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凛と蓮~子供の名付け方

2019.12.02.17:25

 今回は“平和な”お題です。

ことしの子どもの名前1位 男の子は「蓮」 女の子は「凛」

 ことし生まれた子どもの名前で最も多かったのは、男の子が植物の「はす」を表す「蓮」(れん)、女の子は、りりしくきりっとした様子を表す「凛」(りん)だったという調査がまとまりました。

 という話なのですが、しばらく前に塾の生徒たちが「リン君が」とか「リンさんは」とか、学校の友達の話を楽しげにしているのを聞いていて、「一体、君らの学年にはリンって名前の子が何人いるわけ?」と不思議に思って訊いたことがあります。どうも四、五人いたようで、文字は全部「凛」だという。それで、うちの塾にも前にそういう名前の女の子が一人いて、可愛くて頭がよくて、読書家で、歌までプロ並にうまいというので男の子のファンがたくさんいたらしい(ストレートで国立の医学部に行ったので、そろそろ医師になった頃です)という話をしたのですが、そのうち二代目の凛さんが入塾して、この子がそのうちの一人なのかと可笑しかったのですが、上のニュースによれば、それはさらに増えて、リンリンと日本中にその名が鈴虫の声のように鳴り響くことになるわけです。

 男の子の「蓮」というのはどういう理由によるのか知りませんが、レンというのはリン同様、音の響きがいいので、なるほどという気がしないでもありません。蓮(ハス)というと、僕などは仏教を連想しますが、親御さんが将来悟りを開くのをわが子に期待してそう名付けたというわけでは、たぶんないのでしょうね。「名は体を表す」という言葉があるくらいなので、将来悟りを開いて人々を救済する子供がたくさん出てくれればいいのですが(但し、オウムみたいなカルトを作らないように)。

 名前というのはあれこれ悲喜劇を生む原因になることもあります。昔、政治家の田中角栄が「今太閤」と呼ばれ、総理大臣になった(1972年)頃(その前の幹事長時代だったという説もありますが)、ある田中さんちに男の子が生まれ、両親は勇躍、その子に「角栄」と名付けました。ところが具合の悪いことに、その後ロッキード事件が起き(1976年)、それから裁判になって、1983年に第一審判決が下り、懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受けるなど、彼の運命は暗転しました。あれは田中を邪魔に思ったアメリカが仕掛けた陰謀だったという説もあるぐらいで、今は角栄評価は回復しているようですが、マスコミ報道が連日続く中、少年・角栄君の運命も暗転して、「おい、ロッキード!」とか「やーい、ピーナッツ!【】」などとからかわれて、学校でいじめられるようになったのです。それで両親は家裁に改名を申請(戸籍名は勝手に変えられないので)、「角栄という名が与える精神的苦痛には忍び難いものがある」として、それが認められたのです。

【註】今の若い子にはわからないと思うので一応説明しておくと、これはロッキード事件で「賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの」で、「100万円を1ピーナツと数えていた」(ウィキペディア)ところから、当時面白がって使われた言葉です。

 だから、いくら人気があってもうかつに政治家の名前など拝借してはいけないので、たとえば小泉さんちに男の子が生まれて、「進次郎」と名付けたとして、今はいいが、彼が将来首相になって、政治スキャンダルの主人公になるおそれなしとは言えないので、それがその子の小中学時代に重なったりすると、たいへん困ったことになるわけです。

 別に有名人とは無関係でも、名前が災いをもたらすことはある。たとえば、僕の名前は「龍一」で、子供のときから「リュウ」と呼ばれていました。その後この名前は漫画の主人公の名前に使われるなど、結構ポピュラーになりましたが、昔は、ことに田舎では珍しい部類だったので、「名前が生意気だ」という理由で、“迫害”の対象になることさえあったのです。

 今でもまだ憶えているのですが、中学に入学したての頃、休み時間に三年生のワルたちが数人、教室に「リュウって奴はどいつだ!」とドカドカ乱入してきたことがありました。名前が生意気なので、ヤキを入れてやる必要があると、彼らは考えたのです。そんな無茶苦茶な、と今の時代なら思うでしょうが、当時は思わなかったので、名前が無駄にエラそうだというのは鉄拳制裁に十分値したのです。怯えたクラスメートたちは、そっと僕の方を指さしました。彼らは机の前に座っている僕の周りを取り囲みましたが、そこにいたのはおそろしくチビで、色の青白い、やせこけたいかにもおとなしそうな一人の少年でした。じっさい、早生まれでオクテの僕は、身長はつねに前から一、二番目で、体重は、たぶん学年で一番軽かったのです。「リュウ」というエラそうな名前と、目の前にいるこの貧弱なチビとの落差は何なんだ! 彼らはあっけにとられたようにしばらく僕を見ていましたが、拍子抜けしたらしく、何もせずに帰ってゆきました。強度の赤面恐怖症の、授業のとき当てられて立って教科書を読むだけで、天井がグルグル回って倒れそうになる頼りない少年には、これは荷の重い名前だったのです(子供の頃の僕はガンジーも顔負けの非暴力主義者で、人を傷つけることを極度に恐れていたので、年下の子ですらいじめたことはありませんでした)。

 家族の間でも不評で、名前を付けたのは妙見様(古くからある北斗星信仰の一つ)を信仰している祖母でしたが、彼女はわが両親に「御大層な名前を付けるから、名前負けしてこんなアカンタレになってしまったのだ!」とつねに非難されていました。祖母はトランス状態に入った妙見様の巫女さんから、家に白龍を祀れ、というお告げを受け、この白龍さんというのがやたら気難しい神様で、注文が多く、気に入る祠が作れるまで苦労したらしいのですが、やっと納得してそこに入ってもらえて、まもなく初孫の僕が生まれたので、「これは白龍さんの申し子に違いない!」と思って、そう名付けたのです。しかし、全然そんなふうには見えなかった。孫を溺愛する祖母は固くそう信じていましたが、「これのどこが…」というふうに傍目には思われたのです。

 そのときは笑いごとではなかったのですが、今思えば滑稽なのは、その中一の頃、生徒会の役員選挙があって、各クラスで会長、書記、会計の三役の候補をそれぞれ選出してそれに臨むのですが、クラス内の投票の結果、僕は会計の候補としてそれに出なければならなくなりました。クラスの係も会計にされていたので、のちに経済観念ゼロであることが判明した少年が何で会計だったのかといえば、リーダーシップとか雄弁とか、そういうのはまるでないが、「馬鹿正直なので、あいつは絶対ズルはしない」と周囲に思い込まれていたからです。しかし、そうなると講堂兼体育館の壇上で、全校生徒を前に演説をしなければならないのです! これが当時の僕にとってどんなに恐ろしいことであったか、神のみぞ知るで、気が弱くてイヤだと言うこともできず、その日が近づくにつれてほとんど生きた心地がしなくなりました。応援演説というのもあって、それは他の子がやってくれることになっていたのですが、かんじんの候補者がほとんど死にかけているのです(当時は本物の選挙に似せて、手作りのポスター作りまで行われ、学校の廊下の壁がそれで埋まっていた)。それで立候補者演説会当日の朝になって、母親が様子がおかしいのに気づいて、おまえは原稿ぐらいは作っているのだろうなときくので、そんなものは何もないと答えると、何という情けない馬鹿だと、その場で「これを読めばいい」と原稿を書き飛ばして、僕に渡しました。僕はそれをもって行って、自分の番が来たとき、幽霊のような足取りで壇上のマイクの前に向かいましたが、そのとき初めて母が書いた原稿を見たのです。

 天井がグルグル回る中、僕は文字どおり蚊の鳴くような声でそれを機械的に読み始めましたが、恐ろしい事態が出来(しゅったい)しました。その原稿の中に読めない漢字があったのです! それは「因襲」という言葉で、どういう文脈でそんなのが出てきたのか、前後は全く記憶していませんが、とにかくそう書かれていたので、「いん…」と言ったきり、そこで立ち往生してしまって、後の記憶が全くないのです。ムニャムニャとごまかして先に進む知恵もない。たぶん、見かねた誰かが走ってきて、固まった僕をそこから連れ去ってくれたのだと思いますが、そのときですら極度の緊張で何も憶えていませんでした。僕は完全な泡沫候補で、二年生の活発な、お勉強もスポーツもよくできる女子生徒が最有力候補で、当選が確実視されていました。だからテキトーにやっとけばよかったので、そんなに緊張する必要は何もなかったのですが、子供にはそんなこともわからず、とんだ恥の上塗りをしてしまったのです。

 僕は顔面蒼白のまま帰宅すると、あんな難しい漢字、中一の子供に読めるわけがない、どうしてあんな言葉を入れたのか(後で考えても、会長候補なら「因襲の打破」を口にしても不自然ではないが、会計係との関連は不明です)、と母に抗議しましたが、アホなおまえが準備もなくオロオロしているから仕方なく書いてやったのに、文句を言うとは何事かと逆襲されてしまいました。ところが、その翌日か、何日後だったのか忘れましたが、投・開票が行われると、奇怪なことに、その最有力候補を押さえて、泡沫の一年坊主の僕が当選してしまったのです。理由は、そのあまりにも弱々しく頼りない姿が、二、三年の女子たちの母性本能を刺激して、同情票が集まってしまったためでした。それ以外の理由は考えられないので、一難去ってまた一難、人前に出るのを極度に恐れる子供が、生徒会にまで関与しなければならなくなったのです。

 その後、名前がエラそうなだけでなく、見た目も生意気そうだというので、上級生に目をつけられるようになったのは高校生になってからで、そのときは、初め寮に入っていたおかげで先輩とのつながりができて、その先輩たちが「あいつは見かけほど悪い奴じゃない」ととりなしてくれたおかげで難を免れたのですが、これが「信一」とか「良夫」だったなら、初めからそんなリスクは負わなくて済んだような気がするので、やはり虎とか竜とか、その手の名前は、喧嘩自慢の不良がウヨウヨいるところでは彼らを悪く刺激してしまうことになるので、よろしくないわけです。僕の従兄の一人は、息子に「竜次」と名付けようとして、いや、こういう名前を付けると不良化してヤクザになってしまうかもしれないと思い直して、もっと「穏やかな」名前にしたといつぞや笑いながら話していました。僕もヤクザにはならずに済みましたが、長じるにつれだんだん性格が悪くなって、「文句あるか!」みたいに居直るようになってしまい、ガンジー的な美徳も失われてしまいました。

 凛や蓮なら、そんな心配はなさそうですが、ダラーッとしていたのでは凛烈の風とは違いすぎて皮肉を言われるかもしれず、蓮も、ぼんやりしていると、おまえはハスの葉の上で昼寝しているカエルか、と言われてしまうかもしれません。「正直(まさなお)」と名付けたものの、それが汚職役人になって、偽証罪で逮捕されてしまった、なんてのも洒落にはなりませんが。

 これは昔、母から聞いた話ですが、「ホラ吹きさん」と呼ばれている人がいて、いくら何でも人をそんなふうに呼ぶのは失礼ではないかと周囲の人に言うと、いや、名前がそうなのだから仕方がないと言われてしまったそうで、その人は姓が「洞(ほら)」、名前が「吹三郎」だったというのです。たしかに、縮めると「ホラ吹き」になってしまう。ブラックジョークのつもりでそう名付けたのか、何にせよ無責任な親がいたものだと、呆れたそうです。

 前にわが子に「悪魔」と名付けた親がいるというので、それがニュースになって「ひどい親だ!」と非難される(今のようなネット社会なら、それはすさまじいものになっていたでしょう)ということがありましたが、大方の親はわが子にはよい名前を付けようと、それなりに苦心するものです。由緒のある家では昔は男の子なら父親から一字を、女の子なら母親から一字を取る、なんてことも行われた(安倍晋三は、晋太郎の息子だから晋三なのです)。

 中には「夢のお告げ」で名前が決まることもある。うちの子供の場合には、妊娠中に母親が夢で、草原かお花畑で三、四歳の可愛い女の子が遊んでいるのを見つけ、すっかり魅せられたので、近づいて名前をきくと〇〇と名乗ったというので、いくらか迷信深い彼女は「あの子がうちの子として生まれてくるのだ!」と確信し、音(オン)だけ聞くと禅語のような、少々謎めいた名前でしたが、本人がそう言ったのだから、名前はそれにしなければならないと主張しました。

 あまりにも自信たっぷりなので、僕もそうなのかもしれないと思い、二人とも生まれてくるのは女の子なのだろうと思い込みました。それでどういう漢字を当てるかを僕は考え始めましたが、途中で医者がエコーを見せながら、「ほら、オチンチンが見えるでしょ。男の子です」と言ったというので、「君の夢のお告げもあんまり当てにならないね」ということになったのですが、いや、あの子に違いない、今度は男の子になって生まれてくるのだと譲らず、幸いその名前は「凛」などと同じく男女共用で使えそうなので、そのままにして、字画の吉凶を占う本も買って吉になるよう計算しながら、漢字の組み合わせを考えたのです(律儀にもその子は、出産予定日かっきりに生まれた)。

 親子二代で変わった由来の名前をもつことになってしまったわけですが、あまり一般的でない名前の場合、由来を聞くと、本人が知らない場合もありますが、それなりにそこにはストーリーがあって面白いので、僕は時々それを失礼にならない程度にたずねることがあります。いわゆるキラキラネームの場合は、たんなる親の自己満足のように見えますが、名前はいわばその子の看板なので、子供が一生それとつきあって行くことを前提に考えなければならない。それは親たるものの務めの一つかもしれません。

 冒頭の記事の、多い名前の一覧を見てもそうですが、最近は読みがわからないものが多くなっていて、僕も生徒に入塾の際、カタカナで名前の読みも書いてもらうようになりました。たとえば、「大翔」なんてのがあったとしたら、僕はそのままダイショウと読んでしまって、「関取みたいな名前だね」と言ってしまいかねないからです。〔ヒロト、ハルト、ヤマト、ダイト、タイガ〕という読みがついていますが、そのどれも僕の頭には思い浮かばない。昔は健太とか由美子、敦とか聡美とか、無理なく読めるものが多かったのが、いつのまにそうなってしまったのかわかりませんが、逆にそういう名前の方が今は新鮮で個性的に感じられるかも知れないので、逆張りもいいかもしれない。

 但し、これも「古すぎる」とよろしくないので、最後にもう一つ笑い話をしておくと、僕の田舎に、二学年下ぐらいに名前に「松」が付く子供がいました。有名な幕末の侠客、清水次郎長の子分の「森の石松」みたいに、後ろが「松」だったのです。これはその子のおばあちゃんが命名したそうで、両親は「いくら何でも古すぎるのではないか…」と懸念を表明しました。何を言うか、とおばあちゃんは反論しました。ズボンの太さでも、スカートの丈でも、革靴の先でも、流行は循環する。今は古いと思えるかもしれないが、そのうちまた流行るようになって、いずれは最先端を行くファッショナブルな名前だとうらやましがられるようになる。自信たっぷりそう言うので、そういうものかと思ってそうしたら、全然リバイバルすることはなくて(江戸か明治で途絶えた名前なのだから、それは当然と思われますが)、その子は名前のことでからかわれるようになりました。僕の記憶の中ではそれは内気でたいへんおとなしい子だったのですが、中二の頃、それでいつものようにからかわれていて、屈辱に耐えかねたその子は相手を突き飛ばしました。彼はその頃、からだが急に大きくなっていたようですが、そしたら予期せず相手が吹っ飛んだのです。「ひょっとしたら自分は強いのかも…」と彼は思ったようで、以後、それまでの鬱憤もあってとんでもない乱暴者に変身してしまったという話で、ガラの悪い高校に入ると、そこでも暴れ回り、最後には地元のヤクザと喧嘩をして、相手を病院送りにしてしまい、退学処分を受ける羽目になった。田舎というのはテキトーというか、寛大なところがあるので、それでも農協に雇ってもらえたのですが、僕が思うに、おばあちゃんがそういう名前をつけていなければ、たぶんそういう展開にはならなかったことでしょう。

 名前を軽視するなかれ、という教訓です。

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反日カルト国家の自縄自縛~『反日種族主義』を読んで

2019.11.25.02:45

 韓国で「親日」本としては異例のベストセラーになったこの本は、日本語版(文藝春秋)が発売されるやたちまちアマゾンでトップになり、日本ではすでに25万部を売り上げたとのこと。関心が高いのは今の韓国があまりに異常だからでしょう。

 その異常さについて、あらためておさらいしておくと、文在寅は、韓国大法院の奇怪な判決を「三権分立の国だから」と言って放置・追認して、日韓請求権協定(1965年)の実質的破棄を行ない、前・朴槿恵政権のときに成立した日韓慰安婦合意も「内容及び手続き面で重大な欠陥がある」とこじつけて、日本が10億円を拠出して作った「和解・癒やし財団」を勝手に解散してしまいました(例の反日左翼団体、挺対協改め正義連はこの合意に猛反対していて、文政権はそれに歩調を合わせたのですが、多くの元慰安婦や遺族はむしろ歓迎して、お金を受け取った)。前者の文言には「完全かつ最終的に解決」、後者には「最終的かつ不可逆的に解決」といった言葉が盛り込まれていましたが、そんなものには縛られない“国際法にも優越する超法規的”政権であることを自ら誇らしげに示したのです。その他にも旭日旗事件とか、レーダー照射事件とか、非常識としか思えないことが色々あって、これにはネトウヨとは無縁の、ふだんおとなしいフツーの日本人も呆れてしまったのです。

 だから日本政府が韓国を貿易面で「ホワイト国待遇」から外す決定をしたときも、「あんな信義も何もない反日国を貿易優遇する筋合いは何もない」と、国民の大部分はこれを支持したのですが、怒った文在寅はこれに、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄の通告でもって応じた。それは韓国の外相ですら知らなかった大統領(とその反日の取り巻きたち)の独断的決定でした。

 それは、文とその取り巻き以外の人には大方予想できたものですが、アメリカをひどく怒らせてしまった。GSOMIAは元々、アメリカが根回しをして日韓両国に結ばせたものだったからです。それでアメリカは「破棄撤回」を強く文政権に迫ったが、「自分は正しい」と言い張り、韓国の世論も5割超が破棄を支持した。「今の韓国人は頭がおかしいのではないか?」と多くの日本人はあらためて思いましたが、彼のその思考回路がどういう構造になっているかは、終了期日が迫る中、「国民との対話」なるイベントで、ご本人が語ったところから明らかになりました。

「GSOMIA終了問題は日本が原因をつくったのだ」というのがかねてからの彼の主張でしたが、その「原因」とは上記の、日本が韓国を貿易面での「ホワイト国待遇」から外したことです。まず「韓国は日本の安保にとって大きな部分で防波堤役をしてやっている」と恩着せがましく言った後で、「なのに日本は輸出規制をする際、『韓国を安保上、信頼できないため』という理由を挙げた」と述べ、「安保上、信頼できないと言いながら、軍事情報は共有しようというなら矛盾した姿勢だ」とお得意の三百代言的ロジックを開陳し、「(北朝鮮に武器に転用可能な物資を横流しするのに見て見ぬふりをしているといった)疑惑自体がとんでもないが、日本が仮にそうした疑いを抱いているのなら、輸出物資統制を強化してほしい、あるいは韓日間の意思疎通を強化しようと言うべきなのに、何の事前要求もなしにある日突然、輸出規制措置を取った」、こんな無礼なことが果たして許されるのか、だから対抗措置を取ったまでで、非は全面的に日本側にあるのだ、とのたまうのです。

 日本側からすれば、「ある日突然」もクソもない、大法院のあの国際的非常識判決でも、慰安婦財団の解散のときでも、文は日本政府にいかなる相談、意思疎通の努力も見せなかったのです。これはA→B→C→D→Eと原因と結果の連鎖が続いて関係が悪化していくプロセスで、それ以前の因果関係には目もくれず、いきなりDから事が始まったとする理解に基づくもので、通常は幼稚なジコチュー人間しかやらないことです。事情を知る第三者なら、「その前に自分がやらかしたいくつものひどいことは何でもなかったわけ?」と呆れるはずですが、それを恥ずかしげもなく一国の大統領が自己陶酔的に吹聴するというところが恐ろしい。おそらく彼にはその自覚が全くないのでしょう。

 結局、彼は失効直前になって、GSOMIA延長を決めました。さらなる外交的孤立とアメリカを恐れたためだと見られていますが、「日本に対する8月の破棄通告の効力を停止する」(共同通信)というややこしいかたちでそれを発表したのです。むろん、負け惜しみの強い文政権は「これはあくまで『一時的な停止』であって、日本側が過ちを改めない場合にはいつでも廃棄できる」と付け加えるのを忘れないのですが、悪い経済指標が関係官庁から発表されるたびに決まって出される「大本営発表」的な無駄にポジティブな経済政策の自画自賛にしても、こういう滑稽としか言いようのない強がりにしても、現実を見ずに愚行を重ねて、それでどうしようもなくなると苦しい言い逃れに走るというのは、とても一国の政治指導者のやることとは思えない。トランプならずとも、「どうしてあんな人が大統領になったのか?」と言いたくなりますが、それでも支持率はまだ4割台もあるのです。

 これは僕にとってだけでなく、多くの日本人にとって謎でしょう。大統領就任以来、彼が取ってきた対応でまともなものはほとんどありません。あのチョ・グクの法相任命の時もそうでした。次から次へと出てくる疑惑に、「疑惑だけで任命しなかったら、悪い先例になる」と珍妙な理屈をこねて任命を強行しましたが、検察の捜査が進むにつれてその疑惑がさらに濃厚になるにつれ、とうとう持ちこたえられずに辞任する羽目になったのです。こういうのはアメリカでもヨーロッパでも、日本でも、ありえないことです。同じく「ありえない」のは彼の北朝鮮対応で、日本に対してはどんな些細なことでも逆上するのに、金正恩に対してはアホバカ呼ばわりされても怒ることすらない。北朝鮮は人権蹂躙の野蛮な時代錯誤の独裁国家である、というのは国際常識です。「瀬戸際外交」なるもので経済援助をゆすりとりながら、約束は守ったためしがない。それを、文は北朝鮮が核開発とミサイル実験に狂奔する中、かの国の平和志向は明確であるとして、使い走りよろしく、西欧諸国首脳に「経済制裁緩和」を説いて回ったのです(呆れられて終わりでしたが)。また、「北朝鮮は危険な敵国ではない」ので、進んで対北戦力を削減する方針を示した。北朝鮮は過去何度も「ソウルを火の海にしてやる」と恫喝しましたが、文在寅が見るところでは、金正恩は良識に満ちた偉大な政治指導者で、そんな危険性は全くないのです。先頃は脱北の意思を示した漁民二人を北朝鮮に強制送還しました。これは韓国史上初の出来事で、彼らは同じ漁船に乗った十数人の同胞殺害の疑いがもたれていたのですが、帰順の意思を示している者なら、いったん亡命を受け入れて自国の裁判所で裁けばよいものを、北朝鮮のご機嫌を損じるのを恐れて、ロクな取り調べもせず、証拠物件の漁船もろとも金正恩様にお返ししたのです。その一人は、目隠しをされて連行されたら、それが国境で、目の前に北朝鮮兵士が立っているのを見て卒倒したそうですが、文在寅にはその理由が理解できない。理想国の北朝鮮なら、韓国でよりもずっと公正な裁判が受けられるはずだからです。国際的な人権監視機構であるヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、国際法違反の暴挙だとこれを手厳しく批判しましたが、極端な親北の文政権には馬耳東風なのです。

 文政権の異常性について長々書きましたが、これらはリアルタイムで起きたことで、誇張や虚偽は含まれていないだろうと思うので、もしもあったらご指摘いただきたいのですが、一体こうした通常人の理解を絶したコリアン・メンタリティはどこに淵源するのか? 上に見てきたことすべては、ふつうの日本人の感覚からすれば人間のクズのやることです。しかし、困ったことにその「人間のクズ」が隣国の大統領で、韓国民がこれを深く恥じている様子もない。一体それはどうしてなのでしょう?

 ここでやっと話は『反日種族主義』に入りますが、この本を読む際の僕の最大の関心は、こうした非常識かつ無能な男を大統領に選出し、なおも一定の支持を与え続ける韓国民のメンタリティにありました。彼らはどうしてあの男と、取り巻き連中を異常だとは思わないのか? 韓国の保守派はむろん批判していますが、それが国民的な広い理解を得られないのはなぜなのか、いくら考えてもわからないところがあったのです。

 編著者の李栄薫氏は、プロローグを「嘘の国」と題して、韓国の異常な「嘘つき文化」の描写から始めます。「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っています」という書き出しで、偽証罪、誣告罪による起訴の件数(人口比で日本のそれぞれ430倍、1250倍)、保険金詐欺(アメリカの100倍)の桁外れの多さをまず指摘するのです。それは2014年の具体的なデータを示してのものなので、事実なのでしょうが、驚くべき話です。それで「お互いが信じ合えないので各種の訴訟が入り乱れ」、「ある社会運動家は、韓国の一人当たりの民事訴訟の件数は世界最高だ、と嘆きました」と述べて、その後、「嘘をつく政治」、「嘘つきの学問」、「嘘の裁判」と論を進めて、嘘が韓国社会全体を覆っていることを示すのです。

 そこで述べられている嘘のいくつかは、大方の日本人も先刻承知しているものですが、本文のそれぞれの章も、全部「反日韓国人の嘘」を暴くものです。非難が事実に基づかないものなら、それは中傷に他なりませんが、今の韓国人は「反日自体が正義」なので、日本相手ならどんな嘘をつこうが、虚偽に基づいて非難しようが、何ら罪悪感を感じないのでしょう。「あれは間違ったから、謝ります」と言ったという話を、僕は一度も聞いたことがありません。一例は、「朝鮮半島の少女や若い女性の20万人が日帝によって強制的に慰安婦にされた」という挺対協が広めた荒唐無稽な大嘘ですが、日本にあれほどしつこく謝罪と賠償を要求しながら、彼らは自らの非を認めて日本に謝罪するなどということは決してしないのです。国連やILOにまでその一方的な主張を持ち込み、慰安婦少女像なるものを仲間の彫刻家夫妻に作らせ、それをあちこちに「建立」しながら、虚偽と誇張に基づく日本人の悪評を世界に広めるのに、彼らは尽力してきたのですが、間違いを指摘されても居直るだけなのは驚くべきことです。挺身隊と慰安婦を混同していたという話は有名になりすぎたので、団体の名称を「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(略称「正義連」)に変えたのはご愛嬌ですが、ウィキペディアにも「北朝鮮工作機関の傘下にある朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会と協力関係にあり、産経新聞は、この団体は日韓両政府の慰安婦問題解決に向けた歩み寄りを度々妨害してきた、としている」とあるとおり、「元慰安婦の救済」ではなく、反日イデオロギーの強化を目的とする札付きの「市民団体」なのですが、今の「反日でなければ人に非ず」の韓国社会では大きな影響力をもっているのです。

 この挺対協の目に余る「悪行」については、第22章「韓日関係が破綻するまで――挺対協の活動史」に詳述されているので、そちらをご覧いただきたいのですが、文政権はこれにべったりなので、だから慰安婦財団も解散したのです。「もっと日本を懲らしめてやらねばならない」というのは、彼らの共通信念なのでしょう。北朝鮮の深刻な人権侵害については何も言わないのも同じです。そこには理性的な現実認識というものがそもそもない。

 著者たちはそれを「反日種族主義」と命名し、呪術的な朝鮮半島のシャーマニズムと結びつけていますが、たしかにこれは一種の「宗教カルト」です。文在寅はその「神官」であり、挺対協はその「巫女」のごときものです。彼らは「反日儀式」を司り、それに異を唱える者は「悪魔の手先」として“積弊清算”の対象となるのです。いかがわしい「親日」の痕跡は「日帝残滓」とされ、撲滅されねばならない。だから学校の校歌も、親日的な人物が作ったものであれば歌うのをやめねばならず、校庭の樹木でさえ、植民地時代に日本から持ち込まれたという俗説のあるものは「親日の木」として伐り倒さなければならない。過去の歴史全体が、反日ファンタジーに合わせて書き換えられなければならないのです(だから恥ずべき親日政権の朴正熙時代の「漢江の奇跡」なども教科書から削除された)。

 この本には一つ、とびきりこっけいな話が出てきます。それは第13章「鉄杭神話の真実」で述べられている話で、僕はこの「鉄杭騒動」というのは知りませんでしたが、何でも「文民政府だと宣言した金泳三政権(1993~1998年)」のとき、「鉄杭引き抜きが一種の国策事業」として行われたらしいのです。一体これはどういうわけなのか?

 民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ、人材輩出と精気を押さえ付けようとしたのだ(p.166)。

 これは、「ソウル国立民族博物館で開かれた光復五〇周年記念の『近代一〇〇年民族風物展』に展示され」た「楊口で除去された鉄杭」に添えられた説明文だとのこと。それで全国で鉄杭抜きの作業が必死に行われ、それは「日帝」が残したものかどうか、よくわからないものが多かったそうですが、とにかく片っ端から抜いて回った。事実は、その憎き「日帝」が残したものも、風水とは関係がなくて、「日本は朝鮮を併合した後、土地調査のため(朝鮮の)歴史上初めて近代的測量を行ない、その過程で測量基準点の標識を全国の高い山に設置」したのが、迷信深い民衆からそう誤解されたにすぎなかったのですが、二〇世紀末になってもまだ、政府まで乗り出して大々的にそんなことが行われたのです。

 うーむ。僕はオカルトや神秘主義には詳しい方ですが、さすがにこれには呆れたので、「鉄杭神話は、韓国人の閉ざされた世界観、非科学性、迷信性が、長い歴史と共に反日感情と結合して作られた低劣な精神文化を反映しています」と著者が述べているのは尤もです。これでは韓国人悲願のノーベル科学賞など、永遠の夢でしかないでしょう。全体に理性的、現実的な思考ができない人たちなのです。「いや、人材輩出と精気を押さえ付けようとした日帝の悪だくみは粉砕したから、今後は気がうまく流れるようになって、天才が続出するはずだ」と言うかもしれませんが。

 こういうのは今の日本人には理解し難いことですが、オウム真理教のようなカルトを考えるとわかりやすいかもしれません。あれもある意味、迷信に彩られた古い心性の復活と考えられるからです。彼らは精神病質人格の麻原というグルの下、社会を敵視し、「毒ガス攻撃を受けている」という被害妄想を共有しました。そうしながらサリンを製造してそれをばらまき、社会を大混乱に陥れ、「ハルマゲドンがやって来る」と言いつつ、自作自演のハルマゲドンを計画したのです。虚栄心が強く、東大法学部→政治家→総理大臣という誇大妄想的な夢をもちながらその入り口にも辿りつけず挫折した麻原は、屈折した内面の持主でしたが、その心理的補償として高学歴の若者たちをリクルートし、彼らを幹部に登用しました。宗教的な嘘は別として、オウムの嘘は信者の一人を誤って死なせてしまい、その発覚を恐れて隠蔽を図ったところから始まった。嘘をごまかすために次の嘘が必要になるというかたちでそれはエスカレートしたのですが、そのプロセスでどんどん攻撃性も増し、最初は事故死の隠蔽にすぎなかったものが積極的な殺人と強引なその教義的正当化へとエスカレートし、ついには大量殺人、国家転覆という途方もない妄想へと発展したのです。それは「最初にして最後の最終解脱者」である「至高の尊師」が支配する「至福の千年王国」樹立という“ポジティブ”な包装紙にくるまれていたのですが。

 文在寅が麻原と同じだとまでは僕も言いません。しかし、彼は虚偽にまみれた「南北統一後のユートピア」を夢想する、自国の屈辱と挫折にまみれた歴史を全否定して「あるべき歴史」に作り替えたいという願望に支配された一個の妄想家なのです。それはカルトの神官にはうってつけの素質で、韓国社会は新たな神官を得て、これまで見え隠れしていた古い心性とその自閉的な「神学体系」が露骨なものとして前面に出てきた。そう考えるといくらかわかりやすくなります。

 いくら馬鹿に見えても、彼らは知能が足りないのではない。オウム事件の時も、本来頭のいいはずの若者たちがどうしてあのような妄想に取り込まれたのか、人々は不思議に思いました。おかしいなと思っても雰囲気的に内部ではそれに逆らえないという集団心理も手伝っていたのでしょうが、現実を直視したのでは自分の信仰や価値観が一気に崩壊してしまうので、何としてでもその妄想にすがりつきたいという思いが大きかったのでしょう。彼らの知的能力は、現実と照らし合わせてそちらを修正するのではなく、その虚偽の妄想体系を精緻化し、正当化する努力に注がれたのです。彼らが世間の批判に何と言って反論していたか、記憶している人もいるでしょう。

 韓国の「反日神学」もこれと似ています。『反日種族主義』の良心的な著者たちは、「このままでは国が亡びる」という危機感の下、それに正面から異論を叩きつけたのですが、文在寅の右腕だった、「疑惑のタマネギ男」と呼ばれていたチョ・グクなどはこれを「ヘドが出る本」だとして斬り捨てたのです。文は疑惑の渦中で彼を法相に任命し、世論の批判に耐えかねてついに辞任するに至ったのですが、文政権とその取り巻きが一個のカルトに他ならないと理解すれば、あの非常識な任命劇もよくわかるのです。カルトの内部においては何よりも「神学への忠誠」が重要であり、人格面はどうでも、チョ・グクはそれには欠けるところがなく、神学の正当化・精緻化をはかる上でも不可欠の人材だったからです。

 オウムと文政権の共通点は他にもあります。それは自らを高しとする、その並外れた自惚れです。オウムの信者たちにとって俗世間は「高度な精神性をもたない、不潔な妥協に満ちた世界」でした。文一派にとっても韓国の保守派は「ゴミ溜め」にすぎないのです。とくに親日派ほどけがらわしいものはない。オウムの信者たち同様、自分の内面の醜さ、ご都合主義的な虚偽体質は自覚しないのです。他方、北朝鮮は、その現実に照らせば人権無視の、野蛮かつ醜悪な時代錯誤の独裁国家にすぎませんが、文のカルト信仰に照らせば、それは「反日の旗幟鮮明な、民族自立の本道を歩いてきた」尊敬すべき友邦なのです。だから自分の愚行を棚に上げてすぐ日本には腹を立てるが、金正恩にはどれほど罵倒されても、苦痛の色は見せてたとしても不快は表明することがない。その極端なコントラストを説明してくれるのは、彼のカルト信仰なのです。神官・文在寅に見えているのは現実ではない、彼自身の幻想世界なのです。

 幻想を通じて世界を見る人間は、その幻想に合わせて現実の人間や出来事を割り振ります。事実どうなのかということは重要ではない。だからそれを軽視してしまうのですが、それでは現実からきついしっぺ返しを受けることは避けられない。彼の現実無視の「理想」に基づく経済政策はものの見事に失敗しました。韓国の宿痾である財閥中心の経済構造の改革も全く進んでいない。彼の支持母体であった「自己利益追求集団」の巨大労組はさらにのさばり、それが経済悪化と格差社会に拍車をかける。日本との関係については、戦後最悪です。しかし、幻想に固執する彼は容易にそれを認めない。鵜の目鷹の目で好都合な材料を探して、「すべてはうまく行っている」と言い張るのです。一部問題はあると認める場合でも、非難すべきは不都合を作り出した悪しき現実であって、自分の幻想の方ではない。これは典型的なカルト思考です。

 カルトは平気で嘘をつきます。その幻想体系それ自体が虚偽なのですが、彼らにとってはそれは正義であり、絶対なので、その幻想を共有しない者相手にどんな嘘をつこうが、それはさしたる問題ではないのです。幻想が真実なら、現実は虚偽になる。そこでは価値が転倒しているので、話が噛み合わないのはあたりまえです。

 例の反日歴史教科書問題にしても、日本人は「あまりにも史実無視の嘘が多すぎる」と憤りますが、彼らにとってはその幻想の中にある「歴史ファンタジー」こそが重要なので、まず歴史的資料の客観的かつ詳細な吟味・分析があって、それに基づいて歴史理解が進むという近代精神的なやり方にはならないのです。ファンタジーに合わせて資料解釈も行われる。『反日種族主義』の著者たちは例外として、韓国の歴史研究者たちの間では、そのファンタジーに適合する資料探索が熱心に行われ、新たにそれらしきものが発見されると、そのファンタジーをより強化する方向での歴史記述の修正が行われる。マスコミも政府もこぞってそれを称賛し、後でその資料がいかがわしいものであったり、恣意的利用が甚だしいものであることが判明したとしても、深く咎められることはないのです。そしてそれはそのまま真実として受け入れられる。これとは反対の、皆が信奉するファンタジーの正当性を疑わしくさせるようなケースでは、異常なまでに厳しく吟味され、それはほとんど揚げ足取りに等しいものですが、一部に語句の「不適切な使用」や誤りが発見されるとそれが針小棒大に報じられて、全部が虚偽として葬り去られるのです。その「取り調べ」の雰囲気は、西洋中世の異端審問のそれに近い。僕は『帝国の慰安婦』の著者、朴裕河さんの裁判のとき、そう感じました。近代国家でどうしてああいうことが起きるのかと。

 韓国を被害者意識と病的なナルシシズムに冒された、神経症的な「反日カルト国家」だと理解すれば、こうした数々の「非常識」も了解可能なものになります。1980年代の「民主化」以降、とくにそれが顕著になったというのは皮肉なことですが、政治的抑圧から解放された時、呪術と迷信にまみれた古いシャーマニズム的心性も一緒に現われ、それに呑み込まれてしまったのかもしれません。おそらく、韓国は元々、日本以上に集団心性の支配力が強く、個が稀薄な国です。それも関係しているのだろうと思います。

 もう一つ、僕にはかねてから不思議なことがありました。韓国人はどうしてああも深く過去のことを根にもち、しつこいのかという素朴な疑問です。朴槿恵・前大統領は「恨みは千年たっても忘れない」という名言(?)を残しましたが、それが「恨(ハン)の文化」だと言われても、それだけではよくわからない。しかもその恨みが、しばしば甚だしく主観的なものであることで、それが客観的に妥当性のあるものなのかどうかなどということはあまり気にかけないのです。

 こういうのは、史実の見地からすれば「99%嘘」の韓流歴史王朝ドラマなどにもよく表われているので、両班の重臣たち(その多くは権力を悪用して私腹を肥やしている)は派閥に分かれて血みどろの抗争を繰り返し、その中の悪役の首領のたちの悪さ、諦めを知らない執念深さは半端なものではありませんが、最後にとうとうつかまって死を免れなくなっても、呪詛の言葉を口にしたり、「こんな私に誰がした」と責任転嫁するのを忘れないのです。何でも、彼(彼女)は昔、よい人間であったが、誰かに手ひどく裏切られるとか、権力の無慈悲な暴力によって家族を奪われるなどして、あるいは「権力の蜜の味」にスポイルされるとか、王様の寵愛を失うなどして、人格が変容し、このような悪しき人間になってしまったのです。韓国流「甘えの構造」の面目躍如で、それが度の過ぎた悪行の正当化にどうしてなるのかわからないが、なってしまうのです。そして部下たちも、その悪行に手を貸し続け、最後には主人の処刑に涙し、あるいは憤る。むろん、善玉の主人公だけは「清く正しい(しかもありえないほどに)」のですが、全体として見た場合、著しく「公」の観念に乏しいことは否めないので、私的な怨念を晴らすことか、自己及び一族の繁栄、権力の伸長をはかることこそが正義で、それを超えた「正義」の観念などあまりなさそうに思えるのです。

 これは基本的に今の韓国でもあまり変わっていないのではないでしょうか。だから『反日種族主義』のプロローグの指摘にもあったように、今の韓国社会では並外れて不正が多いのです。韓国の儒教社会においては「名分」というものが何より重視されてきました。歴史王朝ドラマでは、重臣たちが陰謀をたくましくするとき、きまってこの言葉が出てきます。敵を非難して陥れたり、卑劣な陰謀を正当化する際、この「名分」が錦の御旗として使われるのです。今の韓国でも同じく、与野党の攻防でも、マスコミの批判でも、この名分が多用される。それは韓国が「理の国」だからだそうですが、それは道具、タテマエにすぎないので、社会がそれで道徳的になることは決してない。むしろ逆なのです。儒教の始祖たる孔子その人がこの危険性をよく承知していた。だから「正名論(名称と実質を一致させること)」を説いたのですが、名分がタテマエとして他者への道徳的非難や自己正当化に乱用されるとき、それは嘘をつくことに他なりませんが、社会全体の道徳規範は著しく低下するのです。

『反日種族主義』が指摘するように、これは今の韓国社会の深刻な病理であると思われますが、李栄薫氏の説明によれば、こういうのも「韓国の文明史に古くから存在するシャーマニズム」が関係するのです。少し長いが、日本語版p.336~8にそのまとまった説明が出てくるので、そこを引用します(カッコ部分は引用者の補い)。

 シャーマニズム、物質主義、種族主義は、お互い深く通じ合っています。〔韓国の〕シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です。私は朝鮮の奴隷制度を研究する中で、このような生と死の原理に気づくようになりました。そう気づいてから、韓国の文明史について多くの点を新しく考え直すようになりました。このような生と死の連鎖の中で、善と悪の絶対的区別や、死後の審判は成立しません。どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間の霊魂が永遠の救済に至る道です。それで両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことも、不法にお金を儲けることも、みな正当化される物質主義社会が成立しました。シャーマニズムと物質主義の関連は、このようなものです。

 物質主義社会で政治的に対立する集団の間には、共有する真理や価値観はありません。二つの集団が衝突する場合、これを調整する客観的な弁論は許されません。一方の集団はその物質的成就のため、もう一方の集団を排斥し、敵対視します。その集団に「自由な個人」という要素は存在しません。個人は全体に没我的に包摂され、集団の目的と指導者を没個性的に受容します。このような集団が種族です。このような集団を単位にした政治が「種族主義」です。(中略)

 このような韓国の政治文化が、対外的に日本との関係に至ると、非常に強い種族主義として噴出します。古い昔から日本は仇敵の国でした。反日種族主義の底辺には、そのように歴史的に形成された敵対感情が流れています。中国に対する敵対感情は歴史的に稀薄でした。そのため、反中種族主義というほどのものはありません。むしろ中国に対しては、朝鮮王朝がそうしたように、事大主義の姿勢を取ることが多いのです。中国がひどいことを言っても怒らず、ひどいことをしても我慢して過ごします。韓国の民族主義には、自由な個人という範疇がありません。二つの国に対する態度も、その未熟な世界観によって顕著に不均等です。それで私は、韓国の「民族主義」は「種族主義」と呼び変えるのが正しい、と主張するのです。

 反日種族主義は一九六〇年代から徐々に成熟し、一九八〇年代に至り爆発しました。自律の時代に至り、物質主義が花開いたのと軌を一にしました。反日種族主義に便乗し、韓国の歴史学会は数多くの嘘を作り出しました。この本が告発したいくつかは、そのほんの一部にすぎません。嘘はまた反日種族主義を強化しました。過ぎし三〇年間、韓国の精神文化はその悪循環でした。その中で韓国の精神文化は、徐々に低い水準に堕ちて行きました。


 そしてとうとう、文在寅のような大統領を誕生させ、日韓関係を「戦後最悪」と言われるレベルにまで悪化させたのですが、その「反日種族主義」は没理性的なものであるだけに、対応が難しい。それはカルト集団相手に話し合いが成立し難いのと似ています。「洗脳」を先に解かないことには、どうしようもない。

「なぜ韓国人はああもしつこいのか」という先の疑問に戻りますが、それを解くヒントも上の引用にありそうです。それは「〔韓国の〕シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です」という箇所です。だから、「どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間の霊魂が永遠の救済に至る道」だということになって、「両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことも、不法にお金を儲けることも、みな正当化される」ということになるのです。

 これは韓国人には超越的な、言葉の真の意味での「彼岸(ひがん)」はないことを意味します。日本人のような「死ねば仏」という観念はないのです。あの世はこの世の延長で、身分差別もそのまま維持される。「あの世」は「この世」の従属物でしかなく、奴婢で死んだ人は何度も生まれ変わって、この世で両班(貴族)の地位を得るまでは救済されず、その救済も身分差別に立脚する歪んだものでしかないのです。

 再び韓流歴史王朝ドラマを持ち出すと、それには典型的な「貴種流離譚」などが多いが、低い身分の女性が王様の寵愛を受けて高い地位を授けられる、といったものもあります。この場合も、賤民が貴族に“昇格”するのであって、それ止まりです。現代ドラマだと、財閥の御曹司がその威光を恐れぬ庶民女性に恋をして、といったふうなものが多いようです。華やかな上流階級がやはり舞台となるのです。「そんなクソみたいなもの、相手にしてられるか」といった見地から作ったのでは一般受けがしないのでしょう。貧しい庶民は富裕層の相次ぐ不正に怨嗟の声を上げる一方、それに憧れて仲間入りを熱望するといった矛盾した心理の中に置かれているのです。その中で身分社会は維持される。

 厳密には、それでは救済にはならない。身分差別のある現世の中で、勝ち組になるまで戦い続けるしかなくなるのですから。「千年たっても恨みは忘れない」ことが是とされる国、民族というのは、その救いのない宗教観から生まれたものなのでしょう。それだけに現世的な恨みつらみも根深いものになるのです。韓流ブームの起点となったドラマ『冬のソナタ』は、美男美女によるその「一途な愛」で日本のおばさんたちを熱狂させたのですが、あれなども見方を変えれば現世的な感情執着の強さを讃美するもので、醜男醜女のそれなら、ストーカーじみたしつこさになります。愛であれ、恨みであれ、韓国的シャーマニズムの心性では、それが成就するまで維持されるのが望ましいことなのです。日本でいえば、江戸時代の有名な四谷怪談のお岩さんの心理です。それが今の韓国ではまだ生きている。挺対協改め正義連などは、元慰安婦の代理人を自称し、いくら日本政府が謝罪・賠償しようとも、それは彼らが主張する「性奴隷」の苦痛には見合わないものだとして拒絶し、非難を続けているのですが、その主張の高度の幻想性・主観性とも相まって、「呪詛の宗教」そのものです。そういう団体が韓国社会で孤立するどころか大きな影響力をもつというのは、社会がそういうものに親和的な体質をもつからでしょう。この本の第1章では「荒唐無稽『アリラン』」として、韓国で累計350万部を売り上げたという「今日の韓国で一番よく知られた人気小説家」、趙廷来(チョ・ジョンネ)の“反日国民的小説”『アリラン』の並外れた虚偽を暴いていますが、その中でこの人気作家は史実的にありえない「悪鬼のような日本人による朝鮮人虐殺」の場面をいくつも迫力満点の筆致で描き出しているそうです。歴史小説の場合、読者はそれを事実を踏まえたものと誤解しやすいので悪質です。李氏は彼を「狂気がかった憎悪の歴史小説家」と評していますが、これも「呪詛の宗教」です。

 長くなったのでこれくらいにしますが、韓国のあの異常さがどこから、どのようにして出てきたのかという僕の疑問は、ある程度この本によって答えられました。文政権は著者たちのいう「反日種族主義」から生まれたカルト政権で、その幻想性において、過去のどの政権をも凌ぐ。対日外交は彼らのその幻想に基づくものなので、僕ら日本人には理解し難いのです。しかし、彼らの幻想は日韓関係を極度に悪化させたのみならず、国内経済面でも、国家内部の政治対立を極大化させて自国民の間に深刻な分裂を生み出してしまったという点でも、行き詰まってしまった。幻想は現実を前に立ち往生してしまったのです。

 韓国でこの本がベストセラーになった理由を、著者たちは、文政権の度の過ぎた「反日」に韓国民が危機感を感じるようになったためではないかと分析しているようです(意外にも、露骨な反日歴史教育を受けて育った30代が一番多く買っている由)。僕が前にここにちょっと書いたロバート・J・リフトンは、Losing Reality で、完全な洗脳は不可能で、健康な部分は必ずどこかに残っているものだと書いています。文政権はその硬直したカルト的体質ゆえに、逆に韓国民の間に本能的な警戒感を呼び覚ましたのかもしれません。だとすれば、文政権は日本人に韓国の異常な思考形態と歴史教育にあらためて注意を向けさせただけでなく、韓国民の洗脳にも目覚めのきっかけを与えたと言えるかもしれません。このカルト大統領は皮肉な功績を残したことになるわけです(これとは別に、高校生たちが韓国教組の教師たちの反日思想強制に抗議の声明を出したというニュースもありました)。

 仕方なく妥協はしても、体質にそもそもの問題があるので、文のカルト政権ぶりが変わることは望み薄です。彼のあの「神官」じみた能面のような顔つきは変わらないでしょう。本格的な関係改善はその後の政権に期待するしかありませんが、韓国社会そのものは、まだ柔軟性のある若い世代から徐々に変わってくるかもしれない。それに期待したいところです。

 相変わらずだなと思ったのは、この本の著者たちは、『帝国の慰安婦』の朴裕河さんと同様、言論の場での対等のやりとりではなく、語句の揚げ足取りで訴訟攻めに遭うのではないかと危惧していたら、案の定、「強制徴用労働者像」なるものが、韓国人労働者のものとして流布された日本人労働者の写真(そういう“誤って”転用された写真は少なくない)をモデルとしたものではないかという記述(p.72)が名誉棄損に当たるとして、像の彫刻家夫妻が損害賠償の訴えを起こしたそうです。ニュースに「キム・ウンソン、キム・ソギョン夫妻」とあったので、ひょっとしたらと思って調べたら、やはりこれはあの慰安婦少女像で有名な、挺対協とタッグを組んでいる夫妻です。彼らがやせこけてあばら骨が浮いた徴用工像も作った。モデル問題というのは彫刻などの場合、本人が「違う」と言い張れば、それでおしまいなので、本書で名指しで批判されている挺対協が意趣返しに焚き付けたものなのでしょう。『帝国の慰安婦』のときと同じ構図で、そういうところは、相変わらずの韓国なのです。

 しかし、挺対協のそうしたやり方は支持を失うかもしれない。この本の挺対協批判の章は非常によくできていて、僕も読んで胸のつかえが下りたのですが、ふつうに読めばこれがどんな団体なのか、よくわかるからです。本書の他の細かい部分、たとえば「強制労働」の解釈をめぐる箇所などでは一部から尤もな批判が出ていますが、僕がネットで検索して読んだかぎりでは、感情的な反発は別として、他に立論を覆すような強力な反論はほとんど出ていない。文政権御用新聞のハンギョレは過日、「民族問題研究所と日本軍「慰安婦」研究会は〔10月〕1日、ソウル龍山区(ヨンサング)の植民地歴史博物館で『反日種族主義』緊急シンポジウムを開き、この本の主張に逐一論破した〔最後、日本語がヘンだが、そのまま〕」として、そのシンポジウムの模様を伝えていましたが、実際は「論破」になどなっていないので、反日イデオロギーに基づく従前の主張を飽きもせずただ繰り返しているだけです。

 最後に、『反日種族主義』の編著者、李栄薫氏の日本記者クラブでの記者会見(今月21日)のときの冒頭発言の全文が産経に出ているので、URL を付けておきます(産経を引用したからといって「右翼に転向したのか!」と決めつけないでください)。

李栄薫氏「韓国人の自己批判書だ」 発言全文

香港の若者

2019.11.19.16:14

 李栄薫編著『反日種族主義』日本語版を買って読み、「確かにこれはいい本だ」と感銘を受けたので、それについて書くつもりだったのですが、先にこちらを書いておきます。

「妊婦に催涙スプレー」「出歩くだけで逮捕」荒れ狂う香港で若者に広がるある言葉

 一読するだけでそのすさまじさがわかり、逮捕者もすでに3400人に達している(大半が若者)という話ですが、記事の見出しにある「ある言葉」というのも尋常ではない。

「国際的な支援を求めてはいますが、香港は大国間のせめぎあいのゲームの駒にされているようで、過度な期待はしていません。とはいえ、ツイッターなどSNSを使って香港の状況をより多くの世界の人々に伝える努力はこれまで以上に重ねます。いつの日か、警察や官僚が、今犯している人道、国家犯罪に関して、国際法廷で裁かれる日を夢見ながら」

 そういった厳しい状況の中、若者たちのなかで広がりつつあるのが「攬炒(ラムチャオ)」(死なばもろとも)という覚悟だ。

 これは、警官を巻き込んで死んでやるといった意味ではない。習氏が香港人の「自由と民主」を認めないなら、中国経済にとっても欠かせない香港の国際金融センター機能を麻痺(まひ)させ、失業、給与カットなど、たとえ自分たちが不利益を被ることになっても、香港内の親中的な富裕層や中国政府に多大な打撃を与えてやるという覚悟だ。


 中国共産党、習近平と刺し違えても「自由と民主」を守る覚悟だというのです。これはたんなる「血気にはやった行動」というのではないでしょう。彼らはあの天安門事件などもよく知っているはずだからです。中国共産党政府がどんなえげつない手を使う権力かということもよく承知した上での「覚悟」です。また、抗議活動は若者、大学生が中心でも、一般市民の厚い支持がある。

 習近平が人民解放軍(この名称はほとんどブラックジョークですが)を使えばかんたんに制圧できるが、世界注視の中、それをやったのでは国際的非難が一気に高まるだけでなく、中国の世界覇権戦略も大ダメージを受ける。あんな国の経済援助を受けたり、その資本を受け入れたりすると、後でどんな目に遭わされるかわかったものではないと、すでに「中国ファースト」的態度が露骨すぎて警戒されるようになっているのに、悪評は決定的なものとなる。米中経済戦争のさなか、それは痛すぎるダメージです。

 かといって譲歩すれば、中国本土内の民主派が勢いづき、これまで従順だった一般国民も政治的な自由を求める方向に動きかねない。一党独裁の“共産党王朝”が揺らぎかねないのです。独裁国家特有のメンタリティからしても、譲歩すればボスとしてのメンツが潰れて、習近平では駄目だ、という動きが共産党内部から出かねない。強権に頼ってきた“孤独な独裁者”は、KGB上がりのロシアのプーチンなども同じですが、コワモテをやめれば同時に失墜するという危険を抱えているのです。

 原因を作ったのは「一国二制度」の約束をなしくずし的に反故にしようとした“驕れる独裁者”習近平の方なので、彼に同情するいわれは全くありませんが、その愚かさを認めることはなおさら彼にはできないでしょう。心臓発作でも起こして死んでくれれば、後継者は自分のメンツを気にせずに、香港に大きな自治権を認めることができ、それで騒乱は終息するかもしれませんが、習近平が病気だという話は聞かないので、それは望み薄です。

 結局はケチくさいエゴとメンツの問題で、家庭や学校、職場でも、それが原因で自分の非を認めることができず、トラブルが発生するのは日常茶飯ですが、こういう問題でもそれは同じなのです。韓国の文在寅なども、GSOMIAの破棄でアメリカを怒らせてしまい、これはまずいことになってしまったと内心狼狽しながら、しかし、それを引っ込めたのでは面目が丸潰れになるので、先に貿易規制を仕掛けてきた日本政府がけしからんのだから、それを撤回すれば考え直してやってもいいとカッコをつけて見せるのです。その前に自分がやらかした国際常識に照らして自己チューかつ非常識きわまりないことはきれいに棚上げして、とにかく自分のメンツを保とうとする。一国の外交より、自分のメンツが大事なのです。ここでうかつに譲歩すれば支持率が下がって、今度の選挙で負けてしまうということなのでしょうが、それもたんなる「自己都合」にすぎません。彼の場合、何ら明確な先の見通しもなく悪手を打ち続けるという点で、とくに頭が悪いとは言えるでしょうが、大本の問題はエゴなのです。

 中国の場合、今のあれはそもそも共産主義でも何でもありませんが、元からあの面妖なシステムには無理があるので、どこかで政治的・思想的自由を認めて一党独裁をやめる方向に舵を切らねばなりません。中国のゴルバチョフがいつか出現する必要があるのです(尤も、あれはその後がエリツィン、プーチンと来て、よろしくなかったのですが)。しかし、そんな気配は全くなさそうなので、今回の香港騒乱は軌道修正のきっかけになりうるものですが、かえって中国共産党幹部たちの恐怖心を強めてしまったようです。それゆえに彼らは身動きが取れなくなっている。とくに習近平は根が小心な人であるように思われるので、ここで折れると先々何が起きるかわからないという恐怖心を強くもっているのでしょう。

 これから先どうなるのか、僕のような素人にはわかりませんが、中国共産党政府は人民解放軍(抑圧軍と名前を変えた方がよさそうですが)を入れて正面から制圧することはできないので、今後も汚い手を次々繰り出して反対派の疲弊、解体をはかろうとするでしょう。元が巨大国家権力を相手の戦いなのだから、抵抗派に勝ち目は薄い。しかし、ここまで長引いているということ自体、中国共産党には大きなダメージで、印象戦では勝利に近いでしょう。

 翻って、今の日本は平和で、若者もおとなしい。例の「桜を見る会」がけしからんといった程度の話だけで、大学生たちはシューカツにいそしみ、受験生たちはセンターまであと二ヶ月で、他のことどころではありません。塾教師の僕も、眠そうな顔をしている生徒に、「ちゃんと寝ろよ。寝不足では頭が働かず、勉強の能率が上がらない」なんて言っているのですが、同じ惑星上に生きていても、所違えば意識もやっていることもまるで違うのです。

 これはいい、悪いの問題ではありませんが、これからやってくるであろう激動の時代、無風状態の中で、内向きの意識の中、十代、二十代を過ごした彼らがそれにどう対処するのか、できるのか、いくらか心配になることはあるのです。今の日本の若者は「安全意識」が発達していて、将来の生活設計なども怠りない一方、広い文脈でものを考えることが苦手で、思考の幅が狭すぎると感じることが少なくないので、せめて視野を広くもって、あれこれ考えながら、自分の勉強の意味づけをしてくれればいいのですが。

大学入試新テスト・民間試験導入、主犯はベネッセと下村か?

2019.11.13.16:46

 非常に興味深い記事がネットに2本出ています。とくに最初のデイリー新潮(元は週刊新潮)の記事は強烈です。

英語民間試験ごり推しの裏に「ベネッセ」の教育利権…高校も大学も逆らえない

 前に楽天・三木谷会長の関与を指摘した記事を紹介しましたが、これを見ると、ベネッセの“黒さ”は半端なものではありません。クリックして詳細をお読みいただきたいのですが、記事は文科省の作業部会への露骨な関与や、関係者・大学教授の囲い込み、「個別の大学にもベネッセ関係者の天下りが増加中」だと指摘した上で、

 もはや受験生ファーストでなく、ベネッセ・ファーストの入試改革が進んでいたようにさえ見えるが、そうなった背景を教育ジャーナリストが説明する。
「14年に発覚した個人情報漏洩事件で、ベネッセは250億円を超える特別損失を計上。また事件を機に主力の“こどもちゃれんじ”や“進研ゼミ”など通信教育の会員が減少したため、一刻も早い業績回復が急務とされていました。その点、入試に英語民間試験が導入され、毎年、仮に20万人の受験生がGTECを選ぶことになれば、1回7千円として1人2回受けるとして、黙っていても28億円の売り上げが加算されます。そのうえ、GTECを受ける子は当然、GTECを作っているベネッセの問題集を買い、通信添削も受けておこう、ということになるでしょう」
 だが、それだけではない。
「ベネッセの営業マンは全国の高校を巡回し、模試や教材を売っていますが、高校にすれば買わざるを得ない状況にあるのです。ベネッセは8月には、大学入試共通テストに新たに導入される記述式問題の採点業務を、61億円で落札しています。加えて英語民間試験でも、GTECの受検者が多ければ、入試に関する情報をもっているベネッセの教材を、高校が無視できるはずがないのです」
 さらには、大学にもプレッシャーをかけていた、と打ち明けるのは、某大学関係者である。
「ベネッセは大学に、合格者のGTECのスコアが何点だったとか、他大学との併願状況がどうだとか、受験生情報を売りさばいています。実際、私学の担当者は、そういうデータを見て受験日を設定したりしますが、特に併願情報については、ベネッセは1学部につき350万円で販売しています。教育に関わる企業の倫理として認められるものでしょうか。リクナビが企業に学生の情報を売って問題視された件と、どう違うというのでしょうか」


 えげつないとしか言いようがありませんが、

「下村氏は見送りが決まってからも、まだ入試改革をあきらめていません。自民党内の部会では、国が英語民間試験の導入を私学助成金で支援することまで仄めかしています。導入しなければ助成金をもらえないのか、と大学側は受けとりかねません」

 とあるように、元々が東京の板橋区で小中学生相手の塾を経営していたという元文科相の下村博文がその背後につねに見え隠れしているのです。この安倍の太鼓持ち、茶坊主の腐れ政治屋については数々の疑惑があって、僕も前にここに「下村博文・文科相の不正献金疑惑問題」(2015.3.4)「下村博文・不正献金疑惑から浮かぶ加計学園理事長の巧妙さ」(2017.6.30)と題して二度書いたことがありますが、懲りずにまだやっているのかと呆れます。ベネッセは彼の隠れ政治団体「博友会」にせっせと献金するのみならず、何かおいしい餌でも与えているのでしょうか?

「ベネッセは一線を越えた」英語民間試験の導入の経緯はブラックボックスの中

 こちらはアエラの記事ですが、その露骨な「利益至上主義」が指摘されています。

 ベネッセは、株主・投資家向けのビジネスレポートで、2018年度に162億円だった営業利益を20年度には350億円、22年度には600億円に引き上げる目標値を設定している。この中で「国内教育」領域の柱に「教育・入試改革を機会点としたさらなる成長」を挙げ、英語4技能教材の開発を重視することを明言。実際、グループ会社が大学入学共通テストで来年から導入の決まった国語記述式試験の採点業務を今年8月、61億6千万円で落札した。
 英語民間試験は高校3年生の4月から12月までの間に2回受けることが可能で、仮に共通テストの受験者の半数がGTECを選択して2回受ければ延べ約55万人が受験者になる。ベネッセが発表した検定料は税込み6820円で、それだけで数十億円規模の収入だ。さらに受験生向けの対策講座や参考書などの商品開発も加われば「教育・入試改革を機会点としたさらなる成長」という皮算用をしていたのだろうか。


 民間試験導入は巨大な利権を生み、それにベネッセは子飼いの政治家、学者、さらには役人まで使って食い込み、主役の座をつかんだということですが、職業倫理もへったくれもないので、深刻なのはこれが新テストに参加する国公立・私立の大学すべての入試の合否に関わってくるということです。大学側も、「そんな不透明なものは無視する」とは言えない。上の新潮の記事にもあるように、

 …たとえば、東京大学は昨年3月10日、英語民間試験は「合否判定に用いない」と発表した。ところが、ひと月余りのちの4月27日、一転して「使う方向で検討を始めた」と公表したのである。
 その間になにがあったのかについて、さる政府関係者は耳打ちする。
「下村博文さんが東大の五神(ごのかみ)真総長と幹部を自民党本部に呼びつけ、“センター試験廃止は教育再生実行会議で決まっている”“これ以上、遠藤(利明)さんを困らせるな”と、叱責したと聞いています。大学への金銭的プレッシャーも仄めかされ、幹部は蒼ざめて帰っていったそうです」


 これを下村側は「『100%ない』と否定」しているそうですが、彼は政治家らしくと言うべきか、常習的な嘘つきなので、誰も信じる人はいないでしょう。そもそも、東大はそれならどうして対応を一変させたのか? いかにも「権力に弱い東大」らしいが、何らかの圧力がかからなければ、「正論だ」と評価されていたのに、それを急に撤回することはなかったでしょう。「逆らうと為にならんぞ」と脅されたのです。

 他にも僕が驚いたのは、天下の阪大にまで、ベネッセが社員を送り込んでいたことです。

「たとえば、大阪大学高等教育・入試研究開発センターの山下仁司教授は、ベネッセでGTECの開発統括を務めた人。旧帝大で阪大だけが英語民間試験を必須としていたことと、関係があるといわれています」

 たしかに、関係はあるでしょうね。しかもこの御仁、肩書は事務関係ではなく、「教授」なのです(調べてみると、阪大文学部卒)。一体、学問的などんな専門をもっているのか、不可解この上ないので、旧帝大ナンバー・スリーの阪大も格が落ちたものだなと嘆息させられます。アエラの記事には、「ベネッセグループには、今回の英語民間試験の導入経緯に密接に関わってきた政官財学のメンバーが大勢ぶら下がっている」とありますが、ベネッセと仲良くしておけば、文科省の覚えもよくなるとか、癒着の詳しい内情を知るがゆえの人事だったのでしょうか? そう疑われても仕方はないのです。

 今の高校生や親御さんたちは、こういう話を読んでどう思われますか? 長い物には巻かれろで、それなら進研ゼミを受講して、使う教材はベネッセのものにして、外部試験はGTECを選択して、できるだけ入試に有利なようにしたいと思うのでしょうか? それとも「薄汚い話だ!」と憤るでしょうか! 後者が正常だと、僕は思いますが。

 安倍内閣の主要人物が旗振り役となり、教育現場を舞台に民間企業への利益誘導を図る構図は「森友・加計学園問題」とそっくりで、関係者の間で第3の疑惑と目されてきた。

 アエラの記事にはそうありますが、その規模の大きさと不透明さ、大学入試全体に及ぼす悪影響において、これは「森友・加計学園問題」とは比較にならない。ベネッセにはおそらく有能な顧問弁護士がついていて、明確な違法・不正行為と判断されて検察の捜査を受ける羽目にはならないよう、指南を受けているのだろうと思いますが、アメリカの企業や産業組織がよく使う、法案や政策策定の場に関係者を送り込んで中身を好都合なものに変えてしまう「合法の外観を装った不正」が日本にも上陸していることが、これではっきりわかるのです。

 思うに、公金と受験生を食い物にするだけの英語の民間試験と国数記述式導入はやはり白紙撤回すべきでしょう。親は余分な出費を強いられ、受験生は一層多忙になり、しかも、その効果はないに等しい(その理由については前回も述べた)ので、ベネッセその他の業者とそれに飼われている学者先生、政治屋、一部のジャーナリストの懐を温めるだけなのです。

 仮にこういうことが「ちょっと延期されただけ」で、そのまま通ってしまうとすれば、それはバブル崩壊後の銀行救済のあれを凌ぐ深刻なモラル・ハザードをひき起こすかもしれない。とくに若者に影響するので、「日本社会というのはこういうものなんだな」と受験生たちは学習し、どんなおかしな社会になろうと、大事なのはそれに追随して「うまい汁を吸える」側につくことだと考えて、まともな感性を失うのです。そうして20年もたたないうちに活力のない、不正と賄賂にまみれた後進国になり下がる。

 後世の歴史家はこれを「重要なターニングポイントの一つだった」として、ベネッセ、下村、そして文科省をその「最大の功労者」としてとくに名前を挙げて記録し、子々孫々に伝えてくれるかもしれません。それは全5巻ぐらいの『日本国衰亡史』あるいは『いかにして日本は三流国家となったのか』の最後を飾るヤマ場の一つなのです。

 最後に一言、元同業者の下村博文に言っときたいのですが、彼のような根性の卑しい、ヤマイダレのチセイの持主が国会議員になり、文科相になり、数々の不正疑惑で名を馳せるなんて、学習塾業界としては恥以外の何ものでもありません。学部が違うのはせめてもの慰めですが、自分と母校が同じだと聞くとなおさら腹が立つ。悪質かつ恥さらしなことをいつまでも続けるのは許し難いので、潔くさっさと引退するよう勧告しておきます。

「関係性」というヘンな日本語、誰が作った?

2019.11.11.16:37

 昨夜、珍しくNHK午後7時のニュースを見ました。そのニュースのメインはむろん「即位祝賀パレード」で、僕自身は皇室にはニュートラルな立場ですが、沿道の熱狂ぶりを見ながら、象徴天皇制というのはなかなかいいアイディアだなとあらためて思いました。政治的な欲にまみれた独裁者が国民に崇拝を要求するというのは、北朝鮮の例を見てもわかるように、たんなるグロテスクでしかありませんが、政治的には中立で、時の権力におもねることもなく(これは法律的に地位と生活が保障されていることが大きい)、「日本国民統合の象徴」として凛然としたたたずまいを示す人がいてくれるというのは、国民にとって精神衛生上もかなり大きなプラスの意味をもつように思われたからです。幸いにして、先代・今上天皇皇后両陛下とも、心映えすぐれたその地位にふさわしいお人柄で、軽薄のそしりを受けるような心配はない。問題は、「象徴」たるに相応しい各種制限を生活上受けることで、下々の者はさぞや窮屈なことだろうと、その点に同情するのです。

 それはともかく、そのニュースで、「何?」と思われることが一つあって、それは次のNHKのニュースサイトに出ているシーンです。

御厨貴さん「国民と両陛下の関係性縮まった」

 僕はかねてこの「関係性」という言葉を好みません。昔はこんなヘンな言葉は使わなかったので、僕はふつうの人よりは本をたくさん読んでいると思いますが、見たことがなかった。ところが最近、やたらこれが多いので、どこの馬鹿(失礼!)がこんなおかしな言葉を使い始めたのだろうと不思議に思っていました。日本語のセンスのない、高級ぶってやたら「的」だの「性」だのを付けたがる若手の社会学者あたりが使い始めて、それが広がってしまったのだろうと思っていたのですが、何のことはない、こんなじさまが使っていたのです!

「お二人の自然体の姿に国民が共感して、スマートフォンなどで撮影する様子をみて、国民と両陛下の関係性が縮まってきたと強く感じた」

 確かに、ニュースの映像でもそう言っていました。「関係性が縮まってきた」なんて、およそ日本語ではありませんが、「関係がより親密になって、距離が縮まってきた」という意味なのでしょう。それならそう言えよ。何にせよ、いい齢した東大の名誉教授がこんないい加減な言葉の使い方をしているのだから、端正な日本語が失われるのは当然です。

 ついでに、どういうふうにこれが乱用されているかというと、今日のニュースサイトに出ている記事ですが、「勝間和代さん、パートナーの増原裕子さんと関係解消を報告『好きな人が他にできたと…涙が出てきて止まりません』」という見出しのそれ(スポーツ報知)があって、何でも「同性愛婚」が破綻したそうなのですが、勝間氏のその「悲しいおしらせ」を載せたブログにも「時間がたてば関係性は良好な状態に戻ると期待をしていましたが」といった表現が出ているのです。悲しみに追い討ちをかけるようで相済まないが、何で「関係」ではなく、わざわざ「関係性」にしなければならないのか、さっぱりわからない。

 僕が想像するに、これは英語のrelation と relationship の違いを無理に作ろうとして、二流の翻訳家が「関係」と「関係性」に訳し分けたのがきっかけかもしれません。まともな英和辞典ならどちらにも「関係」という訳語が当てられているはずで、またそれでいいのですが、悪疫のようにそれが広がって「関係性が悪化した」なんて珍妙な日本語があちこちに氾濫するようになったのです。

 昔は福田恆存(英文学者・批評家)や、高橋義孝(独文学者)のような日本語にうるさい御意見番がいて、彼らがいてくれればこういう「洒落たつもりで無意味かつ下品な」日本語には鉄槌を下してくれたでしょうが、今はそういう人が誰もいないのです。

 僕が「関係性」という言葉を容認するとすれば、それは「関係の性質」と後ろの「性質」を強調したいときだけで、「その複雑な関係性を描き出す」(これは息子が書いた文章に出てきた表現)ぐらいならそう違和感はないが、これだって本当は「関係」で足りるわけです。「関係」は「関わり方(関係の性質)」の意味を含むからです。

 こういうのはひところはやったらしい、「私的(ワタシテキ)には~」なんかと似たような不細工さで、必然性のないところにやたらと「性」とか「的」とかを付けるべきではないのです。かえって意味が不明確になり、何を書いているのか、読んでいるのか、わからなくなってしまう。御厨貴・東大名誉教授の「国民と両陛下の関係性が縮まった」なんて、頭が悪いとしか思えない。雰囲気で言葉を使って、ロジックが成立していないのが自覚できていないのです。

 これは前にも書いたことがあるかどうか、僕は学生時代、刑法の教授が書いた教科書を読んでいて、「占有とは支配意志の客観化した状態である」というくだりを読んで、何じゃ、それはと笑ったことがあります。それで、こういう日本語も満足に使えないセンセの本を読むのは時間の無駄だと考えて、古本屋にそれを叩き売り、もっと頭のいい人が書いた本を買うことにしたのですが、この「支配意志の客観化」教授は学界では結構な有名人で、その後母校の総長にもなったのだから、アホだとは思われていなかったのです。

「意志(意思)」というのはもとより「主観的」なものです。それが「客観化」するというのはどういうことなのか? 何か普通人には理解不能な高度な概念のように見えるかもしれませんが、何のことはない、「第三者から見て、その人が支配の意志をもって占有していると認められる状態」のことなのです。それなら素直にそう書けよと言いたくなるので、かんたんなことを西洋語(この先生の場合はドイツ語)のど直訳調の抽象表現でもって高尚ぶりたがるのは二流学者の特徴です。

 だから、そういうのを真似てもまともな思考展開ができなくなるだけで、一向賢くはならないので、やめた方がいいのです。「関係」の何が気に食わなくてわざわざそれに「性」を付けるのか? 御厨教授のような、「関係性が縮まった」がまともな日本語だと思うような言語センスのない人が増えたからだとしか僕には思えないのですが。

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