです。

 僕自身としては、これで「前世もの」の紹介は済んだものとして、次は全く別の方面のものをやりたいと思っています。『偉大なる異端』のときは、数か月遅れでミシェル・ロクベールの大著『異端カタリ派の歴史』(講談社)が出るという面白い現象が起きて、日本での偏見のないカタリ派紹介がこれで実現したと喜んだのですが、カタリ派がらみで別の生まれ変わり本を訳した後は、まだ頭がボケないうちにやっておきたいことが二つほどあって、一つは、哲学的・心理学的な「無我」論です。

 一見すると、「生まれ変わり」と「無我論」では矛盾します。私というものが本当は存在しないなら、生まれ変わる主体もまた存在しないという理屈になるからです。しかし、「本当は存在しない」はずの〈私〉が、僕らのこの世界では存在すると信じられていて、それが強固な自我感情を生み出し、磁石が砂鉄を引き寄せるのと同じで、思考も感情も自己観念に染められたものとなって一つの「かたまり」を形成し、死後もそれは文字どおりの「残念(残った念)」として存続すると考えられるのです。

 それは「解消を求めるトラウマ」であり、「未完の願望」でもあります。あなたも僕も、そういうものがなければおそらく生まれ変わってはこなかったでしょう。トラウマ感情は何らかのかたちで再体験されねばならず、未完の願望は果たされねばなりません。と同時に、仏教で「無明」と呼ばれるこの「自己の実体視」それ自体を超えさせようとする促しの力もそこには働いているはずです。

 生命というのは根源においては一つの力です。同時に、意識や知性というのも根底的には一つです。であればこそ、僕らはこの世界のすべての生命に共感をもち、世界や他者を理解しうるのであり、それができなくなったとすれば、それは狭い自己観念に災いされて、内面のありようが closed circuit(閉じた回路)になってしまっているからです。それこそが「諸悪の根源」であり、知性を曇らせ、愛情を変質させ、自他の破壊をもたらすものです。

 それは観念のレベルではなく、ハートのレベルで理解されねばなりません。そもそもが、生まれ変わりをもたらすこの心的複合体自体、それ(いわば「認識の過誤」)を原因として生じたものであり、持ち越されたトラウマの解消であれ、未完の願望の達成であれ、そのことについての理解の深まりなくしては満足なかたちでは果たされないでしょう。それが欠落していれば、僕らはかえって「悪しきカルマ」を募らせるだけになるのです。

 おそらくその理解は、「人類最大のミッション」と言えるものでしょう。文明は高度に発達し、今の僕らはかつての王侯貴族ですら望みえなかった利便と物欲の充足手段を手にしましたが、それは地球環境の度の過ぎた搾取・破壊とセットになっていて、科学者たちが再三警告しているように、地球史上、第六番目の生物大量絶滅の時代に入っているのです。それは人為的な原因によるという点で、過去のどの大量絶滅とも違うものです。

 人間世界内部においても、利己主義はピークに達した感があって、貧富の格差が拡大しているだけでなく、日常の人間関係においても孤立と対立が深まり、「愛の欠乏」に悩む人が激増しているのです。自己愛性パーソナリティ障害という病気(先のclosed circuit の完成形と言える)というのがありますが、しまいにはその手の人が多数派になりかねない。それやこれやで、今の人類は自滅の坂を転げ落ちているのです。このままではあと百年もつのかなと思われるほどです。

 僕はそれは「道徳教育」などではどうにもならないものだと思っています。それは基本的な認識の問題で、自己理解、世界理解のあり方自体が根底から変わらなければならないのです。大袈裟に思えるかもしれませんが、今や事態は深刻なレベルに達しているので、それに対するカウンターになるような本を翻訳、紹介しておきたい。次に手がけるとすれば、その種の本(まだ未定ですが、候補はあります)になるでしょう。

 今回の本でも、著者のタッカー教授は、この世界もあの世も「一つの夢」として理解しうるとして、人類は「よりよい夢」の建設に向けて歩みを進めることができるはずだと書いていますが、僕もそれは同感で、もしもそれを心がけないなら、この地上世界という夢は、遠からず悪夢と化すでしょう。生まれ変わりといっても、それはたんなる「面白話」の範疇を超えるパースペクティブをもっているのであり、一見無関係に思えるようなことにも実は関係するのです。それはあなたの生き方を変えるかもしれない。

 というわけで、ぜひお買い求めになって、お読み下さい。著者はクール・ヘッド(冷徹な知性)とウォーム・ハート(暖かな心)を併せもつ人で、子供たちの姿が生き生きと描かれているのも、この本の長所の一つです。そしてメインの記述とはまた別に、子供たちが語る「あの世」に関する話には、頭でこしらえたものではないだけに、キラリと光るものが含まれている。それは大人にとっても十分に啓発的なものなのです。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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7月分の講座

2018.06.19(12:57) 582

講座のコーナーに新記事を追加しました。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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  1. コロナウイルスと自然(05/28)
  2. 米国防省、UFO映像を本物と認定(04/28)
  3. 塾のことでおたずねの方に(10/19)
  4. 『リターン・トゥ・ライフ』発刊のおしらせ(11/04)
  5. 7月分の講座(06/19)
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