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なぜ世界はこれほど悲惨な場所となったのか?~プロティノス哲学からの照射

2020.11.23(07:13) 780

 今のこの世界は申し分なく悲惨で、この後もその悲惨の度は強まり、遠くない未来に人類のかなりの部分が大混乱の中で死滅に追いやられることになるだろう。要するに、人類レベルでの「大量絶滅(mass extinction)」が起きるだろう。――僕にはそのように思われるのですが、僕に何より奇怪に思われるのは、そのような危機感が大部分の人に欠けているように見えることで、この鈍感さがどこから生まれるのか、それが不思議でならないのですが、よく考えてみれば、実はその鈍感さこそがこの深刻な事態をもたらした最大の要因であると言えるのではないか――そのように感じられるのです。

 そしてその鈍感さが何に由来するのかといえば、人間が〈価値の倒錯〉と言える状態に陥っているからで、それこそがキェルケゴール流に言えば「死に至る病」であることを認識できなくなっているからではないのか? 要するに、世界が終わりかねない状況を生み出している原因と、それに対する異様な鈍感さは、一つのことであって別々の問題ではない――そのように思えるのです。

 僕はお説教ほど無駄なものはないと考える人間の一人です。だからそんなことをする気はないし、そんなことをするほど偉くも堕落してもいない。また、人間の死について言えば、僕はそれ自体はそんなに大したことではないと思っていて、自分自身の死に関しては、それがこの先いつやってこようと全く問題ではありません。すでにこの世界に十分な期間滞在したし、去るのが惜しいほどここは素晴らしい場所とは感じられないからです。唯一気がかりなことは、わが子や未来の世代が自分に倍する(数倍する)苦難を強いられることで、それに対しては先に生きた世代として応分の責任があるので、それを思うと忍び難いものがあって、だから言っても全く聞かれないことだとしても、それは僕自身の責任ではないので、「何が問題なのか?」ということに関して思うことについては、書いておかねばならないと考える次第です。

 先日、僕はあることがきっかけで本棚の奥からプロティノスを引っ張り出して読み返しました。読み返したと言ってもパラパラと必要に応じてそうしたというにすぎないのですが、視点を変えて読み返すのは新鮮に感じられる体験で、「なるほど」と納得が行ったことが一つあって、根本の問題はやはりそこにあるのだなと思ったのです。

 そのきっかけは、ある日自転車に乗って林の中を通り抜けていたときに、「生産的なのは自然だけである」という言葉が突然頭に浮かんだことです。この「生産的」というのは「創造的」というのと同義ですが、僕には真実と思われました。そのとき「自然は、しかし、どうやってそれを可能にしているのか?」と以前からもっていた疑問を思い出したのです。それで、何でそれがプロティノスと結びついたのか自分でもよくわからないのですが、家に帰ってから彼の『エネアデス(抄)』のⅠ・Ⅱ(中公クラシックス)を引っ張り出した。

 そうすると関係個所が見つかった。Ⅱの方に「自然、観照、一者について」という文があって、そこに一見すると奇妙なことが書かれていたのです。要約すると、

 自然(ピュシス)は、観照(テオリア)を通じて自らの製作物を生み出す

 というのです。これは一体どういうことか? それを考える前に、ここでプロティノス哲学のかんたんな見取り図を示しておく必要があるでしょう。彼はその最上位に「一者(ト・ヘン)」を置きます。そこから知性(ヌース)が流出または発出して、今度はその知性から霊魂(これは「多にして一」で、本質的には同じですが宇宙霊から僕らの個別の魂まで、多種多様のものがある)が生み出される。最下位にあるのが「素材」と呼ばれるものですが、これは一応物質と簡単に解釈しておきましょう。通常の物質は「素材」によって構成されたもので、そこには霊魂による「加工」がすでに加わっていると解釈できるのですが、あんまり細かくし過ぎるとかえってわかりにくくなるので。

 それで、宇宙霊魂がこの物質宇宙を素材から作り、それに秩序を与え、人間の場合には、魂を通じて肉体とこの世界に働きかけ、そこに秩序を生み出す。自然も、それは霊魂の末端に位置するものと言えますが、素材に働きかけてこの自然世界をつくり出すのです。

 そうすると、一者→知性→霊魂(分類によっては霊魂→自然)→素材、という順序で上のものが下のものを生み出すことによってこの世界は形成されるのですが、知性は一者を仰ぎ見、霊魂はその知性を仰ぎ見る、という関係になっていて、この「仰ぎ見ること」が「観照」であり、その観照によって、下位のものが(半自動的に)生み出される、あるいは秩序づけられるのです。

 僕らがふだん目にしている「自然による創造」は、だから自然が自分の上位にある知性、ヌースを「観照」することによってその叡知を取り込み、行われているということになるわけです。その意味で、プロティノスによれば、この自然の豊かで美しい姿は、より高次の世界の模像または影のようなものでしかない。

 このあたりはアーサー・ガーダムも同じようなことを言っていて、この世界にある美は一時的な、儚いものでしかないが、色彩にしてもフォルムにしても、それは高次元の世界にある美の貧弱な模写にすぎないのだと言っています。しかし、彼はどうしてそうなのかということは説明していない。プロティノスはそれを上のように説明するのです。

 さて、こういう話が冒頭の人類大量絶滅の話とどう関係するのか? それはプロティノス流に言えば、人間の魂が「劣悪」なものになってしまったからで、何が善であり、何が悪であるかを正しく見極められず、際限もなく堕落してしまったからです。だから自分がどの方向に向かっているのかも、どんな危険の中に自分たちがいるのかも認識できなくなってしまった。有名な「三つの原理的なものについて」という論文の冒頭で、彼は次のように述べています。

 はたしていったい何ものが、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのであろうか。自分はかしこから分派されてものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのはいったい何であろうか。むろんそれは、あえて生成への一歩を踏み出して、最初の差別を立て、自分を自分だけのものにしようと欲したから、それがたましいにとって不幸のはじめとなったのである。特にこの自分勝手にふるまいうることのよろこびというものは、一度たましいがこれをおぼえたと見えてから、その自己主動性の濫用というものはすでにはなはだしいものがあったのであって、たましいは逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまったので、自分がかしこから出て来た者であるということすら識らぬにいたったのである。それはちょうど小児が、生後間もなく父の手許から引き離されて、長い間遠方で育てられたために、父が誰であるか、自分が何者であるかを識らないようなものである。かくて、もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで、他を尊び、何でもむしろ自分以外のものに驚嘆し、これにこころを奪われ、これを称美し、これに頼り、自分が軽蔑して叛(そむ)き去って来たところのものからは、できるだけ自分を決裂離反させるにいたったのである。(後略)【Ⅰ p.125~6】

 いかにも田中美知太郎らしい、悠揚迫らざる訳文で、プロティノスその人がゆったりとした口調で語るのが伝わってくるような印象ですが、久しい以前から人類は「父なる神」を忘却し、「自分勝手にふるまいうることのよろこび」にかまけて、進むべき方向とは「逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまっ」ていたのですが、この三百年余りで「魂の自己喪失」が極限に達しただけでなく、科学技術だけは長足の進歩を遂げたので、恐るべき破壊力を手にすることになって、自己の存続すら危ぶまれるような窮状に陥ったのです。

「悪とは何か」という論文で、彼はその「堕落のメカニズム」とでも言うべきプロセスについて、次のように述べています。

 まず第一に、劣悪な魂は、素材の外にあるのでも、ただ自分だけで存在しているのでもない。その魂は(素材の特性である)〈適度のなさ〉と混じり合い、秩序を与えて適切さへと導いていく形相(エイドス)に縁のないものとなっているのである。というのも、その魂は素材をもっている肉体と混じり合ってしまっているからだ。次に、(魂がそのような状態になって)その思慮を司る部分が害されると、(真の実在を)観ることができなくなる。つまり、その魂は、色々な情念をもったり、素材で暗くされたり、その素材の方に傾いたり、また一般的に言えば、真の実在の方ではなく、〈生成〉の方に目を向けるので、魂のその部分の観る働きが妨げられるのである。〔Ⅰ p.240~1 田之頭安彦訳 引用の際、読みやすくなるように省略等、少し手を加えさせてもらいました〕

 プロティノスによれば、本来「魂は世界の完成のためにさし向けられた(プラトン『ティマイオス』)のであって、「魂の任務は、単に思考することのみではなく、下位のものの世話をすること」(Ⅱ巻末「エネアデス要約」p.318)なのですが、上の魂の堕落の必然的結果として、その逆になってしまい、自然に宿った魂による(素材を原資とする)生命の建設的な形成作用を破壊し、「暗黒」を作り出す羽目になってしまったわけです。つまり、本来の「任務」とは全く逆のことをする存在になってしまい、そのことに対する自覚すら完全に忘却したのです。

「反知性主義」という言葉がありますが、今の人類、ことに文明人は、それとは知らずにこれに陥っているわけです。より次元の低い、たとえばトランプみたいなのだけが「反知性主義」なのではなく、今の文明はベースが「反知性主義」なのです。知性(プロティノスの言う「ヌース」)がどういうものなのか、まるでわかっていない。機械的な計算や暗記の能力(いずれもコンピューターに遠く及ばない)をそれだと誤認している人も少なくないので、元がそれなら、人間が賢くなる道理はないのです。白痴化あるのみ。

 現代のこの「反知性主義」の根底にあるのは「自己の素性」を忘却して独善的なものになるところから生まれた「人間中心主義」です。それは自然を搾取して当然のもの、人間に奉仕するためにだけ存在するものとみなす。それは人間が好き勝手に使ってよいただのモノ、素材にすぎないのです。昔の人のようにそこに神々や神の作用を見るのは、たんなる「遅れた人たちの迷信」にすぎない。プロティノス的に考えると、それこそが人をより高次の知的認識、洞察へと導く端緒になりうるものなのですが。

 環境保護への関心も、人間が自然の再生産能力を深刻に害したり、温暖化によって気候変動や自然災害が激増していて、それが自分たちの生存を脅かすようになったからで、あくまで「人間中心主義」の観点から見られたものでしかありません。要するに、それは損得の問題でしかないのです。これは奴隷の所有者が、奴隷たちが病気になって死なれたりすると損をするので、その健康にいくらか配慮するようになったというのと同じです。根本にあるその非人道性に疑いをもつようになったからではない。

 だから、その程度の動機に発する自然保護には、大したことは期待できないと言えるでしょう。そこには根本的な自己反省はないからで、自然と自分は同根であり、この世界を意味あらしめるために遣わされた同じ魂の働きなのだという自覚は欠落したままだからです。

 また、自然の搾取から同胞間、人間による人間への搾取へと進むのも自然の勢いです。強度の利己性から自然をモノ扱いするようになれば、人同士でも互いをモノ扱いするようになるのは避けられないからです。そういう低劣な魂にとっては利用する側になるか、利用される側になるかは死活的に重要な問題なので、権力闘争が起き、勝った側が負けた側を支配するのは当然だという理屈になる。とりわけ劣悪な人間は必死に権力を得ようとして戦い、そこまでするのはためらわれるという中途半端な人間は権力者に取り入り、甘い汁を吸える側に入れるよう腐心するのです。

 かんたんに言うと、そういう世界になってしまうわけです。かつての社会的エリートにはまだ「弱きを助け、強きを挫く」のが社会的付託を受けた自分の使命であるという自負心が残っていて、それはエリート教育の一部として組み込まれてさえいたのですが、今は完全に反対になっていて、「強きを助け、弱きを挫く」のが階級利益の代弁者である彼らの仕事になってしまい、それこそが人間の本性に合った自然かつ正直な在りようであるとして、賞讃を受けるまでになってしまったのです(これに思想の左右は関係ない)。だからエスタブリッシュメントに富の大半が集中するようになっても、なかばそれは当然視されて、その一部になることか、せめてそのおこぼれにあずかれる地位に就けることが多くの若者の「理想」となったのです。それは卑しいことではない、「勝ち組」になれないことこそが恥なのです。

 これではサル山のサル以下ですが、そういう自覚はない。かつて東大の学長が卒業式の式辞か何かで、「太ったブタより、やせたソクラテスになれ」と言ったという話があります(ちなみに、ソクラテスその人は清貧を旨としていましたが、驚くべき頑丈な体躯の持主でした)が、1960年代当時の日本ですらそれはKYな、あるいは偽善的すぎる訓示であるとして、失笑を誘ったのです。

 話を戻して、ここでさっき引用した「三つの原理的なもの」の箇所をもう一度思い出していただきたいのですが、こういうのは全部その結果――魂が自分の素性を忘れた結果――なのです。プロティノスという人は、当時の基準からしても晩学の人で、28歳でアンモニオスに入門して、そこで11年間学んだとされますが、哲学者である以前に mystic(神秘主義者)で、たぶんアンモニオス入門以前に何らかの洞察体験、神秘体験をしていて、その説明となるような、またその認識を深めてくれそうな師を探し求めていて、それがアンモニオスだったのではないかと僕は想像しています。彼はオリジナリティを主張せず、プラトンの承継者の一人と称していたようですが、先に自分の体験があって、その上で先行する哲学者の教説を吸収し、それを理論化したのではないかと思われるので、だからそれはたんなる観念の体系ではなかったのです。彼の目の前には真善美揃った「ヌース」と、最上位の通常の言語的形容を超えた一者の世界があり、それを見ながら――「観照」しながら――先行する哲学者の著作を援用しつつ説明を加えているというふうで、当時の他の哲学者並に思弁的すぎて退屈させられるところはありますが、その叙述に生き生きとしたところがあるのは、そのためなのでしょう。

 要するに、彼は観念を弄んでいたのではなく、リアルなものを見ながら語っていたので、有名なプラトンの「洞窟の比喩」を用いて言うなら、ほとんどの人々が影の世界を実在として見て、それでとやかく言っているのに対して、彼は背後を振り返って、その「光源」そのものを見ることを哲学の中心に据えたのです。そしてその光源との関係から、すべてを説明しようとした。彼の思想体系はそこから生まれているのです。

 プラトンと多くの点で対立するアリストテレスも、哲学的営みの最上位に「観照」を置いていたと記憶するのですが、僕ら現代人に致命的に欠けているのはこの背後への振り返りと観照なので、だから何もかもが無秩序で乱雑なものとなり、情報のガラクタの中で「魂の自己喪失」を深刻化させ、やることなすこと見当外れで、事態を悪化させるばかりということになっているのではないでしょうか。

 根本的な自己認識、世界認識というものが狂っているわけです。だから上に見た現代文明人の利己主義も、道徳の問題というより、自己理解の喪失、認識の過誤の問題から発生したもので、自然との正しい関係が見失われたのもそのせいです。

 問題の根はそこにある。今の世界の政治状況はこの点からすると地獄の一丁目で笛を吹き鳴らしているようなもので、地獄の亡者の中でも最も低劣な者が権力を握り、魂の自己忘失を競い合って、人々をさらなる低みへと導いているようにさえ見えます。妙な言い方をするなら、それに「正しく絶望する」ことなくして、そこから離脱することは不可能なので、今の僕らにはその「絶望」が足りていないのではないでしょうか。それが、プロティノスを久しぶりに読み返して、僕があらためて思ったことです。本当に前に進みたいと思うのなら、急がば回れ、この影の世界だけ見るのではなく、自己を深く顧み、背後の光源を振り返らなければならない。導きの糸はそこにしかないように思われるのです。




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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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「静かなマスク会食」とは…

2020.11.20(10:16) 779

菅首相 「最大限の警戒状況」“静かなマスク会食”呼びかけ

「おかあさん、スガ首相の『静かなマスク会食』って、どうするの? マスクしたままごはん食べるの?」
「そんなことできるわけないでしょ。ジュース飲むときなんかは、マスクの下からストローを差し込んでチューチュー吸うことはできるけど」
「じゃあ、どうするの? ごはん食べるときだけマスクを外して、話すときは急いでまたマスクつけるとか、するの?」
「まあ、そうね。食事中はマスクをあごの方にずらして、話すときだけ元に戻すってこともできるけど」
「でも、そうしたら、とんかつのソースとか、ドレッシングなんかが垂れてマスクが汚れない? デザートのアイスを食べるときもくっつきそう」
「そうね。あんただと不器用だから、きっとそうなるわね。あのみっともなくて役に立たない、うちではほとんど使ったことがないアベノマスクを、そういうときだけ使ってということもできるけど、洗うのめんどくさいし…。要するに、食事中は一言もしゃべらないようにして、全部食べ終わってからマスクをつけてお話しすることにすればいいのよ」
「それだとちっとも楽しくない。出かけないで、うちで食べた方がいい」
「何言ってるんですか! おかあさんは Go To イートの食事券を何種類もたくさん貯めてるんですからね! 使わないとソンでしょう。うちで作るより、あっちの方がトクだとやりくり上手のおかあさんはしっかり計算したんだから」
「もう無限くら寿司は行きたくない。あのヘンなレストランももういい。おかあさんの作るニラレバ炒めや、形は崩れているけどおいしいオムライスの方がいい」
「(ここで感動してちょっと涙ぐむ)まあ、あんたの言うことはわかったわ。とにかくクーポンや食事券がなくなるまで、もう少し我慢しなさいね」

 …なんて会話が、各家庭でかわされているのでしょうか?



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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引きこもりの予防について

2020.11.18(11:39) 778

 毎回政治の話で皆さん食傷気味でしょうから、今回は違うことを。

 ニュースサイトで次のような記事を見かけました。

「あの家は変な人が住んでいる」近所から噂される引きこもり息子との地獄のような毎日

 僕がこれを読んで驚いたことの一つは、臼井美伸さんの文章のうまさです。技術的にはもちろんですが、何とも言えない柔らかさとふくらみがあって、見事だなと感心する。人柄も関係するのでしょう。それでこの人の名前で検索すると、この続きも出てきました。

ゴミが散乱して荒れ果てた部屋で過ごした1年2カ月…大人の引きこもりが直面する社会復帰の難しさ

 他に、アエラ・ドットのこういう記事もある。

引きこもり33歳息子と10年ぶりに対面の母親、「こんな顔してたっけ…」と胸が詰まる

 臼井さんの著書の方はこちらです。

「大人の引きこもり」見えない息子と暮らした母親たち

 上のアエラの記事にもあるように、

 40歳から64歳までの「大人の引きこもり」は、国内に61万3千人いると推定されている(2019年3月、内閣府発表)。39歳以下の引きこもりも合わせると、全国で115万人の引きこもりがいることになる。引きこもりが長期化し、80代の親が50代の子を養う「8050問題」も深刻化している

 というのだから、これは社会的な大問題です。引きこもる人には内気、コミュニケーション下手など共通点もありそうですが、上の記事にもあるとおり、引きこもりになる経緯は皆それぞれ違っていて、一括りにして論じるのは難しいものでしょう。

 そして誰でも、長期間引きこもっていればおかしくなるにきまっているので、異常だから引きこもったというより、長く引きこもっていたから異常になったのだと見るべきでしょう。「親が悪い」と決めつけるのも間違いで、悪い親ではなく、良すぎるからそうなってしまったというところもありそうです。

 こんなことを言うのは、僕の親戚にも大学中退後ずっと引きこもってしまった男性の例(上の「8050問題」の典型)があり、その両親を僕はよく知っているからです。世の中にこんなに常識円満で善良な夫婦がいるのかと思うほど、揃って人柄がいい。これは見かけの話ではなくて、詳しく書くと特定されてしまうので書けませんが、僕は高校生の頃、その新婚家庭にお邪魔して、一週間近くもその家に泊まり込み、後で自分の親から大目玉を食ったことがあるのです。お盆休みに、その地域の川には鮎がたくさんいるからとりに来ないかと言われ、嬉々として出かけて、連日そこのご主人と鮎とりに行き、水のきれいな渓流で、姿のいい鮎が大量にとれたのですが、それでご主人の夏休みを全部潰してしまった。僕がよく知っていたのはその奥さんの方で、ご主人とは初見だったのですが、そんな感じはまるでしなかった。一日か二日で帰ってくるだろうと思っていたら、全然その気配がなく、新婚夫婦の貴重な夏休みを非常識な高校生の息子が全部潰してしまったというので、呆れ果てた僕の母が後で詫びの電話を入れていたのを憶えているのですが、歓待を受けていた僕はまるでそのことには気づかず、「また明日も行けば」と言われるまま、長居してしまったのです。奥さんの方はせっせと鮎鮨など作ってもてなしてくれた。その夫婦にやがて一男一女が生まれ、男の子の方がひきこもりになってしまったのです。

 そのうちその話は親戚の間でもタブーみたいになってしまったのですが、まだ初期の頃、僕は電話で母親の方と話して、何でそうなってしまったのか、どうして家を出られなくなってしまったのか、あれこれ話を聞いたのですが、親が信用のある人たちだったので、仕事を世話してくれる人もいたが、「途中で辞めたら紹介してくれた人に迷惑をかけてしまう」などと本人が気にして動けなくなっているという話で、人に迷惑をかけ通しの僕などは、そういう律儀すぎるのがよくないので、もっといい加減に考えればよいのだと言ったのですが、おまえみたいに平気で無茶をやる人間と違って、性格的にそれができないのだという話で、当時僕は関東にいたので、手助けになるようなことは何もできず、それが十年、二十年と長引いて、そのままになってしまったのです。

 このケースなどは「親がよすぎた」ためだとしか僕には思えない。おとなしい子で、元々引っ込み思案ではあったが、父親が理財に明るい人で、経済的なゆとりもあったことから、働かない息子がいてもその方面では困ることがなかった。母親にいくらか心配症の傾向があったと言っても、母親が心配性なのはむしろふつうなので、父親も権威主義的なところはなく、寛容な人だった。要するに、親がよすぎたのと、後は子供自身の性格です。

 上の臼井さんの文章に出てくるお母さんたちを見ても、どこといって異常なところは感じられない。皆さん、人がよさそうです。いわゆる「毒親」というタイプでは全くない。それだけにいっそう気の毒だという感じが読んでいてしてくるのですが、「親が悪い」からではなく、むしろ「よすぎる」ことが一つの原因になっていると言えるかもしれません。

 引きこもりを離れた一般的問題としても、今の日本の家庭は母性と父性のバランスが悪くなっているのではないかという気がします。僕は長く塾の教師をしていて、ここ二十年近くはもっぱら高校生を相手にしているのですが、共感や優しさはいくらか過剰で、つまり母性は足りているが、父性に乏しい家庭が増えているという気はするのです。むろん、中には「うちの父親は全く話が通じず、一方的に自分の考えを言うだけなので、相談する気にもなれない」と嘆く子もいます。しかし、それは父性の特徴ではないので、たとえばセンター試験で失敗して落ち込んでいるときに、親も一緒にオロオロしてしまうなんてことが珍しくないので、そういうときに「落ち込んでいる場合か。かんじんな二次はこれからだ。現実的にものを考えてできる対応を考え、それを成功させることに集中しろ」と喝を入れて後押ししてくれる人が不在になっている感じがするのです(塾に来ていれば、代わりにこちらがそれをやらざるを得ない)。会社では部課長級の役職についているのに、母親と一緒に狼狽したり、「何でこんなことになったんだ!」と喚き散らすだけになったりする。そういうのは何の役にも立たない。要するに、父性に欠けた父親が増えているのです。

 僕はかねて「父親番犬論」というのを唱えています。子供が小さいときは犬はよい遊び相手です。子供が成長するにつれて、その遊び相手としての比重は低下し、だんだん相手にされなって、犬小屋で寝てるだけ、ということが多くなる。母親と子供は親密な関係を築き、父親はいるのかいないのかわからない感じになるが、番犬がそこにいて何か非常事態が起きたときは登場して家族を守ってくれるという安心感があるので、その存在感には小さくないものがあるのです。母子は決断の後押しがほしいときは番犬の方を見る。そうすると一声、ワンと吠えて、その期待に応えるのです。家に賊が侵入したときは、ふだん昼寝ばかりしている犬とは思えない果敢な行動力を発揮する。それで、やっぱりあれはいてくれないと困るものだということが認識されるのです。座敷犬みたいにいつも家の中をウロウロし、母子の親密な関係に嫉妬して、そこに入り込もうとしてうとましがられているのに、肝心なときはまっ先に逃げ出すとか、キャンキャン騒ぎ立ててパニック状態をかえって煽り立てるだけというのでは、明らかにいない方がマシです。

 今の時代だと、母親にむしろ父性的な性格が強く、父親が母性的ということもあるかもしれません。それはどっちでもいいので、要はこのバランスが取れているかどうかです。両方が母性的というのではまずい。引きこもりになる原因の一つに「コミュニケーション下手」という要素があるようですが、人間関係には共感と対立の両面があって、共感だけでも対立だけでもコミュニケーションはうまくいきません。共感だけではしんどくて疲れてしまうだろうし、対立だけでは誰からも相手にされなくなるからです。僕らは無意識にそれをうまくミックスして人間関係を維持しているのです。母性と父性のバランスが取れている家庭だと、子供はそれを内面化しやすいので、むろんそれは子供の性格にもよりますが、イエスもノーもどちらも言える人間に成長する可能性がそれだけ高くなる。母性過多だと、共感だけになって、ノーを言うことに対する無意識的な抵抗が強くなりすぎ、うまく自己主張できなくなるので、世間や人付き合いを恐れるようになって、引きこもりにもなりやすいのではないでしょうか。

 逆に親から十分な共感と慰めが与えられず、孤立感、被害感が強いと、敵対的な人間関係しか作れないことになって、ノーの連発になる。こちらもまともな人間関係が作れないことになって、ひきこもりだけでなく、モンスター・クレイマーになったり、社会憎悪のおかしな犯罪をひき起こす原因にもなる。だから、バランスが大事なのです。

 家父長制的な遺風がまだ強く残っていた時代には、権力的な父親が多く、子供はそれに反抗することを通じて自己形成していくことが多かったのですが、今の家庭ではむしろお母さんの方が強いのがふつうです。その方が家庭は平和なので、それは「進歩」と言ってもよいように思われますが、それで上に述べた母性と父性のバランスが崩れてしまって、後者が弱くなりすぎてしまったことも、コミュニケーション下手の人が増え、引きこもりが増えた背景の一つとしてあると言えるかもしれません。僕の説く「父親番犬論」は、母親優位のこの時代にも適合するものなので、なかなかいいものだと自負しているのですが、いかがなものでしょう?

 日本人の場合、概してノーを言うのが下手で、とくに目上の人にはそれは失礼に当たるということにされています。まだ三十代半ばの頃、僕は学習塾の雇われ管理者の傍ら、近場の私大の大学院でカウンセリングをかじっていたことがあります。僕が所属していた研究室の老教授は元国立大の教授で、どこでだったか、その弟子筋の他大の教授や助教授三人と、その先生と僕の五人で話をしていて、老教授がおかしなことを言ったので、僕は何気なく、「先生、それは違いますよ」と言ったことがあります。すると、場にサッと緊張が走って、そのことの方に驚いたので、老教授の方はふだんどおりの調子で、「そうかな。何で?」ときいたので僕は理由を説明し、「なるほど」ということでご納得いただけたのですが、何でカウンセリングだの教育学だのをやっている人たちがこういう雰囲気を醸し出すのだろうと、それが不思議でした。一般世間でなら、なおさらということになるでしょう。しかし、子供がオトナの自分より正しいこともあるし、偉いさんが愚かなことを言うこともあるので、そういうのは身分の上下で決まることではないのです。

 その後、副業で専門学校の非常勤講師(講座名は社会学だったが、心理学的な話が多かった)をしていたとき、僕が驚いたのは仲間内の人間関係で悩んでいる若者が今は非常に多いらしいということでした。そこでも周りの言うことにノーを言うことにはかなりの緊張が伴うということらしく、友達づきあいですら今の若い子はそんなに気をつかっているのかと驚いたので、互いに言いたいことを言えるからこそ友達なのだという常識はもはや成立し難くなっているのです。大体、それでは深い突っ込んだ話などもできなくなるでしょう。

 前に、今は院生になっている息子にこれをきくと、たしかにその傾向はあるということでした。彼には専攻はそれぞれ違うが、とくに仲のいい友達が二人いて、その間では激論になることも珍しくないが、他の学生相手に同じようにやると「あれは言い過ぎではないか?」みたいなことを後で周りから言われることがあるので、本人は控えめにしたつもりでもそうなることが多いので、そのあたり調整がなかなか難しいという話でした。うっかり言い負かしたりすると、相手の自尊心に対する配慮が乏しすぎるということになるのです。議論は論破したり論破されたりしてこそ実りのある発展につながるので、それは人格とは関係がないと彼は考えているようですが、そうは理解されていないのです。恥をかかせたとかかかされたとか、そういうレベルの話になってしまう。

 これはコミュニケーション全般が「共感と同意」に偏りすぎているということで、安倍政権下で流行語になった「忖度」が過剰になっているわけです。それでは人と話をしても不自由なだけでなく、何も面白くないわけで、僕自身、正直な子供と話をしている方が意外性や新鮮さがあって、オトナ相手よりずっと面白いと感じることが多いのですが、これは先の議論で言えば父性的な要素が欠落しているからで、菅政権の学術会議問題など見ると、見た目の強権性とは裏腹に、悪い意味で非常に女性的になっていて、自由度が乏しく、異論や批判に対する耐性が異常に低くなっているということを示しているのです。菅氏の場合、潜在的な反対勢力がそこにいるということだけでも強いストレスになってしまうのでしょう。それは自信のなさの裏返しでもありますが。

 高度経済成長期以後に現われたこの引きこもり現象は、それが許容できる家庭が増えたからで、それは経済的に豊かになったことも関係しますが、母性と父性のバランスが悪くなって、バランスの取れたコミュニケーション能力が身につかずに育つ人が増えたこと、また、今も見たとおり、全般に腫れ物に触るような表面的な人間関係が増えて、とくにそれが煩わしいものになったことも関係するでしょう。それはたいていの人にとって苦痛で、引きこもりにはなれない家計を支える人たちは、代わりにうつになるのです。

 その意味でこの問題は、一般社会と完全に地続きです。何とも言えない風通しの悪さが今の日本社会にはあって、菅政権などはその象徴みたいな政権ですが、引きこもり予防策としては、子育てプロセスでの母性と父性のバランスを見直し、後者の力を強化することが必要なのではないかと思います。そうすると社会全体の人間関係、コミュニケーションのあり方も変わり、息苦しさも和らぐでしょう。

 これはむろん「家父長制的な強い父親の復権」を推奨するものではありません。そんなものは犬にでも食われろ、です。大体、これは河合隼雄氏もどこかに書いていたような気がするのですが、昔の父親は制度を後ろ盾にしていたから強そうに見えただけで、個人レベルでは弱い人が多かったのです。上にはヘイコラ、下には威張り散らすような人間に強い人はいない。抑圧的な権威主義は父性とは似て非なるもので、真の父性の持主は人の意見や考えも尊重し、対等な立場で対話をして、相手を納得させることができる人です。決断に悩むとき相談すると、話をよく聞いた上でイエス・ノーをはっきり言って、必要な支援を与えてくれる人、それが子供には父性の role model(お手本)になるのです。

 心配性の母親はどうしても保護的になり、そのおかげで子供は無事に育つと言えるのですが、行き過ぎると子供の冒険心や積極性を妨げてしまうことになります。不安げな母親の顔を見ると、子供もこれはやっぱりやめた方がいいのかもしれないと思う。けれども、父親の方を見ると、悪ガキみたいな顔つきで、片目で合図をして、「いいからやっちまいな」というシグナルを送っている。それだと子供は挑戦に踏み出せるのです。この場合、成功したときはいいが、失敗すると、「あんたがテキトーなことを言って唆したせいで、あの子は傷つき、泣くことになった!」と父親は母親から激しく責められる羽目になるでしょう。しかし、父親はそのリスクをとらねばならない。その場合、父親はむろん現実を冷静に認識して、勝算ありと踏んだからゴー・サインを出すので、場合によってはわが子可愛さから母親がただ舞い上がっているだけで成功の見込みがほとんどないのを見て、その無謀さを指摘し、止めることもあるでしょう。いずれにせよ、それが必要なときは明確なイエス・ノーの態度を表明しなければならないのです。

 子供は成長のプロセスでその両方を内面化する。それで押したり引いたりの両方ができる人間になれば、コミュニケーションのバランスも取りやすくなって、無理のない人間関係がもてるようになり、世渡りのサーフィンもうまくなると考えられるのです。何かで失敗しても、また体勢を立て直すことができる。この学習がうまく行かないと引きこもりにもなりやすい。そう言えるのではないでしょうか。

 こういう話はげんに引きこもりになってしまっている家庭の助けにはなりませんが、防止の役にはいくらか立つはずです。この問題では母親が責められることが多いようですが、父親が無関心だったり、逆に優しすぎて、介入や決断が求められるところでそれを回避してしまったことが問題の遠因として作用した、という面もあるのではないでしょうか。父性的なロール・モデルの取り込みがうまく行かなかったのです。

 むろん、僕は「だからあんたたちが悪いのだ」というような非難の意味でこう書いているのではありません。そういう親御さんたちは僕の親戚の例のように善良この上ない人たちなので、非難は筋違いです。また、「父性の喪失」は今の社会全体の問題でもあります。

 これは子供のいじめや不登校の問題などについても言えることですが、介入が必要なときはきっちり介入しなければなりません。親や周囲のオトナが本気でコミットすると、そのこと自体が子供を元気づけることになって、状況も変わり、問題が解決に向かうという事例は、僕自身すでに何度も見てきたことです。

 日本社会というのは、既成のレールに乗っている分にはいいが、いったんそこから外れると恐ろしい孤立を強いられるということがあります。これはずっと前に書いたことですが、関東にいた頃、塾の卒業生が高校入学早々、不登校になってしまったという事例がありました。まさかわが子が不登校になってしまうなどと夢にも思わなかった母親は狼狽し、学校も出身中学もあまり頼りになりそうもないということで相談に訪れたのですが、そのお母さんは社交的なタイプで友達も多かったのに、わが子の不登校の話を出すと、「まるで悪い病気でも移るみたいに」皆散ってしまって、自分のこれまでの人間関係は何だったんだろうと思うような孤独感を感じさせられたという話でした。しかし、話はこれだけでは済まなかった。そこを退学して翌年私立の女子高を再受験したいというのが本人の希望だったのですが、調べてみると、これが極度に困難であることがわかったのです。塾もある程度の規模になると私立にはかなりのコネがあるので、塾長に打診を頼んだのですが、後で本部から電話が来て「どうも難しいね」と言うのです。点数に下駄をはかせる以上の難事だと。なぜか? 再受験の生徒は「わけあり」だというのでどの学校も嫌っている。少子化の今はそのあたり変わったでしょうが、当時は第二次ベビーブームの子供たちが受験期に差しかかった頃で、入学希望者は多く、毎年専願基準も上げるなど、どこも強気だったのです。僕も知っている私立に電話をしてみましたが、「再受験はむろん可能です。ただ、再受験で合格した生徒は一人もいません」などと平気で言うのです。それなら初めから、その旨告知しろと言いたくなりますが、頭から「やっかいな生徒、不登校などの面倒そうな生徒はお断り」なのです。こういうのは不登校になった家庭には傷口に塩をすり込まれるような対応です。その子は何も問題のある子ではなく、学力的にもほんとはもっと上の高校に行けたが、学校の先生に勧められるままそこにしたのです。そしたら思った以上にガラが悪かったので、一週間ほどで体が言うことを聞いてくれなくなった。塾長に何か使える裏技はありますかと聞くと、学校の関係者、とくに発言力のある理事あたりに知り合いがいれば、その子を再受験を理由に落とさないようプッシュしてもらうことはできる。それが一番確実だろうという話でした。よし、その線で行こうということになって、お母さんに再び来てもらい、塾でもそれを探しますが、お母さんの方でも知り合いに候補の学校いずれかの理事がいないか当たって下さいという話をしました。二、三日後、お母さんから電話があって、「親戚に一人いました!」という話です。学校のレベルもぴったりです(こういう場合は、なぜかこの種のことがよく起きる)。それで僕は、お子さんを連れて両親一緒に一度その理事に直接会って、事情を話し、再受験を理由に落とすことがないよう頼んでくださいと言いました。成績は十分なのに再受験だからというので不合格にすること自体が不正なことなので、それをやめさせるだけなのだから何ら恥じる必要はない。それでその理事の人も約束してくれて、受験勉強は再び塾に戻ってやり直し、全く心配のない学力で受験して合格したのですが、そういうことを何も知らずに再受験したら落とされていて、それでは自信をすっかり失って、人生が暗転してしまうことになりかねないわけです(大検、今の高卒資格認定試験というものがあるということも話してはいたのですが)。それが引きこもりに発展してしまう可能性もあった。全くひどい社会で、高校はどのツラ下げて教育機関と称しているのかと腹が立ちましたが、既成ルートをいったん外れると、この社会はたいそう冷たいことが多いのです。一番助けが必要な時にそれを提供してくれない。その子は見通しが立ったということで安心してすぐに元気になりましたが、親が本気でコミットした段階で、事はいい方向に動き出したと言えるのです(ふつうの不登校でも同じですが、こういうことは初動が大事で、動き出すのも早い方がいい)。

 引きこもりも予防が一番いいことで、次善はひきこもりの初期段階での対応、それが長引くと上の記事のように大変なことになってしまって、それでもまだ助けてくれる団体や組織があることは救いですが、本人はもとより、家族も塗炭の苦しみを舐める羽目になるのです。

 専門家たちにはどう言われるか知りませんが、遠因として子供の成長過程での母性と父性のバランスが崩れて、後者が弱くなりすぎているのが原因の一つとしてあるのではないかというのが、僕の考えです。お父さんたち、上の「父親番犬論」も参考に、ここぞというときは明確なプレゼンスを示すのを忘れないでください。時代錯誤の暴君も駄目なら、口やかましいだけの「もう一人の母親」や座敷犬みたいになるのもよろしくないのです。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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スガ家の忠犬、女性内閣広報官、NHKに脅迫電話?

2020.11.14(06:40) 777

 毎日のように書くのはできれば避けたいのですが、このスガ政権は次々見逃すには惜しい新ネタを提供して下さるので、やむを得ません。昨日、ヤフーのニュースサイトを見ていたら、右側の「話題のキーワード」のところに「クロ現国谷」というのが出ていて、何なのだろうと思ってクリックすると、次のリテラの記事が話題になっているのがわかりました。

菅首相が生出演『ニュースウオッチ9』の質問に激怒し内閣広報官がNHKに圧力!『クロ現』国谷裕子降板事件の再来

 僕は菅総理は、この分だと首相退任後は吉本入り確実と見ていましたが、こういう記事からすると、新生ドリフターズ入りして、志村けんの跡を継ぎ、「バカ殿シリーズ」で主役を張るのが最もふさわしいような気がしてきます。その唯我独尊の乱暴狼藉ぶりがあまりに低次元でハチャメチャだというので、笑いを取るのです。

〈その翌日、報道局に一本の電話がかかってきた。
「総理、怒っていますよ」
「あんなに突っ込むなんて、事前の打ち合わせと違う。どうかと思います」
 電話の主は、山田真貴子内閣広報官。お叱りを受けたのは、官邸との「窓口役」と言われる原聖樹政治部長だったという。〉
 (中略)
 実際、NHK幹部職員は「この件は理事のあいだでも問題となり、局内は騒然となりました。総理が国会初日に生出演するだけでも十分異例。そのうえ内容にまで堂々と口を出すとは、安倍政権のときより強烈です」と証言している。


 何がそんなにまずかったのか? それは二頁目の終わり頃から次頁にかけて詳述されています。

 そして、生出演の終盤に、話題は所信表明演説で菅首相がひと言も触れなかった日本学術会議の任命拒否問題へ。菅首相は「総合的・俯瞰的」「民間出身者や若手研究者、地方の会員も選任される多様性が大事」などと話したが、この説明に対し、有馬キャスターはこう質問を重ねたのだ。

「総理は国民がおかしいと思うものは見直していくんだということを就任前からおっしゃっていたと思います。で、この学術会議の問題については、いまの総合的・俯瞰的、そして未来的に考えていくっていうのが、どうもわからない、理解できないと国民は言っているわけですね。それについては、もう少しわかりやすい言葉で、総理自身、説明される必要があるんじゃないですか?」


 視聴者の思いを代弁する当然の質問と言えますが、これが最高権力の快感に酔い痴れたまま、国営放送ではなかった公共放送に、ヨイショ質問を当然のように期待して出演したスガさんの逆鱗に触れたのです。

 しかし、この質問に対して菅首相は「私が任命する105人について、学術会議が選考して持ってきちゃうんです。それを追認するだけなんです」などと強弁。相変わらず任命拒否の理由にまったくなっていない上に、法に則っておこなわれている学術会議側の選考・推薦を「持ってきちゃう」などと言い出す始末で、まさに滅茶苦茶だったのだが、有馬キャスターは粘りを見せ、こう畳み掛けたのだ。

「あの、多くの人がその総理の考え方を支持されるんだと思うんです。ただ前例に捉われない、その現状を改革していくというときには大きなギャップがあるわけですから、そこは説明がほしいという国民の声もあるようには思うのですが」

「多くの人がその総理の考え方を支持されるんだと思うんです」という前置きは明らかにへっぴり腰だが、それでも「国民に説明を」と食い下がった有馬キャスター。だが、この食い下がりに菅首相はキレて、冒頭でも紹介した「説明できることとできないことってあるんじゃないでしょうか」という発言を繰り出すことになったのだ。


 ということで、これが山田内閣広報官の「お叱り電話」につながったというわけです。

 うーん。これって、志村けんのバカ殿とその家来そのものじゃありませんか? 「権力の自制」なんて高級なものではなく、社会人としての基本的モラルそのものが欠落している。トランプと完全に同じレベルです。トランプ退任後は日本国総理がその役回りを引き受けて世界に宣伝してやる、という意気込みなのでしょうか? スガ総理はぜひツイッターもお始めになるとよい(もうやっているのかもしれませんが)。

 それにしても、一躍有名になったらしいこの「山田真貴子内閣広報官」というのは何者なのか? あの杉田のじさまの子分なのか? ひょっとしてスガ総理の暴政大学の後輩か何かなのか? 不思議に思ってグーグルで検索してみると、こういう経歴の人のようです。

山田真貴子

 よくは知りませんが、これだとあの網タイツの稲田のともちんあたりと同じ頃同じキャンパスにいて、互いに顔見知りだったりしたのかもしれません。もう少し上だと、あのやることなすことすべてが裏目に出てしまうという、運にも見放された優柔不断の権化のような岸田文雄先生がおられるのです。下の註のところを見ると、大学がOGの出世を喜んで載せた、次のような記事まで出てきます。

憲政史上初の女性秘書官は法学部卒 総務省情報通信国際戦略局局長 山田 真貴子

「日本のような成熟した社会では、何かを変えるのは非常に難しいことです。その一方で世界は大きく変化しています。その中で、将来の日本のためにはこうあるべき、という自分の中の素朴な正義感を大事にしたいと思っています。日本が世界一幸せなIT社会になるための政策をしっかり打ち出していきたいですね」。

 ははあ。このとき(2015年)は首相秘書官で、今度は広報官。ウィキペディアの経歴の最後には「2020年9月16日:内閣広報官。女性初の内閣広報官である」と記されているから、こちらも「女性初」だったわけです。

 僕はあのSTAP細胞騒ぎのときの早稲田のはしゃぎぶりを思い出しました。研究室の元指導教官や先輩が出てきて、学生時代の小保方さんについて熱く語ったりしていたのです。彼女は推薦で理工学部に入ったそうですが、「ノーベル賞級の大発見」をして、大学も鼻高々だったのです。それが一転、あのような悲惨な結果に…。大学当局は結局、彼女の博士資格も取り消す羽目になったので、面目丸潰れになって、「ヒロスエに懲りずにまたやらかしたのか!」と在学生のみならず、OB、OGを嘆かせたのです。

 この記事なんかもその二の舞になる可能性大で、NHKへの「総理、怒ってますよ」の脅迫電話は、「将来の日本のためにはこうあるべき、という自分の中の素朴な正義感を大事にしたいと思っ」た結果なのだろうということになり、早稲田大学法学部は悪しき権力の忠犬と化して、基本的な事の是非善悪さえわきまえなくなった卒業生のことを自慢げに広報誌にまで載せていたのかと、また突っ込まれることになるでしょう。程度低すぎで、バカ田大学アホウ学部と昔あそこの学生は自称していたものですが、“真面目に”そのとおりであることが暴露されてしまったのです。スガ総理のせいで「暴政大学無法学部圧政学科」と呼ばれるようになった法政も気の毒ですが、こちらも同じくらい悲惨です。

 あの校歌にも歌われた「進取の精神、学の独立」なるものはどこに行ってしまったんでしょうか? 「弾圧の精神、学の撲滅」になってしまった。やーまだ、おまえ、責任とれよ。アベやスガにちぎれるほど尻尾を振って、女性初の秘書官、広報官になったと一人で舞い上がってるんじゃない。魂を売り払ったのでないなら、何でそんなエラそうなことやってるのか、説明しろ。この調子だと、新設されるというデジタル庁なるものに移って、現場トップとして、中国並のIT監視網の構築に「尽力」するなんてことになりかねない。それが「日本が世界一幸せなIT社会になるための政策」だと信じ込んで。

 ほんま、やっとられんわ。ひょっとしてこの政権は上から下まで、全部腐っているのでは?



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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実は習近平を熱烈崇拝していたスガ総理

2020.11.12(14:01) 776

 衝撃的なそれは最後に書くとして、まずは毎日新聞・元政治部副部長、尾中香尚里氏のこの記事です。本質を衝いた熟読に値するよい記事かと思います。

露わになった菅首相の強権体質~法治国家から「人治国家」へ変容の危機

「傍若無人な権力行使」とは、分かりやすく言えば「法に基づいて権力を抑制的に使う」たしなみを持たない、ということだ。首相なら当然持っているべきこうしたたしなみを、菅首相はほとんど持っていない。逆に「国民の負託を得て首相の座についた者が、権力を誰に縛られることなく自由に使うことがなぜできないのか」と首をかしげているようにすら感じられる。

 という指摘から始まって、「もがけばもがくほど泥沼にはまる」衆院予算委員会でのお粗末な答弁の数々を順を追って点検してゆくのですが、結論としてこう述べる。

 なるほど。安倍政権、そして後に続く菅政権の狙いが、だんだんはっきりしてきた。

 本来法改正が必要なことであっても、政権が自由に法解釈を拡大して「法改正は不要」と判断すれば、わざわざ国会に改正案を提出して、野党に突っ込まれる必要もない。政権の判断で自由に権力を行使することができるようになる。つまり国会を無力化することができる。
 だから、まず内閣法制局長官の人事を押さえ、政権の意のままに法解釈ができる環境を作り出したのではないか。

 安倍政権が13年、外務省出身者をあてた異例の内閣法制局長官人事は、当時「集団的自衛権に関する憲法解釈の変更に向けた布石」として大きな批判を受けたが、目的はそんな単一の政策課題にあったのではなかったのかもしれない。人事を押さえ「法解釈を政権が一手に握る」ことこそが、政権の目的だったのではないか。「法治国家」から「人治国家」への文字通りの変容を、無意識ながらも目指しているのではないか―。

 そしてこの姿勢は菅政権になって、むしろ安倍政権よりひどくなったように思う。

 前述した「集団的自衛権に関する憲法解釈の変更」は、14年、国会にはかられることなく閣議決定で行われた。安倍政権は翌15年、この閣議決定を「後付け」する形で安全保障関連法を成立させた。
 もちろん、こうしたプロセスは、本来許されるべきものではない。だが、今になって振り返ってみれば、当時の安倍政権には、集団的自衛権の一部容認について「法解釈の変更だけでは無理で、法改正で国会に問うことが必要」という意識だけは、まだぎりぎり存在していたのかもしれない。だから「後付け」であっても、安保関連法を国会で成立させたのかもしれない(国会対応自体はひどいものだったが)。

 今回の任命拒否問題への対応を見る限り、菅政権にはそんなたしなみさえ感じられない。法解釈を都合の良いように変更し、それを国民に公表することも、国会にはかることもない。そして、それが明るみに出て世論の批判を受けても「分かってもらえると思っていました」などと、平然と答弁してしまうのだ。


 これはその通りですが、今自民党は「日本学術会議のあり方を検討するプロジェクトチーム」なるものを設置し、あのヤマイダレのついたチセイの元主である下村博文を中心にその「あり方」を議論しているそうなので、「こういうけしからんところがあるから、総理の任命拒否は当然だったのだ」というところに強引に話をもって行こうとしているのです。「後付け」もいいとこでも、それを正当化する「努力」だけはしている。

 これは前回記事の最後に引用したプチ鹿島氏流に言えば、コロナ禍の暗い世相の中、「お茶の間に笑いを届ようとする菅政権の新たな企て」で、それによって明らかになった(あくまで今の自民党の立場からすれば、ですが)学術会議の「問題点」と、どうしてあの6人の学者だけが外されたのかという理由をいかにして結びつけるのか、その“手腕”が問われるところです。下村はじめ、あまり頭のよさそうなメンツはあそこにはいませんが、背後に誰か知恵のあるブレーンがいて、あっと驚くような斬新な解釈が提示されるかもしれないので、乞うご期待です。それさえ発見できれば、上のような指摘に対しても、スガ総理は「批判はあたらない」と胸を張って言ってのけられるわけです。

 昨日、あれを書いてから、僕は次のようなニュースを見て、ある種の戦慄を覚えました。菅義偉は実は習近平を師と仰いでいて、それに憧れ、彼のようになりたいと熱望しているのではないのか?

香港、民主派4議員排除 15人辞職へ 中国統制強化で

 これ、日本学術会議はスガ総理にとっての「香港民主派」みたいなものです。記事の中に「全人代が決めた香港の議員資格剥奪の要件」の図表が出ていますが、

・香港独立の宣伝や支持をする→学術会議の政府からの独立性を主張する
・中央政府の香港への主権行使を拒む→学術会議への政府の介入を拒む
・外国勢力に香港への干渉を求める→国際社会に日本政府の強権性をアピールする
・国家の安全に危害を加える→無反省な軍事協力を拒むことによって安全保障を害する
・香港基本法を擁護しない→安全保障関連法や特定秘密保護法に反対する

 と読み替えれば、「なるほど、ほとんど同じだな…」とわかるのです。二階幹事長の中国べったりは有名ですが、実はスガ総理も大の中国政府ファンで、習近平を神のごとく尊敬して、何でも真似ようとしているのです。

 習近平(シー・ジンピン)指導部の意向次第で香港の民主派議員を排除しやすくなる。6月末に施行した香港国家安全維持法に続く中国当局による香港の統制強化策といえる。高度の自治を保障した「一国二制度」の後退がより鮮明になった。

 と記事にはありますが、中国に遅れをとってはならじと、われらがスガ総理も「統制強化策」の一環として、あの学術会議任命拒否事件を起こしたのです。習近平との秘密電話会談は実は官房長官時代から頻繁に行われており、「私みたいになりたいんだったら、あんな学術会議なんてものをのさばらせてはおかないだろう。学者連中というのは役立たずのくせにとやかく政権にケチをつけてくるもので、見せしめに一度ガツンとやっておけば後はおとなしくなるのだ」と言われて、「マスター、適切なご指導に感謝します!」ということであれを行なった。そう見れば、すべて腑に落ちるのです。

 この「習近平との共謀」を暴いたのは、日本ではたぶん僕が初めてだと思うので、読者諸賢は周囲に広めて、「日本政府は中国共産党に乗っ取られた」ということを世間の皆に知らせてください。アメリカの属国だったのではない、実は習近平中国のそれだったのです!



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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