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コロナで脳も崩壊しつつある?

2021.06.12(22:11) 841

 最近毎日のようにこれを更新していますが、理由は、しばらくこれをお休みにするつもりだからで、その事前穴埋めみたいな気もあるからです。われらがガースー政権は、今頃中止を言い出しても「遅すぎる!」と言われて支持率の回復にはつながらないので、大地震などの大災害でも起きないかぎり東京五輪を強行しそうです。前に友人とした賭けの話を書きましたが、彼の五月予想は外れて、六月中に中止が決まれば僕が勝つわけですが、そうなりそうもないので、「勝者なし」の結果になる。相変わらず何の説明もなくて、民意も道理もへったくれもない恐ろしい政権ですが、その五輪が終わる頃までは、このブログはお休みになるでしょう。その間は、前にも書いたように、そんな気分ではないのでテレビで五輪も見ないので、自分のしたいことにだけ没頭して静かに過ごすことができると思いますが(コメントやメールの類は、ブログ会社からこちらに通知が来るので、その場合だけ対応します)。

 前々回の記事で書いた話に合わせて言うと、今の世界はどんどん悪夢の様相を強めて、かつコントロールの利かなさが甚だしいものになりつつあるようです。コロナも、中国の武漢ウイルス研究所流出説が再燃して、前のときはトランプ支持者の妄想的陰謀論とセットになっていたから信用を失ったのですが、次のニューズウィーク誌の記事など読むと、これはネットを駆使した民間人グループの追跡の執念が実ったという話ですが、その信憑性はきわめて高そうです。

「研究所流出説」を甦らせた素人ネット調査団、新型コロナの始祖ウイルスを「発見」!

 実に読み応えのある、面白い記事です。最後まで辿り着くと、後編もクリックしてかんたんに読めるようになっているので、まだの方はそちらもお読みいただきたいのですが、ふつうならこういうのは各国の政府系諜報機関やメディアがやるべきことで、それを仕事は別にもっている、ネットでつながった国も年齢・職業も異なる自発的に連帯した民間人グループが全くのボランティアでやって、真相に肉薄したわけです(これはたぶん後で映画の題材になるでしょう)。それが表に出て、諜報機関やメディアがそれを後追いするというパターンです。逆に言うと、諜報機関員やジャーナリストの側は、それで給料をもらいながら、果たすべき仕事を満足にしていなかったことになるので、何のために彼らが存在するのか、疑わしいことになってしまっているのです。

 専門の研究者はと言えば、「自然界の病原体について大規模な国際調査を行う非営利の研究機関、エコヘルス・アライアンスの代表」であるピーター・ダザックは、「他の26人の科学者と連名で2020年2月19日、医学誌ランセットで公開書簡を発表。『新型コロナウイルス感染症が自然な発生源を持たないことを示唆する陰謀論を、私たちは断固として非難する』と宣言した」のです。ランセットは世界的に権威のある医学誌で、そこに専門家たちが連名でそんな書簡体の記事を載せたとなると、僕ら素人は、「やはりあれは根も葉もない陰謀論だったのだろう」と思ってしまう。それをきっかけに「メディアに頻繁に登場するようになったダザックは、研究所流出説を『不合理』『根拠に欠ける』『完全なでたらめ』と一蹴した」のです。ところが、それは彼が自己保身のために画策したことで、その主張は公正でも科学的でも全くなかったことがのちに判明したのです。彼のこうした一連の行為自体が隠蔽工作だった。学者の風上にも置けない男だったのです。

「習近平のポチ」と呼ばれるテドロス事務局長率いるWHOは、一年以上もたってから中国に調査団を派遣し、それで問題が解明されると思った人はおそらく一人もおらず、中国のアリバイ工作に加担するだけが関の山だろうと予想されていましたが、果たして、

 中国に派遣した調査団の報告書を公表し、動物から中間宿主を通じて人に感染したとの仮説が最も有力と発表した。一方、武漢の研究所からウイルスが流出したと疑う説は「極めて可能性が低い」とほぼ否定した(時事通信3/31)

 ということになったのです。この種の問題で一番重要な役割を果たすべきWHOは終始一貫、ほとんど機能していない。そんな無意味な報告書を作るためにわざわざ大金をかけて調査団を派遣したのかと呆れるので、その信用は完全に地に堕ちたのです。

 全体として見たとき、今の世界で起きていることは、僕らが夜間寝て見る夢以上に出鱈目なことになっていることがわかるでしょう。虚偽とナンセンスのオンパレードで、だから人々は政府もメディアも、専門家も信用できないということになって、ネットの怪情報や陰謀論にはまる人が多くなっていると言われるのですが、今見たニューズウィーク誌の記事によれば、自己保身のために武漢研究所流出説を断固否定して自然発生説を唱えた「権威ある専門家」ダザックたちの方が陰謀を企てたに等しかったのです。

 シェイクスピアの有名な悲劇『マクベス』の冒頭に、「きれいは汚い、汚いはきれい」という魔女たちのコーラスが出てきます。これは原文では、Fair is foul, and foul is fair だそうで、foul はゲームなどのファール、反則・逸脱にもこれを使うので、逆にルールに則った、公正なものが fair です。公的な機関や権威ある専門家の言うことなら fair で、怪しげなネット情報ならfoul だというのがこれまでの社会的コンセンサスのようなものでしたが、上のニューズウィークの記事によれば、真実を解明しようと調査を続けて真相に迫ったのは素性も知れぬ怪しげな民間ネット調査団で、専門家や公の研究所の方が虚偽を語ったり、不正な隠蔽を重ねていたことが判明したのです。Fair is foul, and foul is fairという魔女の言葉どおりの逆転が生じているので、マクベス劇のあれは不吉な予言のようなものとして出てくるのですが、今僕らの目の前にある現実はこれを地で行っているのです。

 もはや何を信じていいのかわからなくなった。Fair is fair, and foul is foul の原則は、fair の側に立つ人間は相変わらずそうだと主張するが、事実上は完全に崩壊してしまっているのです。僕も塾で、生徒たちの話を聞きながら、「君らの学校の先生は頭が完全にイカれているね」と呆れて言うことが少なくないのですが、それは彼らの感受性や意見の方がまともだと感じることが多いからで、教育者としての人間的誠実さがどこにあるのかと疑わしく思うことがしばしばなのです。今は社会のあらゆる領域で同じようなことが進行しているのではないのか? 健康な組織や機関は稀なものになっているのではないかと思うと、背筋が寒くなってくるのです。

 言うまでもないことですが、習近平の中国共産党政府がコロナウイルス武漢ウイルス研究所流出説を認めることは決してないでしょう。彼らはそれは「中国を陥れるための悪質な陰謀論」だと、ずっと主張しています。今後も同じはずで、今の状況証拠としてはそれは真っ黒ですが、決定的な証拠がないかぎりシロだと言い続け、そしてその証拠となるものは彼らが握っているので、疑わしきは罰せずで「有罪宣告」は免れるのです。それが人道的な目的で行われていたと信じることもできない。それは中国の生物兵器開発のための研究と確実にリンクしているのです(でなければ何で人に感染しうるものに改変する実験など行なう必要があるのか?)。

 不正はただされず、正義は行われない。昔、今はもう八十代も半ばになった年の離れた従兄が僕にはいるのですが、その善良この上ない従兄(継父はいたが、実父は戦死していた)は僕の両親にとっては実の弟のようなものだったので、お盆や正月に帰省すると、必ず遊びに来て、泊まっていくこともよくあったのですが、自分が家庭で父権を発動するのはテレビで時代劇の『水戸黄門』を見るときだけだと言って皆を笑わせたことがあります。そのときだけはチャンネル権を絶対に譲らない。どうしてなのかときくと、あれは必ず正義が勝つという筋書きになっていて、実際の世の中は理不尽に満ちているが、かなり単純な勧善懲悪のあの時代劇では必ず正義の裁きが下されるので、安心して見られて、胸のつかえがおりるからだという話でした。従兄は苦労人で、働きながら夜間高校を卒業して、その当時は大手ガス会社で現場の仕事をしていたのですが、ままならないサラリーマン生活の苦衷と持ち前の強い道徳感がそこには反映されていて、そのとき自分が高校生だったのか大学生だったのかは忘れましたが、話を聞いて笑いながらも、僕にもその気持ちはよくわかる気がしたのです。

 しかし今は、時代はさらに悪化して、昔ならとうの昔に倒れていたはずの政権が倒れず、民意に真っ向から逆らう五輪開催の強行なんてことをしているのです。海外からも疑問視する声は日増しに高まり、誰も得はしない(IOCは除いて)のに、何のためにそんなことをしなければならないのか、説明は皆無のまま、「前に決まっていたから」という理由だけでそれは変えられないというのです。正気の沙汰とは思えないが、オリンピックなんか楽しむ気には到底なれない中で、「皆さん、あれで盛り上がって元気になりましょう」と言う。そんなんで元気になんかなるわけあるか、アホ、と思いますが、ひとりガースー自民とその取り巻きだけはそう思わないのです。正しくないとしても、中国が武漢ウイルス研究所流出説をムキになって否定する理由はよくわかるが、こちらはその理由すらわからない。それだけに理不尽さ、不気味さは一層募るのです。

 こういうのは全体、悪夢を見ているのと同じです。「そんなの、ありかよ」と思うようなことがそこらじゅうで頻発していて、何か何やらわからなくなり、意識が混濁してくるような気がする。ひょっとしたら自分は夢の中でそれとは知らずこんなものを書いていて、これを読んでいるあなたも、たんなる僕の個人的な夢の登場人物でしかないのではないか? だんだんそんな気がしてくるのです。あのガースーも、僕の無意識の中の「不条理」が夢に投影されてああいう人物として造形されたにすぎないので、本当はあんなもの(失礼!)は全然実在していないのかもしれないのです。おかしなものを食べ過ぎて胃腸が不調になったまま寝ると、ときに僕はおかしな夢を見ることがあるのですが、これはその一つなのではないかと。

 最後に、話はかなり変わりますが、ヤフーのニュースサイトでこういう記事を見ました。

「タバコを吸う人は悪人」コロナ後の世界では健康管理はモラルに変わる

 喫煙者の僕はこれを面白く読んだのですが、下にコメントがかなり出ているので、ついでにそれも見ていたら、???という感じがしてきて、こういうのもヤバいなと不気味になったのです。上の記事をクリックしてお読みになればわかりますが、最後の、

 さあ、これを読み終わったら、今日から1時間ほどのジョギングをはじめよう。あなたが健康になることは、あなたにとってだけでなく、みんなにとって喜ばしいことなのだから。

 というのはむろん皮肉なのですが、それをそうと解せず、全体の趣旨を180度取り違えて「批判」しているコメントがいくつもあって、そういうのに「いいね」を押している人もたくさんいるのです。また、文の趣旨とは関係なしに、自分の勝手な「意見」を書いているだけだったりして、全体に見当はずれのものが多く、読んで書いているとは思えない。

 この文章は今の日本社会に対して感じている筆者の「不気味さ」を、そういう言葉は全く使わず表現している点でうまい文章だなと僕は思ったのですが、そこを「正解」した上でのコメントは僅かしかない。要するに、多くは自分の誤読に基づいて批判したり、「賛成」(それは全然賛成にはなっていないからカッコに入れたのですが)したりしているので、そのリテラシーの低さを自覚するということはないのです。文章は自分の好きなように読めばいいのだと思っている。それで誤読に基づいて勝手な「批判」をするのも自由だと思っているのです(この種の人たちは同じ「仲間」がいるとわかると勢いづくらしく、しばしばその誤読に基づく「批判」もヒートアップする)。

 なるほど、これは考えさせられる文章だなとそこで立ち止まって考えるならそれは実りのある結果につながるのですが、この種の人たちはそういうことは全くしないので、それでは賢くなることもないでしょう。こう書くと、「おまえは利口ぶって人を馬鹿呼ばわりするのか!」と食ってかかられそうですが、それでは人の話も聞けないから、無用な人間関係のトラブルをつくり出したり、本や雑誌の文章を読んでも正しく読解することができないから、思慮深い人間になることもないでしょう。そのくせ、誤読に基づいて相手を「短絡思考」だの「価値観の押しつけ」だのと決めつけたりはするわけですが。

 思うに、この文章を書いた筆者(御田寺さん)は、こうしたコメント群を見ると脱力感に見舞われるのではないでしょうか。理解した上での批判なら学ぶことができるし、理解した上での賛同なら心強く感じるかもしれませんが、たんなる無理解に基づくものなら、反対も賛成も困惑や苦笑をひき起こすものでしかないからです。何より、書いた甲斐がない。これはプレジデントオンラインの記事なので、原稿料はもらえているのだと思いますが。

 今の社会の薄気味悪さには、こういうのも付け加わっているのです。上も下も、あっちもこっちも、同じように出鱈目で、わけがわからなくなっている。こういうのを見ていると、僕のこのブログなんかも、どんな読まれ方をしているのかわかったものではないなという気がしてくるのです。日本国内だから日本語は通じていると思ってはいけない。実際は全然通じていないのかもしれないのです。

 それでは、また今度。この最後のくだりが災いして、ここが「炎上」などしていないことを祈っています。


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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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UFO・エイリアンとフォークロア

2021.06.11(17:50) 840

(『エイリアン・アブダクションの深層』を買ってくれた人向けに、続けてこちらも載せておくことにします。ちなみに、さっきアマゾンのサイトを見てみたら、何と星一つのマークがついていて、その人は何か気に食わないことがあってそうしたのだろうと、そのレビューを見てみようとしたら、それは見当たらない。アマゾンも今は悪質なものを防ぐために最低限の検閲はしているようなので、それに引っかかったのかもしれません。僕は自分の本で人にレビューを書いてくれと頼んだことなどは一度もありませんが、あのままだと全く売れなくなって、社に大損害を与えてしまうことになりかねないので、一筋縄ではいかず、書きにくい本ですが、どなたかまともなレビューを書いてくれる人が出現するのを期待しています。公正に見て、いくら何でもあの本が星一つということはないはずだからです。)


 この問題の否定論者たちが皮肉めかした口調でよく言うのは、「何で彼らは白昼堂々と姿を現わさないんだ? たとえばニューヨークやパリ、東京の上空などで一度10分間ほどでもUFOの航空ショーを見せ、大勢の人がそれをスマホ撮影などすれば、われわれもその存在を認めるだろう」といったものです。

 これは支持派のひそかな願望でもあって、「いるのかいないのかわからないような紛らわしい出現の仕方をするから、証拠が不十分だといってわれわれは笑いものにされて、馬鹿にされるのだ」と思っている人は少なくないはずです。

 僕も時々そう思うことがあります。紛らわしいことこの上ないやり方を彼らはしているように見えるので、なぜそうしないのかと。おそらくこれには人間の側に及ぼす心理的影響に対する懸念もあるのでしょう。とくに政治家や軍関係者たちはそれを「安全保障上のとてつもない脅威」と見なして、映画『インディペンデンス・デイ』みたいに「エイリアン退治」に乗り出しかねない。これは人類全体の危機だとして、軍事費を増額し、非常事態宣言を発するなどの騒ぎになりかねないのです(そういうのは人々の鬱積した不満の好都合なはけ口としても利用できる)。恐怖や猜疑心の強い、攻撃的な動物であるこの地上の生物とはそうかんたんに平和で友好的な関係は築けない…。彼らはそんなふうに思っているのかもしれません。

 このUFO、エイリアン問題には一括りにはできない多様な側面があります。しかし、まずはいたって現実的、世間的な側面から入りましょう。UFOやエイリアンとの遭遇事件には様々なものがあるようですが、南ア、ジンバブエで起きたアリエル・スクール事件(1994年)や、Netflixの「未解決ミスタリー」のシリーズ1の5番目、「バークシャーにUFO出現」というよくできたドキュメンタリーで取り上げられているアメリカ、マサチューセッツ州の事件(1969年)など、これだけ多数の、相互に矛盾の少ない、かつ具体的な目撃・体験証言があれば、ふつうなら誰もその現実性を疑うようなことはないでしょう。しつこく「否定し難い科学的・物理的証拠を見せろ!」と迫ることもない。どう見ても彼らが嘘をついたり、正気を失っているようには思えないからです。にもかかわらずそれが受け入れられないのは、出来事が特殊なため、「そんなことはありえない」とする今の科学的マテリアリズムに支配された文明社会特有の激しい心理的抵抗があるからです。

 僕にはそれは馬鹿馬鹿しいことに思えるのですが、それがSFとして発表されたり、オカルト界隈で、あくまでその内部で盛り上がったりするのはいいが、それがこの社会全体で容認されるべき現実の出来事であると主張したりすると、とたんに猛烈な敵意と侮蔑にさらされるのです。ハーバード大教授ジョン・マックのアブダクション研究が激しい批判というより非難を招いたのも、このあたりのことが関係するでしょう。彼はこの問題をキワモノ扱いせず、学問界、科学界にも真面目に受け取られるべきものだと主張したのです。それが何よりまずかった。それはオカルト愛好者のサークル内部にとどめられるか、さもなければ精神病理学の対象として扱われるか、されなければならなかったのです。

 僕に不思議なのは、UFOやエイリアンが存在して、それが地球を遠慮がちに訪問していたとして、一体何が不都合なのかということです(彼らが地球の植民地化を目論んでいるなんてのは妄想に類した話でしょう)。科学的に説明不能だといっても、その科学はまだ発達途上のものにすぎず、それが未熟なものであるということは科学者自身に自覚されている(それで何でもわかると思っているのは二流三流の学者だけです)。その程度のことで僕自身の世界観は揺るがないし、不安に陥ることもない。いつもどおり仕事するし、エイリアンに会えば、挨拶ぐらいはするでしょう。自分が誘拐されて宇宙船のベッドに縛りつけられて検査などされるのはできればご免こうむりたいが、そういう話を聞いても、その人が頭のしっかりした正直な人なら、それはたぶんほんとなのだろうと思うでしょう。Youtube でアリエル・スクールの可愛い子供たちがインタビューを受ける映像を見て、彼らが作り話をしているなどとは僕には毛頭思えませんでした。Netflix で正直そうな老婦人が語るのを見たときも、これは嘘なんかつく人ではないだろうと確信がもてた。彼らにはそんな作り話をしなければならない動機や必然性は何もないのです。彼らが遭遇したUFOやエイリアンがどこから来たかは謎ですが、起きたことは起きたのだと彼らは言っているので、それが合理的に説明がつくかどうかはまた別の話です。

 小林秀雄が菊池寛(かなりの霊感体質だったように見える)の幽霊話について、こういう面白い話を書いています。文芸春秋社の講演旅行で、それとは知らず幽霊が出るというので地元では有名な旅館に泊まり(それを買い取った経営者が事業挽回のきっかけにしたいと運動した結果そこに決まったことがのちに判明)、文庫を読みながらうたた寝してしまったとき、菊池は息が苦しくなって目を覚ましたのですが、見ると一人の見知らぬ男が自分の上に馬乗りになって首を絞めている。その異様な姿を見て、これは人間ではないなとすぐ気づいたので、「いつから出ている?」と訊いたというのです。幽霊が存在するか否かと言うような議論はヒマ人のすることで、彼はそんなことには何の興味もなかった。出たものは出たのだから、そうなった以上、必要なのはいつから出ているかと問うことだけだ。こういう人を本当のリアリストという、と書いていましたが、僕も同じ意見です。説明できないから、あるいはそれが自分の世界観に反するから否認するというのは、精神のひ弱さを証明するものでしかない。

 僕がUFOやエイリアンと同じく、幽霊も存在するだろうと思うのは、信じるに値する目撃・遭遇譚がたくさんあるからです。幽霊はその性質からして、前者以上に物質的証明は困難です。何しろそれは基本的に物質とは呼び難い存在なのだから。たしかに「幽霊の正体見たり枯尾花」式の目の錯覚はいくらもあるでしょう。しかし、それで全部が片付くわけではないので、それはUFO遭遇事件も同じなのです。

 昔は幽霊以外にも色々なものが存在するとされていました。たとえば、僕の田舎には集落ごとに氏神様があって、隣の集落の下手(しもて)にある大きなそれのご本尊は黒龍だとされていました。そこの氏神様のお祭りでは、子供には楽しい宝探しなどのイベントがあるので、僕は毎年のように出かけていたのですが、そのとき祖母から聞いた話によれば、それを篤く信仰するおばあさんがいて、それは祖母のよく知っている人でしたが、あるとき氏神様の社に参拝して、どうぞ一度でいいから姿をお見せ下さいと一心に祈ったのです。すると、しばらくたって巨大な黒龍が現われて、その胴体が谷の向こう岸にまで届いて、その重みで木々がみしみしと音を立てた。それでそのおばあさんは仰天すると共に、そこのご本尊が黒龍様だと知ったと言う話で、祖母が付け加えて言うには、他の霊能者が別々に見ても、皆あそこは黒龍だという。だからそれは間違いのない話だというので、小学生の僕はそのアナコンダも逃げ出すほどの巨大な黒蛇を想像して戦慄したのですが、祖母はそれに何の疑いももっていませんでした。他方、僕の実家に隣接する氏神様は白龍で、これも見立てが一致している。前に男女二人組の布団売りが来て、男性の方が商売そっちのけでそちらの方に行ってしまい、戻ってきて、「あれはどえらい神様やから、大事にせんといかん」と母に言ったので、母はむっとして、そんなこと、言われんでもわかっとると答えたそうですが、相方の女性が言うには、この人は“見える”人で、それは出まかせではないと力説したそうです。

 こういう一種の霊獣もしくは半神的存在の場合、異界の存在で、ふつうの人には見えず、通常の物質的なからだはもたないように見えますが、そのおばあさんの「木々がみしみし音を立てた」という話からして、そのときは物質化していたのだろうと思われるのです。祖母は明治生まれの人でしたが、昭和生まれの僕の父(婿養子で、その黒龍様の集落の出身だった)も、ふだんは可愛げがないくらい実際的な人間でしたが、知らない土地で車を走らせていても近くに神社があるとすぐにわかるという人で、あるとき助手席の僕に、それは高校生の頃だったと思いますが、ああいうものは昔の人がきちんとそれとわかって建てたのだから、人間の都合で勝手に動かしたりするものではないと言いました。父にそういう面があるのを知って僕は驚いたのですが、一万くれるというのなら、一晩お墓で寝てくるぐらいはいつでもするが、神社だけはご免こうむると言ったこともありました。小柄な体に似ず肝の据わった人でしたが、あれだけはこわいと言うのです。

 こういう話は、現代人には馬鹿馬鹿しく思われるかもしれませんが、ついこないだまで、人々はそれを何の屈託もなく受け入れていたので、それで過度に迷信的になるなどのことはなく、僕の祖母も父も、安定感があって、現実的判断力にすぐれた人でした。ところが今の偏頗な科学主義は、異様なほどそういうことに非寛容になっているのです。それがかえっておかしなカルトにはまる人を増やしてしまったのではないかとさえ思える。何でもないことを異常視し、消毒を利かせすぎるから、本能的直観力も鈍り、ミソとクソの区別もつかない人を増やしてしまったのです。

 そろそろ話を戻しましょう。そういうわけで僕はUFOの目撃談などを日常現実の中にときおり割り込んでくる説明不能の事象の一つとして受け入れているのですが、それは幽霊や精霊、各種の風変わりな霊的存在(西洋の牧神パンや日本の天狗など)の目撃話と基本的に変わらない。UFOの違う点は、それがメカニックな外観をもつ乗り物で、エイリアンも防護服か体にぴったりしたスーツのようなものを着ていたりして著しく“現代的”になっているらしいことです。これの中間にあるものは有名な「ファティマの奇蹟」の「踊る太陽」(「1917年10月13日、集まった約七万人の群衆は雨に濡れていたが、太陽が狂ったような急降下や回転を繰り返し猛烈な熱で彼らの服は乾いてしまった」とウィキペディアにはある)のようなもので、当時は空飛ぶ円盤という観念はまだなかったからそれは「太陽」とされたわけで、今ならUFOと解されるのがふつうでしょう。そこにカメラクルーがいて(当時だと無理な話ですが)、一部始終が録画されていれば重大証拠とされたでしょうが、それでも保守的な科学者たちはそれは大群衆によって引き起こされたヒステリー的な集団幻想で、その思い込みがあまりにも激しかったために、それが映像としても捉えられたのだ、というような、それ自体迷信的なこじつけをするかもしれません。そういう頑なな態度の方がよっほど病的ですが、彼らはそうは思わず、かえって正常な人の判断の方を病的なものと決めつけて嘲るのです。そこにあるのは感情的反発だけで、何の合理性もない。

 エイリアンにも色々あるようで、その中には昔の牧神(それは人をぎょっとさせる蹄のついた脚や悪魔的な外観をもつが、治癒的な力も示した)のような異界からやってきたものと解釈する方が妥当なものもあるように見えます。心理学者ユングの言うような、集合的無意識の中にある元型の外部世界への投影として説明できそうなものもある。しかし、先に見たアリエル・スクールの子供たちや、バークシャーのUFO遭遇事件などの場合、それは明らかに物質的、この世的な性質のもので、それはこの宇宙のどこかからやってきた異星人に違いなさそうに見える。言えることは、マックもその説明には苦慮したようで、パトリック・ハーパーの「ダイモン的リアリティ」なんて言葉を援用しているのですが、こうした現象は多面的で、一義的な説明を拒んでいるということです。

 ところが、現代人はこうした曖昧さを許容できない。何でも物質的な観点からきれいに説明できないと、「そんなこと、あるはずがない」と頭ごなし決めつけるのです。人間も、この世界も、それほど単純なものではない。こういう反応は今の科学的物質主義と、それによってつくられた世界観が偏頗かつ一面的なもので、それゆえ人が大きな不安をもつようになったことと関係するでしょう。先に小林秀雄の言葉を引用しましたが、彼はあれとは別のところで、民族学者・柳田国男の学者の域を超えた神秘家的な豊かな感性について触れた後で、最近はお化け(妖怪)の話なんかすると、そもそもお化けなんてものは存在するのでしょうかと言ってみたり、にやりと笑って見せるなど、自分はそんな迷信深い人間ではないということを示したがる人がやたらと増えた。こういうのは「自分の懐中にあるものを、出して示すこともできないような、不自由な教育を受けている」結果だと柳田は書いていると紹介した後で、「懐中にあるものとは、私たちの天与の情(こころ)」のことなので、それを否定するような偏頗な教育は不安を募らせ、人を狂わせるだけだと述べています。そこで槍玉に挙げられているのは戦後の唯物史観に基づく教育ですが、今の唯物的科学もそこは全く同じなのです。

 だから、僕がこの問題について言いたいことはこういうことです。今の物質科学でそれが説明可能かどうかを真偽判断の基準にすること自体が問題なので、それはたんなる科学の側の思い上がりにすぎないと。通常僕らは総合的な見地から真偽を判断します。常識を弁えた精神的に健康な人や、嘘などおよそつきそうもない正直な子供たちが間違いのない実体験として語ることなら、それが日常現実的にはありえないことに思われても、本当に起きたことなのだろうと受け入れるのが良識ある人のすることでしょう。この世は元来不思議に満ちていて、死者の霊が危険を知らせに生者の許を訪問することもある。そういうことは昔からよく知られていることです。UFOやエイリアンの出現もそれと似た非日常的な現実で、その種のことでは実験室での再現などはもとより不可能なのだから、あらゆることにそれを求めるのでは、僕らがこの人生で体験する貴重な出来事の大半は虚偽として否定されてしまうことになる。そういう物質科学の専横を人々は許す気でいるのか? 僕自身は拒否するので、説明がつかなければ、説明のないままで、それが説明可能になるまで待てばいいのです。あるいは、それが可能になるように自分の世界観の方を修正する努力をすればいい。それが知的誠実さをもつ人間のやるべきことです。

 僕らは今でも日常的にはニュートン物理学の世界に暮らしています。学校でも相変わらずそれを教え、たいがいのことはそれで足りるが、それはアインシュタインの相対性理論によって根本的な理論的修正を迫られた。絶対空間、絶対時間の観念は今は虚偽のものとされているのです。そしてアインシュタインの相対性理論は、量子物理学の挑戦を受け、量子の不思議な動きは変数理論などでは説明がつかず、これも理論的な屋台骨を揺るがされている。科学の領域ではすでにそうなっているのに、各種の超常現象やUFOはいまだにニュートン物理学的な平板な世界観から裁かれ、否定されているのです。これは実にふざけた話なので、およそ徹底性を欠いている。何の権利あってそんなエラそうなことをしているのか。

 僕は現代人の心がやせ細って彩りを失い、たえず不安にさいなまれ、一面的・機械的な屁理屈を際限もなくこね回して利口ぶる以外に能がなくなったのは、狭い物質科学の尺度によって多くの人間的に重要なものが否定、抑圧の憂き目にあっていることと大いに関係があると思っています。それで虚ろな心を抱えたまま、このUFO問題などでも、自分たちを虐待している当の科学の専制の方に与して、体験談を語る人たちを嘲るのです。それは自分がいじめに遭うことを恐れて、いじめっ子に追従し、たえずそのご機嫌をとって、一緒にいじめ行為に加担する子供たちの心理とよく似ています。自分の胸に手を当ててよく考えるなら、その不毛な心のメカニズムは理解されるようになるのではありませんか? 真に科学的な態度というのは未知に心を開いたもので、そういうものではないはずです。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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臨死体験時の幻像と現実世界

2021.06.10(17:51) 839

(先日、突然思い立って、文章を書き始めました。これはその第二章に当たるもので、昨日散歩の途中思いついて、半日ほどかけて書き上げたものです。最初の章は「脳が意識を生み出すのではなく、意識が脳をつくり、使っている」と題したもので、それはかつては多重人格、今は解離性同一性障害と呼ばれる患者の脳が興味深い反応を示していることが確かめられたという英文記事をヒントに書き始めたもので、タイトルどおり、常識とは逆の結論になっています。第三章は「UFOとエイリアン」になる予定で、そこでも“非常識”なことを書くことになるだろうから、全体が世間常識に反するものばかりになりそうですが、前後はつながっているとしても、ある程度独立して読めるので、二番目のこれが一番受け入れられやすい議論かなと思ったので、公開して読者の反応を見てみたいと思いました。異論、反論、ご質問等あれば、それがちゃんとしたものであるかぎり誠実にお答えしたいので、お寄せいただければ幸いです。後でそのやりとりも追記として書き加える予定です。)


 臨死体験というのは心肺停止などの、通常は臨終と解される状態となった人たちが蘇生した際に語る不思議な体験ですが、それには色々なヴァリエーションがあって、暗いトンネルを抜けて光あふれる美しい世界に出て、そこで亡くなった人たちや神的、天使的存在に出会うとか、日本式のそれでは三途の川を渡って、お花畑のようなところに出て、やはりそこで亡くなった知り合いに会ったとか、様々に語られます。その結果、あの世の存在を確信して、心穏やかになり、その後の生き方が変わったと言う人も多いとされる。

 これについては科学の側からの反論があって、そういう話は人によっても文化によってもしばしば大きな違いがあるところから、客観的な実在とは考えられず、睡眠時の夢のようなもので、脳が紡ぎ出す幻像のようなものだろうというのです。げんにそれは幻覚誘発剤のようなものを使ったときにも生じるので、両者には多くの類似点がある、云々。

 それよりも僕が面白いと思うのは、意識不明の状態で横たわっていたにもかかわらず、そのとき病室やその周辺でどんなことが起きていたか、意識を回復してからつぶさに説明する人がいて、その描写の正確さが医師や看護師、家族などを驚かせることがあるという話です。そうした現象が、ウィキペディアの「臨死体験」の項では次のようにまとめられています。

 臨死体験中には体外離脱現象が起こることが知られている。全身麻酔や心拍停止で意識不明となった時に、体験者は気が付くと天井に浮かび上がっており、ベッドに横たわっている身体を見下ろしたり、ドクターの側で手術中の様子を客観的に眺めている自分に気付く。そうした体験は現実世界以上の強烈なリアリティーが伴うため、幻想ではないと語る者も多い。こうした体外離脱中には幻覚的な体験が起こることもあるが、現実世界で起きた出来事を体験者が後に正確に描写できる事例も珍しくない。

 マイケル・セイボムの研究では、臨死体験者たちが体外離脱中に観察した治療室の蘇生場面を描写した結果、専門医のカルテの記述と一致し、研究者のセイボム自身を驚かせている。彼が調査したある臨死体験者は、治療者が行った施術の詳細や、メーター計器の針の数値、道具の色や形、物理的視野に入らなかった物品までもを描写できている。その描写は臨死体験者ごとに個別的で、専門医であるセイボムから見ても間違いの殆ど無いものであった。

 キンバリー・クラークによる研究にも同様の例がある。心臓麻痺により病院の2階に運ばれたマリアは、体外離脱を起こし病院から抜け出した後、病院の3階の窓の外にあるテニスシューズを確認し、意識回復後に医師に報告した。医師が確認をしに3階に上がったところ、マリアの描写はシューズの色や形・細かな状態にいたるまで正確であることが判明した。この「マリアとテニスシューズの例」は有名な体験例となった(後に立花隆が、テニスシューズはマリアのいる病室などからは全く見えなかったことを確認している)。

 体外離脱中には「天的な世界に入った」後に「何らかの境界線を感じ引き返した」とする証言も多い。また、知覚や感覚の拡大が起こる事も多く「一度に周りの風景を360度見ることが出来た」「生前に手足を切断された者が体験中は四肢を取り戻していた」といった報告をする者もいる。


 こうした対外離脱と解される現象それ自体、前章で述べたように意識が脳から独立した存在であることを示唆していますが、こちらの場合は、現実に起きたことと一致しているという裏付けがあることから、たんなる「幻視」として説明し去ることはできないわけです。

 むろん、だからといってその人が見た「あの世」の光景も全部客観的な実在だと主張することはできないでしょう。そちらに関しては今のところ検証のすべがないからです。しかし、そもそもこの「客観的実在」というのは何なのでしょう?

 僕自身は臨死体験はしていませんが、次のような奇妙な夢を見て、「この世界も実は一個の夢のようなものなのではないか?」と思ったことがあります。

 もう二十何年も前の話ですが、冬のある日、コタツに足を突っ込んだまま寝てしまったことがあります。しばらくして目を覚ますと、同じ体勢でいたのですが、どうもおかしいなと思うところがありました。部屋は同じに見えたが、カーテンの色や模様が異なっているのです。寝たままの姿勢でふと横を向くと、そこに目覚まし時計がある。四角い形で、蓋の一面に中の時計がくっついていて、開けてそれを立てることができるようになっている、そうすると横から見ると三角形になる、昔よくあったあの時計です。学生時代、たしかに僕はそれを所持していました。しかし、それはこわれてとうの昔に捨ててしまっていて、今の部屋にあるはずがない。何だかこれはおかしい、これは夢なのだと気づいたので、何か文字の書いてある紙片も散らばっていたので、それも手に取って見てみました。文字はたいそう美しくエレガントであるものの、読んでみると内容は支離滅裂です。僕はそのとき、カーテンといいその紙片の文字といい、人間の無意識というのは美的センスは十分で洗練されているが、知的な合理性とは無縁、またはそういうことに無頓着なのかもしれないと考えました。

 夢の中でこれは夢だと気づき、そう考えたので、これはいわゆる明晰夢の一つだということになりますが、次に僕はこれが夢であることを証明してやろうと思いました。夢なのだから、そう見えても実体はないはずだから、その時計を握ってみれば、それはぐにゃりと潰れるか消えるかしてしまうだろう。そんなふうに思って、意志力をふりしぼり、その時計に手を伸ばし、思いきり握ってみたのです。すると、驚いたことに輪郭どおりの硬質の感覚が手のひらにはっきりあった。僕は強いショックを受けて、そのまま意識を失いました。そしてしばらくたって目覚めると、今度はカーテンも元に戻っていて、今度はほんとに目が覚めたのがわかったのですが、手のひらにあの感触ははっきり残っていました。むろん、その時計はすでにそこにはなく、周囲に似たかたちのものもない。

 飛び抜けて嬉しいことがあったときなど、よく「自分の頬をつねる」と言います。つねって痛みがあれば、それは夢ではなく現実だという証明になると思ってそうするわけですが、僕は夢が夢であることを証明しようと同じ伝で時計をつかんだら、物理的な明確な感触があって逆に驚いてしまったのです。どうもそういうことでは「客観的実在」の証拠にはならないらしい。

 そもそもの話、客観的実在なるものがあるかどうかが疑わしいので、僕らのこの世界というのは五感を通じて伝えられた神経信号が脳によって処理された結果、それとして感知されるものです。歯医者さんに行って虫歯を抜いてもらったことがある人は、麻酔がまだ効いているのを忘れて、帰りに缶ジュースなど買って、飲もうとしてこぼしてしまった経験があるでしょう。顎の神経がマヒしているから勝手が全然違ったのです。

 また、量子物理学の知見によれば、少なくともミクロの領域では主観と客観は明確に区別できない。観察者と観察されるものは未分離で、観察が観察されるものに影響を及ぼしたり、現象が現象として確定するのは観察という意識による行為があってのことだなどと言われる(詳しくはその方面の本をお読み下さい)。僕らは自分の存在とは無関係に、自分の意識や心からは独立したものとしてこの周辺世界が存在すると思い、げんに朝起きたときは、寝る前と同じ世界が周囲にあるのだから、それは間違いないと思うのですが、この世界全体が集合的な夢の産物ではないと、どうして言えるのでしょう?

 夢の話をもう一つすると、夢ではしばしば予測不能のストーリーが展開されます。僕はしばらく前、夢の中である人物が言うことを聞いて驚き、憤慨したのですが、それは僕には決して考えつくこともできないような話で、僕の夢は僕の無意識の産物であるはずですが、少なくともユングの言う個人的無意識の領域からはそんなものは出てくるはずがないと思えるようなものでした。それはこの現実世界で起こること以上に、僕には意外なことで、一体あれはどこから出てきたのだろうと、目覚めてしばらく考え込んでしまったほどです。それは現実のこの世界で遭遇する見知らぬ人間の言うことと同じくらい、またはそれ以上に不可解で、「他者的」なものに思えたのです。その夢の世界そのものが僕の心からは独立したもので、そこに自分がたまたまいたという感じしかしなかった。つまり、この世界と同じかそれ以上に、それは「外在的」なものと感じられたのです。

 夢と現実との一番大きな違いは、明晰夢の場合には「これは夢」だという意識が働いているとはいえ、意識の明確さという点で全然違うことです。明晰夢の場合、一定程度のコントロールが夢にも及ぶことが知られていますが、この現実世界ではそのコントロールはもっと大きい。「この世はままならない」と言われるくらいで、それも高が知れているものだとはいえ、自由意志を人はもっていると考えられ、また感じられているのです。

 そして夢よりずっと、この現実世界は安定している。物質世界にはいまだ発見されていないものも含めて各種の科学的法則があり、それに従って生成していると考えられているのです。それは僕らの意識には明確に外在的なものと感じられる。だからそれは夢や幻覚などとは全く違う「客観的」な世界だとみなされるのです。

 しかし、前の章で僕らの通常の意識は解離性同一性障害の多数の人格がそれぞれ固有の意識や記憶、感情をもっているのと同じで、一つの宇宙的意識からすれば無数の乖離人格がもつ限定された意識のかけらのようなものにすぎないのではないかという考えがあることを紹介しましたが、この世界、宇宙全体がその根源的な一つの意識が紡ぎ出す巨大な夢に他ならないのではないかという見方も成立しうるのです。

 それは乖離した僕らの意識からすれば、外在的で、先の僕の夢体験のように、自分の意識や内面とは関わりのない自立した存在であるように思える。しかし、意識の座が自分の側からその宇宙意識の側にシフトすれば、様相はガラリと変わる。そのときこの世界はヒンズー教に言うリーラ、神の遊戯のようなものとして捉えられるかもしれません。この宇宙全体が「ブラフマンの夢」なのです。

 今の理論物理学には多元宇宙論というものがあって、それは僕の手に負えるようなものではありませんが、無数の宇宙が同時存在して、それは微妙に次元が異なるとか、またはそれぞれが気泡のようなもので隔てられていて、互いの存在を知らない可能性があるなどというのは面白い考えです。宇宙意識、ブラフマンの夢にも多様なヴァリエーションがあるということになり、それは僕らが夜見る夢が多種多様なのと似ています。

 臨死体験者が見る「あの世」の光景も、これと似た理由で多種多様なのかもしれない。それはその人の個人的な無意識と集合的無意識、さらには人間的なそれよりさらに根源的な意識が重なり合うところから紡ぎ出された「もう一つの現実」なのかもしれないのです。臨死体験者にはそれはこの現実世界と同じほどリアルに感じられる。それはこの世界が「客観的現実」だと考える人からすれば幻覚にすぎないと思えたとしても、実は「客観的現実」なるものは存在せず、この世界それ自体が宇宙的無意識が紡ぎ出す一つの夢に他ならないとすれば、これと較べてそちらはリアリティの度合いが低いとは言えなくなるのです。

 こういう見方が受け入れ難いのは、僕らの中の実体思考というものが非常に根強いものだからです。この世界は、周囲の事物や人は、明らかに僕らの意識とは独立して存在しているように見える。前に失くしたと思ったものが部屋のどこかから出てきて大喜びしたなどという経験は誰にでもあるでしょう。そのとき自分がそこにしまい忘れていたことを初めて思い出すので、それはあれからずっとそこに「客観的に」存在していたに違いないのです。僕らの意識にその存在が依存しているわけではない。これは自明に思われます。

 それは、しかし、あくまでも僕らの表層意識にとっては、です。無意識にはその記憶は保持されていて、それはそこになければならないものとされているから、そこを見たときそれは再発見されなければならないのです。そうでなければ意識の秩序は崩壊する。同様にこの宇宙の神羅万象は、僕らの意識、理解からすればその大部分が未知のものですが、それもまた僕らの限定された、先の言葉で言えば「乖離人格的意識」からすればそうだというだけで、根源的な意識からすればそうではない。仮に意識がa,b,c,d…というふうに層になって展開されているのだとすれば、dのレベルの意識にはcの意識の層にあるものは未知であり、cの意識にはbの層にあるものは未知なのです。しかし、それぞれの層にあるものはいわば「そうでなければならない」ものとして意識に保持されているのであり、それは静的、固定的なものではないとしても、必然的なものとして下位意識に“発見”、受容されるのです。その場合、dレベルの意識にはcの意識の層にあるものが「客観的実在」に、cの意識にはbの層にあるものが「客観的実在」のように見える。そしてaに辿り着いたときに初めて、それが自らが紡ぎ出している「夢」であることが自覚されるのです。

 日常現実でも、僕らが見ているものは異なります。いわゆる思い込みの激しい主観的な人の場合、狭い個人的な価値観や感情に支配されずに意識の明晰さと柔軟性を保持している人には受け入れがたいような偏った主張をすることが珍しくありません。上の伝でいえば、彼らはdの世界からさらに後退してしまって、eの世界にいるのです。それよりさらに悪化すれば、fの世界となり、いわゆる妄想患者のそれになってしまう。

 それらが同価値で、等しく尊重されねばならないとは僕は思いません。見ているものが人それぞれに違うと言っても、人間的意識の見地からして、eやfの人のそれは明らかに歪んだものであることはたしかでしょう。それは感情的混迷によって意識の明澄さが奪われた結果生じた歪んだ認識でしかないと解されるからです。この世界が一種の夢だと言うときでも、こうした理解は排除されない。寝ているときの夢と違って、この世界の夢は明瞭な意識(より次元の高い意識からすれば不明瞭なものかもしれないが)に映じたもので、通常の病的妄想とは違うからです。妄想に支配される人が大部分になれば、この世界は一個の悪夢と化してしまうでしょうが(それについては後に章を改めて論じることになるでしょう)。

 ここで述べてきた考えは、哲学では idealism、観念論と呼ばれるものの一つで、何ら目新しいものではありません。しかし、これはそうした書物に基づいて発想されたものではなく、自分で考えていったらそちらの方が理解の枠組みとしては道理にかなっているように思えるようになったということなのですが、いかがなものでしょう?



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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興味深い世論調査結果

2021.06.07(13:41) 838

 日本人の国民性がよく出てるなと思いました。

東京五輪「開催」50%、「中止」48%…読売世論調査

 これだけ見ると、「開催」に肯定的な人が増え、政府支持が増えたのかと思いますが、そうではないらしいので、

菅内閣の支持率、発足以降で最低の37%…読売世論調査

 ということで、元々読売は安倍政権時代、「日本版人民日報」と呼ばれていたくらいで、自公政権寄りの新聞なのですが、にもかかわらず、グラフにもある通り、政権支持率は菅政権発足以来「最低」を記録しているのです。最初の74%から37%に落ちたわけで、かっきり半分に“激減”したのです。

 ここでも興味深いのは、

 政党支持率は自民党が33%(前回37%)で、菅内閣発足以降で最低となった。立憲民主党は5%(同7%)で、無党派層は48%(同44%)だった。

 とあるところで、自民の支持層も減ったが、最大野党の立民もさらに支持を減らし、無党派層が48%に増えていることで、これは今の日本政治に完全に愛想をつかした人がいかに多いかを示しています。だから政権支持率も3割台を割り込まずに済んでいるのでしょう。もしも信頼できる野党がいれば、ガースーは支持率1割台に落ちて、次の選挙で政権交代が起きることは確実になっているでしょう。というのも、どこで話を聞いても、18歳で選挙権を得た高校生あたりでも、「あれはただのバカな頑固爺さん」と思っている人がほとんどで、いくら自民に人がいないと言っても、あそこまでひどいのはめったにないだろうと考える人が増えている印象だからです。反応は、失笑する人と、「ニュースであの顔を見るだけでも腹が立つ」と言う人に二分されている感じですが、他の反応がほとんどない。

 にもかかわらず、オリンピック開催支持が増えている(「『中止』を求める声は、前回(5月7~9日調査)の59%から11ポイント減った」)というのは、ガースーは国民がどんなに反対しようと頑なで、ワクチン接種も進むことだし、開催されるのはほぼ確実と見て、日本人特有の「仕方がない」思考が前面に出て、反対しても無意味だから、消極的賛成の現実追認に回る人が増えたということなのでしょう。だから、「海外から来る選手や関係者への感染対策は、十分だと「思わない」が63%と多数を占め」るというようなちぐはぐなことになっているのです。

 ついでに、ガースーの師であり、ブレーンの一人だとされるあの竹中平蔵が、例の内閣参与の高橋某のさらに上を行く次のような発言をしたと報道されています。

竹中平蔵氏 五輪は「やる」開催か中止議論自体が不毛「世論はしょっちゅう間違ってる」

「なんでやるか、やらないか、あんな議論するか、私は分からない。だって、オリンピックってのは、世界のイベントなんですよ。世界のイベントをたまたま日本でやることになっているわけで、日本の国内事情で、世界に『イベント(五輪)やめます』というのは、あってはいけないと思いますよ。世界に対して、『やる』と言った限りはやる責任があって」

 こういう、思考停止に認知症的な破綻だらけの屁理屈がついただけの「考え」は、実はガースーとその取り巻きの自民政治家たちのものでもあって、一部には「よく言った」と評価する向きもあるかもしれないので、民意との隔絶を示すそうした自称「現実的思考」で彼らは動いているということです。「いざ開催となれば、国民はテレビの前に釘付けになって、拍手喝采を送るだろう。国民というのはその程度のものであって、それが成功裏に終わると、かつて大反対していたことはケロッと忘れて、『やっぱりやってよかった』と思い、支持率も戻して、総選挙で大勝とはいかないまでも、絶対多数は維持することができ、今まで反対が多かった反動で、それをものとせず突き進んだ菅総理の『判断の正しさ』が光って、政権基盤はかえって盤石なものとなるだろう」と考えているのでしょう。

「世論は間違ってますよ。世論はしょっちゅう間違ってますから」という竹中の自信に満ちた態度の裏にある強固な愚民観は、ガースーも共通してもっているもので、だから彼らはその反民主的な態度を頑として崩さないのです。げんに、いくら反対しても開催されそうだとなると、開催支持もそれに応じて増えてきているではないか。こういうふうに、長い物には巻かれろ、強い側には従え、というのが主体性のない、日本国民の特性であって、いちいち「世論の動向」など気にしていたのでは、何もできないのだと、そう考えているのです。

 面白いのは竹中平蔵の相変わらずさで、彼が小泉政権のときやったことは大部分が今日的観点からも非難、批判の対象になっていて、ボロクソ言われているのですが、カエルの面にションベンみたいなもので、彼は時の審判というものを認めず、頑なに自分は正しかった、そして自分の言うことはつねに正しいであろうと思い込んでいるらしいことです。当時から彼は「アメリカ資本の使い走り」とみなされ、「マック竹中」などと揶揄されていたのですが、「この道しかない」という彼の信念はいつまでたっても揺るがないのです。

 竹中を師と仰ぐガースーもこれに学んでいるわけで、この愚民観とセットになった独特の唯我独尊観念(ほとんどサイコパス並と言ってよい)が今や自民党のレガシーとなっている。二階や麻生も全部これで、何のかんのと言っても自民は国会で絶対多数を誇っているのだから、愚かな国民は自分たちを支持するしかないのだと高を括っているのです。

 今回のオリンピック騒動も、結局は開催にまでもって行けば、国民はそれに沸いて、終わったとき一部のマスコミが書き立てていたような「感染爆発」にもならなかったということが示されれば、むしろ左派マスコミにとどめを刺す格好の機会を提供することになるだろう。尾身が「普通はない」なんて言っているが、それが無事終われば、学者連中も信頼に値しないことを示すことができる。彼らも以後は政権の言いなりになるだろう。ついでにあの学術会議も解散に追い込んでしまえばいい。だから、五輪を成功させることができさえすれば、一種の独裁体制を自分たちは確立することができるのだと、彼らは考えているのでしょう。もはや敵はいなくなるのです。

 むろん、それでこの日本社会がよくなることはない。格差はさらに拡大し、既得権益層の利益だけは守られ、「失われた三十年」は「失われた四十年」になる。愚民扱いされても怒ることを忘れた日本国民は貧困の度を深めるが、諦めが彼らを支配する。そうこうしているうちに、とどめを刺すかのように南海トラフ大地震か首都圏直下型地震が起き、大混乱に陥って、それから先は…というようなことになるのです。

 この国は一体何なのでしょう? 戦後76年目、日本は深く完全に、没落のループにはまり込んでしまったように見えます。僕は今回のオリンピック、開催されても一切見ないと思うので、おかげで自分の仕事ははかどりそうですが、元々このオリンピック、コロナ禍の下で世界的に見てもお祭りムードとはほど遠い中、さっさと中止を決断すれば済んだ(それは不可能でも何でもなかった)ものを、思考停止状態に陥ったガースーが頑なに固執したから、それで大問題になってしまったわけです。その前には、安倍の「二年延期の方がいいのではないか?」と言われたのに一年で押し切ったという愚かな判断があったことも災いしているのですが、馬鹿の二連発で事態をさらに悪化させたのです。政治が社会を動かすのではなく、かえって停滞と困窮に追い込み、そういう連中に税金から高い議員歳費を支払っている国というのは何なのでしょう? しかも、かつてないほどの愚民観をもち、民意無視を平気で決め込む政権と来ているのです。北朝鮮や中国を全然笑えない。ほんとに深刻な事態だと思います。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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UFOは実在するが、宇宙人はいない?

2021.06.06(10:32) 837

 次のAFP電の記事を読んで、思わず笑ってしまいました。

米UFO報告書、宇宙人の「証拠なし」と結論か 正体は依然不明

 最後に、「報告書は今月25日に米連邦議会に提出される見通し」とあって、これには「一般公開されない機密文書が添付される予定」だそうですが、あまり期待できないかもしれません。どうしてそこまで警戒するのか、多くの人々をパニックに陥れる恐れがあると過剰に心配しているのでなければ、知られるとまずい極秘の研究が軍内部の特殊な部署で行われていて、実際、墜落して回収された実物のUFOの機体を研究して、生き残った宇宙人乗組員の助力も仰ぎ、地球製のUFOも制作されているというような報告もあることから、そういうのが外に漏れてしまうことは是が非でも避けたい、というような事情もあるのかもしれません。また、エネルギー関係の大企業が、UFOが利用しているエネルギーのことが知られると大打撃を受けて不利益を被るというので、妨害工作をやっている(彼らと政府は癒着しているので)といった裏事情もあるのかもしれません。こう言えば、「それは為にする低俗な陰謀論の類だ」と嘲笑されるのは承知で書いているのですが。

 この方面に関する一般日本人の関心はいたって低く、この記事はヤフーのサイトにも出ているので、その下にコメントもたくさんついているのですが、僕はそれをざっと読んで、その程度の低さにはしんから驚きました。マックの『エイリアン・アブダクションの深層』訳出の際、最後の参考文献のところ、日本語訳が出ているものはそれも付けるべく、かなり詳しく調べたのですが、他の分野のものはたくさん見つかったのに、UFO関連の本の日本語訳は異様に少なく、いかに日本では紹介がなされてこなかったかにあらためて驚かされました。訳者あとがきでも触れた『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(スーザン・A・クランシー)なんて箸にも棒にもかからない出鱈目な三流の冷やかし本の訳は出ているのに、です。少し前に、UFO研究家として有名だったジャック・ヴァレの訳書を調べたとき、昔文庫で読んだことがあるハイネクとの共著の『UFOとは何か』の他一冊だけで、向こうの文献では言及されることの多い、Passport to Magonia や The Invisible College の訳すらなく(前者はある方が私家版で訳されているようですが一般には入手できない)、それはなぜなのだろうといくらかショックを受けたほどです(余技のようなものだった小説には一冊だけ訳がある)。

 話を戻して、僕が笑ったというのは、「過去20年間にあった120件以上の目撃情報に関する調査を経ても、飛行物体の特異な加速や方向転換、急降下の能力などの不可解な動きについては説明できなかった」し、「米国防総省の極秘技術の産物でないことは確認できた」が、「宇宙人の技術である証拠もないが、その可能性を完全に否定することもできない」というわけのわからない言い方になっていることです。「中国やロシアが極超音速技術を実験している可能性」もあるとしているのですが、そんな高度技術を彼らがもっているとすれば、アメリカはお話にならないほど時代遅れの航空技術しかもっていないことになり、「だから軍事費を増やせ」と要求する口実にはできるが、そこまで後れを取っているのなら今みたいに安閑とはしていられないはずで、説得力に乏しい。そもそも、中国やロシアがそんな技術を獲得したとすれば、それはアメリカ自身がやっている(認めないが、そうだと言われている)のと同じ、UFO技術のパクリによるものでしょう。

 合理的に考えるなら、驚くべき技術をもっていると思われる説明不能の飛翔体がプロのパイロット(民間航空機の機長によるそれも多く報告されている)に幾度となく目撃され、レーダーにもそれがしっかり把捉されたとすれば、それは目の錯覚の類ではないわけで、何らかの高度な知性体がそれを作ったと考える他なくなる。いや、そうではない可能性もあって、それは謎めいた宇宙の神秘の産物、あるいは電子機器にも明確な反応をひき起こすほど強烈な人間の共同幻想の産物なのだというのは、それこそオカルト的迷信と言うべきでしょう。UFOには色々な形態があるようですが、多くはメカニックな外観をもち、自然発生的にそんなものができたとは考えられない。僕も一度無音で飛行するUFOの編隊らしきものを目撃したことがありますが、それは鳥なんかとは全く違う外観のもので、互いに内部的な連携を取って動いているらしいところは渡り鳥の群れに似ていましたが、その形は明らかに人工的なものと見えた。ちなみに、僕は異常に目がいいと言われていて、最近は老眼で物が二重に見えたりするようになりましたが、当時は両眼共に2.0だったのです。ほんとは5.0ぐらいあるのではないかと皮肉を言われたこともあるぐらいで、遠くのものもかなり細かいところまで見えた。高度からしても、そんな巨大な鳥が存在するはずはなかったのです。

 僕はUFOや宇宙人が人類の「安全保障上の脅威」だなどとは考えていません。脅威は人間それ自体なので、彼らは人類のように攻撃的でも、アホでもない。大体、彼らの高度技術をもってすれば、人類を叩き潰すなんて赤子の手をひねるような容易なことでしょう。そのつもりがあれば、とうの昔にそうしているはずです。彼らはこのジコチューで攻撃的、かつ尊大な地上の一生物が科学技術を発達させて、環境破壊を激化させ、やたらあれこれ打ち上げて宇宙をゴミだらけにし、核兵器や生物兵器みたいなものまで自慢げに開発していることを懸念していて、それで「ええ加減にせんかい」と言いたいが、どうやって驚かせずにその愚かさを自覚させるか、苦慮しているのでしょう。それで小出しに姿を見せて、受け入れ態勢ができるのを待っている。そんな感じかなと思います。

 そもそもの話、「自分たちほど知的な生物はいない」という人類の自惚れほど馬鹿らしいものはありません。地上の他の生物と比較しても、ヒトほど愚かな生物はめったにいないでしょう。僕は小学生の頃、近所の犬や、自分の家で飼っている黒牛や猫の目をじっと見て、その瞳の奥に底知れぬ知恵と愛が隠されているように感じて、尊敬と信頼の念をもつと同時に、コンプレックスを感じました。川で石の間からその黒っぽい、受け口の長い顔を出すウナギののんびりした様子を見ているときですら、どうもこれは自分より上等な生きものだなという感じがいつもしたもので、おかしな思惑で心をいっぱいにした人間ほど不潔な醜い生物はいないと思ったものです。そんなふうに思ったこと、ありませんか? 基本的に、僕は今でも同じ感覚をもっています。これの一体どこが「万物の霊長」なんだか…。

 再び話を戻して、そういうわけで今度出る報告書もあまり期待できそうにありませんが、アメリカの軍関係者のこの方面の証言集には、前にも紹介したことがありますが、『ディスクロージャー』という本があります。本の帯に「直接証人69人のインタビューを収録」とありますが、実に驚くべき内容で、こういうのが皆思い込みやでっち上げの産物だとはとうてい思えない(個々の証言の信憑性は読者が判断するとしても)。こういうのは「宇宙人がいるかどうかわからない」なんて頼りないレベルの証言ではないので、関心のある方はぜひ一読をお勧めします。そしたら日本人の間でのこの方面の認知も少しは進むでしょう。編著者の元救急医、スティーブン・M・グリアも、僕と同じで、「危険なのは宇宙人ではなくて人間、とくに重要事項を隠蔽して秘密裏におかしなことを進めている連中と、この方面への無知を恥じることもなく、UFOや宇宙人なんているはずがないと頭ごなし決めつけて、それを嘲笑する俗衆の方だ」と考えているようです。アマゾンのURLをつけておくので、ごらんになって下さい。

『ディスクロージャー― 軍と政府の証人たちにより暴露された現代史における最大の秘密』(廣瀬保雄訳 ナチュラルスピリット 2017)



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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