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お盆にプラトンの『パイドン』を読む~霊魂不滅論について

2020.08.11(12:35) 745

 僕は山の上の方にあるアパートに住んでいるのですが、旧市街に出るのに一番近いルートを自転車で行く場合、U字状にいったん少し下って、山のてっぺんまでのぼり、そこから坂を一気に下ることになるのですが、下にお寺がある関係で、途中の坂の片側がお墓になっています。先日そこを通ると、色とりどりの献花で華やかになっていました。お盆が近いからでしょう。車が何台か停まって、お墓参りやお墓の手入れをする人たちの姿も見えた。

 今年はコロナ禍で帰省客が各地で激減しているようですが、帰省したときお墓参りをしない人は今でも稀でしょう。そういう行事は僕の親の代ぐらいで大方終わりかなという気もするのですが、お盆が来ると仏さんを迎え、最終日に送る習慣もまだ残っている。お盆になると、都会に出ていった子供たちが里帰りするだけでなく、霊たちもあの世から戻ってくるのです。そこで一族の死者と生者が一堂に会する。思えば、これは不思議な観念です。僕が子供の頃は、しかし、それは一定のリアリティをもっていた。とくに信心深いお年寄りたちにはそれはたんなる行事ではなく、リアルなものだったのです。お盆に殺生は忌むべきこととされたのも、そこに「聖なる空間」が成立することと関係したのでしょう。僕が子供の頃は地域の盆踊りなども盛大に行われましたが、それは宗教的な祝祭の雰囲気をまだたしかにもっていた。生きている者だけでなく、戻ってきた死者の霊たちもまた、それを楽しんでいたのです。

 洋の東西を問わず、霊魂不滅や生まれ変わりの思想が普遍的と言っていいほど広く見られたのは不思議なことです。それはほとんどすべての民族に共通すると言ってよい(伝統的なアフリカ文化にもそれが明確なかたちで存在することを、僕は今度の訳書に出てくる南アのシャーマン、クレド・ムトワの話を通じて知りました)。キリスト教神学はこれを否定し、仏教も、無我思想というかたちでこれを否定したが、上に見た習俗からもわかるように、民間のそれは仏教以後も消えなかった。中国でも日本でも、それは祖霊信仰を取り込むかたちで発展したのです。西洋でも、ピュタゴラスのそれが一番有名ですが、魂は生まれ変わりを通じて純化、成長するという思想はプラトンに受け継がれた。キリスト教でも、原始キリスト教の時代にはそれは否定されていなかったと見られるし、その復興を意図した中世の異端カタリ派はそれを主要な教義の柱としていたのです。

 先日僕は実に四十年ぶりぐらいにプラトンの『パイドン』を読み返しました(今もっている文庫は出たとき買っただけのもので、最初は全集の一冊で読んだ)。本屋に行って文庫の棚で新しい訳本が出ているのを見かけて、細かい訳の異同などにはとくに興味がなかったので、それを買うことはしなかったのですが、「魂の不死について」というサブタイトルが付けられているこの有名な対話篇のことを思い出して、読み返してみる気になったのです。

 古典というのは概して退屈なものです。それは多忙な現代人(何のために多忙になっているのかは疑問ですが)には冗長すぎると見える描写が続いたり、現代の視点から見るとあまり説得的とは言えないような論理展開がところどころ見られたりするからです。中にはドストエフスキーの小説や、ゲーテの『ファウスト』みたいにそういう冗漫さを全く感じさせないものもありますが、ゲーテなども他はかなり退屈なのです。こういうのは年齢的なものもあります。たとえば僕は二十代初め、デカルトの『方法序説』や『省察』(それぞれ野田又夫、三木清訳で読んだ)に熱中して、感嘆久しかったのですが、今はもうその世界に入っていくことができません。そういう本はたくさんあって、記憶があやふやになってきたので、それを補っておこうと、昔読んだ本を再読しようとしても、かつての情熱はすでになく、どうにもその中に入っていけない自分に気づくことが少なくありません。だから忘却あるのみで、こういうのが進んだその先に認知症が待ち構えているのかなという気がしないでもないのですが、ぶ厚い本を読み通す気力なども薄れてきた気がするのです。

 プラトンの対話篇なども、こう言うと専門の先生たちには叱られるかもしれませんが、概してかなり退屈なものです。そこで行われている「論証」なるものも、冗長すぎたり、あまり説得的ではない場合があるように思われるのです。古典で、権威あるものとされていて、有名な大学の先生なんかが訳すからほどほどには売れても、新刊で無名人が同じような内容のものを出せば、どの程度売れるかは疑問です。

 あらためて読むと、この『パイドン』にも退屈な部分が多い。しかし、これはやっぱり昔のギリシャ人でプラトンだな、と思うところはあちこちにあって、その全く現代風でないところが面白い。たとえば、次のような箇所です。

「人間にとって生きることより死ぬことの方がより善いということだけが、他のすべてのこととは違って、例外なしに無条件的であり、他のものごとの場合のように、ある時ある人には、という条件がけっして付かない。…」(岩田靖夫訳 岩波文庫 p.23)

 誰の言葉だったか忘れましたが、「存在しないことは存在することに優る」という言葉を、僕はあらためて思い出したのですが、それも古代ギリシャかローマの誰かの言葉で、こういうのは現代人の感覚とは全く違って、むしろ正反対なのです。しかし、ソクラテスとその周辺の知的な人々にとって、「生きることより死ぬことの方がより善い」というのは議論の余地のない真実とされていたのだとわかるのです。

 その上で、「自殺はなぜよくないか」ということが語られる。人の運命はこの世界を宰領する神々(この場合はゼウスを主神とするギリシャの神々)の意思によるので、人は神々の所有物のようなものであるから、神々の意図に反して勝手に自殺したりするのは許されないことだ、という説明になるのです。

 しかし、死が生より望ましいというのはなぜなのか? それは「第一に、この世を支配する神々とは別の賢くて善い神々のもとにこれから行くだろうということ、第二に、この世の人々よりはより優れた死んだ人々のもとにも行くだろうということ」(p.26)が、理由として挙げられるのです。

『パイドン』は「霊魂不滅の論証」を主眼としているので、こういうのは前置きにすぎませんが、「死は恐ろしいもので、生の方がいいに決まっている」と思う現代人には、このあたりの感性の違いに驚かされるでしょう。また、この世界が「神々」が支配しているところとは思えないし、死んだらそれより善い神々が歓待してくれる、とはなおさら思えない。「より優れた死んだ人々」がそこにいるというのも疑わしい話で、死ねば人間はそれっきりだと、唯物論科学の影響で、多くの人々はそう考えるように慣らされているのです。

 近代以降の科学は物質現象を扱うものなので、物質ではない魂や霊はその研究対象には入らない。だから「科学では魂や霊が存在するのかしないのかはわからないし、肉体の死後存続するものがあるのかないのかもわからない」というのが真に科学的な考えと言うべきですが、科学者の多くはたぶんそれが「非科学的」だという自覚はないのでしょうが、「心は脳の電気的・化学的反応の産物にすぎず、当然それは肉体に依存しているのだから、肉体の死後残るものなど何もない」という断定に傾きがちです。つまり、魂だの霊だのは、「脳内幻想」の一つにすぎない、というわけです。昔は科学がなかったから、それが実在すると思い込んでいたにすぎないのだと。

 しかし、かなり詳細な前世記憶をもつ人がいる(とくに子供に多い)のはなぜなのか? 調べてみるとそれに詳細な点まで合致する人物の記録が残っていて、その子供がその情報を事前に知り得た可能性はかぎりなくゼロに近い、というケースがいくつもあって、その前世人格は有名人でも何でもなかったし、そんなことを言って子供が得をするということも全くありそうもなかったりするのです。「ボクが前に大きかったとき…」なんて幼児が突然話し出したりすると、親は気が狂ったのではないかと心配するのがふつうです。こういう場合、一番合理的な説明は、魂でも霊でも、その呼称はどうあれ、記憶を担うある実体があって、それは肉体の死後も消滅せず、いったんあの世、プラトンの用語では「ハデス(冥府)」に行った後、再び戻って別に肉体の中に入るというものですが、大方の人は「そんな馬鹿な話があるはずはない」と薄笑いを浮かべて言うのです。

 これは、大方の人にはそんな記憶が何もないのも関係します。昔はこの世に戻ってくるとき、「忘れ川」の水を飲んでくるから思い出せないのだ、と説明されましたが、おそらく脳の中にはそういうものが出てこないようにする抑止機能が備わっているのでしょう(どうして脳にそういう機能があるのかについては、『リターン・トゥ・ライフ』の訳者あとがきで、ベルクソンを援用しながらかんたんに説明しました)。修行や瞑想でそのストッパーが外れることもあって、そうするとこの能力を獲得する。仏教にはいわゆる「宿命通」と呼ばれるものがあって、デジタル大辞林には「自他の過去の出来事や生活をすべて知ることのできる超人的能力」とありますが、この「過去の出来事や生活」というのは生まれて以後のことではなく、前世や中間生のそれを指すのです。前世記憶をもつ子供の場合には、それが通常の自然死ではなかったことが多く、死亡時のインパクトが強烈だった場合、その脳の抑止機能では十分な排除ができないから出てくるのではないかと思いますが、一部に霊能者的素質をもつ子もいることから、そういう子の場合はその種の記憶の想起も容易なのかもしれません(ちなみに悪霊も通常では知り得ない相手の秘密を見通す力を示すことがあるので、その種の能力だけでそれを優れたものと思い込むのは危険だと付け加えておくべきでしょう)。

 ややこしいのはインチキな前世話もたくさんあることで、詐欺師と合体した自称霊能者の中にはそういうのを信者支配の道具の一つとして悪用する人もいるようですが、信憑性の高い話もあるので、そうすると「魂の死後存続」はその最も合理的な説明になるのです。

 これよりもっと不可解な話は、「魂の星間飛行」の話で、イギリスの精神科医アーサー・ガーダムは Obsession(強迫観念)という本で、「宇宙空間を通って下降し、物質の中に入ったプシュケ(魂)の記憶」をもつ子供の話に言及しています。それがその子の場合、六歳から十一歳までの間、夢のかたちで繰り返し蘇ったのです。

 彼の夢というのは、星々や諸惑星の間を通って、宇宙を落下しているというものだった。彼は周辺に環をもつ土星を通りすぎて下降した。私は優しい口調で、六歳のときに君が土星とその環を知っていたとはちょっと信じがたいね、と言った。私は彼が本当のことを言っていると確信していたが、疑っているとほのめかしてみることは必要だと感じたのである。少年はかなり憤然とした口調でこう答えた。「もちろん、ぼくは六歳のときはそれが土星とその環だとは知りませんでした。一週間か二週間前、学校から帰ったとき、たまたまテレビにそれが映っていたのです。それは天文学の番組で、ぼくにはその星に見覚えがあって、テレビの講師の先生がそれは土星とその環だと言ったんです。そのかたちは、僕が夢で見ていたものと全く同じでした」(原書p.44)

 この話が不思議なのは、魂はむろん通常の物体ではなく、肉体がもつ感覚器官ももっていないはずなのに、身体的なものとして捉えられていることです。だから下降している際に星や惑星も見える。僕がこの話を思い出したのは、自分の息子にも同じような記憶があるらしいことを発見して驚いたときです。それはガーダムの『偉大なる異端』の訳者あとがきにも書き含めましたが、彼は幼児の頃、星空を見上げて「きれいなお星さまねえ」と感傷に耽っている母親に向かって、あれは「ほんとは大きくて丸い」のだと言ったのです。驚いた母親が「何であんたはそんなこと知ってるの?」と聞くと、そっけない口調で「来るとき見たから」と答えた。「来るとき」というのは、「この世界に来るとき」で、彼は宇宙空間を通り抜けて猛スピードで降下し、「気がついたら、お母さんのおなかの中にポーンと入っていた」と説明したのです。僕は後でその話を聞いたとき、興味を覚えて、「おなかの中にいるときはどんな感じだった?」とたずねました。「うすぐらい」というのが彼の答でした(この話で注意すべきことは、母親はガーダムのことなど何も知らなかったということです)。

 彼には「来る前の世界」についての記憶もあったらしく、母親には何度かそういう話をしたようですが、それがこの世界とはいくつかの点で「全然違う」ことを不思議に思ったようです(重力が稀薄だったことや、「からだの大きさがみんなマチマチで全く違っていた」ことなど)。彼が他のことはともかく、僕の息子で幸いだったのは、父親がそういう方面に理解があったために、母親もそれが病的な妄想の類かもしれないと心配することはなくてすんだことです。それで医者に連れて行かれて、その医者が近代唯物論医学の信奉者で、「これは統合失調症の初期症状である」などと診断し、強い薬など処方されると、自己肯定感をズタズタにされた上に、有害無益な薬理作用で、本物の病人にされてしまったことでしょう。

 こういう話が示唆するのは、プラトンの『パイドン』には、終わりの方に、ハデスにある「大地」についてのかなり詳細な言い伝えの話が出てくるのですが、それが事実そのとおりかどうかは大いに疑わしいとしても、そこに何かリアルな世界があるのは確からしく思われるので、上の「魂の星間飛行」の話からすると、それはこの同じ宇宙空間のどこかにあるか、または次元の違うところにあって、誕生の際、魂は遠くから、または次元をまたいで飛んでくるので、宇宙を通ってやってくる記憶が残るのではないかということです。

 そんな話は全く信じられないと言う人が多いでしょうが、僕はリアリストなので、こういうのは信じるとか信じないとかいう話ではなく、現実にそういうことがあるかないかで、UFOやエイリアンに関しても、「こういう体験をしたという人がいるのですが、どんなものでしょう?」というかたちで紹介しているだけなのです。それが病的な妄想かどうかは、僕は人を見て判断します。それは一種の直観(直観というのはつねに全体的なものです)によるのですが、妄想ではないと思えば、それが既成の信念や知識の体系にうまくはまらなくても虚偽と決めつけることはしない。それは幼稚なことだと思われるからです。世界観や人間観はつねに修正されるべきものとしてそこにある。プラトンが言うように、「思考がもっとも見事に働くときは…魂が、肉体に別れを告げて、できるだけ自分自身になり、可能なかぎり肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するとき」、つまり死んでからあの世の、それもより高い領域に達したときに限られるのではないかと思われるからです。

 この点で僕はプラトン主義者なのですが、にもかかわらず、『パイドン』の「霊魂不滅の論証」は不十分なように思われるので、とくに最後の「イデア論による証明」なるものは釈然としないものを残します。順序として、まずケベスの反論というものを見てみましょう。それはソクラテス(プラトン)によってこう整理されています。

「また、魂がなにか強くて神的なものであり、われわれが人間になる以前にも存在していた、ということを証明しても、そういうことはすべて魂の不死を証明しているのではなく、ただ、魂が非常に長命であり、測り知れないほどの時間かつてどこかに存在していたのであり、なにか多くのことを認識したり、行為したりしたのだ、ということを証明しているにすぎない、と君は言うのだ。…」(p.113)

 これは十分リーズナブルな疑いです。ここで述べてきた議論でも、前世やあの世の記憶をもつ人がいるということは、魂が今の肉体に宿る以前にも存在していて、肉体を超えて生き延びるという証拠にはなり得ても、それが永遠に存在するとはかぎらない、ということになるでしょう。魂が何度も生まれ変わりを重ねるうちに疲れてくるというのはありそうな話で、僕もよく自分の魂はこの肉体に宿ることにいい加減ウンザリしているのではないかと思うことがあります。

 しかし、プラトンによれば、決してそうではないのです。それはこんな具合です。「三」のイデアがある事物を占拠すると、その事物は必然的に三であるばかりでなく、奇数でもある。そうするとこの「奇数性」ゆえに、偶数のイデアは決して近づかない。

 だから何なんですかと言いたくなりますが、かなり退屈しながら先を読み進むと、「身体のうちに何が生じるとそれは生きたものになるのか?」という問いかけに、「魂が生じると、です」と答えさせ、「では、魂はなんであれ何かを占拠すると、そのものに常に生をもたらすものとしてやってくるのだね」と念押しし、相手がそれに同意すると、「生と反対のものが何かあるだろうか?」と問いかけて、「死です」と答えさせる。すると、「先の議論から同意されたように、魂は、自分が常にもたらすもの(=生)とは反対のもの(=死)を決して受け入れないのではないか?」と問い重ねて、「そうです」と言わせる。

 つまり、三は奇数で、決して偶数にはならないのと同じで、常に「生をもたらすもの」である魂も、その性質とは合致しない「死」を受け入れることは決してない、従ってそれは不死不滅である、という結論になるのです。これで「証明は完了した」とされる。

 ナットクされましたか? わかったような、わからないような…。大体、「数のイデア」なんてものが何で持ち出されるのか、他にもっと適切な例はなかったのかと注文をつけたくなりますが、この論法で行くと、あらゆる生物は、アメーバ―でも、アザミでも、すべては魂をもつことになり、通常魂として観念されているものとはだいぶ性質の違うものになってしまいそうです。

 もう一つ、これは別に僕のオリジナルではないのですが、その魂自身が何かに生かされていると考えれば、話はまた違ってきます。個別の魂は全的、根源的なあるものから派生したもので、その根源的なものから自分が宿るものに生を付与する力を貸し与えられていると解釈することも可能だからです。この場合、魂は二次的な存在で、根源的なものではないから、いずれはその根源的なものに吸収されて消滅する。それならそれは不滅ではないことになります。

 プラトンは教育者でもあったので、死後魂はハデスで生前の行いに見合った待遇を受けるという話をして、それを道徳的教訓につなげたかったのかもしれません。次の文などにはその配慮がよく見てとれる気がします。

「もしも魂が不死であるなら、われわれが生と呼んでいるこの時間のためばかりでなく、未来永劫のために、魂の世話をしなければならないのである。そして、もしもわれわれが魂をないがしろにするならば、その危険が恐るべきものであることに、今や思い至るであろう。なぜなら、もしも死がすべてのものからの解放であったならば、悪人たちにとっては、死ねば肉体から解放されると同時に、魂もろとも自分自身の悪からも解放されるのだから、それは幸運な儲けものであっただろう。しかし、今や魂が不死であることが明らかな以上、魂にとっては、できるだけ善く、また賢くなる以外には、悪からの他のいかなる逃亡の道も、また自分自身の救済もありえないだろう。というのは、魂がハデスに赴くにあたってたずさえて行くものは、ただ教養と自分で養った性格だけであり、これらのものこそが、死出の旅路の始めからすぐに死者をもっとも益し、あるいは害すると言われているものなのである」(p.153)

 そう述べた後、ソクラテスはある「言い伝え」について語ります。

「人が死ぬと、生きている間から各人の運命を司るべく割り当てられていたダイモンが各人をある場所へ連れてゆこうとする。そこに集められた者たちは裁きを受けてから、かれらをこの世からあの世へと連れて行くべき使命を与えられたかの導き手とともに、ハデスへと旅しなければならない。かれらはハデスで蒙るべきことを蒙り、定められた期間留まると、別の導き手が再びかれらをこの世に連れ戻すのだ。その期間は何度も繰り返される永い周期をなしている」(p.154)

 要するに、この世の法や道徳は欺けても、死後その魂はしかるべき報いを受けるということなので、「逃げ切り」はできないのだというのが、この話の趣旨です。逆に、ソクラテスのように一心に「魂の世話」に勤しんだ人間は――「アテナイという鈍牛にたかった虻」と自己規定していた彼は、裁判の弁論の際、アテナイの人々を「愚かな物欲や権力欲、名声にかまけて魂をないがしろにしている」と逆批判して、怒りを買ったために死刑判決を受けたのですが――それに見合ったよい世界、エリアに行ける。いかにも明快で、教訓的ですが、もしもそのとおりなら、相当恐ろしい話です。いや、自分は人に後ろ指を指されるような真似は一度もしたことがないという人も、その隠れた利己性や愛のない底意地の悪さによってハデスの一番ひどいところに追いやられるかもしれないので、そこらへんはうわべの「この世基準」には拠らないのです。

 先に話に出たガーダムには、最晩年の作品の一つに Paradise Found という著作があって、それは原書でも絶版になって久しいのですが、それには彼が霊たちから直接聞いた話として、もっと恐ろしい話が語られています。彼もあの世をハデスと呼んでいますが、そこでは善と悪との熾烈な戦いが行われていて、その中のとくに邪悪な霊はこの世界に強く執着し、影響を及ぼし続けているというのです。彼は「悪のトランスミッター」という表現を使っていますが、この世にいるハートのない邪悪な人間は無自覚なままその悪のエネルギーの通路となって、善良な人間を弱らせ、攻撃したり、この世界の「悪による汚染」を激化させたりする。ハデスにいる善霊もむろん、この世界に影響を及ぼし、その悪へのディフェンスを提供しようとするが、今の世界では悪が優勢で、いずれ暗黒時代がやってくるだろうと警告していました。これは1980年に出た本なので、それからちょうど40年たっているわけです。プラトンの説明では、ハデスはこの世とは別の領域に存在し、管理される世界のような描写になっていますが、ガーダムによればそれはどのようにしてかつながり、ハデスのありようはこの世界のありように影響を及ぼしているのです。逆にこの世界のありようがハデスでの闘争にも影響するとも読めるので、こちらの話は一段とこわいのです。

 いずれにせよ、プラトンもガーダムも、ハデスが実在するということ自体には何の疑いも示していないので、それが実際にどういうものであるかはともかく、僕もそれはあるのだろうなと思っています。つまり、人間は死ねばそれでおしまいというような、そういう単純な話ではないということです。

 個別の魂が不滅かどうかは、先にも書いたように疑わしいと僕は思っていますが、その大本にある根源的なものは不滅で、西洋のスピリチュアリズムではこれを大文字の Spirit で表わすことが多い(ガーダムが非個人的な「不可分の意識」と呼び、盤珪禅師が「不生の仏心」と呼んだものも僕の理解では同じ)のですが、魂だのプシュケだのは、そこから伸びたニューロンのようなものだと僕は理解しています。それは死後も存続するし、最終的にはそのSpirit の中に帰融するとしても、果たすべき役割があって、それが済むまではあの世とこの世の行き来を繰り返すのでしょう。むろん、それは通常のパーソナリティではない。自我人格は肉体への意識の自己同一化が作り出すものなので、肉体の死と共に消え去る。それが重要性をもつとすれば、それが魂に刻印を残すという意味ででしょう。『リターン・トゥ・ライフ』にオリビアという少女が5歳9か月のとき使ったという面白い表現が出てきます。彼女は自分が前世でデイジー・ロビンソンという名の女性で、30歳で死んだのだと語っていたのですが、母親がオリビアに、あなたはデイジーがもっていたのと同じ人格をもっているのかもしれないと言うと、彼女はそれを否定して、人格(パーソナリティ)は消えてしまったが、人(パーソン)は残っているのだと答えた。おそらくこの幼い少女はまだ語彙に乏しく、人格とは別の実体を言い表わそうとして、パーソンという言葉しか思いつかなかったのでしょう。しかし、「人格(パーソナリティ)」というものを明確に否定したのは興味深いことです。

 長くなったのでこれくらいにしますが、僕のこの文は『パイドン』の要所と自分が思った部分について感じたことを書いただけのものなので、色々な読み方ができる面白い本だと思います。一度も読んだことがないという人はお盆休みにでもお読みになったらいかがでしょう。ハデスへの門が開かれるとされる今は、時期的にもふさわしい。細かい理屈が面倒になってきた僕のような人間には煩わしく感じられる箇所も、若い人には面白く読めるかもしれません。「哲学の歴史はプラトンのフット・ノート(脚注)である」と言ったのはイギリスの哲学者ホワイトヘッドですが、西洋思想の理解にはプラトンは不可欠です。冒頭見たような彼の顕著な「反時代性」も、現代人にはいい薬になるかもしれません。


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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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原爆についての記事二本

2020.08.09(16:41) 744

 周知の歴史的事実ですが、1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。そしてその三日後の9日、つまり75年前の今日ですが、長崎に二発目の原爆を落としました。

 その前の7月26日に、日本政府はいわゆるポツダム宣言により無条件降伏を勧告されており、政府内では戦争継続はもはや困難という見方が広がっていたために、それとなく国民に状況を知らせる意図もあって、新聞にそれをそのまま掲載させることにしたそうですが、軍部が明確な態度表明をすべきだと主張したため、政府はやむなく「黙殺」すると発表し、それはignoreと翻訳されたので、アメリカはこれをreject(拒否)と受け取って、当時のアメリカ大統領トルーマンに原爆投下を決意させるにいたったのだと伝えられています。

 そして、長崎への原爆投下から5日後の8月14日、いわゆる御前会議で「天皇の聖断」が下され、日本政府はポツダム宣言を受諾することになり、翌日あの「玉音放送」で国民は日本の降伏を知らされることになったのです。久しい以前に「勝ち目ゼロ」なのはわかっており、その前年1944年から「玉砕」が続いていたので、無用な大量死を日本国民は軍部によって強いられていたわけですが、原爆を落とされるまで軍部の頑なな「現実認識の拒絶」は続いたことになります。44年末からは空襲が激化して、民間人の死者も大量に出ていた。ことに45年3月10日の夜間に行われた東京大空襲では、一夜にして10万人以上の死者が出たことで有名です。広島・長崎の原爆による死者数はいまだに正確なところは不明ですが、累計で50万人を超えるとされ、ウィキペディアには「当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡」、「当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡」したとされています。ちなみに、太平洋戦争での軍人・軍属の死者数は230万とされており、そのうち半数以上が直接の戦闘による死ではなく、餓死だったとされています。古来、「兵站(へいたん)の確保」は戦争の基本中の基本でしたが、そんなものはどこかに消し飛んで、戦略もクソもなくなっていたのです(僕の伯父の一人も45年になってから南方に送られ、その死因は餓死だったと子供のとき聞かされました)。妄執に取りつかれ、自己コントロール能力を完全に失ったお粗末な国の戦争実態がよく出た話です。「一億玉砕」スローガンに端的に表われているように、国民が絶滅しても、「国体」は守らなければならないものと決め込んでいたのです。カルト宗教の“最狂”のものと言ってよい。

 さて、記事は次の二本です。

長崎に原爆が投下された1945年8月9日は、こんな日だった。写真や記録を振り返る【終戦から75年】

米国は第3の原爆投下を計画していた

 どちらも読む者を戦慄させるに十分な記事で、とくに上のハフポストの記事に添えられた写真は原爆のすさまじさをどんな説明よりも雄弁に物語っていますが、これらはいずれも75年前の「現実」だったのです。下のナショジオの記事によれば、次の候補地は東京だったそうなので、愚劣の百乗みたいな軍部の「本土決戦論」がなおも強硬に主張され、昭和天皇が沈黙を続けていれば、それはおそらく現実のものとなっていたのでしょう。

 日本ではお盆は祖先や死者たちの霊たちが戻ってくるときです。そして8月15日、お盆が明けると彼らは再び冥府に帰る。1945年のお盆、霊たちの嘆きはこの上なく大きなものだった。日本の天皇は元々シャーマンで、霊たちと交流できる存在でした。「迷信」とわらわれるのを承知で言えば、だから昭和天皇は、この世界に戻ってきた彼らの痛切な嘆きと訴えをじかに感じ取り、激しいプレッシャーを押し返して、「聖断」を下すことができたのだとも解釈できるでしょう。その決断が8月14日に下され、玉音放送が翌日、お盆の最終日に行なわれたことは、たんなる偶然ではなかったのかもしれません。

 あれから75年たち、幸い戦争で原爆が投下されることはなかった。しかし、現在、核兵器保有国は9か国(アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリス、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮)にのぼり、総計で13,400発、さらにコンピューターとミサイル技術の発達により、ボタン一つで目標地点を爆撃することが可能になったのです(個々の爆弾の威力もヒロシマ・ナガサキ原爆の比ではない)。原発という、事故や通常兵器による攻撃でたやすく大惨事をひき起こしうる発電施設の数は世界で443基とされる。いずれも第二次世界大戦がはじまった当時は地球上に存在しなかったものです。この違いは決定的なので、全面戦争になれば人類のみならず、世界はジ・エンドで、残されたものは放射能で汚染された大地と海だけになる。

 これはたんなる現実認識にすぎませんが、あらためて恐ろしい世界になってるなと思います。人間は慣れる生きものなので、さほどの緊張感なく僕らは生きていられるわけですが、事実上使えない兵器(使ったら終わり)で武装して、それが「平和につながる」などと言うのは自然の摂理を完全に逸脱した論理で、それ自体が正気の沙汰ではありません。なのに自分は正気だと思えるというのは、宇宙中を探してもヒトという生物以外には存在しないでしょう。精神に異常をきたす人が増えている根本の原因は、そのあたりにあるのかもしれません。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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内憂外患の中でひたすら無能化する日本政治

2020.08.05(14:35) 743

 この頃だんだん政治方面のことを考えるのが億劫になってきました。問題がありすぎて、昔、小説家で詩人の富士正晴氏に『どうなとなれ』というタイトルの本がありましたが、あれに近い心境になってきたのです。このままではせいぜいもってあと二、三十年でしょう。「どうなとなれ」というのは、富士さんは徳島県の出身なので、あちらの方言なのかもしれませんが、「どうとでもなれ、ワシはもう知らんわ」というニュアンスの言葉です。

 今の日本はかなり異様な国に取り囲まれています。歴史をファンタジーと一緒くたにして、反日親北イデオロギー路線を驀進する文在寅の韓国に、そのお隣の核武装を進める最貧独裁国家、金正恩の北朝鮮、そしてあの「中国夢」(かつての「世界帝国」としての権勢と栄光、版図を取り戻すという)を掲げる「終身国家主席」習近平の中国です。中国人は実際的、実利的で、自己主張は強いが、無理筋は無理筋とよく弁えていて、落としどころをちゃんと心得ているので、ナルシシスティックな自画像と独善的なファンタジーに自己同一化してモンスター・クレイマーになりがちな韓国よりはずっとマシな交渉ができる国だと思われていましたが、最近は様子が違う。やることなすこと、韓国と北朝鮮を合わせたような独りよがりのゴリ押しが目立つのです。しかも、それを世界相手にやっている。習近平は傍迷惑な「世界制覇」妄想に“本気で”とりつかれているように見えます。自民党の二階のじさまなどは師匠の田中角栄時代で時計の針が止まっているので、そこらへんの変化がよく呑み込めていないのでしょう。

 これを要するに、「正気の国」が一つもないわけです。安倍政権はタカ派だったはずですが、いっときはモコモコ模型まで作って無駄に「北朝鮮の脅威」を煽りまくっていた(あのJアラートは笑えた)のに、今は支離滅裂なコロナ対応を重ねるだけで、それどころではないらしく、見た目にも「お疲れ」なのがわかります。マスクをあの給食係みたいな可愛いマスクから大型のものに変えた(しかし、こだわりの布製!)そうですが、三月時点では全く必要性のなかった学校全国一斉休校の要請までして、おかげで生徒の入れ替わりの時期を迎えていた塾商売なんかは大打撃を受けたのですが、感染が再び拡大するさなか、Go To トラベルキャンペーン(それも手続きがやたら煩瑣だという)なんか前倒しで始めて、そこだけ除外しても他が多くなっているのだから意味はないのに東京だけ除外して、しかし、お盆休みの帰省は、田舎の年寄りにコロナをうつす危険が高いから自粛するのが望ましい、みたいなことを言う。観光客が地元の人にうつして、田舎は年寄りが多いのだから、それが家族感染へとつながれば結局同じではないかと思いますが、何が何だか自分でも訳がわからなくなっているというのが実情でしょう。

 それで、最新の世論調査では、これはJNNのものですが、「安倍内閣の支持率は35.4%と最低を記録し」、不支持は62.2%で、「不支持率が6割を超えたのも初めて」なのだそうです。この支持もそのうち20%ほどは、「他に適当なのがいないから」という消極的支持にすぎず、6割以上が「もうやめてくれ」と言っているわけです。存在感ゼロの野党に助けられていることも大きいので、それでこれとはもはや完全な末期症状と言ってよい。次はヤフーのニュースサイトのものです。

JNN世論調査、内閣支持率35.4%で最低を記録

「(Go To トラベル)キャンペーンを使いたいと思うかについては、『使いたい』は19%にとどまり、『使いたいと思わない』が77%に達しました」というのも、痛すぎる結果です。アベノマスク、星野源コラボ動画に続く、KY対応第三弾の惨状です。

 最後の、

 敵からミサイルなどによる攻撃を受ける前に敵の基地を攻撃する「敵基地攻撃能力」について、「保有すべきだ」と「保有すべきでない」との声は、それぞれ43%、41%と拮抗しています

 というのは、どういう文脈でこれを質問したのか知りませんが、おかしな国にばかり取り囲まれているせいで、国民の「国防意識」はそれなりに高まっているということなのでしょう。北朝鮮の核ミサイルだけではない、中国は尖閣周辺で露骨な示威行動を激化させていて、昔みたいに領有権論争はいったん棚上げなんて話ではなく、「明確なわが国の領土であり、問題は存在しない(従って、話し合いの余地などはない)」と言い切るまでになっているのです(お忘れの方が多いようですが、この件で中国に格好の口実を与えてしまうきっかけを作ったのは、右翼暴走老人、石原慎太郎の東京都知事時代の愚行でした)。南シナ海でやってることと同じ。香港の国家安全保障法強制施行に続いて、台湾にも高圧的な姿勢を取り、今の中国なら軍事行動もありうるのではないかと見られていますが、そうなって批判されても、「内政干渉だ!」と言うのが目に見えています。

 スパイ行為の度が過ぎて怒らせてしまったアメリカやオーストラリアだけでなく、英独も揃って中国への強い不信を表明していますが、すっかり“オレ様化”した中国は意に介する様子がなく、この五月にはフランスに対して、台湾に武器を売るなと「警告」するなどして、「オレ様の言うことが聞けんのか!」的な態度全開なのです。WHOのテドロス事務局長の母国、エチオピアは中国の援助にすがっていて、だから習近平の小間使いみたいなああいう態度になって、「WHOは中国の下部機関にすぎない」というので、国際機関としての信用を一気に失ったのですが、そういうふうにビンボーな国をたくさん手なずけているから、国の数だけでいえば「中国支持」は多く、斜陽の西洋先進国が何を言おうと、「おまえらもウチの市場がなければやっていけんだろうが」と居直って無事だと思っているのです。

 それで、今は北朝鮮以上に習近平の中国は危険だとみなされるようになった。国内では情報が徹底的に統制されていて、この前などは自国の豪雨による大洪水(他国では三峡ダム決壊のおそれがあると盛んに報じられた)のニュースより、日本の九州豪雨についてのニュースの方が多かったなんて笑い話みたいな記事もありましたが、自国民を怒らせかねないような不都合な情報は出ない(死者数も被災者数も、当局の発表よりはるかに多いはず)ので、中国人民が知っているのは戦時中の日本の「大本営発表」並の情報だけで、世界的に孤立を深めていることも、その本当の理由も、彼らは知らないのでしょう。あのウイグル人弾圧の非人間的な所業も、むろん一般には全く知らされていないのです。それで、あれやこれやが重なって世界の主だった国から総スカンを食うようになると、中国共産党流「愛国教育」も徹底しているようだし、「不当な非難に対しては断固として戦え!」という声が国民の間から澎湃(ほうはい)として起こって、サイコパスの毛沢東並に個人崇拝されたいと思っている習近平は、それに乗ってついに戦争へと踏み出す。それは可能性としては否定できないと、僕は思います。金正恩より習近平の方がこわい。

 あのヒトラーも「平和」だの「融和」だの、さんざ心にもない嘘を並べていたので、第一次世界大戦で「戦争疲れ」していた西洋各国首脳はそれを信じたかったのですが、裏で戦争準備を着々と進めており、ヴェルサイユ条約を破ってラインラントに進駐した。しかし、その時点ではフランスもイギリスも動かなかった。これが決定的なミスとなって、ヒトラーは「行ける!」と踏んだのです。習近平による「ラインラント進駐」は現時点ですでに複数あります(香港の「一国二制度」の約束破棄、南沙諸島の勝手な要塞化、尖閣諸島での暴挙など)が、彼はそれで緊張しつつ様子を見ているので、彼の「領土的野心」を甘く見ていると、世界はいずれ痛い目に遭うかもしれません。世界が「コロナ疲れ」している今はチャンスだと、彼が思っていないというのは希望的観測にすぎないでしょう。ヒトラーは死んだが、彼についていた悪霊は死んではいない。それは新たな「器」を見つけたのかもしれないのです。その全体主義的な国家システム、内部矛盾を大量にはらんだGDP世界第二位の成り上がり経済大国、彼の人物についての情報は乏しいが、多分に自己欺瞞的な独善的パーソナリティ、いずれも「悪霊が憑依する器」としては申し分なしなのです。

 むろん、だから中国相手に戦争を仕掛けろ、と言うのではありません。おかしいことはおかしいと言い続けて、中国への経済的な依存度が高いという理由で黙認したりはしないことです。何か言うとすぐ中国政府は報復に出ますが、「それなら協力して中国抜きの経済圏を作ろう」という動きが活発化するのが習近平にとっては一番痛い。日本政府も、「どうも最近貴国のふるまいは承服できない点が多いので、コロナがどうあれ訪日はしばらく見合わせていただきたい。国賓待遇なんて、今は到底できかねます」とはっきり言った方がいいでしょう。犯罪的な人権蹂躙や弾圧を平然としてやり、むやみとスパイをあちこちに送り込んで各種の機密情報を盗み取ろうとするような「道義なき国家」とはおつきあいしかねるという態度を先進国が協調して取れば、経済的にも行き詰まって、いくら情報統制を強いたところで、中国人民の間に「ダメ皇帝」のうわさは広がる。それが習近平にとっては最大の恐怖でしょう。その方向です。

 他にも北朝鮮に韓国と、ややこしい国ばかりで、昨日8/4は、韓国裁判所での徴用工判決による現金化手続きが可能になる日だったそうで、だいぶ前からニュースになっていましたが、実行されたとして、それに対して日本が報復措置を取れば、また「反日キャンペーン」が荒れ狂うことになるのは確実と見られています。文政権は1965年の日韓協定も、2015年の慰安婦合意も一方的に反故にした。元弁護士大統領が国際法も知らないというのは驚くべきこと(尤も、彼の師匠の廬武鉉も似たようなものだった)ですが、それが韓国内で支持されるのは日韓請求権協定も慰安婦合意も、その内容を韓国民の大部分は知らないか、歪めて伝えられているからで、慰安婦合意の中身など、この前の挺対協(現・正義連)の前代表、尹美香スキャンダルではからずも暴露されましたが、元慰安婦自身が知らなかったのです(彼女らが挺対協から聞かされたのは、それが「憎むべきごまかし」だという話だけ)。

 こういうのは韓国政府が自分に都合のいい話だけして、メディアも報じないからですが、どうしてそうなるのかといえば、彼らが国民に施してきた歴史教育が実証主義的なそれとはほど遠い、ナルシシスティックな反日イデオロギーで脚色された「歴史もどき」だからです。どこの国でも身びいきは免れないとはいえ、韓国のそれは自由主義国の中では例外的なほどの「独善史観」で、周辺国から見ると「よく言うよ」と笑うしかないような話が大量に含まれていて、かの国の歴史教育は近代以降が中心だそうですが、「反日」記述は一貫していて、そこには大量の虚偽が含まれている。文政権になってから朴正熙時代の「漢江の奇跡」(そこでは日韓協定に基づく賠償金が大きくものを言った)まで教科書から削られるようになったそうですが、以前から、とくに日本に「併合」された経緯やその後の記述がひどかった。事実その通りだったのなら仕方ありませんが、そうではないので、文政権になってから「一体何でここまでひどくなるのか?」と疑問に思う日本人が増えて、韓国のことを勉強する人が多くなり、「こんな嘘まで教えているのか!」と初めてそれを知ってショックを受けたという人は少なくないのです。今の韓国では歴史は願望によってつくられるもので、資料も、事実解明ではなく、願望充足の材料として探し求められ、それに適したものがなければ捏造するのです。それがバレても「愛国反日」の情熱によるものとされ、咎め立てされることはない。逆に不都合な資料を発掘して異説を唱えると「親日」のとがで罰せられるのです(韓国の「国際アピール」はすごいので、「中立」を旨とする西洋諸国や国際機関でも韓国側の主張をベースに「理解」が形成され、日本に不利になっていることが多い)。

 いくら民間交流が増えても、韓国の若者は「今の日本人は昔とは違う」と思うだけで、学校で教わったその「昔」が虚偽で塗り込められたものだったとは思わないので、根本的な解決にはならない。他方、美化された李氏朝鮮500年のおぞましい両班政治の実態についてはよく知らないので、今の韓国社会の支配層の二枚舌や門閥主義、独善的な排他性、私腹を肥やすために権力を悪用するのが常態化していることなど、いずれも昔の両班たちのメンタリティそのままであることには気づかないのです。無責任・無定見な事大主義外交も、それが近隣諸国を巻き込んで深刻なトラブルに発展したことも「歴史的事実」ですが、まともな歴史を教えないために、過去の失敗に学ぶことがなく、同じことを繰り返すのです。

 そこが変わらないことには「日韓の和解」などありえない。文在寅の言う「未来志向の韓日関係」なるものは、彼の反日左翼イデオロギーに基づく勝手な過去の歴史解釈を日本が丸呑みにすることを前提条件としたもの(日韓協定や慰安婦合意の実質的破棄もそこから出ている)なので、成立するわけはないのです。

 だから当分は「解決するわけはない」ということを前提に、韓国とはおつきあいするしかない。北朝鮮や韓国の難癖はいわば「いつものパターン」で、日本人もそれには慣れてきたので、また「反日キャンペーン」が行われても、過剰に反応することはないでしょう。その“新機軸”を楽しむぐらいのゆとりをもつことです。挺対協などは、その政治的思惑から慰安婦のおばあさんたちが日本からの補償金(アジア女性基金や、この前の慰安婦合意に基づくそれ)を受け取ることを必死に妨害してきたわけですが、それについての歴史的審判が下る日はいずれやってくるでしょう。ああいう虚偽に満ちた歪んだ歴史教育(それは現実遊離の独善性を強化し、パーソナリティ形成に深刻かつ有害な影響を及ぼす)が永遠に続くとは思えないので。

 いい加減話を日本に戻すと、周辺国のそうした動きとは別個に、これからの国の舵取りは大変です。コロナでのグダグダ対応がこのままずっと続き、コロナ倒産が増えて、個人と地域両方の経済格差がさらに広がって、経済全体が縮小したところで、人口ボリュームの最も多い団塊の世代(狭義では1947~49年生まれの人たちを指し、この3年間で合計806万人いるとされますが、50年生まれでもまだ200万を超えている。ちなみに2019年の出生者数は86万4000人でしかない)が2年後から後期高齢者入りし始め、今でさえほとんどパンク状態なのに、医療費、介護費、年金費用などがさらにかさむ、という時代がやってくるわけです。それが当分の間続く。これは歴史上かつて日本人が経験したことのない事態です。そこに大地震でも重なると大変なことになりかねませんが、その可能性もまた高いのです。

 それでなくても生産者人口は減り続けているのに、日本の労働生産性は先進国の中で最も低い部類だというのだから、このままでは国がもたない。健康保険料なども税金にカウントすると、日本の税制からしてとくに独身者にきついと思われますが、収入の5割は税金でもって行かれるようになるでしょう(北欧のような老後保障はないまま)。年寄りがいくら増えても消費は大して増えませんが、消費欲旺盛な勤労者世帯の収入が減って、経済は縮小の一途を辿るということになり、いずれ日本は貧しい国の仲間入りを果たすことになるでしょう。子育ての余力はさらに減るから、少子化もさらに進んで、世代間の軋轢も激しくなる。老人は敬慕の対象ではなく、憎悪の対象になる。高度経済成長時代のそれとは反対の人口構成が災いするのです。長寿化が完全にアダになる。この前のマガブロ記事でも触れましたが、人間が「健康寿命」を超えて生きても、いいことは何もないのです。

 こういう人口構成の変化などは予測可能な事柄に属するので、日本経済が元気なうちに手を打っておけばまだよかったのですが、それを政治家も官僚たちも先延ばしにして、何もしなかったのです。年金制度などは今から四十年も前、僕がまだ二十代の頃に「破綻は必至」と言われていたのです(だからそんなものアテにはならないということで、未納者も増えた)。その当時なら、まだ打てる手はいくつもあった。しかし、何もしなかったのです。医療費の天井知らずの高騰も久しい以前から予測されていた。こちらも何もせず、小手先の制度いじりだけに終始して、かかる窮状に立ち至ったのです。

 内憂外患とはまさにこのことで、地球温暖化による異常気象、自然災害の激増もこれに重なるし、いっぺんに色々なことが襲いかかって、今も見たとおり、今回のコロナ禍はその序章にすぎず、「これからが本番」なのです。むろん、少子高齢化は日本だけの問題ではない。韓国など、出生率がついに1.0を切ってしまった。三十五年にもわたって一人っ子政策を続けた中国もいずれ日本と同じ運命で、社会保障整備が追いつかず、極端な貧富の差を残したままこれから急激にそれが進むから、その結果はさらに悲惨なものとなるでしょう。

 地球温暖化、環境破壊、生物大量絶滅のツケは平等に回ってくるから、世界全体が危地に陥るのです。大昔の栄華を誇った文明と同じ運命を辿る。今の文明が過去のそうした文明と違うのは、かつてのそれは地球全体から見ればローカルな文明にすぎなかったことです。しかし、今はグローバルだから、局地的な崩壊だけでは済まない。貧すりゃ鈍するで国際紛争の類も増えるだろうから、「核兵器の誘惑」に屈する核保有国が出てきて、核を撃ち合ってジ・エンドになる可能性はかなり高い。生き残った方がさらに悲惨で、放射能の後遺症に苦しんだ挙句死ぬことになるのです。

 かつて、アメリカとソ連の東西冷戦の時代には「核戦争の脅威」がよく語られました。それでヨーロッパの先進国では、子供を作らないカップルが増えた、なんて言われていたものです。その当時と較べて核戦争の危険が減ったわけではない(しばらく前に、仲の悪いインドとパキスタンの軍事正面衝突――核戦争――が起きた場合の「地球的惨事」についての記事が出ていました)。他の「危険」が増えすぎたので、それにかまけて注目度が減っただけなのです。今は米中冷戦の時代に入りかけていて、当時のソ連より中国が「理性的」だとは言えないのは冒頭見たとおりです。

 むろん、核戦争が起きなくても見通しは十分暗い。それで、この来たるべき艱難を今の文明は、人類はどうやって乗り越えるのか? これまでの経緯から判断すると、目先の弥縫(びほう)策だけ重ねて問題を先送りし、事態をさらに悪化させるだけに終わりかねない。その先に「人類最後の日」が待ち構えているのです。それは完全な「未知の領域」なので、僕らの想像力が追いつかないというだけの話。

 僕は団塊の世代より少し後の世代ですが、昔の基準からすればもう十分生きたので、だから年寄りは死んでいいと言うのではむろんありませんが(いくら僕でもそこまでは言わない)、別に今死んでもそれほど名残惜しくはない。生きているとこういうふうに鬱陶しいことばかり気になるので、何もいいことはないなと思うほどですが、子供や若者、これから生まれてくるであろう世代にはそれは酷な話です。だから何とかしないといけないなといつも思うのですが、地位も権力もカネもない身では、こんなことを書いて問題を指摘するのがせいいっぱいなのです。

 突拍子もないことを言うようですが、宇宙人、ETたちはだいぶ前からこうした状況を憂慮しているようです。今編集者にその原稿を預けている、今度出る予定の訳本は、「人類の現状」に対する「深い懸念」で溢れていると言ってよい。エイリアン、アブダクティ(宇宙人に誘拐されたことがある人)、著者、いずれも「このままではまずい」と思っていて、それを必死に警告しているのです。だから僕はこの本を日本の読者に紹介しておきたいと思ったので、そのあたり、かなり真面目な動機によるのです。

 UFOは以前から核実験場や核兵器を収納した基地周辺で目撃されることが多かった(当然、目撃者にも軍人が多い)というのはこの界隈では有名な話なのですが、それに劣らず生態系の破壊にも彼らは大きな関心を示していて、だからアブダクティたちに「環境教育」を施したりするのです。また、彼らは人類の党派根性や利己性を奇異なものと思うらしく、自分の本性を理解しない未熟な生物とみなしている。彼らは別に神ではありませんが、アブダクティの多くは彼らを「人間より源泉に近い」ところにいる存在と理解している。例のハイブリッド(エイリアンと人間の混血児)にしても、その理由は定かではありませんが、エイリアンにとってはヒトという生物はいてもらう必要があるようで、このままでは人類は滅亡してしまうから、それに備えてスペアを用意しておく必要に迫られてやっているのではないかという感じです(著者はそれがどんな「次元」での話かわからないとしていますが、仮に現実にそんなものが作れるとするなら、エイリアンとヒトには遺伝子的適合性があるということになり、それは人類の起源に関するSF的なある憶測を可能にするものとなります)。

 冷戦時代、アメリカなどには「宇宙人が助けにやってきてくれる」と信じるUFOカルトまで存在しましたが、そういう他力本願をエイリアンたち(この場合はもちろん善玉)は好まないようで、彼らは人間の「自由意志」を尊重するので、その種の「介入」を期待するのは無駄でしょう。彼らの介入の仕方は人間の意識革命を促進するような性質のもので、それは理にかなったものと思われるのですが、僕に憂鬱なのは、そういうものが進んでいるとは残念ながらあまり思えないことです。

 人間が切実感をもって自分が自然の一部なのだという感覚を取り戻し、人間社会内部においても、利己的な自己保身や権力拡張に走るのではなく、個の自立に基づく真の協力、連帯を志向するようになれば、多くの問題が解決に向かい、文明の性質自体が大きく変化するでしょう。それなら未来にまだ希望はある。困難に伴う痛みは避けられないが、それを共有、分担することによって乗り越えることが可能になるかもしれない。甚だ抽象的ですが、それを現実に適用すれば、個々の問題解決の道筋も見えてくるはずです。

 しかし、それとは逆の方向に向かう可能性も同じほどあるので、全体主義的な国家の勢力拡大や、偏狭な排外的ナショナリズムの流行、経済危機の中での利己的・保身的な個人の行動など、そうした動きも顕著に見られるのです。今の日本ではコロナ感染者に対する低劣な誹謗中傷なども苛烈になっているそうで、そういうのがSNSを通じて拡散したりするのです。そういうことをする手合いはこの先生きていても災いになるだけだから、逆にコロナ感染で重症化して死ねば、世の中はもう少しよくなるのではないかと皮肉の一つも言いたくなりますが、これからの時代はそうした人間が隠し持っていた善悪がわかりやすいかたちで可視化する時代になるでしょう。それはいちがいに悪いとは言えない。人の正体が外に表われやすくなって、ごまかしが利かなくなってくるということなのだから。

 最後に、日本の政治について言えば、先に見たように、社会は問題山積の状況に置かれているわけです。目先の票稼ぎに腐心するようないい加減な政策の連続では、政治不信は拡大するばかりで、野党も政府の政策に難癖つけるだけでは支持は得られない。世の中にはそれぞれの方面にすぐれた見識をもつ人がいくらもいるでしょう。政治家の仕事はそういう人たちのアイディアを吸収して、大きな将来ヴィジョンのもと、個々の案を組織化して具体的な政策としてまとめ、予算の裏付けを与えて実行していくことにあるのではないかと思いますが、そういう大きな将来見通しに立って国民に説得力のある話ができる有能な政治家、今はいないんでしょうかね? バラ色の未来が待ち受けてはいないことぐらい、国民は十分承知しています。それをどうやって切り抜けるのかという話を一番聞きたいのに、そういう全体的視野に立つまとまった議論ができる政治家がほとんどいないのです。国民はそれなりに危機感をもっているから、これまでの常識を覆すような話でも、耳を傾けると思いますが、一番頭が古くて危機感に乏しいのが政治家たちのように見えるので、社会は停滞したまま沈んでゆくのです。それではただの税金泥棒にすぎない。いつまでこういうことをやっているのかなと思います。


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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アナログ人間の苦闘

2020.07.31(14:04) 742

 この前、一部の記事を有料化(100円)して、マガブロなるものにするのでよろしくお願いしますと書いて、そうしたつもりでいたら、先日息子と久しぶりにスカイプで話をして、その終わり頃、「ところでお父さん」と彼が言い、ブログの「全体主義の起源」という記事を読もうとしたら、「現在このマガブロは販売停止になっています」という表示になっていて、読めないんだけど、と言われてしまいました。

 何だって! それで、運営会社のマニュアルに従ってログアウトして確認すると、たしかにそうなっているのです(そうしないとふつうに記事が出てくるのでこちらにはわからない)。しかし、拍手ボタンに一つ拍手がついているのは、あれは何なのか? 読まずに拍手する人がいるのか? それでなぜそういう不可解なことになっているのか、調べようとしたものの、いくら説明を読んでもわからない。付けられている経産省の参照URLを見ると、身元の明示が必要らしいので、僕はプロフィールなんかは面倒なので何も書いていないから、それが災いしてブロックされるのか? しかし、そんなもの書くのはわざとらしくて気が進まない。また、それでうまく行くという保証もないわけです。そこでブログ運営会社に問い合わせようとしたが、どうすればその質問サイトに辿り着けるのかわからず、悪戦苦闘の末、おとといになってやっとそれがわかりました。それも、どうやってそこに辿り着いたのか記憶にないので、二度と発見できないかもしれないと思い、そこを「お気に入り」に登録したのですが、昨日その質問に対する返信があって、「販売価格が設定されていない」のが原因だとわかりました。しかし、ちゃんと設定はしたつもりなのです。おかしいなと思って調べたら、「単体販売」の場合、その都度その記事の下に金額を入れ込まなければならないようになっているらしく、それをしていなかったから販売できなくなっていたのです(これも簡易モードというのをoffにしないとできない)。

 ということで、今度は購入(そちらの手続きはそれほど面倒なものではないはずです)して読めるようになっているはずですが、デジタル弱者の場合、勝手がわからず、こういうところでものすごく苦労するのです。記事そのものを書くことよりずっと消耗させられる。こういうのに慣れた今の若者からすると、「なんでわからないのか、それがわからない」ということになるのだろうと思いますが、自分が完全な「生きた化石」になっていることをあらためて思い知らされる出来事でした。今のこの世界には、僕がよく知っている宇宙とは別の宇宙が出現していて、その中では僕のようなオールド・エイジは完全に無力なのです。

 ともあれ、そういうわけでこの件はやっとのこと解決し、また一件、マガブロにしてアップしましたので、よろしくどうぞ。

※ ブログ運営会社が連絡をくれて、早速購入して下さった方がいるようで、お礼申し上げます。(8/1)


祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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『文明が不幸をもたらす:病んだ社会の起源』を読んで

2020.07.31(12:56) 741

軽く感想文を書くつもりで始めたら、長くなって相当手間もかかってしまったので、マガブロにすることにしました。
今の文明に違和感をもち、それはなぜなんだろうと思っている人には興味をもって読んでいただけるかもしれません。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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