日朝首脳会談~功を焦ってただの“ミツグ君”になる?

2018.06.15.12:34

 米朝首脳会談、いわゆるTrump Kim summit に続いて、日朝首脳会談も開かれる見通しになったそうで、あの会談で中間選挙前のトランプが人気挽回をはかろうとしたように、「もり・かけ」問題で瀕死状態にある安倍首相も、何とか拉致被害者の帰国を実現して、これまでバラマキ外交に励んで無駄金を使うばかりで目ぼしい成果はなかった「外交の安倍」をアピールして、支持率の大幅アップと首相3選を実現したいと意気込んでいるようです。

 お困り独裁者との会談に、不信と不人気に悩む二人の国家リーダーが政権浮揚のきっかけを見出そうとするのは、どう見ても美しい図ではありませんが、これが政治というものなのでしょう。

 あの米朝会談については色々な評価がありますが、僕が直後に見た論評の中では次のブルームバーグの見解が、一番正鵠を得たものと思われました。

米朝会談、すべてが勝者中国の思惑通り-日韓は当惑、何も得られず

 この記事にも出てくる米韓軍事演習の中止については、会談後BBCの記者が、ツイッターに次のような投稿をしたそうです。

 Chinese Foreign Ministry announced that Trump would suspend US war games with South Korea before Trump announced it himself at the press briefing. That suggests Kim’s people were on the phone to Beijing straight after the meeting cos they recognized how big a concession it was.

 要するに、トランプが自ら記者会見で語るより、中国外務省が「米韓軍事演習が中止される見通し」と報じた方が早かったということで、これは、金正恩の側近が会談後すぐに親分の中国に「やりましたよ!」と大きな譲歩を勝ち取ったことをご報告に及んでいた証拠だ、というのです。裏にはつねに中国がいた。

 その共同声明の中身について、ニューヨーク・タイムズは、Joint statement promises bold change, but lacks details(共同声明は大胆な変化を約束するが、詳細な記述はない)と評していましたが、同紙は「反トランプ」だから辛口になったというより、西側メディアにはそういう醒めた評価が多かったようです。

 実際、「アメリカと北朝鮮は、朝鮮戦争中の捕虜や・行方不明の兵士の遺骨の回収に取り組むとともに、すでに身元が判明したものについては、返還することを約束する」(NHKによる和訳)という「アメリカ・ファースト」な箇所を除いて、具体的な記述は何もない。アメリカは直前まで、北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」は断固譲らないと言っていましたが、共同声明には「北朝鮮が朝鮮半島を完全に非核化するために取り組むとした、4月27日の板門店宣言を再確認する」とあるだけで、「検証」のための調査団を受け入れるなどの期待されていた具体的な記述はどこにもないのです。たんなる「努力目標」にすぎないから、北朝鮮は気楽に応じることができた。

 いきなりではそこまで踏み込むのは無理だから、これから詰めていくのだろうと好意的な評価をする人はいるようですが、あのトランプにそんな骨の折れる交渉をする気があるのかどうか、かなり疑わしいところです。それよりも、いかにもトランプらしいなと思われるのは、次のAERAの記事にあるような発言です。

 トランプ大統領は会談後の会見で、今回の焦点だった非核化についての具体的な方法や過程を最後まで示せなかった。
 ただ、その一方で非核化に伴う費用をどう負担するか問われると、次のように明快に答えている。
「韓国と日本が大いに助けてくれるだろう」
「私たち(米国)が助ける必要はない。米国はこれまでも様々なところでコストを払ってきた。韓国は北朝鮮の隣国であり、日本もそうだ。彼らが北朝鮮を助けて、北朝鮮を助ける上で素晴らしい仕事を成し遂げるだろう」
 つまり、北朝鮮から求められる莫大な経済支援の費用は、日本と韓国だけで出すべきで、米国は「われ関せず」を決め込んだのだ。


「アメリカ・ファースト」の面目躍如ですが、トランプはその後、「これで北朝鮮の核の脅威はなくなった」と手柄顔で触れ回っており、これも大陸間弾道弾の開発を北朝鮮がやめれば、アメリカ本土に核ミサイルが飛んでくることはなくなるという「アメリカ本位」の話で、中距離ミサイルなどはすでに開発済みなのだから、日本などの周辺国にとっての「核の脅威」は何ら減っていないのです。

 そんなことはワシは知らん。依然として「脅威」を受けている韓国や日本は、自腹を切って北朝鮮のご機嫌を取り、うまくやればいいので、それはおまえらの仕事だろう、と言いたいのです。何せトランプは、駐留米軍費用を全額、日本や韓国に負担させると言って大統領になった男です。大統領就任後、周りに事情を聞いて、さすがにそれは引っ込めたようですが、元がそれなのだから、それぐらいのことは当然言う。

 それはともかく、そのトランプ様に当初から「臣下の礼」をとり、事あるごとに「ははあ、誠にご尤もで…」式の追従を無考えに繰り返して、そのおかげでトランプに気に入られている安倍首相は、彼の口利きのおかげ(これはかなり恐ろしいことですが、他のパイプは何もないのです)で日朝首脳会談にこぎつけられそうになったのです。産経によれば、

 米朝首脳会談で、トランプ氏は「完全な非核化を実現すれば経済制裁は解くが、本格的な経済支援を受けたいならば日本と協議するしかない」との旨を金氏に説明。その上で「安倍首相は拉致問題を解決しない限り、支援には応じない」と述べたとされる。

 ということで、「本格的な経済支援を受けたいならば日本と協議するしかない」というのがこわいところで、「拉致問題の解決」の見返りにどれほど多くのものを要求されるか、わかったものではないのです。「非核化」についても、北朝鮮に重い腰を上げさせるためにどんどん支援しなさいと、大旦那のトランプ氏から言われるのです。

 にしても、気に入らない側近を次々処刑してきた金正恩は、「平和な国の独裁者」に見事変身を遂げることができるのでしょうか? 好意的に見る人は、彼は環境ゆえにそうなるよう強いられただけであり、本質は違うのだと言うかもしれませんが、宗教的回心でもあればともかく、人間はそうそう変わるものではないので、僕は懐疑的です。父親の金正日と較べても、彼は一段と残忍さが目立つからなおさらの話。

 かつて韓国は金大中、盧武鉉時代、「太陽政策」というのを取りました。今の文大統領は同じ系譜に属する政治家ですが、南北融和を重視して、経済援助などを盛んに行ったのです。南北首脳会談もそれぞれの時代に、1回ずつ行われている。今回の文政権による板門店首脳会談は3回目で、同じ流れに位置付けられるでしょう。にもかかわらず、かつての「太陽政策」は目ぼしい成果を上げなかった。それどころか、北朝鮮は盧武鉉大統領の時代の2006年、国連の反対を押し切って核実験を強行したのです。そして今に至る。

 韓国にしてからが、「最終的かつ不可逆的」だったはずの慰安婦合意を、「あれは前の朴政権が民意を無視して勝手に行ったものに過ぎない」として、文政権になってから反故にすると言い出して、「そんなのありかよ」と日本人を唖然とさせたのですが、こう言っては「差別的」だと叱られるかもしれませんが、事大主義の李氏朝鮮の昔から、朝鮮半島国家の外交政策に一貫性のないことは有名な話です。

 歴史は繰り返すだけではなく、進歩することもあると見たいのですが、トランプが足元を見られたのと同じで、支持率低下の安倍政権も足元を見られて(やはり背後に中国の「助言」があるでしょう)、過大な経済援助の約束だけさせられて馬鹿を見ることのないようにしてもらわないと、将来に禍根を残すだけの結果になります。

「難しい隣人」をもった場合、個人なら引っ越すことができるが、国家ではそうはいかず、これは宿命みたいなものです。あれこれ考えていると溜息が出ますが、一市民がこういうことをとやかく言っても仕方がないので、政治家・関係官僚の深謀遠慮と粘り強い交渉力に期待するしかありません。安倍政権がこれで「得点」を挙げて、支持率を再び上げ、3選への道筋をつけるという展開は、僕にはゲンナリさせられる話ですが、失敗されるとモロに「国家の損失」なので、かなり複雑な心境です。仮にうまくやれたとして、それは「安倍だからできた」のではなくて、「あの安倍でもかろうじてできた」のだと理解すると、支持率に変わりはなくて、そのまま退陣ということになるかと思いますが、そういうところ、日本人はほんとに甘いですからねえ。

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ベーシックインカムと働き方革命

2018.06.11.17:51

 ベーシックインカムは、ウィキペディアでは次のように説明されています。

 国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付するという政策構想。生存権保証のための現金給付政策は、生活保護や失業保険の一部扶助、医療扶助、子育て養育給付などのかたちですでに多くの国で実施されているが、ベーシックインカムでは、これら個別対策的な保証を一元化して、包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償することを目的とする。従来の「選択と集中」を廃止し、「公平無差別な定期給付」に変更するため、年金や雇用保険、生活保護などの個別対策的な社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提となる。

 こういう制度には「財源をどうするのだ?」という反論が必ず出されますが、それは何とかなるというのがこのシステムの提唱者たちが言っていることで、上の説明にもあるように、「年金や雇用保険、生活保護などの個別対策的な社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提となる」ので、そちらの経費は消えるか激減するのです。もう一つ、そうした従来の制度には、それを維持するのに多数の人手がかかっており、関係者はたいてい公務員ですが、その人たちの給料も含めると、実は膨大な費用がかかっているのです。シンプルなベーシックインカム制度なら、そこらへんが不要になり、こう言っては何ですが、「無駄な費用」が消える。

 だいぶ前にこのアイディアを知ったとき、僕は「これはコロンブスの卵だな」と思いました。あるいは、ニュートン物理学に対する相対性理論、さらにはそれに対する量子物理学みたいなもので、従来の経済学的発想からは出てこないものですが、よく考えるとこちらの方が理にかなっているのです。

 今はテクノロジーやAIの発達で、「これからなくなる仕事」なんて記事をよく見かけます。それが実現すれば、それらの職種の人たちは失業してしまうわけですが、新たな雇用の受け皿があるわけではない。人々のそういった将来への不安は社会に暗い影を投げかけているのです。

「そうは言っても、それで働かない人が増えれば、税金を払う人も減って、働いている真面目な人たちが、税金で働かない怠惰な人たちを養うことになる。それは社会正義に反するのではないか?」と言う人もいるでしょう。従来の生活保護に対するそれと同じ、反感や蔑視が向けられるのです。

 しかし、そうはならないだろうというのが、ベーシックインカム制度の利点を説く人たちの主張するところで、僕もそれに同意します。むしろ社会全体の生産性が上がり、人々の創造性が発揮され、イノベーションも進むことになる。文化的にも今よりはるかに豊かになるでしょう。それは「こうすれば、こうなって」という思考実験をやってみれば、理解がそんなに困難なことではないのです。

 こう言うと怒る人がいるかもしれませんが、今の資本主義社会における大部分の労働者は「賃金奴隷」です。古代ギリシャ・ローマは奴隷制に基づく社会だったので、自由市民の自由は自由のない奴隷の存在に依存していました。今の格差社会もこれに近いものになっている。一部の金持ちだけがさらに資産を増やし、数が増えるばかりの貧乏人はいよいよ貧しくなるというこのシステムは、自己責任論などで説明できるものではなく、搾取の構造が内蔵されているからこそ、そうなるのです。アメリカの大企業のCEOの桁外れの高給は、彼らの仕事の能力で説明できるものではない。システムの問題なので、マネーゲームで稼ぐ投資ファンドなんかはなおさらです。一方に働きに見合わぬ低賃金の多数の労働者がおり、他方に働きにやはり見合わない、しかし逆ベクトルの高収入をむさぼる資本家や少数のエリートがいる。そして、前者の比率は高まるばかりなので、知らないうちに古代の奴隷制が復活しているのです。

 そして、一時は隆盛を誇った古代ギリシャ・ローマはその奴隷制ゆえに滅びました。歴史家はそんな単純なものではないと言うかもしれませんが、根本原因に一つにそれがあったことはたしかなのです。ある研究者が述べたように、「奴隷経済は、その労働の生産性を極めて低い水準に停滞させる」からであり、また、心理学者ユングが指摘したように、奴隷の数が増えすぎたことから、奴隷特有の無気力が社会に蔓延し、それは物理的なものではないので、どんなに高い城壁を築いても侵入を防ぐことはできず、自由市民もその無気力に汚染されてしまったからです(いわゆる「蛮族の侵入」以前に、ローマ帝国は内側から、「心理的に崩壊していた」というのが彼の見方です)。

 今の文明社会も、このままでは新種の奴隷制ゆえに滅びることになるのは確実だろうと僕は見ていますが、ベーシックインカム制度はこれを変える可能性があるのです。

 どうしてそう言えるのか? 今主張されているベーシックインカムの額は、日本の場合なら一人頭7万か8万ぐらいのようですが、夫婦に子供二人という四人家族の家庭なら、総額で28~32万円になります。それでは足りないかもしれないが、最低限の生活になら足りる。一人者なら足りないが、それでもそれがあるのとないのとでは大違いで、パートやアルバイトで補うだけでも生活は成り立つのです。

 これが「安心の礎」になる。現状だと仕事を失えばとたんにゼロです。その不安から人は賃金奴隷になってしまうので、「いざとなれは仕事をやめても、パートだけで生きていける」となれば、職場がブラックであろうと仕事の内容が社会的意義に乏しいものであろうと、その仕事を失えばとたんにアウトだという恐怖からそれにしがみつかざるを得なかったのが、そんなものにつきあう必要はないと考えることができるようになるのです。仕事への動機づけが、根本から変わってくる。奴隷の「強いられた労働」ではもはやなくなるのです。

 当然ですが、ベーシックインカムによる収入は、消費に回されます。今後は年金生活の高齢者世代がさらに増えますが、老人は消費にあまり貢献しない。今の若者や子育て世代は貧乏か、さもなければ将来不安から貯蓄にいそしみ、消費を差し控えるので、それでは景気がよくなる道理はありません。それも変わってくるのです。

 今の日本では進んでいない「ワークシェアリング」ももっと進むでしょう。ベーシックインカムがあれば、収入を仕事にだけ依存しなくてすむようになるからで、給料は多くなくても足りることになるからです。今国会で成立予定だという「高度プロフェッショナル制度」なるものは、年収1千万以上の専門職が対象で、残業代が出なくなることから、「残業代ゼロ法案」とも呼ばれますが、僕に不可解なのは、それだけの高給をもらっていればそもそも残業代で稼ぐ必要はないでしょう。なのに、好きで残業をする人間がいるのかなと思うので、元々は「激務」だから給料がいいのでしょう。それは労働時間も長いということなので、経営者が「残業代をなくしたい」というのは、あいつらは給料が高いのだから、倍の仕事をさせないと割が合わないという発想に基づくのだとすれば、それは間違いなく「過労死法案」になってしまう。それは非人道的な話です。

 一部の観測によれば、まずこの法案を通して、その後、職種も広げ、年収の下限も下げて、年収400万前後の労働者までこれで働かせようという魂胆だという話です。ある日、「さあ、君もこれで『高度プロフェッショナル』に認定された。明日から頑張ってくれたまえ」と言われ、その言葉の響きに気をよくしていたら、何のことはない、残業代カットの上、労働時間が極限まで増えただけだった、というのでは、「死ぬまで働け」と言われたに等しいことになってしまいます。それでは昔の奴隷よりもっとひどい。

 こういうのも、しかし、ベーシックインカム制度なら解消されるのです。多くの給料はいらない、だからワークシェアリングで働く人も増えて、残業もなくなるのです。

 機械やAIで仕事が代置されることが増えて、ただ失業者が増えただけだったというのでは、モノやサービスの購入者は減るばかりだから、経済そのものが大幅に縮小してしまう。それでは企業は儲からないから、労働者一人当たりの仕事量をさらに増やしてそれを補おうとする。そうなると過労死がさらに増え、仕事を失うのも地獄なら、会社に残っている人にとっても地獄だということになってしまうのです。すでにそういう流れになっていて、今の企業は労働分配率を下げ、内部留保を増やして、株主配当を多くするようになっているのだそうですが、それで得をするのは不労所得の株主だけだということになる。それは社会正義に反するので、それでいいのだと言うのは、投資ファンドの村上世彰や、あの竹中平蔵のような連中ぐらいでしょう。

 ここで話はちょっと逸れますが、最近面白いなと思った記事が二つあったので、それをご紹介してから、話をさらに進めます。次の二つです。

残業手当はすぐになくしたほうがいい カルビー・松本会長

日本以上のブラック労働でも悲壮感はない、中国のある事情

 偶然同じITmediaビジネスというサイトのものですが、どちらも「なるほど」と思わせるもので、上のカルビー会長の「オフィスと工場では働き方が違って当然。前者は成果主義でやるべきで、残業制度がそもそもの間違い」というのは僕も同感です。「無駄な残業が多い」というのも、その通りでしょう。有名なパーキンソンの法則の一つに「役人は際限もなく無用な仕事をつくり出す」というのがありましたが、これは今や役人だけの話ではなく、民間企業でもその傾向があるはずです。ご本人たちはそうは思っていないかもしれないが、妙な具合に官僚組織化して、無駄な書類仕事や安直な企画の類で勝手に多忙になっているのです。それで残業も増えるが、別にそれで会社の利益が増えるわけではない。

 ②の中国労働者の話は、日本も高度経済成長時代は「企業戦士」「猛烈サラリーマン」などの言葉があったので、国に勢いがあって、働けばその分給料も上がるという環境下では、長時間労働も苦にはならない、ということなのでしょう。ゼロ成長下の「斜陽の経済大国」には、しかし、これは当てはまらない。実質賃金は下がる一方で、モチベーションは上がらず、収入を維持するためには残業代で稼ぐしかない、というのでは、ダラダラ仕事をするか、いりもしない業務を作って残業するということになり、民間企業でも生産性はむしろ下がってしまうのです。

 それは学校教育やあの部活の悪影響ではないかと思うのですが、なぜか日本人は一ヵ所に集まって決められた時間一緒に仕事をするというスタイルが好きです。勉強だって勝手にやった方がほんとは能率も上がるのですが、用があってもなくても定時に会社に出勤し、そこに長時間張りついていれば、仕事をしたような気になってしまうのです。僕は三十代のある時期、関東のある塾で、出勤はしなくていいから、教室をうまく回し、トラブルが起きたらそれを処理してくれればそれでいいという条件で働いたことがあります。そうは言っても責任者が不在では緊張感がなくなり、現場の把握もできないから平均4、5時間は出ていましたが、そのおかげで大学院というところに入って二足の草鞋をはくこともできたので、そのときの塾長の対応には今でも感謝しています。その塾でも、しかし、校舎責任者と専任講師は原則として本部に毎日午後1時に顔を出し、昼食会兼ねた幹部会議をやり、そのあと雑務をこなし、3時半ぐらいにそれぞれの校舎に散っていくというかたちになっていたので、塾ですら組織がある程度の規模になるとそういうふうになってゆくのです。仕事が10時に終わるとすれば拘束時間は9時間になって、ふつうの会社と変わらない。その塾は代替わりして今でも健在ですが、「あいつは勝手にやらせておくにかぎる」というので例外を認めるような寛容さは、この業界でも今は少なくなっているでしょう。

 ベーシックインカム制度はこういう日本的な働き方を変える可能性がある。残業代目当てにいらない残業をすることがなくなるのはもちろん、ワークシェアリングが進んで、短時間労働になれば、オフの時間に勉強したりいいアイディアを思いついたりすることも多くなって、それが仕事に活かされるようになるのです。そうすれば生産性は上がる。

 オフの時間帯も、人間は仕事につながる活動をしていると言えるので、長時間労働が悪なのは、それが「強いられた労働」だからです。自分の好きな仕事を長時間自分のペースでやる場合、人間はそんなに疲れるものではありません。僕も翻訳の仕事をやっている場合などは、塾と合わせて一日15時間ぐらいになることは少なくありませんが、完全なオフ日は週に一回ぐらい設けるとして、長期間にわたるわけではないし、別に元気を失ってしまうということはない。それはやり甲斐の感じられることで、ペースも自分のペースで、自由にやれるからです(あれは経済的な見返りが少なすぎるのが最大の難点なのですが)。

 前に電通の高橋まつりさんの過労自殺事件があったとき、僕が気の毒に思ったのは、彼女が「インターネット広告」を担当させられていたことです。あれはパソコンのユーザーには最も疎ましがられているもので、それは広告会社には利益になるのでしょうが、人に嫌われているものであることは間違いないので、そういう社会的意義に乏しい仕事に文字どおり忙殺され、心身ともにボロボロになって死に追いやられたのかと思うとかわいそうです。どう見ても東大出の才媛がやるような仕事ではない。社内でもやりたがる人がいなかったから、新入社員の彼女にそれを押しつけたのでしょう。電通は商売上有利だというので有名人の子女を多く入社させていることでも有名(かの森友問題の元凶、安倍首相夫人アッキーも、森永製菓社長の令嬢だという理由で電通に入社)ですが、そういう縁故入社組には別待遇をしているのだろうから、そういう後ろ盾がない彼女は貧乏くじを引かされたのです。

 彼女のツイッターには、自殺の一ヶ月半ほど前、「生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなってからが人生」という投稿があったそうですが、そういう人生は「労働奴隷」のそれに他なりません。それは人から生きる希望そのものを奪ってしまう。前途有為の若者をそうやって平気で潰してしまう社会は、悪以外の何ものでもないでしょう。

 ベーシックインカム制度があれば、そういう職場はさっさと辞めることができて、会社は無理のない範囲の仕事になるよう、そうした仕事にも人員を多く配置するしかなくなるでしょう。下らない仕事でも、それが適正な時間内で収まって、相応の経済的見返りがあるものなら、やる人はいる。それならその仕事をする人に破壊的な影響は及ぼさなくなるので、差し支えないと言えるわけです。

 今は文化・芸術方面は全く振るわなくなっていますが、これもベーシックインカムで変わる。出版業界なども、今は軽薄短小本しか売れなくなっていますが、ゆとりがあれば、じっくり腰を据えて本を読み、ものを考えようという人も増えるので、流れが変わってくるでしょう。あらゆる問題にその場しのぎの対応しかなされないのは、問題を長期的・全体的な視点から考えることを人々がしなくなったからですが、時間的なゆとりも残存エネルギーも乏しければ面倒なことなど考えられなくなるのは当然で、そのあたりも変わるのです。「人生いかに生くべきか?」といった古くて新しい問いも、新たに問い直されるようになって、書物も硬派なものがもっと好まれるようになるでしょう。音楽や美術といった分野も、ゆとりがあれば好きな人は多いので、今よりずっと盛んになる。大体今は、それでは食えないからクリエーター自体が激減しているのです。魅力があるものが減れば、当然客も減る。ベーシックインカム制度があれば、好きなことをやろうという人がもっとずっと増えるので、レベルが上がって、明確なプラスの影響が見込まれるのです。

 テクノロジーの発達で生産性が上がり、コストも下がっているにもかかわらず、人間がいよいよ多忙になり、貧しくなるというのは思えば妙な話なので、要は利益分配がうまく行っていないのです。そこを調整し直した上で、機械ができることは機械に任せ、人間は人間にしかできない仕事や活動ができるようにすればいい。

 生活保護などの福祉システムかうまく機能しないのは、それが上から目線の“施し”になっているからで、多数の書類やら、露骨なまでにプライバシーに踏み込んだ面接やらで受給者にこれでもかというほど屈辱的な思いをさせて、それで積極的な人生を歩めというのは土台無理な話です。前に神奈川県小田原市の職員が、「保護なめんな」「不正受給はクズである」などという文字の入ったジャンパーを長期にわたって職務中に着用していたことが発覚して騒ぎになったことがありましたが、職員には増え続ける生活保護の受給者(厚労省の最新データでは163万9768世帯)を減らせという圧力がかかっていて、ごく僅かな不正受給を目の敵にするようなことになったのでしょう。その結果、受給者の人格への配慮などというものはどこかに消し飛んでしまった。“施し”だという意識があるからそうなってしまうわけで、“施される”側がどんな苦しい心理状態になるかは考えないのです。

 ついでにここで一つ、「カネを稼ぐ」ということと、その仕事の社会的意義というものの関係も考えてみましょう。たとえば、僕は今これを書いていて、これは完全な無給の仕事なのですが、だからそれは無意味だということにはならないでしょう。逆に実に下らないことをして、それがカネにはなるということもあるわけです。「カネを稼ぐ」ということが唯一の社会的価値の指標だとすれば、GDPに含まれないことはすべて無価値だということになってしまう。そしてそういう無価値なことをしてカネを稼がない奴は非国民だというので非難されるとすれば、今の時代、他のことで何とか生計を立てながら、カネにはならないが、大事なことだと思って何かをやっている人は、みんなクズだということになるでしょう。

 それで、皆がそういうことは一切やめて、ただ「カネになる」ことだけやるようになったとしましょう。この社会はどうなると思いますか? それは寒風吹きすさぶ、おそろしく貧しい社会になってしまうでしょう。バブル経済の頃、日本の生保会社がゴッホの『ひまわり』をロンドンのオークションで53億円で落札したというニュースがありましたが、生前ゴッホがどんなに貧乏だったかは有名な話です。絵はほとんど売れず、弟に食わせてもらっていたのです。貧乏ではあっても、ゲージュツカとして世の尊敬を集めていたというわけではむろんない。認定されるかどうかは知りませんが、今で言えば生活保護の対象になってしかるべき窮状だったので、にもかかわらず、彼は絵を描き続けたのです。それを思えば、これはブラックジョークみたいな話です。

 類似の話は枚挙にいとまがないほどたくさんありますが、ゴッホのような人もいてもらわないと困る。何も芸術家にかぎらない、僕は法学部の学生だった頃、生活保護を受けている弁護士の話を聞いたことがあります。その人は無能だから、あるいは仕事をしないから貧乏だったのではなく、カネにならない、しかし骨の折れる刑事事件の弁護ばかり引き受けているから、持ち出しばかり多くなってそうなっているのだという話で、企業の顧問弁護士などすればカネになるが、そういうことはしないから恐ろしく貧乏になったのです。これまた、そういう人もいてくれないと困るので、経済至上主義的な見地を離れて、社会的貢献度で見れば、それは金満弁護士よりずっと高いかもしれないのです。

 今の時代は、社会的な有意味性と、経済的な価値評価が乖離しすぎた時代です。まともなことをやってもカネにはならず、まともでないことをやる方がカネにはなるということが多くなりすぎている(本来ならすぐれた研究者になっていたかも知れない理系の優秀な若者たちが、高給与の金融機関に流れて、わけのわからない「金融商品」なるものを作って、破壊的なリーマン・ショックをひき起こしたことは、まだ記憶に新しいところです)。ベーシックインカム制度は人々を賃金奴隷の境遇から解放して、自発的な人生選択を容易にするので、そうした社会のありようも変わる可能性があります。具体的な検討はその方面の専門家に任せるとして、真面目に考えてみるべき時期に来ているのではないかと言いたいのです。

「読解力不足」の原因とその深刻な影響

2018.06.06.14:18

 ネットのニュースサイトに、加谷珪一氏の次のような興味深い記事が出ていました。

日本の生産性を引き下げている「文章を読めない人」

 これを読んで、「たしかにその問題はあるよな」と共感する人は少なくないだろうと思います。僕自身は、「いちいちご尤も」という感じで読んだので、日米の経済統計でも、「米国のサイトの方が英語という外国語であるにもかかわらず、内容が直感的に理解できる」という箇所など、僕はその方面のことは知りませんが、政治や社会問題の記事などにも概して同じことが言えそうに思われるので、「そうなんだろうな」と思いました。

 この記事に誘発されて思い出したのでついでに書いておくと、昔、三十代の頃ですが、一時期、資格試験予備校で某国家試験の時事小論文の講師をやったことがあります。その際、トピックをいくつか選び出して、それをレクチャーし、その後で受講者にそれをテーマに書いてもらうということをしていたのですが、その一つとして当時話題になっていた輸入米のミニマムアクセスの問題を取り上げることにして、各種の新聞・雑誌記事やら、「現代用語の基礎知識」の類やら、目につくものには全部当たってみたのですが、どれも文章までほとんど同じで、しかし、意味がどうしてもわからないところがあるのです。「解説」なるものも、言葉が少し多いだけでかんじんな点がわからないのは同じ。それでやむを得ず農水省に電話をして訊くことにしたのですが、相手が何度か変わった後、直接担当したという人が相手をしてくれました。それで、その疑問点をたずねたのですが、その担当者はお役人らしからぬさばけた人で、笑って「よくそれに気づきましたね」と言うのです。そういう質問をしてきたのはあなたが初めてですよと前置きして、「あれは実は、意味不明なようにできているのだ」と語るのです。交渉の当事国がそれぞれの国内向けに適当なことが言えるように「玉虫色」になったので、「意味がわからない」のが正解なのだというのです。要するに、マスコミの記者たちは渡されたペーパーをそのまま写して記事にしただけで、自分の理解というフィルターを通していない。だからみんな同じになって、「意味不明」が放置されたのです。意味不明の理由が説明されていればいいが、そうはなっていないから困るのです。

 こういうことが日本の新聞記事などにはかなり多くあるので、自分の頭で考えて、情報を自ら咀嚼した上で伝達することを怠るというのも、「わかりにくい」原因の一つなのではないかと思います。やることが機械的すぎるのです。筆者が指摘する理由の他にも、そういうことがありそうなので、書いているご本人が実はわかっていなかったりする。お勉強といえば暗記という中で育ってきた弊害がモロに出てしまうわけで、自分がよく理解していないものを人にわかるように説明できる道理はないのです(仮に「説明」したとしても、それはステレオタイプになることが多い。たとえば、今その弊害が指摘されている小選挙区制にしても、導入前は「死票が増えるが二大政党制になって政治が安定する」というような安易な説明が判で押したように行われていたのです。「そんな単純な話かな?」と僕は疑問に思いましたが、かつて教科書の説明を鵜呑みにしたのと同じで、誰か有名な政治学者がそう言ったとなると、それを受け売りするだけになって、実際にどういう結果になるか、自分でシュミレーションしながら考えてみることはしないのです)。

 ふだんこういうのに慣れすぎているから、今の日本人はおしなべて理解が表面的なものになりやすい。しかし、この記事で取り上げられている最近のお粗末な「読解力不足」には、こういったこととは別の心理学的要因もからんでいると思われるので、ここから先はそのことについて書かせてもらいたいと思います。

「文字は分かるが文章を理解できない」というのは、要するに「文脈が読めない」ということでしょう。だから、ツイッターなどでも、「一体どういう読み方をしたわけ?」というような悪意に満ちたリスポンスが返ってきて、背筋が寒くなるようなことになるのです。

 昔からそういう人は一定数いたわけで、再び脱線させてもらうと、四月頃、僕は翻訳の件で編集者とやりとりしていて、「めくらめっぽう」「びっこをひく」「ハゲ」などの言葉にいちいち「訳語再考」指示がでているのに苦笑させられました。他にれっきとした日本語の「つんぼ桟敷」なども、今は「不適切な差別表現」として書き換えを命じられるのです。しかし、文脈上必然性があってそういう言葉は出てくるので、そういう表現それ自体が「差別的」だというのは僕には理解しがたいのですが、こういうアホな(これもNGです)「言葉狩り」も、文脈を無視して単語それ自体に反応して「けしからん」と騒ぐ人たちや団体の圧力があって進められてきたものでしょう(それでヘイト・スピーチの類が減るよりむしろ増えているのは皮肉なことです)。英語のchairman をchairperson に書き換えるのなどは、議長は今は男女どちらの場合もあるので、その修正には一定の合理性がありますが、無邪気な子供が「ハゲのおじさん」と言ったという箇所を、「髪の毛のない中年の男性」に変えたとすれば、現実にはあり得ない表現をしたことになってしまうのです(ハゲという言葉それ自体に傷つくナイーブな男性がそんなにいるとは僕には思えないし、そういうことにいちいち反応する方もどうかしていると思われるのですが)。

 だから、僕としてはそういうのはほんとは変えたくないので、一番いいのは、最後に「編集部注」として、「内容に一部不適切な表現が含まれていますが、これは編集者の指摘にもかかわらず、訳者がそのままにすることを主張してこうなったものなので、当社に責任はないことをご理解の上、抗議は直接訳者宛にお願いします」とでもして、メールアドレスでもくっつけておくことかも知れません。その程度の抵抗はしたいのが本心です。

 話を戻して、文章では全体の趣旨が理解できない(理解する努力もしない)が、会話ではそれがわかるということは、そういう人にはおそらくないので、文の脈絡を理解せずに反応する人は、会話でも同じことになる可能性が高いでしょう。そういう人はそれという自覚はないまま、「自己文脈」だけで外界に反応しているのだろうと見られるからです。アスペルガーなどの発達障害がそれにからんでいることは少なくありませんが、それだけではこんなに多くならないので、今のいわゆる「ジコチュー」の風潮が関係しているのです。

 最近は人間関係に悩んでいる人が非常に多いという印象を僕は受けているのですが、その場合、悩んでいるのはたいてい「まともな」人の方なのです。「自己文脈人間」は、悪いのは相手の方だと決めつけていて、自己本位に情報や人の話を曲解してしまうのですが、その自覚はない。それを指摘するといわゆる「逆ギレ」するので、まともな人はそういう人相手の対応に苦慮する羽目になるのです。

 元々人間はコミュニケーション能力が高い生きものではありません。知能が高く、言語をもっているからそう錯覚してしまうだけで、むしろそれゆえに深いコミュニケーションが阻害されてしまうという側面もあるのです。人間関係が希薄化し、やたらと観念的になった今の日本人にとって、かつての「以心伝心」は、それは言語に頼るものよりある意味ずっと高級なものだと僕は思いますが、今では未熟で自己中心的な「勝手な忖度」としてトラブルの原因になることの方が多くなっているのです。

 しかし、「以心伝心」的なものに頼ることが多かった日本人は説明のスキルを育ててこなかった。それは冒頭記事の指摘にもあるとおりです。先に述べた、「自分の頭で考える」ことをせず、他人の文章を引き写ししてそれで事足れりとするジャーナリズムの安易さなどもそれを助長しているでしょう。逆説的に、だから虚偽の論理や説明に騙されやすい人が多くなってしまうとも言えるので、上に見た「自己文脈人間」は、しばしば口だけは達者で、自己正当化の能力には長けており、人は後でそれがどんなに事実と違っていたかを知って驚くのですが、表面的に話を聞くだけの人は最低限の裏取りもしないまま、安易にそれを真実と信じ込んでしまうのです。

 これと反対の、口下手だが正直で誠実な人の場合、話が断片的で、ときに混乱しているように見えることがあります。それであれこれ質問しているうちにだんだん「そういうことなのか」というのがわかってくるのですが、今の時代にはこういう善良な人は不利です。立て板に水式に、嘘もまじえて自分に好都合なことだけ一方的に並べ立てる「自己文脈人間」には対抗できない。彼らは人の揚げ足取りも巧みなので、なおさらです。見かねた詳しい事情を知る第三者が、代わって「おかしいのはあんたの方だろうが」と一喝してやるしかなくなるのです。

 こういう問題は、だから、「ビジネスで行き違いが起き、生産性が下がる」というだけにとどまらない。社会全体に暗い影を落としているのです。僕の見るところ、病的な「自己文脈人間」には二つのタイプがあります。一つは、この前のセクハラ問題の財務省の福田事務次官みたいなタイプで、彼は音声まで公開されたあの女性記者相手のひどすぎる発言の数々がセクハラではないと言い張り、最初は「あれを週刊誌に流した本人は名乗り出ろ」という脅しまでかけたのですが、彼の「自己文脈」ではあの程度のことは問題にもならないと本気で思っていたフシがあるので、自分の能力、経歴、権力におごって、「自己文脈しかない」人間になり下がったのです。たぶん、彼の自己イメージは「能力が高く、豪放磊落で、突破力のある人間」というようなものだったでしょう。傲慢で無神経な破廉恥漢ではないかという健康な自己疑惑は、彼の意識に浮かぶことはなかった。それは彼の「自己文脈」には不都合な負のイメージだからです。

 もう一つは、これとは逆の、自己愛と虚栄心は人一倍強いが、さしたる成功も得られず、つねに「自分は正当な評価を受けていない」と不満を感じている屈折したタイプです。こういう人には、失敗して恥をかくのを恐れて勝負や責任を避け、何かや誰かにもたれかかってイージーな人生を歩んできた人が多く、客観的に見ると世間的な苦労をほとんど知らないのですが、ご本人は自分だけ苦労させられているような顔をして世の無理解を嘆くのです。こういう人の「自己文脈」では、外界は自分に奉仕すべく存在しているので、何か商売をするのでも、それは相手とギブ・アンド・テイクの関係が成立しないと話にならないのですが、テイク・アンド・テイクしか考えていないのでうまくいかず、それでは駄目だと助言してくれるような人とは口も利かなくなるので、「もたれかかり」生活を続けるしかなくなるのです。サラリーマンなら、言うことだけは一人前だが、社業への貢献度は低く、会社のお荷物になっているが、ご本人は正当な評価が行われず、出世できないのはそのせいだと思い込むタイプです。それでは自信がもてるようになるはずはありませんが、無理な自己正当化・美化欲求は募る一方なので、周囲の誰それを悪者に仕立てて非難するといったことを繰り返してトラブルメーカーになるのです。SNS好きなら、そちらにうっぷん晴らしの無理解な「自己文脈」投稿を繰り返す。こういう人の特徴は、並外れた自尊感情ゆえに些細なことにも「きわめて傷つきやすい」が、公正の感覚はなく、不当に他者を傷つけることには全く無神経だということです。万事において「自己文脈」だから、そういう意識は働かないのです。

 こういうのは全部メンタルな要因によるので、別に元々の頭が悪いというわけではない。ちなみに、この「頭が悪い」にも怒ってくる人がいて、「自分は頭がいいという書き手のうぬぼれに思わず胸が悪くなった」なんて下らないことを迷惑顔で書き立てたりするのですが、僕らは学生の頃、仲間内で「あいつは頭が悪い」なんてよく有名文化人をこきおろしたりしていたものですが、それは知的・人間的な不誠実さを言ったもので、一種の道徳的批判だったのです。だから、元はたいへんお勉強ができたらしい先の福田事務次官なども、知能指数は高いのだろうが、「頭が悪い」に該当するのです。

 今は子供だけでなく、日本人全般の「国語力の低下」が言われますが、スマホばかり見ていたのではそれも無理はないかなと思いますが、それだけでなく、原因はこの自閉的な「自己文脈」人間が増えすぎたことにもあるということです。僕は塾で高校生を相手にしていて、時々彼らの英文の珍解釈に爆笑させられるのですが、読んでいるうちに語彙力不足も手伝って話がわからなくなると、「自分の妄想の世界に入ってしまう」ことがある(国語の試験でも時々それをやらかす)のだそうで、彼らの場合には自覚があって、それも笑えるものだからいい(採点官も笑って点数をおまけしてくれるかもしれない)のですが、冒頭の記事に出てくる、「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤もOKだった」という何の罪もなさそうなツイッターのつぶやきに対して、「何故今週だけはOKなんだ?」「サンダル無い人は来るなって?」「暑いならともかく基本はNGだろ」といった反応を返すなんてのは、読解力の欠如を示すだけでなく、おかしな悪感情から人に難癖つけずにはいられないというところがありありで、そこが異常なのです。「私は祖母がつくってくれたワラジで通ってます」なんてのなら、ユーモアもあっていいが、そうではないのです。

 僕はYoutubeで昔のフォークやロックを聴くことがよくあるのですが、下のコメント欄にたまに笑えるものがあって、以前、谷山浩子の『カントリーガール』を聴いていて、ふと下を見ると次のような文があって、思わずふき出しました。

こういう素朴な少女が好きだと思い結婚しました。
 思い切り失敗しましたが。


 笑ったのは僕だけではなかったようで、今確認すると三年前のものですが、それは「評価順」の堂々トップに輝いているのです。本当なら、ご本人には笑いごとではなかったかもしれませんが、それでもやっぱり可笑しいのです。こういうのは一種の「普遍性」をもつので、ディティールや程度の違いこそあれ、大方の人が似たような幻滅経験をする。幻想が永遠の生命を保てるのは、記憶の中のあの実らなかった純愛の美しい異性の姿のみ。男女双方がそうなので、だからこういうのは他者の失敗や不幸を嘲るといったものとは性質が違うのです。書き手にも自分を眺めて笑う乾いたユーモアがある。

「自己文脈人間」の場合は、しかし、他でもないそういう共感がこもった笑いが笑えない人たちなのです(自分を突き放して眺めることも当然できない)。彼らには他者への冷たい嘲笑か、さもなければ自己文脈に基づく一方的な感情的同調(それは理解を意味しません)しかない。こういう人相手には冗談も通じないので、からかい混じりにその非を指摘するようなことだけでも激しい怒りを買うのです。

 要するに、問題は知能や読み書き能力のよしあしではないということです。ジコチューな精神構造ゆえにそうならざるを得ないので、そこを治さないとどうにもならない。そこに発達障害の類がからんでいても、だから必然的にそうなってしまうというわけではないので、自己認識、世界認識のあり方自体に問題があるのです。そして今の文明社会それ自体にそういう人間を大量生産してしまう素地がある。僕はこの前、そのあたりのことも含めて『〈私〉からの自由』としてまとめたものを書いたのですが、それが仮に日の目を見たとしても、一番読んでくれそうもないのがその手の人たちなので、そういうのも無駄かも知れません。しかし、考え方の柔軟な若い世代には、多少の影響はあるでしょう。

 最後に、文章の読み方について言うと、文というのはたんなる情報ではありません。昔は「眼光紙背に徹す」なんて言葉があり、英語にも read between the lines(行間を読む)という表現がありますが、何を書き、何を書かないかといったことも含め、その「書きぶり」それ自体に意味があって、すぐれた書き手の場合、たんなる思いつきを書き並べているのではないのです。今は物書きも量産しないと食えなくなって、だから雑駁なものが増えていますが、少なくとも昔はそうではなかったので、そういうよいものをじっくり読み込むことによって読解力や考える力も鍛えられるのです。そうするとインチキな底の浅い議論はすぐ見抜けるようになる。僕は若い頃、本を読んでいて、これは偉い人だなと思ったら、わからないのは自分が悪いのだと考えて、自分に合わせてそれを解釈するのではなくて、わからないものはわからないと率直に認めた上で、必死に考えてわかろうとする努力をしました。民主主義の世の中だから、みんな対等で、勝手な誤読は当然の権利だと思うのはただの馬鹿なのです。賢愚の差はそこに歴然としてあって、愚はそういう努力をしなければ賢には辿り着けないと考えるのが正しいので、そうでなければ人は向上しません。今はそういう努力をする人は少なくなって、愚かしい自尊感情丸出しで「オレ様に誤解させる方が悪い」というのでは、レベルがただ下がるだけの話です。むろん、難しいことをわかりやすく説明する努力は必要ですが、理解できるかどうかはたんなる言葉の問題ではないので、読む側の「理解の境位」が上がらないことにはどうにもならない。思想信条など重要なことに関してはほとんどがそうです。それがわかって、その努力をするのでなければ、人に進歩はないわけで、これはツイッターレベルの話ではありませんが、ふだんそういう努力を怠っている人が多いからこそ、低レベルの「誤読」もこんなにも増えたのでしょう。それは一種の公害で、傍迷惑なだけでなく、自分自身を害する結果にもなっているのだということを理解する必要があるのです。

 むろん、そういう人たちはこういう文章は腹が立つだけだから決して読まないので、そこにこの種の問題の一番の難しさがあるのですが…。

最低国家~首相の嘘のせいで渋滞する行政と政治

2018.05.31.15:23

 安倍晋三は今や「日本社会最大のストレス要因」です。元はといえば、全部彼の嘘から始まっている。「私や妻が関係していたのであれば首相も国会議員も辞める(森友問題)」「私の関与は一切ない。加計理事長から獣医学部の話を聞いたことは一度もなかった(加計問題)」など、見え透いた嘘を断言調でついたことと、それが嘘であることを頑なに認めようとしないことから、忖度官僚の虚偽答弁、文書の廃棄や改竄も始まって、行政も国会審議も停滞しているのです。

 異常な教育方針を掲げた森友の小学校用地の異例の値引きが「総理夫人案件」ゆえに行われたことは明白だし、加計学園の獣医学部認可が「総理のご意向」ゆえに成功したことはもはや疑う余地がないが、これだけ証拠や証言がゾロゾロ出てきても、彼は認めないので、こういうことになってしまうのです。

 なかでも財務省は最悪で、これに品性下劣な福田事務次官の女性記者相手のセクハラ問題が加わり、さらに、麻生副総理兼財務大臣の火に油を注ぐようなトンデモ発言連発が加わって、しかし、安倍政権は麻生の支持なくしてはもたないから、これを解任することもできず、今に至る、というわけです。

 それで国富、税金が無駄なことにばかり消尽されている。国会が迷走して、「もり・かけ」問題の不毛な議論に終始するというのは、すなわち議員歳費が浪費されているということだし、先頃は、残っている文書を出せというので、財務省は新たに4千枚の文書を提出したという話ですが、その膨大な書類の山の写真(下の記事を参照)を見て僕は驚きました。

財務省が国会に提出した交渉記録のPDF

 こういうのを、たぶん出席予定議員の人数分印刷したのでしょうが、それ以前に文書を整理して分類しなければならないし、ネットのホームページにも載せたそうで、職員たちは大童でそういう、元々は「やる必要の全くない」仕事を強いられたのです。改竄指示の際には近畿財務局の職員が自殺しているし、廃棄の際にも「どれを捨てるか」ということで、つまらないことにエネルギーと時間をとられたでしょう。虚しい仕事としか言いようがないが、そういうのは全部、安倍の嘘から始まったものなのです。その職員の給与はむろん、税金から支払われている。

 ぞっとさせられるのは、彼の嘘の“私(わたくし)性”と、言葉の軽さです。未熟な人格の持主のこれは一大特徴と言えるものですが、彼らは勢いやはずみで嘘をつく。安倍も同じですが、いったん嘘をついてしまうと、今度は頑なにそれが嘘だったことを否認するのです。

 その軽さにおいては女房のアッキーも同じなので、首相夫人の立場もわきまえず、未熟な判断に基づいて、安易な口利きをする。それが公私混同の無責任なええかっこしい(関西弁ではそう言います)だということがわからず、森友問題だけではなかったようですが、社会的公正を害するようなことを平気でやらかして、それが夫の窮地を招いたのです。彼ら夫婦の共通点は、どちらも名家に生まれたが、若い頃ろくすっぽお勉強せず、能力もあまり高くなくて、そのため妙なコンプレックスを抱えてしまい、それを“補償”しようとして中年になってから「国家」だの「神様」だのにとりつかれ、自分勝手な「使命」感をもつようになってしまったことです。それがひいては「国家社会の迷惑」になることも知らずに。

 一般世間にもそうざらにはいないほどの低レベルな夫婦が首相夫妻になってしまったというところに、問題の根本原因があります。ふつうならそれがわかった時点で自民党内で自浄作用が働いて、安倍は退任し、別の人が新総理になるという展開になるはずですが、それがそうはならないというところが深刻なのです。

 安倍晋三個人としては、ほとんど妄執と化している「憲法改正」を成し遂げるまでは政権の座から降りたくないということなのでしょうが、その憲法改正も、何か明確なグランドプランに基づくというものではなくて、ただ「自分の手で改正した」という“実績づくり”自体が目的なので、「偉大な祖父も成し得なかったことを出来の悪い孫の自分がやった」ということで、個人的なコンプレックスの補償がしたいのです。事実としては、一部の右翼勢力がそれを利用しているということでしかない。

 そのためには「もり・かけ」問題では嘘をつき通して、「野党やマスコミがしつこいだけ」ということで世論がうんざりするのを待って乗り切るしかない。そういうことなのでしょう。彼にとってその妄執は「大義」なのであり、ほとんど明治維新の志士気取りなのです。

 最新の世論調査でも不支持は支持を大きく上回ったままですが、有権者が「代わりがいないからあれでも仕方がない」と諦めムードになる政治状況は真に深刻です。「浦島太郎の経済学」と揶揄されるアベノミクスに対する幻想はすでに消え、日銀の「異次元の金融緩和」は「出口戦力」次第ではとんでもないことになりかねないと懸念され、財政赤字はさらに積み上がり、外交でも見るべき成果はほとんどないと多くの人が冷静にそれを評価するようになっているにもかかわらず、二階や麻生といったドンが「神輿を変えるまでもない」と判断しているから、政権は続いているのです。

 そういう自民党自体が異常ですが、「『ポスト安倍』を狙う石破茂・元幹事長の政権批判が熱を帯びている」にもかかわらず、「党内の視線は冷ややか」なのだそうで、「背景にあるのが石破氏の離党経験と『正論』をぶち上げる姿勢への拒否反応だ。中堅議員は『安倍政権を批判したいだけ』。政権幹部は『自民党員は苦しい時に後ろから弾を撃つタイプを一番嫌う』と指摘する」(朝日5/30記事)という話で、そういう次元の低い仲間意識の中で終始しているからこそ、何も変わらないのです。僕は石破氏のあの妙にじとーっとした語り口に違和感を感じる者の一人なので、積極的に彼を推す気になれないのが残念ですが、煮え切らない岸田も今一つだし、「国民的人気」を誇る小泉進次郎はまだ若すぎるというので出ないだろうし、政権交代を可能にするような強い野党も存在しない。そういう「ビミョーすぎる」状況の中で「安倍3選」が行われようとしているのです。

 昔の自民党の某法務大臣の言葉をもじるなら、「この程度の国民ならこの程度の政治と総理」ということになるのでしょうか? いっそ総理夫人アッキーを総理大臣にしてみたら、「神様のお導き」によるオカルト右翼巫女政治ということになって、21世紀の卑弥呼と呼ばれ、大混乱のうちに日本社会は崩壊して、次のステップに進まざるを得なくなり、問題解決も早いかもしれません。

 発達障害を抱えた小学生みたいな安倍の嘘に付き合わされて、政治も行政も停滞して、国全体にイライラが広がる。わが国が三流国家になり下がった、何よりの証拠です。昨日、歯医者の待合室でテレビを見ていたら、日大アメフト部の内田前監督と井上前コーチが、「自らの保身のために嘘をついたことは明らか」だとして、関東学生アメフト連盟から除名処分(永久追放に相当する由)を受けたというニュースをやっていましたが、安倍の嘘も、常識からすれば明白なので、しかし、首相という大権力者の地位ゆえにそういうまともな懲戒は回避されるのです。この春から小学校では「道徳」授業が正課となったそうですが、どの面下げて僕らオトナは子供に道徳を説くのですかね?

加計「首相との面会なし」コメントの読み方

2018.05.27.17:37

 日大アメフト部の事件をめぐって、監督・コーチの記者会見がひどすぎたというので、「危機管理能力の欠如」がとやかく言われましたが、これもお粗末さにおいてはひけを取らないものです。まず、「安倍応援団」産経の「加計『首相との面会なし』愛媛県に『誤った情報与えた』とおわび」と題した記事から。

 学校法人「加計学園」は26日、愛媛県今治市の獣医学部新設に関し、安倍晋三首相と学園の加計孝太郎理事長が平成27年2月に面会したとの記載がある県の新文書について「当時の担当者が実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えた」とするコメントを発表した。
 その上で「担当者の不適切な発言が関係者の皆さまに迷惑を掛け、深くおわびする」とした。 
 コメントでは、不適切な発言をした担当者が「当時は獣医学部設置の動きが一時停滞し、打開策を探している状況の中で活路が見いだせるのではないか」と考えたと説明している。
 愛媛県の新文書によると、27年2月25日に首相と加計理事長が面談。加計氏が同県今治市で国際水準の獣医学教育を目指すと説明したのに対し、首相は「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」とコメントしたと記載されていた。


 もう一つは、反安倍メディア、朝日の「愛媛知事『偽りあるなら謝罪を』加計学園コメントを批判」という記事です。

 学校法人「加計(かけ)学園」が、愛媛県今治市への獣医学部新設を巡り、加計孝太郎理事長と安倍晋三首相が面会したと記されている愛媛県の文書について「誤った情報を与えた」とするコメントを発表した問題で、中村時広・県知事は27日、報道陣の取材に応じ、「県に連絡がない。県としては正式にいただくまではコメントを控える」と話した。
 県が21日、参院に提出した関連文書には、安倍首相が15年2月25日に加計氏と15分程度面会したという学園から県への報告内容が記されていた。首相が「そういう新しい獣医大学の考え方はいいね」とコメントしたという記述もあった。
 これまで首相と学園は面会の事実を否定してきたが、今治市の菅(かん)良二市長も25日、市職員が学園から面会について聞いていたと明らかにしていた。学園は26日、「(当時の担当者に確認したところ)実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えてしまったように思うとの事でした」というコメントを報道各社にファクスで送ったが、記者会見は開いていない。
 中村知事は「一般論としては、偽りがあるなら市と県に謝罪し、責任者が記者会見するものと思う」と学園の対応を批判。「県としては話した内容をそのまま(文書に)載せた」と話した。(前田智)


 これをもって安倍シンパは「やはり首相は会っていなかった。この件を安倍降ろしに悪用しようとした左翼メディアの卑劣さを見よ!」なんて言い出しそうですが、加計学園がそう言ってるからといってそれが正しいという保証はないわけだし、仮に本当だったとしても、総理の後ろ盾を強調して事を実現しようとした加計の魂胆が明らかになり、認可プロセスが「公正」なものではなかったことを自ら白状したようなものです。

 わかるのは、「腹心の友」と呼び、ゴルフや会食をしばしば共にするだけでなく、自分が経営する大学(深刻な定員割れが取り沙汰される千葉科学大学)の記念式典にまで出席して祝辞を述べるなど、学校経営者としての地位を大いに高めてくれた安倍首相に対する加計孝太郎氏の、これは「恩返し」のようなものだろうということです。こういうコメントを発表すれば、「会っていない」という首相答弁が正しかったことになる。そうすれば、これまで安倍は取り繕いようのない嘘をさんざん並べ立ててきたわけですが、それらが真実であったかのような印象を与える効果も期待できる、というわけです。

 有名な「オオカミ少年」の寓話があって、ウィキペディアの説明ではこうなっています。

 羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が来た!」と嘘をついて騒ぎを起こす。だまされた大人たちは武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来なかった。そして村の羊は全て狼に食べられてしまった。

「日本ではイソップの話であるとして、狼に食べられるのは羊ではなく『羊飼いの少年』とする寓話がいくつも存在する」とあって、僕も小学生の頃読んだのはそちらのバージョンだった気がするのですが、いずれにせよこれは「人は嘘をつき続けると、たまに本当のことを言っても信じてもらえなくなる。常日頃から正直に生活することで、必要な時に他人から信頼と助けを得ることが出来るという教訓を示した寓話」なのです。安倍晋三少年は一度もこのためになるお話を読んだことがなかったようですが…。

 何にせよ、この加計学園の不可解なコメントは、「疑惑の払拭」を可能にするようなものでは全然なくて、「総理がらみの不正」を明白にするものでしかないということです。悪いのはひとえに「不適切な発言をした」「当時の担当者」であって、加計理事長や学園本体は関係ないと言えば、腐敗した組織によくある「トカゲのしっぽ切り」でしかないと批判されるでしょう。上に見たような理由で「総理を守る」こともできないし、無意味としか言いようのないコメントです。

 ついでに、経緯はどうあれ、加計学園=岡山理科大学の獣医学部は受験生が殺到して大成功ではないか、と言っている人にも反論しておくと、あんなもの、「成功」のうちには入りません。塾商売をしている人間の目からすると、スベリ止めのスベリ止めに利用する受験生が多かったのと、従来なら学力的に獣医は無理な受験生も受けたこと、「一体いくつあるのだ?」と呆れるほど試験の回数を多くして、一回ごとの定員を少なくしたから、見かけ倍率が高くなっただけの話です。「推薦C方式」なるものでは、定員21人に対し、193人もの合格者を出して話題になりましたが、 それはほとんどの合格者に蹴られると読んだからです。

 韓国でも嘘まじりのパンフレットまで配布して大募集したそうですが、結局、定員200名に対する実際の入学者は186人(獣医学科147人、獣医保健看護学科39人)にとどまった。獣医学科の定員は140人なので、そちらは充足しましたが、前にここでも「間違いなく定員割れする」と“予言”しておいた獣医保健看護学科の方は60人の定員に対し、初年度から39人の入学者しかいなかったのです(海外からの留学生は、獣医のみで、韓国7人、台湾2人)。全体に占める四国出身者は約12%の22人で、特別推薦の「四国で活躍する獣医師を積極的に育てる目的の『四国入学枠』の合格者が4人にとどまり、当初『最大20人程度』とした枠の5分の1だったことが分かった。志願者が6人だけで、大学側は『四国に獣医学部を置く目的の一つであるだけに残念。2019年度は周知を徹底したい』としている」(毎日新聞3/21)といったお粗末な内情も加わるのです。

 これに「愛媛県は今年度から3年間で計約31億円を支援」させられることになり、「今治市は学園が示した校舎建設費約192億円の半額までの補助を決め、その3分の1(約32億円)を上限とする支援を県に要請」していたのであり、今治市の負担は県の倍額になるということですが、むろん国も私学助成金を支出するのです。「獣医は足りている」のに、こういう余計なことをする。元々は加計理事長の長男が獣医師だったところから、「獣医学部なら設立も学生集めも容易だ」とその新設を彼は思いついた(元々今治市がそういう考えをもっていたのではない)のだと言われ、息子を教授の一人にして、ゆくゆくは学長にでもするという魂胆だったのでしょうが、そういう彼個人の「私意」に振り回されて、自治体も国も莫大な出費を強いられることになったのです。全体が傍迷惑な、馬鹿げた話に思われます。

 加計学園本体にとっても、この件で悪名をとどろかせたために、経営する大学全体の志願者・入学者をさらに減らす羽目になった。元々無名私大のほとんどは定員割れで、前途が危ぶまれるところも少なくありませんが、加計学園系列の大学は定員を充足していないものがほとんどです。それに加計理事長の行動は拍車をかけたわけで、まともな組織なら理事長追放運動が起きても不思議ではありません。それで経営が悪化すれば、立地自治体もその尻拭いを強いられ、税金がまた無駄に使われるわけで、安倍の「腹心の友」はたいそうご立派な人だと言わねばなりません。

 巷間、加計の獣医学部の入学者は全国の獣医学部学生の「最低辺」でしかないので、獣医師の国家試験で苦労するだろうと言われていますが、それにはスパルタ式対策授業や、受かりそうな学生しか受験させないという戦略で「高い合格率」を示せるようにするでしょう。それが低かったら、とたんに見かぎられてしまうからです。だからそちらはそれなりの結果を出すでしょうが、教員もかき集めのようだし、「先進的な獣医学教育」など期待すべくもない。安倍晋三と加計理事長の「うるわしい友情」によって実現したこの新規獣医学部のプラスとマイナスはどちらが大きいか、現実的に考えれば誰にでもその判断はつけられるでしょう。僕が一番同情するのは今治市民で、それで財政赤字が深刻化することになれば、他の面で色々とばっちりを食うことになってしまう。「黒い猫でも白い猫でも、獣医学部を作ってくれるのがよい猫だ」という加戸・前愛媛県知事の迷言(全くもって、あれはたわけたじさまです)がありましたが、やはり猫はえらぶべきだし、今治市は少子化が進む中、大学の誘致それ自体のリスクをもっと考えた方がよかったのではないかと思われるのです。


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