終戦記念日に考えたこと

2017.08.16.23:37

 昨日8月15日はお盆の最終日であると共に、敗戦後72年目の「終戦記念日」でしたが、当時20歳だった若者は、存命なら92歳です。30歳なら102歳ということで、大方は鬼籍に入っている。当時10歳だった人でもすでに80を過ぎておられるわけで、戦前・戦中を知る人たちはもうじきいなくなってしまうでしょう。

 当時まだ10代半ばの娘だった僕の母は、敗戦後まもなく、満々たる水を湛えた熊野川を崖の上から見下ろしながら、しばらく身投げしようかどうかとためらったそうです。進駐してきた米軍兵士に女性はみんなレイプされてしまうなどという流言飛語がとびかっていたので、「生きて辱めを受けるくらいなら…」と、誇り高い軍国少女であった彼女は考えたのです。しかし、家を継ぐはずの兄は、戦争末期、南洋の戦地に送られて戦死(じっさいは餓死)していた。姉3人はすでに嫁いでいた。自分が死んだのでは両親の面倒を見る者が誰もいなくなってしまうと考えて、思いとどまったという話です。

 僕が子供の頃は、大人たちはみんな戦争経験者でした。母は戦争ドラマの類を決して見ませんでした。耳にあの空襲警報のサイレンの音が蘇り、不快でならないというのです。父は小柄だったうえに、ガキ大将の悪ガキだった子供の頃、右腕を骨折して、医者にも行かずそのままくっつけてしまったために、腕がまっすぐ伸びず、左腕と較べてずっと細かった(だから左利きになったのだと、本人は言っていました)ので、徴兵検査に合格せず、軍需工場で敗戦を迎えましたが、子供時代の遊び仲間は多くが末期に徴兵されて死んでしまった、と語っていました(当然、彼らはまだ10代だったはずです)。あるお盆の時、父の実家の墓参りに二人で行ったとき、よその墓石に「暑いやろ」と親しげに話しかけながら薬缶の水をかけて回っているので、誰のお墓なのかと不審に思って訊くと、「こいつも、こいつも、こいつも、みーんな父さんの子供時代の連れや。かわいそうに、みんな戦争で死んでしもうた」と言いました。僕はそのときの父の何とも言えない表情と声の響きを、今もはっきりと憶えています。父は二人の兄のうち、既婚者の長兄(評判のいい人格者だった)の方を戦争で失っていましたが、それだけではなく、竹馬の友の多くを失っていたのです。

 そういう両親をもっていても、子供が戦争反対者になるとはかぎらないので、僕は若い頃は戦争を「必要悪」とみなしていました。「諸国民の公正と信義に信頼して」という憲法の前文を、「たわけた空想平和主義者の寝言」とみなしていたのです。たしかに先のわが国の戦争は愚かであった。とくに軍上層部の愚昧さと無責任には驚くべきものがあって、優柔不断な政治家たちも現状追認の繰り返しで、物の役には立たなかった。マスコミも、学校の教師たちも、果ては宗教家たちまで、今の北朝鮮をしのぐ愛国・軍国教育に“挺身”したのです。日本人の集団主義が生み出した「共同無責任体制」には驚くべきものがあって、それは克服されねばならないが、かといって「諸国民の公正と信義に信頼」できるほど、人間はまともな生き物ではない。いずれ愚かな戦争は再び起こるだろう。そのとき、こんなノーテンキな「平和憲法」なるものをふりかざして無防備でいたのでは国は守れない、そう考えていたのです。

 もとより、当時から僕はネトウヨたちが信じたがるような過去の戦争における「日本の大義」などは信じていませんでした。歴史をつぶさに見るなら、あれが「侵略戦争ではなかった」などと、言える道理がない。そこにあったのはせいぜい「大東亜共栄圏」のご都合主義的な押しつけにすぎなかったので、挙句の果てに、アメリカ相手の勝算ゼロの自滅戦争にまで追い込まれたのです。ある意味でそれは自業自得と言える。

 日本人兵士がつねに皇軍兵士らしく紳士的にふるまったなどという馬鹿げた空想も、僕は小学生の頃、近所の大人の一人が酒に酔ってとんでもない「戦争自慢」をするのを聞いたことがあって、そうした記憶に照らしても信じることはできませんでした。その人は中国への軍事動員を経験していたのですが、子供心にも、これは人間のカスだとしか思えないひどい話をいくつも語ったのです。彼にとってチャンコロ(中国人の蔑称)は人間ではなかったのです。全部ではなくても、一部にこういう連中がいて、それが戦争時には「是認」されていたことは明らかです(その人だけでなく、チョーセンやチャンコロへの侮蔑を隠さない人は当時のオトナにはいくらもいた)。

 話を戻して、僕はだから、かつては断固たる憲法改正派だったのです。憲法9条を自衛のための戦争は放棄するものではない、とする解釈には明らかに無理がある。だから「自衛隊は違憲である」という大方の憲法学者の解釈は正しいので、しかし、自衛隊は現に存在して、それを日本人の大部分は肯定しているのだから、憲法の方を現実に合うように改正するしかない、と考えていたのです。福田恆存氏流に言うなら、自衛隊の地位を「妾から正妻に」格上げする必要があると思ったのです。論語の正名論にもあるように、名実が一致しないのは世が乱れる元なのです。

 愚かな人間性に思いを致すなら、「諸国民の公正と信義に信頼」することはできない。前回の戦争のように、自ら侵略行為には出なくても、逆に侵略されることはあるだろう。そのときに無防備で国を守ることはできない。「必要最低限度の自衛のための軍備」は不可欠で、その場合に強いられる戦争は「必要悪」としての戦争である、そう考えていたのです。

 そういう僕に考えを変えるきっかけが訪れたのは、40歳を目前にして深刻な鬱に陥ったときのことでした。数年間苦しめられたのですが、その時期に生じた、奇妙な一種のオカルト的体験に「回心」を迫られたのです。あの頃は1995年に阪神大震災、地下鉄サリン事件が立て続けに起き、その二年後には神戸連続児童殺傷事件(俗に「酒鬼薔薇事件」と呼ばれる)が起きました。ちょうどその頃、僕は恐ろしい鬱のさなかにあったのです。

 その妙な現象が起きたのはちょうどお盆の頃ですが、それはたぶん1995年ではなくて、神戸のあの不快きわまりない猟奇的な事件が起きた97年の方だったでしょう。だとすれば僕は42歳ですが、戦争で餓死したと言われる母方の伯父の霊が出現して、数日間そこにいたのです。それはあくまで僕の主観にすぎませんが、これは会ったこともない伯父だなとはっきり思ったので、そのとき僕はその人の内面を自分のそれとして追体験するような思いを味わったのです。僕はそれまで、戦争を政治レベルの問題として考えていて、兵士の側から思い見ることはしていなかったのです。

 ともかく、この不思議な、ある意味で恐ろしい体験の後、僕の戦争に対する考えはガラリと変わってしまったのです。戦争で死ぬのは戦場の兵士であり、悲しみに暮れるのはその家族です。かんじんなそのことを僕は忘れていた。太平洋戦争末期、「戦死」と報告された人たちの大部分は餓死だったと伝えられています。無責任にも安倍の言う「わが軍」は白旗の上げ時も知らず、作戦と言えるように作戦もなく、補給路も何も確保しないまま次々若者を南方戦線に送り出し、見殺しにしたのです。戦闘で命を失うのと、絶望的な状況の中、時間をかけて餓死に追い込まれるのと、どちらが残酷であるかはにわかには決しがたいが、いずれにしてもそれはひどい話なのです(こういうのを「お国のために」の一言で片づけるのは一種の論理のペテンです)。

 生き延びてもただではすまないことが多いので、たとえば「イラク・アフガン戦争から生還した兵士200万のうち、50万人が精神的な障害を負い、毎年250人超が自殺する」(ディヴッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』の帯に書かれた言葉)という現実があるのです。もう何年も前に、アメリカでは戦死者の数を帰還後の自殺者の数が上回ってしまった、という衝撃的なニュースがありましたが、それが戦争というものなのです(父の仕事仲間だった、父よりは何歳も年上の人に、それは子供好きのめったにいないほど明るい人なのですが、数年前、戦争体験を聞いたことがあります。その人は看護兵だったという話で、人を殺したことはなく、負傷兵を助けるのが仕事だったのだと聞いて、なるほどという感じがしたものです)。

 カウボーイ気取りであの愚かな二つの戦争を始めた稀代の低能大統領、ブッシュ・ジュニアはまだのうのうと生きていますが、電気椅子にかけられて殺されるのが当然の凶悪犯罪者です。一度機会があれば、直接会ってボコボコにしてやりたいと僕はいつも思っているのですが、政治家や軍のお偉方は何の責任も取らない。戦争で負ければ、戦勝国の裁判にかけられるというだけの話なのです。

 戦争は必要悪で、自衛のための戦争は正当化されると考えていた頃、僕は戦場に立つ兵士の内面やその家族のことなど、ロクに考えていませんでした。その論理の中には抽象化された「戦力」しかいなかったのです。どんな戦争も「祖国防衛のための戦争」として正当化されます。今の北朝鮮では、金正恩の暴走の結果、戦争への緊張が高まる中、それがやらせなのか、異常な愛国心教育の賜物なのかは知りませんが、十代の子供たちが次々兵に「自発的に志願」しているというニュースが(ごていねいに写真付きで)出ていました。「馬鹿に絶対権力をもたせるとどうなるか?」の見本みたいな、あの品性下劣な刈り上げデブのために命を捧げようというわけですが、何とも気が滅入る話です。ピンポイントで金正恩だけ爆殺してやれば、状況には変化が生まれそうですが、そういう秘密兵器はハイテク時代の今もまだなさそうです(そんなのができると権力者に悪用される可能性の方が高いわけですが)。

 金正恩が「延期」を表明したため危機はいったん遠のいたようですが、仮に北朝鮮がグアム沖にミサイルを落とした場合、トランプのアメリカは攻撃に出て、空爆しても金正恩と地下の軍事施設は無事だろうから、北朝鮮は「敵に思い知らせる」ために、韓国と日本に向かってミサイルを数発または数十発撃ち込むかもしれません。そうなると米韓日対北朝鮮の戦争になりますが、中国とロシアがそのときどう出るかは未知数です。北朝鮮が壊滅して、朝鮮半島の統一が実現しても、いまだに意識の上では朝鮮を「属国」視する中国はアメリカ寄り政権ができることを望まず、そのあたりはロシアも同じだから、そうした対立がアジア発の第三次世界大戦の引き金になることもありうるのです(わが国が日清、日露戦争に突っ込んだのも、きっかけは朝鮮半島をめぐるゴタゴタでした)。

 金正恩政権を存続させると、その後もこれに悩まされ続ける。潰しても、それが新たな紛争を生むきっかけになりかねないので、これは「歴史の負の遺産」とも言える実に厄介な問題です。

 安倍政権的見地からすれば、むしろこうした事態は望ましいものでしょう。憲法改正の必要性を説くには、周辺が平穏では困る。北朝鮮の暴走と、中国の覇権主義的な膨張政策は、「わが国の国家安全保障が危機にさらされている」ことを強調するには、甚だ好都合だからです。アメリカの国力も衰退した今、その庇護を当て込んで丸腰同然でいるというのは「民族の自殺行為」に等しいので、イザとなったら中国相手にも戦争できるだけの「充実した国防力」をもつ必要があるのです。それにはまずあの「空想平和主義的」な憲法を改正しておかねばならない。「武力なしでは国を、従って平和を守れない」ことを国民にわからせる必要があるのです。北朝鮮の現政権が存続し、核保有国になったとすれば、アメリカも態度を転換して、「東アジアの代官」としての日本に核をもたせることも許容するようになるかも知れない。中国はこれを激しく非難するが、「強欲なおまえが一番危ないからこうなったので、エラそうに言うな」と言ってやればよいのです(拍手!)。

 かくて「経済のグローバル的不調」のなか、軍拡競争が再び始まる。経済的に行き詰まると戦争に訴えるというのは人類の歴史の「基本パターン」みたいなものなので、それには何の不思議もないのです。すでに過去の戦争の悪夢のような記憶をもつ人はいない。いたとしても大方は認知症で満足な批判もできないというわけで、歴史の書き換えもそれだけ容易になる。「美しい国」「誇れる民族」としてのプライドが再び蘇る。愛国心教育(あのすぐれた教育基本法も、第一次安倍政権の時代にその方向で改悪されました)を受けて育った若者は、戦場の地獄絵図を思い浮かべることもなく、「強い国家」に忠誠を誓い、「戦争ができる国」に戻ったことを喜ぶのです。

 3年前の7月、僕はここに「丸腰国家論」というのを書きました。こんなことを書いても無視されて終わりだろうと思ったら、意外に好評(?)だったらしく、ネットのブログ紹介箇所のフィーチャー記事の中にそれが入っていることが多いことからしてかなり読んでもらえたようですが、そこで僕が言っているのは、ふつうの憲法改正論者たちとは逆方向の「改正」、つまり、平和主義を徹底して、「自衛のための戦力も持たない」ようにする改正です。かえってその方が「安全」になると主張しているのですが、その理由については直接そちらをお読みいただくとして、僕がこういうことを言うのは、「人類は戦争を卒業するか、絶滅するか、そのどちらかの選択しかない」段階にまで来ていると思うからです。

 源平合戦の昔なら、戦争は個人の武勇を競う場でありえました。「やあやあ、我こそは」と双方名乗りを上げて一騎打ちをする。今でもヤンキー集団はそんなことをしているかも知れず、僕も若い頃、別にヤンキーでも何でもなかったのですが、余儀なき事情であるグループのボスと果し合いまがいのことをやって、「おまえはヤクザか!」と後で叱られたことがあったのですが、僕はそれを仲間を守るためにやったので、それなりに「正義」はあったのです。牧歌的な大昔の戦争にはこれと似たところがあって、一騎打ちで決着がついて和解が成立すれば、戦いは短期で終わり、人的損害も少なくて済んだのです。

 しかし、今の戦争がどんなものであるかはおわかりでしょう。遠隔操作のドローン爆撃機が機銃掃射を行い、一発のミサイルで数千人、核を搭載していれば数万人、数十万人が死ぬのです。それに劣らぬ破壊力をもつ生物化学兵器もある。また、これは「丸腰国家論」でも他でも何度も書きましたが、第二次世界大戦時にはなかった多数の原発が世界中にある。核兵器をもたずとも、それにミサイルを撃ち込めば、核爆弾以上の惨禍をもたらしうるのです。

 わが国の場合、停止中(だから安全というわけではない)のものを含め、50基以上の原発が立ち並んでいるのだから、それを狙われたらジ・エンドで、国防上の観点からすれば自殺行為に等しいことを行ってきたのです。「戦争できない国」になっていると言っても過言ではない。それをそのままにして、「軍事力を強化して国を守る」なんてのは甚だ空想的な話なのです。幼稚な観念右翼の安倍なんか、そのあたり全然わかっていないようですが。「いや、戦争になった場合、原発攻撃は人道的見地から避けるという紳士協定が結ばれるから、大丈夫だ」とでも言うのでしょうか? 馬鹿も休み休み言うがいいのです(核兵器保有国であるイスラエルが原発をもたないのは、それを狙われたら終わりだということをよく承知しているからだと言われます)。

 日本が戦争当事国になったらどうなるか、よくよく考えてみればいいのです。さあ狙って下さいと言わんばかりに、沿岸沿いにずらりと原発を並べて、いくら強がったところで戦争はできないのです。したら、悲惨な結果になる。そういう想像力が働かないのも、一種の平和ボケなのです。迎撃ミサイルで撃ち落とすから大丈夫なんて呑気なことを言っている向きには、実験したこともないのに命中するという保証がどこにあるのだと言っておけば足りるでしょう。ミサイルが違う方向に同時に数発飛んできて、それを全部海上で撃ち落とした、しかもそれがその後何度も繰り返された、ということになれば神業です。日本人は器用だからそれぐらいはできるって?

 仮に第三次世界大戦が起きたとすれば、その惨害は以前の戦争とは比較にならないものになる。アフガンやイラク、シリアでの戦争は、こう言うことが許されるなら、何もない山岳地帯や砂漠でのそれだから、被害も「局地的」ですんでいるだけです。第二次世界大戦規模のものが再び起これば、世界人口の半分から三分の一は死ぬ。生き残った人の多くも、放射能汚染の後遺症に長く苦しむことになるのです。

 そういう馬鹿なことをしている場合ではない。地球温暖化の問題は差し迫った危機だし、科学者たちが警告しているように、今は史上第六番目の生物大量絶滅の時代なのです。しかも、これが過去のそれと異なるのは、それがヒトという単一の種によって惹き起こされたもの、つまり「人為的」なものだということです。その絶滅は恐るべきスピードで進んでいるようで、生物の多様性も個体数も、激減しているのです。それが一定レベルに達した時、人類は生存基盤を失って絶滅に向かう(僕はよく塾の生徒たちに話すのですが、日本の川や山にしても、外から見ただけではわからないかもしれないが、僕が子供の頃のそれとは全く違ってしまっているのです。山は農水省のやめ時を知らなかった愚かな植林奨励策によって病的な変異を遂げて、原生林が多く残っていた時代の豊かさを失い、川の魚たちは種類も数も激減してしまった。そのあおりを食って、沿岸漁業も大打撃を受けたのです)。

 今こそ「人類の英知」を結集すべき時で、そこらの塀にションベンをかけて回る犬みたいに、つまらない縄張り争いをしている場合ではないのです。それがわからない連中、何かといえば「国益」がどうのこうのと言いたがる、木を見て森が見えない連中にはそれをわからせなければならない。それには武力をもって迫るのではなく、理と情をもって説くのです。

 国家間の戦争には正義などない。そこには無残な殺人行為があるだけです。ローテクからハイテクへと武器が進化するにつれて、それは一段と非人間的なものになってしまった。そこにはもはや、いかなる人間的美徳もないのです。愚かな愛国心教育は、戦争の現実に対して人を盲目にさせる。のみならず、視野狭窄を生んで、上に見たような人類的課題からも目を逸らさせるのです。

 僕はもとより金正恩を好みません。中国共産党独裁政権の覇権主義的なあり方も好まない。国内における民主化勢力への度重なる卑劣な弾圧も非難されてしかるべきです。それとあの殺し屋のボスみたいなロシアの独裁者プーチン。これにアメリカのお馬鹿さん大統領トランプも加えると、今のわが国を取り巻く国際環境は最悪だと言ってよいでしょう。あることないこと言い募って、何度賠償したり謝罪したりしてもしつこく話を蒸し返し、嘘も交えてまた新しい難癖をつけてくる「恨(ハン)の国」韓国には、大方の人が嫌悪感を募らせています。韓国の人たちにはファンタジーと史実の区別がなく、史実に忠実たらんとする態度を「自虐的」と非難するわが国のネトウヨの「民族肯定的」歴史観と同じくらい自国の歴史を好都合に美化しているように見えます。それが「標準」となっていないだけ、まだ日本の方が健康に見えるほどです(過去の民族的トラウマは斟酌すべきだとしても、ほどというものがあるので、そういう偏ったことに終始している国民は永遠に成熟しないでしょう)。

 そういう外的事情は全部考慮に入れた上ですが、すでに見た理由によって、僕は「戦争放棄」の日本国憲法に賛成するのです。それを「人類の崇高な理想」と称するのなら、半端なことをしてはいけない。自衛他衛を問わず、一切の武力戦争を放棄してこそ、説得力をもつのです。スイスは武装した永世中立国ですが、わが国は武装しない永世中立国となるのです。その上で、言うべきことはきっちり言えばいい。その一方、優秀な外交官を多く育てて、対立し合う諸国の紛争調停に、「平和のエージェント」として大活躍させるのです。

 まあ、いきなりそれは無理でしょうから、今できるのは軍事化・武装化の方向へ一歩も進まないことです。要するに、安倍自民が望むような方向の「憲法改正」は断固阻止することです。その程度のことはできるので、その方がむしろ国民の安全保障には役立つのだと、僕は思っています。ここで踏ん張れるかどうかが、日本の将来を決める分水嶺になるでしょう。

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菅官房長官の「まだら認知症」と安倍の「境界性パーソナリティ障害」

2017.08.09.16:13

 最近行われた各社世論調査では、最新のJNNのそれだけは「支持率続落」で、支持は39.7%に対し、不支持率は59.7%だったそうですが、他は大体持ち直し、依然不支持の方が多いとしても、その差は縮んだようです。共同通信だけは、支持が不支持をやや上回り、44.4%対43.2%となっています。

 この共同通信の場合も、支持理由の中で一番多かったのは「他に適当な人がいない」の44.0%で、不支持理由としては「首相が信頼できない」が56.0%で最多だというのだから、ホンネのところは、「マシなのがいれば変えたい」ということなのです。とくに不支持理由に「首相が信頼できない」が一番多いというのは致命的です。これは今後も支持率の回復が難しいことを意味している。あれだけ常習的に嘘をついていれば、「信頼できる」と思う方がどうかしているわけで、それはあたりまえと言うべきですが。

 内閣改造はある程度評価されたようです。とくに野田聖子・総務相、河野太郎・外相あたりが。しかし、何といっても最大の功労者は内紛続きの民進党で、もっとまともな強力野党がいれば、自民はすぐにでも総裁の首を代えざるを得ないところまで追い込まれたでしょう。それは都民ファーストに完膚なきまでにやられた、あの都議選を見てもわかることです。

「もり・かけ」問題の追及では、民進党議員も結構頑張ったのですが、今のあれは、政党としての体をなしていません。解党して新しいのをつくるしかないので、それを急いだ方がいいでしょう。民進党の党首選は前原と枝野の一騎打ちとなったようですが、この二人だけ見ても、同じ党に一緒にいるのが不思議なくらい違います。二つに割ってしまえば、それだけ主張が明確になるでしょう。それで競った方がいい。僕はリベラルな側を応援しますが。それが共産党あたりと連携すれば、今の民進党より支持率よりはずっと上がるはずです。

 悪評高い、あの「連合頼み」もやめた方がいい。それがあるから原発問題でも明確な廃止方針が打ち出せないのだそうで、馬鹿げています。大体、今のああいう御用組合団体は、そもそも労働組合と呼べるかどうかも疑わしいので、そういうののケチな組織票より、無党派層の票の方が比較にならないくらい大きいのです。連合なんてつまらないものにひっついているから無党派からも嫌われるので、それぐらいの計算はできそうなものです。あんなものは自民党にくれてやればいいので、スタンスがはっきりすれば、今よりずっと支持率は上がりますよ。

 こんなかんたんなことすらわからないのは、頭が悪いとしか思えない。馬鹿(民進)が馬鹿(安倍自民)を助けているのです。おかげであんなクソ政権がまだ息を永らえているわけで、考えていると、だんだん腹が立ってきます。ダメ野党が腐敗与党を助けて、哀れな日本国民は、「ほかに適当な人がいない」という理由にもならない理由で、公私のけじめも何もない危険なネトウヨの小ヒトラー政権に40%台もの支持を与える羽目になっているのです。こういうの、「三流国家の証明」以外の何ものでもないでしょう。

 と、本題に入る前に、前置きの方が長くなってしまいましたが、最近は「影の総理」と言われていた頃のオーラの輝きもすっかり失せてしまった、菅官房長官についてのニュースです。これは記事の見出しのつけ方も秀逸です。

【特大ブーメラン】「当たらない」でおなじみの菅官房長官、ついに自分の過去発言がクリティカルヒット

 この「2015年6月に行われた獣医学部新設を巡る国家戦略特区ワーキンググループ(WG)のヒアリングに愛媛県と今治市の担当者らと共に加計学園の幹部3人が参加していた」ことは、「岩盤規制の突破」なるものが加計のために他ならなかったことを示す明確な証拠の一つですが、それが世間に知られては具合が悪いということで、「議事要録からの削除」が行われたのです。しかし、それは「ルールに基づいて行った」のだと、いつもの調子で政府側は強弁する(安倍首相はむろん、加計理事長と会食やゴルフを何度も共にしていたにもかかわらず、当時は加計学園が獣医学部新設を計画していたこと自体、何もご存じなかったのです!)。

 一体それはどんな「ルール」なのだと突っ込んでも無駄です。とにかく「ルール」だから「ルール」なので、それ以上の説明が必要だという指摘は「当たらない」(菅官房長官の口癖)のです。総理自ら、「認可直前まで加計が関係していることは知らなかった」とおっしゃっているのだし、議事要録からの削除も「ルールに基づいてやった」と“正直に”話しているのに、どうして問題視されるのか、全然わからない。安倍官邸の理解によれば、それをマスコミや野党がしつこく追求しようとするのは「悪質な印象操作」以外の何ものでもないのです。そうですよね、有権者の皆さん? なのに何で、この程度のことで支持率が下がるんですかっ!(豊田議員なら、このあとヤケになって、例の「ミュージカル風罵倒」が始まるところです)。

 さて、この記事のキモはその後です。質問者は朝日の記者だそうですが、これはほんとに笑える。

記者=「歴代の保守の政治家は歴史的検証に耐えられるようにということで、公文書の管理にはかなり力を入れてこられたと思う。ある政治家は『政府があらゆる記録を国民に残すのは当然で、議事録はそのもっとも基本的な資料で、その作成を怠ったことは国民への背信行為だ』と仰られているんですが、その発言を本に記されていた方がどなたかご存じですか?」
菅官房長官=「知りません」
記者=「それ、(菅)官房長官の著作に書かれているんですが、2012年に書かれた著作に表明されていた見解と、今政府で起きていることを照らし合わせて忸怩たる思いとか、やはりきちんと残すべきだというお気持ちにはならないんですか?」


 ふつうなら「がーん!」となるところですが、「この後、官房長官は八田座長が説明したとおりだと繰り返し、必要な情報は公開されていて問題ないという認識を改めて示して記者会見は終わりました」という淡々とした筆致が魅力的です。

 まあ、政治家の著書なるものは一部の例外を除き、大方はゴーストライターが書いているのだろうから、「知りません」もその意味ではわからなくはないのですが、自分の名前で出した本にそう書かれていたというのはやはり痛すぎる。一応はそのゴーストライター本にも後で目を通すぐらいのことはしていただろうから、「まだら認知症」の疑いも出てくるわけです。「当たらない」で全部片づけていたら、とんでもないところで「当たって」しまったわけで、「クリティカルヒット」とは言い得て妙です。

 こういうこともあるから、菅官房長官にあらせられては、今後は答弁の方法を変えて、辻占い師の「当たるも八卦、当たらぬも八卦」を採用されてはいかがでしょうか?「当たろうが当たるまいが、どちらにしても問題ではない」ということで、これなら最強です。まだら認知症が全面認知症に進んでも、心配なし。安倍の尻拭いをするにはそれが一番です。

 懲りない安倍は、まだ「総裁3選」への意欲を示しているという話で、妄執と化した「憲法改正に邁進」するつもりのようですが、妻のアッキー以上に「空気が読めない」そのノーテンキぶりには驚くのを通り越して感心させられます。その常習的な嘘つきぶり(それで良心が痛むことはない)にしても、幼児的な呆れた独善性(「印象操作だ!」と言ってたえず責任転嫁をする一方、自己中心的な要求をし続ける)にしても、傲慢な態度を批判されると悪びれる風もなく、一転へりくだったポーズを取って見せるその「カメレオン的行動」にしても、全体を通して見られる「公的、道徳的感情の欠落」にしても、明らかに異常心理学の範疇です。こういうのは何かで読んだ記憶があるので、本棚から関係書を引っ張り出して調べてみると、やはりありました。「境界性パーソナリティ障害」というのがそれです。

 興味のある方は自分で関係書に当たるなり、ネットの信用できそうなサイトの記事をお読みになるなり、していただければいいと思いますが、明らかに彼はこれです。これは脳それ自体に器質的な微細障害が認められる病気で、いわゆる「邪悪な成功者」の中には珍しくない病気です。つまり、わが国は国家の最高指導者として精神異常者を戴いているのです。

 だから、菅官房長官風に言えば、正常な人間であることを前提に彼の行動を理解しようとしたり、批判したりするのは、「当たらない」のです。むしろそれは危険な誤解を生む。「今回ばかりは彼も反省しているようだから、これからはいい方向に変わるだろう」といったような…。僕はここで何度もオウムの麻原との比較に触れましたが、どちらも精神異常なのです。はっきりそう認識しておかないと、大変なことになりかねない。

 先の共同通信の世論調査を扱った新聞記事でも、「安倍内閣が優先して取り組むべき課題」として有権者が挙げたものは、「年金・医療・介護」が42.8%で最多、次が37.0%で「景気や雇用など経済政策」だったという話です。つまり、「憲法改正」などは喫緊の課題ではないと、大方の人が思っているのです。改正賛成派ですらそう考える人が多く、とくに安倍的な性質の「改憲」には賛同しかねるという意見が目立つ。

 カメレオンの安倍は、そこは見ているから、「社会保障・経済重視でやってゆく(しかし、効果的な方策は何ら示されていない)」と言っているわけですが、あの無責任なアベノミクス自体、彼は「天下取りに必要」だからと打ち出しただけなのです。彼のホンネは「何でもいいから憲法改正に持ち込む」というところにあって、「もり・かけ」問題で躓いたが、健忘症の日本人はそういうことはすぐ忘れてしまうから、もう少し時間がたてば、北朝鮮の暴走ぶりは相変わらずだし、折に触れ危険だと不安を煽って「憲法改正の必要性を理解」させることは十分できるようになると思っているのです。

「もり・かけ」問題はもうどうでもいいから、早く上記の二つに取り組んでもらいたいと思っている有権者は多いようですが、あの問題であぶり出された安倍政権の危険性は、実は小さくないのです。それは何より、安倍晋三個人の異常なキャラクターを白日の下にさらした。彼が「境界性パーソナリティ障害」の持主であることを明確にしたと言えるのです。

 複数メディアが伝えるところでは、安倍はこのまま3選され、憲法改正を果たしたのち、甚だ煮え切らないあの岸田文雄への「禅譲」を狙っているということですが、そういうことを許してはならない。あらためてそれを強調しておきたいと思います。

灘中校長を歴史教科書採択で詰問~安倍政治の本質

2017.08.04.15:59

 安倍にとっては内閣改造で人気挽回を狙ったこの時期に、こういうニュースがネットに出回るのはさぞや困ったことでしょう。元気のいい時なら、「何でこういう偏った、“誤解を与えかねない”記事を書くのだ!」と官邸から直接圧力をかけることもできたでしょうが、そういうメディアコントロールがもはや効かなくなったので、「報道が正常化」しつつあるのです。以下、神戸新聞の記事。

灘中に「教科書なぜ採択」盛山衆院議員ら問い合わせ

 この、「学び舎」の歴史教科書については、僕もだいぶ前に教育関係者の間で評判になっているという話を聞いたことがあります。よく工夫された、ていねいに作られた教科書だという話で、きわめて良心的なものだというのです。だから名門の灘中がそれを採用していると聞いても、何ら驚きはない(右翼からは「自虐史観教科書の一つ」とみなされているのは説明するまでもないでしょうが)。

 これと反対の不快な話は、「新しい歴史教科書をつくる会」とやらの元幹部が執筆に加わったという育鵬社の「歴史」や「公民」の教科書採択を、安倍自身が「新しい教育基本法の趣旨に最もかなった教科書は育鵬社の教科書であると確信しております」(2011年9月21日、都内で開かれた「教科書改善の会」主催のシンポへのメッセージ)と述べて、強力に後押ししているという話で、これらの教科書なるものがファナティックな「日本は素晴らしい」幻想に彩られた歴史修正主義者の書いたトンデモ本の一つであることは、いくらかでも歴史知識のある人には周知のところです。

 だから、この件もそうした文脈からすればよく理解できるので、いかにも金魚のフンみたいな安倍の子分どもがやりそうなことです。校長先生の「自民党の一県会議員から『なぜあの教科書を採用したのか』と詰問された」「本校出身の自民党衆議院議員から電話がかかり、『政府筋からの問い合わせなのだが』と断った上で同様の質問を投げかけてきた」というのは本当でしょう。盛山正仁衆院議員の「灘中の教科書について、OBとして周囲から疑問の声を聞いたので、校長に伝えただけだ」「『政府筋からの問い合わせ』と言った覚えは全くない」という弁明は、これまで安倍政権及びその周辺の連中が関与を否定する際行った「釈明」と全く同じパターンです。「圧力」ではなく「ただ聞いてみただけ」であり、脅しに使った「首相の意向」「政府筋からの問い合わせ」といった言葉は、「なかった」ことにされるのです。

 この記事に出てくる「200通以上の採択を批判する『文面が全く同一』のはがき」については、「草の根」を装った多数派工作を得意とする日本会議関係者のしわざだと見るのが一番妥当に思われますが、その日本会議流・サンケイ流のトンデモ史観(都合のいいように史実を取捨選択し、誇張もあちこち混ぜて「美しい歴史」を創作する)に洗脳された一人の病的なネトウヨのしわざだということもありうるでしょう。

 ここであらためて想起しておかねばならないのは、安倍はあの「森友学園教育」を讃美していた男だということです。別にアッキーだけが「暴走」していたのではない。幼稚園のあの異様な光景がネットやテレビに出回って、猛烈な批判が巻き起こるや、彼は慌てて「関係ない」ふうを装った。森友関係の講演会にしばしば招かれていた他の「文化人」「保守派論客」たちについても同様です。

 安倍のこれまでの歴史や教育についての発言を仔細に点検するなら(そういうサイトがすでにできているかも知れませんが)、彼が日本をどの方向に引っ張っていこうとしていたか、彼が目論む憲法改正の性質がどのようなものであるのか、はっきりわかるでしょう。僕が彼を許せないと思っているのは、アホノミクスは二の次で、何よりこの点なのです。それをどんな汚い手を使ってでもゴリ押ししようとした。追いつめられた彼は「経済政策重視」を必死にアピールしていますが、そんなものはただの人気取りのための付け足しで、彼の本質は「できそこないのヒトラー」「戦前回帰の全体主義者」たるところにあるので、それが見抜けないのは幼稚な人だけでしょう。今、彼の暴走を許せば、「忖度政治」が定着する中、二人目、三人目の安倍が必ず出てくる。それで戦前回帰の「安倍レジーム(それは日本会議レジームと言ってもいいが)」は完成するのです。

 まだ安心できませんが、際どいところでどうやらそれは回避できそうだと、今僕は思っています。問題は、しかし、安倍だけではない。「忖度」にこれ努める、周辺の政治家、官僚、学者、文化人の類です。「安倍一強」と言われる中で、これほど日和(ひよ)る奴が多いのかと、僕はそのことにびっくりしました。彼らにはむろん、自分が何をしているかの自覚はありません。本当の意味での歴史知識も、人間性に対する洞察力もない。「美しい国」の「美しい歴史」というフィクションに自尊心の拠り所を求めようとするのはそれ自体病的なことなのですが、社会的沈滞を背景にそうした病人が増えているので、それを保身・栄達に利用しようとしたり、あるいはそうした自身の心理的メカニズムには気づかないまま、“純粋に”「愛国心の高揚」に陶酔する、アッキーみたいな馬鹿もいるのです。

 いや、安倍自身がこれだと言ってよいでしょう。「首相の憲法改正への情熱は本物」だとよく言われます。教育基本法に「愛国心」を盛り込み(第一次安倍政権の時代.日本会議のサイトには嬉しげに「旧基本法の『人格の完成』を期すという抽象的な目標から、新基本法には、日本国民を育成するための大切な徳目が教育目標として明記されました」と、日本語がヘンですが、書かれています)、学校教育における「国旗国歌指導」の徹底を指導要領に明記させ、学問的には疑問のありすぎる「育鵬社の右翼教科書」を「新しい教育基本法の趣旨に最もかなったものと確信」して、採択活動を後押しし、政府に逆らいそうな「非国民」連中は「共謀罪」でたやすく内偵、逮捕できるようにして、仕上げは「愛国心」に染められ、かつ「国民の義務(納税や子供に教育を受けさせる義務だけでは足りないので、国家権力に忠誠を誓って奉仕する義務が必要)」を明記した新憲法への改正なのです。

 こう見ると流れは一貫しているわけですが、安倍はこれを彼の考える「美しい国」への必要不可欠な道程と本気で思っているので、「国家権力に都合がいいように法制度を変えてしまう」罪悪感などは微塵もないのです。それは彼の「燃える愛国心」のなせるわざで、「正義」だから、その実現のためには民主主義的な手続きなどどうでもいいと思っている。そのあたり、園児の教育勅語暗唱に感動の涙を流して、森友の小学校認可をゴリ押ししようとした妻のアッキーと同じくらい幼稚で“純粋”なのです。

 だからいいというものではないことは、説明せずともおわかりでしょう。そうした“純粋さ”は裏に病的な性質を秘めたもので、それゆえ無責任なものだからです(自己陶酔と情熱は本来似て非なるものです)。潮目が変わって安倍退陣が時間の問題になったのは「不幸中の幸い」でしたが、これまでのように「安倍一強」が続いて、周りの忖度行動が増え続けていれば、「物言えば唇寒し安倍の風」となって、彼の野望はすべて実現する可能性があった。それを思うと背筋がぞっとします。

 この灘中の一件に類した、安倍追随者の「忖度行動」は他にもたくさんあるでしょう。マスコミはこうした事例をきちんと報道すべきで、安倍政権のような独善的で狭量な政権がどれほど多方面にわたって有害な影響を及ぼすものなのか、国民はよく理解しておく必要があります。おそらく安倍政権の唯一の「業績」と呼べるものは、危険な独裁者が出現したとき、日本社会が権力者への忖度と批判の自粛によってどれほど「自発的隷従」に流れやすいか、それが学習できたことでしょう。小ヒトラーのおかげで大ヒトラーへの備えができたとすれば、この腐れ政権も多少は社会のためになったということです。

内閣改造、最大懸念は「首相留任」

2017.08.03.15:05

 今週も、各週刊誌は安倍批判の記事で埋まっていますが、内閣改造の顔ぶれが明らかになったようです。次はまとめの日経記事。

自民新3役決定 改造内閣、外相に河野氏

 目玉は、この記事にもあるように、「外相に河野太郎前行政改革相、総務相に野田聖子元郵政相」というところでしょう。二人とも安倍とは本来相容れないので、不人気に強いられての安倍の「自己否定」の産物です。つまり、そこだけは「まとも」になったということで、とくに河野太郎はかねて僕が注目している政治家です。その著書『原発と日本はこうなる』(講談社 2011)も読んだし、三年前の文藝春秋2014年7月号「隠蔽された年金破綻 粉飾と欺瞞を暴く」(西沢和彦氏との共同執筆)も読んだ。いずれも鋭く、的確な指摘で、「自民党にも人物はいる」ことを示すものでした。安倍とはオツムのレベルが違う。ちゃんとアメリカの大学を出ているから英語も達者で、外務大臣も官僚の協力があれば無理なく務まるでしょう。それで経験を積んで幅を広げてもらいたいものです。

 韓流歴史王朝ドラマの「悪徳重臣」さながらの麻生、二階、菅がそのままなのは笑えるところで、とくに麻生と二階は、「へっへっへ。わしの顔を潰すとあんたは一発で終わりでっせ」という脅しをかけていて、安倍は逆らえない。この二人は権力が自己目的化している古いタイプの政治家で、それ以外のことはほとんどどうでもいい(むろん、ご本人たちはそうは言いませんが)のです。高村副総裁もそのままですが、これは年長ながら安倍の腰巾着と化していて、憲法改正の推進役(言ってることが出鱈目すぎますが)なので、「目立たないかたちで安倍色を残しました」ということなのでしょう。

 ポスト安倍の最有力候補と言われる岸田文雄は政調会長で、ご本人も満足げですが、彼は「リベラル派」なのはいいとして、「優柔不断の殿様」気質が抜けないので、どうも頼りないなというのが周りの評価のようです。むやみやたらと喧嘩をするのはただの馬鹿ですが、勝負どころではきっちり喧嘩ができないとリーダーは務まらない。人柄がよければいいというものではないので、こういうのでは政権を取っても軍部の暴走を許した昔の近衛文麿みたいになりかねないのです。

 しかし、何といっても問題は「内閣総理大臣・安倍晋三」というところでしょう。「もり・かけ」問題は全然片づいていないし、ともちん問題も「何じゃ、あれは?」という疑念を残したまま(アッキー、加計孝太郎、下村博文、ともちんの証人喚問が真相解明には不可欠ですが、応じない構えです)。アベノミクスも終わっているし、外交上の「成果」といえば、ご本人は忘れてもらいたいでしょうが、IS人質事件のさなか、中東歴訪に出かけ、イスラエルのネタニヤフと熱い握手まで交わした上に、「IS対策にン億ドル」という演説を嬉々としてぶって、日本人人質の後藤さん殺害を後押ししたというだけの話です。北方領土問題でも、プーチンに「経済協力」を約束させられただけで進展はゼロ、対中国では習近平に終始一貫シカト扱いを受け、中国メディアは今回の安倍政権の凋落ぶりを面白おかしく微細にわたって報道しているという話ですが、すでに「終わった政権」扱いされているのです。トランプに対しては、就任直後あわてて駆けつけ、媚態を凝らした上「信頼できる政治家」と、アメリカ人も驚く持ち上げ方をして、世界の失笑を買っただけでした。

 おそらくまともな「成果」といえば、韓国との慰安婦問題の「最終決着」(それも安倍としては渋々だったのですが)だけですが、これまた文政権に代わって反故にされかかっているわけで、踏んだり蹴ったりとはまさにこのことです。原発や年金(「百年安心」とは笑える)などの重要問題はそっちのけ、いりもしない憲法改正にばかり熱心で、日本会議とネトウヨの「組織的な熱い支援(ネトウヨもネットでは少数の人間が多数派工作をする)」でここまで来たが、お友達とイエスマンばかりで周りを固めたがる性癖が災いして、忖度政治・情実政治を行き渡らせて社会を腐らせるだけの「裸の王様」であったことがもはや誰の目にも明らかになったのです(加計のための「岩盤規制の突破」に意味があると思うのは、安倍と加計の理事長だけでしょう)。

 だから首相の首をすげ替えないことには真の「内閣改造」にはならない。この期に及んでもまだ安倍は、「反省」を表明すれば何とかなり、自分のために党規改正をした総裁3選が可能だと思っているのかもしれませんが、その目はもうなくなったのだから、「名誉ある撤退」の方法を考える余地あるのみです。真面目にその準備をしておかないと、党内からも「石もて追われる」結果にしかならないでしょう。アッキー流に言うなら、自身の早期退陣こそ「神様の思し召し」なのです。

「水に落ちた犬」に手を差し伸べる「朝ナマのじさま」の慈愛

2017.08.02.16:45

「安倍一強」も今は昔、身から出た錆で支持率は落ちっぱなし、内閣改造も人気回復の手立てにはなりそうもなく、「頓死」を待つだけになった安倍首相にとって、どんな「起死回生の秘策」が授けられたのかと憶測を呼んだ田原総一朗氏の「提案」の中身ですが、日刊ゲンダイによれば、それは「9月電撃訪朝」である可能性が高い、ということです。

 何でも、田原氏は「政治生命をかけた冒険をしてみないか?」と誘ったそうで、この人は今では大御所みたいになっているものの、その都度その都度結構お気楽な思いつきを口にする人です。その「軽さ」が時代にマッチした。「右とも左とも話ができる」無節操と紙一重の「融通無碍さ」も、テレビジャーナリストとして長く息を保てた秘訣でしょう。

 それはともかく、まずそのゲンダイの記事を見てみましょう(これはニフティのニュースサイトのものですが、こちらの方が全文表示で読みやすい)。

田原総一朗氏が提案か 安倍首相「9月電撃訪朝」の現実味

 田原氏は2007年に訪朝するなど、北との独自ルートを持っている。安倍首相が前向きなのも、田原氏が訪朝の実現性を具体的に伝えたからではないのか。
 金正恩は狂ったようにミサイル発射を繰り返している。28日には米西海岸を射程に収める可能性のある大陸間弾道ミサイルを発射したばかり。トランプ米大統領の堪忍袋の緒がいつ切れてもおかしくない。さらに北朝鮮は庇護役である中国の説得にも聞く耳を持たず、対北融和を掲げて当選した韓国文在寅大統領の対話の呼びかけには返事すらしなかった。
 一方、日本の安倍政権はこれまでトランプの威を借るだけで、特段、対話を呼びかけてこなかった。それだけに、対北交渉にプレーヤーとして途中出場し、“流れ”を変えられるポジションにいるとも言える。
「コリア・レポート」編集長の辺真一氏は、「田原提案が訪朝なのかは分からない」と前置きした上でこう続けた。
「トランプ大統領の露払いとして、安倍首相が訪朝する可能性はあります。金正恩にこぶしを上げているトランプがいきなり訪問するわけにもいきません。つまり、安倍首相は難しい交渉に関与するのではなく、トランプの意向を伝えるだけのメッセンジャーの役割です。金正恩の悲願は米朝首脳会談。安倍首相が仲介してくれたとなると、拉致問題についての譲歩の可能性も出てくる。安倍政権の支持率もV字回復するかも知れません。今年の9月17日は02年の小泉初訪朝からちょうど15年。動きがあってもおかしくない」


 これがゲンダイの推測です。思えば安倍政権は北朝鮮にコケにされっぱなしです。例の拉致被害者再調査の件でも、安倍はそれを点数稼ぎに利用しようとしたのですが、まともな調査は何も行われず、一方的に打ち切られてしまった。しかし、落ち目の今、頼れるのは「北朝鮮カード」だけで、小泉政権時の拉致被害者一部帰国のひそみにならって、トランプと金正恩の首脳会談をお膳立てし、拉致問題に関しても何らかの「譲歩」を引き出せれば、「大きな業績」として世界にも国内にもアピールできるというわけです。

「別にそれを安倍にやらせる必要はないでしょう」と僕などは思いますが、田原氏はお優しいので、「これで逆転ホームランを狙え」と助け船を出したという解釈です。それで、藁をもつかみたい心境の安倍はこれに飛びついたと。

 仮に田原氏の「提案」なるものがこれだったとして、金正恩が安倍の訪朝を“許可”する可能性はかなり高いでしょう。ミサイルを打ちまくっている意図は、「アメリカを交渉のテーブルにつかせる」ことにあると考えられるからです。むろん、これは金正恩がまだ正気を保っていれば、の話ですが、北朝鮮が戦争を始めたとしても最終的に勝てる可能性はゼロなのだから、金王朝の温存と、経済制裁解除プラスしかるべき援助の確約を引き出せれば、それが彼にとっては「望みうる最大の成果」なのです。ほんとのところ、それでは問題の解決にはならないが、「差し迫った危機」は回避できたということに、一応国際世論ではなるでしょう。手詰まり状態のままミサイル発射を続ける他なくなっている金正恩は、安倍が「仲介の労」をとったということで、見返りに「拉致問題での何らかの成果」を与える。

「4年ももつはずがない」と言われている、トラブル続きの超不人気大統領トランプにとっても、これは人気挽回の大きなチャンスとなりえます。米朝首脳会談で北朝鮮の「核開発の凍結」が約束(守られる保証はありませんが)され、見返りに体制容認と経済援助が与えられるということになれば、「平和裡に事態が収拾」されたということで、「好戦的な大統領」というイメージも払拭できるからです。外交手腕もなかなかのもの、だという評価になる。

 要するに、三者とも自己の地位保全に役立つ、大きな利益が見込めるのです。別の言い方をすれば、「揃ってロクでもない連中を救済する妙案」だと言える。良識からすれば、金正恩はもとより、トランプも安倍も、早くもう少しまともな人間と交代した方がいいのですが、これによって三者の政治寿命は延びるのです。

 それでも北朝鮮が暴走を続ける今の状態よりはマシでしょうが、何か釈然としないのは僕だけではないでしょう。トランプと安倍に関しては、仮にこれが成功したとしても、それは一時的な効果しかもたず、地は偽れずにすぐにまた問題が発生する(元の問題もそのまま残っている)可能性が高いが、われらが総理大臣の場合、少なくとも「退陣の花道を飾る」ことだけはできるのです。

 仮にこれが本当だったとしたらの話ですが、田原氏は安倍の復活を期してというより、せめてみじめな終わり方をせず退陣に踏み切れるよう、慈悲心からこの「提案」をしたということなのでしょうか? それならよしとしましょう。但し、これが成功して支持率が10ポイントほど戻れば、カン違いのやたらと多い安倍は「まだやれる!」と執着を見せて政権にしがみつきそうなので、そうなると困ったことになるわけです。田原氏はそこまで読んでいるのでしょうか? そしてそうなって安倍が拙速な憲法改正まで行き着けるのが望ましいと考えているのか? そうだとしたら、傍迷惑な政治老人の世話焼きだったという批判は避けられなくなるでしょう。
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